バスから降りたわたしはとにかく空腹だった。
なにしろ、早朝から何も口にしないまま、昆明までバスに揺られてきたのである。ほぼ丸一日何も食べていない。
だから、昆明の駅前にバスが着いた途端、わたしは近くの屋台で牛肉麺をすすった。
ささやかな夜食を食べ終えて、宿を探すことにした。かつて、泊まった茶花賓館にでも
行こうか、と思ったが、なにしろここからは遠い。バックパックを背負って、そこまで歩く気力はなかった。すると目の前に昆湖飯店という、わりと大きな旅社があることに気がついた。
ドミトリーがなくてもいいから、と思って飛び込んでみると、予想に反して大部屋があるのだという。しかも、1泊10元。
早速、泊まることにした。
わたしは相当疲れていたのだろう。ベッドに入るなり、深い眠りに落ちていった。
翌朝起きると既に時計は8時を回っていた。
これはいかん。今日はいよいよヴェトナムに向けて出発の日だ。明日までにヴェトナムに入国しなければならない。国境の町まで鉄路で12時間。今日のうちに火車に乗らなければ間に合わないだろう。そうして、わたしは身支度を急いだ。
それにつけても、昆湖飯店の厠所、つまりトイレは凄まじかった。
もちろん、これまで中国の至るところで、扉のない厠所に何度も出くわした。いわゆるニーハオトイレである。
公園の厠所、火車站のそれなどなど。中国人は当然そんなものお構いなしに誰もが仕切りのない厠所で力んでいた。だが、わたしにはニーハオトイレで用を足す勇気はなかった。
だが、ホテルのトイレになれば話は別である。なんせ、そこしかするところがないのだから。
昆湖飯店のドミトリーがあるフロアーは、そのニーハオトイレだったのである。
しかも、一応は水洗だ。だが、その厠所には幅約20cmの一本の水路があり、人々はその水路にまたがり、うんこをかます。水路には水が流れており、放たれたうんこは下流へと流されていく。だが、問題はこの水路が一人で使うようになっているわけではなく、長く連なった6人の列で共用するのである。
つまり、厠所の先頭の奴はいい。自分が最も上流だから。だが、次に続く奴は前の人のうんこが流れてくる可能性があるのである。
わたしは運が悪いことに最も下流で用を足すことになった。
選択の余地がないということは、厠所は満員なのである。そして、ブリブリと破裂音が前方から鳴り響く中、わたしの前で用を足す5人のうんこが次々とわたしの真下を通り過ぎていくのだ。
ともあれ、身支度を整えて外へ出た。
何時に中国国境の町、河口へ向かう火車が出発するか分からない。それが1日に1本しかないのか、或いは2本なのか、それすらも不明だ。とにかくわたしは、火車站へ急いだのである。
昆明駅に着いて、筆談で駅員に問い合わせると、火車は午後2時半に昆明北站から出発するという。幸いなことに席にはまだ余裕があり、3等の寝台の票、つまり切符を手にすることができた。
火車は翌朝には終点の河口に着くという。ヴェトナム入国の期限にどうやら間に合った。
しかし、火車の出発まで5時間近くも時間を潰さなければならなかった。宿は既にチェックアウトしており、大きなバックパックを背負ってうろつかなければならなかった。
町並みをぶらぶらと歩き、途中、病みつきになった「鍋砂米しぇん」で早めのお昼をとった。こうして、2時間かけて昆明北站に着くと、あとは火車の出発まで駅の構内で座して待つことにした。
火車は14時頃、ホームに入線してきて、ほぼ定刻に出発した。わたしの席は三段ベッドの一番上。昼間はベッドが畳まれて最下段のベッドが座席となるが、最上段は昼間からセットしても邪魔にならないため、わたしは自分のベッドでゴロゴロしながら読書にふけった。また眠くなると目を閉じて休息したりして、過ごした。
3段ベッドからは車窓をのぞむことはできないが、タバコを吸うために車内のデッキを往復するうち、やがて火車の外は淡い夕暮れが迫っていることに気づいた。
真っ赤に燃えてしまいそうな夕陽を眺めていると、突然ウナのことが頭に浮かんだ。
ウナは今頃どうしているのか、と。
しかし、よくよく考えてみれば、ウナが麗江から大理へ戻ってきたということは、恐らくわたしと同じルートでヴェトナムに入国し、ほぼ同じような道程で南下していくことになるはずである。
きっと、またいつか会えるはずだ、と思えば別れの辛さはやや和らいだ。
夜になって、小腹が空いてくると、ほとんどの中国人がするように、わたしもあらかじめ買っておいたカップラーメンを取り出し、車内に据え付けられている給湯器を使って、ささやかな晩ごはんを食べた。
やがて、車内は消灯され、あちらこちらで中国人の鼾が聞こえてきた。旅を始めてはやくも2ヶ月。いよいよ明日はヴェトナムだと考えれば、わたしの気持ちは昂ぶってなかなか寝付けなかった。
いつの間に寝入ったのだろう。
気がつくと、火車はどこかの駅に着うたようで車内からはゾロゾロと人が降りていく。アナウンスはけたたましく何かを伝えようとしていたが、わたしには一切何のことか分からない。だが、乗客が次から次へと降りていく様を見て、ようやく終点の河口に着いたのだな、と思った。
時刻は朝の4時。まだ、辺りは真っ暗だった。
河口火車站を降りて、人の流れに付いていくと橋が見えてきた。
ボーダーだ。そして、その向こうに見える風景がヴェトナムである。
橋の長さは約60mくらいだろうか。そんな僅かな川幅が国を隔てる境界になっていることがにわかに信じられない。
橋は金網で施錠されており、当然行き来する者もない。
イミグレーションが開くのは8時半と書いてある。
わたしは5時間近くも、真っ暗なこの場所でじっと国境が開門するのを待たなければならなかった。
少しして、辺りが明るくなってくると、近くに饅頭屋が現れた。
何も入ってない、ただの饅頭は1個4角。5個で僅か2元という代物だったが、なによりも代えがたいほどに温かくておいしかった。
やがて、施錠された金網が外され、開門すると、まっさきにわたしは出国の手続きを行った。
パスポートに97.1.30の日付が押される。
そして、わたしは一歩一歩、かみしめるように橋を歩いた。
そういや、今日はわたしの誕生日だった。
26歳の国境超えだった。
■ 写真は、その一歩一歩噛み締めるように歩いた国境の写真。写真撮影は禁止されていたようだが、わたしは「写るんです」を隠して撮影した。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
なにしろ、早朝から何も口にしないまま、昆明までバスに揺られてきたのである。ほぼ丸一日何も食べていない。
だから、昆明の駅前にバスが着いた途端、わたしは近くの屋台で牛肉麺をすすった。
ささやかな夜食を食べ終えて、宿を探すことにした。かつて、泊まった茶花賓館にでも
行こうか、と思ったが、なにしろここからは遠い。バックパックを背負って、そこまで歩く気力はなかった。すると目の前に昆湖飯店という、わりと大きな旅社があることに気がついた。
ドミトリーがなくてもいいから、と思って飛び込んでみると、予想に反して大部屋があるのだという。しかも、1泊10元。
早速、泊まることにした。
わたしは相当疲れていたのだろう。ベッドに入るなり、深い眠りに落ちていった。
翌朝起きると既に時計は8時を回っていた。
これはいかん。今日はいよいよヴェトナムに向けて出発の日だ。明日までにヴェトナムに入国しなければならない。国境の町まで鉄路で12時間。今日のうちに火車に乗らなければ間に合わないだろう。そうして、わたしは身支度を急いだ。
それにつけても、昆湖飯店の厠所、つまりトイレは凄まじかった。
もちろん、これまで中国の至るところで、扉のない厠所に何度も出くわした。いわゆるニーハオトイレである。
公園の厠所、火車站のそれなどなど。中国人は当然そんなものお構いなしに誰もが仕切りのない厠所で力んでいた。だが、わたしにはニーハオトイレで用を足す勇気はなかった。
だが、ホテルのトイレになれば話は別である。なんせ、そこしかするところがないのだから。
昆湖飯店のドミトリーがあるフロアーは、そのニーハオトイレだったのである。
しかも、一応は水洗だ。だが、その厠所には幅約20cmの一本の水路があり、人々はその水路にまたがり、うんこをかます。水路には水が流れており、放たれたうんこは下流へと流されていく。だが、問題はこの水路が一人で使うようになっているわけではなく、長く連なった6人の列で共用するのである。
つまり、厠所の先頭の奴はいい。自分が最も上流だから。だが、次に続く奴は前の人のうんこが流れてくる可能性があるのである。
わたしは運が悪いことに最も下流で用を足すことになった。
選択の余地がないということは、厠所は満員なのである。そして、ブリブリと破裂音が前方から鳴り響く中、わたしの前で用を足す5人のうんこが次々とわたしの真下を通り過ぎていくのだ。
ともあれ、身支度を整えて外へ出た。
何時に中国国境の町、河口へ向かう火車が出発するか分からない。それが1日に1本しかないのか、或いは2本なのか、それすらも不明だ。とにかくわたしは、火車站へ急いだのである。
昆明駅に着いて、筆談で駅員に問い合わせると、火車は午後2時半に昆明北站から出発するという。幸いなことに席にはまだ余裕があり、3等の寝台の票、つまり切符を手にすることができた。
火車は翌朝には終点の河口に着くという。ヴェトナム入国の期限にどうやら間に合った。
しかし、火車の出発まで5時間近くも時間を潰さなければならなかった。宿は既にチェックアウトしており、大きなバックパックを背負ってうろつかなければならなかった。
町並みをぶらぶらと歩き、途中、病みつきになった「鍋砂米しぇん」で早めのお昼をとった。こうして、2時間かけて昆明北站に着くと、あとは火車の出発まで駅の構内で座して待つことにした。
火車は14時頃、ホームに入線してきて、ほぼ定刻に出発した。わたしの席は三段ベッドの一番上。昼間はベッドが畳まれて最下段のベッドが座席となるが、最上段は昼間からセットしても邪魔にならないため、わたしは自分のベッドでゴロゴロしながら読書にふけった。また眠くなると目を閉じて休息したりして、過ごした。
3段ベッドからは車窓をのぞむことはできないが、タバコを吸うために車内のデッキを往復するうち、やがて火車の外は淡い夕暮れが迫っていることに気づいた。
真っ赤に燃えてしまいそうな夕陽を眺めていると、突然ウナのことが頭に浮かんだ。
ウナは今頃どうしているのか、と。
しかし、よくよく考えてみれば、ウナが麗江から大理へ戻ってきたということは、恐らくわたしと同じルートでヴェトナムに入国し、ほぼ同じような道程で南下していくことになるはずである。
きっと、またいつか会えるはずだ、と思えば別れの辛さはやや和らいだ。
夜になって、小腹が空いてくると、ほとんどの中国人がするように、わたしもあらかじめ買っておいたカップラーメンを取り出し、車内に据え付けられている給湯器を使って、ささやかな晩ごはんを食べた。
やがて、車内は消灯され、あちらこちらで中国人の鼾が聞こえてきた。旅を始めてはやくも2ヶ月。いよいよ明日はヴェトナムだと考えれば、わたしの気持ちは昂ぶってなかなか寝付けなかった。
いつの間に寝入ったのだろう。
気がつくと、火車はどこかの駅に着うたようで車内からはゾロゾロと人が降りていく。アナウンスはけたたましく何かを伝えようとしていたが、わたしには一切何のことか分からない。だが、乗客が次から次へと降りていく様を見て、ようやく終点の河口に着いたのだな、と思った。
時刻は朝の4時。まだ、辺りは真っ暗だった。
河口火車站を降りて、人の流れに付いていくと橋が見えてきた。
ボーダーだ。そして、その向こうに見える風景がヴェトナムである。
橋の長さは約60mくらいだろうか。そんな僅かな川幅が国を隔てる境界になっていることがにわかに信じられない。
橋は金網で施錠されており、当然行き来する者もない。
イミグレーションが開くのは8時半と書いてある。
わたしは5時間近くも、真っ暗なこの場所でじっと国境が開門するのを待たなければならなかった。
少しして、辺りが明るくなってくると、近くに饅頭屋が現れた。
何も入ってない、ただの饅頭は1個4角。5個で僅か2元という代物だったが、なによりも代えがたいほどに温かくておいしかった。
やがて、施錠された金網が外され、開門すると、まっさきにわたしは出国の手続きを行った。
パスポートに97.1.30の日付が押される。
そして、わたしは一歩一歩、かみしめるように橋を歩いた。
そういや、今日はわたしの誕生日だった。
26歳の国境超えだった。
■ 写真は、その一歩一歩噛み締めるように歩いた国境の写真。写真撮影は禁止されていたようだが、わたしは「写るんです」を隠して撮影した。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
まあ、連れがいたりして楽しいと、旅のスピードはグッと落ちるもんね。
それにしてもニーハオトイレは厳しいよね。ちなみに俺は使用体験はないよ。あの集団でうんこして大丈夫な感覚はちょっと理解しがたいね。
さて、この後師は、どんなヴェトナムを体験するのかな?俺の次回は国境と同じく、かもられ続けの「ボラーレ(byジプシーキングス)の旅」後編だ。(苦笑)
今となっては楽しい思い出しかないね。ヴェトナムもじっくり丁寧に書くよ。