Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

今年一年を振り返る

2012-12-31 17:16:06 | 雑記
kobbyは体調不良で寝込んでおり、明日の天皇杯決勝は中立観戦できません。せめてもの救いは今が休みということで、有休の残り13日で年度末の3ヶ月をしのげるかは不安です。今寝込んでいるから今年一年と考えると2度も入院した悪いイメージがどうしても出てきてしまいます。

ただ、レッズに関してはいい年でした。2000年代初頭に3バックのチームが4-2-3-1のチームにことごとく敗れ、欧州の流行から3バックは遅れた戦術というイメージがありました。しかしミシャのサッカーは相手の2トップに2ストッパーを当てて、リベロが後ろをカバーする古典的な3バックではありませんでした。

攻撃のときは両アウトサイドを上げて4-1-5気味にして、守備のときは苦しくなったら5バックにしてもいいという約束事でした。この戦術は4バックの相手に対してアウトサイドが面白いように空き、梅崎や平川が高い位置でフリーになれました。

ミシャは相手によってやり方を変える監督ではないので、どんな試合でも同じやり方で挑みました。その結果、ホーム開幕戦の柏戦に勝利すると順調に白星を並べ、3位が定位置になるほどでした。今年は残留争いをしなければいいと思っていた私には期待以上でした。

自分自身は有休を使いすぎて危ないくらいですから、決していい年ではないでしょう。ただ、2つ抱えていた大病のうち一つがようやく治り、もう1つも点滴で打つ特効薬が効いてきたので、やはりずっと病気が治らないことはないと思います。

月に1回程度の通院で済めば、会社にも迷惑を掛けないで済みます。天皇杯決勝こそ断念しますが、高校サッカーの決勝と大相撲のチケットは持っているので、来年は楽しいスポーツ観戦の年にしたいです。
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松井秀喜引退

2012-12-30 18:21:49 | 他スポーツ
日本時間の28日、ニューヨークヤンキースで主力選手として活躍した元メジャーリーガー、松井秀喜選手が引退を表明しました。松井秀喜は今年はレイズとマイナー契約を結んで、一時的にはメジャー昇格も果たしましたが、ここ数年の成績は2割6分前後と、松井秀喜にしては良くない成績でした。

松井秀喜と聞いて思い出すのは星稜高校時代の甲子園での5打線連続敬遠です。当時対戦した明徳義塾が引いたくじは、どこの高校も嫌がる、一番最後まで対戦相手が決まらない位置でした。明徳義塾の馬渕監督が星稜の1回戦を見た結果、出した指示は「松井はいないものと思え」という全打席敬遠でした。

ランナーのいないときでも敬遠する極端な策ですが、仮に松井秀喜の次の5番打者が打っていれば記憶には残らないはずでした。しかし5番打者がノーヒットに終わり星稜高校が敗れたので、明徳義塾の宿舎に抗議の電話が入ったり、当時の高野連会長がランナーのいない場面は勝負すべきだったという異例のコメントを発したり、当時はちょっとした騒動になりました。

紳士的な性格で「仏の松井」と呼ばれた松井も,このときだけは打席で舌打ちをしたという伝説が残っています。しかし、松井が投手をにらみつけるような外から見える行動を取らなかったことで、当時の星稜高校の山下監督は松井はきっとプロで通用すると確信しました。

松井はドラフトのときは希望球団に自分を高く評価してくれた全球団を並べる誠意を見せ、くじ引きの末に巨人に入団します。即戦力の高校生という評価だった当時の松井ですが、当時の長島監督と一緒に素振りをしたのがプロでの20年間の一番の思い出と話しています。

松井のホームランは巨人時代に見ました。メジャーの強打者の中には力で強引に持っていく選手もいますが、松井の場合体のバランスを保って技術でホームランを打っていたバッターで、当時五輪で活躍していたハンマー投げの室伏を思い出す選手でした。

メジャーリーガーとしての松井秀喜も、世界的選手が並ぶ当時のヤンキースのメンバーから「真のプロ」と尊敬を集めていた選手でした。松井はメジャーでは自分はホームランバッターではないと考えてヒットを打つ選手になりましたが、日本人初のワールドシリーズMVPなど、後に続く選手に希望を与えたと思います。巨人入団時の期待には十分応えた、充実した現役生活だったと思います。
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大野忍、リヨン移籍

2012-12-28 19:33:46 | レディース
浦和レディースの新監督手塚貴子氏や野球の松井秀喜の引退など書きたいネタはありますが、今の段階では一行記事程度の情報しかないので、昨日発表になったなでしこジャパンMF大野忍選手のリヨン(フランス)移籍を取り上げます。

リヨンといえば女子欧州CL2連覇の強豪で、ロンドン五輪の準決勝で日本が苦しんだフランス代表の選手を12人含むチームです。大野の現所属チームのINACはなでしこリーグを無敗で優勝していますが、リヨンとの対戦では延長戦の末、敗れています。

最近はなでしこジャパンの選手がレベルアップを目指して欧州のリーグに移籍するケースは増えてきています。欧州の女子チームは男子のトップチームの下部組織として置かれているので、プロという訳にはいかないですが、日本サッカー協会が海外に挑戦する代表レベルの選手の生活費を負担してくれるようになったので、思い切って挑戦することができるようになりました。

大野といえばスピードのあるアタッカーですが、私は同じポジションの安藤梢のファンなので、大野に関してはライバルという意識もあります。佐々木監督が長い距離が速い大野をMFに置き、短い距離が速い安藤をFWに置いたので同時出場できましたが、この二人はまだライバルとして戦うでしょう。

もちろん大野の代表キャップ三桁の実績と高い得点力は私も評価しています。風貌もプレースタイルも似ている、元男子代表の大久保嘉人選手(神戸)の女子版というイメージです。INACではキャプテンとしてチームをまとめて優勝を果たしましたが、INACでは澤、川澄、大野という攻撃的な選手を中盤で使っており、攻撃的MFは余り気味でした。

大野はアメリカにプロリーグがあった時代にドラフト指名される海外挑戦のチャンスはありましたが、環境を変えるリスクを恐れてその話を断った過去があります。当時は海外組は澤だけだったので、海外挑戦のノウハウが蓄積されていなかったのもためらった理由でしょう。

今回は年齢的に最後のチャンスになりそうなことと、海外挑戦がなでしこジャパンで一般的になったので、一度はやってみようと思ったのでしょう。リヨンは男女両方が強い、欧州でもあまりないチームなので、男子のトップチームを観戦するのもいい影響があるかもしれません。
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東北本線鈍行の旅

2012-12-27 18:53:47 | 雑記
昨日友達からメールがあり、JRならどこまでも乗れますが鈍行しか乗れない、鉄道ファンにはお馴染みの「青春18切符」を譲るという用件でした。高校時代にこの18切符を使ってよく一人旅をしていたことを思い出しました。この18切符で、最長どこまで旅ができるか時刻表で計算するのは楽しい遊びでした。

その旅の中で印象深いのは東北本線の旅でした。今思うと、こんな勝手な思い付きに母を付き合わせて、始発電車の時間に朝食を作ってもらったのは申し訳ないですが、今でも覚えているくらいですからこの旅で得たものもあります。

当時は駅のスタンプを集めていて、まず目的地の中で最も遠い福島まで5時間かけて行き、戻りながらスタンプのある駅で途中下車して集める行程を組んでいました。今だと携帯電話でインターネットもできる時代ですから、充電器と電池さえあれば5時間の暇を潰す方法はありますが、当時はそういうものはなかったので、当時購読していた「週刊将棋」に載っている詰め将棋をいくつも解くことで時間を潰していました。

高校生の小遣いには新幹線の特急料金はあまりにも高いものでしたが、当時の18切符の2000円は十分小遣いの範囲内で、福島まで本当に行けると知ったときは嬉しかった記憶があります。もちろん、当時の東北本線の鈍行で福島に行くには黒磯で乗り換える必要はありますが、普段見ている浦和駅のホームと福島が本当につながっていると実感できました。

スタンプ集めが当時の旅の目的なので、降りた駅の滞在時間は1時間です。しかし、1時間あれば結構面白い探検はできるもので、本宮駅では安達太良川を見ましたし、白河駅では寛政の改革で有名な松平定信の居城の小峰城址を見ました。今は城址の建物が復元されたという情報もありますが、当時は石垣が残るだけの公園でした。

また、当時は県が違えば新聞も違うという、今では当たり前のことも新鮮でした。駅の売店で初めて買った福島日報を食い入るように読んだことも楽しい記憶です。今は始発電車に乗る行動力はもうありませんが、今度の18切符では何をしようかと考えるだけでも結構面白いものです。
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代表トップ下の記憶(北澤豪)

2012-12-27 17:55:31 | 他チーム
被災地の復興支援チャリティーマッチとして、なでしこジャパンのメンバーがU-20のヤングなでしこと対戦した試合が国立競技場でありました。3連休の翌日で普通の社会人は休みにくい日程でしたが、発案者の澤の意思に賛同したサッカーファンが3万人も集まりました。

この試合は後半でなでしこが男子の日本代表OBと対戦しました。この顔合わせは結構面白く、走る能力なら現役のなでしこの方が上ですが、男子のOB選手は今でもテクニックを持っていて、ラモス瑠偉は現役時代を思い出すような華麗なヒールキックを見せました。

この試合を見て思い出したのは同じ国立競技場で1997年に行われた日本代表対UAE戦です。中央アジア遠征で勝ち点2しか取れず、追い詰められた当時の岡田監督が切り札にしたのが北澤のトップ下起用でした。当時の北澤のボールのないところでの動きは素晴らしく、よくそのスペースが見えていたと、スタンドから見ていると実感できました。

当時と同じ背番号14でトップ下に入った北澤は、たぶんどこかでトレーニングをしていたはずです。ラモス瑠偉のテクニックが目立ったのは北澤がそのボールに反応できたからで、V川崎時代もこんな動きをしていたと思い出します。

北澤は点も取っていますし、引退した選手は走る能力から先に衰えるものですが北澤は引退からだいぶ経った今でも、引退したばかりの藤田俊哉や福西崇史並みに動けるのは大したものです。

V川崎時代の全盛期にはラモス瑠偉やビスマルクなど攻撃的な選手を陰で支えていた脇役ですが、話術もうまく誠実な人柄で解説者としては成功していると思います。いつかは監督にという夢は持っているようで、やるとすれば古巣の東京Vかなと思います。
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両国国技館

2012-12-26 18:11:00 | 他スポーツ
日本相撲協会は、かつては日本有数の優良企業と言われていました。その象徴が両国国技館です。行ったことのある方ならご存知でしょうが、両国駅を降りて徒歩1分という驚異的なアクセスの良さを誇ります。しかも、この両国国技館を無借金で建てたのも驚異的です。

もし相撲協会が財政的に苦しくなっても、この両国国技館を売りに出せば当面大丈夫なので、優良企業と呼ばれるわけです。去年の不祥事のときは春場所が中止、夏場所が技量審査場所という名前になって入場無料と二場所分の収入がなくなったピンチでしたが、両国国技館に手はつけないで済んだので大丈夫だと思いました。

私は相撲観戦は大抵2階席の中段の椅子席Bと決めていますが、両国国技館の椅子は映画館の椅子と同じくらいの座り心地の良さを誇ります。しかも、昭和60年という、今から見れば遠い昔の建物にしては土俵が見やすく、2階席でも十分楽しめる構造になっています。

両国国技館に行くと、目立つのはチケットのもぎりを親方衆がやっている可能性があるところです。私が行ったときは元関脇高見山がチケットをもぎっていました。引退後だいぶ経っていましたが、トレードマークのもみ上げは健在で、気づいたファンは写真を撮っていました。当時の携帯電話にカメラがついていなかったのは本当に残念です。

国技館で生観戦すると、仕切り時間の4分が長く感じる方もいらっしゃるでしょう。テレビ観戦だと他のこともできる時間ですが、以前の相撲界は昭和天皇も評価した富士桜対麒麟児のように時間前に立つ力士がいたので、見ている方も油断できませんでした。

最近の力士のパフォーマンスでは水戸泉の塩撒きや高見盛の気合いや日馬富士の平蜘蛛など、時間ぎりぎりに一回だけ見せるものがほとんどです。このパフォーマンスはオールドファンの中には時間前には決して立たないという理由であまり好きではない方もいらっしゃるようです。

こんなネタを突然思い付いたのは、私が初場所に行くからです。久しぶりの国技館に今からわくわくしている自分の気持ちの入り具合を思えば、4900円のチケット代は安いものだと思います。仕事納めまであと2日、もう来年のことを言っても鬼は笑わないでしょう。
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苦しんだ女王(12/24INAC対千葉)

2012-12-25 18:50:42 | レディース
冷たい雨が降ったので、皇后杯の準決勝の生観戦は控えて自宅でテレビ観戦にしました。NACK5スタジアムに行ったら浦和戦しか見ない予定だったのでそのメリットは確実にあり、千葉がどういうチームか把握する機会は貴重でした。千葉はプレッシングサッカーで、中盤の狭いエリアに選手を集めて取ったら縦に早くというサッカーでした。

このサッカーだと、皇后杯の準決勝と決勝が中1日という強行日程はきついだろうと予想していました。しかも、皇后杯はトーナメント戦なので延長戦があり、千葉は準決勝で延長戦をしているからなおさらです。INACはなでしこリーグを無敗で優勝しているので、千葉に勝ち目はないと予想するのは自然です。

しかし、千葉は格上INACに対し引いて守ることはせず、果敢にプレッシングサッカーを挑みました。INACはなでしこジャパンの多くを含み、ほぼなでしこジャパンと言ってもいいチームです。千葉がたとえ準決勝で見せた狭いエリアに人数を寄せるサッカーをしても、INACならサイドチェンジをして空いているサイドから攻められるはずと思っていました。

しかし、中1日の疲労はINACの方に色濃く出ました。名手澤がパスミスをしたり、CB甲斐が相手11番に不用意にボールを失ってカウンターを食ったりと、とてもリーグ戦で横綱相撲を見せたINACとは思えませんでした。

準決勝ではカウンターに必要な人数を上げ切れなかった千葉ですが、この日は今季最後の試合ということもあって、延長戦のことは考えず思い切って飛ばしました。カウンターから小川がGKと1対1の好機を迎えましたが、これを外してしまいます。

INACはベンチワークにも冴えが見られませんでした。走れるFW川澄を最初は右ウイングで使いましたが、思うようにパスが出ないのを見てトップ下に回しました。しかし、この試合で川澄が目立つことはなく、布陣変更の効果は出せませんでした。

そんな試合でも、最後のセットプレーで勝ててしまうところはさすがINACですが、この女王がここまで苦しんだところを見たのは初めてです。今年から菊のご紋章が入った皇后杯を高円宮妃久子様から授与される名誉ある大会になりましたが決勝にふさわしい、いい試合だったと思います。
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ローマの思い出

2012-12-24 17:38:49 | 雑記
1999年のサッカー旅の最後はローマでした。2000年以上前からの古代都市なので、街の至るところに遺跡が当たり前のようにあります。ローマでは古い街を埋め立ててその上に新しい街を作っていたので、掘れば大抵のところから遺跡が出てくる街でした。

都市が発展するには上下水道を整備して、狭い面積に多くの人が住めるようにすることが必要です。江戸は玉川上水を引いた1700年代に世界的に珍しい人口100万人の都市になりましたが、ローマは紀元前からの街ですから文化の古さではダントツです。

ローマは紀元前の水道橋が街の中心部を横切っていて、いまだにがっしりしたアーチ型は健在です。私は行きませんでしたが、ローマには公衆浴場の跡もあります。一番有名なのはコロッセオ(闘技場)でしょう。ローマ時代に観客席を階段状に作れば後ろの人も見られるという発想が既にあったことと、ローマ市民に娯楽を見られる余裕があったことに驚きを感じます。

ただ、コロッセオは周辺の円筒形状はほぼ完全に残っていますが、中に入って見ると客席はだいぶ崩れています。中でやっていた競技は1対1の剣での格闘や、水を張って舟同士を戦わせたりしたようです。2000年も経った今、サッカーを見にイタリアまで行く私も同類だなと、当時の観客に思いを馳せます。

ローマの神殿の跡、フォロ・ロマーノはコロッセオから歩ける距離です。もっとも、ギリシャのパルテノン神殿ほどたくさんの柱は立っておらず、残っている柱は頼りない記憶をたどれば3本ほどです。

神殿のそばには、神殿から落ちてきたと思われる四角形の石が転がっていました。ラテン語の文字が刻まれていますが、日本なら博物館に入れて必死で解読するのでしょうが、ローマにはそんなものはたくさんあるとばかりに無造作に転がされ、旅行者の椅子代わりになっています。

当時はGWだったこともあってイタリアは暑く、有名なイタリアンジェラートを食べるにはちょうど良い陽気でした。映画「ローマの休日」で有名なスペイン階段や真実の口も見ました。日本でいえば京都みたいなもので、時間さえあれば観光のネタには困らない街です。
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戻ってきたあの試合2(1999年リバプール戦)

2012-12-24 16:52:17 | ワールドサッカー
昨日の続きです。リバプールは後半頭から右SBを下げて、現在のキャプテン、ジェラードを投入します。当時18歳だったジェラードは現地の新聞で有望株と呼ばれて注目されており、出てくることを期待していました。ポジションはそのまま右SBに入りますが、鋭いドリブルなどは才能の片鱗を見せました。

トットナムが一人少なくなったことで、2点ビハインドのリバプールがどういう手に出るかは注目でしたが、当時32歳の元イングランド代表ボランチ、インスの位置を一列上げます。このインスが高いキープ力を見せ、ボールの配給役になったことで試合の流れは完全に逆になります。

後半開始4分、左サイドハーフのトンプソンが抜け出したところをGKウォーカーがファウルしてPKになり、これをレドナップが決めて1-2とすると、レドナップ、インス、マクマナマンの名前は私のノートに次々登場してきます。こういう展開になると、アウェイ側のゴール裏は両チームの全ゴールが自分の目の前という結果になり、結果的に幸運ということになります。

それでも、1-2のままで後半30分過ぎまで進んだので、トットナムが数的不利を守り切れば勝つ可能性もありました。それが破れたのは、31分にマクマナマンが蹴ったCKをショートコーナーにしてレドナップが放ったシュートからでした。これが直接決まってリバプールが同点に追いつくと、その3分後に4番のクロスからマクマナマンがダイレクトで合わせて3-2と逆転します。

マクマナマンは生まれも育ちもリバプールという地元っ子で、オーウェンのいないこの試合では最も注目される存在でした。彼はこのシーズン限りでリバプールを去り、Rマドリード(スペイン)に移籍するものの、ジダンやフィーゴを補強されて控えになる不遇を味わい、イングランド代表からも外されてしまいます。

この後半戦では、前半はあれほど目立ったトットナムFWアームストロングがほとんどボールに触っていません。一人少ないチームはもちろん守る必要はありますが、たまにはカウンターを機能させて外れてもいいからシュートで終わらないと、守りばかりでは疲れてきます。

結果は3-2でリバプールが勝利します。当時のアンフィールドには電光掲示板がなく、選手紹介は声だけだったので、数字だけ辛うじて聞き取れる英語を頼りにスタメンの名前をメモしました。もっとも、今はアンフィールドにも電光掲示板はできたようです。
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戻ってきたあの試合(1999年リバプール戦)

2012-12-23 19:41:45 | ワールドサッカー
昨日書いた通り、私は1999年のGW、イングランドとイタリアをはしごしたマニアックなサッカー観戦ツアーに出かけています。もう13年も前のことですから、試合自体は楽しかったものの、誰がどうやって点を取ったかなどは忘れかけていました。しかし、今日家を片付けると、当時の記録を書いたノートが見つかり、あの日の感動がよみがえってきました。

日本ではGWの時期はシーズン序盤ですが、欧州のリーグ戦では5月は佳境の時期です。当時、リバプールもトットナムも欧州CL圏からも残留争いからも遠く離れた位置にいて、この試合は消化試合でした。当時、リバプールの正GKはのちにW杯にも出るジェームスでしたが、このシーズンのジェームスの出来には首脳陣は不満としてスタメンを外し、代わりにアメリカ代表GKフリーデルが入っていました。

また、当時リバプールで最も有名な選手だったオーウェンや点取り屋ファウラーは両者とも負傷欠場で、マクマナマン、リードレの2トップでした。リバプールのオフィシャルショップはリバプール側ゴール裏の下にあり、7番が好きな私はマクマナマンの7番の入ったレプリカを買いました。

これを着てリバプールを応援しようと思っていたら、私の席はなんとアウェイ側のゴール裏最前列で、周りはトットナムサポばかりですから、とてもリバプールのレプリカは出せず、黙々と記録を書いていました。13年も前で、まだまだサッカー観戦歴は初心者の部類だった私のノートは今見ると短時間でメモする能力などに未熟さも感じましたが、自分で書いている以上意味はわかります。

そのノートによれば、トットナムの1トップはアームストロングという筋肉質のアフリカ系選手でした。前半は目の前にアームストロングが来るサイドだったので、このアームストロングが体を張ってキープするプレーは結構テクニックを感じました。

先制点はアームストロングが起点で、右サイドを上がっていたデンマーク代表MFイベルセンにはたき、イベルセンのドリブルからのクロスをリバプールDFキャラガーがオウンゴールしてトットナムに先制点が入ります。

リバプールはマクマナマンのドリブルや左SBマッテオのクロスで対抗しましたが、トットナムGKウォーカーの壁は破れず、25分のマッテオのシュートはポストを直撃します。前半終了間際の39分、トットナムMFアンダートンのFKから混戦になったところをイベルセンが押し込んで2-0とアウェイのトットナムがリードして折り返します。

もっとも、この試合はトットナムが前半終了間際に退場で左SBタリッコを失っています。トットナムベンチはボランチのクレメンスを下げて左SBにキングを入れ、トップ下のアンダートンをボランチに下げて残り45分を戦うことにしました。長くなったので、続きは明日書きます。
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