羽田空港を出て、弁天橋に向かった。第一次羽田闘争で命を落とした山﨑博昭さんの碑は建っていなかったか、確かめに行こうと思い立ったのである。山崎さんの死を巡っては近年様々な動きがある。山﨑博昭プロジェクトをはじめ、彼の死と闘争に関わった人々をテーマにしたドキュメンタリー映画、「きみが死んだ後で」が制作された。同映画は当時と今を結ぶ貴重な検証映像である。あの日から56年。改めて現場をこの目で見ておきたかったのだ。
天空橋の駅を降りて、穴守橋へ向かう。環八通りにかかった比較的大きな橋だ。
YSのレリーフなど空港に関する装飾が施された橋。ここも、闘争の舞台となった。
この他、羽田事件は海老取川にかかる天空橋、弁天橋が舞台となった。山崎さんが命を落としたのが弁天橋である。
いずれの橋を全て歩いてみたが、かつて凄惨な闘いの舞台になったとは思えないほど、橋とその周辺は静かだった。時折、海老取川を船が行き来する。
5月の爽やかな風の下、3つの橋はあまりにも長閑だった。
弁天橋を渡ったのは今回で2回目だった。初めて渡った時も感じたが、橋の幅、すなわち道幅が意外に狭い。本当にここで、学生と警察が衝突したのか、にわかに信じられない。
橋を渡って合掌した。
その後、橋の周辺を見まわしたが、山﨑さんの死にまつわる碑らしきものは見つからなかった。ただ、事件とは全く無関係ではあるが、弁天橋の目の前にある、鳥居がひとつのモニュメントになっているようにも見えた。
この鳥居は旧穴守稲荷の鳥居で、かつて呪われた鳥居ともいわれた。鳥居の中央には「平和」の文字。かつて学生らが平和を希求して立ち上がったこの場所に平和へのゲートがあるの解釈したい。
鳥居の脇には木の記念碑が建てられている。奉納記念碑というらしい。
碑文には、「氏神 鈴木弥五右衛門 偉業の大地の由来と歴史(文化12年)1815年江戸時代に猟師の名主鈴木弥五右衛門が羽田村名主石井四郎右衛門に折衝し譲り受け羽田猟師町請負新田として幕府に願い出て開拓の許可を得たものです。浅瀬の要島を中心として新田開発が始められ羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町、三つの町が生まれました」
記念碑は2010年6月26日に建てられたらしい。
この鳥居も紆余曲折を経て、この地に移設されたときく。羽田の町の忘れ形見。ここには羽田の苦難の歴史が凝縮しているような気がする。
昔と違ってお伽話にならないからです。
授業は幕末や明治からでいいと思うのです。余った時間は語学か数学に廻せばいいんじゃないかなぁ。
そう思いますね。
幕末以降知らないこと多いです。ただ、政府や企業にとって都合の悪いこともあるでしょうから、教科書問題も大揺れするはずです。
明治生まれの人がいなくなったら、明治も昔話になるのでしょう。