音楽の喜び フルートとともに

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ここに春が来た!

2025-03-09 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の午後、近所の山田池公園に行ってきました。
ここは1500年前に作られた山田池を中心に1979年に整備された300本の梅林があります。
「そろそろ、見頃じゃない?」
小雨混じりですが…。

咲いてる!!

かわいい! 
梅一輪 一輪ほどのあたたかさ
        服部嵐雪

いろいろな種類の梅が。

咲いてて

素敵でした。

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini)1322-1397年イタリア フィレンツェ生没

ミニチュアのオルガンを演奏する
フランチェスコ・ランディーニ
(15世紀のスクアルチャルーピ写本より)

ランディーニの生涯の詳しいことは判明していません

父親はジョット派の著名な画家ヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-1358年)


でした。

子どもの頃、天然痘にかかって失明したことで、ランディーニは早くから音楽に打ち込むようになり、リュートなど多数の楽器演奏、歌、詩作、作曲を習得しました。

ランディーニがリュートとプサルタリーPsaltery


を結合させた「syrena syrenarum」という楽器(バンドゥーラ (Bandura)


の先駆と考えられている)などを発明したという記述が残っています。

1360年代の数年間ヴェネツィアに滞在していたキプロス王から月桂冠を授けられたという記述があります。

ランディーニは1370年以前に何度か北イタリアで過ごしていたとされています。

音楽のいくつかがその証拠で、たとえば、モテットは1368年から1382年までヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤めたアンドレア・コンタリーニ(1300-1382年)


に献呈されています。

さらに、ランディーニの作品のことが北イタリアの文献によく出てきます。

1361年、ランディーニはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストに雇われました。

1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)で働きました。

ランディーニは当時の政治的・宗教的論争に深く関わりましたが、フィレンツェ当局の恩恵は受け続けていたようです。

ランディーニはトレチェント音楽(1300年代のイタリア音楽)の作曲家の多くと面識があり、その中でもロレンツォ・ダ・フィレンツェ(?-一1373年)はサンタ・トリニタ修道院で一緒でした。

また、アンドレア・ダ・フィレンツェ(Andrea da Firenze)とは1370年代に知り合いました。

1375年頃かあるいはそのすぐ後、アンドレアはフィレンツェの僕会(下僕会。Servite Order)のオルガン製作の相談役にランディーニを雇いました。

楽器を調律する3日間に二人が飲んだワインの領収書が残っています。

ランディーニは1379年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂(Santissima Annunziata, Florence)


で新しいオルガン製作を助け、1387年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

のオルガン建造計画に励みました。


当時の作家たちの多くが、作曲家のみならず歌手、詩人、オルガニスト、さらに情熱的に献身的なフィレンツェ市民としてのランディーニの名声を証言しています。

音楽で聴衆を感動させるというランディーニの評判はかなり高く、作家たちは「その旋律の甘美さはまるで胸から心臓を飛び出させるほど」と記しています。

ランディーニは死後、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。
そこにはポルタティフ・オルガン(en:Portative organ)
セシリアがポルタティーヴォを演奏している様子を描いたもの(アルテ・ピナコテークのバルトロメウ祭壇の詳細)。パイプの右側にふいごが見えます。
らしきものを持ったランディーニの姿が描かれています。

ランディーニ作曲
Ecco la primavera
ここに春が来ました。

それは心を喜ばせます。

恋に落ちる時が来た

みんな幸せそうに見えます。

私たちは空気と時間を大切にしています 。

それは変わらない喜びを呼びます。

この曖昧な時の中で

すべてにはかなさがあります。

鮮度抜群のハーブたち

そして花が草原を覆う

そして飾られた木々

私も同じです。