中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「縁むすび」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセイを書かれていました。
”合縁奇縁”(あいえんきえん)という言葉がある。
”縁は異なもの味なもの”と同じで、「縁」の不思議さを表している。
「縁」はもともと仏教用語だが、今は日本人の血肉と化した考え方となっている。
偶然の出会いが必然となるのは、人知を超えた天の廃材ともいうべき「縁」のなせるわざなのだ。
この時代に生まれたのも縁、父母も縁、同朋も縁、友人も縁・・・と書いていて気づいた。
これらは「運」と置き換えられそうだ。
しかし、「運」と「縁」は大きく違う。
たとえば「父母も運」は「親ガチャ」と同じことになり、あまり良い意味合いではなくなる。
その点「縁」は深い。
「縁あって2人は結ばれた」となると、2人の意思というより、目には見えない宇宙的な神秘を感じさせる。
「縁」は「円」と同じとおじさんは考えている。
円は丸で、大きくもなるし小さくもなる。
自分の円と他人の円との重なりが「縁」ではないか。
たくさんの円の重なりがさらに新たな縁を生み出す。
そんな円がより大きく、地球を覆うほどになれば人類は皆「縁者」となる。
ただ「縁」が「怨=悪縁」に変わることがある。
妙なことを書くなと「因縁」もつけられたくはない。
以上です。
>「縁あって2人は結ばれた」となると、2人の意思というより、目には見えない宇宙的な神秘を感じさせる。
いつも振られたばかりの私が、かみさんと結婚できたのは「縁があった」と思っていますが、喧嘩がしょっちゅうとなると「悪縁」かも知れないと思ったりします。
女性の怖さを、この歌で知りました。
石川ひとみ まちぶせ