碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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続・「あるある」捏造問題と船場吉兆

2008年05月09日 | メディアでのコメント・論評

思い出した。「あるある」捏造問題でも、<検証番組>が放送されたのだった。テレビ局が大きな不祥事を起こした際に、その総括というか、幕引きというか、ミソギというか、「このあたりで、この問題にはエンドマークを」というタイミングで流されるのが検証番組なのだ。これは「TBSオウムビデオテープ事件」のときにも行われた。

関西テレビが「あるある問題」検証番組を流した直後、読売新聞から論評を求められたことも思い出した。記録として再録しておこうっと。



 問題は“現場”で起きている
  
 4月3日、関西テレビ「発掘!あるある大事典Ⅱ」捏造問題の検証番組「私たちは何を間違えたのか」を見た。そして、最も驚いたのが直接捏造を行った制作会社アジトのディレクターへのインタビューだ。彼は何度か登場するが、同じ話を繰り返す。「面白く、分かりやすく、インパクトのある、魅力的な番組にしようと思った」と。そう思うこと自体は間違っていない。だが、ほとんどの作り手は捏造を行わない。勝手な都合で捏造が出来た理由が知りたいのだ。

 しかし、Aの答えは「他のスタッフも自分も頑張った」。だが、自分は「頑張り方を間違えた」。その原因は「分からない。僕の人間性かもしれないし、モラルの低さかもしれないし、環境がそうだったのかもしれないし、難しいですね」だった。画面上は顔が見えず音声も変えてあるため、微妙なニュアンスは伝わらないが、どうやらこれが本心、というよりこの程度の自覚しかないらしい。そう思ったとき、何とも言えない情けない気持ちになった。捏造という行為が、テレビだけでなくメディアそのものにとって、どれだけ大きな罪かという認識がない。かすかに期待していた捏造に対する葛藤や苦しんだ様子も見えない。
 
 「事件は現場で起きてるんだ!」と叫んだのは、織田裕二演じる『踊る大走査線』の主人公・青島刑事である。「あるある」の場合も、まさに問題は(制作)現場で起きていた。では、なぜこの現場に「捏造を行う作り手」が存在したのか。それは、捏造という禁じ手を使うことによって作り手が二つのものを得られたからだ。一つは<評価>、そしてもう一つが<報酬>である。外部委員会の報告書には、このディレクターが関西テレビと日本テレワークの担当者から「ダイエット番組で高視聴率が取れる有能なディレクター」として高い“評価”を得ていたことが記されている。捏造さえ発覚しなければ、今も彼は番組を作り、相応の“報酬”を受けていたはずだ。
 しかも番組によって報酬(利益)を得ていたのはディレクターだけではない。アジト、日本テレワーク、関西テレビ、広告代理店の電通、さらに高視聴率番組でCMを流していた花王も同様である。それは捏造に対する認識の有無とは関係のない事実だ。

 また、この現場には別の問題もあった。調査報告書によれば、関西テレビが持つ「あるある」1本の総制作費は3205万円。そこからVTRを担当する再委託(孫請け)制作会社に渡るのが887万円だ。しかも、前払いではなく放送後の支払いであり、制作会社は銀行から借金をしながら作る。何としてでも完成して放送しなければ回収できず、途中で「やはり納豆にダイエット効果は望めない」などと白旗を揚げるわけにはいかない。小規模の会社にとっては死活問題だからだ。さらに視聴率を取ることが求められる。「あるある」の孫請け会社は9社。「面白くて、わかりやすくて、しかも高視聴率」を実現できなければ、現場から外される可能性さえある。無理・無茶・無謀が生じる土壌だ。

 もちろん、これらも捏造の言い訳にはならない。作り手個人に帰する問題が多すぎる。ただ、「あるある」の制作体制・環境が、作り手にとって強いプレッシャーとなっていたこと。また、この構造が決して珍しいものではないことは認識しておくべきだろう。
 直接の作り手や制作会社、また放送事業者としての放送局が、モラルや責任を厳しく問われるのは当然だ。だが、同時にメスを入れるべきは、「放送という名のビジネス」に重点を置く視聴率優先主義と、それを基盤とした番組制作の構造、さらに格差社会の縮図のような制作現場の実態である。外部委員会の報告書にあって検証番組になかったのはこの視点だ。

「読売新聞」(2007年4月8日)

「あるある」捏造問題と船場吉兆

2008年05月09日 | メディアでのコメント・論評

「船場吉兆」による、客の食べ残し”有効活用”発覚。例のささやき女将も元気に再登場。「偽装にもほどがある、たいがいにしろ」と言いたいが、その非常識ぶり、倫理感の欠如は前回同様で、思わず笑ってしまいそうだ。とはいえ、この店というか会社の体質や構造自体が変わっていないのだから、営業を続ける限り何度でも問題は起きる。

昨日8日の授業「メディア産業論」で、「発掘!あるある大事典Ⅱ」捏造問題を取り上げた。ほんの1年と少し前の出来事なのに、もはや懐かしささえ感じる。「あるある問題」は関西テレビの管理責任うんぬんではなく、業界の構造問題と制作者の問題、この二つが重なって起きたものだ。あれから今日までの間に、テレビ界の何が変わり、何が変わらなかったのか。ほとんど変わっていないとしたら、テレビは「船場吉兆」を笑えない。

昨年の5月、「あるある」捏造問題について書いた文章が「新・調査情報」に載った。


  「伝えること」への“臆病さ”と“畏れ”を

 新米AD(アシスタント・ディレクター)時代のことだ。参加していた旅番組のロケの途中、海辺で見事な夕焼けとなった。スタッフはすぐにカメラをセットし、旅人である出演者は夕景の砂浜を歩き出す。広い画角のそのカットはモニターを通して見ても美しかった。帰京し、編集作業が行われた。夕焼けのシーンは当然のごとく番組のエンディングで使われた。夕景をバックに一人で砂浜をゆく旅人。そこに番組のテーマ曲が流れ、出演者自身による旅の感想がナレーションとして語られると、スタッフである自分も「ああ、いい旅をしたなあ」という気分に浸ることができた。
 しかし、一方で「これでいいの?」という素朴な疑問と、「こういうものなんだな」という微かな居心地の悪さがそこにあった。夕景を撮ったのは、実は旅の最終日ではなく、また旅の終わりの場所でもなかった。A地点からB、Cを経てD地点で終わる旅。夕景はC地点でのものなのだ。
 番組の最後に登場した職人さんから夕景へとカットをつなぎ、ナレーションも職人さんへの思いを引っぱりながらのラストコメントを重ねると、まるで職人さんの家が砂浜のすぐ近くにあり、旅人が外へ出てみたら鮮やかな夕焼けが目の前に広がっていたかのような印象となった。実際には隣町の浜辺であり、違う日の夕景なのに。また、出演者が旅の間は同じ服装をしていたのも、こうした「つながり」を意識してのことだと分かってきた。

 もちろんD地点を含む「あるエリア」「ある海沿いのルート」で見た風景という意味では、この夕景が出てきて何ら問題はない。それに旅が終わったD地点の近くに海はなく、曇り空の下、市街地の風景で番組を終わるのでは“旅の情緒”に欠けると言われれば、その通りだ。
 取材する側のスケジュールや取材相手の都合もあり、必ずしも撮影した順番がそのまま番組で流される順番ではないこと。場合によっては旅のラストシーンをロケの初日に撮ることだってあること。時間や場所も編集作業の中で再構成されること。それらは作り手の意図や狙いを見る人に分かりやすく伝えるためであり、演出というものの範疇であるらしい等々と、やがて新米ADは理解するようになる。

 自分がADからディレクターになってみて、「演出する」という行為が「決定する」ことの連続であることを知った。前述の旅番組を例にしよう。その回を、どこへ行ってどんな旅にするかについては、ロケハン以前の企画段階、リサーチ段階で大体のことを決める。たとえば「手造りの味にこだわってみよう」とか「ユニークな職人技を見せたい」とか。次にロケハンで現地に行き、具体的に誰を、何を撮るのか(逆に撮らないのか)を決める。
 たとえば、ある漁師さんの話を収録しようとする。まず、どこで撮るのかを決めなくてはならない。漁をする船の上、港の岸壁、自宅の庭、居間、それとも卒業した小学校の桜の木の下・・選択肢はいくらでもある。ただし、それは漁師さんに何を話してもらうのか、見る人に何を伝えたいのか、どんな印象を持って欲しいのか、また番組全体の中における意味や位置づけによって変わってくる。インタビューの場所を決めるだけとはいえ、すでに「演出」がそこにあるのだ。
 風景を撮る場合もそうだ。AD時代にディレクターから実景を任されたことがある。眺めのいい丘の上に立ち、大先輩でもあるカメラマンに「パンしてください」と言うと、「右から、それとも左から? 画のサイズは? 速さは?」と静かに聞かれた。私が一瞬考えていると、「納得のいく説明が出来ないならカメラは回さない」とスイッチを切られてしまった。確かに風景にも、ヒキかヨリか、パンする場合も右からか左からか、それぞれに意味がある。それを決定するのもまた演出だったのだ。
 
 ロケに行って「ロケハンのときは、こうじゃなかったのに」と思うことはよくある。それは天候だったり、取材を予定していたイベントであったり、取材相手の話の内容だったりする。前に聞いていた話と現実が違ったり、やれるはずのことが実際には出来なかったりもする。
 飛騨高山で漆器職人の仕事を取材したときのことだ。ある作業を撮影しようとしたら、親方に「それは予定が変わって先週終わってしまった。今日は必要ないし、やらない」と言われた。しかし、その工程がないと仕事全体の流れが見る人に伝わらない。そこで、先週と同じ作業をお願いすることにした。いわば「再現」である。ただし、この再現は「本来その人自身がやっていることを本人がやってみせる」というものだ。しかも「昔はともかく、今はやっていない」類のことではなく、日常的に行われている作業である。また「本来は秋にやることを春だと偽って行う」ようなものでもない。いわば先週行った作業の再現であるが、その映像を取材当日の作業として撮影し、放送しても問題はないと判断した。

 「再現」という手法について考えるとき、真っ先に頭に浮かぶのはNHKにいらした相田洋さんの言葉だ。相田さんは「再現の条件」ということをおっしゃていた。まず、5W1H(誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、いかに)という伝達の原則を確認することが重要だという。自分は再現という行為によって5W1Hのどこを変えることになるのか、それを自覚することが大事なのだ。その際、出来るだけ、なるべく5W1Hが事実と異ならないようにしたいと。その上で、相田さんは再現を行うかどうかの判断を下すための二つのチェックポイントを示す。
(1)反社会的な行為をやってはいけない。
(2)そのこと(再現)によって当事者が不利益を被るようなことはやらない。
そして、この二つをパスしたなら、最後に、再現によって番組(制作者)は「何を失い、何を得るのか」を考える。以上が、相田流“再現の方法論”だ。

 また、ジャーナリストのばばこういちさんは、再現にも種類があり、その内容によっては再現とは呼べないものとなることを指摘している。ばばさんの分類はこうだ。
(1)許容される再現
(2)クレジットを入れて断るべき再現
(3)悪質な再現
(4)虚偽
(5)虚構
「元々はあったこと」「現在もあること」を再現するのにも段階があり、ないことをあったように、また事実とは異なる表現をすれば、もはや再現という演出手法を逸脱した「やらせ」となる。

 ここで注意したいのは、一口に「やらせ」といってもいくつかのタイプと度合いがあるということだ。大別すると以下の5つくらいになるのではないか。
(1)誇張 事実をオーバーに伝える
(2)歪曲 事実を捻じ曲げて伝える
(3)削除 あるものをなかったことにして伝える
(4)捏造 ないものをあることにして伝える
(5)虚偽 ウソをついて伝える
中でも「事実にないことを捏造する」のは「やらせ」の“王道”であるが、「やらせ」といわれる表現が見られるとき、これら5つが組み合わされていることが多い。また、(1)から(5)に共通するのは、それが行われるとき、背後に制作側の意図があることだ。自分が「撮りたいもの」「見せたいもの」を撮れない、見せられない場合に、事実に反した内容であっても形にしてしまおうとする誤った意志の存在である。

 では、なぜ「やらせ」という制作者にとって命取りにもなる危険な“禁じ手”を使うのか。明らかなのは、それによって制作者が「得るもの」があるからだ。まず番組という「作品」を作り上げることで得られる“評価”。そして番組という「商品」を作り上げることで得られる“報酬”である。
 事実、「発掘!あるある大事典」外部調査員会の報告書によれば、「納豆ダイエット編」を担当した制作会社アジトのディレクターは「ダイエット番組で高視聴率が取れる有能なディレクター」という高い“評価”を、関西テレビと日本テレワークの担当者から得ていた。「やらせ」であることさえ発覚しなければ、このディレクターは有能な作り手という“評価”のもとに番組制作を続行し、それまでと同様に“報酬”を受け続けることができたはずだ。
 いや、実際には、この番組から“報酬”を得たのはひとりディレクターだけではない。このディレクターを抱えるアジトも、アジトを擁する日本テレワークも、テレワークに業務委託していた関西テレビも、広告代理店である電通も、全国で放送していたフジ系列各社も、さらには広告効果が期待できる高視聴率番組を提供していた花王も、(捏造番組との認識の有無・度合いのいかんに関わらず)それぞれに利益という名の“報酬”を手にしていた。もちろん同時に「おもしろくて、わかりやすくて、しかも高視聴率の情報バラエティ番組」を作って流す制作会社・放送局(&ネットワーク)・広告代理店・スポンサー企業であるという“評価”も得ていたわけだ。

 かつて、演出家の今野勉さんは、「捏造」のやらせが許されないのは主に2つの理由によると言っている。
(1)視聴者に誤った情報を伝えることになる。また取材対象にも迷惑がかかる。
(2)別の制作者に迷惑がかかる。
特に(2)は、ひとりが不当な方法で番組を作ってしまえば、同じテーマや内容で作ろうと思っていた別の制作者はこれを作ることが出来なくなるという指摘だ。
 確かに、85年のテレビ朝日「アフタヌーンショー」における「やらせリンチ事件」の後では、女子中学生や暴走族の実態を“真摯に”取材する番組を作ろうと考えていた制作者がいたとしても無理だった。また、92年の朝日放送「素敵にドキュメント」の「追跡!OL・女子大生の性24時」で行われたやらせが発覚したとき、外国人男性と日本人女性との危うい交際の実態を“正攻法で”取材する番組を企画していた制作者は断念せざるを得なかった。それどころか、貴重なドキュメンタリー枠を失ったこと自体、「別の制作者」たちは大きな「迷惑」を被ったはずだ。

 「演出」とは「決定すること」の総体である。大枠から細部にいたるまでを、右から左、白から黒まで、無限にある選択肢の中から決めていく。特に事実をベースとしたドキュメンタリー番組・情報番組の場合、あまたある事実の中から、何を選び、どう見せるのか(見せないのか)を決めること自体が「演出」の基軸であり、番組の生命線だ。
 捏造のやらせは、事実を扱うという大前提を無視する決定をしたことで、制作者自身はもちろん、テレビというメディアの意味や価値さえ吹き飛ばしてしまう。いわば自爆テロである。本物の自爆テロには、教義や政治や戦術などの面から肯定する論理が存在するかもしれない。しかし、捏造のやらせに肯定の論理はない。たとえ制作者にやらせを強いたり許したりする“構造”や“背景”があった場合でさえ、制作者は「捏造をしない」という選択・決定ができるからだ。

 演出とやらせの間にあるのは、深くて暗い川でも、検問のある国境線でもない。なだらかな丘に沿った、誘うような道が続くばかりだ。制作者なら誰でも、丘の“向こう側”に足を踏み入れることはたやすい。その目に見えない結界点に来てしまったとき、単に番組内容の問題ではなく、自分(たち)は、やらせによって何を得て、何を失うのか。そのことを、一瞬でもいいから立ち止って考えてみること。大事なのは立ち止まる“臆病さ”であり“畏れ”だ。制作者だけでなく放送に関わる全ての人が、「ものをつくること」「人に何かを伝えること」への“臆病さ”と“畏れ”を常に失わないことが、テレビというメディアを自壊させないための第一条件なのである。         

「新・調査情報」(2007年5月1日発売号)