音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

第13回聴き合い会

2024-06-20 21:00:00 | コンサート
水曜日は、第13回聴き合い会でした。今回はプレクトラムとフルートでした。
マンドリンの久富栄一さんが、中野二郎の「第二幻想曲」を弾いてくれました。
すごい迫力。マンドリンの模様も龍。
ピックが当たって禿げたので貼り直したらしいです。


ギターの前身ビウエラ
斎藤宗男さんの美しい楽器です。
15世紀のマルコ ダル アキーラのリチェルカーレを弾いてくれました。

1945年頃の鈴木のギター河塚智秀さんのギターは力を入れて弾くとならないそうです。
432Hzで調弦します。これが、優しい音でウットリしました。

私は川原さんのモダンギターとコンサートフルートでジュリアーニのデュオコンチェルタントop85
島崎陶人先生のアドバイスで紐を軽くタスキにかけて演奏してみました。
楽に吹ける感じです。

不思議ですが、これだけで息が入ります。
河上さんと川原さんのデュオ、私とのフルート2本のデュオもなかなかいい感じでした。

カルタを作っておられて、これもおもしろかったー!


花に変身するお話し

2024-06-19 21:03:00 | バロック
うちでは紫陽花を育てる場所が無いので諦めていたのに、旧宅に行ってみたら、小さな鉢が鎮座していました。

サマークラッシュという名札がついていました。
マリーゴールド ボナンザ ビーの鉢が隣に。
私はここの庭はノータッチ。
夫がメダカを飼ったり、家の中はクワガタ館。
楽しんでいます。

ギリシャ神話に出てくるというマリーゴールドの花。

水の神クリスティは太陽神アポロンが好きでしたが、アポロンには王女レウトコエという恋人ができます。

嫉妬したクリスティは王女レウトコエの父王に「レウトコエは、アポロンと付き合ってる。」と告げ口しました。

王は怒ってしまい、レウトコエを生き埋めにしました。

クリスティは自分のしたことでレウトコエが殺されてしまったことを悔い、地面に座ったままアポロンを見つめて、9日後、クリスティはマリーゴールドの花になってしまいました。

このマリーゴールドはヘリオトロープや、ひまわりになったという話もあります。

しかし、ひまわりはアメリカ原産。

ヨーロッパに入ってきたのは1510年。
普及したのは17世紀。
太陽神アポロンを今も追いかけて太陽の方を向くというストーリーはいかにもですが…ギリシャ神話ではないかも。

ヘリオトロープ

は紫色の花で、heliostropeとはギリシャ語で「太陽に向かう(heliosが太陽、陽)+(tropeが向く)」という意味があります。

しかし、ヘリオトロープはペルー原産。ヨーロッパに来たのは1757年フランスの園芸家が紹介してから普及しました。

やはりおかしいです。
ところがマリーゴールドもメキシコ原産1492年コロンブス以降、ヨーロッパに入ったと思われます。

しかしここにカレンデュラ、ポットマリーゴールドというキンセンカ(キク科)が登場します。

この花は原産地が地中海沿岸。
古代ギリシャにあるこの花が神話の
クリュティエだったのではないでしょうか。

それが、ヘリオトロープやヒマワリやマリーゴールドなどがヨーロッパに伝わり、栽培されるようになって名前がそれらしいヘリオトロープや、太陽を追うヒマワリや似た花マリーゴールドに置き変わったのではないかと思われます。

こういう変身譚はオペラや物語の主題になってきました。

リュリのオペラ「アティス」もその1つです。

ジャン=バティスト・リュリ(1632 - 1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没
 
は、フランス王国盛期バロック音楽の作曲家。
フィレンツェの粉挽き職人のもとに生まれ、ほぼ正規の音楽教育を受けないままギターやヴァイオリンを自己流で覚えます。
1652年「王の夜のバレ」に出演すると、ルイ14世に気に入られ、
ルイ14世の宮廷楽長、寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにしました。

元はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ(Giovanni Battista Lulli)という名でイタリア人でしたが、1661年にフランス国籍を取得しました。

オペラ「アティス」

1689年出版の楽譜
は1676年作曲。台本はキノー。
原作はプーブリウス オィディウス
紀元前43年3月20日 - 紀元後17年 または18年
帝政ローマ帝国時代の詩人

オペラ「アティス」
プロローグでは、時の神とフローラがルイ14世

に敬意を表し、悲劇のミューズであるメルポメネーがオペラの筋書きを提示します。

第一幕
主人公アティスが登場します。
フリギアの王セレニュスのお気に入りのアティスは、女神シベルを讃える祭りの開催を任されています。

サンガリード

がセレニュス王と結婚する日です。が、そこで彼女はアティスへの秘められた愛を告白します。

若い二人は自分たちの立場を嘆きます。
祭りが始まると、女神シベルが現れ、自分の神殿で新しい大司祭を選ぼうと一行を誘います。

第二幕
サンガリードの動揺がセレニュス王に伝わってしまいます。
アティスは王を安心させた後、大司祭に任命されます。

一方、女神シベルは腹心の友に、この若者アティスの魅力に抗し切れなかったことを告白します。

第三幕
アティスの新しい任務のために用意された宮殿。

女神シベルは彼に言い寄ります。
彼が眠っている間に、「快い夢」と「悪い夢」が、女神の愛を受け入れる場合と拒否する場合のメリットとデメリットを彼に伝えます。

彼が目覚めると女神が直接現れます。

女神は、夢が自分の命令で話していたことを彼に伝え、サンガリードを自分の神殿に迎えることを承諾します。

第四幕
サンガリードは、女神がアティスを誘惑することに成功したと考え、腹立ち紛れにセレニュス王との結婚を決意します。
結婚式は準備されます。
しかし、アティスは結婚を祝うことを拒否します。そして、彼は女神シベルから授かった力を使って西風の神(Zephyrs)を呼び寄せ、サンガリードと空中に運び去らせてしまいます。

1676年代台本

第五幕
セレニュス王の訴えを聞いた女神シベルは、アティスとサンガリードが愛し合っていることに気づきます。
女神シベルは復讐のために冥界の精霊を呼び寄せます。
これにより理性を失ったアティスは狂気に駆られてサンガリードを殺してしまいます。



しかし、これを目にして自責の念に駆られた女神シベルは、アティスを哀れんで松の木に変えてしまいます。

西風の神(ゼフィルス)の力を借りて、アティスはサンガリードと自分を運ばせます。


馬の脚

2024-06-18 20:55:00 | バロック
次男の検診。
順調のようです
9月に手術をしてチタンを抜くそうです。
手術が嫌で、一生チタンと一緒に過ごしている人もいるそう。
そんなことあるのか?!

次男は今はほぼほぼ痛くないそうです。ただしゃがむと痛いそう、そして正座はできないです。

まあ、自転車に乗る時少し邪魔なので自動車通勤になっているところが家族としては不便ですが。(車のやりくりなどが)

バロックバスーン(ファゴット)はどのような音がしたのでしょうか?


録音した音も残っていないので、演奏を聴いた人の感想を記述したもので類推するしかありません。

1956年にロンドンで出版され、1965年に 奥田恵二氏の日本語訳が音楽之友社より出版されたアンソニー・ベインズ氏(ロンドン・フィルハーモニーバスーン奏者)による「木管楽器とその歴史」(The Woodwind Instruments and Their History)


の中には18世紀のバスーンの音色について書かれている記述を集めています。

「イギリス人たちが「馬の脚」と呼んだ古いバスーン(バロックバスーンのこと)は適当なリードを用いればたまらないほど甘美に響くのである。

その音色は巧みに奏された近代フランスバスーンのそれに似ているともいえようが、しかしいくぶん音量が小さく、より安定し、引き締まり、どちらかというとチェロに似ている。

旧式のオーボー同様、他のどの楽器ともよく混じり合うことはこの上ないが、一方、独奏楽器として好まれるに十分な重厚さも備えていた。」

・18世紀中期を通じてのロンドン一流のバスーン奏者ミラー(Miller)は

「ヴォーホール(Vauxhall)などでのコンチェルトや、ヘンデルがオラトリオやコンチェルトの中で彼に割り当てたソロ・パートは人々の注意を呼び起こし、喜びを持って聴かれ、甘美な音色と端正な演奏ゆえにしかるべき喝采を博したのであった」
といわれている。(バーニー・リースの百科事典より)。

ロンドンの奏者ホームズ(Holmes)
彼の音色は「人声に非常に似ていた」

といわれています。ハイドンの<シンフォニア・コンチェルタンテ>の初演をしたのもこのホームズ。

・もちろん下手なバスーン奏者も当時からいたもので、標準以下のバスーン奏者に当時あたえられたのは、 

「鼻づまり」だとか「山羊のようだ」。

アンソニー・ベインズはイギリス流・フランス流の奏法の違いについても書いています。

イギリス流について
・「強靭なリードを吹きこなす」ことを推奨(出典:Harmonicom 1830)

・外国人たち(フランス人のこと?)の「頼りない音色と意味のない演奏法」は七面鳥がその羽根で農家の中庭の地面を掃き歩いているようだ・・(出典:Harmonicom 1830)Harmonicom 1830)

フランス流
・イギリス人奏者たちの大まかなリードはタンギング(舌で音を発音させる技術)に特別の力を要求するために、

彼らは<ピアノ(小さな音・柔らかい音)>で演奏することがまったくできない・・・(出典:バール・1833年にパリで教則本を出版)

フランス流のイギリス人奏者、バウマンの演奏についての記述。

・19世紀のロンドンに25年君臨したバスーン奏者・バウマンはこの楽器に他のイギリス人奏者のような丸い音色をもたないとしても、彼にはデリケートな曲折をほどこすより強い力と

「死者の骨のうちにも生命をよびおこす」ような霊感にみちた音がある・・・

これほど伝統的なフランス奏法を巧みに要約した言葉はないだろう。(出典:不明)

とはいえ、現代ではバロックファゴットを再現し、その楽器で演奏されている人もいます。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国フィレンツェ生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


ファゴット協奏曲Gmajor rv496
は1720-1724年に作曲。

モルツィン伯爵に献呈されました。

1718年-1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯

1667- 1739年
の宮廷楽長として奉職します。

1723年-1724年(45歳-46歳)ローマで3本のオペラを初演し、ローマ教皇御前演奏。
ローマ教皇インノチェンツィオ十三世(在位1721-1724)
作品8『和声と創意への試み』(四季を含む)
作品8『和声と創意の試み』初版第2巻の表紙(1725年)
出版するなど、地位も得て、音楽的にも、充実した時期の作品です。




金属のフルートを改良

2024-06-17 21:00:00 | ロマン派
6月16日はラサーラディオルフェオでフルートアンサンブル「エスカル」発表会でした。
六甲ライナーに乗ると、

なんと有人運転でした。
初めて見ました!



海を渡って六甲アイランドへ。、

11:00からリハーサル。
まず、ドビュッシーの「小組曲」と大阪エスカルの「宝島」
行けそう。
それからピアノとの伴奏合わせ。
なんと1人1分!
「ローエングリン」は10分かかるので、ほぼ口頭でテンポ合わせだけしました。

軽食を取ってと言われたので、近くのスーパーでお惣菜を買って、フードコーナーで食べ、

本番。
2番目、合わせが薄かったのでちょっと危ないところもありましたが最後まで吹き切りました。

モーツァルトや、ケーラー、ベーム。
フルートの名作が並びました。
みなさん、熱演!

ビゼーのアルルの女のメヌエットを榎田先生のバスフルートで吹くというツワモノも!

そしてアンサンブルコーナー、ドップラーの「アンダンテとロンド」そして「宝島」ラテンアレンジということで、パーカッションも入って練習しているとノリノリになってきて、帽子やお花の小道具も用意。


結果はお客さんも手拍子足拍子で乗ってきてくださって大成功でした!

そして締めは全員合奏ドビュッシーの「小組曲」
大変でしたが楽しかった〜!
打上げもいろいろなお話しが出来て素敵な時間を過ごしました。
唯一の誤算は打上もそこそこに早めに帰ったのに、住吉駅のホームに降りた途端、電車が停まったこと。
そのまま待機。

結局、帰宅は23:55分でした。
今日の内に着いた…。

テオバルト・ベーム(1794- 1881年)バイエルン選帝侯国(後の王国、現バイエルン州)首都ミュンヘン産まれ、

は、ドイツ人の発明家、音楽家です。
従来のフルートの楽器としての性能を向上させた「ベーム式フルート」を完成させました。
フルート奏者としても一流で、バイエルン王国の宮廷音楽家として活躍しました。さらに、作曲家としても、フルートのための作品を残しました。

父から貴金属の加工法を学びましだ。その技術を応用して木製のフルートを自作しました。 

18歳の時にはオーケストラに入団できる程に上達し、21歳で宮廷管弦楽団の首席奏者となりました。

1831年にロンドンで、チャールズ・ニコルソン(1795-1837年)によるフルート演奏を聴いたことをきっかけにフルートの本格的な改良に着手し、翌年にいわゆる円錐ベーム式フルートを発表しました。

その後もフルートの材料として、熱帯産の硬い木材、銀、金、ニッケル、銅など様々な素材を試していきました。 

さらにフルートの構造に関して、音孔の大きさや位置に関する検討も行いました。

50歳を過ぎてからミュンヘン大学
ミュンヘン大学図書館

エントランス
で音響学を学んだ後、今日のフルートとほぼ変わらない金属製のフルートを開発しました。

1847年に特許を取得し、1851年にはロンドン万博にて一般公開しました。



ロンドン万博1851年
1871年にはベーム式フルートの音響学的、技術的、芸術的な側面について解説した『"Die Flöte und das Flötenspiel"(フルートとフルート奏法)』


を出版しました。

アルプスの思い出、 6つのサロン用小品 第1巻
1. アンダンテ カンタービレAndante cantabile, Op.27
2.ロンド アレグロ Rondo allegro, Op.28
3. ロマンス アンダンティーノRomance. Andantino, Op.29
4. ロンド アレグレットRondo allegretto, Op.30
5. アンダンテ パストラールAndante pastoral, Op.31
6.ロンド レントラー Rondò Landler, Op.32

Richard Greville Esq.r献呈されています。

1.アンダンテ カンタービレ



からあげと聴くとあの曲

2024-06-16 21:04:00 | 近代
パンケーキなるものを食べてみました。
ってギターの川原さんが食べたのですが…。

ジュリアーニのデュオコンチェルタントop.85
6月30日西宮ギター練習会のコンサート 夙川公民館ホールで演奏します。

みっちり練習した後、くずはモールでランチ。
アロハテーブル。前回来た時は長蛇の列で入れませんでしたが、今回は一組待っているだけでした。1:30頃だからピーク過ぎてただけかも。


私はおろしチキン唐揚げ。
お腹いっぱいなりました。

スティーブン・コリンズ・フォスター(1826 - 1864年)アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ローレンスビル生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。

アルスター・スコッツ(北アイルランドに入植したスコットランド人)の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育ちました。
彼の生まれた家は「白壁の家」(White Cottage)と呼ばれていました。父のウィリアムは、ヴァイオリンを演奏し、母のエリーザ・トムリンスンも詩情豊かな教養に富む女性でした。姉2人もピアノをよく演奏しました。

フォスター自身も幼児期より並ならぬ音楽的才能を見せ、7歳からはフルートを、9歳からはギターを独学で習得し、後にはクラリネットも修め、1841年、15歳の時にはアゼンス・アカデミー卒業式の際に自作の「ティオガ円舞曲」をアテネ・アカデミーの教会でフルートで奏しました(この作品はピアノ独奏曲として現存します)。

作曲に興味を持ったフォスターはモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバーらの作品を寝る間も惜しみ研究していたという。このようにアカデミックな音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していました。

最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」(Open Thy Lattice, Love)で16歳のときの作品です。

翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを作曲します。

1845年4月にピッツバーグは大火に見舞われ、町の3分の1にもあたる約1000棟の建物を焼失する。

1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会(Irwin & Foster)で簿記係を務めます。
当時のシンシナティは、ピッツバーグをしのぐ勢いの多文化社会であり、彼の働く会社の窓の外にはオハイオ川に蒸気船がひっきりなしに行き交い、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌に満ち溢れていました。

このシンシナティ在住中に、当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。

これは1848年〜1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となりました。

当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていましたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』(Foster's Ethiopian Melodies)に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」(Nelly Was A Lady)が収録されています。

同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなりました。

1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーン・マクダウェル(Jane Denny McDowell, 1829年 - 1903年)と結婚、翌年には娘マリオンをもうけます。

この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーの我が家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」(「スワニー河」)の傑作を次々に生みます。

1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社と契約を結び、自作・他者の歌曲などをアンサンブル用に編曲した「ソーシャル・オーケストラ」(The Social Orchestra)を発表。翌1854年には「金髪のジェニー」を発表。この年に妻子もニューヨークに移り住みます。

が、翌年にはフォスターは単身ピッツバーグに戻り、続いて妻子も追うが、1855年の両親の死と翌1856年の兄ダニングの死はフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥ります。

1857年、ファース・ポンド社との先払い契約によって辛うじて金銭を得るが困窮生活は続きます。1860年にニューヨーク市に再び転出し「オールド・ブラック・ジョー」を発表。

1864年1月10日、マンハッタンの下町「バワリー」のノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家ジョージ・クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの3日後の13日に発熱と出血多量で死亡しました。

数日前から発熱していて、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されています。

37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけでしたた。

フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられています。

1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されています。

ケンタッキーの我が家(: My Old Kentucky Home)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州の州歌として採用されている。日本ケンタッキー・フライド・チキンのCMソングでもある。

ケンタッキーの我が家は、1852年に 作詞・作曲され、1853年に出版されました。

1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用されます。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、この「我が家」のモデルといわれています。

しかし、フォスターがその時期に彼の家を訪れたという証拠がなく、これを疑問視する声もあります。  

「ケンタッキー」の名称の採用は「故郷の人々(スワニー河)」と同様に語呂の良さで選んだのではないかとする説もあります。

1852年には、黒人奴隷問題に大きな影響を与えた「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」が出版されており、作曲の動機になったのではないかとの説も有力です。

この曲は、ケンタッキーダービーの際に毎年伝統的に、ルイビル大学のマーチングバンドの演奏に合わせて歌われています。
1982年からはスティーブンフォスターハンデキャップという競馬の競走が行われています。

「ケンタッキーの我が家」
懐かしいケンタッキーの家は日差しで明るく輝いている
夏の日、人々は皆、楽しそうにしている
トウモロコシの穂先は熟して、牧草地には花が咲いている

鳥達は一日中音楽を奏で
これ以上泣かないで、私のお嬢さん
おお、今日はもうそれ以上泣かないで
私たちは懐かしいケンタッキーの我が家の為に歌を一曲歌う

遠くへ行ってしまった懐かしいケンタッキーの我が家の為に
子供達は小屋の床を楽しそうに転げ回る
全ては幸福で輝いていた

やがて厳しい時代が来てドアを叩く
懐かしいケンタッキーの我が家、おやすみなさい!





冷蔵庫を待ちながら

2024-06-15 21:07:00 | 古典
一昨夜、妹からLINEで「冷蔵庫壊れたから取り替えて貰うんだけど、立ち合いお願いできない?」
看護師の妹は中々自由に休みが取れない。ということで妹のマンションでお留守番。

しかしなぜか松井山手から母も来ると言い出して…それなら留守番一人でいいやん…と思いながら、「お昼ご飯買って行く。」という母のLINEに釣られて一緒に留守番することになりました。

6月16日(日)13:00〜フルートアンサンブル「エスカル」の発表会
でみんなとするドビュッシーの「小組曲」大阪メンバーの「宝島」個人で吹く「ローエングリン幻想曲」や、

6月30日西宮ギターコンサート
岡山さんとする「カルメン幻想曲」、川原さんの「ジュリアーニのグランドデュオコンチェルタント85番」など6月は大作、小品取り混ぜて絶賛練習中
(ホフマイスターが終わってホッとした)

他にも9.10月が本番のプロージットオケ、ベートーヴェンの交響曲2つと、オペラパークスオケの声楽曲の慣れないピッコロが〜!

なので、冷蔵庫を待ちながら練習する気満々。
多分母はしゃべり倒す気満々。
この戦い勝てるか?!
一人で来たかった〜、けどお昼も食べたかった。食意地貼り過ぎ〜な

13:00
マンションの上階。景色いい!


母が買ってきてくれたお弁当を食べて
お茶飲んで、母のお話は続きますが冷蔵庫を見たら、結構ものが詰まっています。
冷凍食品は職場に持っていってるというので冷凍庫は空でしたが…。

全部出して、別部屋で1人。
「宝島」と「ローエングリン」を1回ずつ吹いたら…来ました。

古いのを出して、新しいのが来るまで母と掃除。



入りました。
美しい!
設置完了。ここからが、お仕事。テープを剥がして、物を入れる前に水抜きで庫内掃除。

物を戻そうとしたら、「瓶の底を拭いてから」と、母また掃除。
冷蔵庫にものを入れてからも、炊事場やゴミ箱やら、あれこれ掃除が止まりません。

「大人なんだから自分でやるから。」と、私。
妹からのLINEも「テキトーでいいから」
しかし、まだまだ掃除すると言うところを引っ張って帰ったのでした。

冷蔵庫は姪たちが出ていって一人暮らしになった妹にしては大きかったけれど、燃費?が良いらしく
電力を食わなくなったらしい。
それに一人暮らしに良いように冷凍庫大き目。
ここ大事!

早く来てくれて良かった。
帰って予約のあった歯医者に行きました。詰め物をしてもらって帰宅。

「新しい接着剤ですぐ食べてもいいですよ。」と先生に言われたのですぐアーモンドを一掴み噛んだら…取れました。
すぐに電話したら「すぐ来られますか?」ということで再度歯医者さんへ。
今度は念入りにすり合わせしてくれて、今のところ大丈夫です。
しかし、時間取られて結局「ローエングリン」と「カルメン」しか練習できませんでした…チッ!

「冷凍 クラッシック音楽」で検索していたら、NHKクラッシック音楽館で2022年8月に放映された番組見つけました。

「ユニテル」制作の冷凍保存フィルムを解凍して、NHKが補修し、4K8Kデジタル・リマスターを施した映像作品が放送されました。 

マイナス4度で冷凍保存されていたユニテル制作のオリジナルフィルムを解凍し、手作業でノイズを取り除き、徹底した「再現」作業を行ったそうてす。

しかも一度解凍したフィルムは、再度の冷凍保存は不可能。
大変なリスクを侵しての復元です。

ウォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国大司教領ザルツブルク ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

交響曲第29番 イ長調 K. 201 (186a)
1773年(17歳)から翌年にかけてモーツァルトは、9曲の交響曲を書き上げました。

そのうちの5曲までがイタリア風序曲の形式で作曲されているのに対し、残りの4曲はウィーン風の4楽章の構成がとられるようになりました。

第29番は社交的娯楽的要素の強いイタリア様式を脱却し、後の交響曲へのたしかな成熟を予測させる表現力を備えた作品です。

モーツァルトが10代で作曲した交響曲中、第25番ト短調 K. 183(173dB) とこの曲はとりわけ人気が高いです。

1774年の4月6日にザルツブルクで完成しました。

冷凍されていたフイルムの再現…聴けるのかなあ?と探していたらYouTubeにありました。
バーンスタインやカラヤンのもありました。探してみてください。

今回はカール・ベーム(1894-1981年)指揮

冷凍保存フィルムのデジタルリマスター版
モーツァルトの交響曲第29番 イ長調k.201 ▽ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(管弦楽)▽1973年6月録画


バラでお迎え

2024-06-14 21:01:00 | バロック
まだまだバラ咲いています。





品種はあれかな?というのはありますが、確定できないです。
世界で3万種とも4万種とも言われていて、似たような色や形が溢れていてとてもじゃないけれど写真では判別できません。

バラの歴史は長くて、クレオパトラは膝の高さまでバラの花で埋めた部屋で、バラの香油をふんだんに使いシーザーを迎えたとか…。

カール・ハインリヒ・グラウン(1704 - 1759年)
ザクセン選帝侯領ヴァーレンヴュリュック生まれ、没不明。

作曲家、テノール歌手。
当時のイタリアオペラの最も重要なドイツ人作曲家です
1714年、兄のヨハン・ゴットリープ・グラウンに続いてドレスデンの聖十字架教会

の学校に入学し、ドレスデン聖十字架合唱団とツヴィンガー歌劇場

の合唱団で歌いました。

クリスティアン・ペッツォルトに歌唱を、ヨハン・クリストフ・シュミット (1664–1728)に作曲を師事しました。

1724年、グラウンはブラウンシュヴァイクに移り、歌劇場

で歌い、同劇団のために6つのオペラを書きました。

グラウンは、 1733年にザルツダルム城で行われた当時の皇太子フリードリヒ大王


とエリザベート・クリスティーネ

の結婚式のために
オペラ『Lo specchio della fedeltà』を作曲した後、1735年にブランデンブルクのラインスベルクに移住しました。

1740年にフリードリヒ大王が即位してから19年後にベルリンで亡くなるまで、大王の楽長を務めました。

グラウンは数多くのオペラを作曲しました。
『モンテスマ』(1755年)は、フリードリヒ1世の台本に基づいて書かれました。

受難カンタータ『イエス の死(1755年)は、彼の死後何年もの間ドイツで頻繁に演奏されました。
他の作品には、協奏曲やトリオ・ソナタなどがあります。
また、おそらく声楽家としての経歴から、特に優れた歌詞と構成で知られていました。[

彼は2度結婚し、最初の結婚で歌手となった娘を、2度目の結婚で4人の息子をもうけました。

彼の玄玄玄孫であるウラジーミル・ナボコフは、20世紀の著名な小説家です。

『チェーザレとクレオパトラ』は、3幕の音楽劇です。このオペラはジョヴァンニ・グアルベルト・ボッタレッリによるイタリア語の台本を使用しています。

この曲は、ベルリンに新しく建設された王立オペラハウス


のオープニングのためにプロイセン王フリードリヒ2世の依頼で作曲されました。
その頃から1756年までグラウンはベルリン・オペラと密接な関係にあり、その時期に上演されたほぼすべての作品はオペラでした。

オペラハウスの建設はまだ完全には完了していませんでしたが、
1742年12月7日、作曲家の指揮の下、ドイツ語に翻訳されたオペラが新劇場で初演されました。

1740年にプロイセン王位に就いてから数週間以内に、フリードリヒ大王はカール・ハインリヒ・グラウンを宮廷楽長に任命し、その後イタリアに歌手発掘のために派遣しました。

王位に就くかなり前からフリードリヒはベルリンに新しいオペラハウスを建設する計画を立てていましたが、その計画が実現するまでオペラは宮殿の2階にある大きな応接室で上演されていました。

『チェーザレとクレオパトラ』は、コルネイユの『プーペの死』を大まかに基にしていますが、18年前にロンドンで初演されたヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』と同様に、クレオパトラの弟プトレマイオスの手によるポンペイウスの死よりも、カエサルとクレオパトラの恋愛に重重点が置かれています。

ジョヴァンニ・ボッタレッリの台本は、カエサルの軍事的、政治的手腕の中に自分自身の魅力的なイメージを見ていたであろうフリードリヒ2世の心に訴えるものだったと思われます。

あらすじ
クレオパトラとトロメオ(クレオパトラの弟)がエジプトの王位をめぐって争っている間、チェーザレ(シーザー)はポンペイオスと戦争状態にあり、クレオパトラは敵を追ってエジプトのアレクサンドリア港に到着します。

トロメオはチェーザレにポンペイオスの首を贈り物として贈りますが、チェーザレは殺人を非難し、トロメオの名誉を傷つけます。

クレオパトラとチェーザレは、お互いを一目見るや否や激しく恋に落ちます。
その情熱は嫉妬深いアルサーチェも逃せない。レントゥーロも、ローマ元老院の抵抗を恐れ、この関係を認めない。トロメオ、アルサーチェ、アキラはチェーザレに対して陰謀を企てます。

チェーザレがコルネーリア(ポンペイウスの未亡人です)に注意を向けると、レントゥーロは何かがおかしいと感じ、武器を取るよう呼びかけます。

戦いでトロメオは捕らえられ、コルネーリアに引き渡されます。

一方、クレオパトラはチェーザレを説得して自分と結婚させようとします。
レントゥーロは、ローマによって「蛮族」との結婚が正当化されるよう、チェーザレにローマ元老院に、「彼がこの結婚に同意したのは政治的、戦術的理由のためだけだ。」と告げるよう助言します。

エジプト軍は結婚式の最中に攻撃し、戦いが起こり、ローマ軍が勝利します。

一方、クレオパトラはチェーザレの手紙を受け取り、裏切られたと感じます。
しかし、レントゥーロの助けによって、彼女はついに真実を確信することができ、その後、結婚式は勝利の結末を迎えます。

『クレオパトラとチェーザレ』は、1742年12月7日にベルリンの「ウンター・デン・リンデン・オペラ」のオープニング作品として、作曲家の指揮で初演されました。
この作品は、1992年に歴史あるオペラハウスの250周年を記念して、ドイツ国立歌劇場の舞台で上演されました。

「チェーザレとクレオパトラ」より、「密室の誘惑」





白と黑

2024-06-13 21:00:00 | 近代
ご近所のアナベル。

白い紫陽花流行っているみたい。
最近良く見かけます。

日本人は白を特別の色と考えている人が多いそうです。

『日本書紀』孝徳天皇、白雉元年(654年)の条では、穴戸(長門)の国司である「草壁連醜経」という人物が白い雉を献じ、

「公卿より始めて、百官等に及るまでに清白けき意を以て、神祇に敬奉りて、並に休祥を受けて天下を栄えしめよ」と言って年号を「白雉」と改めたことが記されています。

また、光仁天皇も、即位にあわせて肥後国から白い亀が献上されたことで、ただちに年号を「宝亀」と改めたとされます。

それらが実際にあった出来事なのかはともかく、少なくとも日本書紀が作られた時代には、「白色には時代を変える力がある」というイメージがリアリティを持っていたことが伺えます。

また同時に、白色は、「誠」あるいは「内に含むことのない」心のしるしとしても用いられるようになりました。

用例としては、戦場での軍使の旗や、降伏を示す時の旗などです。

戦闘の場面で、降伏のしるしに白旗を掲げた事が、やはり『日本書紀』に書かれていて、最も古いもので、推古天皇の8年(600年)の条に、戦場で新羅王が白旗をあげたとされています。

日本では、さらに時代が下ると、白色は「内にあるものを外に表す」というニュアンスも含むようになってきます。こうしたニュアンスは、今でも「自白」「白書」などの言葉に見受けられます。

白色は、純粋さや混じりけのなさ、そしてそのような状態の心を表す色だったのです。

さて一方で、上記のような意味とは別に、白色には「死」「不気味さ」「虚無」などのイメージもあります。

これは、昔の人が骨の色から連想したのかも知れません。

例えば陰陽五行説では、白色は「秋」の色とされており、これは冷たさやほの白い印象を受けます。

「幽霊」の衣服も白衣というイメージが強いです。

こうした「幽霊は白衣を着る」というイメージが定着したのは江戸時代以降と言われてますが、はっきりとは分かっていません。 

1776年鳥山石燕「画図百鬼夜行」「幽霊」

ただ、近松門左衛門作の時代物の三傑作とされる作品のひとつ『雲女五枚羽子板』では、侍女の幽霊が出るところで、以下のように描写しています。

「塀の内より白鷺の飛ぶ如く、雪渦まいて提燈に、映ると斉しく女の姿、白衣白髪白妙の雪女とも謂いつべし」

『雲女五枚羽子板』の初演は宝栄5(1708)年とされています。
おそらく、この頃にはすでに「幽霊は白衣を着る」というイメージが一般的になっていたと考えられます。

「白色」には、吉兆としてのイメージと、不吉さを伴うイメージの二つの面があることが分かりました。まったく正反対です。

生まれた時には白い産着を着せられ、亡くなった時にも白装束を着せられます。

吉と不吉、生と死……。日本人の人生とは、実は「白に始まり白に終わる」もののようです。

長崎盛輝
色・彩飾の日本史: 日本人はいかに色に生きてきたかより

西洋音楽の中の「白」を探しましたが、やはりなかなかありません。
「雪」とか「白鳥」「白夜」なんて言うのはあるのですが…。

『白と黒で』(フランス語: En blanc et noir)という曲を見つけました。

クロード・ドビュッシーが1915年に作曲したピアノ二重奏のための曲です。

第一次世界大戦の衝撃と体調の悪化による1年ほどの作曲活動の停滞から立ち直り、ドビュッシーは友人のロベール・ゴデに「私は作曲せずにはいられないのです」と書き送ります。

作曲開始時の曲名はフランシスコ・デ・ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』

『ロス・カプリーチョス』:理性の眠りは怪物を生む <Los Caprichos>: The sleep of reason produces monsters

にちなんで『白と黒でのカプリス』というものでした。
第2曲の献呈から、前年に勃発した第一次世界大戦の影響がはっきり感じられる。

『白と黒で』という題名に関しては、鍵盤の白黒を指す、絵画(版画)の白黒を指す、の二つの説があります。

絵画の色説は、編集者のデュランへの手紙で、「カリプスの第二曲の色合いがあまりに黒のほうに押し流されて、ゴヤの『カプリチョス』と同じくらい悲劇的になってしまったので少し明るくした」と言っていること。

また別の友人への手紙で
「これらの作品は、色彩や感動を脱色しようとした結果、ベラスケスの灰色にまでなった」と語り、どちらも絵画を引き合いにしていることをその根拠としています。また各楽章には時局がらみの政治的意図をこめた引用が付されています。

ディエゴ ベラスケス(1599-1660年)人物画の背景を単色にして人物を浮き上がらせる手法を確立した。ここで言われた「ベラスケスの灰色」とは背景のことかな?
第1曲はセルゲイ・クーセヴィツキー,(1874- 1951年アメリカ合衆国で活躍したユダヤ系ロシア人指揮者、作曲家

に、第2曲は第一次世界大戦で戦死した陸軍中尉ジャック・シャルロ(出版者ジャック・デュランの甥)、第3曲はイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882- 1971年)

に献呈されています。

1.Avec emportement (無我夢中で)
標題はジュール・バルビエとミシェル・カッレによる戯曲「ロメオとジュリエット」(シャルル・グノーの同名のオペラの台本)

の一節です。

2.Lent. Sombre (ゆるやかに。沈痛に)
標題にはフランソワ・ヴィヨン
(1431? - 1463年以降)15世紀フランスの詩人。中世最大の詩人とも、最初の近代詩人ともいわれています。


彼の「フランスの敵に対するバラード」の一節が掲げられています。

テーマにプロテスタントのコラールである「神はわがやぐら」
「神は我がやぐら」(1533年版)マルテイン ルター作曲。
が引用され、終盤では「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)

を思わせる断片が入っています。

3.Scherzando (諧謔的に)
シャルル・ドルレアン
(1394 - 1465年)百年戦争期のフランスの王族。オルレアン公、詩人として知られています。

彼の詩の一節「冬よ、お前は嫌なやつだ」が掲げられています。




花を摘むのも悪くないよね。

2024-06-12 20:57:00 | 近代
第2火曜日 10:00〜
会館とのニで子育てサロンでした。

看護大学の学生さんたちも研修でいらっしゃいました。

お手伝いしてもらって、会場設営も早くできました。

手あそび、お歌を歌った後、

デコパージュ。
通常のティッシュケースは4面しないといけないので、時間がかかり過ぎることがわかったので、円筒形のティッシュケースを使うことにしました。
箱ティッシュ1箱分が入ります。
車とか狭いところで使うのにいいです。

1歳の子どもが多く、なかなか母子分離とはいきませんでしたが、なんとか時間内に作成することができました。







素敵にできました!

ボフスラフ・マルティヌー(1890 - 1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ボリチカ生まれ、スイス
リースタル没

は、チェコ出身の作曲家。6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家でした。

靴屋を営む両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されていて、教会の鐘楼塔に住んでいました。
マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
ボフスラフもこの塔の中で生まれ育ちました。
父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手でした。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。
こうした才能に気づいた周囲の勧めや篤志家からの援助でプラハ音楽院

に入学しました。
しかし、彼はここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

チェコフィル、本拠地のルドルフィヌム


ドボルザークホール

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。

1922年にスーク

ヨセフ スーク(1874-1935年)
のマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っています。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセル

アルベール ルーセル(1869-1937年)
に対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。
1929年頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚しました。
シャーロット・レオニー・ヴィクトリーヌ・マルティヌー– クエンネヘン(1894 – 1978)
1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなありませんでした。
1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載り、パリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

1941年、マルティヌーは、ナチスのヨーロッパ侵攻を避けてアメリカ合衆国へ渡ります。
彼の6曲の交響曲の内5曲がアメリカ合衆国滞在中に作曲されています。

1945年、チェコが解放されると、プラハ音楽院から作曲科教授の要請がありました。マルティヌーはこれに同意を伝えましたが、その後この話は立ち消えとなりました。
1946年に、セルゲイ・クーセヴィツキー

クーセヴィツキー 1874-1951年
から依頼され、バークシャー音楽センターの夏期講習の講師を務めることになりました。

この夏期講習の際、宿舎のバルコニーから転落して重傷を負い、1ヶ月以上の入院を余儀なくさせられ、退院後も頭痛、耳鳴り、難聴などの後遺症に悩まされました。
この頃から作風は次第に軽いものに変わって行きます。この頃まで彼は祖国に帰るつもりでいました。

実際に1947年の交響曲第5番の初演に作曲家の代理で出席するためにプラハを訪れた夫人は、西ボヘミアの芸術家村に帰国後の住まいの下見に行ったりもしています。

しかし、1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し、文化政策に理解を示していたヤン・マサリクが死亡したとの報を承け、帰国を断念しました。
プリンストン大学

での作曲の客員教授に就任しました。しかし望郷の念はやまず、この年の夏から数度ヨーロッパを訪問する機会があり、1953年にヨーロッパに移ることにしました。

ヨーロッパに戻った後、最初はニースに住みましたが、1956年からはローマのアメリカアカデミーで教鞭を執りました。しかし住まいを構えることはせず、ホテルを転々として暮らしていました。様々な委嘱に応えて、数多くの作品を作曲しました。

1958年11月、胃の手術を受けますが、これはすでに手遅れとなった癌でした。1959年春までは小康状態を保ちますが、同年8月28日、スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で息を引き取りました。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られました。

1979年マルティヌーの遺灰は故国へ帰りました。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められましたが、その墓石には『泉開き』の一節から "Jsem doma" (「われ、故郷にあり」)と刻まれました。

「春の庭園」H.125
「Jaro v zahrade (Spring in the Garden), H. 125」というタイトルの子ども向けの 4 つのピアノ曲集です。
1920年に作曲されました。
おそらく、個々の曲のタイトルは。作曲家がつけたのではなく、出版社または他の誰かによって後から追加された可能性が非常に高いです。

1.今何して遊ぼう?
2.すぐに眠りに行ったほうがいいと思う。
3.なぜ兵隊さんの役をしなくてはいけないのですか?
4.花を摘むのも悪くないよね。

「春の庭園」H.125 第4曲









デンマーク趣味

2024-06-11 21:00:00 | 近代
ピアノのTさんと久しぶりにランチに行きました。
昨年クリスマスコンサート以来です。
樟葉の小料理「七乃葉」さんです。
予約しようとネットで申し込もうとしてくれましたができなかったので、直接お店に、

11:20頃着くと閉まっていましたが、前に二人待っています。
準備中の札がかかっていましたが、覗くと出てきてくれました。
「ネット予約できなかったのですが、ランチいけますか?」
「ちょっとお待ち下さい。」
大丈夫でした。
「11:30オープンなので、少しお待ちください。」ということで、前で少し待って、その間にもう二組。
月曜平日なのに…。

玉手箱弁当。
つき出しが出てきて、それから三段重箱を開けると

天ぷらとお造り

真ん中のお重箱は、焼き物、煮物とごま豆腐。

五穀米がついて2千円。
お味も良かったです。
前のスーパーでお買物して、枚方家具団地のくらこんの工場でおぼろ昆布とだし昆布、ひじきを買って、自宅に戻りました。

そこから本番。お茶しながら、夕方まであれこれしゃべって癒やされました〜!

フレデリック ディーリアス(1862-1934年)イングランドブラッドフォード生まれ、フランス共和国グレ スュル ロワン没

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)は
ディーリアスがデンマークからインスピレーションを得た曲を集めた歌です。

スカンジナビアとその文化に対する深い共感に基づいたディーリアスの特徴を最もよく表しています。

1911年の出版ですが、他の声楽曲はすべてそれよりずっと以前に書かれたものです。ディーリアス自身が作ったか、ディーリアスが承認した英語の翻訳が採用されています。

ホルガー ドラックマン(1846-1908年)デンマーク コペンハーゲン生没、


イエンス・ペーター・ヤコブセン(18471885年) デンマーク ユトランド半島ティステッド生まれ、デンマーク ディステッド没



イェルカ ローゼン ディーリアス(1868-1935) ドイツ

ディーリアスの妻。

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)
1 Lyse Nætter 
 明るい夜
詞:ドラックマン (1846-1908年) デンマーク

2 Det bødes der for 
 それは讃えられてきた
詞:ヤコブセン (1847-1885) デンマーク

3 Løft de klingre glaspokaler
 高く掲げて鳴らせ ガラスの盃を 詞:ヤコブセン

4 Den Lenz lass kommen
 春に来させよ  詞:ローゼン (1868-1935年) ドイツ 原詩:ヤコブセン

5 Irmelin Rose 
イルメリンのバラ  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

6 Im Garten des Serails 
 後宮の庭で  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

7 Seidenschuhe 絹の靴 詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

第6曲 後宮の庭で
バラは頭を垂れる 重たげに
露や香りで
松の木々は揺れている 
静かに気だるく
蒸し暑い空気の中
泉の銀はゆっくり戯れる
眠たげな安らぎの中
モスクの光塔は天に聳える
深い青さの中 三日月は滑り行く
青い輝きと共に
そしてくちづけしてる バラやユリたち 群がって
すべての小さな花たちは
すべての小さな花たちは
後宮の庭で!

チェロとピアノ編曲版で