今週は子育てサポートで集団託児の保育サポートが続きました。
お母さんが連続講習で学んでいる間、子どもを預かると言うものです。
初めの妻
1707年結婚したマリア バルバラ
との間に7人の子どもがいました。
は400ターラーという大金でバッハを雇っています。
と再婚します。
ハレのバッハ
フリードリヒ大王の宮廷でチェンバロを演奏しているのがカール
お母さんが連続講習で学んでいる間、子どもを預かると言うものです。
5日間ありますが、そのうち2日位出るのかと思っていたら、予約は3日。
あら?と思っていたら、前日に電話がかかってきて、「予定の方が急にご都合が悪くなってお願いできませんか?」…。
引き受けました。
どうも、サポーターが減っているようです。
コロナで養成が難しかったみたいです。
講座は自治体や時期によって違うみたいですが、大体6日間の子育てサポーター養成講座を受講して、保育園に2日ほど実習に行き修了証が発行されます。
講座の内容は子育ての現状をしったり、コミュニケーションスキル、万一の時の救急救命法、関連施設の方のお話を聞いたり、と普段の生活にも活かせるような内容になっていて、自治体の負担で受けられてお得です。(私見ですが…。)
誰でも自治体で受講できます。すきま時間でサポートしませんか?
サポーター養成講座は不定期ですので、自治体の子育て支援センターにお問合せください。
ヨハン セバスチャン バッハ(1685〜1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選定侯領ライプツィヒ没
初めの妻
1707年結婚したマリア バルバラ
との間に7人の子どもがいました。
そのため、生活は楽ではなく、常に良い条件の職場を探し求めていました。生活の足しにするために短い曲を作曲しては、それを1曲、3ターラー程度で売るという仕事もしていました。
また、ある時には5つの仕事を同時に引き受けていました。
1708年ミュールハウゼンのオルガニストを辞め、ワイマールに移り、ザクセン=ヴァイマール公国もの領主ヴィルヘルム=エルンスト公
の宮廷オルガニスト兼宮廷楽士となりました。
この時、前職85フローリンの倍近い150フローリンを得ることになりました。
少しは楽になりましたが、それでもまだ足りず。1712年ハレの聖母教会オルガニストに応募しました。
この時はザクセン公が昇給と昇進を提案し、引き止められました。
1717年ケーテンに移りとケーテン公国の宮廷楽長になりました。
この時、それを不服としたヴァイマール公はバッハを投獄しています。
アンハルト=ケーテン候レオポルト
は400ターラーという大金でバッハを雇っています。
しかし、1720年レオポルト侯についてカールズバートに行っている7月7日に妻のマリア バルバラが亡くなってしまいます。
7人の子どもを抱えた。バッハはそれでも仕事を続けていますが、1721年9月にアンナ マグダレーナ ヴィルケ
と再婚します。
アンナは宮廷ソプラノ歌手で有能な音楽家で結婚後もケーテンの宮廷に務め、夫の半額の200ターラーにも及ぶ収入を得ていました。
アンナはバッハとの間に13人の子どもをもうけていますが、多くは幼い頃になくなります。成長した4人の子ども達は、いずれも音楽家として活躍しています。
バッハが結婚した頃、レオボルト侯も結婚しました。
お相手のフリーデリケ妃
は音楽嫌いで、レオポルトの音楽に対する出資は減少し、ケーテンの宮廷楽団の規模も縮小されるようになり、バッハの収入も減少しました。
しかし、やはりたくさんの子どもたちを育てなければならないバッハは1723年すぐに就職活動に入り、聖トーマス教会
のトーマス カントルに就任します。
教理問答と、ラテン文法の授業を担当し、教会音楽も作曲しなくてはならないという激務でした。
さらにライプツィヒの音楽監督にもなり、教会音楽家として活動していました。
王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求め、カトリックのミサ曲も作曲しています。
1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命されました。
1949年バッハは脳卒中で倒れ、1750年亡くなります。
11男9女の子どもをもうけましたが、10人は夭折し、成長したのは男子6人と女子4人の10人でした。
記述の残っている
マリア バルバラとのこども
長男のヴィルヘルム フリーデマン(1710〜1784年)
ハレのバッハ
遺産を相続しオルガンやバイオリン演奏もたくみでした。
父親の後押しで高い地位にも着きましたが、亡くなったことでその職を辞しました。財産管理が不得手でその後公職には着くことはありませんでした。
イ短調のシンフォニアやフルートのための二重奏など多くの作品を残しました。
カール フィリップ エマニュエル(1714〜1788年)
フリードリヒ大王の宮廷でチェンバロを演奏しているのがカール
生前はバッハよりも有名で世俗的な成功を収めました。テレマンの影響を多く受けています。
父を尊敬していて、「ベルリンのバッハ」とも呼ばれています。
ヨハン ゴッドフリート ベルンハルト(1715〜1739年)
第4子ミュールハウゼン、ザンがーハウゼンで教会オルガリストを務めますが、イェーナで法学を学ぶために音楽活動を中断した矢先、急逝しました。24歳
マグダレーナとのこども
ゴッドフリート ハインリヒ(1724〜1763年)
父ヨハン セバスチャンと共にいくつかの小品の編曲を手がけたと言われています。チェンバロ演奏に才能を示しますが、長ずるにつれて精神病、あるいは知的障害の兆候が現れ、生活力がないことが分かりました。
ヨハン クリストフ フリードリヒ(1732年〜1795年)
ビュッケブルクのバッハ
職人的な資質の音楽を作曲し、交響曲20番が知られています。
ヨハン クリスティアン(1735〜1782年)
末っ子でイタリアでデビューした後、ロンドンに移住し、バッハ一族の中では唯一のオペラ作曲家として活躍しました。「ロンドンのバッハ」
モーツァルトと2度会っていて、亡くなった時にモーツァルトが「音楽界にとっての損失」と追悼曲を書いています。
クリストフ バッハのモテット(聖書の言葉に曲をつけたもの)です。
この方はバッハについての本も書かれていて、読んだことがあります。
↓
https://www.ytk.jp/music/tours/1206470_1618.html
バッハゆかりの街を網羅していますね。
専門家に案内してもらえるなんて最高ですね!
私も参加してみたいです。