ベテランサポ恒例の昔話は、自分の少年時代だった80年代のサッカーです。1968年メキシコ五輪にFW釜本を擁して銅メダルを得た日本サッカーですが、チャンスだった1970年メキシコW杯予選で肝炎で釜本を欠いたことが響いて予選敗退すると、その後はW杯も五輪も予選通過を果たせない大会が続きます。そのため、80年代のサッカーは、「日本代表が弱いから見ない」というのが一般的なイメージでした。
そのあおりを受けたのが、当時の日本のトップリーグだった日本リーグでした。日本サッカーの父と言われた元日本代表監督、クラマー氏の提言で、「日本代表を強くするにはリーグ戦で強化する必要がある」との掛け声で作られた日本リーグでしたが、80年代は人気がなく、ガラガラのスタンドで行われることが常でした。当時、「国立競技場のバックスタンドで待つ」と言って、待ち合わせができたほどと聞きます。
しかし、そんなサッカー冬の時代にも、人気があったサッカーイベントはあります。それは全国高校サッカー選手権とトヨタカップでした。トヨタカップは欧州王者と南米王者の「インターコンチネンタルカップ」を日本に呼んだもので、W杯予選を日本代表が勝ち抜いて世界の強豪と対戦するのが夢物語だった時代で、数少ない世界最高峰を見られる試合でした。
意外にも高校サッカーは当時の花形イベントでした。当時から日テレが放映権を持っていて、準決勝と決勝は全国放送だったこともあり、この高校サッカー選手権が当時の国立競技場を満員にできた数少ないイベントでした。当時の主題歌「ふり向くな君は美しい」も有名で、当時私が通っていた小学校で昼休みにこの曲がBGMでかかっていたほどでした。
もっとも、高校サッカーが一番人気があるというのは、日本サッカーにとっては複雑でした。当時、高校サッカーで注目された選手が、日本リーグに行くと途端に注目されなくなるので、「高校サッカー燃え尽き症候群」というモチベーションの維持が難しい状況になったからです。もっとも、当時の日本代表がW杯に王手をかけた、1985年の韓国戦だけは国立競技場が満員になりました。
今でも木村和司のFKで知られるこの試合ですが、ホームアンドアウエーの2試合に連敗した日本のW杯出場はなりませんでした。もっとも、これで日本代表を強化するにはプロ化をという風潮ができて、のちのJリーグにつながります。時代の進歩には常に下地がありますが、今思えばこの頃に浦和レッズがあったらもっとサッカーにはまっていたでしょうね。
そのあおりを受けたのが、当時の日本のトップリーグだった日本リーグでした。日本サッカーの父と言われた元日本代表監督、クラマー氏の提言で、「日本代表を強くするにはリーグ戦で強化する必要がある」との掛け声で作られた日本リーグでしたが、80年代は人気がなく、ガラガラのスタンドで行われることが常でした。当時、「国立競技場のバックスタンドで待つ」と言って、待ち合わせができたほどと聞きます。
しかし、そんなサッカー冬の時代にも、人気があったサッカーイベントはあります。それは全国高校サッカー選手権とトヨタカップでした。トヨタカップは欧州王者と南米王者の「インターコンチネンタルカップ」を日本に呼んだもので、W杯予選を日本代表が勝ち抜いて世界の強豪と対戦するのが夢物語だった時代で、数少ない世界最高峰を見られる試合でした。
意外にも高校サッカーは当時の花形イベントでした。当時から日テレが放映権を持っていて、準決勝と決勝は全国放送だったこともあり、この高校サッカー選手権が当時の国立競技場を満員にできた数少ないイベントでした。当時の主題歌「ふり向くな君は美しい」も有名で、当時私が通っていた小学校で昼休みにこの曲がBGMでかかっていたほどでした。
もっとも、高校サッカーが一番人気があるというのは、日本サッカーにとっては複雑でした。当時、高校サッカーで注目された選手が、日本リーグに行くと途端に注目されなくなるので、「高校サッカー燃え尽き症候群」というモチベーションの維持が難しい状況になったからです。もっとも、当時の日本代表がW杯に王手をかけた、1985年の韓国戦だけは国立競技場が満員になりました。
今でも木村和司のFKで知られるこの試合ですが、ホームアンドアウエーの2試合に連敗した日本のW杯出場はなりませんでした。もっとも、これで日本代表を強化するにはプロ化をという風潮ができて、のちのJリーグにつながります。時代の進歩には常に下地がありますが、今思えばこの頃に浦和レッズがあったらもっとサッカーにはまっていたでしょうね。