私は「一皿料理」を専門に作っている。あれこれ並行して同時に作り一挙に食卓に出すという器用なことが出来ないのだ。不器用を多少の努力とごまかしでで補いながら、例えば、陳建民先生の秘伝レシピで四川風焼きそばを作るといったようなことばかりを楽しんでいるわけである。
最近つくったのも「一皿料理」ばかりである。しかもレパートリーが少な過ぎるという大きな弱点を私は持つため、同じものばかり作り続けている。因みに「一皿料理」とは「取り敢えずそれだけ食べれば食事としてなんとか成立する」くらいの意味である。私が私の料理を総称するために使う表現で、一般的な用語ではない。

例えば、この「なぁ~んちゃってガッパオ+ご飯」。画像は先週の作品である。頭に「なぁ~んちゃって」と付けるのは、私がこれを本格的な具材とレシピではなく、安価な材料と簡略化したレシピで作っていることが原因である。控えめな私の性格が邪魔をして、私はこれをストレートに「ガッパオ!」とは呼べないのだ。
しかしこの「なぁ~んちゃってガッパオ」は、自分で言うのも何だが、とてもおいしい。エスニックな料理が好きで、辛いものが好きで、尚かつ食費を節約したい人には打ってつけである。調味料以外では、挽肉とピーマンとバジルがあれば出来るのだから。
この画像をM氏に送ってみた。M氏はすでにここで紹介したことがある人物だ。横浜に住み、ご自身の趣味は芝生の世話とゴルフで、奥様の趣味はバラの生育という英国貴族のような方なのだが、そのM氏がガッパオに関心を持たれたらしい。英語で「ボクにも作れるかなぁ?」とお尋ねになるので、私は「可能でげす。きっとうまく作ることが出来ることでございやしょう、sir」とお答えし、レシピをお教えした。M氏と話す時の私はあくまで下僕として、いつも話の最後に「sir」と付けなければならないから大変だ。

次の画像は一昨日のランチ、青椒肉絲だ。これもまたしょっちゅう作っている料理である。ピーマン、タケノコそして牛肉。牛肉は脂がない「赤身」的な安い肉で十分、というかそうでないと調理しにくい。タケノコも千切りのパッケージのものがあれば、それを買うと良い。安いし細くキレイに切ってあって調理が楽だ。簡単で安価でバランスがとれた料理だと思う。
画像のタケノコは水煮の普通のタケノコを自分で細く切ったものだ。自分でタケノコの千切りを試みたことのある人ならわかるだろうが、キレイに細く千切りに加工出来る部分は、タケノコの表面に近いわずかな部分だけである。中心に近い多くの部分は、千切りにまったく適さない。この表面に近い部分を細く千切りにしてしまえば、中心部に近い大半がただのバラバラなタケノコのみじん切り状態になってしまう。
だから画像のようにやたら太いタケノコの千切りを見ても、「ヘタクソ」と笑ってはいけない。それは素人料理人のご愛嬌と言えなくもないのだが、逆に「あぁ~、この人は材料全部を大切に使おうとしているなぁ」と感動せねばならないところだ。食べた人がそう気付くことで、料理人も「あぁ~、この人はわかってくれているなぁ」と感動し、作る人と食べる人の相互理解が深まる。単なる食事が信頼関係の強化に役立つのである。料理を自分で作ってみてわかる料理人の有難み。自分の子供を叱ってわかる自分の親の気持ちの有難み。酒を飲んでわかる酒飲みのそれなりにつらい気持ち。オッと、最後のは違った。

七里ガ浜で先週終わりに新しいパン店が誕生した!我が住宅街の住民にとっては感動的イベントだ。なにせ近所にパン専門店が少ない地域だからである。私もその新しいお店で買ってみた(上の画像)。さらにもう1店舗、至近距離にパン専門店が出来るとのウワサがある。七里ガ浜は一挙にパン店激戦時代に突入するのである。
かように、七里ガ浜のお食事事情も変化を遂げている。私も変わらねばならない。いつまでも「なぁ~んちゃってガッパオ」や「青椒肉絲」ばかり作っていられないのである。そろそろマンネリから脱却しないと、「おいしいぃわぁ~☆」なんて妻もいつまでも喜んでくれないだろう。しかも私には制約条件がある。それは「一皿料理」しか作れないということだ。

悩む時は基本に戻ろう。「一皿料理」の代表格、炒飯があるではないか。私は月刊誌dancyu2009年6月号を開いた。こんなに楽しい雑誌も珍しい。なにせ副題は「チャーハン名人になる!」である。中の記事にはシンプルな炒飯から多種の具材満載のゴージャスな炒飯まで、多くのレシピが満載だ。
「また炒飯かぃ?」と侮ることなかれ。恐ろしく基本的で恐ろしく難しい命題が私の前に立ちはだかる。
炒飯の基本とは何か?
あれこれ中華料理の名店の鉄人による炒飯を見て思うが、炒飯のベーシックスは以下の3つである:
●卵のみの炒飯
●卵と葱(長ねぎ)の炒飯
●卵と葱と叉焼の炒飯
調味料はいずれも塩が基本だ。
①卵、②葱、③叉焼とすると・・・
●①
または
●①+②
または
●①+②+③
という誠にシンプルな加算数列的構造が、炒飯の基本パターンを構成している。

玉ねぎをを入れるとか、エビやカニを入れるとか、ピーマンを入れるとか、ましてや彩りは最高だがミックスト・ベジタボーを入れるとか、レタスやら牛肉やら納豆やらキムチやらしらすやらあれこれ・・・は、発展的パターンの炒飯としては皆素晴らしく美味しくかつ立派だが、基本中の基本は上のシンプルな3パターンなのである。私は①+②+③のパターンで行きたいと考えた。またニンニクや豆板醤やカレー粉などの味付けも可能だしそれぞれに奥が深いが、調味料の基本は塩だろう。
しかし基本具材のうち、問題は③叉焼にある。スーパーで「叉焼」という名で売られているものは、妙に甘いだけであまりおいしくないことは、皆さんご存じだろう。神戸南京町「益生號」の香ばしい叉焼が手近にあれば・・・と、不可能なこと(通販という手はあるが)を望んでもしかたがない。
また美味しい叉焼は、たいていかなり高価である。しかし今私は、マンネリな日常の食事からの脱却を目指して炒飯を考えているのだから、やはり炒飯は自宅近辺で簡単に入手出来る安価な材料で、おいしく作られていなければならないと思う。高価なカニなら、そのまま食べてもそれだけで美味しいのは当たり前である。しかし我らのデイリーな炒飯は、安い具材と普通の調味料を組み合わせ、そのなんともお手軽なコラボレーションの妙を家庭で楽しむ物でないといけない。ジャコとおかかと醤油だけで「旨い旨い」とご飯を食べるようなものなのである。

そこで私は以下の3つの具材で炒飯をつくることにした。
●卵
●長葱
●鶏モモ肉(叉焼の代替物)
このブログをお読みの方の中には、鶏肉と聞くとちょっと前に私が作ったカレー炒飯(上の画像)を思いだされる方もいらっしゃるかもしれない。しかし前回のカレー炒飯とこれから作る炒飯はまったく違う。今回のシンプルな炒飯では、ミックスト・ベジタボーや玉葱を使ったりはしないし、カレー粉も使わない。鶏モモ肉は、高価で入手が難しい叉焼の安価な代替物として、小さく切って濃く味付けしてちょっと焦がして今回も使う。鶏モモ肉は非常に安く、焼けば香ばしいいので、それなりに美味しい炒飯づくりに貢献してくれるだろう。
味付けは基本的に塩とし、醤油と胡椒をわずかに使う予定だ。
最近つくったのも「一皿料理」ばかりである。しかもレパートリーが少な過ぎるという大きな弱点を私は持つため、同じものばかり作り続けている。因みに「一皿料理」とは「取り敢えずそれだけ食べれば食事としてなんとか成立する」くらいの意味である。私が私の料理を総称するために使う表現で、一般的な用語ではない。

例えば、この「なぁ~んちゃってガッパオ+ご飯」。画像は先週の作品である。頭に「なぁ~んちゃって」と付けるのは、私がこれを本格的な具材とレシピではなく、安価な材料と簡略化したレシピで作っていることが原因である。控えめな私の性格が邪魔をして、私はこれをストレートに「ガッパオ!」とは呼べないのだ。
しかしこの「なぁ~んちゃってガッパオ」は、自分で言うのも何だが、とてもおいしい。エスニックな料理が好きで、辛いものが好きで、尚かつ食費を節約したい人には打ってつけである。調味料以外では、挽肉とピーマンとバジルがあれば出来るのだから。
この画像をM氏に送ってみた。M氏はすでにここで紹介したことがある人物だ。横浜に住み、ご自身の趣味は芝生の世話とゴルフで、奥様の趣味はバラの生育という英国貴族のような方なのだが、そのM氏がガッパオに関心を持たれたらしい。英語で「ボクにも作れるかなぁ?」とお尋ねになるので、私は「可能でげす。きっとうまく作ることが出来ることでございやしょう、sir」とお答えし、レシピをお教えした。M氏と話す時の私はあくまで下僕として、いつも話の最後に「sir」と付けなければならないから大変だ。

次の画像は一昨日のランチ、青椒肉絲だ。これもまたしょっちゅう作っている料理である。ピーマン、タケノコそして牛肉。牛肉は脂がない「赤身」的な安い肉で十分、というかそうでないと調理しにくい。タケノコも千切りのパッケージのものがあれば、それを買うと良い。安いし細くキレイに切ってあって調理が楽だ。簡単で安価でバランスがとれた料理だと思う。
画像のタケノコは水煮の普通のタケノコを自分で細く切ったものだ。自分でタケノコの千切りを試みたことのある人ならわかるだろうが、キレイに細く千切りに加工出来る部分は、タケノコの表面に近いわずかな部分だけである。中心に近い多くの部分は、千切りにまったく適さない。この表面に近い部分を細く千切りにしてしまえば、中心部に近い大半がただのバラバラなタケノコのみじん切り状態になってしまう。
だから画像のようにやたら太いタケノコの千切りを見ても、「ヘタクソ」と笑ってはいけない。それは素人料理人のご愛嬌と言えなくもないのだが、逆に「あぁ~、この人は材料全部を大切に使おうとしているなぁ」と感動せねばならないところだ。食べた人がそう気付くことで、料理人も「あぁ~、この人はわかってくれているなぁ」と感動し、作る人と食べる人の相互理解が深まる。単なる食事が信頼関係の強化に役立つのである。料理を自分で作ってみてわかる料理人の有難み。自分の子供を叱ってわかる自分の親の気持ちの有難み。酒を飲んでわかる酒飲みのそれなりにつらい気持ち。オッと、最後のは違った。

七里ガ浜で先週終わりに新しいパン店が誕生した!我が住宅街の住民にとっては感動的イベントだ。なにせ近所にパン専門店が少ない地域だからである。私もその新しいお店で買ってみた(上の画像)。さらにもう1店舗、至近距離にパン専門店が出来るとのウワサがある。七里ガ浜は一挙にパン店激戦時代に突入するのである。
かように、七里ガ浜のお食事事情も変化を遂げている。私も変わらねばならない。いつまでも「なぁ~んちゃってガッパオ」や「青椒肉絲」ばかり作っていられないのである。そろそろマンネリから脱却しないと、「おいしいぃわぁ~☆」なんて妻もいつまでも喜んでくれないだろう。しかも私には制約条件がある。それは「一皿料理」しか作れないということだ。

悩む時は基本に戻ろう。「一皿料理」の代表格、炒飯があるではないか。私は月刊誌dancyu2009年6月号を開いた。こんなに楽しい雑誌も珍しい。なにせ副題は「チャーハン名人になる!」である。中の記事にはシンプルな炒飯から多種の具材満載のゴージャスな炒飯まで、多くのレシピが満載だ。
「また炒飯かぃ?」と侮ることなかれ。恐ろしく基本的で恐ろしく難しい命題が私の前に立ちはだかる。
炒飯の基本とは何か?
あれこれ中華料理の名店の鉄人による炒飯を見て思うが、炒飯のベーシックスは以下の3つである:
●卵のみの炒飯
●卵と葱(長ねぎ)の炒飯
●卵と葱と叉焼の炒飯
調味料はいずれも塩が基本だ。
①卵、②葱、③叉焼とすると・・・
●①
または
●①+②
または
●①+②+③
という誠にシンプルな加算数列的構造が、炒飯の基本パターンを構成している。

玉ねぎをを入れるとか、エビやカニを入れるとか、ピーマンを入れるとか、ましてや彩りは最高だがミックスト・ベジタボーを入れるとか、レタスやら牛肉やら納豆やらキムチやらしらすやらあれこれ・・・は、発展的パターンの炒飯としては皆素晴らしく美味しくかつ立派だが、基本中の基本は上のシンプルな3パターンなのである。私は①+②+③のパターンで行きたいと考えた。またニンニクや豆板醤やカレー粉などの味付けも可能だしそれぞれに奥が深いが、調味料の基本は塩だろう。
しかし基本具材のうち、問題は③叉焼にある。スーパーで「叉焼」という名で売られているものは、妙に甘いだけであまりおいしくないことは、皆さんご存じだろう。神戸南京町「益生號」の香ばしい叉焼が手近にあれば・・・と、不可能なこと(通販という手はあるが)を望んでもしかたがない。
また美味しい叉焼は、たいていかなり高価である。しかし今私は、マンネリな日常の食事からの脱却を目指して炒飯を考えているのだから、やはり炒飯は自宅近辺で簡単に入手出来る安価な材料で、おいしく作られていなければならないと思う。高価なカニなら、そのまま食べてもそれだけで美味しいのは当たり前である。しかし我らのデイリーな炒飯は、安い具材と普通の調味料を組み合わせ、そのなんともお手軽なコラボレーションの妙を家庭で楽しむ物でないといけない。ジャコとおかかと醤油だけで「旨い旨い」とご飯を食べるようなものなのである。

そこで私は以下の3つの具材で炒飯をつくることにした。
●卵
●長葱
●鶏モモ肉(叉焼の代替物)
このブログをお読みの方の中には、鶏肉と聞くとちょっと前に私が作ったカレー炒飯(上の画像)を思いだされる方もいらっしゃるかもしれない。しかし前回のカレー炒飯とこれから作る炒飯はまったく違う。今回のシンプルな炒飯では、ミックスト・ベジタボーや玉葱を使ったりはしないし、カレー粉も使わない。鶏モモ肉は、高価で入手が難しい叉焼の安価な代替物として、小さく切って濃く味付けしてちょっと焦がして今回も使う。鶏モモ肉は非常に安く、焼けば香ばしいいので、それなりに美味しい炒飯づくりに貢献してくれるだろう。
味付けは基本的に塩とし、醤油と胡椒をわずかに使う予定だ。