碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

「子どもに見せたくない番組」は勲章か?

2008年05月17日 | テレビ・ラジオ・メディア
毎年この時期に発表されるのが、テレビの「ワースト番組ランキング」だ。これ、正確には、社団法人の日本PTA協議会が行う「子どもとメディアに関する意識調査」というアンケートの結果なのだ。この調査の中で「子どもに見せたくない番組」という項目があり、小学5年生と中学2年生の保護者に回答してもらっている。

実際には昨年度に放送されたものが並ぶわけだが、今回の結果としては・・・

「子どもに見せたくない番組」

1位 ロンドンハーツ
2位 めちゃ2イケてるッ!
3位 クレヨンしんちゃん
4位 エンタの神様
4位 志村けんのバカ殿様
6位 はねるのとびら
7位 リンカーン
8位 ライフ
9位 クイズ!ヘキサゴン
10位 ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!

というわけで、回答者全体の10.5%が選んだ「ロンドンハーツ」が5年連続のトップだ。「見せたくない」理由としては、「内容がばかばかしい」「言葉が乱暴である」「常識やモラルを極端に逸脱している」「いじめや偏見を助長する場面が多い」などが並ぶ。

「ロンドンハーツ」としては、週によって15%にも達する視聴率の番組を、不祥事でもない限り、「じゃあ、やめます」とは言わない。また、「子どもに見せたくないなら、見せないでください」とも言わない、というか言えない。多少露悪的なところもあるテレビ屋さんなら、「ワーストワンもまた勲章だ」くらいに思うだろう。

ただし注意したいのは、この調査では「見せたくない番組」に続いて、こんな設問が置かれていることだ。「このような番組が放送されていることについて、スポンサーにも責任があると思いますか?」

それに対して、保護者の71.7%が、責任は「ある」と答えているのだ。子どもたちの保護者は、スポンサー企業にとってユーザーであり、消費者であり、まさにお客さまである。「内容はともかく、視聴率を稼いでさえいてくれれば、広告効果としてはOK」というスタンスで、ずっといられるかどうか。

「もの言う消費者」が普通になってきた今、番組のスポンサー企業に対して、抗議などの直接アプローチが行われてもおかしくはない。もしも、視聴者=消費者がそうした行動に出たとき、テレビ側は「表現の自由」などの”ありがち”な言辞で、それに対処できるだろうか。

民放のテレビを支えているのは基本的に企業の広告宣伝費だが、ネット広告の大幅かつ急激な伸びを見ても、テレビがこれからも安泰などと考えている人はいないはず。「子どもに見せたくない番組」の称号を勲章や逆PRとする道もあるが、それだけでは危うい気がするのだ。

「本の雑誌」6月号と、我が<ロックだ!本>

2008年05月16日 | 本・新聞・雑誌・活字
「本の雑誌社」から封書が届いた。「え、何?」ってんで開けてみる。入っていたのは、おお!図書券、いや図書カードではないか。それと、お知らせの文章だった。「このたびは、これぞロックだ本!のアンケートにご投稿いただき、ありがとうございました。今回、いただいたハガキを本誌2008年6月号にて採用させていただきましたので・・・」

すっかり忘れていた。「本の雑誌」にアンケートハガキを書いて出したのだ。テーマの<これぞロックだ本!>ってのがすっかり気に入って、久しぶりの投稿だった。でも、何を書いたのか、思い出せない。

そのうち、大学に出かける時間がきた。田園都市線に乗り、長津田で横浜線に乗り換えるのだが、その長津田駅構内に本屋さんがある。駆け込んで、店員さんに聞く。「本の雑誌、ありますか?」。すると「ウチは置いてないんですよ」とのお答え。そうだ、下車駅である八王子みなみ野駅周辺には2軒の本屋さんがある。走る。しかし、1軒目で、さっきと同じ答え。そして、2軒目でも。うーん、売り切れじゃなく、置いてないってのにはまいるよなあ。書店回りをしながらも、我が<ロックだ本!>を思い出そうと、アタマの中でもがくが、駄目。ますます気になる。

「本の雑誌」の創刊は学生時代のことで、30年以上前だ。そのころ、この雑誌はまだ取次店(本や雑誌の問屋さんで流通を仕切っている)から扱ってもらっていなくて、学生くんたちのバイト「配本部隊」が大活躍。人海戦術で都内の本屋さんに直接持ち込んでいた。かなり長い間、終わりのページに配本部隊募集の文字を見た記憶がある。まさか、いまだに・・なんてはずもないが、とにかく郊外の本屋さんで買うことが困難なんだねえ、と実感した。それにしても、自分は、どんな本を「ロックだ!」といって投稿したんだろう。

結局、夜になって家に戻ってみると、ちゃーんと掲載誌が届いていた。私が出かけた直後に来たらしい。ありがとう、本の雑誌社。さっそく、特集ページを確認。あったです。ありました。そうか、これを書いたのか。

「本の雑誌」6月号 特集:本とロックが人生だ! 

 これぞロックだ本!

『堕落論』坂口安吾/新潮文庫他

体重も血圧も血糖値も高く、不整脈の疑いもあるし、
運動も睡眠も熟慮も大幅に足りない私だが、3歳くら
いから50年後の今に至るまで、ずっと明るく元気だ。
医者には「突然死」タイプのど真ん中と言われている。
そんな私も時としてぐぐっと落ち込むときがある。本
来なら大音量のロックをかけるべきところだが、私は
そっと安吾を開く。一気に襲ってくる”ドトーの寄り”
や”暴風雨”にさらされると、翌朝はまた突然死を背
負った元気な私に戻るのだ。やっぱ安吾はロックです。
   (碓井広義・風に涙の大学教授53歳・川崎市)

堕落論 (新潮文庫)
坂口 安吾
新潮社

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最初に読んだのは高校時代で、これまで何度も読み返した古い角川文庫が今も手元にある。安吾が亡くなったのは昭和30年2月。私が生まれる10日前だった。タッチの差で、同じ時代の空気を吸えなかったのは残念だが、今もこうして本の中から語りかけてくれている。ほんと、本って有難いよなあ、といつも思う。

ロックのなんたるかなど、私には皆目分からぬ。だが、安吾の生き方はロックだ!ってことだけは、どーしたって分かるのだ。

びっくらこいた『平凡パンチ』と西木正明『極楽谷に死す』

2008年05月15日 | 本・新聞・雑誌・活字
気がつくと「♪びっくらこいた~、びっくらこいた~」と歌っている。困ったものだ。森三中の村上嬢が、サントリーの野菜ジュース「野菜カロリー計画」のCMで歌っている曲だ。どうにも印象が強く、我が家では連日誰かが口ずさんでいる。もちろん中国四川省の大地震には、びっくらこいてばかりもいられない。国土と人口の巨大さが、そのまま被災者、犠牲者の数に比例していて痛々しいばかりだ。

びっくらこいたといえば、今週の『週刊ポスト』のグラビア。いきなり往年のキャンディーズ(南海・・ではなく、ランちゃん、スーちゃんたちの本物のほう)に松本ちえこに大場久美子、そしてアグネス・ラムだもん。よく見れば、写真集が出たんだそうで、タイトルは『永久保存版写真集 平凡パンチ 甦れ、アイドルの時代』(マガジンハウス)。当時の彼女たちアイドルは元気だったけど、『平凡パンチ』自体も元気だったなあ。後に休刊するなんて思いもしなかったもんなあ。写真集は、青春の記念として、さっそく購入です。
永久保存版写真集 平凡パンチ 甦れ、アイドルの時代
マガジンハウス
マガジンハウス

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特に60年代の『平凡パンチ』は硬軟取り混ぜた内容で走っていて、しかも右も左も登場する「ロータリー広場」(?)みたいな場所だった。70年に亡くなる三島由紀夫も、しょっちゅう特集されていたっけ。
平凡パンチの三島由紀夫
椎根 和
新潮社

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そして、熱気と喧騒の70年代に、『平凡パンチ』などの編集者だったのが作家の西木正明さんだ。国内だけでなく海外をも飛び歩き、見て、聞いて、味わい、体感し、書きまくっていた。そんな西木さんが、30年を経た今、自らの中でようやく昇華しつつある“あの時代”を6つの短編に仕立て上げたのが『極楽谷に死す』(講談社)だ。

表題作はスペイン語で書かれた手紙が届くところから始まる。それは南米で貧しい人たちを支援する活動を続けていた友人の死を知らせるものだった。30年前の学生時代、<わたし>は友人をデモへと連れ出し、それが彼の人生を大きく変えてしまうことになった。それから10年後、極楽谷と呼ばれるチリの町で二人は再会。互いの過去と現在とが解け合っていく・・。

他の作品の多くも海外を舞台としている。トルコのボスポラス海峡、ハワイ・オアフ島、アフリカのザンジバルなど、いずれも海と共にある場所だ。彼らはなぜ日本にいないのか。いや、いられなくなったのか。それぞれが抱える過去は単に個人のものでなく、「時代」と深い関わりがある。ベトナム戦争、学生運動、浅間山荘事件といった現実を踏まえ、必死で生きた男や女たちの姿を、苦さも交えて描き出した短編集だ。
極楽谷に死す
西木 正明
講談社

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映画『隠し砦の三悪人』と『CHANGE』視聴率

2008年05月14日 | 映画・ビデオ・映像
『隠し砦の三悪人』を見た。リメイクうんぬんはあまり意識せず、普通に樋口真嗣監督の新作を見たいと思ったのだ。で、エンタテインメントとして十分に楽しめた。脚本というか脚色が、もう6年前だけど衝撃的だった舞台『アテルイ』の中島かずきさんで、それも見に行った理由のひとつだが、オリジナルはオリジナルとしつつ、しっかり中島カラーが出ていて嬉しかった。

映画の中で、椎名桔平演じる敵方の武将が、まんまダース・ベーダーを思わせて、おもわずにんまり。黒澤版『隠し砦』がジョージ・ルーカスの『スター・ウオーズ』に影響を与え、その『SW』へのオマージュを樋口版の各所で見ることになる。こういうのも楽しいじゃないの。

樋口真嗣監督の名前を意識したのは、確か金子修介監督の『ガメラ』で、そのときは特撮監督だったはずだ。この平成版『ガメラ』は結構好きなシリーズで、出来はむしろ元ネタの昭和版よりよかったりする。

特撮監督から監督になってからの長編第1作『ローレライ』は、先に原作である福井晴敏さんの『終戦のローレライ』を読んでいたので、これをどう映像化するんだろと興味津々で見た。「おお、やってる、やってる」と感心。(『日本沈没』は、ちょっと辛口評価だったけど)
終戦のローレライ 上
福井 晴敏
講談社

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その後、『映画「ローレライ」画コンテ集』も買った。画コンテ集は、以前、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』のものを入手して以来、見つければ熟読というか熟見(?)してきたが、監督が思い描く映像と完成版の両方を見ることで、作品を多角的にとらえることが出来て面白いのだ。
映画「ローレライ」画コンテ集
樋口 真嗣,樋口 真嗣
講談社

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そうそう、昨日のblogで「この内容であれば『ごくせん』初回SPの視聴率24.6%に負けないかもね」と書いたフジ『CHANGE』だが、視聴率はほぼ予想通りの23.8%でした。フジやキムタクは不満だろうが、20%超えの番組が激減している昨今、なかなかのもの。ただし、『ごくせん』と比較(対抗)したいなら、あちらは2回目以降も数字が落ちないわけで、本当の勝負は『CHANGE』の来週以降ということになる。

キムタク候補と小説『当確への布石』

2008年05月13日 | テレビ・ラジオ・メディア
いや、速い、速い。昨日まで小学校の先生だったのに、一晩で(たった1回の放送で)国会議員のセンセイになっちゃった。フジテレビが、思いっきり観客をじらした上で、昨夜(12日)オンエアした『CHANGE』の初回スペシャルである。忘れないうちに印象をメモしておこう。

・議員二世だけど小学校教諭をしていたキムタク先生の「キャラ」は、立ち居振る
 舞い、言葉づかいも含め、結構好感度な造形。
・ドラマ開始早々に「いきなり選挙」という”怒涛の寄り”も成功していた。
・『踊る!大捜査線』で青島クン、こちらでは朝倉クンと、「サポートさせたら日
 本一の女優」への道を歩む深津絵里が着実にポイント。
・豪腕による”教育・指導”の阿部寛は、ジャンル変われど、まんま『ドラゴン
 桜』で任せて安心。
・キムタク候補の母に冨司純子。さすがの”有難感”で画面がゼイタクになる。
・政治と無関係だった人間でも、議員二世であれば、ある<システム>に乗ること
 で選挙に勝てる(議員になれる)というのは、まんまこの国の政治のリアル。
 それを、まあ、見事にぬけぬけと(というか無批判に)見せてくれたこと。
・ドラマとしては、テンポといい山場といい、きっちりプロの技で作られており、
 この内容であれば『ごくせん』初回SPの視聴率24.6%に負けないかもね。


政治を描いた小説はいくつもあるが、「選挙」そのものを舞台にした小説はあまりない。昨年6月に読んだ高山聖史『当確への布石』(宝島社)は珍しい1冊ということになる。

タイトルの当確とは、もちろん選挙での「当選確実」のこと。本書は“選挙サスペンス”とでもいうべき新趣向の一冊であり、第5回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞した。

セクハラ事件で失職した議員の議席をめぐって争われる、東京6区の衆議院統一補欠選挙。各党が推す立候補者に混じって、犯罪被害者の救済活動で知られる大原奈津子が出馬を決める。大学の教壇にも立つ彼女は、自身のゼミを母体とする支援チームを持っていた。

そんなとき、正体不明の団体からの推薦状が届く。彼らはかつての犯罪者たちの顔写真や現在の住所などを記したビラをまいていた。選挙には不利益となる迷惑な支持団体。奈津子は教え子の夫で以前は刑事だった平澤栄治に調査を依頼する。彼には事件で妻と娘を失うという辛い過去があった。

当選請負人といわれる選挙のプロ。執拗にスキャンダルを暴き出そうとする雑誌記者。素人集団ではあるが必死の選挙運動を展開する教え子たち。そして秘密を抱えた奈津子自身。様々な人間の思惑や陰謀が交差する選挙という名の“劇場”の裏側がリアルに描かれ、開票日へのカウントダウンが物語の緊迫感を高める。
当確への布石
高山 聖史
宝島社

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「開高健ルポルタージュ選集」と東京ディズニーシー

2008年05月12日 | 本・新聞・雑誌・活字
もう20年くらい前のこと。徳間文庫が「梶山季之 ノンフィクション選集」という5巻シリーズを出してくれて、とても有難かった。当時は、小説だけでなく梶山さんのノンフィクションも読みたかった読者にとって、なかなかその機会がなかったのだ。出たのは『日本の内幕』『実力経営者伝』『日本事件列島』『昭和人物伝』『ルポ戦後縦断』といったラインナップ。梶山さんが週刊誌のトップ屋時代に書いた、有名な「皇太子の恋」も、この文庫のおかげで読むことができた。

今日、AMAZONに注文しておいた光文社文庫「開高健ルポルタージュ選集」が届いた。『日本人の遊び場』『ずばり東京』『過去と未来の国々~中国と東欧』『声の狩人』『サイゴンの十字架』の全5冊。昨年の夏から刊行が始まっていたのだが、そのうちにと思っている間に、書店の棚から見えなくなり、困っていたのだ。今年の3月ころに5巻目が出て全巻揃い。で、AMAZONにて大人買い(文庫だもん)。こういうときのAMAZONは便利です。

『ずばり東京』(うまいタイトルだよなあ)は、以前、文春文庫で読んでいるが、同じく昭和30年代後半の「週刊朝日」に連載された『日本人の遊び場』は今回が初めてだ。高度成長期に突入した日本。モーレツ社員の登場。そんな社会状況の中、あえて「遊び場」をテーマにしているのも開高健らしい。パチンコ・ホール、マンモス・プール、ナイター釣堀、ヘルスセンターなどと並んでボウリング場が登場する。ボーリング場ではなくボウリング場だ。今から50年近く前、当時の東京での最先端の遊び場。

この文章の中で、開高はボウリング場について述べる前に、「日本の空気は酸素と窒素とわびしさからできている」と書いている。その上で、ボウリング場について「能率。明快。豪奢。騒音。清潔。健康。広大さ。ジューク・ボックス。コカコラ(原文のまま)。ホット・ドッグ・・・・こうまで徹底的に”アメリカ”でおしまくられたらつい福神漬けの肩も持ちたくなってくるじゃないか」とくるのだ。うーん、うまいなあ。
日本人の遊び場 (光文社文庫 か 40-3 開高健ルポルタージュ選集)
開高 健
光文社

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読んでいて思い出したのは、先日初めて行ってみた「東京ディズニーシー」のことだ。そりゃ、あそこにはアメリカのイメージだけでなく、南太平洋の火山島だの中世アラビア文明風の都市だのもあるが、全体はやはりディズニーのアメリカである。しかも、まさに「能率。明快。豪奢。騒音。清潔。健康。広大さ。ジューク・ボックス。コカコラ。ホット・ドッグ」。もちろんよく出来ているし、それなりに楽しいわけだが、開高がボウリング場について端的に表現した「豪快明朗の無菌室」が、良くも悪くもぴったりくる。東京ディズニーランドもディズニーシーも、半世紀前のボウリング場だったのだ。

人ごみ、人波、行列など、飛び込むのも見るのも苦手で、日曜日や祭日といった世間がお休みの日には、できるだけ外出しないようにしているし、平日も大学のキャンパス以外の「人が集まる場所」には行かないようにしているのに、このとき、なぜ「東京ディズニーシー」に出かけたかについては、いずれまたということで。

MHK・BS 『黒澤明特集』を読む

2008年05月11日 | 映画・ビデオ・映像
アップの多い作品だなあ、と何度も思った。昨夜(10日)、NHK・BSの黒澤明特集で『わが青春に悔いなし』を見ていてのことだ。この映画の中で、お嬢さんだった原節子が生き方に目覚め、自分の意思で、あえて困難と思われる道を歩んでいくのだが、その変化していく様を見せる意味もあるのだろう、節目節目で彼女の顔のアップが現れる。後期の黒澤作品ではアップのカットの印象が薄いので、よけい気になったのかもしれない。

樋口尚文さんの『黒澤明の映画術』(筑摩書房 1999年)は「技術が生み出す映画的なエモーションのみに切り口を絞る」というユニークな黒澤明論だ。その中に「顔と眼」の章があり、この作品での”顔のドラマ”にも言及していて、「顔そのものが持つ名状しがたい衝迫そのものがごろんと投げ出されている」とある。
黒澤明の映画術
樋口 尚文
筑摩書房

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『わが青春に悔いなし』で、原節子とともに、その顔が強い印象を残すのが、獄死した恋人(藤田進)の母である杉村春子だ。息子のせいで受ける村八分の圧迫に耐えながら、しかし息子を思う気持ちは人一倍で。田んぼで汗を流す杉村の姿は、かつての「日本の母」そのものかもしれない。

中丸美繪さんが書いた伝記『杉村春子 女優として女として』(文藝春秋 2003年)で確認したら、杉村はこの年、木下恵介監督の『大曾根家の朝(あした)』にも出ていて、主人公である母・房子を演じている。ちなみに、昭和21(1946)年の『キネマ旬報』のベスト10では、『わが青春に悔いなし』が2位。1位が『大曾根家の朝』だった。中丸さんによれば、かつて軍国の母を演じた杉村が、いわば「戦後民主主義映画の代表的作品」で評価され、これ以降、数多くの「日本の良心ともいえる、毅然とした理想の母親役」を演じていくことになるのだ。
杉村春子 女優として、女として (文春文庫)
中丸 美繪
文藝春秋

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黒澤監督・黒澤作品に関する書籍は、関連本も含めたらそれこそ山のように出ている。そんな中で、読んでいてゾクゾクしてくるのが脚本家・橋本忍さんの『複眼の映像~私と黒澤明』(文藝春秋 2006年)だ。橋本忍さんは、『羅生門』に始まり『生きる』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』などの共同脚本家。また、『砂の器』(野村芳太郎監督)などの脚本家・製作者でもある。

この本の面白さは、シナリオ作成という、黒澤映画が生まれる”現場”を垣間見られることだ。黒澤の「テーマは理屈でなく、形の分かるもの、ハッキリ形の見えるもの」といったナマの言葉を知ることができるのが嬉しい。
複眼の映像 私と黒澤明
橋本 忍
文藝春秋

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黒澤監督作品はほとんど見ているが、もちろんリアルタイムで見たのは途中からだ。古い作品は、学生時代、都内にいくつもあった名画座での「黒澤明特集」で少しずつ”補填”していった。当時、銀座並木座でも何本かを見ている。

その並木座が配布していた無料のプログラムのうち、1953年から56年までのものを収録した『復刻版 銀座並木座ウイークリー』(三交社 2007年)を開いてみると、54年に「黒澤明週間」、55年に「黒澤明選集」という特集をやっている。たとえば「選集」では、2週間で「野良犬」「羅生門」「生きる」の3本を見ることができたのだ。しかもスクリーンで! そう、やはり黒澤映画はスクリーンで見たい。

でも、今夜(11日)の『素晴らしき日曜日』も見ちゃうんだろうなあ、きっと。




五十嵐貴久『For You』、小路幸也『モーニング』と80年代の青春

2008年05月10日 | 本・新聞・雑誌・活字
たまたまなのかもしれないが、「80年代の青春」を描いた小説を2冊、続けて読んだ。五十嵐貴久さんの『For You』と、小路幸也さんの『モーニング』。どちらにも40代半ばの人物の、20年前の出来事が書き込まれている。

私にとっての80年代は、25歳から35歳までに当たる。高校教師からテレビの世界への転身。結婚。父親になったこと。仕事の上では、アシスタント・ディレクターからディレクター、さらにアシスタント・プロデューサーから1本立ちのプロデューサーへと、ひたすら疾走していたような時期だ。懐かしさはもちろんあるが、とても懐かしさだけでは語れない。痛みや辛さも含めた複雑な思いに満ちた10年。いつか自分なりに検証してみたいものだ。


五十嵐貴久『For You』(祥伝社)

 『交渉人』などのサスペンス、『相棒』などの時代物で知られる著者が、初めて挑んだ恋愛小説である。巧みな伏線やストーリーテリングの手腕は本書でも見事に生かされている。
 映画雑誌の新米編集者である朝美にとって、新聞社で働く44歳の叔母・冬子は大切な存在だった。幼い頃に母を亡くした朝美の母親代わりであり、また年の離れた姉のようでもあったからだ。仕事のこと、恋愛のこと、何でも相談できた。そんな冬子が急逝してしまう。ずっと独身だった冬子の部屋を整理するうち、遺された日記帳を見つけて読み始める朝美。そこには自分が知らない叔母の青春時代と、秘められた恋が綴られていた。
 日記の中で80年代らしい緩やかなテンポで高校・大学生活を送る冬子と、韓流スターの来日特集という大仕事を任され走り回る朝美。二人の女性の“現在”が交互に語られ、それぞれの想いが織り合わされていく。「いつでも恋はしている」と言っていた冬子の真実に触れた時、朝美の中で何かが確実に変わるのだった。
 ケータイもパソコンもない青春。もどかしいほど「ためらい」のある恋愛。時代を超えて胸に迫るのは、一途に人を愛する心情だ。
For You
五十嵐 貴久
祥伝社

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小路幸也『モーニング』(実業之日本社)

 『東京バンドワゴン』シリーズでブレイクした著者による苦味と甘さの効いた中年“青春”小説である。
 「自殺するんだ。俺は」・・学生時代、一つ屋根の下で暮らした淳平がいきなり言い出した。しかも、同じく下宿仲間だった慎吾の葬儀の後でのことだ。驚くヒトシとワリョウ、そして私。亡くなった慎吾も含め、みんな同い年の45歳だ。淳平は福岡空港で一同をレンタカーから降ろしたら、そのまま死に場所を探して走るという。本気らしい。
 結局、誰も帰ることが出来ず、東京へ向かってクルマを走らせながら「自殺の理由を思い出してくれたら、思い止まる」という奇妙な約束を取り付ける。そして長いドライブが始まった。それはまた自分たちが若者と呼ばれていた80年代へと遡る回想の旅でもあった。
 彼らの青春時代の思い出は尽きない。特に淳平の恋人で、みんなのマドンナでもあった茜のことは誰も忘れていなかった。しかし、彼女も今はいない。話し込むうち、楽しいことだけでなく、ずっと「封印してきた出来事」も甦ってくる。どこまで走れば、どこまで語り合えば、仲間が死のうとしている理由にたどり着けるのか・・。
モーニング Mourning
小路 幸也
実業之日本社

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続・「あるある」捏造問題と船場吉兆

2008年05月09日 | メディアでのコメント・論評

思い出した。「あるある」捏造問題でも、<検証番組>が放送されたのだった。テレビ局が大きな不祥事を起こした際に、その総括というか、幕引きというか、ミソギというか、「このあたりで、この問題にはエンドマークを」というタイミングで流されるのが検証番組なのだ。これは「TBSオウムビデオテープ事件」のときにも行われた。

関西テレビが「あるある問題」検証番組を流した直後、読売新聞から論評を求められたことも思い出した。記録として再録しておこうっと。



 問題は“現場”で起きている
  
 4月3日、関西テレビ「発掘!あるある大事典Ⅱ」捏造問題の検証番組「私たちは何を間違えたのか」を見た。そして、最も驚いたのが直接捏造を行った制作会社アジトのディレクターへのインタビューだ。彼は何度か登場するが、同じ話を繰り返す。「面白く、分かりやすく、インパクトのある、魅力的な番組にしようと思った」と。そう思うこと自体は間違っていない。だが、ほとんどの作り手は捏造を行わない。勝手な都合で捏造が出来た理由が知りたいのだ。

 しかし、Aの答えは「他のスタッフも自分も頑張った」。だが、自分は「頑張り方を間違えた」。その原因は「分からない。僕の人間性かもしれないし、モラルの低さかもしれないし、環境がそうだったのかもしれないし、難しいですね」だった。画面上は顔が見えず音声も変えてあるため、微妙なニュアンスは伝わらないが、どうやらこれが本心、というよりこの程度の自覚しかないらしい。そう思ったとき、何とも言えない情けない気持ちになった。捏造という行為が、テレビだけでなくメディアそのものにとって、どれだけ大きな罪かという認識がない。かすかに期待していた捏造に対する葛藤や苦しんだ様子も見えない。
 
 「事件は現場で起きてるんだ!」と叫んだのは、織田裕二演じる『踊る大走査線』の主人公・青島刑事である。「あるある」の場合も、まさに問題は(制作)現場で起きていた。では、なぜこの現場に「捏造を行う作り手」が存在したのか。それは、捏造という禁じ手を使うことによって作り手が二つのものを得られたからだ。一つは<評価>、そしてもう一つが<報酬>である。外部委員会の報告書には、このディレクターが関西テレビと日本テレワークの担当者から「ダイエット番組で高視聴率が取れる有能なディレクター」として高い“評価”を得ていたことが記されている。捏造さえ発覚しなければ、今も彼は番組を作り、相応の“報酬”を受けていたはずだ。
 しかも番組によって報酬(利益)を得ていたのはディレクターだけではない。アジト、日本テレワーク、関西テレビ、広告代理店の電通、さらに高視聴率番組でCMを流していた花王も同様である。それは捏造に対する認識の有無とは関係のない事実だ。

 また、この現場には別の問題もあった。調査報告書によれば、関西テレビが持つ「あるある」1本の総制作費は3205万円。そこからVTRを担当する再委託(孫請け)制作会社に渡るのが887万円だ。しかも、前払いではなく放送後の支払いであり、制作会社は銀行から借金をしながら作る。何としてでも完成して放送しなければ回収できず、途中で「やはり納豆にダイエット効果は望めない」などと白旗を揚げるわけにはいかない。小規模の会社にとっては死活問題だからだ。さらに視聴率を取ることが求められる。「あるある」の孫請け会社は9社。「面白くて、わかりやすくて、しかも高視聴率」を実現できなければ、現場から外される可能性さえある。無理・無茶・無謀が生じる土壌だ。

 もちろん、これらも捏造の言い訳にはならない。作り手個人に帰する問題が多すぎる。ただ、「あるある」の制作体制・環境が、作り手にとって強いプレッシャーとなっていたこと。また、この構造が決して珍しいものではないことは認識しておくべきだろう。
 直接の作り手や制作会社、また放送事業者としての放送局が、モラルや責任を厳しく問われるのは当然だ。だが、同時にメスを入れるべきは、「放送という名のビジネス」に重点を置く視聴率優先主義と、それを基盤とした番組制作の構造、さらに格差社会の縮図のような制作現場の実態である。外部委員会の報告書にあって検証番組になかったのはこの視点だ。

「読売新聞」(2007年4月8日)

「あるある」捏造問題と船場吉兆

2008年05月09日 | メディアでのコメント・論評

「船場吉兆」による、客の食べ残し”有効活用”発覚。例のささやき女将も元気に再登場。「偽装にもほどがある、たいがいにしろ」と言いたいが、その非常識ぶり、倫理感の欠如は前回同様で、思わず笑ってしまいそうだ。とはいえ、この店というか会社の体質や構造自体が変わっていないのだから、営業を続ける限り何度でも問題は起きる。

昨日8日の授業「メディア産業論」で、「発掘!あるある大事典Ⅱ」捏造問題を取り上げた。ほんの1年と少し前の出来事なのに、もはや懐かしささえ感じる。「あるある問題」は関西テレビの管理責任うんぬんではなく、業界の構造問題と制作者の問題、この二つが重なって起きたものだ。あれから今日までの間に、テレビ界の何が変わり、何が変わらなかったのか。ほとんど変わっていないとしたら、テレビは「船場吉兆」を笑えない。

昨年の5月、「あるある」捏造問題について書いた文章が「新・調査情報」に載った。


  「伝えること」への“臆病さ”と“畏れ”を

 新米AD(アシスタント・ディレクター)時代のことだ。参加していた旅番組のロケの途中、海辺で見事な夕焼けとなった。スタッフはすぐにカメラをセットし、旅人である出演者は夕景の砂浜を歩き出す。広い画角のそのカットはモニターを通して見ても美しかった。帰京し、編集作業が行われた。夕焼けのシーンは当然のごとく番組のエンディングで使われた。夕景をバックに一人で砂浜をゆく旅人。そこに番組のテーマ曲が流れ、出演者自身による旅の感想がナレーションとして語られると、スタッフである自分も「ああ、いい旅をしたなあ」という気分に浸ることができた。
 しかし、一方で「これでいいの?」という素朴な疑問と、「こういうものなんだな」という微かな居心地の悪さがそこにあった。夕景を撮ったのは、実は旅の最終日ではなく、また旅の終わりの場所でもなかった。A地点からB、Cを経てD地点で終わる旅。夕景はC地点でのものなのだ。
 番組の最後に登場した職人さんから夕景へとカットをつなぎ、ナレーションも職人さんへの思いを引っぱりながらのラストコメントを重ねると、まるで職人さんの家が砂浜のすぐ近くにあり、旅人が外へ出てみたら鮮やかな夕焼けが目の前に広がっていたかのような印象となった。実際には隣町の浜辺であり、違う日の夕景なのに。また、出演者が旅の間は同じ服装をしていたのも、こうした「つながり」を意識してのことだと分かってきた。

 もちろんD地点を含む「あるエリア」「ある海沿いのルート」で見た風景という意味では、この夕景が出てきて何ら問題はない。それに旅が終わったD地点の近くに海はなく、曇り空の下、市街地の風景で番組を終わるのでは“旅の情緒”に欠けると言われれば、その通りだ。
 取材する側のスケジュールや取材相手の都合もあり、必ずしも撮影した順番がそのまま番組で流される順番ではないこと。場合によっては旅のラストシーンをロケの初日に撮ることだってあること。時間や場所も編集作業の中で再構成されること。それらは作り手の意図や狙いを見る人に分かりやすく伝えるためであり、演出というものの範疇であるらしい等々と、やがて新米ADは理解するようになる。

 自分がADからディレクターになってみて、「演出する」という行為が「決定する」ことの連続であることを知った。前述の旅番組を例にしよう。その回を、どこへ行ってどんな旅にするかについては、ロケハン以前の企画段階、リサーチ段階で大体のことを決める。たとえば「手造りの味にこだわってみよう」とか「ユニークな職人技を見せたい」とか。次にロケハンで現地に行き、具体的に誰を、何を撮るのか(逆に撮らないのか)を決める。
 たとえば、ある漁師さんの話を収録しようとする。まず、どこで撮るのかを決めなくてはならない。漁をする船の上、港の岸壁、自宅の庭、居間、それとも卒業した小学校の桜の木の下・・選択肢はいくらでもある。ただし、それは漁師さんに何を話してもらうのか、見る人に何を伝えたいのか、どんな印象を持って欲しいのか、また番組全体の中における意味や位置づけによって変わってくる。インタビューの場所を決めるだけとはいえ、すでに「演出」がそこにあるのだ。
 風景を撮る場合もそうだ。AD時代にディレクターから実景を任されたことがある。眺めのいい丘の上に立ち、大先輩でもあるカメラマンに「パンしてください」と言うと、「右から、それとも左から? 画のサイズは? 速さは?」と静かに聞かれた。私が一瞬考えていると、「納得のいく説明が出来ないならカメラは回さない」とスイッチを切られてしまった。確かに風景にも、ヒキかヨリか、パンする場合も右からか左からか、それぞれに意味がある。それを決定するのもまた演出だったのだ。
 
 ロケに行って「ロケハンのときは、こうじゃなかったのに」と思うことはよくある。それは天候だったり、取材を予定していたイベントであったり、取材相手の話の内容だったりする。前に聞いていた話と現実が違ったり、やれるはずのことが実際には出来なかったりもする。
 飛騨高山で漆器職人の仕事を取材したときのことだ。ある作業を撮影しようとしたら、親方に「それは予定が変わって先週終わってしまった。今日は必要ないし、やらない」と言われた。しかし、その工程がないと仕事全体の流れが見る人に伝わらない。そこで、先週と同じ作業をお願いすることにした。いわば「再現」である。ただし、この再現は「本来その人自身がやっていることを本人がやってみせる」というものだ。しかも「昔はともかく、今はやっていない」類のことではなく、日常的に行われている作業である。また「本来は秋にやることを春だと偽って行う」ようなものでもない。いわば先週行った作業の再現であるが、その映像を取材当日の作業として撮影し、放送しても問題はないと判断した。

 「再現」という手法について考えるとき、真っ先に頭に浮かぶのはNHKにいらした相田洋さんの言葉だ。相田さんは「再現の条件」ということをおっしゃていた。まず、5W1H(誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、いかに)という伝達の原則を確認することが重要だという。自分は再現という行為によって5W1Hのどこを変えることになるのか、それを自覚することが大事なのだ。その際、出来るだけ、なるべく5W1Hが事実と異ならないようにしたいと。その上で、相田さんは再現を行うかどうかの判断を下すための二つのチェックポイントを示す。
(1)反社会的な行為をやってはいけない。
(2)そのこと(再現)によって当事者が不利益を被るようなことはやらない。
そして、この二つをパスしたなら、最後に、再現によって番組(制作者)は「何を失い、何を得るのか」を考える。以上が、相田流“再現の方法論”だ。

 また、ジャーナリストのばばこういちさんは、再現にも種類があり、その内容によっては再現とは呼べないものとなることを指摘している。ばばさんの分類はこうだ。
(1)許容される再現
(2)クレジットを入れて断るべき再現
(3)悪質な再現
(4)虚偽
(5)虚構
「元々はあったこと」「現在もあること」を再現するのにも段階があり、ないことをあったように、また事実とは異なる表現をすれば、もはや再現という演出手法を逸脱した「やらせ」となる。

 ここで注意したいのは、一口に「やらせ」といってもいくつかのタイプと度合いがあるということだ。大別すると以下の5つくらいになるのではないか。
(1)誇張 事実をオーバーに伝える
(2)歪曲 事実を捻じ曲げて伝える
(3)削除 あるものをなかったことにして伝える
(4)捏造 ないものをあることにして伝える
(5)虚偽 ウソをついて伝える
中でも「事実にないことを捏造する」のは「やらせ」の“王道”であるが、「やらせ」といわれる表現が見られるとき、これら5つが組み合わされていることが多い。また、(1)から(5)に共通するのは、それが行われるとき、背後に制作側の意図があることだ。自分が「撮りたいもの」「見せたいもの」を撮れない、見せられない場合に、事実に反した内容であっても形にしてしまおうとする誤った意志の存在である。

 では、なぜ「やらせ」という制作者にとって命取りにもなる危険な“禁じ手”を使うのか。明らかなのは、それによって制作者が「得るもの」があるからだ。まず番組という「作品」を作り上げることで得られる“評価”。そして番組という「商品」を作り上げることで得られる“報酬”である。
 事実、「発掘!あるある大事典」外部調査員会の報告書によれば、「納豆ダイエット編」を担当した制作会社アジトのディレクターは「ダイエット番組で高視聴率が取れる有能なディレクター」という高い“評価”を、関西テレビと日本テレワークの担当者から得ていた。「やらせ」であることさえ発覚しなければ、このディレクターは有能な作り手という“評価”のもとに番組制作を続行し、それまでと同様に“報酬”を受け続けることができたはずだ。
 いや、実際には、この番組から“報酬”を得たのはひとりディレクターだけではない。このディレクターを抱えるアジトも、アジトを擁する日本テレワークも、テレワークに業務委託していた関西テレビも、広告代理店である電通も、全国で放送していたフジ系列各社も、さらには広告効果が期待できる高視聴率番組を提供していた花王も、(捏造番組との認識の有無・度合いのいかんに関わらず)それぞれに利益という名の“報酬”を手にしていた。もちろん同時に「おもしろくて、わかりやすくて、しかも高視聴率の情報バラエティ番組」を作って流す制作会社・放送局(&ネットワーク)・広告代理店・スポンサー企業であるという“評価”も得ていたわけだ。

 かつて、演出家の今野勉さんは、「捏造」のやらせが許されないのは主に2つの理由によると言っている。
(1)視聴者に誤った情報を伝えることになる。また取材対象にも迷惑がかかる。
(2)別の制作者に迷惑がかかる。
特に(2)は、ひとりが不当な方法で番組を作ってしまえば、同じテーマや内容で作ろうと思っていた別の制作者はこれを作ることが出来なくなるという指摘だ。
 確かに、85年のテレビ朝日「アフタヌーンショー」における「やらせリンチ事件」の後では、女子中学生や暴走族の実態を“真摯に”取材する番組を作ろうと考えていた制作者がいたとしても無理だった。また、92年の朝日放送「素敵にドキュメント」の「追跡!OL・女子大生の性24時」で行われたやらせが発覚したとき、外国人男性と日本人女性との危うい交際の実態を“正攻法で”取材する番組を企画していた制作者は断念せざるを得なかった。それどころか、貴重なドキュメンタリー枠を失ったこと自体、「別の制作者」たちは大きな「迷惑」を被ったはずだ。

 「演出」とは「決定すること」の総体である。大枠から細部にいたるまでを、右から左、白から黒まで、無限にある選択肢の中から決めていく。特に事実をベースとしたドキュメンタリー番組・情報番組の場合、あまたある事実の中から、何を選び、どう見せるのか(見せないのか)を決めること自体が「演出」の基軸であり、番組の生命線だ。
 捏造のやらせは、事実を扱うという大前提を無視する決定をしたことで、制作者自身はもちろん、テレビというメディアの意味や価値さえ吹き飛ばしてしまう。いわば自爆テロである。本物の自爆テロには、教義や政治や戦術などの面から肯定する論理が存在するかもしれない。しかし、捏造のやらせに肯定の論理はない。たとえ制作者にやらせを強いたり許したりする“構造”や“背景”があった場合でさえ、制作者は「捏造をしない」という選択・決定ができるからだ。

 演出とやらせの間にあるのは、深くて暗い川でも、検問のある国境線でもない。なだらかな丘に沿った、誘うような道が続くばかりだ。制作者なら誰でも、丘の“向こう側”に足を踏み入れることはたやすい。その目に見えない結界点に来てしまったとき、単に番組内容の問題ではなく、自分(たち)は、やらせによって何を得て、何を失うのか。そのことを、一瞬でもいいから立ち止って考えてみること。大事なのは立ち止まる“臆病さ”であり“畏れ”だ。制作者だけでなく放送に関わる全ての人が、「ものをつくること」「人に何かを伝えること」への“臆病さ”と“畏れ”を常に失わないことが、テレビというメディアを自壊させないための第一条件なのである。         

「新・調査情報」(2007年5月1日発売号)

ギャラクシー賞「報道活動部門」のこと

2008年05月08日 | メディアでのコメント・論評

2007年4月から2008年3月までに放送された番組を対象に選ばれる、第45回「ギャラクシー賞」の入賞作品が決定した。「ギャラクシー賞」を主催しているのは放送批評懇談会。放送の世界における賞には、他にも「芸術祭賞」「民放連賞」「ATP賞」などがあるが、放送批評や放送評論のプロたちが選ぶという点で独自の位置を占めている。

「ギャラクシー賞」にはいくつかの部門がある。「テレビ部門」「ラジオ部門」「CM部門」、そして最も新しいのが「報道活動部門」だ。「テレビ部門」や「ラジオ部門」は、あくまでも番組を”単位”として評価する。しかし、実際には報道番組やドキュメンタリー番組といった「1本の番組」という枠で絞ってしまうと、収容することができない「報道活動」が日々行われている。「報道活動部門」は、そこを評価するために設置された。現在、その選奨委員を務めさせていただいている。

ギャラクシー賞「報道活動部門」の今回の入賞作品は次の6本。

●STVニュース「北海道・ニセコ町の果実酒問題」をめぐる一連の報道(札幌テレビ)
●製紙各社の”エコ偽装”における一連の報道(TBS)
●地域回復をめざす報道活動 人情物語 向こう三軒両どなり(テレビ金沢)
●「どですか!」生き生きまいらいふ(名古屋テレビ)
●国の実態調査を実現させた「ネットカフェ難民」キャンペーン報道(日本テレビ)
●イチオシ!「徹底検証 政務調査費」(北海道テレビ)

来月3日に行われる贈賞式で、この中から「大賞」や「優秀賞」などが選出される。


そして、以下は、放送批評懇談会が発行している雑誌『GALAC ギャラク』の6月最新号に寄せた、「報道活動部門」についての文章だ。


  “報道マインド”にあふれた情報番組!

 ギャラクシー賞報道活動部門の面白さは、その間口の広さと柔軟性にある。まず番組という単位でくくっていない。コーナーでの報道やキャンペーン報道にも注目している。また、報道番組というジャンルにも縛られない。情報番組、ワイドショー、いやバラエティ番組の中での取り組みも審査対象だ。そういう目で見渡すと、身近なところで「報道活動」を発見できる。
 私は今年3月まで北海道千歳市にある大学に在籍していたが、おかげで6年にわたって道内の様々な自社制作番組、オリジナル番組に接することができた。その中の1本、北海道文化放送『のりゆきのトークDE北海道』を紹介したい。今年の秋15年目に突入するこの番組は、月曜から金曜の毎日午前10時55分~11時25分の90分生放送。司会は「北海道で知らない人はモグリ」といわれる佐藤のりゆきさん。その隣で番組を支えているのが水野悠希アナウンサーだ。主婦層を主なターゲットとした情報番組、もしくは情報ワイドといった内容で、番組の軸となるのが約50分の特集コーナーである。
 実は、この特集コーナーが侮れない。普段はグルメ、旅、生活情報などが紹介されるのだが、週に一度は報道系・時事問題系企画がガツン!と来るのだ。たとえば、昨年から今年にかけて放送されたものを一部ピックアップしてみよう。

<食の安全>
「ミンチ偽装事件 裏切られた食の信頼」
「白い恋人から見えた賞味期限のカラクリ」      
「北海道にも激震!続報中国製ギョーザ問題」
<年金>     
「届いたらどうするの?ねんきん特別便」
「ところで年金っていくらもらえるの!? 」
「年金破たん最悪のシナリオ」
<医療>             
「病院が変わる!? 統合医療って何!? 」
「気になるタミフルの影響」                        
「えっ!医療費ってまた上がるの?」
<政治・経済>
「参院選終わって、どうなる北海道・日本」 
「なぜだ?どうする?値上げドミノ!」
「ガソリン暫定税率廃止に賛成?反対?」

ざっと眺めても、いわゆる「報道番組」の特集に負けないラインナップだが、こうしたテーマをVTRと生のスタジオを組み合わせた50分という<長尺>で扱っているのだ。
 中でも印象に残っている1本は2月28日に放送された「サミットを知る男に聞く!?北海道民の素朴な疑問」で、スタジオには外務省の河野雅治審議官を招いていた。河野氏はサミットに出席する首相を背後でサポートする、いわばサミットのプロだ。「登山者の安全を確保しつつ山頂(サミット)まで導く」という意味から、河野氏のような役割は各国共通で「シェルパ」と呼ばれている。特に開催国のシェルパは議題から円卓会議の座り位置まで、サミットの全てに責任をもつ。
 番組では街頭インタビューでサミットに対する道民の「素朴な疑問」を収集。河野氏がそれに答えていた。話題は食事のメニュー、服装、同伴者、警備の費用から北海道への影響、さらにサミットの意義にまで及んだ。司会の佐藤のりゆきさんは「今後、中国やインドが参加する可能性は?」と問い、「過去のサミットで決議したことが、その後検証されていないのではないか」と揺さぶる。硬軟とり混ぜた巧みなインタビュー術が審議官の本音を引き出していった。もちろん平日午前の番組であるから、分かりやすさとユーモアも忘れない。結果、この日の『トーク』を見た人たちは、あの時点で「最も深くサミットを理解した日本人」だったと思う。
 こうした“報道マインド”にあふれた情報番組、情報ワイドは全国にあるはずだ。ぜひ報道活動部門への積極的参加をお願いしたい。                                  


信州 田植え紀行

2008年05月06日 | 日々雑感
この数日、信州にある<実家>2軒を回ってきた。それぞれの親の顔を見ること、こちらの顔を見せることが目的の第一。そして、大町にある家内の実家では、孫たちが「田植え」の手伝いをするのが恒例となっている。

母方の祖父母の家が農家だったため、私も子どものころは田植えや稲刈りをよく手伝った。特に田植えのときの、ふだんはあまり経験しない、あの泥の中に素足を入れる感触は今もしっかり記憶している。その年、初めて足を踏み入れた田んぼ。足の指と指の間に、にゅるっと浸入してくる泥も、しばらくは違和感があるが、そのうち、へんに気持ち良くなってくるのだった。

当時の作業は、まず「びく」と呼ばれる竹で編んだ小ぶりな籠に苗を入れ、腰にひもで縛りつける。その格好で田んぼに入り、親戚や近所の人たちと共に横一列に並んで、植え始めるのだ。大人たちは植えるのも速い。どんどん進んでいく。みるみる遅れながらも、こちらも必死で植えていく。ゴールとなる向こうの畦が、子どもたちには遥か彼方に思えた。それでも、数日がかりで何枚もの田んぼの田植えが終わると、ちょっと一人前になったような気がしたものだ。

そして現在。田植えは、ほとんど機械で行われる。家内の実家でも、もうだいぶ前に導入された田植え機「ISEKI 500DX」が活躍している。トラクターの後部に、苗のブロックみたいなものが5列セットされていて、田んぼの中を走行しながら次々と苗を植えていく。5列であるから、昔なら5人が並んで植える分を、一台で淡々と植えていくのだ。機械の中でも、植える「手」に当たる部分の動きは見事で、まるでロボットである。以前、人の手で行っていたころに1日がかりだった広さの田んぼも、田植え機なら3時間で済ませてしまう。こんなものを「普通の道具」にしてしまう技術力に、あらためて感心した。

で、人間である我が家の子どもたちが何をするかといえば、田植え機が植えられない「死角」の部分に苗を植えていくのだ。田植え機は田んぼの中を何往復かするが、畦の近くまで行ってはターンする。すると、「四角い部屋を丸く掃く」感じとなり、そこに余白が生まれる。機械が植え残した部分を、人間が手で植えていくわけだ。

こうして家内の実家がもつ何枚かの田んぼは、すべて田植えを終えた。昨日はややぐずついた天気だったが、今日はまったく雲のない晴天。苗が植えられたばかりの田んぼの水面に、北アルプスの山々が逆の姿で映っている。苗は急速に伸びるため、この美しい風景は期間限定の貴重なものなのだ。

その美しい田園風景の背後には、減反政策でしばられ、安い米価でいじめられる農家の現実がある。実際、一般的な農家が、米だけを作って生きていくのはほとんど無理というのが現状なのだ。生活していけなければ、当然後継者も生まれない。自分ちの代で農家は終わり、という家が集落全体で何軒もある。アルプスを逆に映す水田の風景も、いつまで見られるのか、わからない。

さて、田植えの手伝いのご褒美は、地元の女衆がやっている蕎麦屋さんだった。店の名前は『そば処 しみず』。清水という地区の農家が栽培した蕎麦粉を使って、清水の女性たちが打っている蕎麦を食べた。もりそば、かけそば、各650円。もりそばの大盛が800円で、それに山菜のかきあげ150円を追加した。そば本来のいい香りと、こしの強さ、素朴な味のつゆもよかった。

帰り道、近くの酒屋さんに寄って地酒探し。今日選んだのは『白馬錦 雪どけ吟醸』だ。720ml、1470円也。これまた蕎麦屋さんのある清水地区でとれた米で造られている。ラベルに刷り込まれた「安曇野契約栽培美山錦」の文字が嬉しい。入手した1本を大事に抱えて、信濃大町駅から新宿行きの「特急あずさ」に乗った。

『ルパン三世 カリオストロの城』と辻真先『ぼくたちのアニメ史』&『完全恋愛』

2008年05月02日 | 本・新聞・雑誌・活字
夜、何度目の放映か知らないが、日本テレビで『ルパン三世 カリオストロの城』をやっていた。さすが宮崎駿の劇場アニメ第1回監督作品。仕事をしながら、のつもりが、黄色のフィアット500(欲しい)とシトロエン2CVが疾走する冒頭から最後まで、ついついしっかり見てしまった。ラスト、銭形がクラリス(究極のヒロイン)に向かって言う「ルパンはとんでもないものを盗んでいきました」というセリフも歴史に残るよなあ。

ふと思いついて、今年2月に出た辻真先さんの『ぼくたちのアニメ史』を引っ張り出す。アニメ草創期から膨大な量の脚本を手がけてきた辻さん。視聴者としては、それこそ『鉄腕アトム』から『サザエさん』までお世話になってきたわけで、この小さな新書本の中には、数々のアニメのエピソードがぎっしり詰まっているのだ。

「アニメ史」だから、もちろん『ルパン三世 カリオストロの城』のことも出てくる。1979年、約30年前の公開当時のことだ。「動く、動く、走る、走る、飛ぶ! 最後に城の秘密が明かされた壮麗な画面に至るまで、ぼくは悔しいほど興奮した。これはエンタテインメントとしてのアニメの最高峰だと思った」とある。
しかし、注目すべきはその後の記述だ。この作品を、というかアニメをお子さまランチとしてしか扱わなかった映画会社の無理解もあって、『カリ城』はヒットしなかった。世評にも無視された。辻さんはいう。「伝説的作品となった現状しか知らないあなた、クラリスフリークのあなたにも、ぜひ覚えておいてほしい。ローマは一日にして成らなかったことを」。
どんなジャンルのどんな作品でも、評価が決まった後から、それを誉めそやすことは簡単だ。難しいのは、そのとき、その時代に、周囲に惑わされず、どれだけ正当な評価ができるか、なのだ。

ぼくたちのアニメ史 (岩波ジュニア新書 587)
辻 真先
岩波書店

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辻さんは脚本だけでなく、小説もたくさん書いている。近著に『完全恋愛』があるが、これは「牧 薩次」名義だ。あとがき部分で、ちゃんと辻さん自身が明かしている。完全犯罪ならぬ完全恋愛とは何なのか。以下は、雑誌に書いた書評だ。


牧 薩次『完全恋愛』(マガジンハウス)

 一気読み必死の「本格ミステリ」の登場だ。時代が異なる3つの殺人事件と時代を超えた恋愛が描かれる。著者は推理作家協会賞を受賞した、トリックの名手と呼ばれる人物。著者名はもう一つのペンネームだ。
 物語は敗戦を目前にした昭和20年、福島県の温泉地から始まる。主人公の本庄究は疎開してきた中学生。後に彼が高名な画家になることなど本人も知らなかったこの頃、進駐軍の大尉が殺害される。しかも使われた凶器は消滅していた。
 次の事件が起きたのは昭和43年。すでに究は柳楽糺という名で画壇の一角を占めている。福島の山奥にあったはずのナイフが、2300㌔離れた沖縄の西表島にいた少女の胸を突き刺さした。なぜ?どうやって?警察もお手上げだった。それから10年後、やはり福島の湖で男の水死体が見つかる。他殺が疑われたが、最も怪しいとされる人物には完全なアリバイがあった。事件当時、確かに東京にいたのだ。
 そして平成19年、一人の“名探偵”が登場し、全ての謎を解き明かそうとする。3つの事件の背後に存在し、多くの人間の運命を変えたのは、本庄究が生涯をかけて愛した一人の女性だった。

完全恋愛
牧 薩次
マガジンハウス

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『相棒ー劇場版ー』と『映画でわかる世界と日本』。

2008年05月01日 | 映画・ビデオ・映像
学生時代、渋谷に住んでいた。NHKの近くだった。毎年、5月1日の朝は、代々木公園から聞こえてくるスピーカーのシュプレヒコールとそれに呼応する多くの人の喚声、そして上空を旋回するヘリコプターのプロペラ音で目が覚めた。代々木公園に何万人もの人が集まり、「メーデー」が行われていたのだ。

最近の学生の中にはメーデーを知らない者も多い。メーデーは、いわば「労働者の祭典」。労働者が集団で社会に対する様々な主張、アピールを行う機会でもある。
労働組合の組織が分裂した後は、5月1日という「連休の真ん中」の”動員”を敬遠する人も増え、連合系のメーデーは4月28日や29日に行っている。今は5月1日の代々木公園も静かなはずだ。

地元の、大きくて、しかも割と品揃えのいい書店に出かけた。書評本のチェックだ。その後、同じ建物の中にあるシネマコンプレックスに寄った。すると、ちょうど映画『相棒ー劇場版ー』が始まる直前だった。しかも毎月1日は、お一人様1000円の日。つい、チケットを買ってしまった。テレビ版の『相棒』はほとんど見ないが、映画版は悪くない、いや、なかなかいい、という評判を聞いていたからだ。脚本も、以前仕事をお願いしたこともある(実現しなかったが)戸田山雅司さんだし・・。

で、見ました。見てきました。かなり疲れました。ちょっと風邪気味ってこともあったせいか、話の筋になかなか乗れなかったのだ。会員制WEBサイトのSNSに掲載された「処刑リスト」といった今どきの設定も「ふ~ん」という感じで、背後にある謎と呼ばれるものも「まあ、そうだよねえ」。乗れないコチラが悪いのか、乗せないアチラが悪いのか。マラソン大会の大規模ロケなど、よくがんばっていたけれど、全体としては「テレビのスペシャルでもいいじゃない?」というのが感想だ。1800円だともっと怒っていたはず。1000円でよかったかも。(戸田山さん、ゴメンネ)


本日入手した佐藤忠男さんの新刊『映画でわかる世界と日本』。その帯にいわく、
<映画とは、社会を映す「鏡」である>。そういう意味では、確かに『相棒ー劇場版ー』も鏡の一つだ。風邪を直してから、何が映し出されていたか、じっくり考えてみよう。

映画でわかる世界と日本
佐藤 忠男
キネマ旬報社

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