今日(19日)は朝7時から小一時間プールに行ったのと、夕方ちょっと近所に買い物に出た以外は、終日明日のイナルコの講義「同時代思想」の準備。2時間の講義に対して少なくとも10時間くらいはいつも準備にかけている。正直に言えば、本務校の講義にはこれほど時間をかけていない。講義内容から見て、どちらの方が自分の専門かといえば、当然イナルコの方で、それだけ話す内容に関しては蓄積された知識も広くかつ深いとは言えるが、まだまだ底の浅い理解にとどまっているところも多く、講義の準備および講義そのものが、その都度、そこで取り上げる哲学者たちについての自分自身の理解を深める機会ともなっており、本当にありがたいことだと常に思っている。
明日の講義では、時枝誠記を取り上げる。言うまでもなく、時枝はあくまで言語学者であって哲学者ではないが、その独自の言語過程説の持つ哲学的射程はとても遠くまでとどいており、西田の場所の論理に、特にそれが述語論理として展開されるところでは、著しく接近することは、夙に中村雄二郎が指摘しているところである。私は、その時枝と西田が出会う問題場面に、さらにフランスの言語学者リュシアン・テニエール(1893-1594)の構造統語論を導入することができると考えている。三者に共通するのは、述語中心的世界像であり、特に、動詞を事象の〈ことなり〉(この「こと」には、〈言・事・異〉の三重の意味を込めて私は使っている)の要に据えていることである。この三者の共通性を基礎づけているのが、私が自分の哲学的構想の中心概念としてこのブログでも繰り返し取り上げている〈受容可能性〉であると私は考えているが、この問題は、それだけで考究に値する大きなテーマなので、その展開については他日を期する。
明日の講義の受講者たちは、まさに日本語を学んでいる学生たちであるから、一方で、時枝文法によって、今までよく見えていなかった日本語の構造について目を覚まされる思いをするであろうし、他方で、あるところまで時枝理論に非常に近い理論を展開していたフランス人言語学者(フランスでも忘れられかけており、「孤高の統語論者」と紹介されてもいる)がいたということに意外の感を持つであろうし、さらには、両者の接点において、思いもかけぬ仕方で、彼らにとってすべてを飲み込んでしまう神秘的で畏怖すべき冥海のようにしか思われなかった西田の〈場所〉に新たな光が投じられるのを目の当たりにして、一驚することになるであろう(と、少なくとも私は切に期待しているが、そうは問屋が卸さないのが現実というものですよね。実際はどうであったか、明日の記事で報告します)。
今日は朝から講義の準備。午前中に、木曜日の二年生の近代史の方を先に済ませる。大日本帝国憲法発布から日清戦争までの政治史。午後は水曜日の一年生の日本文明。先週から中世に入った。先週は、鎌倉・室町を通じての新しい日本の社会の誕生について全般的な見通しを立てた。明後日の講義では、鎌倉時代の執権制度と歴史思想・鎌倉仏教について。私自身の関心からすれば、親鸞、道元、実朝、西行の話だけしたいところだが、まさかそうも行かない。講義の方は一応準備を終えることができたが、演習のほうがまだ。今晩中にやってしまわないと。明日は一日イナルコの講義の準備に充てたいから。
ピアノ曲を特に偏愛しているわけではないが、今住んでいるアパルトマンでは音量を上げて聴くわけにもいかず、装置もお粗末であり、音量を絞ってもそれなりに味わえる曲を選ぶことが自ずと多く、結果として器楽曲に偏り、その中ではピアノ独奏が圧倒的に多い。特に夜に聴くとなると、静かな曲想のものに限られる。これまで「私の好きな曲」で取り上げてきた曲を見てもそれは瞭然であろう。今日の一曲もまさに深夜音量を抑えて聴くのにふさわしい曲。ヴィルヘルム・ケンプの演奏は、穏やかで優しく慈しむような美しい音で紡がれており、何度繰り返して聴いても心に染み透るよう。精神の疲労をそっと和らげてくれる。アンヌ・ケフェレックの演奏はさらにテンポが遅く、メヌエットという舞曲にふさわしいとは言えないかもしれないが、アルバムの最後に収められており、何かそれまでの人生をゆっくりと回顧しつつ瞑想に耽るかのようだと言えばいいだろうか。ケフェレックも愛聴しているピアニストの一人でいずれまた取り上げることだろう。
ブラームスが1892年、59歳のとき作曲・発表したピアノ小品集。この小品集の後にさらにOp. 118『六つの小品』,Op. 119『四つの小品』とピアノ小品集が続く。いずれも名曲。Op. 117を作曲する直前にブラームスは遺書を書き、これまでに作曲した作品の整理を行っていたという。友人宛のある手紙の中で、この三曲を「わが苦悩の子守歌」と呼んでもいた。作曲家としてはすでに名声を極め、精妙な作曲技法を確立した晩年のこれらの作品には、過ぎ去りし日々を愛おしむときの限りない憂愁が、容易に推し量ることを許さない精神の深みを湛えつつ聴くものに迫る。私は第二曲にとりわけブラームスの決して成就することのなかった愛情生活の陰りを感じてしまう。それは心の奥底に封印された屈折したエロス的情感のロゴス的表現とでも呼べばいいだろうか。
手元には同曲を収めたCDが四枚ある。グレン・グールド、ラドゥ・ルプー、エレーヌ・グリモー、ニコラ・アンゲリッシュ。それぞれに異なったタイプの名演なので、その時の気分でいずれかを選ぶ。最近はアンゲリッシュを聴くことが多い。何度聴いても聴き疲れしないから。アンゲリッシュは、1970年アメリカ生れだが、13歳の時にパリのコンセルヴァトワールに入学、以来フランスを拠点に活動しているようで、てっきりフランス人だと思っていた。FM放送ラジオ・クラシックで彼の同曲の演奏が流れたのを偶々聴き、それがとても良かったのですぐにCDを購入した。4,5年前のことだろうか。
ショパンの墓は、パリ20区のペール・ラシェーズ墓地にある。最近は訪れることもなくなったが、以前比較的近くに住んでいた時には、天気の良い日曜の午後などに散歩がてらアパルトマンから墓地まで歩いて行った。この墓地は、著名な詩人、作家、歌手、作曲家、政治家、歴史家、哲学者などが多数眠っていることで有名だが、ショパンの墓は一際目立つ。いつも新しく供えられた多数の綺麗な花束で覆われているからだ。それだけショパンの音楽が人々から深く愛されているということだろう。祖国ポーランドへの望郷の念を強く懐きながら、1849年パリで39歳の生涯を閉じたショパンの遺言に従って、彼の心臓は葬儀の前に取り出され、後日祖国へと持ち帰られた。
マズルカは、ショパンの祖国の民族舞曲。その語源は、マズルカ発祥の地である風光明媚なマゾヴィア地方に由来するという。ショパン作品の全カテゴリー中、曲数が最も多く、そのほとんどは、演奏時間が5分以内の小規模なものだが、曲想は非常にバラエティーに富んでいる。まるで日記を綴るように、気軽に譜面に書き留めた結果出来上がったものが多く、作曲時のショパンの心境が率直に現れているとも言われている。
今日の記事のタイトルに挙げた曲だけが特に好きだというわけではない。マズルカを聴くときは、アシュケナージの演奏でまとめて聴くことが多い。作品50の3を特に挙げたのは、レオン・フライシャーのアルバム『Two Hands』(2004)に収録されているから。フライシャーは、十代から天才ピアニストとして活躍していたが、神経障害ジストニアのため右手が使えなくなり、1965年、37歳の若さで第一線から退くことを余儀なくされる。以後は左手のピアニストとして、あるいは指揮者、教育者としての活動を行ってきたが、最新医学による治療のおかげで、35年以上のブランクを経て再び両手による演奏が可能となり、このアルバムが生まれた。最初の二曲はバッハ。第一曲目「主よ、人の望みの喜びよ」では、再び両手で弾けるようになった喜びをかみしめつつ、神に感謝を捧げるかのよう。第二曲目「羊は安からに草をはみ」は、曲名の与えるイメージが、たとえそれを知らなかったとしても自ずと浮かんでくるような穏やかな愉悦性に満たされた演奏。その後、スカルラッティ一曲、ショパン二曲、ドビュッシー「月の光」と続き、最後がシューベルトのピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960。これは滋味溢れる名演だと思う。
ストラスブールに住み始めて2年経ち、大学で教えるようになった1998年に、中古だが車を購入した。生まれて初めてのマイ・カーである。三年落ちのゴルフⅢ。よく走ってくれた。手放すまでの七年間余り、走行距離12万キロ以上。週末は必ずと言っていいほどドライブに出た。ストラスブールにいる間は、ドイツ側を走らせることが多かった。フライブルクまで小一時間、バーデン・バーデン(日本の温泉が恋しくなるとよく行ったものだ)まで40分、シュトットガルトまで1時間半、ハイデルベルクまでも同じくらい。アウトバーンはよく整備され、4車線区間は速度無制限。ゴルフの限界はどの辺りかと、アクセルを底まで踏み込みっぱなしにしてみたが、190キロが限界だった。その脇をBMW、メルセデス・ベンツ、アウディ、ポルシェが風のように追い越していく。
ある冬の日曜日、前日まで降り続いていた雪が止んで、気持ちのよい青空が広がった。昼過ぎからふとドライブに出ることにした。そのころ、日帰りドライブといえば、あらかじめ行く先を決めないで、まずハンドルを握り、少し車を走らせているうちに、浮かんでくる地名や風景で行く先を決める。家族の意見も聞くには聞くが、だいたい私が決める。その時は、車を止めて地図を見るとチュービンゲンはストラスブールから東に直線距離で100キロほどだとわかり、行く先決定。アウトバーンを使うと一旦北上してから東に折れ、更に南下することになり、走行距離としては180キロくらい、2時間弱かかる。行きは、ドイツの田舎の風景が見たくて、一般道を使って最短距離で行ってみることにした。一面雪景色。陽光が煌めくように反射して眩しい。道路はすっかり除雪してあり快適。2時間ほどで到着。ヘーゲル、シェリング、ヘルダーリンなどが神学校生として青春期を過ごした街。それぞれ哲学者の名が冠された建物が並ぶチュービンゲン大学のキャッパスを足早に見学し、晩年精神に異常をきたしたヘルダーリンが幽閉されたかのように過ごした塔(現在は「ヘルダーリン塔」として知られている)を見た後、中心街を少しぶらついていると、近くの教会から合唱曲が聞こえてきた。引き寄せられるように中に入ると、おそらくクリスマスのミサの準備であろう、合唱隊の練習中だった。その時聴いた曲がモーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だったわけではない。だが、今、その時の情景を思い出し、そこに音楽を流すとすれば、それはどうしてもこの曲でなくてはならないような気がするのである。
この記事を書きながら聴いているのは、ミッシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルの演奏。
今日(木曜日14日)はいつもの自分の授業の前に、別の授業の課題として翻訳という仕事についてレポートを書く準備をしている学生たち三人からの質問に40分間ほど答え、授業の後には、修士二年生のインターシップ・レポートの口頭試問が二つ。その一人は学部一年から知っている学生で、よく勉強するし、とにかくクラスの雰囲気を明るくしてくれる学生だった。もう一人は学部をグルノーブル大学で修了して修士から入ってきた学生。学部の最後の一年は京大に留学していたので、日本語も最初からよくできた。授業態度も模範的だった二人がこうして修士課程を優秀な成績で終えたことを嬉しく思う。彼女たちがその能力に見合った仕事を見つけることを心から願わずにいられない。
今日の記事のタイトルに掲げた曲を初めて聴いたのは今から25年以上前のこと。まだ東京に住んでいる時だった。日頃からいろいろとお世話になっている方が、高級オーディオ機器でいろいろな音楽を聴かせてくれるサロンにある日連れて行ってくださったことがあった。そこで、この2月に亡くなられたマリー=クレール・アランのオルガン演奏でこの曲を聴いた。前奏曲の緩やかなテーマの序奏を聴いただけで、私ばかりでなく、その場にいた人たち皆がそのメロディーに吸い込まれるように、曲に聴き入った。なぜだろう、初めて聴く曲なのに、心に沁み入るというだけではなく、懐かしく感じるのは。そんなことを感じていると、フーガに入り、バッハのような構築性はないものの、重厚な音の建築を通過すると、あたかも水中を下降するような音形を経て、最初のメロディーに戻る。その間わずか数分である。にもかかわらず、その再び到来した同じメロディーに限りない懐かしさを感じる。ああ、また戻って来てくれたのだね。それはまったく予期していなかった最愛の人との再会に似ていた。その時の感動を忘れることができない。そんなに気に入ったのならプレゼントしようと、その方はそのアルバムをその場で購入して私にくださった。以来、全部で10分程度のこの曲をいったい何度聴いたことであろう。フランスに来てからしばらくは音楽を聴くまともな装置さえなかったし、今も安物の機械しかないが、それでもある時ふとどうしてもこの曲が聴きたくなり、同じ演奏をCDで探したが、見つからなかった。数年前、アンドレ・イゾワールの演奏の同曲を見つけ、それを繰り返し聴いた。その後、この原曲のハロルド・バウワーによるピアノ編曲版があることを知り、いくつかの演奏を聴いてみたが、私にはセルジオ・フィオレンティーノの演奏が一番心の深いところまで響く。今その演奏を聴きながらこの記事を書いている。このピアノ演奏を聴くたびに、精神の故郷ということを想う。他方、その最愛の人に、この曲を聴きながら、この曲をメイン・テーマとした映画の構想について自分のアイデアを話したことがあったことを思い出した。それくらいこの曲を聴いていると具体的なイメージが湧いてくる。愛聴してやまないフィオレンティーノの諸演奏については、またあらためて書きたいと思う。
今日(13日水曜日)は、イナルコの「同時代思想」の講義の日。出席者数は15名。この辺りの数値で安定してきたようで、去年の平均出席者数に比べればほぼ倍増。そのうち三分のニは本当に熱心にノートを手書きで取るか、パソコンで入力している。今日のテーマは三木清。これまでの7回の講義の中で学生たちの集中度は今日が一番高かった。
まずは簡単な伝記的紹介から。他の哲学者たちの場合は、みんな大学人としての公生涯であったから、細かい話には入らずにさっと10分ほどで済ませるのだが、三木の生涯はその点例外的であり、しかもその悲劇的な獄中死のこともあるので、いつもの倍の時間をかけ、昭和研究会のことも含めて彼の政治的行動にも言及した。それに引き続き、三木が23歳のときに『哲学研究』に発表した最初のエッセイ「個性について」の中に三木の哲学の初発の指向性を確認してから、『パスカルにおける人間の研究』「人間学のマルクス的形態」を経て『歴史哲学』に至る思想の展開を、個人の行為の社会的実現の契機について三木の思想がどう深まっていくかという点に絞って辿った上で、『構想力の論理』の「序」に示されたその全体構想を分析的に詳しく説明していった。予定では、その後にいくつかのテキストの抜粋を読みたかったのだが、『構想力の論理』の解説のところで、いくつかいい質問が出て、それに答えるために時間をとり、私自身説明しながら閃いた考えを述べたこともあり、まったくテキストを読む時間はなかった。以下に掲載するのが、『構想力の論理』序の図式的分析表である。学生たちはこの一枚を見ながら私の解説を聴き、それをノートしていった。
問題1 客観的なものと主観的なもの、合理的なものと非合理的なもの、知的なものと感情的なものをいかにして結合しうるか。
解決の方法 ロゴスとパトスとの統一の問題として定式化し、すべての歴史的なものにおいて ロゴス的要素とパトス的要素とを分析し、その弁証法的統一を論ずる。
問題2 その統一は具体的にはどこに見出されるのか。
解答 「技術」という客観的な合理的なものが主観的なものと客観的なものとの統一である。
展開1 構想力の論理は「形の論理」である。
説明 構想力の論理という主観的な表現は、形の論理という客観的な表現を見出す。
展開2 構想力の論理は「制作の論理」である。
説明 すべての行為は広い意味においてものを作るという、即ち制作の意味を有している。
展開3 構想力の論理は歴史的な形の論理である。
説明 一切の作られたものは形を具えている。行為するとはものに働き掛けてものの形を変じて新しい形を作ることである。形は作られたものとして歴史的なものであり、歴史的に変じてゆくものである。形は単に客観的なものでなく、客観的なものと主観的なものとの統一であり、イデーと実在との、存在と生成との、時間と空間との統一である。
展開4 構想力の論理は形と形の変化の論理である。
説明 作ることが同時に成ることの意味を有するのでなければ歴史は考えられない。制作が同時に生成の意味を有するところに歴史は考えられる。
展開5 構想力の論理は行為的直観の立場に立つ。
説明 真の直観とは、無限の過去を掻き集めて未来へ躍入する現在の一点である。
展開6 人間のあらゆる行為は、すべて技術的である。
説明 技術の根本理念は形である。技術は人類の文化と共に古く且つ普遍的である。近代科学も技術的要求から生れた。
展開7 構想力の論理は科学の論理に媒介されることによって現実的な論理に発展し得る。
展開8 形の論理は文化の普遍的な論理であるのみでなく、それは自然と文化、自然の歴史と人間の歴史とを結び附けるものである。
説明 自然も技術的であり、自然も形を作る。人間の技術は自然の作品を継続する。構想力の論理は両者を形の変化の見地において統一的に把握することを可能にする。
心が本当に疲弊し、打ちひしがれているときは、なかなか音楽も聴けない。何か聴こうと思ってCDを掛けても、耳が受けつけず、すぐに止めてしまう。付き纏って離れない暗澹とした思いが心を覆い尽くし、音が心まで届かない。何か遥か彼方で自分とは無関係な世界で音が鳴っているだけのように聞こえてしまう。音楽療法というものがあるが、今の私にはとても効力を持ちそうにない。
そんな精神状態の中でも心に触れてくる数少ない曲がある。その一つがここ数日繰り返し聴いているビゼーのピアノ曲集『ラインの歌』である。歌劇で有名なこの作曲家は、リストにも賞賛された当代有数のピアノの名手でもあったが、歌劇作者としての名声を築くために、ピアニストとしてのキャリアは放棄した。「無言歌」と作曲者自身によって副題された六つの小品からなるこの曲集は、ビゼーが1862年にドイツのバーデンで知り合ったフランス人詩人ジョセフ・メリーの詩作品にインスピレーションを得ており、各曲にはその作品から取られた題 ― « L’aurore » « Le Départ » « Les Rêves » « La Bohémienne » « Les confidences » « Le retour » (「暁」「出発」「夢」「ジプシーの女」「打ち明け話」「帰還」)―が付けられていて、それが一つの旅路とそこでの出逢いを喚起する。
演奏は、日本でも人気のあるフランス人ピアニスト、Jean-Marc Luisada(ジャン・マルク・ルイサダ)。一音一音慈しむような叙情性豊かな秀演。第2曲目がこちらで聴ける。同じアルバムの後半に収録されたフォーレの夜想曲も名曲であり、演奏も大変優れているが、それについてはまたいつか機会が巡ってくれば書くだろう。
今日(11日月曜日)は、国民の祝日「休戦記念日」。1918年の第一次世界大戦休戦協定締結日を記念する祝日。三連休でどこかに出かけた人も多いのだろう、周りはひっそりとしている。今日は朝から晴れている。気温は朝方2度まで下がり、日中も10度前後までしか上がらなかった。今日も一日講義の準備。準備そのものは予定通りに捗るが、こんなことの繰り返しに一体何の意味があるのかという虚しい気持ちをやっとのことで押し殺しながらの作業。昨日四日振りにプールに行った。連休の中日に当たっていたわけだが、かなり混んでいた。2000メートル泳ぐのに1時間以上かかった。今日もプールに行ったが、昨日以上の混み具合で、とてもまともには泳げなかった。1時間15分で1600メートルくらいだったろうか。途中で数えるのをやめてしまった。待ち時間の方が長かったくらい。
外を歩くとき、漫然と歩くということは私にはむずかしく、ほとんどいつも考え事をしながら歩く。そうすると、どうしても俯きがちになる。何か発表の準備中や原稿執筆中は、そうなるのもやむを得ないとも思う。しかし、今のような精神状態では、どうせ碌なことは考えられず、俯いた姿勢はさらに気持ちを内向させるだけで、悪循環に陥る。これではいけないと、背筋を伸ばし、眼差しとともに視界を一挙に青空に振り上げる。
人の気配のまったくない深い森の中の静まりかえった小さな湖の冷たい水の中を一人沈んでいくかのような絶望感に囚われている。そこから藻掻き抜け出そうという意志さえ持てない。助けを求めて叫んだところで、誰にも聞こえない。そもそも他人には助けようのない状態だ。そんな精神状態の中でも、昨日は職業上の義務から終日家で仕事をしていた。今日も一日講義の準備をしていた。だから、傍目にはただ坦々と寂しい日々の暮らしを送っているだけのように見えることだろう。いや、実際その通りなのだ。一昨日までシンポジウムやその後の会食で一緒だった人たちには、またそれとは違った印象を与えたかもしれない。そこでは快活にしゃべりもしたから。しかし、それら表面上の現れとは関わりなしに、私個人の絶望感と孤独感は深まるばかりだ。どこが底なのかもわからない。底はないのかもしれない。為す術もなく、ただ下降するにまかせながら、一日一日、意識の探照灯の明滅する微かな光を唯一の頼りとして、心の観測日誌を細々と書き付けている。