昨年は2度、遠野八幡宮での流鏑馬を楽しむことができましたが、やはり流鏑馬神事といわれる神聖な場面ともなれば、遠野郷八幡宮例大祭、9月15日に開催される流鏑馬こそが本物の証、ただ単にスピード感や迫力を楽しむのみではなく、そこには櫛引八幡宮(八戸市)での時代から伝えられ、数百年培われた伝統、伝承行事であることがあげられます。
まずは神職共々馬場入りとなり、馬場清めの儀、続いて総奉行が的の点検を行い、点検を終えた総奉行が席につくと「遠野南部神事流鏑馬始めませ」と開始を宣言する。
そして各持場から扇による合図が送られ、太鼓の合図でいよいよスタート・・・。
一の射手・・・・同級生である菊池N氏(松崎町宮代)
私は三の的付近におりましたが、一、二の的を射抜く度に大きなどよめきと拍手が沸き起こる・・・しかし、三の的は惜しくも外れる。
惜しい・・・・。
二の射手・・・菊池Y君(松崎町駒木)
流鏑馬界の貴公子?・・・すっかり御馴染みの菊池Y君、射手の中では最速を誇り、まさに疾走の中から繰り出す高い命中率、ミスター流鏑馬といっても過言はないものと私は思ってます・・・笑
一、二の的・・・当たりのアナウンス・・三の的もお見事・・・・。
さらに二巡目・・・・。
三射全て的中、しかも最後はど真中・・・・お見事。
菊池Y君に大きな歓声と拍手が贈られておりました。
つづいて三の射手・・・岩間君(松崎町駒木)
岩間君もメディアなんかに時折登場の有名人物・・・流鏑馬の腕前も一流です。
「パコン~」と軽快な音、矢は的板のど真中を射抜いて、的は真っ二つ・・・お見事・・・。
さらに・・・
ど真中・・・ストライク・・・・お見事。
今年は27射(3名の射手が3射ずつ計3度行う)中、24射命中のすばらしい出来だったとか、昭和28年遠野南部流鏑馬保存会が結成され、故事に則った流鏑馬が復活してから最高の出来だったとのこと・・・・。
そして忘れてはならないのが、介添奉行。
一人の射手に一人の介添奉行が付き・・・射手が一回の流鏑馬を終えると「よう射たりや」と連呼して馬場を疾走、諸手を挙げて疾走する姿もまたお見事である。
ちなみに・・・・・
介添奉行の出場は南部流鏑馬独自のもので、その由来は、本来介添奉行は射手の世話役で演技場に出るものではないが、橘左近なる18歳の若武者が射手の役を拝命した折り、この大役を心配した祖父は自らこの介添役をかって出て、何くれと無く世話をして発進させたところが、左近は3つの的をことごとく射当てたので、あまりの嬉しさに「よく射った、よく射った」と連呼してその後を追ったのを吉例として、この行事になったと伝わっている。
建武2年8月15日、遠野南部4代南部師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納施行したものをもって創始としている。その由来は、元弘の乱で盛岡南部茂時が北条高時の滅亡に連座して鎌倉で討死にしたので、盛岡南部は一時失権した。それで、新田義貞とともに鎌倉攻めに功あった南部師行は八戸に下向し、盛岡南部に代わって南部領を統治した。当時南部氏の氏神の櫛引八幡宮は、盛岡南部の没落で祭典を中絶していたが、南部師行はこれを復活し、かつ、その祭典に鶴岡八幡宮の流鏑馬に模して流鏑馬を奉納施行した。その後盛岡南部も復活して、南部領を統治することとなり、従って櫛引八幡宮の祭典も主催することとなった。しかし、正平21年三戸南部守行は、7代八戸南部信光に、「櫛引八幡の流鏑馬は貴家師行の創始であるから、今後も引き続いて従前通り貴家で行うように・・・」と譲ったので、従前通り施行してきた。
時代は移って寛永4年、八戸南部は遠野に移封を命じられたが、盛岡南部利直は「櫛引八幡の流鏑馬は、従前通り貴家において行うように・・・」と重ねて譲ったので、その後もわざわざ八戸に出張して施行した。寛永4年南部直義は遠野に移転したが、当時の遠野八幡宮は創建者の前領主、阿曽沼氏の衰退で荒廃していたのを寛文元年、現在地に遷宮し、馬場を造り、祭典に櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納した。爾来8月15日は櫛引八幡、9月15日は遠野八幡と、明治の廃藩まで連綿と施行してきたのである。
昭和28年これを惜しむ有志によって流鏑馬保存会が結成され、古式通りに復活施行して、現在に至る。
と以上のように流鏑馬神事開始前にアナウンスで境内に放送されますが、今年は駒木鹿子踊と共に八幡宮入り、直後に昼食を食べて速攻で流鏑馬見物、放送は耳に入らなかった。
江戸時代、故地八戸の櫛引八幡での流鏑馬には遠野からわざわざ射手が出張して執り行っていたといわれ、現在でも遠野から保存会の面々が八戸を訪れて櫛引八幡宮での流鏑馬神事を奉納しております。(旧暦8月15日)
盛岡(三戸)南部家に関する歴史やら八戸(遠野)南部家の歴史については、必ずしも所伝で語られる内容が史実とはいえませんが、数百年、脈々と受け継がれ、かなり古い歴史も語られる遠野南部流鏑馬神事、これも遠野の宝のひとつといえます。
遠野祭りは、来年も暦により合同開催となりますが、こういった行事ひとつの歴史や由縁などもたまには頭の片隅に入れ、古来から先人達が培った伝統、伝承があってのこと、このことで我々は祭りを楽しむことができることに感謝しなければならないのではないでしょうか・・・・・。
以上で当ブログの2007、遠野八幡宮例大祭、遠野まつり関連のエントリーは終了となります。
まずは神職共々馬場入りとなり、馬場清めの儀、続いて総奉行が的の点検を行い、点検を終えた総奉行が席につくと「遠野南部神事流鏑馬始めませ」と開始を宣言する。
そして各持場から扇による合図が送られ、太鼓の合図でいよいよスタート・・・。
一の射手・・・・同級生である菊池N氏(松崎町宮代)
私は三の的付近におりましたが、一、二の的を射抜く度に大きなどよめきと拍手が沸き起こる・・・しかし、三の的は惜しくも外れる。
惜しい・・・・。
二の射手・・・菊池Y君(松崎町駒木)
流鏑馬界の貴公子?・・・すっかり御馴染みの菊池Y君、射手の中では最速を誇り、まさに疾走の中から繰り出す高い命中率、ミスター流鏑馬といっても過言はないものと私は思ってます・・・笑
一、二の的・・・当たりのアナウンス・・三の的もお見事・・・・。
さらに二巡目・・・・。
三射全て的中、しかも最後はど真中・・・・お見事。
菊池Y君に大きな歓声と拍手が贈られておりました。
つづいて三の射手・・・岩間君(松崎町駒木)
岩間君もメディアなんかに時折登場の有名人物・・・流鏑馬の腕前も一流です。
「パコン~」と軽快な音、矢は的板のど真中を射抜いて、的は真っ二つ・・・お見事・・・。
さらに・・・
ど真中・・・ストライク・・・・お見事。
今年は27射(3名の射手が3射ずつ計3度行う)中、24射命中のすばらしい出来だったとか、昭和28年遠野南部流鏑馬保存会が結成され、故事に則った流鏑馬が復活してから最高の出来だったとのこと・・・・。
そして忘れてはならないのが、介添奉行。
一人の射手に一人の介添奉行が付き・・・射手が一回の流鏑馬を終えると「よう射たりや」と連呼して馬場を疾走、諸手を挙げて疾走する姿もまたお見事である。
ちなみに・・・・・
介添奉行の出場は南部流鏑馬独自のもので、その由来は、本来介添奉行は射手の世話役で演技場に出るものではないが、橘左近なる18歳の若武者が射手の役を拝命した折り、この大役を心配した祖父は自らこの介添役をかって出て、何くれと無く世話をして発進させたところが、左近は3つの的をことごとく射当てたので、あまりの嬉しさに「よく射った、よく射った」と連呼してその後を追ったのを吉例として、この行事になったと伝わっている。
建武2年8月15日、遠野南部4代南部師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納施行したものをもって創始としている。その由来は、元弘の乱で盛岡南部茂時が北条高時の滅亡に連座して鎌倉で討死にしたので、盛岡南部は一時失権した。それで、新田義貞とともに鎌倉攻めに功あった南部師行は八戸に下向し、盛岡南部に代わって南部領を統治した。当時南部氏の氏神の櫛引八幡宮は、盛岡南部の没落で祭典を中絶していたが、南部師行はこれを復活し、かつ、その祭典に鶴岡八幡宮の流鏑馬に模して流鏑馬を奉納施行した。その後盛岡南部も復活して、南部領を統治することとなり、従って櫛引八幡宮の祭典も主催することとなった。しかし、正平21年三戸南部守行は、7代八戸南部信光に、「櫛引八幡の流鏑馬は貴家師行の創始であるから、今後も引き続いて従前通り貴家で行うように・・・」と譲ったので、従前通り施行してきた。
時代は移って寛永4年、八戸南部は遠野に移封を命じられたが、盛岡南部利直は「櫛引八幡の流鏑馬は、従前通り貴家において行うように・・・」と重ねて譲ったので、その後もわざわざ八戸に出張して施行した。寛永4年南部直義は遠野に移転したが、当時の遠野八幡宮は創建者の前領主、阿曽沼氏の衰退で荒廃していたのを寛文元年、現在地に遷宮し、馬場を造り、祭典に櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納した。爾来8月15日は櫛引八幡、9月15日は遠野八幡と、明治の廃藩まで連綿と施行してきたのである。
昭和28年これを惜しむ有志によって流鏑馬保存会が結成され、古式通りに復活施行して、現在に至る。
と以上のように流鏑馬神事開始前にアナウンスで境内に放送されますが、今年は駒木鹿子踊と共に八幡宮入り、直後に昼食を食べて速攻で流鏑馬見物、放送は耳に入らなかった。
江戸時代、故地八戸の櫛引八幡での流鏑馬には遠野からわざわざ射手が出張して執り行っていたといわれ、現在でも遠野から保存会の面々が八戸を訪れて櫛引八幡宮での流鏑馬神事を奉納しております。(旧暦8月15日)
盛岡(三戸)南部家に関する歴史やら八戸(遠野)南部家の歴史については、必ずしも所伝で語られる内容が史実とはいえませんが、数百年、脈々と受け継がれ、かなり古い歴史も語られる遠野南部流鏑馬神事、これも遠野の宝のひとつといえます。
遠野祭りは、来年も暦により合同開催となりますが、こういった行事ひとつの歴史や由縁などもたまには頭の片隅に入れ、古来から先人達が培った伝統、伝承があってのこと、このことで我々は祭りを楽しむことができることに感謝しなければならないのではないでしょうか・・・・・。
以上で当ブログの2007、遠野八幡宮例大祭、遠野まつり関連のエントリーは終了となります。