中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「美しい言葉」というタイトルで飛島圭介さんが、エッセーを書かれていました。
災害とか事故などで多くの人が被害を受けたりすると、必ず「被災者と寄り添って、痛みを共有する」というような言葉が飛び交う。
あるいは、個人的な事故や生活上の悩みについても同様の美しい言葉が標語のように使われる。
ひねくれたことを言うようだが、他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできはしない。
人の痛みは、想像したり察したりはできても、その人と同じ痛みを自分が経験することは不可能だ。
これは、体の痛みも心の痛みも同じこと。
だいたい、「寄り添う」ってなに?
具体的に肩を抱いて励ますわけではなく、言葉上のことだけではないのか。
憂い顔で「お気の毒にねえ」と声を掛けるのと違いはあるのか。
他人の心身の痛みを、わがことのように心配し、同情するのは勝手だが、「寄り添って、痛みを共有する」といった美しい言葉を無神経に使ってほしくない。
思いは言葉ではなく行動で示すべきだろう。
「寄り添い」「痛みを共有」したいのなら、ボランティアに参加するとか、募金に応じるなど自分も心身に痛みを伴うことで本物の思いとなる。
そのとき言葉は要らない。
黙ってやる。
以上です。
>ひねくれたことを言うようだが、他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできはしない。
そうでしょうね。
他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできないでしょうね。
お医者さんがご自分がガンになって、初めて患者さんの苦しみが分かったと言われた文章を拝見したことがあります。
やはり他人の痛みはわからないでしょうね。
もし、他人の痛みが分かったとしたら、身体が持たないでしょうね。
人間、他人の痛みが分からないように出来ているのでは?
飛島圭介さんが言われるように、「『寄り添い』『痛みを共有』したいのなら、ボランティアに参加するとか、募金に応じるなど自分も心身に痛みを伴うことで本物の思いとなる。」。
これも一つの方法でしょうね。
Koji Tamaki「いのちの歌」Risa Ono