ガンにーアシュラムに行くには、どのバス停で降りるのか。そんな単純なことも気にせずバスに乗ってしまった。そのバスはディーゼル車特有の轟音を上げて、アフマダーバードの市街地を走り続ける。わたしは仕方なく、隣に座る老人に「ガンジーアシュラムはどのバス停で降りればいいか」と尋ねた。しかし、彼はわたしの言葉を理解してくれなかった。おかしい、バスに乗る時はしっかり通じていたが、どういうわけか突如通じなくなった。わたしの英語力の問題か、それとも彼がただ英語に慣れてない人なのか。とにかく、これは困ったことになった。こうなったら、運転手に尋ねるしかないか。そう思い、立ちあがろうとすると、わたしの隣に座る老人は周りにいる人達に助けを求めた。
「おい、この外国人が何か言ってるが、俺にはよく分からない。誰か分かるかな」。
恐らく彼はそんなことを言ったに違いない。すると、それを聞いたバスの乗客はぞろぞろとわたしの周囲に集まってきた。
これは大袈裟なことになってしまった。
老若男女問わず、多くの人がわたしを取り囲み、座席に座るわたしを不思議そうに見下ろしている。仕方ないので再度、「ガンジーアシュラムに行くバス停を教えてほしい」と口にしたが、やはり彼らの反応は同じだった。仕方ない、もうどうにでもなれと「ガンジー」と一言、大きな声で言うと、よく肥えた肝っ玉母さんのような女性が、「ガーンディ?」と呟いた。すると周囲の人らもうなづいて「おぉ、ガーンデイ」と言った。その中の、比較的若い女性がわたしに英語でこう尋ねた。「あなたはガーンディのアシュラムに行きたいのね」。
「イエス、イエス、ガーンディアシュラム!」。
その瞬間、わたしを取り囲んだ人々は安堵した表情になり、やがて笑顔になった。なんてことはない。日本人が発音するガンジーでは通じないのだ。
とにもかくにもその後、バス停に着くまで、わたしは彼らの歓待を受けた。
「そうかそうか若いの、君はバープーに興味があるのか」と老人は相好を崩して、わたしの肩を叩いてくる。すると、先程話しかけてきた若い女性は、すかさず訳してくれるのだった。バープーとは父親という意味で、老人らはガーンディに親しみを込めて、バープーと呼ぶのだった。
やがて、くだんのバス停が近づくと、彼らは皆、わたしに「ネクスト、ネクスト」と教えてくれ、バス停に着くと、ほぼバスに乗っていた人みんながわたしに手を振って見送ってくれた。なんだか、わたしも嬉しくなった。インド独立のヒーローを輩出したことは地元の彼らにとって大きな誇りなのだろう。そのガーンディを異国の若者がわざわざ見に来たということが嬉しいのだと思う。わたしはバスが走り去るまで、彼らに手を振った。
インドに食傷気味のわたしだったが、もう少しインドに居ようかなと思った。
自分が勝手に考えていた無抵抗主義とは、実際は全く違っていたということを知ると共に、インドとパキスタンの成り立ちというのを大変恥ずかしいことながら初めて知った。
多分真面目に、社会や歴史、世界史の授業を聞いていなかったせいだと思う。と、共に、教科書の部分的重要情報だけでなく、そこから派生させ己で色々と勉強することの大切さを改めて知ったよ。
そしてまたも、宗教を他者との衝突に利用する者たちの、宗教的意義から言えば全く本末転倒な愚かさを感じたなあ。
まあ宗教に限らず、断定とか固執とか狂信とかは、いいことは起こさんよねえ・・・。年とって明らかに自分もそういう風になってきてる自覚もあるけれど。柔軟さ、大切だよねえ。
師は実際に、ガンディーアシュラムにいったんだね。どんなとこなのか興味あるよ。
映画「ガンジー」か。
何か理由がなければ、なかなかそれを選んで観ようとは思わないなぁ。
多分、それほど日本人とガンジーは縁がないのかも。
学校の授業でも登場したけど、歯のない顔写真はクラスで笑い声が上がるような記憶しかないよ。
自分も全く無知なうちの一人だし、今もその状況は変わらないかな。
ただ、多様な宗教があるインドだし、何かと一筋縄ではいかない国を独立機運に導いていったことは世界にも類がない奇跡なのかとは思うよ。
映画「ガンジー」、観てみようかな。