音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

音楽的過激主義な組曲

2024-12-06 21:00:00 | 近代
うちのサンルームでいちご🍓の花が咲いています。
植えっぱなし…でも花季は4-6月のはず。おかしいなぁ。

かわいいからいいけれど。

今日は12月10日(火)のクリスマスの絵本の製本をしました。
色画用紙で裏張りしてⅠ枚ずつボンドで貼り合わせて

背表紙の布をやはりボンドでつけて完成!

クリスマスコンサートで読んでくれる同じスタッフのOさん宅に渡しに行ってようやくホッとしました。

Oさん、手作りのクリスマスのジングルベル作ってくれていました。

私はその間に子育て支援センターに楽器、タンバリンや鈴の貸出しを申込み。
土曜日に借りに行って、10日当日返却します。
ハンドベルは以前コミュニティで買ってもらったものがあります。
準備していると練習時間が少なくなります。

12月15日(日)西宮ギター練習会でドップラーのハンガリー田園幻想曲を演奏します。

12月26日「聴き合い会」にはピアノとクラリネットと組曲「ドリー」とテレマン2曲とおそらくクーラウも。

1月19日(日)ハープの発表会が塚口t-raumであります。
これは本当にやばいです。
合奏発表会なので、ヴァイオリンと共演します。
お相手してくれる人を探していましたが、今日ようやく引き受けてもらえました。

ハープは初心者なので申し訳ない感じですが、いつもギター伴奏してくれる渡邊さんがヴァイオリンもされてて引き受けてくれました。

あと、フルートと金重さんのヴィオラ、鈴木さんのハープでドビュッシーの「ベルガマスク」組曲のメヌエット。

金重さんのハープに合わせてビゼーの「アルルの女」のメヌエットをフルートで演奏します。

フルートはまだいいんだけど…。
ハープは…練習、練習。

絵本を渡したら、「当日のスケジュールはどうするの?とサロンのグループLINEが…ダメダメ追いついてない💦

明日は富久田先生のレッスン。
ドップラーの練習はどうするんだ〜!!

ということで日が暮れていきます。
忙しい音楽と言えばバレエ音楽「アラとロリー」が検索で出てきます。

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

1918年プロコフィエフ
1914年、ディアギレフ(1872-1928年)


は、ロシアの季節のためのバレエ音楽の制作に、将来有望な若手作曲家プロコフィエフを参加させることにしました。

彼はプロコフィエフが提案したオペラ『遊び人』(ドストエフスキーの小説による歌劇)を拒否し、ディアギレフのロシア・バレエ団のためにバレエ『アラとロリー』を発注しました。

プロコフィエフは 1914 年の秋から 1915 年の冬にかけてバレエの音楽に取り組みましたが、この曲は完成しませんでした。

この台本は、スキタイ(紀元前〜4世紀頃までカスピ海南岸に存在したイラン語を話す民族)の英雄ロリウス、古代スラブ神話に基づいたもので、セルゲイ ゴロデツキー(アクメイズム=言葉の正確性を追求した一派)


によって編纂されました。

バレエの制作は振付師のボリス・ロマノフに委託されました。

しかし、1915年にローマで作曲家と会ったとき、興行主はプロコフィエフの最初のバレエの上演を拒否しました。

この組曲は 1915 年 9 月 2 日に完成し、A. I. シロティはこの作品をマリインスキー劇場の 1915/16 シーズンのコンサート プログラムに組み入れました。

作曲家と彼の親しい友人であるミャスコフスキーとアサフィエフは、「スキタイ組曲」を「彼がこれまでに書いたオーケストラ作品の中で最大かつ最も重要なもの」とみなしましたが、

「大衆は依然としてそれを音楽的過激主義の表れ」と認識していました。

1916年1月16日(同29日)の『スキタイ組曲』の初演は、第2回ピアノ演奏会以上に騒々しいスキャンダルと抗議活動を引き起こしました。

音楽評論家らはスキタイ組曲は間違いなくイーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』の音楽の影響を受けていることに同意しています。

1.ヴェレス(太陽神)と彼の娘アラへの崇拝 ( Allegro feroce )
野蛮で色彩的な音楽は、スキタイ人の太陽信仰を表しています。兇暴な部分は太陽神ヴェレスを、柔和な部分はその娘アラを表しています。

2.邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り (アレグロ・ソステヌート)
スキタイ人がアラに生贄を捧げていると、7匹の魔物に取り囲まれた邪神チュジボーグが野卑な踊りを舞い始めます。

3.夜 (アンダンティーノ)
邪神チュジボーグは夜陰に乗じてアラを襲う。月の女神たちがアラを慰める。

4.ロリーの栄えある門出と太陽の行進勇者ロリーがアラを救いに現れます。太陽神ヴェレスがロリーに肩入れして、チュジボーグを打ち負かします。勇者と太陽神が勝ち、日の出を表す音楽によって組曲が終わりとなります。












クラリネットとトリオ

2024-12-04 21:01:00 | 近代
聴き合い会にオーケストラで出会ったクラリネット吹きさんを誘ったら、「やりたい!」と言うことです。
「何を吹きたい?」と聞くと「久米さんと合奏したい。」うれしいことを言ってくれます。
前回聴き合い会に来てくださったピアニストさん

を誘ったらこちらも快いお返事で、3人でトリオをすることにしました。

imslp(楽譜インターネット図書館)で楽譜を探したら、フルート、クラリネット、ピアノのトリオは数が少なくあまり選べませんでした。

編曲ものでフォーレの組曲「ドリー」から楽譜のあった3曲を選びました。

そして初合わせ。
お茶を飲んで、お菓子を食べてスタート。

クラリネット…いい音です。合わせも楽しかったです。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

1870年代フォーレ
『ドリー』(Dolly)作品56は、ガブリエル・フォーレが作曲したピアノ連弾のための6曲からなる組曲です。

フォーレが妻のマリーを通じて親しくなった銀行家で正式な夫シズスモン・バルダックの妻エンマ・バルダック(1862-1934年)
(後年のドビュッシー夫人)。

彼女の娘で、1892年に生まれたエレーヌの誕生日祝いに毎年曲を贈っていました。
その曲を中心に編まれたのが組曲「ドリー」です。

タイトルの「ドリー」というのはエレーヌの愛称で、フォーレはこの曲集をレジーナ=エレーヌ バルダック(1892-1935年)に献呈しています。

フォーレとピアノを弾くロンバール夫人、
1913年にルガーノ湖畔のトレヴァーノで、作曲家が主人と女主人の娘である若いロンバール嬢のプリモに第2番を演奏しているところです。フォーレはよく子どもたちと演奏しています。
1898年にアルフレッド・コルトーとエドゥアール・リスラーの連弾によって初演され、翌年には初演者コルトー
の手によるピアノ独奏版が、1906年にはアンリ・ラボーによる管弦楽編曲版が出版され、原曲に加え編曲版も有名になっています。
現在もいろいろな楽器に編曲されている人気の演目です。

フォーレとエンマの関係は友人と言うよりも愛人関係だったらしく、実はエレーヌもフォーレの子ではないかという説も強く語られています。

6つの曲で構成されています。

組曲「ドリー」
第1曲 子守歌(Berceuse)
1864年友人の娘スザンヌ・ガルニエのために書かれました。この曲のみ先行して1894年に単独で出版されています。

第2曲 ミ・ア・ウ(mi-a-ou)
1894年にエレーヌの2歳を祝う作品として作曲されました。
フォーレが元々与えたタイトルは「ムシュー・アウル(Messieu Aoul!)」で、エレーヌが兄のラウルを呼ぶ時に、幼児だったのでミアウと呼んだのをおもしろかってつけました。

ところが出版社のジュリー アメルがが猫の鳴き声を示すこの名前をつけました。

第3曲 ドリーの庭(Le jardin de Dolly)
1895年作曲。エレーヌ3歳の誕生日に贈られました。
自作のヴァイオリン・ソナタ第1番から最終楽章の主題が引用されています。

第4曲 キティー・ヴァルス(Kitty-valse)
1896年作曲。エレーヌ4歳の誕生日に贈られました。
これもジュリー アメルがタイトルを付けました。

フォーレが元々与えたタイトルは「ケティ・ヴァルス(Ketty Valse)」。

ケティとはラウルの飼い犬です。

第5曲 優しさ(Tendresse)
1896年に作曲された「テンドレス」は、もともと音楽出版者の妻アデラ・マディソンに捧げられました。

第6曲 スペインの踊り(Le pas espagnol)
組曲はスペイン舞曲で終わります。
これはフォーレの友人エマニュエル・シャブリエのスペイン風の、生き生きとした絵画的な情景描写です。

フルート、クラリネット、ピアノによる組曲「ドリー」




洋梨のかたちをした

2024-11-21 20:51:00 | 近代
いちごの鉢から、なぜか蔓で出てきました。 抜こうかな?と思っていたら花が咲きました。

調べてみたら、ゴーヤかすいか。

なぜ?
サンルームに入れっぱなしなのに。

まさか実はならないと思いますが、しばらく育ててみたいです。

エリック サティ(1866-1925年)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

いつも同じ色と形の服を着てこうもり傘を持って歩いていました。真っ黒いジャケットと山高帽子、こうもり傘がサティのスタイル。
死後こうもり傘が100本も家から出てきました。

「インテリアのような音楽」を目指していました。 

変わった名前の曲を量産しています。
1903年に作曲したピアノ4手のための「梨のかたちをした3つの小品」もその1つです。

1898年のサティ

当時、サティはクロード・ドビュッシーに「形式的な作品を作ってみては」と忠告され、調性、拍子、形式を明確にした曲を作曲することにします。

結果、この「梨の形をした3つの小品morceaux en forme de poire」が完成することになりました。

しかし、
フランス語の「梨(西洋梨)」という単語にはもう一つ「まぬけ」や「うすのろ」といった意味があります。

poireは
プログレッシブ辞典によれば
[女性名詞]

➊ ナシ(の実);⸨特に⸩ 洋ナシ.
➋ 洋ナシ形のもの.
➌ ナシブランデー,ポワール.
➍ ⸨話⸩ 間抜け,だまされやすい人.
➎ ⸨俗⸩ 顔;頭.
━[形容詞] ⸨話⸩ 間抜けな,お人よしの.

また、3つの小品となっていますが、実際には7つの小品からなっています。

しかし、最初から明らかな軽蔑が示されているにもかかわらず、形式はしっかりと存在しています。
調性があり、拍子があり、
作品の全体的な構造は完全に対称的です。
2つの作品紹介
3 つの作品
2つの最終部分


オリジナル版の表紙 ( Rouart-Lrolle et Cie、1911 年)
第1曲 始め方
4分の4拍子。
終止線もある。3小節単位の動機が終止線まで繰り返されます。

第1曲は元々は1891年に劇付随音楽「星たちの息子」の曲として作曲され、その後1897年頃に「グノシエンヌ」と改題された後、さらにこの作品へ流用されました。

第2曲 同じものの延長
4分の2拍子、ニ短調。

第3曲 小品Ⅰ
4分の2拍子、ハ短調。  

第4曲 小品Ⅱ
4分の2拍子 - 4分の4拍子、ハ長調 - ト長調 - 変イ長調。
快活な舞曲。再び最初の舞曲に戻っています。

第5曲 小品Ⅲ
4分の4拍子。
激しい曲想。明確なリズムが特徴的。 

第6曲 つけ加えて
4分の4拍子。
全体的に変化のない作り。プリマは単旋律的に演奏されます。 

第7曲 言い直し
4分の3拍子、変ロ長調
緩やかで優雅な旋律の舞曲で終わります。


ブエノスアイレスの秋

2024-11-13 21:00:00 | 近代
第二火曜日の10:00〜は、子育てサロンです。
今日はスタッフで元保育士のOさんが手遊びをしてくれました。

「さつまいも ホクホク、パクパク食べちゃった。」と歌ってくれると子どもたちも楽しそうに身体を動かしていました。

「ぽっぽくらぶ」の歌を振り付きで歌いました。
ずっと前にスタッフの1人が、作ってくれました。それをみんなで歌い継いでいます。

手作りのボックスシアターを2人でしてくれました。

緑色のもみじが、「あき、あき、秋の色」

と歌っている間に赤い葉っぱになります。

不思議でしょう?

それから今日はお母さんたちでヒノキの粉を袋に詰めて、ヒノキエッセンスを振りかけてサシェを作りました。

子どもたちはスタッフと遊んでいます。

サシェとっても簡単ですがいい香りがして、防虫効果も期待できるそうです。

スタッフの1人しまさんが、絵本を出しました。
チャイルドブックに載っています。
「どんぐりさんぽ」

幼稚園児対象なので、サロンの子どもたちには難しいので簡単にしながら読んでくれました。
短くしても子どもたちよく見ていましたよ。

アストール ピアソラ(1921-1992年)アルゼンチンマル・デル・プラタ生まれ、アルゼンチン ブエノスアイレス没

のブエノスアイレスの四季はEstaciones Porteñasポルテーニャス駅と言う題名でした、
アストール・ピアソラによって書かれた4曲のタンゴ作品のセットです。

元々は1つの組曲ではなく別々の作品として考えられ、扱われていました 
が、ピアソラは時折それらを一緒に演奏していました。

ヴァイオリン(ビオラ)、ピアノ、エレキギター、コントラバス、バンドネオンの五重奏団のために作曲されました。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれた人々を指す形容詞「ポルテーニョ」を用いることで、ブエノスアイレスの四季を印象づけています。

ピアソラが「エスタシオネス・ポルテーニャス」につけた演奏順は、
Otoño(秋)
Invierno(冬)
Primavera(春)
Verano(夏)

Verano Porteño (ブエノスアイレスの夏)
1965 年に書かれ、元々はアルベルト・ロドリゲス・ムニョスの劇「メレニタ・デ・オロ」の付随音楽として書かれました。

Invierno Porteño (ブエノスアイレスの冬)1969 年に書かれました。

ブエノスアイレスの春Primavera Porteña ( Buenos Aires Spring )
1969 年に初演されました。

ブエノスアイレスの秋『Otoño Porteño』 1969 年初演されました。

ブエノスアイレスの秋


謎は謎のまま

2024-11-08 21:00:00 | 近代
京都今出川大宮の富久田晴彦先生のレッスンにうかがいました。
急に寒くなって晩秋の様相でした。
雲は冬。
さすがに冬ほど寒くはないですが

一度来た薄めのシャツを厚手のに着替えて行きましたが、みんなウィンドブレーカーのようなジャケットを着ていて、こっちが今日は正解だった。と思いました。

ハンガリー田園幻想曲を見てもらいましたが、初めのところはカデンツァのように考えていたら、拍をちゃんと取らないとだめということがわかってこってり絞られました。
まだまだだなぁ…。

帰り京阪出町柳の駅構内で見かけた3人。
京都らしい着物…と一瞬思ったけれど、この季節になぜ浴衣?

私はわりとドレスコードなど気にしない方ですが、さすがに今の季節に浴衣は無い。

何のための浴衣だったのか?
本当にプロが着せたようにきっちり着ているし、崩れもないし。
足袋もはいて裾捌きもサッサッと慣れた感じだったし、観光のようなにこやかな緩やかな感じも無い。

3人の着物もバラバラ。
何かのお仕事だったのかもしれない。
もしかしてモデル?

なんて、特急の中であれこれ妄想してしまいました。

樟葉で乗り換えたら先頭車両は誰も乗っていない思わず降りて、表示板を確認してしまった。
運転士さんは外を確認されていて、見えたかっただけでした〜。



初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(1857--1934年)イングランド ロウアー ブロードヒース生まれ、イングランド ウスター没

『独創主題による変奏曲』 
( Variations on an Original Theme for orchestra)
『エニグマ変奏曲』または『謎の変奏曲』( Enigma Variations)作品36は管弦楽のための変奏曲は

出版に際して「エニグマ」(Enigma)を付記することをエルガーも認めました。本作品は「描かれた友人たち (My friends pictured within)」に献呈されています。

「エニグマ」とはギリシア語で、「なぞなぞ」「謎かけ」「謎解き」といった意味です。

実はほとんどの「謎」は解けています。
しかし主題についての「謎」についてはまだわかっていません。

エルガーによると、
「その謎については説明しまい。その「陰の声」については想像できないようにしておこう。 諸君に警告しておくが、変奏と主題の明らかなつながりは、しばしば、ごくわずかなテクスチュアの問題でしかない。 もっと言えば、曲集全体を、もう1つのより大きな主題が貫いているのだが、それは演奏されないのである。 (中略)かくて基本主題は、その後の展開においてさえ、決して登場せず、(中略)その主要な性格は決して表舞台には出てこない」

エルガーは「隠された主題」がそれ自体、「よく知られた」ものであるとも仄めかしています。

仮説はいろいろ立ったものの、完全に合点がつくような謎解きはいまだに1つも出されていません。

英国国歌『国王陛下万歳』とする説、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』(蛍の光)であるとする説、『エニグマ変奏曲』の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの『交響曲第38番「プラハ」』がそうだとする説などがありますが、完全に納得する説はありません。

その第9変奏曲「ニムロッド」の謎はまず、その名前でしたが、楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのアウグスト・イェーガー(August Jaeger, 英語式にはオーガスタス・イェイガー 1860 - 1909年)

にエルガーが付けた愛称だということが分かっています。

「ニムロッド」は、旧約聖書に登場する狩の名手「ニムロデ」を指します。

この愛称は、ドイツ語の “イェーガー” (Jäger)が「狩人」や「狙撃手」に通ずることにちなんでいます。

エルガーは第9変奏において、イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしました。

また、この曲の旋律は2人が大好きだったベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章の旋律が下敷きになっています。


エルガー自身の言葉によると

「私がJaegerにつけたあだ名である。Jaegerは批評家として、そして音楽家たちの友として、よく知られていた。

この変奏曲は、すべてが“肖像”であるわけではない。いくつかの変奏は雰囲気だけを表しているし、またいくつかのものは、描かれた人と作曲者の2人だけが知る出来事を描写している。

もしA. J. Jaegerの人格と気質を描写しようとすれば、このゆったりした第9変奏に加えて、何か情熱的で気まぐれなものが必要になっただろう。

夕方の散歩をしながら、Jaegerは「緩徐楽章に関して、全盛期のベートーヴェンに匹敵する者はいないだろう」と言った。私はその意見に心から賛成していた。

この変奏の最初の小節が、ピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章を暗示するように作曲されていることに気づくだろう。

Jaegerは長年の親友であり、私や他の多くの音楽家たちにとっての大切な助言者であるとともに、厳しい批評家であった。Jaegerと同じ立場に立った人はいても、Jaegerに匹敵する人はいなかったのだ。」




ヴェニスの商人

2024-10-31 21:00:00 | 近代
土曜日伊藤公一先生のレッスンを終えて帰ったら、夫が「ちょっとドライブしようか?」
次男と3人で、どこへ行くのか?と車に乗っていたら…。

やってきました京都錦市場。
コロナ前に来てからずいぶん経ちます。

炙り蟹かまって何?
蟹では無いですね。  
串で食べ歩く方式。

海老も串

海老天も

和牛うに串5000円😱

鯛焼きからいちごがはみ出てるし

盆栽は蕎麦猪口に入って、すっかりポップに…。

むちゃくちゃ人が多いです。

魚屋さんも丸椅子に座って食べる式になってました。

あまりのカオスに這々の体で錦天満宮さんと

蛸薬師さんをお参りして

昔ながらのお店の生麩と

半額になってた西京焼き弁当

昔馴染みの「そや」の厚揚げを買って帰りました。

全く変わってなかった生麩の店主に「変わりましたね。」と声を掛けると
「もう、どうしようもありませんわ。」

嫌なんだろうなぁ〜。

けれど、人に来てもらわないとやっていけない。
たくましく、生き残ってくださいね🙏


ガブリエル フォーレ(1845-1924年)
フランス共和国アリエージュ県パミエ生まれ、フランスパリ没

1889年
にはいくつか舞台のための劇音楽の作品があります。 
そんな中でシェイクスピアの「ヴェニスの商人を下敷きに詩人&劇作家のエドモンド アロクール(1856-1941年)によって書かれた作品の付随音楽、
組曲「シャイロック」があります。

シャイロック組曲、作品57は、ガブリエル・フォーレによる6楽章の作品で、1890年に初演されました。

4つの管弦楽に加え、管弦楽伴奏付きのテナー独奏のためのセレナードが2曲含まれています。

前年にパリのオデオン座で上演されたエドモン・アロクール(1856-1941年)

の劇『シャイロック』(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の翻案) のために書いた付随音楽からこの組曲を作曲しました。

この劇音楽は小編成のオーケストラ用に書かれていて、フォーレはコンサート用組曲のためにオーケストラを大幅に拡張しました。

フォーレが組曲の元となった付随音楽を作曲した『シャイロック』(1889年)第1幕のシーン
1889年、フォーレはエドモン・アロクールがシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を翻案した新作『シャイロック』の劇伴音楽を作曲しました。

この作品は1889年12月17日にパリのオデオン座

で、ガブリエル・レジャン
女優レジェーンとその犬(1885 年頃)、ジョヴァンニ ボルディーニ作
がポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
ポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
56回の上演は、短期間の上演が当たり前だったオデオン座の基準からするとかなりの上演回数てした。

フォーレの伝記の中で、ロバート・オーレッジは、この楽譜の作曲については、「最高のノクターン」が1889年10月にグレフュル子爵夫人
フィリップ・デ・ラースロー作の肖像画、1905
の田舎の家に短期間滞在した後に作曲されたということ以外ほとんど知られていないと述べています。

フォーレはグレフュル子爵夫人に
「私はシャイロックのために、ヴェネツィアの月明かりのような最も探究的な音楽フレーズを探していましたが、見つけました。あなたの公園の空気がインスピレーションを与えてくれたのです。」と書いています。

それ以前に、フォーレはこの劇のために2つのセレナーデを作曲していて、10月初旬にアロクールを招待してそれを聴かせました。
棺のシーンの音楽はその時点では書かれていませんでした。

フォーレがこの曲を作曲した劇場オーケストラは規模が大きくなく、弦楽器15本、木管楽器5本、ホルン1本、トランペット1本で構成されていました。

オデオン座のために作曲されたスコアには9曲あり、フォーレはそこから6楽章の組曲を抜粋してフルオーケストラ用に編曲し、2楽章でテナー独奏、2つのハープ、ティンパニ、トライアングルを加えました。

この曲は1890年5月17日、パリの国立音楽協会のコンサートで、歌手のジュリアン・ルプレストルと協会のオーケストラによって、ジャン・ガブリエル=マリーの指揮で初演されました。

01.- Chanson シャンソン

シャイロックの音楽の冒頭部分の写字生の原稿
シェイクスピアの劇とは何の関係もないこの歌詞は、ヴェネツィアの酒宴の客が歌うセレナーデでアロクールの創作です。

02.- Entra'cte 間奏曲
タイトルにもかかわらず、幕間音楽はオデオン公演では楽章の合間には演奏されませんでした。
組曲初演の印刷されたプログラムでは、「棺桶の場面」と題されていました。
この曲は劇場でベルモントのポーシャの家での動きに合わせて演奏され、ほとんどがピアニッシモで、台詞の背景として意図されていました。

03.- Madrigal マドリガル
2番目の声楽曲は、アロクールの劇『ポーシャの窓の下でアラゴン王子が歌う』で歌われるセレナードです。

オデオン公演『シャイロック』ポーシャ役のレジェーン
04.- Epithalme エピタラミウム
エピタラミウムとは「新郎新婦を讃え、二人の繁栄を祈願する結婚の歌または詩」です。
シャイロックでは、この曲はバサーニオがポーシャの心を勝ち取った後に演奏されます。

05.- Nocturne ノクターン
オデオンの公演では、この夜想曲はポーシャの庭でのジェシカとロレンゾのラブシーンの音楽でした。
組曲のハイライトでオルレッジは、この楽章をフォーレの劇場音楽の中で最も美しい楽章であると評価しています。
シャルル・ケクラン(1867-1950年)

は次のように書いています。

「弦楽器のみの夜想曲については、この音楽があまりにも深く普遍的な人間味にあふれているため、位置づけることは不可能である。ここで表現される夜の強烈な優しさは、フォーレのインスピレーションの中でも最も美しいものの一つである。」

06.- Finale フィナーレ
終楽章は元々「オーバード」と題されていましたが、幕間と同様に、アロクールの台詞に合わせて演奏されるよう意図されていました。

この曲は、恋人たち全員が一堂に集まる劇の最後の場面のために書かれました。

1909年、シャイロックの音楽のリハーサル中のフォーレ
フォーレはこの組曲のために大幅に書き直しました。
フォーレは特に編曲で知られていたわけではなく、他の作品では時折助手に編曲を任せていましたが、この組曲の終楽章は彼の編曲で、もっとも印象的なものとなりました。












ログインかなわず1週間

2024-10-26 21:01:00 | 近代
1週間前。
gooブログのIDで、突然ログインできなくなり、メールでdocomoのヘルプセンターとやりとりが始まりました。
gooIDを入力し、パスワードを入れると、二重認証の数字が登録メールに送られてきます。
…ということはID.パスワードは合っているはず。
ところが数字を入れると、再びログイン画面に戻ってしまいます。
cookieを有効にしなさいと、ヘルプセンターから連絡あり、有効にしてもだめ。

時間がかかるかもしれない、お調べ中です。と待たされているうちに、ブログの更新は止まり…早や1週間。
当然みなさんのブログにもご訪問できず…。

フォロワーのみなさんにも会えず。
悲しい気分で過ごしていました。

ここ数年はコロナでも、父が亡くなった時でもなんとか2日と開けず、投稿していたのに…。

結局、今夜になって思いついて、Googleでログインするとあっさりログインできました。
GoogleIDも、パスワードも覚えていませんが…入力もしていませんが不思議な気分です。


ログインできず、もんもんとしているうちに

母と通った病院近くの伊藤軒。

野菜二十品目ランチ

野菜カレー。
季節も変わり



ハロウィン間近。
今夜は23時〜書いています。
もう二度とこのブログでみなさんにお会いすることができないのかと思った暗い1週間。
今夜は大したことは書けませんが、
とりあえずいつもの朝9:00に投稿してみます。

「アヴェ・マリア タンティ アンニ   プリマ」
アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)(1921-1972年)作曲。

もともとは歌曲「アベマリア」として作曲されていました。

1984年のイタリア映画「エンリコ4世」のためにオーボエの曲として編曲されました。



映画用に編曲された時のタイトルが「Tanti Anni Prima(昔々)」です。




真剣に遊んでみました。

2024-10-18 21:00:00 | 近代
木曜日は子育てサポートで、幼稚園に子どもを迎えに行って自宅で保育。その後、家まで送っていくというものでした。
8:00まで預かるのでお菓子を持たされています。
今日のはマーブルチョコレート志摩水族館仕様

かわいいです。

昨日から作り出した自動販売機。
カッターは使えないので私が穴を開けました。
昨日は前を開けて、コインとお札を入れる穴を開けました。
「どうやって缶が出てくるようにできるかな?」というところで終わっていました。
今日は帰ってくるなり「後ろに穴を開けて滑り台にしたらどうかなぁ?」

開けました。
紙を後ろから前に滑り台のように通して、缶代わりのダンボールを丸めたものを落としてみると

ウケました。
クレヨンも落としたりして、興奮しました。私も!

ジャック イベール(1890-1962年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

1910年、パリ音楽院に入学。
アンドレ・ジェダルジュの対位法講義では「フランス6人組」のダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲルと同窓でした。

第一次世界大戦中は海軍士官として従軍。 
1914年に音楽院を卒業し、5年後の1919年、カンタータ『詩人と妖精Le poète et la fée』でローマ大賞を受賞しました。

1923年まで3年間ローマに留学、『寄港地』などを作曲しました。

1937年から1960年まで(第二次世界大戦中を除く)在ローマ・フランス・アカデミーの館長でした。
1940年、フランス政府よりの依頼を受けて、日本の皇紀2600年奉祝曲として『祝典序曲』を作曲。

1940年6月にパリが陥落すると、北アフリカで抗戦を継続しようとする政治家たちにイベールは同行し、このためにヴィシー政権によってイベールは反逆者と見なされ、曲の演奏が禁じられていました。

1944年に在ローマ・フランス・アカデミー館長に復職します。

1955年から1957年までパリの国立オペラ劇場連合(RTLN、オペラ座とオペラ=コミック座)の監督をつとめました。

1962年にパリにて死去。遺体はパリ16区のパッシー墓地にて埋葬されました。

フルートとピアノのためのソナティナop「遊戯」は、1923年に作曲されました。イベールは、1919年にローマ大賞を受賞して、1920年から23年の間ローマに留学しましたが、その間の成果のひとつとしてこのソナチネが完成し、ルイ・フルーリーにより初演されました。

第1楽章・アニメ (活発に)、第2楽章・ターンドル (優しく)、あわせて5分程の短いソナチネです。





オリンピック賛歌

2024-10-09 21:01:00 | 近代
火曜日午前中は子育てサロンの運動会!ぽっぼリンビックでした。

聖火のリレー。

動物に変身リレー。

ボウリングなどなど。
みんながんばりました。
子どもたち、お母さんたち、お父さんたち、スタッフも、みんなで楽しみました。

1896年第一回オリンピックはアテネで開かれました。

アテネオリンピック開会式

参加14か国241人 

予算の関係で金メダルは無く、優勝者には銀メダル、2位で銅メダル、3位以降は賞状だったそうです。

音楽にはオリンピック賛歌(Olympic Anthem)、詞コスティス・パラマス(Kostis Palamas)、曲スピロ・サマラス(Spyros Samaras)によって作られ、この第1回アテネオリンピックにおいて演奏されました。

スピリドン=フィリスコス・サマラス(別名スピロス、スピロ・サマラ、ギリシア語:Σπυρίδων Σαμάρας)(1861 - 1917年)ギリシャ王国コルフ島生まれ、ギリシャ王国アテネ没

は、ジャコモ・プッチーニの作品の先駆けとなった世代の作曲家で、特にオペラで高く評価されているギリシャの 作曲家です。 

彼の作品は生前、世界中で賞賛されていて、イオニア楽派で最も重要な作曲家です。

母親はコンスタンティノープル出身、父親は​​シアティスタ出身の外交官スカルラトス・サマラス。

1875年から1882年までアテネ音楽院でまなびます。
最初のオペラ 『トルピッラエ』(現在は紛失)は1879年にアテネで初演されました。

1882年にパリ音楽院で学ぶためパリに行き、ジュール・マスネ(1842-1912年)

のお気に入りになりました。
パリで3年間作曲家として成功を収め、1885年にイタリアに移住しました。

サマラスはすぐにイタリアのオペラ界で重要な人物となりました。

彼のオペラ「奇跡の花」
 

は 1886 年にミラノで初演され、1888 年にはローマのコスタンツィ劇場で上演されました。
同年オペラ「メジェ」が上演され成功を収めました。

彼はミラノの出版業者エドアルド・ソンゾーニョ(1836-1920年)

と親しくなり、1894年9月22日のソンゾーニョの劇場開館にサマラスの『殉教者』を上演します。

彼のオペラはパリ、モンテカルロ、ケルン、ベルリン、ウィーン、マルタ、ブカレスト、コンスタンティノープル、スミルナ、アレクサンドリア、カイロ、ギリシャ、イタリアで上演されました。

彼は15の舞台作品を書きました。
中でも1908年オペラ「Rhea」の序曲では、オリンピック賛歌の冒頭のファンファーレが使用されました。

彼は1911年にギリシャに戻り、アテネ音楽院 の院長に任命されるだろうと信じていました。

「国民楽派」の作曲家たちは、サマラスのようなイオニア楽派の作曲家はイタリアの影響を強く受けすぎていると考えていて、論争に巻き込まれ職を与えられませんでした。

彼は、いつもの創作活動を続けるよりも、さまざまな聴衆を満足させることを目的としたオペレッタを作曲して生計を立てた。彼の最後のオペラ『ティグラ』は、この頃に着手され、彼の最高の音楽のいくつかを含んでいましたが、完成することはありませんでした。

サマラスは、デミトリウス・ヴィケラス(ギリシャの実業家、作家。 1894年から1896年まで国際オリンピック委員会(IOC)の共同創設者であり初代会長)


によってオリンピック国歌の作曲者に選ばれました。

オリンピック賛歌の初めのページ
歌詞はコスティス・パラマス(1859-1943年ギリシャの詩人)

が書きました。
国歌は、最初の近代オリンピックである1896年夏季オリンピックの開会式で初めて演奏されました。
しかし、その後50年間ほとんど忘れ去られていました。

1958年、東京で開催された国際オリンピック委員会総会で、この歌は再び演奏されました。

デンマークのアクセル王子の要請により、 1958年に国際オリンピック委員会によってオリンピック運動の公式国歌と宣言され、 1960年の冬季オリンピック以降、すべての開会式で演奏されています。

サマラスは55歳でアテネで亡くなり、1896年のオリンピックが開催されたスタジアム近くの国立墓地に埋葬されています。

日本語訳の歌詞があるのですが、古色蒼然としていて意味が、よくわからない(おそらく1859年から変えていない。)のでGoogle翻訳を載せてみました。

オリンピック賛歌
オリンピックの聖火は不滅
誰の灯台が私たちの道を照らすのか
希望の炎で私たちの心を照らしてください
この記念すべき日に
今、私たちは世界を渡っています
昔のゲームを共有する
あらゆる国の旗を
兄弟愛が広がる
それぞれの国の声を力強く歌おう
調和して立ち上がる
勇敢なオリンピック選手たちに栄光あれ
勝利の響きとともに
オリンピックの光は永遠に燃え続ける
海と山と平原を越えて
団結し、刺激し、名誉をもたらす
オリンピックを




サロンで生まれた曲

2024-09-28 21:00:35 | 近代
9月27日(金)は枚方市 牧野生涯学習センターで第16回聴き合い会でした。
今回は、ギター、ビウエラ、チェロ、フルート、ピアノ13名の参加でした。

フルート2本とチェロでハイドンの「ロンドントリオ」

古楽器ビウエラもずっときてくれています。
頭部管木管のフルートとギターで即席合奏。
もちろん独奏も

19世紀ギター。とても深い音です。
ルネサンスからロマン派、現代音楽までバラエティ豊かでした。
みんなでジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」の4声版をみんなで合奏もしました。

第17回聴き合い会は10月25日(金)12:15 牧野生涯学習センター音楽室。1人15分 協力金500円
みなさんもぜひご出演ください。

ステファヌ マラルメ(1842-1898年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国セーヌ エ マルヌ県ヴァルヴァン没



本名エティエンヌ・マラルメ。
若いうちにユーゴーらのロマン派の影響を受けて詩作を始め、ボードレールの作風やアメリカの詩人・作家のエドガー・アラン・ポーの『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになりました。

第三共和政下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴りました。

マラルメはローマ街(パリ17区ローム通り (Rue de Rome) 87番地(現89番地))にある自宅で「火曜会」というサロンを開いていました。

画家のモネ、ルノワール、そしてドガなどの印象派をはじめゴーギャンやドニ、ホイッスラー、詩人のヴェルレーヌ、ヴァレリー、作家のオスカー・ワイルド、アンドレ・ジッドなとま多くの芸術家が出入りしていました。

クロード アシル ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

はマラルメのサロンに出入りしていた1人です。

1889年27歳、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』の作曲へとつながっていきます。

マラルメの詩を3篇取り上げたこのような歌曲集が作られました。

モーリス・ラヴェルも同じステファヌ・マラルメの詩を3篇取り上げて歌曲集を書いています、しかも偶然に初めの2曲の詩は全く同じものが選ばれています。

1.ため息
2.空しい願い
3.扇

3.扇
おお夢見るひとよ 
ぼくが飛び込むために
この純粋な喜びに 
道なきところから 巧みな偽りで
ぼくの翼をきみの手に持っていて欲しいのだ

たそがれ時のさわやかな空気は
一度あおぐたび毎にきみに届き
この捕らわれた扇のはばたく音は広げていく
地平線を ほんのささやかに

めまいがする! 
今ここで震えているのは
大きなくちづけのようなこの空間
誰かのために生まれようともがくけれども
あふれ出ることも 静まることもできないくちづけのような

きみは感じるかい 残酷な楽園を
秘められた笑いのように
きみの口元から湧き出してきて
きれいに揃った襞の底へと広がっていく

バラ色に輝く王の杖が
この金色の夕暮れによどんでいる、それこそが
閉ざされた白い飛翔 きみが巻き起こしたのだ
そのブレスレットの輝きのそばに