音楽の喜び フルートとともに

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謎は謎のまま

2024-11-08 21:00:00 | 近代
京都今出川大宮の富久田晴彦先生のレッスンにうかがいました。
急に寒くなって晩秋の様相でした。
雲は冬。
さすがに冬ほど寒くはないですが

一度来た薄めのシャツを厚手のに着替えて行きましたが、みんなウィンドブレーカーのようなジャケットを着ていて、こっちが今日は正解だった。と思いました。

ハンガリー田園幻想曲を見てもらいましたが、初めのところはカデンツァのように考えていたら、拍をちゃんと取らないとだめということがわかってこってり絞られました。
まだまだだなぁ…。

帰り京阪出町柳の駅構内で見かけた3人。
京都らしい着物…と一瞬思ったけれど、この季節になぜ浴衣?

私はわりとドレスコードなど気にしない方ですが、さすがに今の季節に浴衣は無い。

何のための浴衣だったのか?
本当にプロが着せたようにきっちり着ているし、崩れもないし。
足袋もはいて裾捌きもサッサッと慣れた感じだったし、観光のようなにこやかな緩やかな感じも無い。

3人の着物もバラバラ。
何かのお仕事だったのかもしれない。
もしかしてモデル?

なんて、特急の中であれこれ妄想してしまいました。

樟葉で乗り換えたら先頭車両は誰も乗っていない思わず降りて、表示板を確認してしまった。
運転士さんは外を確認されていて、見えたかっただけでした〜。



初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(1857--1934年)イングランド ロウアー ブロードヒース生まれ、イングランド ウスター没

『独創主題による変奏曲』 
( Variations on an Original Theme for orchestra)
『エニグマ変奏曲』または『謎の変奏曲』( Enigma Variations)作品36は管弦楽のための変奏曲は

出版に際して「エニグマ」(Enigma)を付記することをエルガーも認めました。本作品は「描かれた友人たち (My friends pictured within)」に献呈されています。

「エニグマ」とはギリシア語で、「なぞなぞ」「謎かけ」「謎解き」といった意味です。

実はほとんどの「謎」は解けています。
しかし主題についての「謎」についてはまだわかっていません。

エルガーによると、
「その謎については説明しまい。その「陰の声」については想像できないようにしておこう。 諸君に警告しておくが、変奏と主題の明らかなつながりは、しばしば、ごくわずかなテクスチュアの問題でしかない。 もっと言えば、曲集全体を、もう1つのより大きな主題が貫いているのだが、それは演奏されないのである。 (中略)かくて基本主題は、その後の展開においてさえ、決して登場せず、(中略)その主要な性格は決して表舞台には出てこない」

エルガーは「隠された主題」がそれ自体、「よく知られた」ものであるとも仄めかしています。

仮説はいろいろ立ったものの、完全に合点がつくような謎解きはいまだに1つも出されていません。

英国国歌『国王陛下万歳』とする説、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』(蛍の光)であるとする説、『エニグマ変奏曲』の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの『交響曲第38番「プラハ」』がそうだとする説などがありますが、完全に納得する説はありません。

その第9変奏曲「ニムロッド」の謎はまず、その名前でしたが、楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのアウグスト・イェーガー(August Jaeger, 英語式にはオーガスタス・イェイガー 1860 - 1909年)

にエルガーが付けた愛称だということが分かっています。

「ニムロッド」は、旧約聖書に登場する狩の名手「ニムロデ」を指します。

この愛称は、ドイツ語の “イェーガー” (Jäger)が「狩人」や「狙撃手」に通ずることにちなんでいます。

エルガーは第9変奏において、イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしました。

また、この曲の旋律は2人が大好きだったベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章の旋律が下敷きになっています。


エルガー自身の言葉によると

「私がJaegerにつけたあだ名である。Jaegerは批評家として、そして音楽家たちの友として、よく知られていた。

この変奏曲は、すべてが“肖像”であるわけではない。いくつかの変奏は雰囲気だけを表しているし、またいくつかのものは、描かれた人と作曲者の2人だけが知る出来事を描写している。

もしA. J. Jaegerの人格と気質を描写しようとすれば、このゆったりした第9変奏に加えて、何か情熱的で気まぐれなものが必要になっただろう。

夕方の散歩をしながら、Jaegerは「緩徐楽章に関して、全盛期のベートーヴェンに匹敵する者はいないだろう」と言った。私はその意見に心から賛成していた。

この変奏の最初の小節が、ピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章を暗示するように作曲されていることに気づくだろう。

Jaegerは長年の親友であり、私や他の多くの音楽家たちにとっての大切な助言者であるとともに、厳しい批評家であった。Jaegerと同じ立場に立った人はいても、Jaegerに匹敵する人はいなかったのだ。」




ヴェニスの商人

2024-10-31 21:00:00 | 近代
土曜日伊藤公一先生のレッスンを終えて帰ったら、夫が「ちょっとドライブしようか?」
次男と3人で、どこへ行くのか?と車に乗っていたら…。

やってきました京都錦市場。
コロナ前に来てからずいぶん経ちます。

炙り蟹かまって何?
蟹では無いですね。  
串で食べ歩く方式。

海老も串

海老天も

和牛うに串5000円😱

鯛焼きからいちごがはみ出てるし

盆栽は蕎麦猪口に入って、すっかりポップに…。

むちゃくちゃ人が多いです。

魚屋さんも丸椅子に座って食べる式になってました。

あまりのカオスに這々の体で錦天満宮さんと

蛸薬師さんをお参りして

昔ながらのお店の生麩と

半額になってた西京焼き弁当

昔馴染みの「そや」の厚揚げを買って帰りました。

全く変わってなかった生麩の店主に「変わりましたね。」と声を掛けると
「もう、どうしようもありませんわ。」

嫌なんだろうなぁ〜。

けれど、人に来てもらわないとやっていけない。
たくましく、生き残ってくださいね🙏


ガブリエル フォーレ(1845-1924年)
フランス共和国アリエージュ県パミエ生まれ、フランスパリ没

1889年
にはいくつか舞台のための劇音楽の作品があります。 
そんな中でシェイクスピアの「ヴェニスの商人を下敷きに詩人&劇作家のエドモンド アロクール(1856-1941年)によって書かれた作品の付随音楽、
組曲「シャイロック」があります。

シャイロック組曲、作品57は、ガブリエル・フォーレによる6楽章の作品で、1890年に初演されました。

4つの管弦楽に加え、管弦楽伴奏付きのテナー独奏のためのセレナードが2曲含まれています。

前年にパリのオデオン座で上演されたエドモン・アロクール(1856-1941年)

の劇『シャイロック』(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の翻案) のために書いた付随音楽からこの組曲を作曲しました。

この劇音楽は小編成のオーケストラ用に書かれていて、フォーレはコンサート用組曲のためにオーケストラを大幅に拡張しました。

フォーレが組曲の元となった付随音楽を作曲した『シャイロック』(1889年)第1幕のシーン
1889年、フォーレはエドモン・アロクールがシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を翻案した新作『シャイロック』の劇伴音楽を作曲しました。

この作品は1889年12月17日にパリのオデオン座

で、ガブリエル・レジャン
女優レジェーンとその犬(1885 年頃)、ジョヴァンニ ボルディーニ作
がポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
ポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
56回の上演は、短期間の上演が当たり前だったオデオン座の基準からするとかなりの上演回数てした。

フォーレの伝記の中で、ロバート・オーレッジは、この楽譜の作曲については、「最高のノクターン」が1889年10月にグレフュル子爵夫人
フィリップ・デ・ラースロー作の肖像画、1905
の田舎の家に短期間滞在した後に作曲されたということ以外ほとんど知られていないと述べています。

フォーレはグレフュル子爵夫人に
「私はシャイロックのために、ヴェネツィアの月明かりのような最も探究的な音楽フレーズを探していましたが、見つけました。あなたの公園の空気がインスピレーションを与えてくれたのです。」と書いています。

それ以前に、フォーレはこの劇のために2つのセレナーデを作曲していて、10月初旬にアロクールを招待してそれを聴かせました。
棺のシーンの音楽はその時点では書かれていませんでした。

フォーレがこの曲を作曲した劇場オーケストラは規模が大きくなく、弦楽器15本、木管楽器5本、ホルン1本、トランペット1本で構成されていました。

オデオン座のために作曲されたスコアには9曲あり、フォーレはそこから6楽章の組曲を抜粋してフルオーケストラ用に編曲し、2楽章でテナー独奏、2つのハープ、ティンパニ、トライアングルを加えました。

この曲は1890年5月17日、パリの国立音楽協会のコンサートで、歌手のジュリアン・ルプレストルと協会のオーケストラによって、ジャン・ガブリエル=マリーの指揮で初演されました。

01.- Chanson シャンソン

シャイロックの音楽の冒頭部分の写字生の原稿
シェイクスピアの劇とは何の関係もないこの歌詞は、ヴェネツィアの酒宴の客が歌うセレナーデでアロクールの創作です。

02.- Entra'cte 間奏曲
タイトルにもかかわらず、幕間音楽はオデオン公演では楽章の合間には演奏されませんでした。
組曲初演の印刷されたプログラムでは、「棺桶の場面」と題されていました。
この曲は劇場でベルモントのポーシャの家での動きに合わせて演奏され、ほとんどがピアニッシモで、台詞の背景として意図されていました。

03.- Madrigal マドリガル
2番目の声楽曲は、アロクールの劇『ポーシャの窓の下でアラゴン王子が歌う』で歌われるセレナードです。

オデオン公演『シャイロック』ポーシャ役のレジェーン
04.- Epithalme エピタラミウム
エピタラミウムとは「新郎新婦を讃え、二人の繁栄を祈願する結婚の歌または詩」です。
シャイロックでは、この曲はバサーニオがポーシャの心を勝ち取った後に演奏されます。

05.- Nocturne ノクターン
オデオンの公演では、この夜想曲はポーシャの庭でのジェシカとロレンゾのラブシーンの音楽でした。
組曲のハイライトでオルレッジは、この楽章をフォーレの劇場音楽の中で最も美しい楽章であると評価しています。
シャルル・ケクラン(1867-1950年)

は次のように書いています。

「弦楽器のみの夜想曲については、この音楽があまりにも深く普遍的な人間味にあふれているため、位置づけることは不可能である。ここで表現される夜の強烈な優しさは、フォーレのインスピレーションの中でも最も美しいものの一つである。」

06.- Finale フィナーレ
終楽章は元々「オーバード」と題されていましたが、幕間と同様に、アロクールの台詞に合わせて演奏されるよう意図されていました。

この曲は、恋人たち全員が一堂に集まる劇の最後の場面のために書かれました。

1909年、シャイロックの音楽のリハーサル中のフォーレ
フォーレはこの組曲のために大幅に書き直しました。
フォーレは特に編曲で知られていたわけではなく、他の作品では時折助手に編曲を任せていましたが、この組曲の終楽章は彼の編曲で、もっとも印象的なものとなりました。












ログインかなわず1週間

2024-10-26 21:01:00 | 近代
1週間前。
gooブログのIDで、突然ログインできなくなり、メールでdocomoのヘルプセンターとやりとりが始まりました。
gooIDを入力し、パスワードを入れると、二重認証の数字が登録メールに送られてきます。
…ということはID.パスワードは合っているはず。
ところが数字を入れると、再びログイン画面に戻ってしまいます。
cookieを有効にしなさいと、ヘルプセンターから連絡あり、有効にしてもだめ。

時間がかかるかもしれない、お調べ中です。と待たされているうちに、ブログの更新は止まり…早や1週間。
当然みなさんのブログにもご訪問できず…。

フォロワーのみなさんにも会えず。
悲しい気分で過ごしていました。

ここ数年はコロナでも、父が亡くなった時でもなんとか2日と開けず、投稿していたのに…。

結局、今夜になって思いついて、Googleでログインするとあっさりログインできました。
GoogleIDも、パスワードも覚えていませんが…入力もしていませんが不思議な気分です。


ログインできず、もんもんとしているうちに

母と通った病院近くの伊藤軒。

野菜二十品目ランチ

野菜カレー。
季節も変わり



ハロウィン間近。
今夜は23時〜書いています。
もう二度とこのブログでみなさんにお会いすることができないのかと思った暗い1週間。
今夜は大したことは書けませんが、
とりあえずいつもの朝9:00に投稿してみます。

「アヴェ・マリア タンティ アンニ   プリマ」
アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)(1921-1972年)作曲。

もともとは歌曲「アベマリア」として作曲されていました。

1984年のイタリア映画「エンリコ4世」のためにオーボエの曲として編曲されました。



映画用に編曲された時のタイトルが「Tanti Anni Prima(昔々)」です。




真剣に遊んでみました。

2024-10-18 21:00:00 | 近代
木曜日は子育てサポートで、幼稚園に子どもを迎えに行って自宅で保育。その後、家まで送っていくというものでした。
8:00まで預かるのでお菓子を持たされています。
今日のはマーブルチョコレート志摩水族館仕様

かわいいです。

昨日から作り出した自動販売機。
カッターは使えないので私が穴を開けました。
昨日は前を開けて、コインとお札を入れる穴を開けました。
「どうやって缶が出てくるようにできるかな?」というところで終わっていました。
今日は帰ってくるなり「後ろに穴を開けて滑り台にしたらどうかなぁ?」

開けました。
紙を後ろから前に滑り台のように通して、缶代わりのダンボールを丸めたものを落としてみると

ウケました。
クレヨンも落としたりして、興奮しました。私も!

ジャック イベール(1890-1962年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

1910年、パリ音楽院に入学。
アンドレ・ジェダルジュの対位法講義では「フランス6人組」のダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲルと同窓でした。

第一次世界大戦中は海軍士官として従軍。 
1914年に音楽院を卒業し、5年後の1919年、カンタータ『詩人と妖精Le poète et la fée』でローマ大賞を受賞しました。

1923年まで3年間ローマに留学、『寄港地』などを作曲しました。

1937年から1960年まで(第二次世界大戦中を除く)在ローマ・フランス・アカデミーの館長でした。
1940年、フランス政府よりの依頼を受けて、日本の皇紀2600年奉祝曲として『祝典序曲』を作曲。

1940年6月にパリが陥落すると、北アフリカで抗戦を継続しようとする政治家たちにイベールは同行し、このためにヴィシー政権によってイベールは反逆者と見なされ、曲の演奏が禁じられていました。

1944年に在ローマ・フランス・アカデミー館長に復職します。

1955年から1957年までパリの国立オペラ劇場連合(RTLN、オペラ座とオペラ=コミック座)の監督をつとめました。

1962年にパリにて死去。遺体はパリ16区のパッシー墓地にて埋葬されました。

フルートとピアノのためのソナティナop「遊戯」は、1923年に作曲されました。イベールは、1919年にローマ大賞を受賞して、1920年から23年の間ローマに留学しましたが、その間の成果のひとつとしてこのソナチネが完成し、ルイ・フルーリーにより初演されました。

第1楽章・アニメ (活発に)、第2楽章・ターンドル (優しく)、あわせて5分程の短いソナチネです。





オリンピック賛歌

2024-10-09 21:01:00 | 近代
火曜日午前中は子育てサロンの運動会!ぽっぼリンビックでした。

聖火のリレー。

動物に変身リレー。

ボウリングなどなど。
みんながんばりました。
子どもたち、お母さんたち、お父さんたち、スタッフも、みんなで楽しみました。

1896年第一回オリンピックはアテネで開かれました。

アテネオリンピック開会式

参加14か国241人 

予算の関係で金メダルは無く、優勝者には銀メダル、2位で銅メダル、3位以降は賞状だったそうです。

音楽にはオリンピック賛歌(Olympic Anthem)、詞コスティス・パラマス(Kostis Palamas)、曲スピロ・サマラス(Spyros Samaras)によって作られ、この第1回アテネオリンピックにおいて演奏されました。

スピリドン=フィリスコス・サマラス(別名スピロス、スピロ・サマラ、ギリシア語:Σπυρίδων Σαμάρας)(1861 - 1917年)ギリシャ王国コルフ島生まれ、ギリシャ王国アテネ没

は、ジャコモ・プッチーニの作品の先駆けとなった世代の作曲家で、特にオペラで高く評価されているギリシャの 作曲家です。 

彼の作品は生前、世界中で賞賛されていて、イオニア楽派で最も重要な作曲家です。

母親はコンスタンティノープル出身、父親は​​シアティスタ出身の外交官スカルラトス・サマラス。

1875年から1882年までアテネ音楽院でまなびます。
最初のオペラ 『トルピッラエ』(現在は紛失)は1879年にアテネで初演されました。

1882年にパリ音楽院で学ぶためパリに行き、ジュール・マスネ(1842-1912年)

のお気に入りになりました。
パリで3年間作曲家として成功を収め、1885年にイタリアに移住しました。

サマラスはすぐにイタリアのオペラ界で重要な人物となりました。

彼のオペラ「奇跡の花」
 

は 1886 年にミラノで初演され、1888 年にはローマのコスタンツィ劇場で上演されました。
同年オペラ「メジェ」が上演され成功を収めました。

彼はミラノの出版業者エドアルド・ソンゾーニョ(1836-1920年)

と親しくなり、1894年9月22日のソンゾーニョの劇場開館にサマラスの『殉教者』を上演します。

彼のオペラはパリ、モンテカルロ、ケルン、ベルリン、ウィーン、マルタ、ブカレスト、コンスタンティノープル、スミルナ、アレクサンドリア、カイロ、ギリシャ、イタリアで上演されました。

彼は15の舞台作品を書きました。
中でも1908年オペラ「Rhea」の序曲では、オリンピック賛歌の冒頭のファンファーレが使用されました。

彼は1911年にギリシャに戻り、アテネ音楽院 の院長に任命されるだろうと信じていました。

「国民楽派」の作曲家たちは、サマラスのようなイオニア楽派の作曲家はイタリアの影響を強く受けすぎていると考えていて、論争に巻き込まれ職を与えられませんでした。

彼は、いつもの創作活動を続けるよりも、さまざまな聴衆を満足させることを目的としたオペレッタを作曲して生計を立てた。彼の最後のオペラ『ティグラ』は、この頃に着手され、彼の最高の音楽のいくつかを含んでいましたが、完成することはありませんでした。

サマラスは、デミトリウス・ヴィケラス(ギリシャの実業家、作家。 1894年から1896年まで国際オリンピック委員会(IOC)の共同創設者であり初代会長)


によってオリンピック国歌の作曲者に選ばれました。

オリンピック賛歌の初めのページ
歌詞はコスティス・パラマス(1859-1943年ギリシャの詩人)

が書きました。
国歌は、最初の近代オリンピックである1896年夏季オリンピックの開会式で初めて演奏されました。
しかし、その後50年間ほとんど忘れ去られていました。

1958年、東京で開催された国際オリンピック委員会総会で、この歌は再び演奏されました。

デンマークのアクセル王子の要請により、 1958年に国際オリンピック委員会によってオリンピック運動の公式国歌と宣言され、 1960年の冬季オリンピック以降、すべての開会式で演奏されています。

サマラスは55歳でアテネで亡くなり、1896年のオリンピックが開催されたスタジアム近くの国立墓地に埋葬されています。

日本語訳の歌詞があるのですが、古色蒼然としていて意味が、よくわからない(おそらく1859年から変えていない。)のでGoogle翻訳を載せてみました。

オリンピック賛歌
オリンピックの聖火は不滅
誰の灯台が私たちの道を照らすのか
希望の炎で私たちの心を照らしてください
この記念すべき日に
今、私たちは世界を渡っています
昔のゲームを共有する
あらゆる国の旗を
兄弟愛が広がる
それぞれの国の声を力強く歌おう
調和して立ち上がる
勇敢なオリンピック選手たちに栄光あれ
勝利の響きとともに
オリンピックの光は永遠に燃え続ける
海と山と平原を越えて
団結し、刺激し、名誉をもたらす
オリンピックを




サロンで生まれた曲

2024-09-28 21:00:35 | 近代
9月27日(金)は枚方市 牧野生涯学習センターで第16回聴き合い会でした。
今回は、ギター、ビウエラ、チェロ、フルート、ピアノ13名の参加でした。

フルート2本とチェロでハイドンの「ロンドントリオ」

古楽器ビウエラもずっときてくれています。
頭部管木管のフルートとギターで即席合奏。
もちろん独奏も

19世紀ギター。とても深い音です。
ルネサンスからロマン派、現代音楽までバラエティ豊かでした。
みんなでジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」の4声版をみんなで合奏もしました。

第17回聴き合い会は10月25日(金)12:15 牧野生涯学習センター音楽室。1人15分 協力金500円
みなさんもぜひご出演ください。

ステファヌ マラルメ(1842-1898年)
フランス王国パリ生まれ、フランス共和国セーヌ エ マルヌ県ヴァルヴァン没



本名エティエンヌ・マラルメ。
若いうちにユーゴーらのロマン派の影響を受けて詩作を始め、ボードレールの作風やアメリカの詩人・作家のエドガー・アラン・ポーの『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになりました。

第三共和政下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴りました。

マラルメはローマ街(パリ17区ローム通り (Rue de Rome) 87番地(現89番地))にある自宅で「火曜会」というサロンを開いていました。

画家のモネ、ルノワール、そしてドガなどの印象派をはじめゴーギャンやドニ、ホイッスラー、詩人のヴェルレーヌ、ヴァレリー、作家のオスカー・ワイルド、アンドレ・ジッドなとま多くの芸術家が出入りしていました。

クロード アシル ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

はマラルメのサロンに出入りしていた1人です。

1889年27歳、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』の作曲へとつながっていきます。

マラルメの詩を3篇取り上げたこのような歌曲集が作られました。

モーリス・ラヴェルも同じステファヌ・マラルメの詩を3篇取り上げて歌曲集を書いています、しかも偶然に初めの2曲の詩は全く同じものが選ばれています。

1.ため息
2.空しい願い
3.扇

3.扇
おお夢見るひとよ 
ぼくが飛び込むために
この純粋な喜びに 
道なきところから 巧みな偽りで
ぼくの翼をきみの手に持っていて欲しいのだ

たそがれ時のさわやかな空気は
一度あおぐたび毎にきみに届き
この捕らわれた扇のはばたく音は広げていく
地平線を ほんのささやかに

めまいがする! 
今ここで震えているのは
大きなくちづけのようなこの空間
誰かのために生まれようともがくけれども
あふれ出ることも 静まることもできないくちづけのような

きみは感じるかい 残酷な楽園を
秘められた笑いのように
きみの口元から湧き出してきて
きれいに揃った襞の底へと広がっていく

バラ色に輝く王の杖が
この金色の夕暮れによどんでいる、それこそが
閉ざされた白い飛翔 きみが巻き起こしたのだ
そのブレスレットの輝きのそばに




ギターエテュード

2024-09-24 21:00:00 | 近代
連休最終日は、今津公民館て西宮ギター練習会にギター川原さんと参加しました。

曲はバッハのバディネリ、モーツァルトのソナタop15の二楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのリベルタンゴとアヴェ・マリアを演奏しました。

バッハはギター譜が見つけられなくて、ピアノ譜でした。
10月12日(土)光明寺お寺ライブでもするつもりですが、ギター譜を見つけるか?楽譜を作っちゃうか…もうちょっと考えなくちゃ。

モーツァルトはかわいい曲です。
7歳から10歳までに作った曲ですからロンドン旅行で出会ったバッハの末弟ヨハン クリスチャン バッハの影響も曲の中に見えます。
かわいいけれど簡単では無いですが…。

川原さんはソロでも弾いていましたよ。
マキシモ ディエゴ プホール(1957-)の
「9月」
タレガの「2人の姉妹」


他の人で、ヴィラ=ロボスの「エテュード」を弾いた人がいました。

これはなかなかの難曲でコンクールの課題曲にもなっているようです。
何人か果敢に挑まれていました。

エイトル ヴィラ=ロボス(1887-1859年)ブラジル帝国ブエノスアイレス生没
エイトルの父ハウル・ヴィラ=ロボス 
はスペインからブラジルに移住した大学教授で、またアマチュア音楽家でした。
母、ノエミアの父は作曲家のアントニオ・サントス・モンテイロです。
ハウルとの間に8人との子どもをもうけました。

ヴィラ・ロボス家は二階建ての家に住んでおり、一階に叔父と叔母が商店を営んでいて、二階にはハウルとノエミア、エイトルが暮らしていました。 叔父たちが営む商店では音楽家を招いたパーティが行われていて、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられていました

しかし1892年、ハウルが職場のトラブルや、当時の副大統領への政権批判記事を新聞に掲載したことによる政治的危険性から、一家はリオ・デ・ジャネイロを離れ、ブラジル各地を転々とする生活を送ることになります。

1893年、最終的にリオ・デ・ジャネイロへと戻り、再び音楽家たちを集めたパーティが再開されます。

この時、就寝時間の言いつけを破って度々、音楽家たちのパーティを見に行きました。
また叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集
平均律クラヴィーア曲集第1巻自筆譜の表紙
を好んで弾いたと伝えられていて、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えました。

こうしてエイトルはハウルからピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学び、また演奏会などにもハウルに引き連れられ見学に行きました。

その後、独学でギターとサキソフォンを学び、作曲も1899年頃には記録に残る最初の作品が音楽家たちのパーティの中で発表されました。

1899年に当時ブラジルで流行していた天然痘によって父ハウルが亡くなります。

どうにか医学部のある大学へと進学させたい母ノエミアの反対を押し切って、エイトルは16歳の時に家を出て叔母の家に移り住みます。
その後、ギターのレッスンなどで収入を得つつ、演奏家としての活動を始めます。



1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員などをし、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けました。

1913年にはピアニストのルシリアと結婚しました。

ルシリア

1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品などを作曲し、また自作品だけの演奏会も度々企画して興行を行いました。

1922年には「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」などで主に室内楽を中心に作品が演奏され、イベントの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めていきます。

こうした活動がダリウス・ミヨー

やアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学します。 

この頃に書かれた作品として、ヴァンサン・ダンディの手法による3つの交響曲 (交響曲第1番から第3番)、3つの戦争交響曲 (交響曲第4番から第6番)、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲第1番などがある。

1923年にはアルトゥーロ ルービンシュタイン(1887-1982年)

によって「赤ちゃんの一族」第1集が上演されたほか、同第2集、ノネット、ピアノ三重奏曲などが上演され好評を得ます。

またルービンシュタインの紹介もあり、音楽出版社であるマックス・エシック社との契約が結ばれ、声とヴァイオリンのための組曲などが出版されます。
その後、資金が底を付き、ヴィラ=ロボスは一旦、ブラジルに帰国することになります。ヴィラ=ロボスの代表作ショーロスの多くはこの時期に作曲されました。

その後、カルロス・ギンレの資金援助を受け、再びパリを拠点に活動を再開します。
この時期にはショーロスを始め、多くの作品がパリで上演され、パリでもヴィラ=ロボスの名が知られるようにななります。

またエドガー・ヴァレーズやレオポルド・ストコフスキー、セルゲイ・クーセヴィツキー、アンドレス・セゴビアなどの著名な音楽家たちと交友関係を築いたのもこの時期です。

セゴビアとヴィラ=ロボス

しかし、1930年革命により、金銭難に陥ったため留守にしていたパリのアパートから立ち退きを余儀なくされます。この時に、2つのショーロス(第13番と第14番)を含む多くの作品の自筆楽譜と筆写譜が失われたと考えられています。

ブラジルに帰国後、サンパウロ州を統治していたジョアオ・アウベルト・リンス・ジ・バホスよりブラジル内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう要請されます。

このイベントは「ヴィラ=ロボス芸術ツアー」と命名され、サンパウロ州、ミナスジェライス州、パラナ州などを巡りました。

1932年には25歳年下の音楽教師アルミンダ・ネヴェス・ダウメイダと愛人関係になり、ルシリアとの婚姻関係の解消を巡り裁判沙汰にまで発展します。

1933年には、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権が設立した音楽芸術教育庁の初代長官に就任します。

1940年代になると、アルゼンチンやアメリカなど南北アメリカ大陸を中心に渡り歩き、各地で講演や自作の演奏会などを行いました。
1945年にはブラジル音楽アカデミーを設立し、初代会長に就任しました。

1948年には膀胱がんと診断され手術が行われます。以降、入退院を繰り返しながらも、戦後のヨーロッパやアメリカ、イスラエル、フィンランドなど世界中を巡り、自作の演奏会などを行います。
1959年、故郷リオ・デ・ジャネイロで72年の生涯を終えた。

ヴィラ=ロボスの没後、アルミンダはブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェクに掛け合い、ヴィラ=ロボス博物館を設立、初代館長に就任しました。

1928年ギターのために書かれた「12曲の練習曲」(エテュード)はバッハの平均律クラヴィーア曲集に影響を受けています。

練習曲第1番、第7番、第8番は1947年3月5日、アンドレス・セゴビアによってマサチューセッツ州ウェルズリーのウェルズリー大学で初演されました。
第2番。
Leonora Spangenberger13歳が演奏しています。


家庭のミューズ

2024-09-22 21:13:00 | 近代
土曜午後からギターの川原久美子さんと合わせでした。

9月23日(月 祝日)今津公民館で13:00〜西宮ギター練習会でバッハの管弦楽組曲バティネリ、モーツァルトのフルートソナタK.14の第2楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのアヴェ・マリアを演奏します。

ドライベジタブル買ってきてくれました。
これヘルシーで美味しいです。
オクラは食べたらぬめりが出てきます。

お返しの肉球フィナンシェ。
先週末知恩寺手作り市で買ってきました。
これ見た途端、川原さんのことが頭に浮かびました。
だって川原さんスペシャルな猫好きなんです。
猫のはるおさんを飼っているだけでなくほら今回も…

にゃんこのイヤリング!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生まれます。父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいました。
生まれつき小児麻痺を患っていたため、車椅子を使っていました。

1920年代以降はリウマチにも悩んでいました。

パリ音楽院で作曲を学びます。
1914年第一次世界大戦では健康上の理由から従軍を免れます。
しかし、戦争と関わる仕事を求めて「フランス・ベルギー親善協会」(亡命者の受け入れや援助などを行うための組織)で働きます。

1915年ブラジル大使になり2年間ブラジルて過ごします。
1918年には連合国経済使節団のフランス代表となったポール クローデル(1868-1955年フランスの劇作家、詩人、外交官。外交官としては駐日・駐米フランス大使などを歴任)

に従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国します。
そこで、「フランス6人組」

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない

として知られるようになります。
1920-30年にはリューマチの進行に苦しみながらも作曲した曲が評価されるようになり、映画音楽にも手を出し人気を博します。

1940年、ユダヤ人だったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れます。

合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジ

で作曲を教えつつ、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行いました。

この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれています。

1944年作曲の「家庭のミューズ」op245は、ピアノの独奏のために作曲されました。後にオーケストラに編曲されました。

作曲の経緯なとはよくわかりませんでした。

ダリウス・ミヨーは
1925年、幼少から知り合いで従姉妹のマドレーヌ(1903ー2008年)と結婚しました。

1925 年 5 月 4 日、結婚式当日のミヨー家。@ ミヨー アーカイブス
彼女は、80年間パリの文化生活の中心にいた俳優兼脚本家で、結婚後ミヨーがリューマチを患い車椅子に乗っていたことから常に彼の後ろにいで車椅子を押していました。

1930年には息子ダニエルをもうけます。
1940年5月にドイツ軍がパリの射程圏内にまで迫ったとき、オペラ座はミヨーの『メディア』の初演を行っていました。
マドレーヌはセネカ、エウリピデス、コルネイユの文章を引用して台本を書きました。

しかし、音楽には高射砲の音が伴い、3回目の上演でオペラが中止されると、マドレーヌはダリウスに フランスを去るよう促しました 。

「あなたのためにできることはたくさんあるわ。でも、わたしはあなたを背負って隠すことはできないのよ」

と、彼らは10歳の息子ダニエルとともに、リスボンを経由してアメリカ合衆国に着きました。

その後戦争が終わるまでそこで暮らしました。

マドレーヌはラジオ劇の朗読をしたり、台本を書いただけでなく、文化人との広い交友も知られています。

ジッド、クローデル、コクトー、サンドラール、マルローなどの人気作家、レジェ、ピカソ、マッソンなどの画家、ルノワール、カヴァルカンティ、レルビエなどの映画監督と交流しました。

夫の死後105歳まで生きたマドレーヌはフランスの文化人を知る生きた情報源で、話し上手な人だったそうです。
フランス語ですが、彼女のインタビュー動画が残っています。

Mはマドレーヌのことでしょう。
家庭では息子が絵を描き、猫を飼い、台所では食事の用意がされ、洗濯したり、花が飾られていたり、病むときには看病。
音楽を合奏したり、友人たちと夜の集いをしたり、トランプ占いに興じたり「家庭のミューズ」(家庭の女神)はミヨーに安らぎと安定を与え、作品を書く原動力となっていたようです。

「家庭のミューズ」op245
第1曲 私のもの – M.M.M.M. に捧ぐ
第2曲 目覚め
第3曲 家事
第4曲 詩情
第5曲 台所
第6曲 家の中の花
第7曲 洗濯
第8曲 音楽の合奏
第9曲 絵を描く息子
第10曲  猫
第11曲 トランプ占い
第12曲  看病
第13曲 夜の集いの楽しみ
第14曲 夜の読書
第15曲 ミューズへの感謝

第10曲 猫






水の戯れ

2024-09-07 21:00:00 | 近代
朝、子育てサロンのスタッフYさんとファミリーポートひらかたへ行きました。

お目当ては、これ。

次の火曜日に子育てサロンで使うボールプールを借りに来ました。

本物のプールには敵わないけれど、ひんやり冷たくてコロコロの感触は子どもたちに人気です。

サロンの子どもたちにも味わってもらいたくて!
プールの囲いはポートのスタッフのみなさんが作った牛乳パックを布で包んだ普段は椅子に使っているものです。
動物や電車の模様がついています。
子どもたち喜んでくれるかな?

殿二校区子育てサロン 毎月第二火曜日(8月は無し)10:00-11:30
会館トノ二 申込み不要 無料
子育て中の保護者と子ども、妊婦さん、ぜひおいでください。
子育て仲間と出会いませんか?

モーリス ラヴェル(1875-1935年)フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

『水の戯れ』(みずのたわむれ、仏: Jeux d'eau)は、ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲です。

当時の作曲の師であるガブリエル・フォーレ(1845〜1924年)

に献呈されました。
初演は1902年4月5日、サル・プレイエル


で行われた国民音楽協会主催のリカルド・ビニェス
リカルド・ヴィニェス(左)とラヴェル
ヴィニェスはラヴェルやドビュッシーの初演を数多くつとめた優れたピアニストであり、文学にも造詣が深く、ラヴェルに影響を与えました
のピアノ・リサイタルで『亡き王女のためのパヴァーヌ』とともに初演されました。

ホ長調、4分の4拍子、8分音符=144、きわめて優しく。

ラヴェルは「テンポ、リズムも一定なのが望ましい」書いています。

楽譜の冒頭に、「水にくすぐられて笑う河神(ポタモイ)」というアンリ・ド・レニエ(1864-1936年)

の詩の一節を題辞として掲げています。

曲の構成はソナタ形式。
また、七の和音、九の和音、並行和声が多用されており、初演当時としてはきわめて斬新な響きの作品でした。

実際初演時には『亡き王女のためのパヴァーヌ』と比較され、耳障りで複雑すぎるとの評価がくだされました。

出版時には「まったくの不協和音」というカミーユ・サン=サーンスの酷評をも招きました。

しかし、今日では「水の運動と様態を描いてこれほど見事な作品はあるまい」(三善晃)などと高い評価を得ています。
また、ピアノ音楽における印象主義の幕開けを告げた作品とされています。

ラヴェル「水の戯れ」



ボルト

2024-08-20 21:00:00 | 近代
月曜は次男の骨折箇所のチタンのボルトを抜く手術前検診でした。

病院の駐車場に咲いていた都草ミヤコグサ ロータス ジャポニカ。
遣唐使が伝えた「新修本草」に659年には都草の記述があるそうです。


レントゲンの「照射中」の文字だけ昭和です。
血液検査、尿検査、
これは心電図を回って、整形の先生の診察。入院相談。
それから麻酔科医の先生と面談。
初めの手術に続いて2回目なので動画によるレクチャーは省略。

「アルコールは飲みますか?」
「アレルギーはありますか?」などなど何度も確認されました。

看護師さんによる入院の説明。
最後に入院受付をして、会計。
「あれ?診療科での印鑑が抜けてます。ちょっとまってて下さい。」と事務員の方が回ってきてくれました。

朝一番から、お昼過ぎまで「お腹すいた。」ということで、1号線沿いを走っているとびっくりドンキーが見えたので行ってみました。  
次男初ドンキー。私も2回目。
ハンバーグにS、M、Lのサイズがあります。
次男はMサイズ、私はSサイズのセット卵のせ。
「カリフラワーライスに変えられるよ。」と次男。
変えてもらいました。
カリフラワーライス、カリフラワーを茹でて刻んだものです。
サラダはキャベツが高いからか、大根とにんじんの千切りとミニトマトでした。
Sサイズでもハンバーグは充分に大きくて、カリフラワーライスでもお腹いっぱい。 
Mサイズ、白ご飯の次男もお腹いっぱいだそうでした。 

ドミトリー ショスタコーヴィチ(1906-1975年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

バレエ音楽「ボルト」
脚本はウラジーミル・スミルノフ
振付フョードル・ロプホフ
指揮アレクサンドル・ガウクで
1931年4月8日、レニングラード・キーロフ劇場で初演されました。

バレエ「ボルト」の衣装デザイン
バレエ音楽「ボルト」

怠惰で大酒飲みの労働者レーンカ・グールバは、その性格のために勤めていた工場から解雇されます。
グールバは復讐を企み、ゴーシュカを騙します。

若い見習労働者のゴーシュカが機械の中にねじ(ボルト)を差し込んで機械を壊してしまいます。

守衛達は、グールバの密告によって無関係な共産主義者の若者ボリスを捕らえます。

やがて事態を理解したゴーシュカは罪を悔いて工場長らに騙されてしたことを告白します。ボリスは釈放され、陰謀を暴かれたグールバが代わって逮捕されます。