神田川から胸突坂を登る。
我々は椿山荘に向かっているのだ。開業70周年の特別メニュー、ほたるの夕べディナービュッフェを予約した。昨年もチャレンジしたが、予約でいっぱい。今年リベンジを果たした。
しかし、この胸突坂がとんでもなく急だった。傾斜16度・29%は23区内の坂でも指折の急坂ぶりである。
この坂の途中に「芭蕉庵」なる史跡があった。前回記載した「関口大洗堰」の工事に俳聖松尾芭蕉が携わっていたという。松尾はそこに住み工事に携わる人夫の帳簿をつけたという。
椿山荘はその名の通り、山だった。都心とは思えない自然。
ビュッフェのスタートまで園内を散策した。
椿山荘はかつての山縣有朋の邸宅である。山縣が40歳の時に購入したらしい。明治11年のこと。
内閣総理大臣を務め、陸軍のトップまでのぼりつめるが、山縣が表舞台に出てくることはそれほどきかない。確かに司馬遼太郎からは酷評されてる。山縣と同じ長州出身のかみさんが言うには、「幕末のヒーローの多くは夭逝した。結局生き残ったヒーローでない人が明治維新を行った」と。妙に納得。
池の近くを歩いている時、いきなり何かが噴出した。視界が真っ白になる。
霧か雲か分からないものは度々噴出した。
椿山荘に少しずつ夕暮れが迫る。
園内を散策していると、記念碑があった。
「椿山荘の碑」。
山縣の思いが刻まれているらしい。
西南戦争が終わり、国内が平和になって暇ができて出かけてみると目白に面白い地があったという文章から始まる。そして後世、この地を愛する人がここに住んでほしいと結ぶ。その後、まさかこの地がホテルになるとは山縣も思ってなかったことだろう。
石碑の台座には気味の悪い亀の姿。
「さすら碑」では以前長岡の碑を紹介した。戊辰戦争における長岡藩に新政府軍が攻撃を加えるが、山縣率いる軍は、少数の長岡軍勢に苦しめられた。「さすら碑」は単なる石碑巡りではない。人の因縁を巡る旅なのだ。
園に夕闇が迫りつつある。蛍はまだ飛ばない。
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