皆さん、明けましておめでとうございます。正月早々だからこそ、前回から引きずっている看護師のバーンアウトを巡る重い課題について、あえて考えてみることとしました。医療関係者でも何でもない者が、こんな勝手なことを言うのは全く無謀というものですが、これが個人の意見発表手段としてのブログというものの良さでもありますのでどうかご了承下さい。
前回は、重篤な患者が「何故自分だけがこんな目にあうのか?」という問いを巡って、(主として患者と)相互交流することで成り立つ仕事としての医療・看護が、回復の見込みのない病に対して、最終的には死を受容していく過程への関与なくしては、患者との同一化を果たすことが出来ず、それがバーンアウトにつながっていくのではないか、との話で一旦終えました。問題は患者との一体化でした。最善の医療の提供がその前提となると書きましたが、これは純粋に医学的・科学的な観点からの前提です。今日は、その「最善の医療」(実際には日々の医学の進歩があり、病院や医者の間での設備や技術的格差等があるため、どの患者にとっても、医学的・科学的な側面からの最善の医療はありえません。そこで、このブログで規定する意味においての最善の医療という意味で括弧付きとしております。)を患者が受けていることを、どう自らのうちにおいて納得するか、どういった機制が必要とされるか、ということについて考えていきたいと思います。
この雑感の第2回目に、「人々を引き寄せる象徴的な仕事」としての医療者、看護者の仕事をご紹介しました。ジャック・アタリが分類するこの仕事に、患者と一体化するためのヒントがあるのではないかと思います。その時に、「人々を引き寄せる象徴的な仕事」としては、宗教家が典型だと書きました。キリストが手をかざすことで数々の病を治していったという聖書の記述が、まさに象徴的な仕事としての医療や看護の側面を言い当てております。
病からの回復の見込みのない患者が、緩やかな死に向かってそれを能動的に受け入れるためには、象徴的な仕事としての看護師の役割がそこにあると言えます。それまでのように「受動的」ではなく、「能動的」ということの意味は、死に至る医療と看護のプロセスを、患者自ら積極的に選択しそれを引き受けるということです。この点をもう少し詳細に考えていきましょう。
宗教の狂気は、それを信じる者の能動的な精神が、一歩間違えば、それこそが自分がこれまで生きてきた真の理由であり意義であると思い込み、どんなに社会的に許されようもない行為へも人を導くものであることは、オウム真理教やイスラム原理主義を見るまでもなく明らかです。こうした宗教的な象徴としての仕事を、そのまま看護において取り入れようとするものではありません。それは、世の宗教家が自らの宗旨に基づき、それぞれのやり方で既におやりになっていることでしょう。しかし、この宗教の狂気において見られることで注目すべき事は、その宗教の持つ象徴的な価値と一体化する契機がどこかに存在し、そのことにより、信者自らが能動的に(社会的破壊行為にまで)動いていったということにあります。ここにおいて見ることができる「人間の強さ」を引き出すことができれば、看護においても同様のことが起こりうるということです。
それでは、どうすれば象徴的な仕事としての看護を通して、患者との一体化を果たし、患者が能動的に看護を通じて死へと至るプロセスをも自らの意志で選択するようになるのでしょうか。これがバーンアウトを巡る今日の問題設定です。この問題は、実は病に陥っていようがいまいが、人が各自の生を能動的に受け入れ、選択していることに同様の問題が胚胎していると思います。なぜなら冒頭の「何故自分だけがこんな目にあうのか?」という問いかけの背後には、「自分としては何も病に落ちる、死に至るような悪いことをし続けてきている訳ではなく、他の人々と同じような生活をしてきたのに、”何故自分だけが?”」という、長い前提があるからです。つまり、自分には責任はない、罪はないとする意識です。そして、このような疑問は、自らが能動的に生きることを過去のどこかにおいて選択した、という事実と深く結びついております。人は自らの意思でこの世に生を受けていないのに、それを自ら選択した生として捉え直す契機があり、そこからはいわば自らが選択した生として生き直してきたという事実がある訳です。自らが選択し直した生であればあるほど、それへの執着が強いのは当たり前の話ですね。ここで必要とされるのは、死へと至る病においては、自分に責任はない、病の被害者であるとの受動的な受け止めに留まるのではなく、再度、自らの意思で今度は死へと至る道を選択し直すことです。ここのところに看護師がどのように関われるのかが、患者との一体化が果たされ、バーンアウトを防げるかどうかの鍵を握っていると筆者は考えております。
少々長くなりますが、自ら選択した生として捉え直す契機は、自らの内側からは持ち得ません。宗教と同じように自然現象を含む第三者の介在が必要とされる訳です。こうしてなされた選択をカントは先験的選択と言ったようですが、この先験的選択は通常は自分をこの世に産み落とした親が、我が子を全面的に受け入れそのことにより親自身の人生も成り立っているという、子どもとのいわば「一体感」を子どもに感受させる過程において生じるとされております。養子関係においての真実の告知の場面においては、血のつながりがない擬制の関係であるがゆえに一層の困難が生じる所以です。
これを半ば強引に、看護を巡る患者の死の受容へと至る先験的な選択への契機と、患者との一体感の醸成をどのようになすべきかについてさらに話を進めてみます。1つ考えて見るべきことは、患者対看護師の関係です。看護師は病院が個々の患者に任意に割り当てるものです。患者にも看護師にも選択権はありません。もちろん病院そのものも、そして担当医師も、たまたま近くにあるからという理由で患者が選んでいるにすぎず、例外的なケースは別にして、患者には能動的に選択したという気持ちは希薄かと思います。まず、この意識を患者が先験的に選択したものとして逆転させなければなりません。ここに看護師の「人々を引き寄せる象徴的な仕事」の重要な役割があります。この逆転のためには、看護師も実は患者を先験的に選んだわけではないにもかかわらず、親が子どもに対すると同様に無条件に患者を受け入れる、そしてそれにより親が育児を通じて持つと同じように、看護を通じて深い満足を得ていることを、患者との間で一体感をもって分かち合う必要があると言えます。しかし、患者と看護師の関係は、あくまでも養子関係と同様に擬制の関係です。本当の親子の関係ではありません。しかしながら、よく考えて見ると、患者の本当の親が死へと至る過程において、果たして能動的な選択過程に我が子を引き込むことが出来ているでしょうか。これは実は原理的には出来得ないものと筆者は考えます。何故なら、一度いわば無償の愛で、無意識のうちに我が子の先験的選択を幇助したのが、実の親というわけです。そして、それが擬制の関係ではないがゆえに、その親に今度は生から死への逆の先験的選択の幇助をやれというのは無理というものです。人は無意識のうちに2つの異なる心象を持つことは出来ません。ましてやそこに、医学という科学もかかわってきております。単に子どもを生み育てる自然的行為とは異なります。
そうなると、やはり養子の場合のように、第三者が擬制的な関係の中でその契機を作り上げねばなりません。医療関係者の中でもとりわけ患者と長い時間を共有し、実際の病院での生活場面でもっとも患者に近い存在としての看護師が、そうした逆の先験的選択の幇助を行うことがもっとも望ましいことではないでしょうか。その前提は、前段で述べた「最善の医療」です。より正確に言えば、最善の医療を提供しているという強いシンボリックな意思表示を看護において患者に与えることです。ここにアタリの言う、「象徴的な仕事としての看護師」の真の面目があると言えます。
次回は、今日の話の展開を踏まえて、患者の「修復行為」における医療の分業化、専門化から引き出される諸矛盾を乗り越えながら、象徴的な仕事を行うことでバーンアウトを回避するばかりでなく、医療行為のなかでの患者をとりまく今後のあり方まで展望した上で、看護師という仕事が将来変貌すべき方向性へと話を進めていきたいと思います。
前回は、重篤な患者が「何故自分だけがこんな目にあうのか?」という問いを巡って、(主として患者と)相互交流することで成り立つ仕事としての医療・看護が、回復の見込みのない病に対して、最終的には死を受容していく過程への関与なくしては、患者との同一化を果たすことが出来ず、それがバーンアウトにつながっていくのではないか、との話で一旦終えました。問題は患者との一体化でした。最善の医療の提供がその前提となると書きましたが、これは純粋に医学的・科学的な観点からの前提です。今日は、その「最善の医療」(実際には日々の医学の進歩があり、病院や医者の間での設備や技術的格差等があるため、どの患者にとっても、医学的・科学的な側面からの最善の医療はありえません。そこで、このブログで規定する意味においての最善の医療という意味で括弧付きとしております。)を患者が受けていることを、どう自らのうちにおいて納得するか、どういった機制が必要とされるか、ということについて考えていきたいと思います。
この雑感の第2回目に、「人々を引き寄せる象徴的な仕事」としての医療者、看護者の仕事をご紹介しました。ジャック・アタリが分類するこの仕事に、患者と一体化するためのヒントがあるのではないかと思います。その時に、「人々を引き寄せる象徴的な仕事」としては、宗教家が典型だと書きました。キリストが手をかざすことで数々の病を治していったという聖書の記述が、まさに象徴的な仕事としての医療や看護の側面を言い当てております。
病からの回復の見込みのない患者が、緩やかな死に向かってそれを能動的に受け入れるためには、象徴的な仕事としての看護師の役割がそこにあると言えます。それまでのように「受動的」ではなく、「能動的」ということの意味は、死に至る医療と看護のプロセスを、患者自ら積極的に選択しそれを引き受けるということです。この点をもう少し詳細に考えていきましょう。
宗教の狂気は、それを信じる者の能動的な精神が、一歩間違えば、それこそが自分がこれまで生きてきた真の理由であり意義であると思い込み、どんなに社会的に許されようもない行為へも人を導くものであることは、オウム真理教やイスラム原理主義を見るまでもなく明らかです。こうした宗教的な象徴としての仕事を、そのまま看護において取り入れようとするものではありません。それは、世の宗教家が自らの宗旨に基づき、それぞれのやり方で既におやりになっていることでしょう。しかし、この宗教の狂気において見られることで注目すべき事は、その宗教の持つ象徴的な価値と一体化する契機がどこかに存在し、そのことにより、信者自らが能動的に(社会的破壊行為にまで)動いていったということにあります。ここにおいて見ることができる「人間の強さ」を引き出すことができれば、看護においても同様のことが起こりうるということです。
それでは、どうすれば象徴的な仕事としての看護を通して、患者との一体化を果たし、患者が能動的に看護を通じて死へと至るプロセスをも自らの意志で選択するようになるのでしょうか。これがバーンアウトを巡る今日の問題設定です。この問題は、実は病に陥っていようがいまいが、人が各自の生を能動的に受け入れ、選択していることに同様の問題が胚胎していると思います。なぜなら冒頭の「何故自分だけがこんな目にあうのか?」という問いかけの背後には、「自分としては何も病に落ちる、死に至るような悪いことをし続けてきている訳ではなく、他の人々と同じような生活をしてきたのに、”何故自分だけが?”」という、長い前提があるからです。つまり、自分には責任はない、罪はないとする意識です。そして、このような疑問は、自らが能動的に生きることを過去のどこかにおいて選択した、という事実と深く結びついております。人は自らの意思でこの世に生を受けていないのに、それを自ら選択した生として捉え直す契機があり、そこからはいわば自らが選択した生として生き直してきたという事実がある訳です。自らが選択し直した生であればあるほど、それへの執着が強いのは当たり前の話ですね。ここで必要とされるのは、死へと至る病においては、自分に責任はない、病の被害者であるとの受動的な受け止めに留まるのではなく、再度、自らの意思で今度は死へと至る道を選択し直すことです。ここのところに看護師がどのように関われるのかが、患者との一体化が果たされ、バーンアウトを防げるかどうかの鍵を握っていると筆者は考えております。
少々長くなりますが、自ら選択した生として捉え直す契機は、自らの内側からは持ち得ません。宗教と同じように自然現象を含む第三者の介在が必要とされる訳です。こうしてなされた選択をカントは先験的選択と言ったようですが、この先験的選択は通常は自分をこの世に産み落とした親が、我が子を全面的に受け入れそのことにより親自身の人生も成り立っているという、子どもとのいわば「一体感」を子どもに感受させる過程において生じるとされております。養子関係においての真実の告知の場面においては、血のつながりがない擬制の関係であるがゆえに一層の困難が生じる所以です。
これを半ば強引に、看護を巡る患者の死の受容へと至る先験的な選択への契機と、患者との一体感の醸成をどのようになすべきかについてさらに話を進めてみます。1つ考えて見るべきことは、患者対看護師の関係です。看護師は病院が個々の患者に任意に割り当てるものです。患者にも看護師にも選択権はありません。もちろん病院そのものも、そして担当医師も、たまたま近くにあるからという理由で患者が選んでいるにすぎず、例外的なケースは別にして、患者には能動的に選択したという気持ちは希薄かと思います。まず、この意識を患者が先験的に選択したものとして逆転させなければなりません。ここに看護師の「人々を引き寄せる象徴的な仕事」の重要な役割があります。この逆転のためには、看護師も実は患者を先験的に選んだわけではないにもかかわらず、親が子どもに対すると同様に無条件に患者を受け入れる、そしてそれにより親が育児を通じて持つと同じように、看護を通じて深い満足を得ていることを、患者との間で一体感をもって分かち合う必要があると言えます。しかし、患者と看護師の関係は、あくまでも養子関係と同様に擬制の関係です。本当の親子の関係ではありません。しかしながら、よく考えて見ると、患者の本当の親が死へと至る過程において、果たして能動的な選択過程に我が子を引き込むことが出来ているでしょうか。これは実は原理的には出来得ないものと筆者は考えます。何故なら、一度いわば無償の愛で、無意識のうちに我が子の先験的選択を幇助したのが、実の親というわけです。そして、それが擬制の関係ではないがゆえに、その親に今度は生から死への逆の先験的選択の幇助をやれというのは無理というものです。人は無意識のうちに2つの異なる心象を持つことは出来ません。ましてやそこに、医学という科学もかかわってきております。単に子どもを生み育てる自然的行為とは異なります。
そうなると、やはり養子の場合のように、第三者が擬制的な関係の中でその契機を作り上げねばなりません。医療関係者の中でもとりわけ患者と長い時間を共有し、実際の病院での生活場面でもっとも患者に近い存在としての看護師が、そうした逆の先験的選択の幇助を行うことがもっとも望ましいことではないでしょうか。その前提は、前段で述べた「最善の医療」です。より正確に言えば、最善の医療を提供しているという強いシンボリックな意思表示を看護において患者に与えることです。ここにアタリの言う、「象徴的な仕事としての看護師」の真の面目があると言えます。
次回は、今日の話の展開を踏まえて、患者の「修復行為」における医療の分業化、専門化から引き出される諸矛盾を乗り越えながら、象徴的な仕事を行うことでバーンアウトを回避するばかりでなく、医療行為のなかでの患者をとりまく今後のあり方まで展望した上で、看護師という仕事が将来変貌すべき方向性へと話を進めていきたいと思います。