「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

JL横浜デート(1)じじい達は出会った頃の自分達のルーツを確認しに旧横浜正金銀行本店へ向かった

2019-09-15 00:58:37 | あちこち見て歩く
ドガティ君はモデル犬。

お風呂に入っている際中でも、スマホを向けられると最高の笑顔。

ニコッ!



でも「おすまし!」と言われたら、おすまし顔に切り替え。



商品を横に置き、「ちゅっ!」と言われたらそこにちゅっ!



どこかの企業のCMでドガティ君が使われないかしら? ギャラは相当高額ですけど(笑)。

本日はJL横浜デート。

JLって何?

JKは女子高生。BLはボーイズ・ラブ(美青年間の愛、あるいはその漫画)。

JLはジジイズ・ラブ。

還暦を過ぎた男性がデートすることがJLなのだ。

今回はそんなお話。場所は横浜。

江ノ電稲村ケ崎駅へ向かいましょう。



江ノ電鎌倉行きは、間もなくやって来る。



鎌倉駅でJRに乗り換え。

JRで1回乗り換えて着いたのが、JR根岸線関内駅。



こちら(↓)は、関内駅前の日高屋さん店頭。



ガパオをぶっかけた汁なし麺だそうな。初めて見た。

いかにも私が作りそうな麺料理だな。

まるで私のブログを自分で見ているような錯覚に陥る。

本日は馬車道に向かっている。



こちらが馬車道入口。



ここが本日のJLつまりジジイズ・ラブのスタート地点。

33年前に職場で知り合った先輩と私、還暦過ぎたオトコ2人が横浜でデート。

ルンルンルン♪

そしてまずその2人は、自分たちが知り合うことになった職場のルーツを訪ねようとしている。

そのルーツがこの馬車道に沿ったところにある。



見えてきた。



これがそうだ。



堂々たる石造建築物。



旧横浜正金銀行本店である。現在は神奈川県立歴史博物館として使用されている建物。



横浜正金銀行とは外国為替専門銀行。

明治時代に入り日本の外国貿易促進を目的として、そのファイナンスを行うために作られた銀行だ。

第二次大戦後その銀行は改組されるが、外国為替専門銀行の東京銀行となって残る。

1990年代半ばに東京銀行は三菱銀行と合併し、東京三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)となる。

その東京銀行に先輩は1981年に、私は1983年に就職したのだ。

お仕事柄、東京銀行は国内より海外にはるかに多くの店舗を持つ変わった銀行だったが、1986年に先輩と私はロンドンで一緒になる。

もう33年前のことだ。



先輩も私もその後銀行を退職し、外資系に転じてしまう。

というわけで、今回は先輩と私が出会った職場のルーツとも言えるこの旧横浜正金銀行本店を、二人で仲良く訪ねようというJL横浜デート・ストーリーなのである。



ここから少し行けば、日本郵船のビルや横浜税関もあるし当然ながら横浜港もある。

つまり外国為替を取り扱う旧横浜正金銀行はあるべき場所にあったことになる。

ちょっと早めに着いたので、私はこの建物の周囲をあちこち撮影して回っていた。



斜めとなりにも立派なのがあるよ。



安田銀行横浜支店だ。

のちの富士銀行、現在のみずほ銀行だね。



現在は東京藝術大学との掲示がある。



いい建物だ。



こちらが馬車道の端っこ。最も海寄りなところである。



しつこいくらい旧横浜正金銀行をお見せしましょう。



彫りの深い建物だね。



私は「奥目の建物」と呼んでいる。

壁の厚みがあって、窓ガラスが外壁の表面からかなり奥まったところに置かれる設計。

縦長の窓は本来のこういうデザインで利用されると美しい。

こちらが博物館の入り口だ。



先輩と合流し、さあ博物館に入ろう!

・・・いや、入ろうとしたのだが、横に置いてある大砲に関心が向く。



これ一つで乗用車1台分くらいの重さがあるらしい。

スイスの商社が商品として取り扱っていたロシアの大砲で、関東大震災で旧居留地に埋もれ、1959年になって発見されたという。



この鎖、すごい太さですよ。



ロシアのシンボル、双頭鷲。



ロシア文字かしら。。。「M」みたいなのと「V]の逆さまみたいなの。



博物館内に入る。

「撮影禁止」の表示があるもの以外、撮影はオッケー。



神奈川県立歴史博物館であるからして、神奈川県の歴史を教えてくれるところだ。

縄文時代あるいはそれ以前から始まって、鎌倉時代、江戸時代、明治以降。

ゆっくり見たので、入ってから出るまでに2時間以上かかってしまった。

こちらは鎌倉時代の展示。当時国内で硬貨は鋳造されず、宋銭(他の時代のものも)がそのまま流通していたとか。



どうやって市場に供給されたのだろう?というのが先輩も私も最初に思ったことだった。

通貨供給量、つまりは今でいう金融政策としてマネー・サプライを管理するなんて概念はなかったのでしょうねえ。

QE(=量的緩和政策)として米国債やモーゲージ債を中央銀行が購入して、通貨を大量に市場に供給するなんて高度なテクは当時はないわけだから、きっと鎌倉幕府あるいはその高官がこの古銭を好きに使って、それが流通したのでしょう。



なんてことを考えながら歴史順に見て行き、やがて明治以降の展示へ移動して行く。

横浜正金銀行の説明にたどり着いた。



ゆっくり拝見しましょう。



横浜風月堂のワッフルが詰められていたというお菓子箱。



横浜正金銀行の紋章入りだ。

東京銀行に私が就職したのは1983年だから、横浜正金銀行が改組されてから38年経っていたのだが、この紋章が入った金属製の灰皿が銀行内に置かれているのを見た記憶がある。

こっそり持ち出せばよかった。どうせ今頃は処分されているだろうな。

天秤がある。



これで金や銀の重さを測ったのでしょう。



1880年に作られたそうだ。

こちらが横浜正金銀行の支店網。



「あ、ロンドン支店も書いてありますよ、先輩」などと会話する。

20-24 Moorgate, London, EC2R 6DHがのちの東京銀行ロンドン支店の住所だったが、明治時代の横浜正金銀行ロンドン支店も同じだったのかしら。



こちらは横浜正金銀行に係りのあった人のうち、一般的にも名をよく知られた方々5名だ。



左から:

福沢諭吉: 当時の大蔵卿(大蔵大臣)大隈重信に外国為替銀行の設立を提言
大隈重信: 横浜正金銀行を設立した当時の大蔵卿
井上準之助: 横浜正金銀行に入り、のち頭取。浜口雄幸内閣の蔵相となり金解禁を実施したのち、暗殺される
高橋是清: 日銀副総裁、のち横浜正金銀行頭取を兼任。のち蔵相となり不況を乗り切るのにリーダーシップを発揮
永井荷風: 横浜正金銀行ニューヨーク支店、のちリヨン支店(フランス)勤務。

歴史上著名な方々に混じり、永井荷風なんてかなり風変りな小説家、随筆家まで出てくる。

永井荷風のニューヨーク、リヨンの海外勤務の経験は、のちに彼のあめりか物語やふらんす物語となって世に出るのだった。

永井荷風が横浜正金銀行に勤務したことについては、入行した当時、私は人事部の先輩から教わった。

それ以外は歴史の本に出て来る。

こちらは行内の週報。



各通貨の交換レート、金銀のレート表。1927年3月末から4月初旬のものだ、



旧横浜正金銀行本店も最初はもっと小さく、明治20年代はご覧の絵のようだったという。



これは先ほど見たものよりはるかに大きな洋式天秤。少し新しいものになる。



金銀を大量に計測していたのでしょうか?

製作者は先ほどのと同じ。



天秤の権威だったんでしょうねえ。

建物の窓の部分だ。

とても雰囲気が良い。



どっしりと落ちついた横浜正金銀行。

先輩と私は、ロンドン時代の思い出話などしながら、結局2時間をここで過ごしてしまったよ。



JLデート・ストーリーは次回に続きます。
コメント (27)
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