内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Penser au 《 milieu 》(「環境」を考える) ― ジルベール・シモンドンを読む(4)

2016-02-19 13:52:04 | 哲学

 シモンドンの記念碑的な二大主著 L’individuation à la lumière des notions de forme et d’informationDu mode d'existence des objets techniques とをそのテキストそのものに立ち入って理解することを試みる前に、そのための一つの道案内あるいは手掛かりとして、 Jean-Huges Barthélémy が Simondon(Les Belles Lettres, coll. « Figures du Savoir », 2014)で提示しているシモンドンの哲学のシンプルな見取り図を一瞥しておこう。ただし、私自身の解釈もあちこちに織り込みながらそれを辿っていくので、同書の単なる紹介ではないことを予めお断りしておく。
 著者によれば、シモンドンの哲学には、 « milieu » という言葉の二つの意味 ― 「環境」と「真ん中」 ― から引き出される二つの根本則がある。この二つの根本則は、« penser au milieu » という表現が有しうる二つの意味に対応している。その二つの意味は、著者によって、“penser au « milieu »” と “penser « au milieu »” とに書き分けられている。前者は、「『環境』を考える」、後者は、「『只中で』考える」、と訳し分けることができるだろう。
 今日の記事では、前者、“penser au « milieu »” の意味するところを見ていこう。
 シモンドンにおける個体化(individuation)論は、つねに、個体そのものだけではなく、その発生の環境を同時に考察の対象とする。このことは、直ちに、個体化の種々の異なった体制を同じ数だけの〈個体-環境〉関係の型として考えるということを意味している。この多様でありうる環境は、それが超個体的でありかつ複数の個体に通底して共有されている(« transindividuel »)、社会化された「心理」機制(« psychosocial »)として働くとき、個体に対して外的で、それ自体は同一のままにとどまる「客観的」な環境ではもはやありえない。この社会化された心理空間では、個体は、環境に規定されるものであると同時に、その環境に働きかけ、それを変えていく行為主体でもある。
 このような個体と環境との可塑的な関係は、相互に交換不可能な主体と客体との関係でもなく、一方的な原因と結果との関係でもない。このような個体と環境との相互規定性と相互因果性とが、私たちが実際生きている生活世界を特徴づけている。
 シモンドンは、生きた個体とその環境とに見られるこの動的・可塑的・可変的・双方向的な関係性を、技術的対象、つまり技術による産出物とそれがそこで機能する環境との間にも見出そうとする。つまり、技術的対象もまた、それが置かれた環境と不可分であり、しかも、その環境によって一方的にただ一度かぎりその機能が固定されてしまうのではなく、個体として己がそこで機能する環境を変える可能性を有っており、また、置かれた環境が変わることによってその機能も変わる、と考えるのである。
 しかし、この段階では、ある技術的対象としての個体は、産出された一つの個体として機能しているという意味では「個体化」していると言えるが、他の「同一」の技術的対象と交換可能であるかぎりにおいて、「個別化」されてはいない。
 同一モデルの別の製品と交換可能な一製品に過ぎなかった技術的対象が、同一モデルの他の製品とは区別されうる、個別の、場合によっては「かけがえのない」、対象となることもある。このような関係性の成立を、「個体化」(« individuation »)と区別して、「個別化」(« individualisation »)とシモンドンは呼ぶ。




















































「人間」とは、人間化という一つの個体化過程である ― ジルベール・シモンドンを読む(3)

2016-02-18 15:03:03 | 哲学

 シモンドンは、ある現実一般が現勢的なものとして構成される生成過程を「個体化」(« individuation »)と呼ぶ。ここでいう現勢的なものとは、潜在的であったものを現実に機能させているものということである。ある個体の生成が、他の個体の生成に依存せず、この意味で根本的であるとき、潜在的なものとは、「前個体的」(« pré-individuel »)なものでなくてはならない。このような根本的な生成過程からすべての個体化が発生するとシモンドンは考える。
 ここで言われる個体とは、いわゆる生物個体や単体としての特定される物体に限定されるものではない。複数の構成要素からなる集合もまた、それらがそれらとして或る一定期間同定されるかぎり、或る一つの個体化の結果と考えられる。なぜなら、あるグループがそれとして存在し機能するのは、そのグループに帰属しそれを構成する個々の個体の現実に関与することができる統一体としての権能をそれが有するかぎりにおいてだからである。そうであるかぎりにおいて、そのグループは、統一体として、つまり一つの個体として、その構成員である各個体に個別的なパーソナリティを与えることもできる。
 万物の生成を包括的に考えることは、あらゆる百科全書(私は、ここで、西周がエンサイクロペディアの訳として考案した「百学連環」という美しい言葉を使う誘惑にかられる)主義がその目的とするところである。このような包括的な個体生成理論の構想は、諸学問を真に統合するためばかりでなく、人間と技術との関係をよりよく理解し、現代技術社会に相応しい新しいユマニスムを基礎づけるためにも不可欠である。
 シモンドンの個体化の哲学が批判の対象としているのは、文化を自然からも技術からも切り離し、両者と対立させて考えようとする、当時まだ西欧にも根強かった文化主義的あるいは精神主義的ユマニスムである。
 シモンドンは、個体化理論の構築を通じて、自然・文化・技術の総体との関係において人間の再定義を試みる。人間は、そこにおいて、心理的・社会的な生命過程として規定される。文化は自然の延長として、技術は文化の一つの位相あるいは段階として、自然・文化・技術の三者が全体として総合的に把握される。
 このような広大で開かれた視野から、技術による生産品は、それを生産した主体としての人間のうちに含まれた自然の文化的表現の一つとして捉え直される。それゆえ、技術の産物は、反自然的なものではなく、人間における自然に与えられた形の一つなのである。この人間における自然とは、しかし、人間に固有な本性のことではなく、生命体の生命が延長され、自己超越を行うことが可能になる心理的・社会的関係の基盤のことである。
 シモンドンの個体化の哲学が企図しているのは、自然と文化と技術の間の三重の相互的和解である。これらの三項のいずれかによって他二者を批判し、それらと対立することで己の自立性を確保しようとするあらゆる思想にシモンドンは異議を唱えているのである。
 序に一言加えれば、シモンドンの哲学は、はるかに時代に先駆けて、教条的な自然保護主義に対する根本的な批判の哲学的基礎を準備していたとも言うことができる。
 個体化の哲学に裏づけられたこの新しいユマニスムは、一方で、人間を生体一般へと統合し、他方で、技術を文化へと統合することを通じて、技術と自然との連続性を再生させることを己の根本的課題としている。技術とは、自然を延長し、人間の文化へとそれを開き、繋ぐことである。この人間の文化を、シモンドンは、ある講義録の中で、「進歩」(« progrès »)と呼び、動物の「文化」と区別する。後者には進歩がないからである。
 しかしながら、シモンドンは、人間と動物を非連続な二つの存在範疇とは考えない。「人間」とは、人間化という一つの個体化過程に過ぎない。逆に言えば、霊長類がもし「進歩」することがあれば、すでにそのときその霊長類はこの人間化としての個体化過程に入っていることになる。
















































生成の総合的思考はその思考自体が生成過程にある ― ジルベール・シモンドンを読む(2)

2016-02-17 15:45:49 | 哲学

 昨日の記事の終わりの方で用いた「百科全書的」(« encyclopédique »)という言葉は、シモンドン自身によって Du mode d’existence des objets techniques(nouvelle édition revue et corrigée, Aubier, 2012)の第二部第一章第三節の中で用いられており、同節には、「百科全書的」精神の歴史的展開と発展について十数頁に渡る論述が見られる。
 シモンドンによると、「百科全書的」精神は、西洋において三段階を経て発展してきている。第一段階がルネッサンス期であり、それは宗教改革による倫理的・宗教的革命と時代的に重なる。第二段階が十八世紀の啓蒙時代であり、この時期にフランスではまさに「百科全書派」が登場する。科学思想はすでに第一段階で宗教的権威から解放されていたが、技術思想はまだそうではなかった。この第二段階において、科学思想が技術思想を解放する。商業、農業、工業の諸分野で広く科学技術が適用され、それを通じて総合的な技術思想も生れて来る。そして第三段階が、シモンドンにとっての現代、つまり1950年代後半の高度産業技術社会の時代ということになる。
 しかし、この「百科全書的」精神の第三段階は、当時まだその緒についたばかりであり、それを現実に即して展開することがシモンドン自身の課題であった。この第三段階は、科学知・技術知の単なる総合的な集積に終わるものでもない。シモンドンが試みるのは、諸科学技術の現実的な哲学的統一である。シモンドンの「百科全書主義」(« encyclopédisme »)の新しさは、万物の生成を、その物理的なレベルでの個体化から、生物的レベルの個体化、心理的レベルの個体化を経て、個々の主体の成立を可能にしかつ複数の主体に通底する超個体性のレベルに至るまで、包括的かつ根本的に捉えようとするところにある。
 シモンドンの哲学は、あらゆる意味で還元主義に対立する。つまり、より高次の構成体をより基礎的な要素に還元することを個体化過程のどのレベルにおいても峻拒する。また、いかなる形而上学的イデアリスムにも反対する。つまり、それ自体でつねに自己同一なままの実体をいかなる次元においても認めない。そして、より高次の総合レベルにのみ優位を置く弁証法的思考にも与さない。
 複雑で動的な開放系であるシステム全体をそれとして包括的かつ徹底的に考えることへとシモンドンの哲学的思考を動機づけているのは、己の個体性を自覚した主体のレベルでは、その考える主体自身が個体化の生成過程にあるから、その生成の認識自体が生成過程にあるという徹底した自覚である。
 言い換えれば、シモンドンの哲学的直観は、以下のような存在のパラドックスの把握にあると私には思われる。
 個体化の問題を考えている主体自身がその問題の一部をなしている。したがって、固定化された個体としての主体のレベルにとどまり、問題を主体と切り離して対象として考えるかぎり、その問題を解くことは原理的に不可能である。個体レベルを超越した次元の生成に自ら投企しつつ、その次元によって規定されることを主体が受け入れるときにはじめて、主体としての個体化が、そのかぎりにおいて、一定期間、しかも個体化以前の次元を保持しつつ、成立する。





















































現代社会における新「百科全書的」哲学 ― ジルベール・シモンドンを読む(1)

2016-02-16 18:53:41 | 哲学

 昨日の記事で予告した通り、今日からジルベール・シモンドンについての長期連載を始める。しかし、予め立てた研究プランのようなものがあるわけではない。
 眼前の机上には、現在入手できるシモンドンの主要著作のすべてとシモンドン語彙集 Le vocabulaire de Simondon(Jean-Yves Château, Ellipse, 2008)と Jean-Hugues Barthélémy による概説書 Simondon(Les Belles Lettres, coll. « Figures du savoir », 2014)とが並べられている。この二冊をいわば旅行ガイドブックのように使って、途中で遭難する危険も多分にある大海に乗り出す長い航海のようなこの読書の旅の準備にとりかかるところからこの連載を始めることにしよう。

 ジルベール・シモンドン(1924-1989)は、1958年に国家博士論文の主論文 L’Individuation à la lumière des notions de forme et d’information と副論文 Du mode d’existence des objets techniques との公開審査を同じ日に受けた。前者の指導教授は、ジャン・イポリット、後者の方は、ジョルジュ・カンギレム。
 副論文は、その年の内に Aubier 社から出版されている。このことは、弱冠34歳の若き俊秀がその技術の哲学によって早くも同時代の哲学者たちから高く評価され、当時の識者たちの注目を広く集めたことを意味している。
 ところが、主論文の方は、その浩瀚さと構成の複雑さと時代に先駆けた独創性が災いしたのか、その前半だけが1964年に L’Individu et sa genèse physico-biologique というタイトルで出版され、その後半が L’ Individuation psychique et collective というタイトルで出版されたのは、シモンドンが亡くなった1989年のことに過ぎない。しかも、副論文に対する評価に比べれば、主論文の個体化論の方はシモンドンの生前に十分に理解されかつ正当に評価されたとはとても言いがたい。
 ただし、前者については、その出版の二年後にドゥルーズが的確無比な書評 « Gilbert Simondon, L’individu et sa genèse physico-biologique » を Revue philosophique de la France et de l’étranger に発表し、シモンドンをきわめて高く評価していたことを忘れるわけにはいかない(同書評は、L’Île déserte et autres textes, Les Éditions de Minuit, 2002 に収録されている)。
 シモンドンの哲学がその全体として再評価され始めるのは、その死後のことである。この再発見と再評価は、しかし、シモンドン自身が準備したとも言える。それは、主論文後半の1989年の出版の際にそれに付されたシモンドン自身による長文の補遺ノート « Note complémentaire » が主論文と副論文との関係の明瞭化に貢献しているからである。これを裏から言えば、それ以前は、シモンドンにおける技術論と個体化論との関係がよく理解されていなかったということである。
 もちろんシモンドン自身にとっては、技術論と個体化論とは最初から不可分であり、後者が切り開く広大な総合的人文・社会・自然科学的パースペクティヴの中に位置づけられてこそ、前者の現実社会での実践的射程も明らかになることは、両論文の完成時点ですでに十分に自覚されていたことであった。
 「シモンドン・ルネッサンス」が本格化するのは、ベルギー人哲学者ジルベール・オトワ(Gilbert Hottois)による最初のモノグラフィー G. Simondon et la philosophie de la « culture technique »,(Bruxelles, De Boeck)が出版された1993年以降であり、特に2005年に初めて1958年の主論文の完全版がそのもともとのタイトルで Jérôme Millon 社から出版されると、以後毎年のように講義録や講演記録が出版あるいは再刊されるようになり、今日に至っている。シモンドンの哲学の先見性と独創性とが広く理解されるようになるのに、約半世紀を必要としたということになる。
 シモンドンを本格的に研究し、その哲学の今日における重要性をよく理解するためには、言うまでもなく、1958年の博士論文の主論文と副論文とを読むことから始めなければならないが、それは容易ならざる持続的知的努力が要求される作業である。それにはいくつか理由があるが、その最大の理由と私に思われるのは、複雑な現実をその複雑さのままに捉えるために、きわめて高度な注意力をもって、人間社会をその多元性・多層性においてどこまでも総合的に探究しようというシモンドンの「百科全書的」姿勢についていくことの難しさである。
 しかし、この困難を引き受ける者には、それに見合うだけのより広くかつ深い現実社会の理解をシモンドンの哲学は約束してくれているように私には思われる。









































冬休みの一日、灰色の空の下の徒然

2016-02-15 17:39:48 | 雑感

 先月末から昨日まで、中江兆民『一年有半』、正岡子規『病床六尺』、パスカル『病の善用を神に求める祈り』と、病と死に関わる文章を読んできた。一方で、それぞれの文章に感動しつつも、他方では、それぞれのテキストが書かれたときに彼らがそれぞれ置かれていたであろう境位を思いやり、我が身を振り返れば、死を前にしての何の覚悟も「あきらめ」もできていなければ、残された時間を楽しむ境地などにはもちろんなく、ましてや病を神に感謝する祈りなど、恩寵とはまったく無縁な自分のどこを叩いても金輪際出てくるはずもないと、罪悪深重の凡夫の体たらくをまたしても自覚せざるを得なかった。
 二月に入ってから先週金曜日まで、毎週の講義・演習とは別に、ほぼ毎日のように何か職業上の義務あるいは仕事がらみの約束があり、それぞれの拘束時間はさほど長くはなかったとはいえ、その間気が休まらず、少し疲れた。それで土日は気を弛め、今後の中長期的な研究計画などをぼんやり考えたり、そのためにあれこれの参考文献を机の上に積み上げては、それらを崩し読み(こんな言葉ないですけど)して過ごした。
 今週は一週間の冬休み。その間に普段は書けない原稿、発表草稿、少し先の講義ノートなど作成しておきたい。
 今日は、ジルベール・シモンドンの著作を積み上げて、ところどころ拾い読みしては、思索に耽っている(ような振りをしている)うちに日が傾いてきた。なぜシモンドンかというと、明日から、「技術・個体・倫理」というテーマでシモンドンを読むという長期連載を予定しているからである。途中何度か休憩するかもしれないが、七月半ばまでは主にこのテーマの記事が続くことになるだろう。とは言うものの、何のプランもなしに書き始めるのであるから、自分でもどの方向に論述が展開するのかまるで予想できない(まあ、論文じゃなくて、ブログの記事ですからね、その辺は気楽ざます)。
 しかし、この連載には、西田幾多郎・和辻哲郎・三木清の一九三〇年代後半のテキストを技術論という観点から読むことをテーマとするこの夏の集中講義のための準備作業という隠された(って自分でバラしてるし)意図もあるのである。
 実を申しますと、今日の記事は、書き始めるまでは、「私の好きな曲」というカテゴリーの記事として、昨日までの記事との繋がりも意識しつつ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十五番第三楽章「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」について書くつもりでおりました。そこで、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団の同曲の演奏を流しながら書き始めたのですが、第二段落で話が逸れてから逸れっぱなしで、とうとうベートーヴェンには戻って来ることができませんでした。聞く度毎に感動を新たにするこの崇高な音楽については、いずれまた機会を改めて書くことにいたします。
































































パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(10)― 対立するものの間の緊張の場である魂

2016-02-14 05:14:50 | 読游摘録

 昨日の記事で白水社版の訳の誤りを訂正したが、それは単に文法的な誤りの訂正に過ぎなかった。あるいは、「取ってかわられる」と受動態にすべきところをうっかり「取ってかわる」と能動態にしてしまい、それが見逃されただけなのかも知れない。
 ところが、その拙改訳について、中世フランス語をご専門とされる先生から先ほど貴重なご教示を頂戴したので、それに従って拙訳を訂正する。
 問題の文には、« action de grâces » とあるが、この表現には「神への感謝」という意味がある。確かに、『祈り』の第六段落の末尾は、« Je vous rends donc grâces, mon Dieu, des bons mouvements que vous me donnez, et de celui même que vous me donnez de vous en rendre grâces. » (Œuvres complètes, op. cit., p. 1004 ;「私は、あなたが私になさってくださっているよきはからいのかずかずと、そうしたはからいをあなたに感謝するようにあなたが私になさってくださっているはからいとを、共にあなたに感謝いたします」白水社『【メナール版】パスカル全集』第二巻、432頁)と感謝の言葉になっている。この文の末尾に付けられた注の中で、メナール教授は、« En effet, la prière elle-même est un don de la grâce. D'une façon générale, tout commencement de bonne volonté est l'effet d'une grâce que couronne une grâce plus puissante d'acte. » (「実際、祈りそのものが恩寵の賜物である。一般的に、よき意思のはじまりは恩寵の結果であり、より強力な働きをもった恩寵がそれを仕上げる」)と指摘し、Écrits sur la Grâce の参照箇所を挙げている。
 以上から、ここは「恩寵の働きの祈り」(そもそもこの日本語は曖昧である。「恩寵の働きを求める祈り」とも「恩寵の働きによる祈り」とも取りうる)ではなく、パスカルはすでに恩寵による神のよきはからいが自分のうちで働いていることを自覚しているのだから、そのことへの感謝であり、かつそのように感謝できることそのことが恩寵の働きだと考えられていると、言い換えれば、第六段落の末尾で「要求の祈り」が「感謝の祈り」に取ってかわられていると読むべきだと考えられる。
 したがって、訳文は、「要求の祈りに感謝の祈りが徐々に取ってかわる」と訂正する。
 自分一人では間違って読んだままに終わるところを、ご教示によって蒙を啓いていただいた。己の無知を恥じるとともに、ご教示の労をとってくださったことに心より感謝申し上げます。

 さて、昨日までの九日間、パスカルの『病の善用を神に求める祈り』のメナール教授による解説をずっと読んできたが、それも今日の記事が最後になる。

Ce mouvement d'humidité se prolonge au début de l’invocation au Christ, mais avec le sentiment que, grâce à l’incarnation, le Royaume de Dieu est au-dedans de l’âme (§ IX). Par le lien que créent les souffrances communes à l’homme et au Christ, un commencement d’union se réalise (§ X). Mais, pour que ce lient se maintiennent, il faut que les consolations dispensées par la grâce restent associées à la « tristesse » : non pas celle que suscitent les maux du corps, puisqu’ils sont le principe de l’union, mais celle, toute sainte, que fait naître le sentiment du péché, celle-là même qui a été la tristesse du Christ (§§ XI-XIII). Alors peut s’amorcer le mouvement final, dans lequel est atteint l’état d’abandon, de soumission totale à la volonté de Dieu, qui préfigure la condition céleste (§§ XIII-XV) (Œuvres complètes, op. cit., p. 995).

このへり下る心の動きは、キリストへの祈願のはじめまで続くが、受肉のおかげで神の王国が心の中にあるという気持を伴っている(第九段落)。人間とキリストに共通の苦しみがつくり上げる絆によって、神との合一がはじまる(第十段落)。だが、この絆が保たれるには、恩寵によって与えられた慰めが「悲しみ」と結びついたままでいなければならない。その悲しみは、体の苦しみが生み出す悲しみではない。その苦しみは合一の原理であるのだから。そうではなく、罪の自覚が引き起こすまったく聖なる悲しみであり、キリストの悲しみであったまさにその悲しみである(第十一~十三段落)。そこで最後の動きがはじまりうる。その動きの中で、委ねの状態、神意へのまったき服従の状態に到り着くのであり、この状態が天上の境位を予示している(第十三~十五段落)(白水社版459-460頁に依拠しつつ、数箇所改変した)。 

Au début marquant la distance entre l’homme et Dieu correspond donc un terme où cette distance est abolie. Le cheminement effectué a suivi d’abord les voies de l'ascèse et de la pénitence pour s’achever par ceux de l’abandon et de la mystique. Mais la progression n’a pas été linéaire, d’autant que l’âme est constamment le siège d’une tension entre les contraires : la lutte entre le monde et Diue, entre le péché et la grâce, est toujours à reprendre. Aussi le texte comporte-t-il tout un aspect dramatique. Au-delà du mouvement accompli transparaît la nécessité d’un éternel recommencement (ibid.).

人間と神とのあいだの隔たりを示していた初めに、それゆえ、この隔たりが廃棄された終わりが対応する。歩まれた道のりは、まず禁欲と悔悛の途を辿り、委ねと神秘的信仰の歩みによって完遂される。しかし、その道行きは直線的ではなかった。魂は、つねに、対立するものの間の緊張の場だからである。この世と神、罪と恩寵の間の争いは、いつでも再開されうる。したがって、テキストは劇的な様相を十全に含んでいる。動きの完了の向こうには、永遠の再開の必然性が透けて見えている(白水社版460頁に依拠しつつ、数箇所改変した)。

On voit que la Prière, quoique lucidement pensée et savamment construite, échappe, sans les contredire, aux lois de la pure rationalité. C’est bien dans l’ordre du cœur qu’elle se situe (ibid.).

『祈り』は、明晰に考えられ、巧みに構成されてはいるが、純粋な合理性の諸法則に対しては、それに矛盾することなく、その手をすり抜けている。まさに心情の秩序の中に『祈り』は位置づけられているのである(白水社版460頁に依拠しつつ、一部改変した)。

 『祈り』の原文は、メナール版全集で十五頁(白水社版邦訳で十二頁)ほどの小品であるから、本文に目を通すというだけのことなら、一時間もあれば足りる。ところが、私は、これまで、いざ真剣に読もうとすると、最初の段落から躓きを繰り返し、なかなか前進できずにいた。一応は読み通しても、何かどうにもなじめないものを感じてしまい、溜息をつくということを繰り返してきた(罪深いお前の精神の低劣さからして、それは当然の帰結だ、と言われればそれまでだが)。
 今回は、メナール教授の精緻な解説を頼りとしながら、再読を試みた。『祈り』の心情の秩序を内的に理解することはもちろんできなかった(多分一生できないだろう)が、ところどころで『祈り』の言葉に私の心が感応するということがなかったわけではない。
 今日の記事をもって「パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む」の連載は終えるが、明日からまた、一日一段落ずつ、『祈り』を読み直そうと思う。












































パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(9)― 魂がその間を揺れ動く二つの極

2016-02-13 09:44:33 | 読游摘録

 昨日見た段落の次の段落を二つに分けて読んでいこう。

Pour analyser plus finement le mouvement du texte, il convient de distinguer deux pôles entre lesquels l’âme oscille. D’un coté, l’éloignement de Dieu, effet de la distance ontologique entre la créature et le Créateur (§ 1), mais aussi conséquence du péché symbolisé par la maladie. De l’autre, l’union à Dieu, que la maladie, accompagnée de la grâce qui lui est propre, fournit le moyen de réaliser. C’est le passage du premier état au second que demande la Prière, par le « bon usage » de l’épreuve subie. L’entrée en prière est déjà un premier pas dans la progression spirituelle qui va s’accomplir. Il consiste, selon une démarche classique, dans la mise en présence de Dieu (§ 1) (Œuvres complètes, op. cit., p. 994-995).

テクストの動きをより精緻に分析するには、魂がその間を揺れ動く二極を区別しなければならない。一方にあるのは、神からの乖離であり、それは、被造物と創造主との間の存在論的距離のもたらす結果であるが(第一段落)、しかしまた病に象徴される罪の帰結でもある。他方にあるのは、神との合一であり、病が、病に固有な恩寵に伴われることで、その合一を実現する手段を提供してくれる。この前者の状態から後者の状態への移り行きこそ、受けた試練の「善用」によって『祈り』が求めていることである。祈りに入るということがすでに、これから実現されていく霊的進歩への第一歩である。その第一歩は、規範的手順に従えば、神と向き合うことである(第一段落)(白水社版459頁に依拠しつつ、数箇所で訳文を変更した) 。

Puis vient le mouvement de la pénitence, de la confession des fautes commises en l’état de santé, et nouveau progrès, la reconnaissance pour l’envoi de maux porteurs de salut (§§ II-III). Plus profondément, l’âme se présente comme le siège d’un conflit entre le monde et Dieu. D’où la nécessité d’une conversion que la grâce opérera en répandant des « consolations » par le moyen desquelles sera surmonté l’attrait du monde. La ferveur s’accroît, signe de l’influx de la grâce ; à la prière de demande se substitue de plus en plus celle d’action de grâces (§§ IV-VI). L’invocation de Dieu le Père s’achève cependant par un mouvement d’humilité, par le sentiment du poids persistant du péché, qui écarte durablement de Dieu et exige une pénitence continuelle (§§ VII-VIII ) (ibid., p. 995).

次に来るのが悔い改めのとき、健康時に犯した罪の告白のときである。そして、新たな進歩として、救いをもたらす苦しみが送られて来たことに対する感謝がやって来る(第二、三段落)。より深いところで、魂は、この世と神との葛藤の場となる。そのことから回心が必要になるが、この世への愛着を克服する助けとなる「慰め」を広めることによって、恩寵がこの回心をもたらす。熱烈さが高まる。これは恩寵が流れ込んだ徴である。要求の祈りに恩寵の働きの祈りが徐々に取ってかわる。しかしながら、父なる神への祈願は、へり下る心の動きによって、罪の執拗な重みの実感によって完遂される。この罪の重みが長きに渡って神から遠ざけ、持続的な悔い改めを要求するのである(第七、八段落)(白水社版459頁に主に依拠したが、原文にのみある表現を復元した箇所が一つ(「より深いところで」)あり、また、「求めの祈りが恩寵の働きの祈りに取ってかわる」という、まったく逆の方向に訳すという重大な誤訳があり、そこは訂正した)。


















































パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(8)― 柔軟で控え目な論理的思考の進展

2016-02-12 03:35:12 | 読游摘録

 昨日の記事では、『祈り』は、精神の秩序にしたがって原理と証明とによって獲得された論証ではなく、心情の秩序から生まれた「詩」であると主張するメナール教授の論述を追った。
 その直後に、教授は、「しかしながら、それとして感じられない(思考)の運動、柔軟な進展が実現されており、そのいくつかの段階は、控え目ではあるが、はっきりと記されている」(« Un mouvement insensible s’accomplit pourtant, une progression souple dont certaines étapes sont discrètement, mais nettement marquées », Œuvres complètes, op. cit., p. 994)と前置きした上で、『祈り』の本文に即して、心情の秩序から生まれた「詩」の中に織り込まれている精神の秩序の糸筋を精緻な分析によって浮き上がらせていく。
 今日の記事では、その分析の最初の段落をそのまま掲げる。その内容からして、『祈り』の本文の当該箇所をその都度引用することが望ましいのだが、そうすると記事があまりにも長くなりすぎるので、『祈り』からの引用は、これを一切省略する。

Le tournant le plus net, encore que ménagé avec douceur, est celui qui se dessine au début du § IX. Auparavant, la prière s’adressait à Dieu le Père, Dieu éternel, Dieu providence, principe et fin de toutes choses(§ VI), Maîtree du cœur des hommes et objet suprême vers lequel tendent toutes leurs volontés (§ IV). Ensuite, c’est la personne du Christ qui est invoquée, Dieu venu au monde pour établir son Royaume au-dedans des âmes, Dieu fait homme pour endurer tous les maux mérités par les péchés des hommes, Dieu dont la souffrance procure le salut à l’homme qui souffre et à l’homme pécheur (ibid.)

最もはっきりとした議論の転回点は、それがなお控え目な仕方でなされているとはいえ、第九段落の初めに形を取って現われる。それ以前は、祈りは、父なる神、永遠なる神、摂理たる神、万物の原理と目的(第六段落)、人間たちの心の師であり人間たちのすべての意思がそこへと向かう至高なる対象(第四段落)であった。それに続いて、キリストの位格が加護の祈りの対象となる。つまり、人々の魂の中に自らの王国を建設するためにこの世界にやって来た神、人間たちの罪ゆえにもたらされたすべての悪を耐え忍ぶために人となられた神、苦しむ人や罪人に自らの苦しみによって救いをもたらす神が祈りの対象となる(白水社版458頁に依拠したが、この部分は原文の逐語的な訳ではなく、省略や簡略化があるので、それらを補い、かつ訳文を数箇所変更した)。

Sans doute, dans ce second temps, Dieu le Père intervient-il de nouveau (§ XI), mais c’est comme auteur de la mission de son Fils. Inversement, dans le premier temps, le Christ avait été mentionné comme « image » et « caractère » de la substance du Père (§ IV). Ainsi s’instaure entre le Père et le Fils une sorte de relation harmonique. Il arrive aussi qu’une certaine indécision règne quant au destinataire de la Prière, le Père et le Fils se superposant l’un à l’autre. L’Esprit, dispensateur des grâces et des consolations, est aussi présent, mais son action n’est signalée le plus souvent que d’une manière implicite. Il n’est véritablement nommé qu’une fois le Fils apparu (§§ IX, X, XI, XV). Les trois personnes de la Trinité sont simultanément invoquées dans la doxologie finale. Poème de la grâce, de l’amour, de la consolation, la Prière devait naturellement faire appel au Dieu trinitaire (ibid.).

なるほどこの後半においても父なる神はあらためて登場しはするが、それは我が一人子の(この世への)派遣者としてである。ところが、前半においては、キリストは、父なる神の「姿」、その実体の「刻印」として言及されていた(ここで « caractère » を「刻印」と訳したのは、メナール版全集の『祈り』第四段落末尾の注の最後に記された « Le mot « caractère » est à prendre au sens concret de « marque ». » という指摘に従った。この一文はなぜか白水社版では省略されている)。このように、父なる神と子なる神のあいだには、一種の調和ある関係が成り立っている。しかしまた、父と子とがお互いに重なり合っているので、『祈り』が捧げられているのはどちらなのかはっきりしないこともある。恩寵と慰めの分配者である聖霊もまた姿を現わすが、その働きは、たいていは、はっきりしない仕方でしか示されていない。聖霊がそれとして確かに名指されるのは、子なる神が登場したときに限られる(第九、一〇、十一、十五段落)。三位一体の三つの位格は、最後の栄唱では同時に祈りの対象となっている。恩寵と、愛と、慰めの詩である『祈り』は、当然のことながら、三位一体の神へと呼びかけていたのである(白水社版458-459頁に依拠しつつ、数箇所で訳文を変更した)。



















































パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(7)― 精神の秩序と心情の秩序について

2016-02-11 05:33:49 | 読游摘録

 メナール版の解説の最後に来るのが『祈り』の構成の問題である。『祈り』の本文を読む準備作業の最終段階として、この問題についてのメナール教授の精緻な分析を見ていこう。
 『祈り』は、その文章の完成度の高さにもかかわらず、その構成の論理の把握は必ずしも容易ではないと教授は言う。「フランソワ・ド・サルが見本を示しているような、体系的で合理的に編成された黙想に見られるような構成ではない」(白水社『【メナール版】パスカル全集』第二巻、458頁)。それでは、そこに見られるのは、「思想と感情の自然な連なりに還元されるような自由な心情の吐露」(同頁 ; « une effusion libre, dont le déroulement se réduirait à un enchaînement spontané d’idées et de sentiments », Œuvres complètes, vol. IV, op. cit., p. 993)なのであろうか。
 この問いに対して、教授は、その「答えは、パスカルが精神の秩序と心情の秩序を区別している重要な断章のなかにある」と答える(同頁)。その断章とは、ラフュマ版298番、ブランシュヴィック番283番である。まず、その原文を Sellier 版の断章329番に拠って示そう(ラフュマ版に基づいている Seuil 社の « Points Essais » 中の Pensées には、明らかな誤植があるので、ここでは同版を用いなかった)。

 L’ordre — Contre l’objection que l’Écriture n’a pas d’ordre.
 Le cœur a son ordre, l’esprit a le sien, qui est par principe et démonstration. Le cœur en a un autre. On ne prouve pas qu’on doit être aimé en exposant d’ordre les causes de l’amour, cela serait ridicule.

 Jésus-Christ, saint Paul ont l’ordre de la charité, non de l’esprit, car ils voulaient échauffer, non instruire.
 Saint Augustin de même. Cet ordre consiste principalement à la digression sur chaque point qui a rapport à la fin, pour la montrer toujours.

 精神の秩序は、「原理と証明とによって」(« par principe et démonstration »)実行されるが、心情の秩序は、「目的を常に示すために、それと関係のある個個の点について枝葉の議論を行うことに主として存するのである」(前田陽一訳)。前田訳では「枝葉の議論」と訳されている原文の « digression » は、塩川訳では「脱線」と訳されている。後者の方がこの語の通常の字義には忠実な訳だが、どちらの訳によっても、ここでの « digression » の意味を捉えることは、私にはそんなに容易なことには思われない。ところが、この語について、手元にあるどの版にも何の注もない。
 メナール版全集には、メナール教授自身の論文 « La Digression dans les Pensées de Pascal » dans Gestaltung-Umgestaltung [Mélanges Margot Kruse]、Tübingen, 1990, p. 223-228 が当該箇所の注に参考文献として挙げてある(Sellier 版でも同様)のだが、白水社版にこの注は採録されていない。
 というわけで、信頼の置ける注釈に依拠できないままに、この語のこの文脈での意味について、差し当たりの自分なりの理解をここに記しておく。
 まず何に対して「脱線」なのか。あるいは、どの観点から見て「枝葉の議論」なのか。それは、この断章の文脈からして、精神の秩序から見て、言い換えれば、原理を出発点とした証明の順序の観点から見て、ということになるだろう。論理的観点からは論証を構成する一連の議論の一齣に過ぎない論点が、最終目的である神との合一との関係から見ればその目的に(直接)関係がある要素であるとき、その要素が現われる度毎にその最終目的をそこに示すことは、論理的観点からすれば「脱線」あるいは「枝葉の議論」としか見えない。しかし、まさにそうであるからこそ、 « digression » によって、そこにもう一つの秩序があることが、論証手続きとは違った形式と秩序において示される。
 解説の続きを読んでみよう。

Faisant très peu d’usage du raisonnement, la Prière relève essentiellement de l’ordre du cœur. On pourrait dire que la digression y est constante, autrement dit que la marche de l’argumentation y est sans cesse interrompue par des pauses où l’émotion et le lyrisme se donnent libre cours. Par le jeu de la répétition, de l’incantation, par le rappel constant d’une « fin » qui est l’union à Dieu, le poème peut naître (op. cit., p. 994).

推論をほとんど用いていない『祈り』は、主として心情の秩序に属している。そこでは絶えず議論の筋道から逸れていると言えよう。換言すれば、情動と抒情とが自ずと流れ出るいくつもの中断によって、議論の歩みが絶えず遮られている。反復して呪文を唱えることによって、神との合一を絶えず喚起することによって、詩が誕生する場合がある(白水社版に依拠したが、かなり改変した)。

 そうであるならば、心情の秩序から生まれる詩は、論理的推論とは相容れない言語表現なのだろうか。

























 


パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(6)―「神を覆うヴェール」

2016-02-10 05:23:53 | 読游摘録

 パスカルにおける三項モデルは、最初、一六五四年に執筆が完了したとされている Traité du triangle arithmétique et Traités connexes(『数三角形論ならびに同一主題に関する若干の小論文』、刊行はパスカル没後の一六六五年)の中に、線・面・立体という幾何学的三項モデルとして現われる。一六五六年末、ロアネーズ嬢宛のいわば「心霊指導」ための手紙の中で、三項モデルは、初めて道徳的宗教的概念に適用される。その書簡において、「神を覆うヴェール」として、自然、キリストの人間性、聖体の形色が重ね合わされている。同書簡の当該部分を引用する。

Il [=Dieu] est demeuré caché sous le voile de la nature qui nous le couvre jusqu’à l’Incarnation ; et quand il a fallu qu’il ait paru, il s’est encore plus caché en se couvrant de l’humanité. Il était bien plus reconnaissable quand il était invisible, que non pas quand il s’est rendu visible. Et enfin quand il a voulu accompli la promesse qu’il fit à ses Apôtres de demeurer avec les hommes jusques à son dernier avènement, il a choisi d’y demeurer dans le plus étrange et le plus obscur secret de tous, qui sont les espèces de l’Eucharistie (Œuvres complètes, vol. III, Desclée de Brouwer, 1991, p. 1035-1036).

神は受肉のときまで、ご自分を隠す自然の覆いのもとに姿を隠されたままでした。そしていよいよ姿を現わさなければならない段になると、人間の肉をまとうことでさらにいっそうご自身を隠されました。目に見えないものであられたときのほうが、目に見える姿をお取りになったときよりはるかに知られやすかったのです。そして最後に、神が使徒たちになさった約束、すなわち最後の来臨まで人びととともにおられるという約束を果たされようと望まれたとき、神は、聖体の形色という何にもまして不可解で晦冥な神秘のうちに隠れてそうするこおとを選ばれました(白水社『【メナール版】パスカル全集』第二巻、329頁)。

『パンセ』の中には、三項モデルがしばしば現われる。特に、自然・恩寵・栄光の階層(ラフュマ・275、ブランシュヴィック・643)を例として挙げることができるが、このモデルの完成形態を見ることができるのは、肉体・精神・愛の三つの秩序の断章である(ラ・308、ブ・793)。
後者から一節のみ引用する。

Les saints ont leurs empires, leur éclat, leur victoire, leur lustre et n’ont nul besoin des grandeurs charnelles ou spirituelles, où elles n’ont nul rapport, car elles n’y ajoutent ni ôtent. Ils sont vus de Dieu et des anges et non des corps ni des esprits curieux. Dieu leur suffit.

聖徒たちは、彼らの威力、彼らの光輝、彼らの勝利、彼らの光彩を持ち、肉的または精神的偉大を少しも必要としない。彼らの偉大は、肉的または精神的偉大と何の関係もない。後者は前者に加えも引きもしないからである。聖徒たちは神と天使とからは見えるが、身体と好奇的精神とからは見えない。彼は神だけで十分なのだ(前田陽一訳)。

聖人たちにも、おのれ固有の支配圏、栄光、勝利、光輝があり、肉的な偉大さも精神的な偉大さも必要としない。ここでは、そのような偉大さは無縁だ。どれほどの偉大さをそこに加えても、またそこから引いても、何も変わらないのだから。彼らを見るのは、神と天使たちであり、肉体でも、詮索好きの精神でもない。彼らには、神だけで十分だ(塩川徹也訳)。

 この引用の中の « car elles n’y ajoutent ni ôtent » の箇所に Phillipe Sellier 版は、以下のような脚注を付けている。

Ce passage, comme l’ensemble du fragment, repose sur le principe mathématique énoncé par Pascal dans sa Sommation des puissances numériques : « Des grandeurs d’un genre quelconque, ajoutées, en tel nombre qu’on voudra, à une grandeur d’un genre supérieur, ne l’augmentent de rien. Ainsi les points n’ajoutent rien aux lignes, les lignes aux surfaces, les surfaces aux solides » (Œuvres complètes, t. II, P. 1271).

 この注をほぼ踏襲しつつ典拠箇所をさらに広く示している注が、塩川徹也訳の「どれほどの偉大さをそこに加えても、またそこから引いても、何も変わらないのだから」の後に付けられている。

下位の次元の大きさが、上位の次元の大きさに影響を及ぼさないという考えは、『数三角形論』の付属論文として発表された『冪数の和』(一六五四年頃執筆)の中で提示された次の原理に通じている。「連続量においては、任意の種類の量を、それより上位の種類の量に何回加えても、後者は何ら増大しない。こうして点は線に、線は面に、面は立体に何ものをも加えない。あるいは数論らしく、数に関する言葉を用いて言えば、根は平方に、平方は立方に、立方は平方自乗に何ものも加えないのである」(塩川徹也訳『パンセ(上)』岩波文庫、2015年,376頁)。