碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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過激派活動家ってこんなだったんだ、と驚いたり笑ったり

2008年06月19日 | 本・新聞・雑誌・活字
1970年代の後半、渋谷にあった木造2階建のアパートに住んでいた。トイレ・ガス・水道が共同という、今ではなかなかお目にかかれなくなったアパートだ。1階にも2階にも部屋が3つ。私の部屋は2階の4畳半で、他の部屋は、隣が同じ4畳半、向かいに6畳間があった。

住んでいた5年間に、隣と向かいの部屋の住人は何度か入れ替わった。その6畳のほうに、1年ほど20代後半と思しきカップルが住んでいた時期がある。この男女が学生なのか、社会人なのか、よく分からなかった。というのは、昼間いたかと思うと、夜になっても朝になっても帰ってこなかったり、その逆で夜しかいなかったりするのだ。

古い木造だし、トイレも共同だから、隣も向かいも、その動きは何となく気配でわかる。この6畳には、ときどき何人もの男女が遊びに(?)来ていた。それも必ず夜だ。外へ出るには階段を降りて、そこで靴を履くようになっていたが、この来客たちは靴を部屋に持ち込んでいるらしく、部屋からは複数の人の話し声が聞こえてくるのだが、階下の入り口に靴は置かれていなかった。

不思議なことに、彼らが住んでいた1年の間、引っ越してきた当時以外に、廊下でばったり会うことはほとんどなかった。顔もほとんど覚えていない。また、いつ引っ越していったのかも分からない。ある日、消えていたのだ。

大学を卒業して社会人になった頃、勤めていた会社に、いきなり警察が私を訪ねてやってきた。特に悪さをした記憶もないので平気だったが、いったい何の用事だろうとは思った。

それは刑事だったが、聞かれたのは、アパートの向かいの部屋に住んでいた例の男女のことだった。どんな人たちだったか。よく知りません。部屋で何をしていたか。分かりません。話したことはあるか。ありません。全部、本当のことだ。で、ものの5分でおしまいだった。

刑事は、ほとんど詳しい話をしてくれなかったが、その口ぶりから、あのカップルが過激派だったこと。指名手配されていたこと。ときどき来ていたのは、彼らの仲間だったこと、などが分かった。しかし、その後、刑事が再び来たこともないし、警察から問い合わせがあったこともない。

もうずっと長く忘れていたが、彼らはどうなったんだろう。今、どうしているんだろう。

そんな30年以上前のことを思い出したのは、中野正夫さんが書いた『ゲバルト時代 SINCE1966-1973 あるヘタレ過激派活動家の青春』をさっき読み終わったからだ。

1948年生まれの中野さんは、高校時代から「ゲバルト活動」を始め、浪人してからも学生運動のいくつかのセクトと関わる。大きな流れとしては、ブントから赤軍へということになるが、その後、逮捕されたりしながら73年まで活動家だった人だ。

この本は、活動家時代のいわば回想録になるが、類似のものが思いつかない面白さをもっている。それは、一にも二にも、中野さんの考え方というか、思想、スタンスがユニークだからだ。

それは自らを「ヘタレ過激派活動家」と呼んでいることでもわかる。主義、主張があっての活動参加ではない。「何か面白そうジャン」というノリで活動に入っていってしまい、基本的にそのまま終わりまで行ってしまう。

羽田、佐世保、新宿、日大、東大など、数々の有名な闘争の「現場」にいて、制圧する側とぶつかり、相手をぶちのめしたり、自分もケガをしたり、逮捕されたりもするのだが、どこまでも不思議なアマチュア精神(?)の人なのだ。

過激派活動家といわれる人の実生活、実活動が、こんなに率直に、リアルに語られたことが今まであっただろうか、と思う。自分が体験、もしくは近くで見聞きした活動の話はもちろん、活動家たちの男女関係にいたるまでが、淡々と、そしてユーモアもまじえて回想されている。

この本には、(中野さんが言うところの)「革命ごっこの親玉たち」や「革命ごっこ」経験者たちの多くに見られる、自己満足、自己陶酔、自己正当化や欺瞞がない。それを最も嫌っているからだろう。

中野さんは書く。
「人は言ってることより、やっていることを見ろ!」

「実際は「理論」や「理念」では人は動いていないという現実」

1966年から73年にかけて、この国で何があったのか。それは現在とどうつながり、もしくはつながっていないのか。それを考えるには、今後、この一冊は外せない。

なんとも凄まじい”青春記”が出てきたものだ。

ゲバルト時代 SINCE1966-1973 あるヘタレ過激派活動家の青春
中野正夫
バジリコ

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