昨日までの疲れもあり、今日は終日家居。外は雨。ここ数日は雨雲がずっと空を覆い、断続的に雨。アパルトマンには西向き大きな窓があるにも関わらず、昼から電気を点けないと読書できないほど空は暗い。まだひどい冷え込みはないが、日中の最高気温は10度前後。目覚めもすっきりせず、気分もひどく沈み込んでしまっている。プールもこれで四日連続休んだことになる。朝から夕方までずっと採点作業。だんだんペースは上がってきて、もう先は見えてきた。しかし、こんなことに多くの時間を割かなくてはならないことに、それが職業的義務だとわかっていながら、何度も溜息をついてしまう。情けない気持ちがこみ上げてくるのをどうしようもない。今、雨音に混じって、ヴァル・ド・グラース教会の鐘の音が聞こえてきた、一日の終わりを告げるかのように。現在午後5時半だが、遠くの西空の下方に帯のように広がる微かな光を残して、外はもう闇に包まれようとしている。
シンポジウムのプログラムをすべて終えた後、親しい人たち3人と会食をして、今さっき帰宅したところ。楽しい会食であった。とにかくシンポジウムは無事終わってよかった。シンポジウム主催者たちの初発の意志が見事に結実したかたちで最後のシンポジウムを終えることができたという意味ではとてもよかったのではないかと思う。彼らのこれからのますますの活躍を心から期待するし、きっと大きな仕事をしていくことだろう。しかし、私個人としては、今日はその理由については記す余裕はないが、深いところで自分の限界を痛切に感じ、絶望にも近い気持ちでいる。しかし、だから投げやりになっているのではない。むしろ逆である。これからもささやかながら、坦々と仕事はしていくことだろう。だが、それはそこから何かが生れるということを期待するということ一切なしにである。私は私に考えられることを可能なかぎり明晰に表現するしかない。ただそれだけである。
本当に情けない話なのだが、今日(7日)午前中は、万聖節休暇前に行った試験の採点に費やさざるを得ず、シンポジウムの参加は午後からだった。三つの発表を聴いたが、最初の発表は特にいろいろな示唆に富んでいて、後日記事にしたいと思いっているが、今日はその余裕がない。一言でそこでの問題を言うとすれば、「模倣の創造性」ということになるだろうか。発表の後、懇親会。これが本当に楽しかった。シンポジウム主催者たちの実際的な配慮ということがもちろんあるわけだが、それよりも彼らの人柄がこのような7年にも及ぶ研究活動の継続と実質的な成果をもたらしていることがよくわかった。このように生産的でかつ友情に結ばれた国際的な研究活動が今後ますます発展していくことを願うばかりである。私のようにつまらない人間にもそのような活動に参加する機会を与えられたことを心から感謝している。その感謝の気持ちを主催者に示すためにも、これから明日の発表の最後の準備にかかる。
プレ・プログラムを含めれば、すでに昨晩(5日夜)から、「ベルクソン国際シンポジウム」がパリ国際大学都市の日本館で始まった。当初の予定では Écoles normale supérieure rue d’Ulm が会場だったのだが、シンポジウムに適した部屋がちょうど改修中ということで急遽変更になったと主催者側から説明があった。主催者も残念がっていたが、致し方のないことではある。今日(6日)は、午前午後にそれぞれ三つの発表が予定されていたが、トップバッターが急遽入院手術ということで欠席となり、午前中は二つだけだった。私にはどちらも、こちらの準備不足ということもあり、今ひとつよく理解できなかったし、結論には納得しがたいところもあった。私は午後イナルコの講義をいつも通り行うので、午前の部の終わりで他の参加者たちに暇乞いをして辞去した。講義は午後5時半からだから、先週までは午後の発表もぎりぎりまで聴くつもりでいたのだが、その肝心の講義の準備が捗らず、午後をその仕上げに充てなくてはならなくなり、やむなく諦めたという次第。
そのイナルコの今日の講義は和辻哲郎の倫理学がテーマで、内容からしても、原文の日本語の難易度からしても、比較的扱いやすいテーマだし、今年で4年連続取り上げていることになるので、資料も揃っており、準備も簡単に済むと高を括っていたのが間違いだった。新たな参考文献を読んでいると、そこから付け加えるべきこともいろいろ出て来て、それらを整理するのにすっかり時間がかかってしまった。しかし、学生側からすれば、西田や田辺に比べれば、やはり近づきやすい哲学者であるには違いない。九鬼周造も、エッセイは読みやすいし、『「いき」の構造』も原文は決してとっつきやすいとは言えないけれど、タイプの違う二つの仏訳があって、そこまでならば扱いやすいと言えるけれど、主著の『偶然性の問題』は、たとえ澤瀉久敬の仏訳で読んだとしても、相当に手強いだろう。だから、九鬼と比べても和辻は扱いやすい。それに、オーギュスタン・ベルクによる『風土』の仏訳があるので、その中から倫理学的要素に触れているところを引用できるという点でも都合がいい。ただ、やはりあの記念碑的大著である『倫理学』について、もっと本格的に取り上げるのが、和辻哲郎の紹介としては本筋だろう。それは来年以降を期したい。
今日の講義では、その日本語の流麗さ、美学的直観の鋭さ、文学的センス等の故に、和辻の著作には広く一般読者に受け入れられたものも多いという点で、西田や田辺とは違い、哲学者・倫理学者としてばかりでなく、文化史家・思想史家としても大きな仕事を残したという点で稀有の思想家だということを前置きとして述べ、文芸創作者を夢見ていた若き日、漱石の思い出、ケーベルへの敬愛、『古寺巡礼』、特にその初版に見られる初々しく鮮烈な表現、留学時のエピソード、渡航の船旅の途上で見た中国、インド、アラビア、エジプト、そして地中海などの気候・風光が残した強烈な印象等に触れた後、『風土』の第一章の原文抜粋とその仏訳を読み比べながら、そこから読み取れる和辻倫理学のいくつかの重要なポイントを確認したところで残り時間10分となり、予定としてはその後『人間の学としての倫理学』の原文からの抜粋を、一文一文読んで訳をつけ、コメントを加えながら、和辻倫理学の基本構造を粗略な仕方ながら描き出すつもりであったがそれは諦め、その代わりに、これまで取り上げた四人の哲学者、西田、田辺、九鬼、和辻に一つの共通する問題である〈個〉の位置づけについて図式的に系譜づけをし、これからの講義内容への一つのガイドラインを示して講義を終え、さっき帰ってきたところ。
今晩は、夕食を済ませた後、明後日の発表のために小林論文の仏訳代読と自分の発表のためのパワーポイントづくりで深夜までかかることだろう。
1943年、スピノザについての論文を書いて21歳で学業を終えるとすぐに、アンリは、レジスタンス活動に身を投ずる。アンリの一歳半年上の兄は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に組織された最初期のレジスタンス運動からすでに活動に参加していた。このレジスタンス活動を通じてアンリに啓示された思想について語っているくだりは、当時の経験が後の彼の生命の思想にとって決定的に重要な原初的な確信をあたえたことを示しているだけではなく、その経験がラヴェルの戦争時の経験と思想的に重なり合う部分を持っていることをもまたよく示している(と同時に、両者の哲学の志向性の違いもまたそこに見て取ることができるのだが、今回はこちらの問題には触れない)。
レジスタンス活動の経験は、確かに、私の生命の思想に深い影響を及ぼしました。非合法活動は、私に日常的にかつ鋭く身分隠蔽という事実を実感させました。この全活動期間を通じて、自分が考えていること、そしてさらには自分が行っていることを隠さなくてはなりませんでした。この恒常的な欺瞞のお陰で、真の生命の本質が、つまりそれは目に見えないということが、私に顕にされたのです。最悪の時期、世界が残虐な姿を見せていたとき、私は、この生命の本質を、守るべきかつ私を守ってくれる秘密として、我が身のうちに痛感したのです。世界の顕現よりも深くかつ古い顕現が私たち人間の条件を決定していたのです。この人間を「政治的動物」と定義することはもはや不可能でした。
それは、「政治的・イデオロギー的」次元というものについての私の理解もまたこれら出来事に拠っていたということです。ある意味で、これらの出来事は、歴史を舞台の最前面に押し出しますが、しかし、それは、私たちの生活・飢え・恐怖・生死が、各瞬間、歴史の動きに依存していたというかぎりにおいてです。ところが、それと同時に、社会という神話 ― 各々が自己実現をそこで見出すとされた古代ギリシアの都市国家という神話 ―、これもまた修復不可能な打撃を受けていました。この光に満ちた空間、そこに私たちすべてが居り、私たちの本当の住処となるはずの、私たちがもはやそこから想像された天上界へと逃げる必要のないこの空間が、武器の暴力・密告・闇市・拷問・多くの人たちにとって惨たらしい死・すべての人たちにとって恐怖の空間だったのです。救いといえば、夫婦あるいは家族にまで縮小された一つの共同態の中に密やかに辛うじて保たれていました。その共同態の広がりはせいぜいのところ非合法活動グループどまりでしたが、それでさえすでに人が多すぎたのです。というのも、常にスパイ潜入と裏切りに脅かされていたからです。その時すでに、私は、個人の救いは世界から個人へやってくることはありえない、ということを理解したのです(Entretiens, op. cit., p. 13-14)。
ラヴェルの第一次世界大戦時の最前線での戦闘体験および捕虜収容所体験と、アンリの第二次世界大戦時のレジスタンス活動経験とを引き合いに出したからといって、彼らが経験したような極限状況に置かれなければ、私たち人間に真の生命の本質はわからないなどと主張したいのではもちろんない。ただ、一度得られた後は生涯揺らぐことがなかった彼らの初元の確信がどのような情況下で彼らにもたらされたのか、彼ら自身がそれについて語る言葉に耳を傾けることによって、その生き方そのものが生きた哲学であるようなこれら稀有な魂の軌跡における哲学の始まりの在処に立ち戻ってみたかっただけである。
私は、彼らの著書を紐解き、そこに彼らの精神の肉声を聴き取ろうと努め、その生き方を遠くから仰ぎ見ているに過ぎない。覚束ない日々を呻きながら這いずり回っているだけの肉体を持て余し、ほとんど絶望しかけており、それでも為す術なく、その肉体を引きずりながら、あてどなく荒野を彷徨っているだけであるかのようなこの私の弱り疲れた魂の裡にも、真の哲学的思索の炎が、たとえ細々と揺らめくだけであったとしても、点ることがあるだろうか。
一昨日の記事でも触れたように、ルイ・ラヴェルを読みながら想い起こした二人のフランス人哲学者のうちの一人がミッシェル・アンリだった。これは両者の思想の間に親和性を認めているからだが、今回はそのような哲学的な議論には入らず、用語とそこに込められた思想ついて見られる両者の一致点と戦争体験が彼らに与えた確信に見られる共通点を、今日と明日の二回に分けて記事としたい。
ラヴェルからはラジオ対談を引用したが、アンリからは彼が求めに応じて自らを若干自伝的に語ったインタヴューを引用する。このインタヴューは、1996年9月に Cerisy-la-Salle で一週間に渡って開催されたアンリの哲学そのものを主題とした一大シンポジウムの期間中に参加者の前で行われたことが、インタビュアーの発言からわかる。同シンポジウムでの多数の発表原稿からなる論文集 Michel Henry, L’épreuve de la vie, Paris, Cerf, 2001 の巻末にこのインタヴューは収録され、後に Michel Henry, Entretiens, Cabris, Sulliver, 2005 の巻頭にも再録されている。
アンリは、このインタヴューの冒頭で、アンリの幼少期についての伝記的な質問から始めようとしたインタビュアーに対して、いきなり聞き手を困惑させるような「哲学的見解」を提示する。
この対談を始めるにあたって一つ哲学的見解を申し上げることをお許しください。私が申し上げたいのは、「伝記」という考えそのものを前にして私がどれほど乏しいものしか持っていないと感じているかということです。真の〈自己〉、つまり私たちそれぞれの自己は、この世界に属してはいない自己であり、あらゆる客観的あるいは経験的な限定とは無縁であると考えている者(である私)には、この種の伝記的事項からそのような〈自己〉へと至ろうとする試みは、疑わしいと思われるのです。一人の人間の歴史、その人を取り巻く環境、それらは、その人自身と他者たちが一致してその人の顔に被せようとする、多かれ少なかれ美化された仮面以外の何物でしょうか。あなたは私が遠い国で生まれたと見なします(訳者注:アンリは、海軍指揮官であった父親の任地、現在のベトナムのハイフォン市で1922年に生まれる)。それは人が私に言っていることです。しかし、この私の〈生国〉は「インドや中国よりも遠い」ところにあるのではないでしょうか。私にとって、私は生命の中に生まれた [je suis né dans la vie] のであって、誰もまだその源をどこかの大陸上に見つけたことはないのです。私は父を知ることはありませんでした(訳者注:アンリの父は、アンリの生後10日目、自動車事故で死亡)― しかし、それこそはすべての生き物の条件ではないでしょうか。母が後に私にその人のことを語ってくれましたが、その人は遠洋航海の船長だったとのことで、私にはその人はコンラッドやクローデルの作中人物のように見えるのです。実のところ、私は父について何も知りません。では、私は、その地で幼少期を過ごした子供(である自分)についてはそれ以上のことを知っているのでしょうか。私たちは永遠の現在・現在する永遠に生きているのであり、そこを立ち去ることは決してないのです [Nous vivons dans un éternel présent que nous ne quittons jamais.]。この永遠の現在・現在する永遠の外にあるものとは、私たちは一つの深淵によって隔てられているのです。しかもそれは、時間が完全に非現実的な環界milieu だからなのです。この点で、私は、マイスター・エックハルトの次のような考えに共感を覚えます。「昨日の出来事は一万年前の出来事と等しく私から疎遠である」(Entretiens, op. cit., p. 11-12)。
アンリはもちろん真剣にこう述べているのであって、詭弁を弄してインタビュアーを煙に巻こうなどという意図は欠片もないことは拙訳からでも感じ取れるであろう。自分について自伝的に語ることの拒否とも受け取れるこの「哲学的見解」をインタヴュー開始早々突きつけられながら、インタビュアーは、しかし、会場にあなたの話を直に聴こうと集まっている聴衆のためにだけでも、と喰い下がり、アンリからいくらかの「回顧談」を引き出すことに成功している。
このアンリの発言の中に出てくる「永遠の現在・現在する永遠 éternel présent 」という言葉は、ラヴェルの主著の書名 La dialectique de l’éternel présent と表現の上で一致するというだけではなく、この言葉に込められた思想の上でも重なり合うことは、一昨日のラヴェルの発言と比べれはよくわかるであろう。
冒頭のこの「哲学的見解」の後、7歳でフランスに帰国した後の家庭内における芸術の、とりわけ音楽の占める位置の大きさと彼の思想との関係についての質問に答える中で、結婚前にピアニストであった母親が自分のために家でよくピアノを弾いてくれたこと、その時の感動が自分を母親に強く結びつけていることが語られる。絵画を音楽から、つまり表象世界とは独立に理解するというカンディンスキーの卓抜な考えが特に自分を惹きつけたのも、おそらくはこの幸福な音楽体験と関係があるだろうと言う。
昨日紹介したラヴェルの対談の続きを読んでいこう。
戦闘経験、常に差し迫った死の経験、家庭的・社会的な諸々の習慣とのすべての関係からの切断、捕囚による一切の所有物の放棄という例外的な状態、これらはすべて、特異な仕方で、私において、そして私ばかりでなく同世代の多くの人たちおいてもそうだったと私は思いますが、自己への内的な注意を促しました。それは、内向している自己意識の裡に、他の一切の支えと独立に、意識にとって十分な栄養源を見出すためです。私は長いこと私たちの生そのものを成すこの経験について思いをめぐらしました。私たちが絶えずそれと交流している一つの全体、絶えずそれに与え、絶えずそれから与えられる全体の部分を成しているという経験についてです。この交流は、まず、あらゆる感覚の質によって表現されます。それらは互いにとても異なっており、とても現実性を帯びており、とても微妙で、とても熱くもあります。それらは色・音・匂い・味・触感であり、それらそれぞれが私たちに、情感的な共鳴の中で、事物の最も密やかな本質を開示してくれます。この交流は、それだけでもうあたかも一つの芸術の始まりのようです。捕囚の孤独の中で ― と言っても集団生活の雑居状態によって外面的には常に乱されていたこの孤独はまったく目には見えないものでしたが ― 、私は収容所の食堂で買った小さな手帳に、毎日、一切の抹消箇所なしに、私が完全に自分のものにできた時にしか文を書き付けまいと注意を払いながら、一冊の本を書き上げたのです。それが La dialectique du monde sensible [感覚世界の弁証法]と題された本で、そういうわけですから、一切の資料・参考文献もなしにできた本なのですが、ところが、ちょっと逆説的なことに、私がフランスへ帰還した後に、これが私の博士論文になるのです。帰還の際、それらの手帳が国境で没収されることを恐れて、私は自分で持ち帰る気には到底なれませんでした。そこで、収容所で知り合い、全面的に信頼していたドイツ人兵士 ― 彼は大学生でした ― に手帳をすべて託し、後年ストラスブールで哲学教授になったとき、フランクフルトまでその元兵士に会いに行き、手帳を返してもらいましたが、手帳はまったく託した時の状態ままで丁寧に保管されていました。こうしてこの著作は、一言の修正もなしにそのまま出版されたのです(同書146-147頁)。
この後、博士論文副論文(当時は博士号取得のために主論文と副論文の二つの提出が義務づけられていた)のことに話が移る。この論文は、1870年からのドイツ占領中(これはフランス側からの言い方で、ドイツ人からすればアルザス・ロレーヌ地方がドイツ領だった期間)には廃止されていて、第一次世界大戦後に復活させられた高校の哲学教授のポストにラヴェルがついている間に執筆されたもので、La perception visuelle de la profondeur [奥行きの視知覚]と題されている(原文はこちらのサイトからダウンロードできる)。この副論文についてラヴェルは次のように語る。
私はかねてから、世界について私たちがもつ表象がまずもって視覚表象であるという事実に驚かされてきました。視覚が世界を私たちに対して光景としています。ところが、視覚は、諸事物を私たちから距離があり、離れたものとして、しかし私たちと関係あるものとして私たちに見せるのです。このようなことが可能なのは、古典的な理論が主張するように、視覚がただ事物の表面だけを与えるだけでなく、私たちの前に開かれる間隔をもまた与え、私たちの眼差しをそれら諸事物にまで導くときだけです。このような間隔は、大気であり、透明であると同時に光に満ちており、それが世界を包み、そこにすべての物体が浸っています。この本は、ですから、La perception de la lumière[光の知覚]と題されたとしてもまったく同じように妥当だったのです(147頁)。
ラヴェルの知覚理論を今日の認知科学の知見から批判することは簡単であろうが、ここではそのような賢しらごとが問題ではないのは言うまでもないであろう。幼少期に与えられた単純な可能性の自覚がもたらした現実についての確信が、戦争体験を経て、捕虜収容所で一つの哲学論文として結実し、そこでの理論的成果の一例証として副論文が戦後生まれ、両者相俟って一つの哲学的言語の形成の出発点になっているという事実に私は注目したいだけなのだ。
ラヴェル哲学は、〈存在 Être〉を実体 substance としてではなく〈作用 acte〉そのものと考え、精神もまた自らが自己同一的な実体ではなく、一つの作用であることを自覚し、精神固有の作用である思索によって〈存在〉の「分有に積極的に与る」こと(これをラヴェルは participaition と呼ぶ。この語は通常「参加」と訳されるが、生ける部分として全体に生かされるだけでなく、全体を活かすものでもあるという弁証法的な関係性をこの訳語ではよく示すことができないので、ぎこちないことを承知のうえで上のように訳した)ではじめて生きる、自分がそこに生かされている〈存在〉全体の中で生きる、と考える(因みに、La présence totale [全体現前]は、ラヴェルの著作の一つのタイトルでもある)。
哲学的思考とは、だから、ラヴェルにおいて、何らかの対象について客観的に考察することに尽きることではもちろんなく、それ自体として永遠なる真理の探求でもなく、〈存在〉の起源への回帰でもない。それは、端的に、〈存在〉に与ろうとする現在する精神活動以外の何物でもない。そのような純粋な精神の運動が、ルイ・ラヴェルという名の一個の幼い魂に自らの起動点を見出し、その名を冠された肉体が思索の途上に倒れて68歳で他界するまで、その魂の成長と成熟とともに弛むことなく持続したということを、その著作群はよく証示している。ラヴェルの著作を読むことは、この稀有なまでに無垢な精神の運動の軌跡を辿るということに尽きるのではなく、そのような精神の運動へと私たち自身が自ら踏み出すようにと呼びかける声を聴くことでもある。
ルイ・ラヴェルの哲学については、主にルイ・ラヴェル協会の会員たちの熱心な研究・普及活動のお陰で、数十年間絶版だったその著書のいくつかがここ20年ほどの間に、特に2003年以降は毎年のように復刊されるようになり、また定期的な研究会やかなりの規模の国際学会も開催されるなど、再評価の動きが目に見えて活発になってきている。2006年に出版されたラヴェル哲学についての論文集 Autour de Louis Lavelle. Philosophie Conscience Valeur, coordonné par Jean-Louis Villard-Baron et Alain Panero, Paris, L’Hatmattan には、ラヴェル哲学研究に長年貢献してきた碩学たちとラヴェル哲学に新たに関心を持ち始めた若手研究者たちによる論文が六本収められていて、ラヴェル哲学の広がりと深さをそれらの研究成果の中に見て取ることができる。
その巻末に、ラヴェルが1938年に行ったラジオ対談の記録が収録されており、その中に対談者 Frédéric Lefèvre の求めに応じて当時55歳だったラヴェルが自身の幼少期について語っているくだりがある。
あなたのご質問に答えながら遠い過去のことを思い出していると、当時私の心を惹きつけた唯一の事柄は、身につけることができ、絶えず私たちの好奇心を新たにする諸々の知識ではなくて、私たちに私たち自身を発見させる諸感情と私たちを取り巻く諸存在へと私たちを結びつけている生き生きとした諸関係でした。今日もなお、それこそが生命を成す真の現実だと私は考えています。おそらく、哲学的思想とは、生命が私たちに与え、たとえその強度は可変的ではあっても私たちを離れることは決してないある情動を深化させること以上のことではないとさえ言わなくてはならないかも知れません。ところが、私が自分の記憶の中に見出す最も古い情動は、きわめて単純なもので、またきわめて鋭敏なものです。それは、世界の一部をなしているという情動です。とはいえ、諸事物の中の一事物としてそうだということに尽きるのではなく、「私」と言うことができる存在として、自らに固有の意志を持ち、それを用いることによって世界を変えうる存在として、世界の一部をなしているということです。小指を動かすことができるというこの単純な可能性が、ほんの小さな子供だった頃から、私には常に変わることのない奇跡のように思えたのです。これは今でもまったく同じ驚異の念とともに絶えず経験し直していることです。幼少期に与えられたこの単純な可能性が、私の中に次のような確信、それ以降今に至るまで私の人生において絶えず確証され経験され続けている確信を生まれさせたのです。その確信とは、現実は、時間の中を流れ、霧消していくものではなく、つねに現在・現前するもので、それを私たち以前にも以後にも探してはならず、私たちが今居る場所、動いているその瞬間に見出さなくてはならないという確信です。この現実は、それをあえて真正面から見つめ、我が事として引き受ける素直さと勇気を持ちさえすれば、私たちに驚嘆すべき充溢とともに贈り物として与えられます(同書144-145頁)。
この驚嘆の念とともに自覚された原初的な可能性がもたらす確信がラヴェル哲学の常に始まり続ける始まりであり、この確信は、高等教育教授資格所有者の特権を行使すれば応召しなくても済んだ第一次世界大戦に31歳で一兵卒として志願して前線に送られ、そこで虜囚となり、大戦の最後の2年間程を過ごした俘虜収容所において、更に強固なものとなる。
この対談を読みつつ、私は別の二人のフランス人哲学者のことを想った。一人はミッシェル・アンリ(1922-2002)であり、もう一人はジャン・カヴァイエス(1903-1944)である。後者については、一度連載を予告しておきながら、やはりまだまだ準備不足で、しばらくは始められそうにない。だが、年内には、カヴァイエスの生涯を語るところから始めたいとは思っている。前者については、明後日一度簡単な記事を予定しているが、アンリ哲学との正面からの再対決は、博論以降懸案のまま10年(!)が過ぎでしまっており、来年以降追々記事にしていくことをその助走としたい、いや、する(定言命法)。
この二人の哲学者とはまた別に、ラヴェルの上に引用した一節を読みながら、ゆくりなくも一人の日本の詩人を想い起こした。宮澤賢治である。その37歳での早すぎる死(否、その詩人としての生命を十全に生き切ったと言うべきではないか)の十日前、昭和8年(1933年)9月11日に書かれた柳原昌悦宛書簡の次の一節を思い出したのである。
風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどどいふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。
ルイ・ラヴェルの主著は、四巻からなる La dialectique de l’éternel présent [永遠の現在の弁証法、あるいは、現在する永遠の弁証法、これらどちらの訳も可能で、実際、ラヴェルはこの二重の意味を込めてこのタイトルを選んでいる] であるが、最終巻として書かれる予定だった De la Sagesse [叡智について]は、著者の早逝によってついに書かれないままに終わってしまった。しかし、このテーマについてラヴェルは他の多数の著書の中で触れており、それらを合わせ見ることで、ラヴェルの〈叡智〉についての思想の、少なくともその輪郭を知ることはできる。
そのような意図から、未刊のノートからの関連箇所も併録することで編まれた一書 Louis Lavelle, Chemin de sagesse, édition, introduction et notes par Bernard Grasset, Paris, Hermann が今年刊行された。ルイ・ラヴェル協会の会長である Jean-Louis Vieillard-Baron が序文を寄せている。130頁ほどの小著で簡素な装丁だが、それがまた内容に相応しい。序文の後に編者による30頁近い解説が置かれ、そこには〈叡智〉がラヴェル哲学の最終目的であったことが丁寧に示されている。収録されているラヴェルのテキストは、5部に分けられていて、第1部は、代表的な著書からの抜粋、第2部は、ラヴェルが1930年から1942年まで月一回のペースでフランスの夕刊紙 Le Temps 書き続けたコラムからの抜粋。ここまでが直接的に〈叡智〉をテーマにしているテキスト群。第3部には、同テーマに密接に関連する問題を扱ったテキストが集めてある。第4部と第5部は、未刊のノートからの抜粋で、前者は「褐色ノート」と命名されたノートから、後者は〈叡智〉と題された一束の草稿からである。
ラヴェルの生前に公刊されたテキストは、すべて隅々まで注意深く制御された文章で、感情を吐露したような文章は皆無に等しいのだが、未刊のノートの中には、公の目に触れることを意識して彫琢される前の文章も収録されており、それがラヴェルの肉声を伝えるかのようで、編者も述べているように、それを読むとラヴェルをより身近に感じることができる。その編者による解説は次の一文によって結ばれている。
理性の哲学的冒険の背後に、熱烈な実存的探求が隠されており、その探求の叡智的次元こそが、その最も個人的且つ最も普遍的な到達点となることであろう(同書39頁)。
昨日の記事での引用の最後の方に名前が出てきたジャンケレヴィッチについては、もう何度かこのブログでも取り上げてきたが、ずっと気になっている哲学者ではあるのだが、ときどき拾い読みする程度で、その少なくはない著書のどれか一冊をきちんと始めから終わりまで読んだことはこれまでない。手元にはそれでもその著書は十冊ほどある。日本にも熱心な読者が増えているようで、主要な著作はだいたい訳されているようである。
今日(31日)は、Françoise Schwab というジャンケレヴィッチ全集を編集中の研究者が、ジャンケレヴィッチへの死の問題についてのインタヴュー四つを、それらに自身の手になる前書きを付して一小著にまとめた Penser la mort ? (Paris, Liana Levi, 1994) を読んだ。その前書きに、ジャンケレヴィッチの他の著作からいくつか引用されていて、その一つは大著『死』からのそれだった(この本は1966年に Flammarion 社から初版が出ているが、これはすでに絶版で、古本でしか入手できない。1977年からは 同社のポケットサイズのコレクション « Champs essais » の一冊として出版されている。邦訳は仲澤紀雄訳が1978年にみすず書房から出版されている)。
その引用で、ジャンケレヴィッチは、マルクス・アウレリウスの『自省録』の第7巻48章の一節を引用しながら、自分を産んだ大地を讃え、実らせてくれた樹に感謝しつつ落ちてゆく果実の姿に、人はなぜ慰めを見出すことができないのか、と問う。しかし、そこでは、時至れば、この問いを検討しなければならないだろうと最後に加えるだけで節を締め括っている。
原文は以下の通り。
L’olive mûre, dit Marc-Aurèle, tombe en bénissant la terre qui l’a portée, en rendant grâce à l’arbre qui l’a fait croître. Mais pourquoi sommes-nous si peu convaincus par cette gratitude de l’olive ? Pourquoi toutes ces belles consolations sont-elles si peu consolantes ? C’est ce que, le moment venu, il nous faudra examiner (Vladimir Jankélévitchi, La mort, Flammarion, coll. « Champs essais », p. 392)
まだジャンケレヴィッチが同書でこの問いに立ち戻っているところまで読んでいないが、今は先を急ぐよりも、マルクス・アウレリウス『自省録』の当該箇所の神谷美恵子による格調高い訳文を掲げ、しばしそこで立ち止まろう。
だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安からに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝を捧げながら落ちていくように(マルクス・アウレリウス『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫、68頁)。