こちらも立葵です。もうそろそろ花期も終わりです。
夕方突然の大雨。児童会の帰りで傘を差して自転車に乗って帰りましたが、ずぶぬれ。
右のブレーキが甘くなっているのにも気付きました。天井川の穂谷川を越さないと、家に帰れないので、行きも帰りも必ず坂を上って下りて。
それでも両手でハンドルを握っている時には、これほどとは気付きませんでしたが、傘を左手で差し、右手だけで運転すると、ブレーキも右だけ。
長い阪も、のぼりではわかりませんが、下りで、初めてブレーキが利きにくいことがわかりました。
フルートの音も、使える目を閉じてみると、途端に耳に意識が集中してよく聴こえるようになります。
自由に何でも出来るからと、目の前にあるものに、衝動的に飛びついてばかりいると、自分にとって本当に大切なことや、積み上げてやりたいと思っていることに使う大切な時間を、どんどん失っていくことになるのかもしれない。
取捨選択するのは、思ったより難しい作業です。
世界中のことを全てやり遂げるわけには、いかないということを、私は時々忘れてしまいます。
何かをあきらめると、何かに集中する時間ができる。と言う理屈は別にして。
立葵
朝、子育てサロン。8月は休みだったので、2ヶ月ぶり。
今日はいつもの、コミュニティの部屋ではなく、校区の公立幼稚園でのサロン開催です。
ここ数年、枚方の幼稚園は、未就学児とお母さんのために、かなり開放されていて、未就学児向け教室を、幼稚園でされています、
年登録で、お母さんと一緒に、子どもの体操や、手遊び、歌を歌ったりされています。
園庭開放もされていて、10時から12時まで、いつでも入ってきて親子で遊具をつかったりして遊べます。
それに加えて、地域の子育て支援との連携も深めようとされていて、私たちのサロンへの応援もその一環と言うわけです。
それぞれ特徴があって、幼稚園では、子どもの成育、親子のふれあいが主になったプログラムがくまれています。
私たちのサロンは、お母さん達の緩やかな繋がりの場。
手遊びや、歌、ちょっとした作成や、ゲームもしますが、一番時間を取っているのは、ただ遊ぶ時間。お母さん同志が子どもを気にせずに話ができるように、子ども達を私達スタッフが見守り、その間親交を暖めてもらいます。
もちろん、入りにくいお母さんや、離れられない子どももいますが、無理強いは厳禁。
そういう時はスタッフが、さりげなく、子どもの様子を聞いたり、世間話をしたりして、孤立感や、不安をできるだけ減らしてもらえるように働きかけます。
何度か来る内に、友達が出来、子育てサークルを立ち上げたお母さん達もいます。最近では、そのお母さん達が一緒にPTAをしたり、地域活動の主体になってくれたりしています。
今日は、一人目の子どもからサロンに来ていて、今は三人目の子どもと来ているベテランお母さんが、「ちょっと心配な、お母さんがいて、友達がいないみたいなんで、ここに誘ってきたんです。」と、話してくれました。
繋がりの輪がゆっくりと広がっているのが、見えたようで、うれしい気持ちになりました。
土曜日は「音楽で遊ぼう!」一年に一度のしゃぼん玉の日。
しゃぼん玉おじさんのWさんに、こどもたちと進化したしゃぼん玉の極意を教えてもらいました。
わっかにらせん状に毛糸を巻いて、使うとしゃぼん玉の液がうまく張って、しゃぼん玉を何度も作れます。今年は、小学生だけでなく、就学前の子どもも来てくれました。風も少なく、しゃぼん玉の中に入ったり、大きなしゃぼん玉を作ったり楽しい時間を過ごしました。
昨日、日曜日は、11月21日にアクアホールで開催される樟蔭女子大学マンドリンソサエティ第45回記念演奏会のための練習。
久しぶりの、懐かしい空気。
現役に混じって、参加させてもらいました。
参加する曲は「我らが懐かしき山々に」と、「カルメンファンタジー」
「カルメン」はBilliのマンドリンオーケストラ用の編曲で、フルートの譜面がありません。オペラ譜と照合しながら、フルートの譜面を作成して行きましたが、オケとは違うので、同じ譜面では使えません。合わせて見なければわからないこともあるので、途中で、オクターブを上げたり、下げたり、入れてみしたり、やめたり検討しつつの練習。おもしろいけれど、うるさすぎないか?ミスマッチじゃないか?とドキドキします。
懐かしい先輩、後輩の顔もありました。
10人いた同期の友人たちが、6人も参加するのもうれしいです。
当時は、叱られたり、泣いたり、けんかもしたし、怒ったり、愚痴ったり。毎日たいへんでしたが、苦しい時を、音楽とユーモアで乗り切り、その時に培った友情は今も続いています。
本番まで数回の練習も再会の楽しみです。
うちの庭に咲いている朝顔。曜日朝顔で「舞姿」と言います。日本で交配されたものと、西洋で交配されたものがあって、曜日朝顔は、西洋朝顔だそうです。英名をmorning gloryと言います。
S先生の演奏が、YouTubeにアップされました。
春の海
http://www.youtube.com/watch?v=WdKOORgIQJI&feature=channel
バッハのシチリアーノhttp://www.youtube.com/watch?v=uZ3vUvOh-Ik&feature=channel、
トロイメライhttp://www.youtube.com/watch?v=aA4AWNDlUXU&feature=channel
ピア二ストに伴奏のレッスンを頼まれて、それをそのまま、初合わせで録音されたそうです。
音楽は、速さやテクニックを得意になって見せるものではない。と言う言葉そのままに、ゆったりとした演奏です。
特に、最後の音が消える瞬間のピアニッシモのロングトーン聞いてみてください。
どれも、普通に演奏されるよりもゆっくりだと思いますが、癒される演奏です。
9月9日は重陽の節句。陰陽道で、奇数は陽、9は一桁でもっとも大きな奇数で、その奇数が重なるということで、重陽の節句というそうです。
菊の花を飾ったり、菊酒を飲んだり、菊の花の露を綿にしみこませてそれで、身体を清めたりしたそうです。花が長持ちすることから、不老長寿の象徴ともされ、謡曲菊慈童は、菊水を飲んだ子どもの姿をした不老長寿の慈童の話です。
ところが、菊の花を、探したけれど、今日は見つかりません。夏に咲いていた菊は枯れ、秋の菊には早い。台風一過で、空だけが秋空。これから来る季節と菊花に思いをはせました。
Aくんは1年生で一人っ子。
ボールで私と遊んでいると、とても楽しそう。ところがそこに、1年生Bくんと、4年生のCくんがやってきて、「入れて。」といいます。
一度は「いいよ。」と言って、一緒に遊んでいましたが、強いボールや、荒っぽいのが嫌いなAくんは段々二人と遊ぶのが嫌になってきました。
ちょっと私が目を放した隙に、
4年のC君には、言えないけれど、1年のBくんに「入れたれへん。あっちへ行って。」と言ってボールを持って走り出してしまいました。
すると、4年のCくんに「おい、Bも入れたれよ。」と叱られてAくんは泣き出してしまいました。
そこへ私が入っていくと、今度はCくんが叱られると思って、しどろもどろ。
「怒らないよ。先生怒ってないでしょ。何があったか教えてくれる?」
と、いうと、やっと落ち着いてさっきあったことを話してくれました。
「Cくんの言い分はわかった。さあ、今度はAくんの番だよ。なぜ泣いたのか教えてくれる?」ところが、丸くなって泣くばかり。
「何で泣いてるのかな?」それでも、泣いているので、
また、Cくんが「僕が言ったのが、怖かったのかもしれない。そんなに強く言ってないんだけど。」と言いました。
「そうだね、Cくんの友達だったら怖くないけど、1年生には怖かったのかもね。」
「でも、そんなにきつく言ってないよ。」
「さあ、Aくん。言いたいことがあったら、言ってね。先生も、C君も待ってるよ。」
それでも、ずっと泣いています。
もうおやつの時間です。
「泣きたい気分なんだね。お話したくなったら、いつでも聴くから、言ってね。C君、Aくんから伝えたいことがあったら呼ぶから、おやつに行ってて。」
4年生にちゃんと話すのは、Aくんにはたいへんなことでしょう。
それでも、今回、Cくんは荒っぽかったかもしれませんが言葉で伝えていて、殴ったわけではありません。Aくんには涙を使って相手を動かすことだけでなく、勇気を持って言葉で伝えあうということを、覚えていって欲しいです。
泣いている子どもを前にすると、変って解決したくなってしまいますが、ここが肝心。なんどか、悔しい思いをするかもしれませんが、必ず自分で伝えられるようになる。私はAくんがそういう力を持っていると信じて、希望を持って待っています。
台風の影響で朝は、豪雨でしたが、10時前にはあがり、少し暑さも和らぎました。
この朝顔は、暁の舞です。夏の象徴のような花ですが、まだまだ花期は続きます。
S先生のレッスン日です。
エラルトの10番。
「初めの4小節を繰り返し。2回目に演奏する時には、必ず前の演奏より何かを変えること。」
「音符はそのままでは、生きていない。生きていないものを、そうやって、育てるんだよ。子どもは、初めは何かよくわからないドロドロしたものだけれど、いろんな角度から見たり、教えたりして、育てて、段々形になっていくでしょ。音符も同じ、いろんな角度から、見ながら育てていくんだよ。」
「そうやって、育てて、生きて世界中の人に、伝わるものに、僕達がするんだよ。楽譜のままじゃつたわらないでしょ。」
なるほど。「生きているものにする。」・・・まだまだ、音楽の世界は、広く深いです。
テレマンは、タンギングの種類をいろいろ持つ。と言うのが、最近の私の課題です。無伴奏ファンタジーはそれに最適な曲です。今日もまだまだ。
スケールをもっと細心の注意を払って練習しなくては。
精進精進。
デュランタ宝塚、クマツヅラ科 熱帯アメリカ原産。明治時代に入ってきた品種で、日本では新顔です。
フルートをレッスンしていて、おもしろい。と思うことはいろいろありますが、今日は、ちょっと実験をして見ました。
有名なカルメンの間奏曲。
美しい曲ですが、最低音の、Cから、高音のBまで使い、それがすべてレガート。簡単そうで、とても難しい曲です。
Sさんは、途中の高音ばかりのレガートになると、もう、いつも出ているCとか、Dまで、緊張して音がかすれてしまいます。
通常、人は、緊張すると、体が硬直して、息が浅くなり、後ろに下がっていきます。
一度音がうまく出ないと言う体験をすると、もう身体はそれを覚えていて、失敗を避けようと、その場所に来ると、どうしても緊張してしまいます。
気道を開くために、背中を伸ばす、首の筋肉や口を緩める。下腹を意識する。など、リラックスするために覚えた方策は全てわかって、試しているのに、出来ない。
思いついて、試しに、同じ場所を演奏する時に、後ろに下がっていく、次に、前に進みながら吹くと、言うのをやってもらいました。
すると、結果は、後ろに下がりながら吹くと、音はどんどんかすれていきましたが、前に進みながら吹くと、太くいい音で演奏することが出来ました。
全く別人のようです。
「失敗したら、一歩前へ。」
ということを、理屈ではなく、結果として目の当たりにすることが出来ました。
これだから、おもしろくて、やめられない。
これは、「山口隆志」の死亡証明書。65年目の便りです。
実家に帰ると、「封書が届いた。」と、父が言います。
差出人は厚生労働省。
隆志というのは、父の兄。7人兄弟の6番目。
ロシア政府から、提供された4万1千名の「ソ連邦シベリア抑留中死亡者名簿」と、新たに昨年12月に公開された、「ロシア国立軍事古文書館」に収納されている70万枚の「旧ソ連邦日本人抑留者に係わるカード」を照合して、「山口隆志」が、父の兄であることがわかったというのです。
ロシア語は読めませんが、翻訳がついていて、下記のように書いてあるらしいです。
H700-5470
氏名 ヤマグチ タカシ
生年月日 大正13年
死亡年月日 昭和21年 5月29日
埋葬地 第47収容所
他には、カルテ。死因は肺結核。
「1946年5月29日収容所第3支部にて死亡。区画番号No.5 墓番号 No.7に埋葬された。目印として、5/7と記された小さな碑銘板のついた杭がある。」
22歳でなくなったらしい。
両親、7人いた兄弟は、二人を残してすでに去り、父の実家では、代替わりし、すでに、隆志さんを知る人は無く、こちらに転送されてきたらしいです。
末っ子だった父も80歳。実際はすぐ上の兄だったのに、「2番目の兄だったかな?」とか、記憶も遠く。感慨も薄いらしい。
せめて、第47収容所って、どこにあるのか調べてみようと、厚生労働省のHPを調べてみましたが、400以上ある収容所の一部は名前がわからず、その中の一つらしく、わかりません。
HPの別の名簿に名前がありました。
0024 第1449特別野戦病院・ポニ地区その1 | 62 | 210807 | ヤマグチ タカシ | ハバロフスク地方 |
ポニ地区の地図が掲載されていたので、見ると、ハバロフスクの一地区で、47ではなく、第46収容所があったことがわかりました。この名簿と、今度送られてきた照合書類の記載が同一人物であれば、ハバロフスクで亡くなったのかも?
しかし、この名簿の死亡時期、21年8月7日は、この照合書類とは合わない。
私も、歴史の一部を見るような気持ちで、伯父さんだからという、感慨もわかない、身内にさえ忘れられた65年目の死亡証明に、人としてあまりに粗末なものを、感じました。せめて、「山口 隆志」が確かに存在した。という事実を残したくて、ここに、投稿します。
1年生の男子Aくんが三つ又の木を拾って、友達に向けて追い掛け回します。部屋には大人がたくさんいますが、ここは運動場の端で、周りは子どもばかりで誰もいません。
仕方ない、一人でなんとかしなくてはいけません。
「それは危ないから、こっちに渡してください。」もちろん無視。
取り上げようと近寄って、枝をつかんだら、グーでみぞおちを思いっきり殴られました。ゲーッとなったのは、後のこと。
とにかく、三つ又をとりあげました。するとAくんは走って、1mの鉄の棒を拾ってきます。木で子どもを傷つけないようにしながら鉄の棒を取り上げると、今度はわき腹をグーで思いっきり振りぬかれました。
一安心と思いきや、今度は4mの棒を握って天に向かって突き上げます。
他の子ども達が逃げてしまったので、もう追いかけません。
意を決して「ひろってくれてありがとう。こんなところにあると危ないから、校長先生のところに持って行こう。きっと、お礼を言ってくれるよ。」といってみました。
『どうするかな?』と見ていると、木を持ってついてきました。
二人で、運動場を木を持って歩きました。長い距離、ゆったりと穏やかに声かけながら歩いていますが、内心は気が変らないかと、アンテナを張り続けたまま。
なんとか、職員室棟まで歩いてきたら、Aくんは棒を渡してくれました。私は一人で、職員室に行き、「子どもが振り回すので、持ってきました。」と言うと、「?」の顔で「はい。そこ置いといてください。」
こんな時、学校の先生との温度差を感じます。
授業は、静かに出来ても、運動場で、多くの時間、自由に過ごす児童会とは、子どもの見せる面は違うということなんだろうな。
落ち着いたので「Aくん、殴ったり、棒で追いかけたり、暴力はだめだよ。」と言うと、「ええねん。」
「なんで、友達も先生もAくんに何かした?何か嫌なことがあったら言って。」
「ううん。」
「じゃあ、暴力はやめて。」
「・・・。」
この後、Aくんは、1年生6人で遊びましたが、中の1人Bくんを何もしていないのに殴ります。
そのつど注意しましたが、何度も繰り返すので、「みんな、こんなこと良いと思う?」と、問いかけてみました。
「ええねん。Bはよく嘘つくから。」
「それ、今日のこと?」
「違う。」
「暴力を奮うのをどう思う?」
「あかん。」「いやや。」
「じゃあ、なんでとめへんの?」
「とめたら、次は自分にきそうやから。」
「そう、あかんし、いややけど、自分にきそうだから、黙ってるんだね。」
「・・・。」
Aくんも、Bくんも、何も言いませんでした。でも、その後、このグループでは暴力は二度と奮われませんでした。
毎日毎日、頭がショートするほど、考えます。どうやったら暴力は減らせるか?何が暴力の原因か?自分の態度がきっかけになっていないか?子どもの表情はどうか?それでも、暴力は消えることはありません。
桜草、百舌鳥と言う種類だそうです。
ソナタ・アパッショナート Sonata(Appassionata)Fis moll op.140は1917年、セルゲイ・カルク・エレルト(1877-1933年)により作曲されました。
無伴奏、フルートソロ。ドイツの作曲家。同時代にシェーンベルク、ラヴェル、スクリャービンがいます。
翌年から作曲が始まった「グラドゥス・アド・パルナスムによる奇想曲」30Cappricien Gradus ad parunassum op,107は、この曲を攻略するためのエチュードのようです。
見たことの無いような変った動きは、技術的に難しく、技巧を見せるためのものではないか?と思っていましたが、アパッショナートを見ると、むしろロマン派の影響を強く感じます。
独特な和音の動きは、劇的で、不安な空気をかもし出します。
1917年、この年、ロシア革命、第一次世界大戦が始まりました。