10年前の浦和のJ2降格の日、私は駒場のバックスタンドに座っていました。しかし、当時の試合内容はあまり覚えていません。当時の浦和の監督、ア・デモス氏の采配は疑問点ばかりでしたが、あの頃は監督批判などやっている場合ではない、とにかく応援するのみとサポがまとまっていました。
私も、普段ならメモを取って試合分析をするところですが、この試合はそれどころではないと、少しは声も出して応援もしたつもりです。あの当時、駒場スタジアムに向かう道の途中、本太小学校の脇にあった桜の木が印象的でした。
17日の市原戦でも同じところを通っていますが、市原戦の日は落ち葉の盛りで、うず高く積まれた落ち葉が深まりゆく秋を象徴していました。しかし、最終戦の広島戦では落ち葉はほとんど散っていました。いよいよ冬かと思う頃で、今でも桜の落ち葉が散り、残りの葉がわずかになると、「この季節に浦和はJ2に落ちたのか」と思い出します。
隣の本太氷川神社に賽銭を入れて残留を祈願してから、すっかり寒くなった駒場の長い行列に並び、開門を待つ間はサポ仲間と、この試合は絶対勝つと、サポといえども弱気になったら負けと気合いを入れます。
しかし、浦和は4戦前の市原戦の時点で下から2番目の15位で、市原に勝ってようやく勝ち点で市原に並ぶという本当の崖っ淵でした。そこから2勝1分けでようやく自力残留の目が出るところまでこぎつけたというのが試合前の状況でした。
勝って欲しいのは、駒場に詰めかけた浦和サポは皆思っていたはずですが、勝たなければ終わりという試合が続いたことによるサポとしての疲労感は確実にありました。選手もこの最後の4戦が週2試合で一気に消化されたことによる疲れもあったかもしれません。
今でも、ベンチに福田、大柴、盛田を入れておいて、福田の投入が最後の9分だけだったのは何故?という気持ちはありますが、あの試合でどこをどうすれば勝てたというのは私の頭にありません。
やはり、降格の微妙な差を分けたのは、疲労感だったのではというのが私の記憶です。しかし、当時はJ2はもっと疲れるということはわかっていませんでしたが。
私も、普段ならメモを取って試合分析をするところですが、この試合はそれどころではないと、少しは声も出して応援もしたつもりです。あの当時、駒場スタジアムに向かう道の途中、本太小学校の脇にあった桜の木が印象的でした。
17日の市原戦でも同じところを通っていますが、市原戦の日は落ち葉の盛りで、うず高く積まれた落ち葉が深まりゆく秋を象徴していました。しかし、最終戦の広島戦では落ち葉はほとんど散っていました。いよいよ冬かと思う頃で、今でも桜の落ち葉が散り、残りの葉がわずかになると、「この季節に浦和はJ2に落ちたのか」と思い出します。
隣の本太氷川神社に賽銭を入れて残留を祈願してから、すっかり寒くなった駒場の長い行列に並び、開門を待つ間はサポ仲間と、この試合は絶対勝つと、サポといえども弱気になったら負けと気合いを入れます。
しかし、浦和は4戦前の市原戦の時点で下から2番目の15位で、市原に勝ってようやく勝ち点で市原に並ぶという本当の崖っ淵でした。そこから2勝1分けでようやく自力残留の目が出るところまでこぎつけたというのが試合前の状況でした。
勝って欲しいのは、駒場に詰めかけた浦和サポは皆思っていたはずですが、勝たなければ終わりという試合が続いたことによるサポとしての疲労感は確実にありました。選手もこの最後の4戦が週2試合で一気に消化されたことによる疲れもあったかもしれません。
今でも、ベンチに福田、大柴、盛田を入れておいて、福田の投入が最後の9分だけだったのは何故?という気持ちはありますが、あの試合でどこをどうすれば勝てたというのは私の頭にありません。
やはり、降格の微妙な差を分けたのは、疲労感だったのではというのが私の記憶です。しかし、当時はJ2はもっと疲れるということはわかっていませんでしたが。