「BBB」

BASEBALL馬鹿 BLOG

居酒屋放浪記NO.0014 ~ノーヒッター、野武士の左腕が震えた夜~「善や」(渋谷区恵比寿南)

2005-04-17 22:57:16 | 居酒屋さすらい ◆東京都内
  10坪ほどの店内に半畳ほどもある写真のパネルが2枚飾られている。
  モノクロの写真で随分と古いものばかりのようだ。
バックネット裏から撮影された写真だろうか。一枚は躍動する左腕投手のピッチングフォームのもの。もう一枚はナインに囲まれて祝福を受ける選手の横顔のものだ。ナインの中には中西太氏の顔も見える。
  渋谷区恵比寿にある居酒屋「善や」の店内での風景のことだ。

  実は人から噂では聞いていた。この店の主人が元西鉄ライオンズの投手で、過去にノーヒットノーランを達成したことがある、という話を。
  だからカウンター席に腰掛けても落ち着かなかった。一体、お店のどの人が球史に名を残す名投手なのか。お店にいるのは気難しそうな板前と割烹着を着たゴマ塩頭のオヤジの二人だけ。
  ゴマ塩氏がその人か?しかし、そうは見えない。パネルの写真とは似ても似つかないほどにずんぐりとした体型である。一方の板前は随分と小柄のようだ。奥の厨房から顔だけ見えるが、パネルの写真とどうも結びつかない。「きっと主人は店に出ていないのかな」。
  とりあえず、ゴマ塩氏に瓶ビールを頼んだ。

  「善や」は決して大衆的な居酒屋ではない。少し高めの割烹といったところだろうか。仕事関係の人とでなければ絶対に暖簾をくぐることはないだろう。店に入って右側にカウンター席、左側にはテーブルが2卓。奥が座敷となっている。20人も入ればいっぱいになってしまう小さな店だ。
  しばらくして大瓶のビールが運ばれてきた。ゴマ塩氏に「このパネルの人はどなたですか?」尋ねればすぐに分かることである。
  しかし、私がそれを口にしようとしたその瞬間、ガラリと戸が開き、お客さんが入ってくる。「いらっしゃい」。ゴマ塩氏は振り返り、入店してきた客に向かって、声をかけた。

  刺身の盛り合わせが運ばれてきた。人は一度チャンスを逃すと、その後しばらくは好機が訪れないものである。その頃にはビールをさしつ、さされつ仕事の話になってしまった。やれ、「景気が踊り場である」とか、やれ「業界のあの人はその後どうした」だの、或いは「細木数子の番組にハマっている」に至るまで、延々と続くのである。そうこうしているうちに店には多くの客が詰め掛けており、ゴマ塩はうえをしたへの忙しさになっているのである。

  しかし、この刺身盛、鮪に中トロ、そしてハマチに鯵、とてもとても新鮮で肉厚。惜しむらくはこのさしつさされつの緊張関係がなければ、更においしかったのではないだろうか。
  さて、ビールを3本ほど空けると、次に焼酎を頼むことになった。運ばれてきたボトルは吉四六。ゴマ塩氏は空いたビール瓶をさげようとしたその瞬間、まだ瓶の中に少量のビールが残っていることに気がつくと僕のグラスに注ごうとしたのである。しかし、勢いよく瓶を傾けたせいでビールは私のグラスには注がれず、こぼれてしまったのだ。ゴマ塩氏は「いけねっ」とひとりごちた。そのとき、ハッとした。ゴマ塩氏がビールを注ごうとしていたのは左手である。彼は左利きのようだ。まさか、ゴマ塩氏こそがパネル写真その人なのか。

  その後、ゴマ塩氏は店の奥に引っ込んで二度と姿を現さなかった。代わって店を切り盛りするのは熟年の女将である。その女将は青菜の煮びたしを運んできた。さっぱりした出汁が焼酎の塩辛さをほどよく中和してくれるように、絶妙だ。麦焼酎によくあう!

  結局、くだんの名投手が誰なのか、聞けず終いで店を後にした。72年に身売りした西鉄ライオンズで調べていけば、無安打無得点投手の名前くらいすぐ分かるだろう、と思ったからである。しかし、家に帰りベースボール・レコード・ブック(ベースボール・マガジン社)を繰ると55年から67年に至る13年間のうち、パ・リーグでノーヒットノーランを記録した投手は延べ7人いることが分かった。更にそのうちの6人までが西鉄のピッチャーだったのだ。では、そのうちの誰が「善や」の主人なのだろうか。

  勝手な推測だが、「善や」の店主は64年の5月16日、平和台球場で阪急ブレーブスを相手に快投を演じた井上善夫投手ではないだろうか。理由は至って単純である。店の名前の「善や」は自身の名前からとったと想像できるからである。
  その試合、井上投手が許した走者は四球によるただ一人である。つまり、完全試合まであと一歩のところだったわけだ。それはまるで少量のビールをグラスに注ぎそこなうほどの小さなミスだったのだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 居酒屋放浪記NO.0013~暮れな... | トップ | 居酒屋放浪記NO.0015 ~小雪... »

コメントを投稿