ブログを始めた2013年から毎年この日になると自分のフランス在住の来し方を振り返り、行く末を想うことが個人的な恒例になっている。
今日でちょうど滞仏丸二十年になる。人生のいわゆる壮年期のほとんどすべてをフランスで過ごしつつあることになる。滞仏最初の四年間を留学生として過ごし、一昨年から大学教員として働くストラスブールの街はとても好きだし、今の職場環境はそう悪くはないけれど、だからといって、フランス社会に馴染み、溶け込んでいるかというと、それには程遠く、社会に対する違和感は常に感じ続けているし、ときに強い怒りを覚え、最近は深い絶望感を抱くことも一再ならずある。
では、日本に帰りたいかというと、そうでもない。いや、と言うよりも、そう簡単に日本でポストが見つかるはずもないから、帰るに帰れないと言ったほうが正直なところだろう。
こんな中途半端な生き方はとても人に誇れるものではない。が、この年では今更やり直しもきかない。与えられた条件を受け入れつつ、研究者として仕事らしい仕事の一つくらいは残したい。
十二月にブリュッセル自由大学で開催されるシンポジウムでの基調講演が研究の当面の里程標になる。この講演で、博士論文以後の研究を集約し、そこからの新しい展望を開くべく、九月に入ってから、一日一日、焦らず怠らず、原稿作成の準備作業を進めているところである。
シモンドンの個体化論の諸テーゼの中で生物学の立場から受け入れられる主張と受け入れがたい主張とをファゴ=ラルジョ教授は区別する。
個体化された有機体は、個体化(過程)の一側面でしかない。個体性は、機能的に規定されるものであり、存在のシステムの内部での形成情報の現れ方として理解されなくてはならない。ここまではシモンドンの主張に生物学者として同意できると教授は言う。
しかし、存在のそれ自身に対する位相差、共鳴による形の現出、その形の環境内での伝播などの考えは、生物学ではほとんど使いものにならない。生物学で支配的なのは、生きた系統・血統を通じて書き写され、転送される「プログラム」としての遺伝情報テキストというイメージである。
そもそも、生きた持続的な系統・血統という概念は、不思議なほどシモンドンの思想の中で軽視されている。シモンドンは、個体化された遺伝的形態構成の個体化能力を過小評価してもいる。
有機体の生成は、個体化された存在である親の世代から新しく個体化される子の世代へと遺伝情報が伝達される結果として成立するのであって、情報自身が勝手に生成するのではない。新しい個体存在の唯一性は、ある血統の中に保存されている遺伝情報のストックの中から取り出された有意なユニット間の再配列のされ方の唯一性に因る。
現代の生物学は、十八世紀末のフランスの解剖学者・生物学者ビシャ(1771-1802)が直観していたことに分子レベルで確証を与えた。ビシャは、生物は己の物質的組成を絶えず更新しながら己の構成形態を保持する、と考えたのである。DNAの帯を形成している物質的諸要素は絶えず更新され、DNAは絶えず修復を続けている。この物質的諸要素の流れを通じて、同じ遺伝情報が複写される。生物個体の総遺伝情報は、その有機体を構成しているすべての細胞に同じように実在しており、その状態は、「準安定的」というよりも、むしろ安定的である。
これらの現代生物学の知見は、シモンドンが執拗に批判を繰り返している質料形相論をすでに乗り越えられた仮説として性急に拒絶しないようにと私たちを導く。
ファゴ=ラルジョ教授の論文の中で、生物学の知見に基づいてシモンドンに対する批判が展開されているところを読んでいこう。
1960年代、進化生物学と当時生まれつつあった分子生物学とは、偶然と必然との間の相互作用に象徴されるような進化過程の表象へと収斂しつつあった。当時にその傾向を拒絶するには相当な哲学的動機を必要とした。シモンドンの拒絶の動機は実際非常に強いものだった。シモンドンは、生成に、それゆえ特に道徳的責任に意味を与えるという哲学的「賭け」に出たのである。それは神学的根拠づけに回帰するためではもちろんなかった。
シモンドンのその賭けは、しかし、危険を孕んだものであった。道徳を一つの存在論(創造説を取らず、存在の前個体化状態を想定する仮説)に基づかせようとし、この存在論を物理学、生物学、工学の分野から借りたいくつかの思考の図式から「派生」させようとすることによって、シモンドンは、後の科学の知見そのものによって自身その仮説を後日否定されるという危険に身を晒していたのである。実際、生物学の最新の成果は、様々な点においてシモンドンの仮説を誤りと見なすことになると思われる。
このような批判に対しては、科学のある時点での成果によって形而上学を反駁することはできないという反論が予想される。その反論によれば、生物学が個体化された有機体を遺伝子の伝達媒体と見なし、遺伝子のタイプの間に淘汰的な競合関係を見るところに、形而上学者は、別のより普遍的な領野において、全体の中に様々な存在のタイプが湧出する過程を見ることができる。
ファゴ=ラルジョ教授は、しかし、シモンドンは科学が形而上学的仮説を否定することがあることを受け入れたことだろう、と言う。
昨日の記事で取り上げた二十世紀の形而上学の系譜に、世代的にはシモンドンよりも二世代ほど上になるが、シモンドンと同じくベルクソンの影響を受けながら独自の存在の形而上学を構築した哲学者としてのルイ・ラヴェル(1883-1951)付け加えることができるだろう。なぜなら、ファゴ=ラルジョ教授の論文は、生物レベルでの個体化に問題領域を限定しているから、そこにラベルの名前が出てこないのは当然のことであるが、存在を実体としてではなく acte(作用(働き)として捉える点において、ラヴェルはシモンドンと同じ形而上学の系譜に属していると見なすことができるからである。
ファゴ=ラルジョ教授は、二十世紀の形而上学の系譜を辿り直した後、シモンドンの個体化の哲学の要点を示す。しかし、ここでファゴ=ラルジョ教授によるわずか数頁の要約を繰り返すには及ばないだろう。なぜなら、シモンドンの個体化の哲学の内容については、拙ブログで2月16日から7月16日にかけて、途中何回かの中断を挟みつつも延々と百十九回にわたって、L’individuaiton à la lumière des notions de forme et d’information (=ILFI) を読みながらその祖述を行ったからである(まだ終わっていないが)。だから、ここでは、ファゴ=ラルジョ教授がシモンドン哲学全般を通じての特徴をどう捉えているかだけを見ておこう。
一言で言えば、シモンドンの哲学は、類比とコミュニケーションの哲学である。
思考に対して外的な現実界の個体化については、直接的認識は不可能であり、類比的認識のみが可能であるとシモンドンは考える。「ただ思考の個体化のみが、己自身を実現しながら、思考以外の他の諸存在の個体化に付き添うことができる」(« Seule l’individuation de la pensée peut, en s’accomplissant, accompagner l’individuation des êtres autres que la pensée »)。この思考の個体化と思考外存在の個体化との併行作業が両作用間の類比を実現する。この類比関係は、一つのコミュニケーション・モードである。主体にとって外部の現実の個体化は、その主体における認識の類比的な個体化のゆえにこそ当の主体によって把握される。ここで注意すべきことは、思考する主体によって主体ではない存在の個体化が把握されるのは、認識の個体化によってであって、(いかなる個体によっても実際に担われてはいない非人称的な)認識のみによってではない、ということである。
一人の哲学者の独自性をよりよく理解するためには、その哲学者をある系譜の中に位置づけてみる必要がある。しかし、その系譜化の手続きは、単に対象としてのある哲学者を同じく対象としての別の哲学者たちと比べ、その類縁性と継承関係の観点から時系列に沿って統一的にそれらの哲学者たちを並べてみることに尽きるのではない。そのような「客観的アプローチ」に終始しているいわゆる研究論文の数は地球環境を脅かすほどに多いが、そのような論文は知識的には参考になることはあっても、哲学的意味は限りなく零に近く、そのような論文を読むことに時間を費やす気には私はとてもなれない。系譜づけの手続を行う者自身がその系譜に対して己の哲学的思考を位置づけることがその手続の中に、必ずしも明示的な仕方ではないにしても、少なくとも暗示的な仕方で含まれていなければ、そのような「非人称的」記述に哲学的意味はないと私は考える。私がかねてから哲学史研究の方法として述べている「歴史の中に自分を書き込む」( « s’inscrire dans l’histoire »)とはこのような姿勢のことである(2013年8月17日・18日の記事を参照されたし)。
さて、ファゴ=ラルジョ教授の論文は、まさにそのような系譜づけから始まる。その系譜化の中で特に重要な位置を占めるのがベルクソンとホワイトヘッドであり、同じ系譜の淵源としてシェリングが挙げられている。しかし、特に二十世紀の形而上学の系譜がここでの主題であるから、シェリングには触れない。
シモンドンは、ベルクソンから多くを学び、言及もその著書によく見られるから、両者の系譜関係は見て取りやすい。しかし、シモンドンは、単にベルクソンの衣鉢を継いだのでなく、ベルクソンに対して批判的でもあった。シモンドンは、生ける個体が持続を内在化させ、凝縮するというベルクソンの主張に関しては賛意を表する。しかし、生ける個体化の時間は連続しているという主張には反対する。個体化過程において、連続性は、可能な時間性のうちの一つではあるが、唯一ではない。シモンドンは非連続性をむしろ重視する。一言付け加えると、この点でシモンドンのベルクソン批判は西田のベルクソン批判とピタリと重なる。
ホワイトヘッドとの交叉点はベルクソンとのそれほど明示的ではない。しかし、ホワイトヘッドの有機体の哲学は、以下の三点において、シモンドン哲学と共鳴する。(一)個体的存在は関係存在であること。(二)自然は種々の価値を、それらを限定することで現実化する傾向にあること。(三)本来移行過程にある存在が固定化することはその存在の死であること。有機体の哲学は、個体存在がそれぞれそれとして差異化されることは全体の潜在性の一表現であることを示す。ホワイトヘッドは、有機体を一つの個別化過程として捉える。その過程は、世界の創造性のある瞬間における表現(この点でホワイトヘッドと西田の世界像が一致することは夙に指摘されている)、「出来事」、「流動するモナド」、邂逅、通路である。シモンドンなら、「位相」(« phase »)と言うところである。「個体的存在は、転導的であり、実体的ではない」(« l’être individuel est transductif, non substantiel »)とシモンドンが繰り返し言っていたことを私たちはよく覚えている。
これら二十世紀の形而上学者たちが共通して考えていたことは、次の三点にまとめることができる。(一)個体化過程は、(その結果として暫定的に形成されているに過ぎない)個体よりも存在論的により深い次元を形成している。(二)それぞれに分離された多数の個体が最終的な存在論的所与ではない。(三)それとはまったく逆に、諸個体は、己がその潜在性を現実化する根底からその意味を汲み尽くすことなく湧出する。
シモンドンはこれらの共通点を次のように表現する。「(それ以上還元不可能な)要素的な個体、あらゆる生成に先立つ第一個体は存在しない」(« Il n’y a pas d’individu élémentaire, d’individu premier et antérieur à toute genèse »)。「生成とは、個体化された存在の生成ではなく、存在の個体化の生成である」(« Le devenir n’est pas devenir de l’être individué, mais devenir d’individuation de l’être »)。
Gilbert Simondon. Une philosophie de l’individuation et de la technique に収録されている論文の執筆者たちは、シンポジウム開催当時すでにそれぞれの分野で高名な教授あるいは研究者たちであり、シモンドンと同世代か後世代だとしても世代的に近く、シモンドンと面識があったか、少なくとも謦咳に接したことがあったとしてもおかしくない人たちである。そのような世代に属する彼らがこのシンポジウムに参加したということは、それぞれ専門とする分野でのシモンドン哲学の貢献と可能性を次世代に継承するという意図もあったに違いない。
第一論文の筆者はアンヌ・ファゴ=ラルジョ(Anne Fagot-Largeault, 1938-)。哲学者・精神医学者。2000年から2009年までコレージュ・ド・フランスの生命科学・医学哲学講座の教授。女史のコレージュ・ド・フランスでの講義の一部はこちらのサイトで聴くことができる。シンポジウム当時はパリ第十大学教授。2002年に 三人の共編著者の一人として Philosophie des sciences I & II という総頁千三百頁を超える二巻本を Gallimard から « Folio essais » (inédit) として出版している。その第二巻に女史によって書かれた « L’émergence » と題された大変示唆に富んだ一章があり、拙ブログの2014年9月2日・3日の記事でラヴェッソンの習慣論を取り上げた際にその章に依拠した。その章の中にも三頁に渡ってシモンドンへの言及が見られる。
さて、当の第一論文である。タイトルは « L’individuation en biologie »。まさに女史の専門分野におけるシモンドン哲学の貢献の可能性がテーマである。より正確には、シモンドンの個体化論と技術の哲学とが今日の生命倫理に関わる努力の意味を考えるにあたってどのような知解の光を投じてくれるかという問題が立てられる。より具体的には、個体発生の初期段階における技術的介入、例えば、人工授精・出産前検診・遺伝子治療などの技術的介入の可能性をいかに文化的に受け入れるかについて、私たちにそれらを倫理の問題として考えるためのどのような概念装置をシモンドン哲学が提供してくれるかという問いが立てられる。
明日の記事から、同論文を読むことで、ファゴ=ラルジョ教授の指導の下、シモンドンと対話しながら、前段落に提起された問題を私たち自身も考えていこう。
昨日から紹介を始めた Gilberte Simondon. Une philosophie de l’individuation et de la technique に収められた Hubert Curien の開会の辞は、同書の元になっている1992年のシンポジウムがどのような研究プロジェクトの中で企画・実現されたかを説明している。
以下に記すのは、その説明について私のコメントである。
そのプロジェクトを共同で推進していたのは、Cité des Sciences et de l’Industrie、Écoles normale supérieure、Collège international de philosophie であり、そのことだけからでもこのプロジェクトに与えられていた目標の新しさと大きさとがわかる。
現代の工業の急速な発展がもたらすであろう社会的・文化的・認識論的帰結とそこから発生するであろう諸問題を、自然科学と人文社会科学との知見を積極的に対話させながら検討することを哲学の使命とするというそのプロジェクトの学問的姿勢は、当時としてはまだ稀な試みであったが、そのような革新的な企図は、まさにシモンドンの哲学的精神を受け継ごうという意思に裏づけられている。
今日、このような企図は、哲学者たちによってばかりでなく、むしろ科学者や技術者たちによってより良くかつ広く理解されるようになっており、そのことが二十一世紀に入ってからのシモンドン研究の急速な発展を部分的に説明してもいる。
技術革新と工業生産及びそこから生まれる技術的対象である工業製品の存在論的身分を自身の個体化論が切り開いたパースペクティヴの中で哲学的に考察することを半世紀以上前に自らの使命としていたシモンドン哲学の先見性は特筆に値する。
しかし、まさにその哲学の先見性ゆえに、そしてその視野の度外れな広大さ、目眩を引き起こすような議論の複雑さ、独創的な鍵概念が引き起こしがちな誤解などのゆえに、生前には、その哲学が有している現代社会における重要性に見合うだけの関心を引き起こすことはなかった(こう言った後にドゥルーズを例外として挙げるのがシモンドンニアンたちの慣例であるが、そのドゥルーズもシモンドン哲学の射程を十全に理解していたとは言い難い)。
開会の辞の最後の段落を引用する。
Il s’agit alors de penser ce que peut être une culture technique industrielle. Cela suppose l’élaboration d’une véritable théorie de l’évolution technique, fondement d’une authentique culture de la technique industrielle, d'autant plus nécessaire que les rapports de l’homme, de ses objets techniques et de son milieu sont en pleine transformation. Simondon tente de penser celle-ci par le concept de milieu associé, ainsi que par ses riches analyses du couple individu-milieu, qui devient avec lui un vrai concept. L’écologie trouvera peut-être ici de véritables instruments de pensée (op. cit., p. 15).
現代の私たちが必要としているのは、本格的な工業技術文化の構想である。その構想は、技術の進歩についての本物の理論の形成を前提とする。今日、人間とその環境との関係の変化は、その多くが技術的対象によって媒介されている。そして、その人間と環境との関係は多元的・多層的である。そのような多元的・多層的関係性を、変化し続ける動態の相の下に、そして場合よっては進化する動態の相の下に総合的に考察すること、それがシモンドンの哲学的企図であり、今日の私たちが継承しなければならない使命である。
シモンドンの哲学を主題とした研究文献は現在収集中で、まだそれほど多くは出版されていない単行本に限っても、単著共著合わせて六冊しか手元にない。
それらの中で出版の日付が一番古いのが Gilbert Simondon. Une pensée de l’individuation et de la technique, Albin Michel, coll. « Bibliothèque du Collège international de philosophie, 1994 である。この本は、出版の二年前の1992年4月に Collège international de philosophie で開催されたシンポジウムの発表原稿が元になっており、巻頭には、出版に際しての Gilles Châtelet の序文とシンポジウムの際の Hubert Curien の開会の辞が置かれ、十一本の論文が収められ、巻末には、シモンドン自身の短い文章が二つ補遺として付されている。
序文には、シモンドンの哲学の特徴が三点指摘されている。
まず、従来の人間(中心)主義が主張する対立的な二元論、つまり、技術と文化を対立させる二元論、あるいは、科学的概念の厳密さと感情の混沌とした性格とを対立させる二元論を拒否すること。
つぎに、科学的探究の諸作業を規則の適用に還元しないこと。そのような還元は思考の停止でしかなく、探究ではありえない。
そして、技術的開発と科学的発明とを既存のカテゴリーの中に統合してそれらを麻痺させないこと。そうではなく、技術的開発や科学的発明が哲学にいかに決定的な仕方で影響を与え、新しい概念の創出をもたらすかを示すこと。
シモンドンの哲学的企図は、技術と哲学との間の新しい分節化を要求する。それゆえに、このシンポジウムでは、哲学者、科学者(生物学者と数学者)、技術者たちが一堂に会し、個体化の哲学と技術の哲学との二部立てになっている。
シモンドン研究が本格化するのは本人の死後、1989年以降のことであり、まだ三十年も経っていない。1990年代は、シモンドンを正面から取り上げる研究書の数もまだ少なく、その哲学の全領域を覆うには至っていなかった。二十一世紀に入ってようやく研究論文の数も、フランス国内ばかりでなく欧米でも目立って増えてきた。
特筆に値するのは、シモンドン自身が多方面に渡る視野をもった全方位的・百科全書派的な哲学者であったがゆえに、哲学の枠をはるかに超えて、物理学、化学、生物学、情報工学、心理学、社会学、精神医学、建築学など、実に幅広い分野の研究者たちがシモンドンの哲学に強い関心を持つようになっていることである。特に若手の研究者たちにその傾向が著しい。
しかも、彼らの国籍も多様化している。ちょっと驚いたのだが、南米、特にアルゼンチンとブラジルでは、シモンドンが盛んに読まれているらしい(cf. « La simondialisation en Amérique latine », dans Gilbert Simondon ou l’invention du futur, Actes de la décade des 5-15 août 2013 du Centre culturel international de Cerisy-la-Salle, sous la direction de Vincent Bontems, Klincksieck, 2016, p. 68)。
明日の記事からしばらくの間、手元に集めたフランス語で書かれたシモンドン研究書の紹介と摘録を行う。この作業は、言うまでもなく、昨日の記事で話題にした講演と発表との準備として実行される。
先月29日の博士論文公開審査とその報告書作成が大学の2015-2016年度の最後の仕事であった。報告書はほぼ書き終え、あとは Éric Mangin が審査のために用意した原稿を送ってくれれば、それを報告書に組み込むだけ完成である。
9月1日の今日が新年度の初日であるが、幸いなことに、一昨年昨年と違って、オリエンテーションが来週月曜日からなので、今日を含めてまだ四日自分の研究計画のために時間を確保することができる。
来年夏に Le Centre Culturel International de Cerisy で開催される mésologie についてのシンポジウムへの発表応募の締め切りが10日で、応募のための要旨を先ほど一応書き終えた。締め切りまで何度か推敲してから提出するつもり。
今年の12月7日から10日にかけてブリュッセルで開催される Second annual conference of the European Network of Japanese Philosophy で三人の Keynotes Speakers の一人として講演することになっているが、その内容は Cerisy のシンポジウムの発表要旨とリンクしており、両者は互いに補完し合うような関係にある。
この二つの発表(と言っても、Cerisy の方は審査があるので没になるかもしれない。その場合は別の場所で発表するつもり)の準備作業が今日からの一年間の私の研究の主軸となる。
研究テーマは « lieu de médiation »、キーワードは « trans- »。西田幾多郎の行為的直観、田辺元の絶対媒介の弁証法、シモンドンの個体化理論の相補的読解を通じて、博士論文以来構想してきた根源的受容可能性の哲学の執筆を始める時が来た。