地元さいたま市の別所沼公園で見かけた「プリムラ」の花です。冬場に咲く花として、貴重な存在で、公園の植え込みでよく見ます。背丈が低いのでおそらく雑草には弱そうで、毎日しっかりメンテナンスがなされているのでしょうね。
私が鉄オタ化する前に埼京線で撮った、205系の写真がありました。当時から少しずつE233系に置き換えが始まっており、そろそろ最後かもしれないと思って、ガラケーカメラで撮っていました。その205系、今ではどうやら富士急行を走っている様子です。確信はないですが電車の形からみて、おそらくそうなのではと思います。
W杯の最終予選に、可能な限り足を運ぶようにした習慣は、1997年のフランスW杯最終予選以来です。このときが、最終予選がホームアンドアウエー方式になった最初の大会でしたが、当時は最終予選の開催地を巡ってマレーシア開催を主張した東アジアと、バーレーン開催を主張した西アジアの調整がつかなかったことで急遽決まったホームアンドアウエー方式での最終予選でした。
もっとも、急に決まった予選ということで、9月から11月にかけて、1週間に1試合という強行日程でアジア各地を回る予選になりました。そのフランスW杯予選の試合で、最も印象に残っているのは3戦目の韓国戦(国立競技場)です。初戦のウズベキスタン戦に勝利し、2戦目のUAE戦を引き分けての3戦目でした。この試合の直前に、J1のベルマーレ平塚に所属していたブラジル人FW呂比須の帰化が認められた追い風が日本にありました。
当時の日本代表監督、加茂監督は呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。これに対し、韓国代表の車範根監督はカズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでマークさせ、さらにサイドハーフの中田英寿、名波浩にもマンツーマンでマークをつける、当時の韓国代表で主流だったマンツーマンの「根性サッカー」で対抗してきました。
このゲームが動いたのは、韓国にマンツーマンで付かれていない、ボランチの山口素弘からでした。山口が放ったループシュートが韓国ゴールを捕らえ、日本はこの膠着状態の試合で貴重な先制点を奪いました。史上最大の采配ミスはその1点リードを守ろうとした交代策で、呂比須out秋田inというものでした。試合時間は残り17分ほどで、「本当に17分も守り切れるか?」と微妙な雰囲気だった国立競技場のバックスタンドの雰囲気は今でも忘れられません。
また、秋田は高正云をマークせよと指示を受けながら、その高正云が交代していたというあり得ないようなミスもありました。受け身に回った日本は韓国に押し込まれるようになり、徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後は呂比須の交代でマーカーがいなくなった李敏成のロングシュートで1-2と逆転されてこのゲームを敗れることになりました。
もっとも、当時はまだ、最終予選が4年に1回必ず来るもので、熱くなったり冷静になったりするコントロールが効いていなかった自分でした。この負けを受け入れ切れなかった当時の私は、あてどもなく街をさまよったような、まだ若かった頃の記憶です。
もっとも、急に決まった予選ということで、9月から11月にかけて、1週間に1試合という強行日程でアジア各地を回る予選になりました。そのフランスW杯予選の試合で、最も印象に残っているのは3戦目の韓国戦(国立競技場)です。初戦のウズベキスタン戦に勝利し、2戦目のUAE戦を引き分けての3戦目でした。この試合の直前に、J1のベルマーレ平塚に所属していたブラジル人FW呂比須の帰化が認められた追い風が日本にありました。
当時の日本代表監督、加茂監督は呂比須をいきなりスタメンで起用してきました。これに対し、韓国代表の車範根監督はカズに崔英一、呂比須に李敏成をマンツーマンでマークさせ、さらにサイドハーフの中田英寿、名波浩にもマンツーマンでマークをつける、当時の韓国代表で主流だったマンツーマンの「根性サッカー」で対抗してきました。
このゲームが動いたのは、韓国にマンツーマンで付かれていない、ボランチの山口素弘からでした。山口が放ったループシュートが韓国ゴールを捕らえ、日本はこの膠着状態の試合で貴重な先制点を奪いました。史上最大の采配ミスはその1点リードを守ろうとした交代策で、呂比須out秋田inというものでした。試合時間は残り17分ほどで、「本当に17分も守り切れるか?」と微妙な雰囲気だった国立競技場のバックスタンドの雰囲気は今でも忘れられません。
また、秋田は高正云をマークせよと指示を受けながら、その高正云が交代していたというあり得ないようなミスもありました。受け身に回った日本は韓国に押し込まれるようになり、徐正源のヘディングシュートで同点に追いつかれると、最後は呂比須の交代でマーカーがいなくなった李敏成のロングシュートで1-2と逆転されてこのゲームを敗れることになりました。
もっとも、当時はまだ、最終予選が4年に1回必ず来るもので、熱くなったり冷静になったりするコントロールが効いていなかった自分でした。この負けを受け入れ切れなかった当時の私は、あてどもなく街をさまよったような、まだ若かった頃の記憶です。
東北新幹線の高架橋を走っていた山形新幹線「つばさ」です。仙台行きの「やまびこ」と併結されていて、福島で切り離す運用がなされています。この切り離し作業を利用して、北海道新幹線の「はやぶさ」が通過して行くようにして、ダイヤを有効に使えるようにしています。
鉄オタネタですが、トップの写真の右側に止まっている西武特急レッドアローの現在の姿を、富山地方鉄道で見てきました。「特急ちちぶ」と書かれたヘッドマークが外され、西武鉄道の社章が富山地方鉄道のものに付け替えられていますが、40年前の埼玉の風景を思い出しました。トップの写真はおそらく所沢駅で、写真にもある木製の跨線橋が最近に至るまで残っていたような記憶です。
オフネタ恒例の昔の代表戦では、2008年に横浜国際競技場で行われた、3次予選の日本対オマーンも印象的な試合でした。当時の日本代表はオシム監督の脳梗塞で、急遽後を継いだ岡田監督が率いており、初戦のタイ戦こそ勝利したものの、2戦目のアウェイのバーレーン戦を敗れていました。2位以内の3次予選通過に向けては、このホームのオマーン戦を敗れるとW杯出場が難しくなる試合でした。
この試合を覚えている理由は、行きの横浜線の電車の中で「この試合を負けたらW杯に出られなくなるんだな」と震える思いで横浜国際競技場に向かったためです。この試合の前に、岡田監督は「自分のやり方でこれからは戦う」と宣言してメンバーの見直しに着手し、攻撃的なタイプである遠藤保仁と長谷部誠のダブルボランチに変更していました。
遠藤保仁のアンカーは、確かに京都時代に経験はありますが、当時のガンバ大阪では攻撃的MFが定位置でした。果たして守備は持つのだろうかと、試合前は多少気になっていました。結果的にこの変更は正解で、岡田監督と後任となるザック監督がこのダブルボランチを用いて、代表史上最も長く起用されたダブルボランチになりました。
しかし、試合が始まるとそんな心配は無用でした。理由はオマーンの出方にありました。当時、日本代表はこのオマーン戦に向けてキリンカップで2試合の親善試合を消化していました。日本はコートジボワールに勝ち、パラグアイと引き分けていましたが、当時のオマーンにとってはW杯にも出てくるようなコートジボワールやパラグアイは練習試合も受けてもらえないような相手です。
そのため、オマーンは日本の攻撃に対して明らかにビビッていて、3-6-1にしたつもりだったのでしょうが、両サイドのトップ下が中村俊輔と松井大輔の攻撃的MFをマークするために引いていました。これでは、1トップのアルホスニは孤立して、オマーンの攻撃は機能しません。この布陣を見て大丈夫だと確信できましたが、開始11分で中澤佑二のヘディングシュートで先制したことでもう大丈夫でした。
結局、この試合は3-0で日本の圧勝に終わり、試合前に感じていたあの震えは何だったのだろうと思うほどでした。今思えば、この試合が南アフリカW杯が最も遠くなった瞬間でした。海外で行われる本大会を見に行くのは相当困難ですが、予選は毎回見ているので、予選の方が自分の記憶に残りがちです。この試合はターニングポイントだったので、今でも時折思い出します。
この試合を覚えている理由は、行きの横浜線の電車の中で「この試合を負けたらW杯に出られなくなるんだな」と震える思いで横浜国際競技場に向かったためです。この試合の前に、岡田監督は「自分のやり方でこれからは戦う」と宣言してメンバーの見直しに着手し、攻撃的なタイプである遠藤保仁と長谷部誠のダブルボランチに変更していました。
遠藤保仁のアンカーは、確かに京都時代に経験はありますが、当時のガンバ大阪では攻撃的MFが定位置でした。果たして守備は持つのだろうかと、試合前は多少気になっていました。結果的にこの変更は正解で、岡田監督と後任となるザック監督がこのダブルボランチを用いて、代表史上最も長く起用されたダブルボランチになりました。
しかし、試合が始まるとそんな心配は無用でした。理由はオマーンの出方にありました。当時、日本代表はこのオマーン戦に向けてキリンカップで2試合の親善試合を消化していました。日本はコートジボワールに勝ち、パラグアイと引き分けていましたが、当時のオマーンにとってはW杯にも出てくるようなコートジボワールやパラグアイは練習試合も受けてもらえないような相手です。
そのため、オマーンは日本の攻撃に対して明らかにビビッていて、3-6-1にしたつもりだったのでしょうが、両サイドのトップ下が中村俊輔と松井大輔の攻撃的MFをマークするために引いていました。これでは、1トップのアルホスニは孤立して、オマーンの攻撃は機能しません。この布陣を見て大丈夫だと確信できましたが、開始11分で中澤佑二のヘディングシュートで先制したことでもう大丈夫でした。
結局、この試合は3-0で日本の圧勝に終わり、試合前に感じていたあの震えは何だったのだろうと思うほどでした。今思えば、この試合が南アフリカW杯が最も遠くなった瞬間でした。海外で行われる本大会を見に行くのは相当困難ですが、予選は毎回見ているので、予選の方が自分の記憶に残りがちです。この試合はターニングポイントだったので、今でも時折思い出します。
地元さいたま市で今日も見ることができたカワセミです。今日は夕暮れ時の散歩だったので、飛び立つまで待つ時間はなかったので、いつも撮れる止まっている状態のカワセミです。それでも、よくいる場所はわかっているとはいえ、何が何でも見つけてやるという気持ちで川を見ていないと見つからないので、見つかったことは良かったと思います。
kobby恒例の花めぐり、来週あたり写真の「セツブンソウ(節分草)」を見に行けたらと思っています。この写真は去年の2月11日に撮ったもので、昭和記念公園に行けば群落の場所はわかっています。小さな花で、私を含めたカメラマンがカメラを低い位置に構えて必死に写真を狙っています。さて、HPを調べて、節分草の開花状況を見てから、行けるといいですね。