Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

香川真司の記憶

2020-03-31 22:55:27 | ワールドサッカー
ドルトムントの来日の2017年に、オーロラビジョン越しとはいえ香川真司の写真がありました。そのため、今日は香川真司の記憶を書きます。17歳でFCみやぎバルセロナからC大阪入りした香川は、寮では優等生で、当時の寮長が「香川と南野は怒った記憶がない」と言ったほどです。オフの楽しみがワールドサッカーのビデオと、常にサッカーを考えての行動でした。

香川の名前が自分の中でインプットされたのは、2008年の親善試合U-23日本対アルゼンチン戦です。当時、左MFで出ていた香川が、誰もがパスを予測する中で意表を突いたロングシュートを狙ったことが驚きでした。相手GKが必死で戻り、辛くもこのボールをクリアしたので記録には残りませんが、常に相手の嫌がることをやる姿勢は好感が持てました。

その年のW杯最終予選のウズベキスタン戦で、岡田監督に出場停止の松井の代役で左MFで起用されたのが、表舞台での第一歩でした。もっとも、相手も香川の個人技は警戒しており、常にDFを2枚つけて香川を消しに行ったことで流れの中では目立てず、2010年の南アフリカW杯ではサポートメンバーでの帯同という屈辱も味わうことになります。

もっとも、当時香川はJ2でMFながら27得点を挙げて得点王になるなど、海外のスカウトに見られている存在でした。そのW杯の後、ドイツのドルトムントから完全移籍のオファーを受け、C大阪も異例の移籍金ゼロで送り出したことが今につながっています。ドルトムントでは動けるトップ下として攻守に絡む活躍を見せ、2012年にマンチェスターユナイテッドからオファーを受けて、ついにプレミアリーグのピッチに立ちます。

ファーガソン監督には主力として認められ、6得点も挙げましたが、後任のモイーズ監督の時代がマンUの低迷期だったのは香川には厳しかった状況でした。マンUでは出場機会を失い、ドルトムントに戻ることになります。もっとも、日本代表ではその個人技は必要とされました。トップ下には本田圭佑がいたので左MFでの起用でしたが、ここでボールを持てることが日本代表の強みだった時期は長いです。

2010年の親善試合のアルゼンチン戦でのプレーが印象的で、彼の切り返しでアルゼンチンのDFが左右に振られる動きを見て、日本人が上手くなるための練習を積むことは有効なんだと確信が持てました。今、香川はスペイン2部のサラゴサにいます。こういうタイプはベテランになっても上手いので、もう一度Jリーグのピッチで見てみたい選手です。

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ソシンロウバイ

2020-03-31 22:26:38 | 埼玉
ちょっと季節を逆に戻しますが、2月の森林公園では写真のソシンロウバイが見ごろでした。蝋細工のように見えるからこの名前がついていますが、自然界では食べられやすい花で、鳥に食べられることで見頃を過ぎます。梅林にはちょっと早い時期でしたが、これを見られたことは幸運でした。
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原口元気の記憶

2020-03-30 22:31:46 | 浦和レッズ
そろそろ、記憶ネタでどこまで持たせられるか気になってきましたが、写真がある限り思い出はあるということで、現在ドイツ2部ハノーファーに所属する原口元気選手の記憶です。原口は少年時代から「江南南サッカー少年団に上手い選手がいる」と熊谷周辺では噂に上るほどの選手でした。浦和レッズにはジュニアユースから在籍します。

もっとも、当時の原口は上手いものの、チームのために犠牲になるという精神に欠けるところがあったと、ジュニアユース時代に指導した池田伸康コーチ(現ユース監督)の証言です。そんな原口にチームプレーを教えたことで、ユース時代は高円宮杯優勝を果たした黄金世代の一人になるまで成長します。トップ昇格は17歳(高校3年生)のときで、浦和史上でも高校卒業以前のプロは彼一人です。

当時のトップチームは若手を多く抜擢したフィンケ監督が率いており、原口は開幕戦の鹿島戦でいきなりスタメンで出番を得ることになります。左MFでスタメン出場した原口は、「ロビー(ポンテ)には怒られてばかりだった」と当時を振り返っていましたが、ポンテのサッカーセンスについていけるだけのサッカー頭脳を持っていました。

原口といえばドリブルです。2010年のC大阪戦で決めた、自陣からの長い距離をドリブルで独走したゴールは今でも思い出せます。当時、C大阪のボランチが、このくらいなら止められるだろうという間合いの寄せを逆に取った独走は、低迷期の浦和にとって希望でした。その後、浦和に移籍金が入るようにと、あえて3年契約を結んだ誠意も、浦和サポにとっては感動的でした。

原口は2013年、契約を半年残した時点でドイツのヘルタ・ベルリンに完全移籍します。このときの移籍金は8000万円で、その一部を使ってレッズランドに「原口コート」というフットサルコートを作りました。その後の原口は、日本代表のハリルホジッチ監督に認められ、最終予選4試合連続ゴールを決めて代表選手へと上り詰めていきます。

もっとも、ドイツでの彼のプレーを見ていると、攻撃よりは守備で持ち味の運動量を使わされている印象は受けます。攻められる選手ですが、日本人特有のチームのために犠牲になれる精神で評価されるのはちょっと複雑です。この辺りで日本に戻って、ドリブルで展開を打開できる能力を見せて欲しいかなと時々思います。
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ユキヤナギ

2020-03-29 21:05:49 | 埼玉
近所で見かける、ユキヤナギの小さな花が見頃を迎えました。どうしても枝が動く、風のある日は写真に撮りにくい花ですが、カメラの性能が上がったことでそれなりの一枚になりました。
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長谷部誠の記憶

2020-03-29 19:38:50 | 浦和レッズ
今日は雪の影響で自宅缶詰だったので、撮り貯めていたビデオから、ブンデスリーガのレバークーゼン対フランクフルトを見ていました。長谷部は4-1-4-1のアンカーで出場していましたが、相手に運動量で上回られ、アンカーの横を狙われ続けたことでフランクフルトは0-4という惨敗に終わりました。そのため、試合の記事よりは長谷部の記憶を書こうと切り替えました。

長谷部は2002年、前年にオランダに移籍した小野伸二の移籍金4億円を使って、次世代のヒーローを発掘しようとしていた浦和に高卒で入団します。本人にとっては「(無名の自分のところに)なぜスカウトが来る?」と意外なオファーでした。入団初年度の2002年は、サテライトリーグが定位置で、観客もまばらな川越陸上競技場でのプレーを見たことがあります。

当時の長谷部は、背番号も32と大きく、トップ下でセットプレーなどは任されていましたが、すぐにトップに上げて大丈夫な様子には見えませんでした。しかし、翌年は背番号も17と期待されるようになり、トップ下に予定していた元ブラジル代表のエジムンドの突然の退団で空いたトップ下に抜擢されて、開幕戦の鹿島とのアウェイ戦で先発出場しました。

このときの長谷部のプレーは落ち着いており、2トップの永井とエメルソンに正確にボールを供給できていました。今振り返ると、長谷部という選手は驚くようなスルーパスを狙うMFではなく、空いているスペースを見分けて確実にパスを出すMFだったと思います。このプレーで信頼を得た長谷部は、オフト監督にトップ下とボランチ両方で起用されて多くの試合に出場しました。

翌年、ギドが監督に就任した2004年は、ボランチに名古屋から酒井友之を補強され、長谷部としては厳しいシーズンになる恐れもありました。しかし、長谷部は酒井の挑戦を跳ね返し、鈴木啓太と長谷部のダブルボランチが、欧州に移籍するまでの4年間で定番のコンビになりました。当時のことを長谷部は「後ろは啓太君が何とかしてくれるから思い切って上がっていい」とギドに言われていたと明かしています。

埼スタの磐田戦で50m独走ゴールを決めるなど、浦和に十分貢献してくれた長谷部は、ドイツのボルフスブルクに2008年シーズンから移籍して浦和を去ります。それから12年、未だにドイツでプレーし、奥寺康彦氏が持っていた日本人ブンデスリーガ最多出場記録を塗り替えるほどの選手になりました。川越のサテライト時代を覚えているオールドファンの私としては、長谷部はずいぶん遠いところに行ってしまったのが正直な印象です。
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新緑

2020-03-28 21:40:47 | 埼玉
近所で見かけた「コブシ」の新芽です。今は桜の季節ですが、新緑のトップランナーがこのコブシです。いつも、綺麗な色をしていながら、なかなか満足いく写真が残せていなかったですが、今回近くに寄って撮ることができました。
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エディンソン・カバーニの記憶

2020-03-28 15:19:20 | ワールドサッカー
Jリーグは新型コロナウイルスの影響で5月頭までの試合の延期が決まりました。試合に飢え始めている私にとってはこたえる延期ですが、まだこのウイルスは拡大傾向にあるので仕方ありません。そのため、記憶で書けるネタから、ウルグアイ代表FWエディンソン・カバーニの記憶を書きます。この写真は、2018年10月にウルグアイ代表が来日したときに撮れた一枚です。

ウルグアイがW杯4位と躍進した、2010年南アフリカW杯ではフォルランとスアレスの控えでしたが、その後何度か親善試合で来日しています。当時、右FWにスアレス、中央にフォルラン、左にカバーニという3トップで戦うことが多かったウルグアイですが、最初は自陣にブロックを作って慎重な入りをして、カウンターで攻めることが多かったウルグアイですが、日本はそのカウンターで失点してあっさり負ける印象があります。

また、カバーニといえばナポリ時代のセリエA得点王の印象も強いです。ウイングとしてサイドを走ることもできれば、中央で味方のクロスを待つこともできるFWで、1トップでも2トップでも3トップでも対応可能という強みがあります。このナポリ時代が彼のキャリアのハイライトで、ナポリの3年間で26点、23点、29点とゴールを量産する活躍でした。

この活躍で、フランスリーグのパリSGに80億円近い移籍金で移籍します。パリSGでもフランスリーグの得点王と活躍しています。ちょうど、そのパリSG時代の2018年に来日して、日本との親善試合に出場しています。当初、4-2-3-1の1トップで起用されていましたが、後半に2トップに変えてからが彼の技術の見せ場でした。

孤立しても強引に点を取るタイプでなく、周りとうまく連携を見せるタイプのようで、日本戦では三浦のパスミスを拾ってのゴールもありましたが、サイドに流れてからクロスを送って、2トップの相棒のロドリゲスのゴールをアシストしたプレーが光りました。それだけ、どんな役割でもこなせることが、彼の長いキャリアを支えてきたのでしょう。

今は、パリSGで出番が減っており移籍の噂があります。33歳とベテランになってきたので、南米に戻る選択肢もあります。そんな選手を生で見た記憶は大切にしたいと思います。



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ブログ開設5000日

2020-03-26 22:43:53 | 雑記
昨日、当ブログが開設5000日の節目を迎えていました。書き始めて14年、ブログの文章はほぼ1000字で毎日書いていくペースが日常のものとなりました。最近は新型コロナウイルスの影響で、サッカーを始め野球も含めた試合自体が世界中でないという、これまでになかったネタ不足の状態です。サッカーの昔の記憶を掘り起こして、いろいろ書いていますがどこまで持つでしょうか。

私自身の活動にも変化が生じており、週末にトレーニングに出かけていた公共施設が休館するという逆風が吹いています。目標にしてきた、マラソンのレースも中止になり、トレーニングの目的が見出しにくい現状です。こういうときは、公共施設の開設前にしていた習慣に戻すことにして、自宅で体幹トレーニングなどをこなしています。

そのため、私自身についても昔を振り返ります。トップの写真は、富士山頂での一枚です。これを撮ったのは、1997年に富士登山競走を完走したときです。今思うと、よくこんなタフなレースに挑戦しようとしたかと思いますが、当時は自分自身を向上させたいという意欲があり、人生で一番体力レベルが高かった頃と思い出します。

90年代が、体力という意味で自分を向上させようとした時期なら、その後の時間はスポーツ観戦でさまざまなチケットを確保しようとした時期です。2002年サッカーW杯はチケットを確保して、3試合の生観戦の機会に恵まれました。当時の自分は体調が悪く、事前の情報集めなどは全然満足できるレベルではないですが、それでも見たという記憶は自分の中で永遠です。

過去のチケットで振り返れば、2007年ACL決勝(浦和対セパハン)、2007年クラブW杯3位決定戦(浦和対エトワール・サヘル)、2017年ACL決勝(浦和対アルヒラル)、2018年ラグビーブレディスロー杯(NZ対豪州)、2019年ラグビーW杯決勝(南アフリカ対イングランド)などが自分の中で大きな経験です。今まで、このようなチケットを確保して、その時を楽しみに待つことで自分自身の元気を保ってきました。

今は、その手が使えない時期です。いつ、何ができるようになるかも見えません。それでも、スポーツ観戦ができない時期はきっと今だけだと信じて、収束の時期を待てればと思います。次は、5月のJリーグ再開でしょうか。
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田島ヶ原の近況

2020-03-25 22:44:36 | 埼玉
田島ヶ原のサクラソウ自生地にも、春がやってきました。まだ、公園内の立ち入りが制限されており、遠くから撮った一枚ですが、ノウルシの黄色は遠くからでもわかりました。4月初旬に公園が再開されたときに、また春の花たちの写真を、このブログに貼っていきたいですね。
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デブルイネの記憶

2020-03-24 22:50:20 | ワールドサッカー
写真を持っている選手の記憶から、ベルギー代表MFケビン・デブルイネの記憶です。ベルギーはここ2大会ほど、ベスト8、3位とW杯で好成績を挙げています。それを達成する原動力となったのは、出身や人種を一切問わずにユース年代から地道に選手を育て上げたことが理由と聞きます。その成果が出てきたのは、2012年頃に、マンチェスターシティ(以下シティ)のDFコンパニー、チェルシーMFアザールなどベルギー代表が続々とイングランド・プレミアリーグに進出したあたりからです。

彼らを「一期生」とすれば、デブルイネはその後チェルシーに在籍したものの開花せず、ドイツのヴォルフスブルクを経由してシティ入りしたので「二期生」です。もっとも、このときの移籍金は100億円を超えており、シティにとってはすぐに活躍してもらわなければ困るという扱いで獲得した選手でしょう。

その期待には十分応えました。シティを率いるグアルディオラ監督は4-3-3の布陣を好み、ボランチに置くと守備がネックになるデブルイネにとって、サイドのMFというポジションがあるだけで追い風でした。シティの攻撃サッカーは、アンカー一人さえ残していればサイドのMFは思い切って前に行って良く、後ろから長い距離を走って得点に絡めるデブルイネの良さが発揮しやすいです。

ロシアW杯でも活躍しました。日本と対戦したベスト16の試合、動きの落ちていた日本の隙を見逃さず、味方GKクルトワがキャッチするといち早く動いていたのがデブルイネです。彼の、長い距離を走れるカウンターから、最後ルカクに決勝点を決められて日本は2-3で敗れます。もともとシティで主力選手で有名でしたが、このプレー故に日産スタジアムに来ていた去年の横浜FM戦では注目を集めていました。

デブルイネは長い距離を走れるドリブルが最大の武器ですが、シュートの上手さも持っています。横浜FM戦でもゴールを決めており、プレミアリーグでも得点数とアシスト数がほぼ同じくらいと、点も取れてアシストもできる万能型MFです。FKも蹴ることができ、流れの中で目立てるMFで、彼が交代すると日産スタジアムのファンが帰り始めたほどです。

年齢的にはまだ28歳と、十分トップレベルでプレーできます。2022年カタールW杯でも注目選手に挙げられることは間違いなく、ベルギー代表といえばFWのルカクとデブルイネ、アザールが注目選手でしょう。そんな一流選手を、電車で1時間半のところで見られたのは、感謝しかありません。
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