声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

71年目の真実

2016-08-07 07:43:40 | Diary
元号と西暦とが、最近たまにごちゃ混ぜになり

平成16年…と書類に書いてしまって慌てる事があります。

昭和64年…と平成元年とが西暦なら1988年である事すら気づかないのも困りものです。


ですが、

昭和20年、1945年が終戦の年である事は

日本人なら忘れてはいけないと思っております。


昨年、訪れた南三陸の仮設の町の食堂の壁に

『昭和90年』と書かれたカレンダーがありまして、それを見て以来、

昭和なら何年?…と考えるようになりました。

…今年は昭和なら91年、戦後から71年目なのですね。



昨夜のNHKドキュメンタリーは、

今も多くの米国民が信じている

「原爆投下は戦争を早く終わらせるために必要だった」

という言葉が、

どういう理由で語られるようになったのか…



また、なぜ広島と長崎に投下する事になったのか…

その決定は、どのようにしてなされたのか等を

当時のトルーマン大統領が残した文書や

大統領のもとで策戦を担っていた軍人の証言テープから、

検証するという内容でした。



私は、長い間

「当初の候補地だった京都に投下しなかった理由は多くの文化財があったから」

だと思っていました。

それは、番組の中で当時の米軍司令官が述べたとされる

「京都は知的水準が高い都市…」

という言葉から、

文化水準イコール知的水準を指すと解釈できますが、

それ自体が候補地から外れた理由ではなかったという事に愕然としました。


その後に続く軍首脳部の発言の中に

「京都に落とせば大きな効果が得られる…」

というコメントに対し

トルーマン大統領が、

「世界からアメリカが大量殺戮国家だと思われるのではないか」

と躊躇したこと、

また原爆投下の決定権を持つ大統領と近い司令官が過去に二度、京都を訪れていて

個人的に“京都を気に入っていた”こと、


それにトルーマン大統領が投下の条件として書いたとされる

『投下は軍需施設に限定する…』文書の存在、



最終的な広島投下の決断は、

『広島は陸軍の軍需施設都市である』

と、軍の幹部が虚偽の報告を大統領に提出していた事…



それらが、広島を投下先に選んだという理由だったという事実。


それより、もっと恐ろしいと感じたのは


トルーマン大統領が真実を知ったのが8月8日だったという部分です。

投下直後の広島の写真を見せられ

『罪のない女性や子供を殺した…』と、

後悔の念を書き綴った文書があるのに…

なぜ?

8月9日の長崎への投下を止められなかったのか…。



その事について、見終わった後でもう一度考えてみました。

17個の核爆弾を作ってしまったのはルーズベルト大統領時代、

突然、ルーズベルト大統領が亡くなり
副大統領だったトルーマンが大統領になったのが1945年4月、

『軍から自分がどう思われているのか…』

等の文書からもわかるように

トルーマン大統領は、

どちらかといえば周りの目ばかり気にする小心者だった…

決定権を持っているにも関わらず

軍司令部の顔色を窺い、自分が嫌われたくないばかりに

全ての決定を軍に委ねた…?


その結果が、広島と長崎への原爆投下ではないかと…。


それと、番組の中で、

『作った以上は、どこかで使わなくては…』

という焦りが米軍の司令部にあったと述べられていましたが、

これは、


核兵器を持つことの怖さを如実に表した言葉だと思いました。


軍の暴走に似た状況がなぜ避けられなかったのか…。


ドキュメンタリー『71年目の真実』は、

一旦始めてしまった戦争を終わらせることの難しさと

核兵器を持ってしまった人間の業を、今一度

考えさせられる番組でした。


写真は、爆心地に近い本川小学校の慰霊碑。







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