「兵食弾薬尽き、かつ寒波加わり、人民一層塗炭の苦しみを憂い、降参した。戦いは時の運である。今日の場合進退を官軍に任せ、多くの人民を救いしは大勇の至すところである。識者は必ず感嘆するであろう。嗚呼人傑おおきかな」
西軍大垣藩が敵会津藩を称えた言葉
旧暦9月22日(新暦に直すと10月8日?)は、戊辰戦争での最大の山場、会津藩が降伏開城した日であります。
幕末、戊辰戦争を通じ会津藩では3千の命が失われ、まさに藩の存亡をかけた戦いを強いられる結果となりました。
幕末という時の流れが大きく揺らいだ時代、当時の日本という枠組みの中央に関わっていた会津藩はまさに幕末維新という時代のウネリの真っ只中にいたため、否応なしにその渦に巻き込まれ、最後は朝敵の矢面にたって悲惨な道を辿ることになります。
「ならぬことは、ならぬ・・」会津藩の頑な性格を現した言葉であるが、薩長といった新政府側の維新、これが、ならぬものはならぬ・・と言わしめたのだろうか・・・詳しくは拙サイト「奥州虎猫舘・一山百文」にて戊辰戦争に触れられればと思います。
画像は、約一ヶ月にも及ぶ篭城戦、会津鶴ヶ城は西軍による一日千発以上の砲弾を浴び、優雅な美しい城はボロボロ状態、それでも頑として城を守りつづけた名城でもあります。
西軍大垣藩が敵会津藩を称えた言葉
旧暦9月22日(新暦に直すと10月8日?)は、戊辰戦争での最大の山場、会津藩が降伏開城した日であります。
幕末、戊辰戦争を通じ会津藩では3千の命が失われ、まさに藩の存亡をかけた戦いを強いられる結果となりました。
幕末という時の流れが大きく揺らいだ時代、当時の日本という枠組みの中央に関わっていた会津藩はまさに幕末維新という時代のウネリの真っ只中にいたため、否応なしにその渦に巻き込まれ、最後は朝敵の矢面にたって悲惨な道を辿ることになります。
「ならぬことは、ならぬ・・」会津藩の頑な性格を現した言葉であるが、薩長といった新政府側の維新、これが、ならぬものはならぬ・・と言わしめたのだろうか・・・詳しくは拙サイト「奥州虎猫舘・一山百文」にて戊辰戦争に触れられればと思います。
画像は、約一ヶ月にも及ぶ篭城戦、会津鶴ヶ城は西軍による一日千発以上の砲弾を浴び、優雅な美しい城はボロボロ状態、それでも頑として城を守りつづけた名城でもあります。