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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

石倉館(上宮守)と宮守主水

2006-12-14 15:53:42 | 歴史・民俗
 同級生であり、また遠野の歴史、民俗分野でご活躍の笛吹童子さん(ブログなんだり・かんだり)がエントリーいたしました、上宮守の戸草地区の八幡様関連にて、八幡神社縁で上宮守のご出身である「遠野旅情・甲斐の国」さんからの情報で、この八幡様の隣接山野は館と呼ばれた、城舘跡が眠っているというご指摘で、前回、探訪を試みましたが空振り、今回、リベンジを果たすべく意気込みで探訪して参りました。

石倉館跡のある山野・・・遠野市宮守町上宮守・戸草地区

 館跡は杉林及び雑木林の山野全体にわたっております。

 午前9時前、自宅を出発、八幡神社前に車を停めて、西側の牧草地側から突入、高さ5メートル前後の斜面を登りきると、きちんと道らしいものがついてある。

 しかも雑木林と杉林との間は浅い谷状となっており、程なくして左右の峰には段状の形状が確認できました。

 さらにその中央にはフェンス、階段があってガス施設跡といいますか、建物も確認、看板らしい板にはガスなんとかと書かれており、ガスの関連施設があったようです。

 ということですが、率直な感想・・・今年の城館跡探訪で青笹町の花館の次くらい驚愕した館跡でもありました。

段状の形状(帯郭)・・・ガス施設跡付近


北西側の帯郭


 石倉館の概要

 まずは登り始めてから早期のうちに北西側の雑木林、南東側の杉林には段状の形状が確認でき、双方の上方には比較的大きな平場が展開されている。
 この時点でガス施設跡地が主郭とみて終わりなのですが、どうもさらに上部の山野にも帯郭らしい形状があり、さらに上部、奥へと進むと、南北60m、東西10~20mのかなり広い平場があり、2段~3段の帯郭が周りを囲んでいる。

 背部の空堀跡

 遠野でも大きい部類に入ると思われ、幅8mに及ぶ・・・。

 背部には空掘跡有、2重堀と思われますが、鱒沢館跡の空掘を彷彿させる大きさを誇り、2重目はおそらく空掘だと思われますが、上部で道跡のような形状となっており、空掘跡を林道として使用したものか、いずれ2重堀であろう・・。


 自然の形状をさらに人的に加工した形跡もみられますが、遠野の城舘跡では比較的大きい方でもあり、防御性も優れていると判断できます。

 空掘はともかく、階段状に展開された帯郭は北側以外全ての方角に展開され、みるべきものがよく残されている館跡でもありました。

 館跡南東側にある八幡神社

 なお、石倉館としておりますが地元では館(たて)と呼んでいるそうです。
 岩手県内の城舘跡をほぼ網羅する日本城郭体系2には主な城舘として掲載はされていないが、一覧の中で石倉館として掲載されております。

 おそらく書籍の著者が遠野、宮守を調査した際に、地元へ照会してその他の城舘跡の一覧として資料をいただいたものと思われますが、近くの地名からくる石倉をそのまま館名としたものと思われます・・・(屋号に石倉有り)


 はっきりいいますとこの地域での主要な館である宮守館(別名・小沢館、熊の洞館)と同規模か、或いは若干大きい印象がいたしました。
 館主は伝えられていないが、宮守氏に何かしら関連ありそうな感じは否めません。
 宮守氏の一族が居たものか、それとも神成館から小沢の宮守館に主館を移す以前にこの石倉館を築き、後の時代に宮守館へ移ったのか・・・・こちらは本編サイトにて考察を加えたいと思います。


 最後にひとつ・・・

 慶長5年の遠野の政変にて、宮守館の宮守主水は遠野方の上野広吉に攻められ、宮守館は落城、宮守一族は各地に四散したと宮守館麓の説明板には記されているが、宮守主水は南部利直より宮守の旧領に5百石を拝領され、宮守代官の要職にあった、後に改易となったが、子孫は再び南部家に登用され南部藩士となっている。

 慶長の遠野政変で鱒沢氏や上野氏へ加担したからこそ、宮守氏は南部家より所領を安堵されたものと考えるべきであろう・・・。

 この中で、ひょっとすると宮守氏は二つの系統があって石倉館の宮守氏、宮守館の宮守氏・・・宮守館の宮守氏は謀反に加担せず遠野方に攻められ没落、一方石倉館の宮守氏は謀反側となり、その恩賞として新たに宮守の領主となったものか・・・こちらも後日、本編サイトにて・・・・。

(上宮守の善勝寺の草創に宮守主水が関わっている)


 おまけ・・・・

 宮守町(旧宮守村)は遠野と歴史的つながりが深く、共有している事柄が多いと人はいう・・・まさしくその通りかもしれませんが、阿曽沼時代はともかく江戸時代に関しては、遠野南部領は上宮守と一部下宮守、上下鱒沢で達曽部、下宮守は盛岡南部の直轄地であったのです。

 宮守地域が一貫して遠野の領域だったとは本来はいえない史実もあったのです。


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
石倉館 (笛吹童子)
2006-12-14 17:10:51
 やりましたね、私自身には未知の館関連史跡。この場所についての展開上、気に病んでいました。こういった場所で紹介されていないところは、まだまだあるのですか?
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すばらしい館跡 (とらねこ)
2006-12-14 18:45:33
笛吹童子さん
おかげさまで無事に探訪できました。
今も少しだけ興奮しております・・・笑

遠野郷の城舘跡・・・
只の一覧は昭和62年刊行の遠野郷消防総鑑「絆」に掲載されておりますが、旧宮守村に関しては、宮守館、達曽部館、鱒沢館、さらに高館(下鱒沢)、神成館(上宮守)のみの掲載或いは標柱、案内板があるのみです。
旧遠野市に関したは昭和59年に調査した結果である「遠野市における城館屋敷跡調査」が一応カバーしてますが、詳細及び写真もなし、一行で説明は終っております。
他に先に示した日本城郭体系2(青森・岩手・秋田)の城跡では主な城舘跡を紹介、一部縄張図や簡略図付き、他に南部諸城の研究にも若干有名処が掲載されております。

遠野・宮守には160余の城館跡があるとされますが、調査が入ったとはいえ、特に宮守は10数箇所まだあるとかで、こちらは静かに眠っている状態です。
遠野も昭和59年の調査以来各町で主な処は見たようでもありますが、こちらもまだまだ知られざる史跡です。
今はその地域に生まれ育ち現在も暮らす古老とか山の地権者位しかわからないものと思ってます。

私は眠っているものを起こそうとは考えてません。寝ているところを静かに見る・・・でも起こしてしまいたいようなそんな思いもございます。
いずれすばらしい史跡、来春辺り遠野ぶれんどで何処か2箇所位ツアーを組んでご案内しても構いませんよ。
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収穫の一年? (romi)
2006-12-14 19:27:41
ををー。
感動の息づかいが聞こえそうです。
今年の「舘探訪」は成果がありましたね。
後は文献と推理の領域に突入ですね(^_-)
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感動 (とらねこ)
2006-12-14 20:18:46
romiさん
なかなかの館跡でしたよ・・・花館同様人知れずの館跡・・・儲けはないけど確変突入の場面と同じ喜びがございました・・・汗

いずれ今年は充実の年でもありました。
おかげさまでした。
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石倉館関連 (遠野旅情と甲斐の国)
2006-12-14 21:36:23
 とらねこさんの快い行動力と、早い調査進展におどろきそしてありがたく思っております。
 どうやらの正面から登ったようすですが先日の画像Cの裏側、西側にも堀合兼林道がありのぼることができます。背部の空堀跡に出るとおもいます。頂上とその平場そして各それぞれの平場は確認したとおり何カ所かあったと記憶しています。昭和30年代までの樹木、植生が大きくないときは遠く下宮守の集落まで一望できました。

 墓地跡と云われたところはBの一番奥の堀合からA側東斜面のあたりでした。もうは一カ所は八幡社よりA側50メートルほどの畑の中でした。いずれも今はありません。

 ガスの施設跡については聞いたことはありませんが昭和40年頃だと思いますがBとAの沢の上流、たぶん「樋の口」またはその付近を水源にし水道用として村で施設をつくり水を引いたことがあります。その施設がBの南斜面の平場にあったと思います。ガスとは塩素で水の殺菌をしたからだと思います。現在は確認されたとおり廃棄したと聞いております。

 Aの東側の山の南側先端に小さい神社とCの南西側中腹にも神社があったと思います。

 寛永4年に八戸から遠野に移動の際、上宮守で昼食を取ったとありますがその時休むような民家もなかったとの記録があります。このころ八幡社の付近に何らかの屋敷があっただろうか。
 
 八幡神社前に車を停めたとありますが
そこは旧遠野街道だと思われます。
街道と神社の上り口のT字路に庚申塔があったと思います。何時の年代のものか確認したことはありません。遠野街道はこの庚申塔から戸草大橋までまっすぐさらに小峠下まで一直線でした。

 記憶のあるまま勝手に記載しました。
さらなる調査を期待しています。

 

返信する
いやいや昇格です! (romi)
2006-12-15 09:21:23
ぐっ!
「確変突入」とは上手い事。
いやいや、「確変、昇格!」の喜びで~スススススッ!
ネ!(^_-)
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石倉館 (とらねこ)
2006-12-16 09:43:32
遠野旅情さん、返信が少し遅くなりましたが・・・・

今回の探訪、ご教授を賜りありがとうございました。
おかげさまで、その全容までは見たものではございませんが、ほぼ探訪できましたこと、そして遠野郷でも今の所、私が見た城舘跡の中でも印象に残る良好な館跡のひとつでもありました。

水道の水源関連は了解です、あんな場所にガス施設があるはずもないですしね、いわれてみれば水道か何かの施設だと思います。

さらに堀合の件、今回はまさに正面突破的な探訪でもありましたが、左右の帯郭やら東斜面に展開する縦堀、主郭背面の堀切等、なかなか見事な遺溝の数々を順序よく見れました。
正味2時間の探訪、残念ながら西、北の下部は見なかったのですが、仰せの堀合含めて次回、春先の探訪で再訪したいと考えております。
この際は八戸在住の探訪仲間も案内したいと考えております。

八幡社手前にぽつんと一基のみ建つ庚申塔は確認しております。
旧遠野街道、こちらも興味がございますが、こちらもまたの機会となりそうです。

仰せのように八戸から遠野入部途中の八戸直義一行が上宮守の野辺で昼食を摂ったところ、雰囲気はありますよね、殿様が休むような家がなかった記述、これは史実だろうと思いますが、何故にこの場所近くにすばらしい大きな館跡が存在するのに、こちらで休まなかったのか・・・というより誰が役人とか居なかったのか、とか・・・まあ既に廃城していたものとは思いますがね。

いずれ、今回の探訪はたいへん有意義で、印象に残る内容であったこと、これは確かなことでもありました。

また何かございましたらご教授いただければと思います。

なお、本編サイトへのアップはなんとか今年中にしたいと考えております。
返信する
パ○ン○ (とらねこ)
2006-12-16 09:48:22
romiさん
確率変動、昇格・・・最近のは期待をもたせるだけもたせて、最後はスカッが多くて・・・・でも当たれば嬉しいですがね。
年1~3度しか行っておりませんが、皆納めております・・・涙・・・回収の目途は全く兆しもなしです。
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