旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アンベール城

2020-05-19 10:14:27 | インド
2005《手造の旅》インドより

万里の長城のような城壁が尾根の彼方まで続いている。

実用の城だったことがわかる。
ゾウを下りて宮殿への階段をあがる。

西洋の中世の城とはちがって明るくひらけた空間がひろがっている。


ここまではいわば公共の場所として、外国使節の謁見などが行われていた。

柱をよくみるとそれぞれゾウの顏になっている

インドにおいて最強の動物はライオンではなくてゾウなのだ

日本の神社仏閣のデザインの元はこういうところから発しているように思える。

さらに階段を上って立派な門をくぐる。

プライベート空間への門は
階段の上に画かれているヒンズーの神様にちなんで「ガネーシャ門」と名付けられている。

※ゾウのアタマを持つに至る神話もおもしろいのだがそれはまた別の機会
プライベートエリア最初の広場に面したジャイ・マンディル(勝利の広間)は、おそらくこの城いちばんの見所と言えるだろう。
通称「Sheesh Mahal(鏡の宮殿)」と呼ばれている↓

ここ専用の警備が見張っているのもわかる。
★こんな装飾は他でみたことがない!
※2020年現在は柵があって自由に見られないようだが、十五年前はほとんどどこでも入っていけた



床から近いところには大理石浮彫の「マジック・フラワー」※いろいろな花の特徴をひとつにした・存在しない花。
少し上のアラバスター壁に、おさえた色調のつぼ型のガラス装飾

天井には繊細にカットして盛り上げられた鏡を幾何学図案にはめこんでいる

圧巻



↓下は同じ建物内の次の間だが、センスの良さが光る

**
スロープを登ると

眺望のすばらしいテラスにでた

手摺が膝の高さまでしかないのは

欧米とちがって床に座る文化だったから。
絨毯が敷かれ、天蓋の下で過ごしていたのだ↓

↑天蓋の柱を入れる穴があるのをガイドさんにおしえてもらって、はじめて当時の雰囲気を理解することができた。

ガラス窓でなく、アラベスク文様の透かし壁。
ここでも窓は座った時にちょうどよい高さに位置している。

細部の大理石彫刻

***
隅っこの部屋を覗くと、古い木製のとびらが押しこめてあった↓

資料を読んでいくと1970年代には廃墟のように荒廃していたそうだ。
アンベール王国のマハラジャはジャイプールのシティ・パレスに住み、かつての王宮=アンベール城には足を運ばなくなっていたのだろう。
※マハラジャは今もシティ・パレスの一角に住んでいる。
現在のアンベール城はその後に修復が行われた成果なのである。

細部にはまだまだこれから修復されるべき部分がたくさんめについた。

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象に乗ってアンベール城へ

2020-05-18 10:46:18 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アンベール城は1727年にジャイプールに遷都するまで王国の首都だった。

人工湖の向こう。視界いっぱいにひろがる↕上の城の左上にジャイガー・フォートと呼ばれる離宮

10世紀ごろから砦があった場所に
現在見えている巨大な城が16世紀末から百年ほどの間に建設されていった。
当時のマハラジャのように象で上がっていくのが観光客に人気。

色鮮やかに「化粧」?をほどこされた象。
目の前にすると圧倒される大きさ。
どうやって乗る?

あ、この階段の行列が

象のための専用乗り場だった。出物腫物ところきらわず(^.^)

ゾウのなかでもアジアゾウは特に絶滅が危惧されているが、
それを糧に働く人々にとってはどうしても必要なのだ。
※世界のゾウ事情をスリランカを訪れた時に知った話を書きました
※2005年の調査では87頭のゾウがこの仕事をしており、際限なくこき使われて栄養状態がよくないものがでてきていると書かれた資料があった。
その後、一日のゾウの往復回数を制限し、ジープでの送迎もはじまり、現在はゾウの環境も改善されているらしい

ゾウに乗った観光客目当ての物売りは同じぐらいの高さで待ちうけていた

城に近づくと城壁が頭上高くにそびえている

城門が近い

左手をみると、冒頭の写真を撮った池が見える

そこに四角い幾何学上の島「ケサール・カヤーリー・バーグ水上庭園」がある。

※宮殿内から見下ろして撮影↑


大声で声をかけられてそちらを見ると、写真屋さんですね(^.^)

王城の門をくぐる時、お客を乗せずに出てきたゾウたちとぎりぎりにすれ違った。

香辛料売り

王宮前の庭でゾウを下りる。
さぁ、今度は城自体を見学しよう。


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ジャイプールのシティ・パレスと付属日時計「ジャンタル・マンタル」

2020-05-17 13:33:29 | インド
2005年《手造の旅》インドより
この建造物は何?

言われないとこれが日時計であることさえ分からない
↓この頂点の影が、上の写真で下から上に湾曲して伸びている腕の部分に映り、時間を測っていた。
↓※右の奥に見える階段状の建物がマハラジャの王宮「シティ・パレス」

この「腕」の部分にはよく見ると細かく分毎の刻みが入っている

急な階段も併設されている

広い敷地にはこんなタイプの日時計もある

↓真ん中に棒がついていたのでしょうね

この日時計群はアンベール国王ジャイ・シング二世が天体観測にも強い興味をもっていたことから
王宮をジャイプール市内に移したのを機に1724から建設はじまった。日本なら八代将軍吉宗の頃。


★シティ・パレスはマハラジャの住まいとして現代インドが成立するまで使われていた。

イギリス支配がどんどん強まっていく時期だが伝統の装飾スタイルが圧倒的。



特にこの「孔雀の門」は他にみたことがない


この巨大な壺も他にはない↓
↓いったい何を入れていたのか?

ギネスブックにものっている★世界最大の純銀製壺
重さ345㎏、高さ1.61m、直径4.3m、900ℓ入。

1902年にマハラジャだったマードー・シング二世はイギリスを訪問した。
一年近くにもなるその旅に、ガンジス川の聖なる水を持ち運んでいたのである。

マードー・シング二世は貴族の出自ではあったが王族ではない。
若くして父が没した際、兄との相続争いに敗れ出奔。
他国の傭兵のようなことまでして生き延びていた。
アンベール王国のマハラジャが死の床で彼を養子にし、19才の若さで王位についた人物。
当時完全に英国の支配下にあったインド、
積極的にイギリススタイルを実践していたのだろう。
ポロをするこんな写真が展示されていた↓

それでも、ヒンズー教徒だった彼はイギリスへの旅にガンジス川の水は欠かせないと思ったのか。





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ハワマハル(風の宮殿)

2020-05-15 22:10:12 | インド
2005年《手造の旅》インドより
個人的にはインドでいちばん好きな建築

「似たような建築」というのが他にみあたらない、独自のデザイン感覚が貫かれている。
十五メートル程の高さで五階建てだが上層部になると厚みがほとんどない。
裏へまわって「シティ・パレス」側から中へ入っていこう。

↓裏からみたところ。この向こう側に、先ほど道路側から見た屏風のようなピンク色の建物がある。

↓冒頭の建物の上部だけを裏側からクローズアップ

上の二階部分は、ほとんど人ひとりが歩けるかどうかの厚みしかないのがわかる。
何故こんな建物が建てられたのか?

ここは外に出ることが許されない女性たちが街の様子を見るための場所としてつくられた。
ジャイプールの「シティ・パレス」とは、当時のアンベール王国のマハ(大きな)ラジャ(王)の住居だった。
★アンベール王国は12世紀ごろからの国だがムガール帝国が強力な時期にはその朝貢国になり、19世紀にはイギリスの支配下にある藩国として1947年に現代インドに参加するまで独立を保っていた。
後宮には多くの女性たちが住んでいたが外へ出ることが許されない。
彼女たちが外からその姿を見られることなく、街を見ることが出来る場所としてハワ・マハールは1799年に建設された。

当時は絨毯でも敷かれてそこに座って見下ろしていたのだろう。
窓が低い位置にあるのはそのため。

街の様子はこんなふうに見えるのか


暑い国では、いかに涼しく快適な空間を出現させるかが常に求められる。
ここは風が吹き抜ける、女性たちが快適に過ごせる空間だったにちがいない。

少し離れて横から見ると構造がよくわかる。

そして、周辺の道路沿いの建物が同じデザインスタイルで統一されているのもすばらしい。

現在の大都市でもそうだが、建築物ひとつが素晴らしいという例はよくある。
総合的に統一されたパリのような美しさを出現させるには、マハラジャのような強力な支配者が必要になる。

現代民主主義国家でどこまで可能なことなのかと思ってしまう。

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ファィプル・シクリ~十四年間だけの首都

2020-05-14 23:11:32 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アグラの西四十キロほどに、皇帝の盲信のおかげでできた都があった。

1574-1588の短期間(日本なら「本能寺の変」前後)、ムガール帝国の首都であった。

赤砂岩でできた宮殿への門。
入場料を払って入ると、がらんと抜け殻になった巨大な建物群が姿をあらわす。

↑左奥に見える最も高い「パーンチ(ヒンディ語で「5」の意味)・マハル」はその名前の通り五階建て。
いちばん下の階に84本の柱、二階に56本、三階20本、四階12本、最上階で四本の柱が「チャトリ(天蓋や傘という意味)」と呼ばれる観覧・物見台を構成している。

壁がないが不思議。
実は柱の間にいろいろな布を垂らしてしていたのだそうだ。

なるほど、色とりどりの布がひるがえり、風を通しつつ自由な間仕切りとして機能していた。
この宮殿が美しく飾られていたかつての姿を想像できる。
我々が今見ているものは骨格だけ。そこからかつての姿を想像する目が必要だ。

「パーンチ・マハル」」の前には池ががつくられ、その上に舞台がある↓

舞踊りも行われ、

アクバル帝が観覧していただろう。

★アクバル帝が遷都したのは、ここにイスラム神秘主義の大家サリム・チシティが居たから。
父祖の代から信仰していたこの隠者を、跡継ぎに恵まれなかった皇帝がたよった。
祈ってもらうとすぐに長男を授かった。
産まれた息子には隠者にちなんでサリムと名付けた。※後年のジャハンギル帝の幼名

サリム・チシティは遷都が完了する前に亡くなったが、この宮殿の中にその墓が置かれている。
↓左の壁の向こうに見える丸いドームがそれ

当時は政治も宗教の影響を受けずにはすまない時代だったのである。

アクバル帝が政務も含めた議事を行ったとされるのがこの建物↓

ひときわ精緻な彫刻が施されている

対角線が交差した場所にある中央の柱の上にアクバル帝が坐していたとされる





皇帝の乗り物は象。別の庭の中央に象を繋いでいた石が残されている。




この高台は古くからのイスラム教の寺院がある「シクリ村」だった。アラビア語ので「ありがとう」を意味する「シュクラン」からきた名前になる。遷都にあたり「勝利の」を意味する「ファーティプル」がつけられた。

首都になり立派な宮殿は建てられが、増えた人口をまかなえるだけの水を供給できる立地ではなかったことがわかり、たった十四年で都は再びアグラに戻された。
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