最近、個人的興味のある本が読めない中、唯一心を和ませてくれる本がある。
「ポテサラ酒場」である。
いわゆるポテサラのおいしい酒場のガイドブックなのだが、「ポテトサラダ」に着目した切り口が面白い。
「ポテトサラダがおいしい店は、何を食べてもウマイのだ!」と、帯に記されたキャッチコピーを見ては、思わず「その通り!」と児玉清ばりに叫んでしまったのだが、筆者もブログ「居酒屋さすらい」にてポテサラと煮込みの重要性については、口を酸っぱくして縷々申し上げてきた。
聞くところによると、どこぞのお笑い芸人が「ポテサラ好き」を標榜し、声高に叫んでいるとのことで、バラエティの世界からもポテサラブームが巻き起こっているときく。
したがって、気のせいなのか、それともブームの波が浸透しているのか、最近の居酒屋ではポテサラが少し創作料理のように出てくることも珍しくなくなった。
この本の著者、マッキー牧元ある方は食べ歩きにまつわるフリーランスのライターに加え、ポテトサラダ学会の会長を務められているという。
是非、今後の論文やレポートにも期待したい。
翻って、こちらの書籍だが、厳選36軒のポテサラ名店を居酒屋、食堂、バーというカテゴリ別に紹介。豊富な写真に加え、4つの属性からなるマトリックスにて評価をしている。
これがけっこう、評価の視点として実戦で使えそうな形式に落ち着いている。
個人的には、大衆酒場のページが少なく、少し物足りない気もする。
元々、ポテトサラダは庶民のものであり、大衆のものである。その視点、もっといええしまえばソウルフードとしての大衆食を紹介してほしかった。
それは、「ポテサラ酒場」という、どこかディープな薫り抱かせるタイトルにもおおいに期待をしたという点もある。
確かに現在のポテサラを知るうえで、都会のエッセンスが薫るポテサラを紹介するのもひとつの手法であろう。しかしながら、ポテサラを目的にするという、なんだか実験室的な考えではなく、日常にある風景として、「ビールとポテサラね」と頼む、そのシーンに息づくポテサラの視点こそが重要ではないかと思うのだ。
そのうえで、「このポテサラ、うまいね。やっぱ手作りは違うよな」という日常的な会話からポテサラストーリーは動きだしていくような気がするのだ。
確かに、本を眺めていても、様々なポテサラを見るのは楽しく、参考にはなる。
だが、その背景にあるポテサラが持つ独特の匂いが感じられない。つまり、掲載されている店に行ってみようとは思えないのである。
筆者の好きな本のひとつに「お弁当の時間」がある。
ANAの機内誌「翼の王国」に連載されている読み物だが、これは何度も何度も繰り返し、読んでしまう。何故か、人それぞれのお弁当の背景にある人間ドラマをわたしたちは読んでいるからだ。
「ポテトサラダ」の背景にある様々なストーリーに思いを馳せて、筆者は酒を飲む。
味わいを深くしているのは、食材や装飾ではなく、人間なんだと思うのだ。
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