「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

垣間見える真実?

2006-12-18 12:56:19 | 歴史・民俗
 本日は職場の忘年会・・・・例年は市外へ密かに繰り出していたが、昨今の世情を考えると地元でということで・・・・・・。

 当初はその模様を加工した画像にてご紹介と考えましたが、取り止めといたしました。


 さて、本題・・・・少し郷土史関連に興味がない方々には重い内容かと思いますが・・・・・。

 一応、今週で積雪があってもなくても、遠野市内の城館跡の探訪、今季は終了いたします。
 また来春、雪融けと共にはじまり、5月の田植え時期までのシーズンを予定しておりますが、まずは今年の城舘めぐりの反省やら疑問点、感想等はまた後日に改めましてエントリーする予定です。


 イメージ・・・遠野盆地 

 今まで、主に遠野市内の城館跡を探訪して、今回特に感じたのは、伝えられる館主とその一族の行方でもありましたが、主に今季から多用する「南部藩参考諸家系図」と共に「奥南落穂集」を導入、これらの史料の存在で若干その考察の範囲も広がり、深みも増したと自己分析はしております。

 この中で、一例を挙げますと、土淵町・・・・主な各館主を列記しますと、山口氏(山口館)・沢村氏(角城館)・栃内氏(栃内館)・本宿氏(本宿館)・五日市氏(五日市館)等・・・となりますが、慶長6年前後、すなわち横田城主、阿曽沼広長が鱒沢氏や上野氏といった一門、一族の謀反で遠野を失った遠野の政変直後の主な武族をみますと、栃内氏と本宿氏のみが史料に散見されております。

 すなわち沢村氏や山口氏といった武家はこの時に没落していた、或いは名を変えていたか、それとも他の有力館主の家臣となっていた可能性もあります。

 これは何を意味するものなのか、遠野阿曽沼第13代、遠野孫次郎こと阿曽沼広郷は、武力をもって遠野内の半独立勢力を傘下に治めたと伝えられますが、まさにこのことが史実としてあった裏づけか?、また上郷をみると、ほとんど本姓を菊池氏と称する一族が主な館主であり、こちらも江刺の内訌や奥州仕置きで没落した葛西氏旧臣達の遠野流入を伝える何かがありそうであり、天正年間末或いは文禄年間以前に居たであろうかつての小領主達は何処へ行ったのか、どうなったのかこちらも疑問と興味を覚えることでもあります。

 これは遠野での新旧勢力の交代が成った史実を物語るものなのではないのか、宇夫方一族の没落、衰退からはじまった遠野郷における時の流れ、これに今後、注目しながら城館探訪を進めていけたら・・・と考えたりもいたします。

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2 コメント

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まさに (笛吹童子)
2006-12-18 22:58:39
 おばんでがんす。健康第一、仕事は二の次・・・。(何のことやら)
隠れてしまった遠野史上で、この時期のことが重要ですよね。(私どもにとっては)遠野の歴史をかじり始めると、この辺のことがどうもすっきりしない。100年以上も前から、先人が同様のテーマにトライしてきた経緯がありますが、見解を公表せずにいたものも沢山あろうかと思います。この時代、ネットを通して発信し続けることで、ボリュームが増すのではと考えています。(私は、気まぐれ童子故、あっちこっちの摘み食いになってしまい分裂症ぎみです)
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まさしく (とらねこ)
2006-12-19 17:07:52
笛吹さん
まさしく・・・ですな。
史料による裏づけは地元の伝承で、地元の伝承等は史料で裏をとる・・・・これもできない難しい時代の阿曽沼時代、妄想はいつも入りますが、なんとか私も発信して参りたい、そう思います。
奥が深くて裾野も広がりぱなし、当方も同じ思いです・・・。
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