まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

神仏霊場巡拝の道めぐり~王寺にて一泊

2025年03月07日 | 神仏霊場巡拝の道

2月22日、聖徳太子御忌にめぐる形となった神仏霊場巡拝の道。朝護孫子寺、法隆寺、中宮寺といういずれも聖徳太子に縁がある寺院を回ることができた(これに気づいたのは最後に法隆寺を後にする時だったのだが)。

JR法隆寺駅に移動した時点で夕方となり、この日の札所めぐりはおしまいとする。翌23日、まずは廣瀬大社に向かうことにして、大和路線の列車で王寺に移動する。この日は王寺で一泊である。

コインロッカーに預けた荷物の引き取りも兼ねて、駅隣接の商業施設「リーベル王寺」に立ち寄る。書店ではさすが地元ということで聖徳太子、飛鳥、平城京関連の書籍を扱うコーナーがある。その一方で、下のフロアでは北海道物産展をやっており、珍しいので自分土産として何品か購入する。奈良を訪れた土産が北海道産品というのもそれはそれで・・。

王寺駅の自由通路を通って駅の南側に出る。この日の宿は東横イン。これまで乗り換えで駅前に降り立ったことはあったが、宿泊となると初めてである。

玄関では犬の像とダルマ像が出迎える。まず犬のほうは、王寺町のキャラクター「雪丸」である。モデルとなった雪丸とは聖徳太子の愛犬で、人の言葉を解し、お経を唱えることもできたという。王寺町にある達磨寺に葬られたとある。

そしてダルマ。聖徳太子の伝説の一つに、飢えた人を助けるというのがあるが、この飢えた人というのが達磨大師の化身だったという説がある。この説から建てられたのが達磨寺だが、現在において達磨・・ダルマさんは必勝祈願、合格祈願になくてはならないものである。ちょうど受験シーズンの中ということもあり、王寺駅近辺では達磨寺、雪丸、ダルマさんで受験生を応援しているところだ。王寺駅の改札口や「リーベル王寺」の入口にも合格祈願のダルマさんが安置されていた。

チェックインして窓の外を見ると、王寺駅の構内が広がっている。ホームというより留置線側だが、引退間近の201系の姿も見える。特に指定したわけではないが、このところ、宿泊した部屋の窓から駅構内や鉄道の走行風景を見る機会が増えているように思う。ちょうど大阪に向かう特急「まほろば」も見ることができた。

さて、初めて王寺での一献である。駅の南口近辺もそれなりに居酒屋が広がっており、その中で訪ねたのが「ネオ居酒屋 なかい屋」。このところ「ネオ居酒屋」「ネオ大衆酒場」と「ネオ」を冠した店が増えているそうだ。昔ながらの大衆酒場の雰囲気、そこに新しいアレンジを加えたところが「ネオ」の意味だという。

店じたいも最近の開業のようだし、内装も明るい。カウンターに陣取ったが、土曜の夜ということもあってか、窓側、壁側を見ると若い客層が楽しく飲食している。そこに、予約の女子会グループも入って来る。この日がたまたまそうだったのかわからないが、私のようなおっさんのほうが少数派である。

「ネオ」とはいうが、メニューを見ると昔ながらの居酒屋一品料理もずらり並ぶ。定番メニューがラミネートの両面にあるうえ、本日のおすすめ1枚の都合3ページ。

こうした客を迎え入れる店員も若いが、このご時世らしく東南アジア系の人が多い。注文を取りに来た外国人店員の一人はまだ日本語じたいにも慣れていないようだが、このメニューを見て大丈夫かなと思う。それでもメニューの文字を指さして口頭で言うと通じたようだ。

これは「ネオ」とは関係ないだろうが、生け簀も設けている。刺身の盛り合わせを注文すると、そのうちの一品に生け簀からの車エビがあった。他のネタも鮮度は悪くなかったが、さすがに車エビは頭一つ抜けていた。

そしてこれも生け簀からのアワビ。小さいとはいえ、刺身か丸焼きを選ぶことができてこちらは丸焼きを選択。海のない奈良県で車エビとアワビを同時に味わえるとは。

大衆酒場メニューとして明太子だし巻き玉子。また飲み物も大衆酒場らしくチューハイ、そして宝焼酎に店名を冠した「なかい屋ハイボール」などで楽しむ。

店員に敬意を表するわけではないが、「ベトナム風春巻き」を注文。ここで気にする人が気にする「風」の一文字・・(広島にもそうした「気にする人が気にする」食べ物がありますな)。私の頭の中では、ベトナムの春巻き=生春巻きというイメージがあったが、出てきたのは揚げた一品。かといって中の具材は中国のものとは違うような気もするし・・まあ、美味かったのでいいでしょう。

締めは「三輪そうめんのペペロンチーノ」。いや、こちらのほうが問題でしょう。ただ実食すると、これは「あり」である。何なら自宅での食事でも、そうめん(三輪でも揖保でも小豆島でもどこでもいいが)を茹でて、そこにコンビニでも売っているペペロンチーノのソースをかけても成り立つ。これは「ネオ」だな。

十分満足して店を出る。この後は部屋でゆっくりとして、翌日の2月23日に残りの札所をめぐることに・・・。

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奈良14番「中宮寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・130(まずは法隆寺の続きから)

2025年03月06日 | 神仏霊場巡拝の道

この記事のタイトルは中宮寺となっているが、その前に法隆寺の西院伽藍、聖霊院を拝観した続きから書くことにする。

やって来たのは有料拝観エリアの一つである大宝蔵院。先ほどの西院伽藍が1300年以上の歴史を持つのとは対照的に、1998年に建てられたとあるからまだ30年と経っていない。法隆寺は多数の国宝、重要文化財を所有しており、安定した環境での保存、そして展示を目的とした建物である。

中に入るとまず出迎えるのは、大正時代の和田英作による「金堂落慶之図」の油彩画。鞍作止利が、完成したばかりの金堂の壁画に聖徳太子たちを案内した場面を描いている。もちろん当時の様子を想像して描かれたものだが、「これで我々も文明の国への第一歩を記しましたなあ」と聖徳太子がつぶやいているように見える。金堂は後に再建され、その時に壁画も描かれ、インドのアジャンターや中国の敦煌とともにアジアの古代仏教絵画として大切に保存されてきたが、昭和の戦後になって不審火で焼け焦げ、その価値は失われた(この火災が、文化財保護法が制定されるきっかけになったという)。後に東寺の著名画家により復元されて現在に至るが、この大宝蔵院には往年の写真パネル、そして焼け焦げを免れた壁画の一部も展示されている。

展示室には白鳳時代の夢違観音をはじめ、白鳳~平安時代に造られたとされる仏像の数々、飛鳥時代の玉虫厨子といった国宝、重要文化財が並ぶ。

そして中央の建物に百済観音像が祀られる。飛鳥時代の作とされるが詳細は不明のところが多く、その存在が記録で確認できるのは江戸時代、元禄の頃とあるから今から300年あまり前である。法隆寺の他の仏像とは顔かたちがエキゾチックということからか、当時の日本に文化的影響をもたらした百済の名前がつけられたようだ。

その他、さまざまな文化財を鑑賞後、境内を歩いて東大門から東院伽藍への広い参道を歩く。先ほどと同じような築地塀が続くのだが、こちら東院側は損傷が目につく。そもそも、西院から東院に行くのに門でしっかり仕切られているのも、法隆寺としては同じ寺として共通の拝観券を出しているが、「あそこはちょっと別」という扱いにも見える。

ともかく夢殿を一回り。

確かに、ネットでいろいろ調べてみると、先ほどまでのがっちりした西院伽藍と比べて、東院伽藍は聖徳太子にまつわる「陰」や「ミステリー」といった視点で取り上げられることが多いようだ。「聖徳太子の怨霊を鎮めるために建立された」というものもある。聖徳太子の怨霊とは何ぞや?というところもあるが、法隆寺にあって腫れ物扱いされているのかな。

ともかく、あらゆる角度から取り上げられる「聖徳太子」。少なくとも現在の教科書のように「厩戸のおっさん」で片づけたらあかんでしょう・・。

さて、東院伽藍に隣接して中宮寺がある。ようやく、この記事の本題に入る。

中宮寺は聖徳太子が母の間人皇后のために創建したと伝えられている。その後、尼寺として法隆寺とともに歴史を刻み、伽藍を有していたこともあったが、戦国時代の兵火により法隆寺の支院に避難した後はそのまま法隆寺の一角として、また門跡寺院として現在に至る。

それだけの歴史を持つ寺院なら昔ながらの建物があるかなと思いつつ境内に入ると、池の中にある本堂は新しい建物である。現在の建物は1968年、高松宮妃の発願で建立されたものである。さらに現在の姿は、クラウドファンディングにより2021年に改修されたものとある。

その本尊が飛鳥時代の菩薩半跏像である。聖徳太子の母である間人皇后をモデルにして造られたそうで、その表情はスフィンクス、モナ・リザと並び「世界の三つの微笑像」と称される。また、現存する日本最古の刺繍である「天寿国曼荼羅繍帳」の複製も祀られている。いずれも聖徳太子に関連する貴重な文化遺産である。中宮寺では秘仏とせず、外陣から実物を拝観することができる。

その前には聖徳太子の二歳像。手を合わせて「南無仏」と唱えたあの姿。季節によって着物を着させている。

受付に預けていた朱印帳を受け取る。本尊の菩薩半跏像は如意輪観音との位置づけである。

これで法隆寺、中宮寺の参詣を終え、再び東大門から西院伽藍の参道を経由する。先ほどは雪も舞っていたがまた青空が広がる。季節の変わり目を感じる一時であった。

その帰り道、「聖徳宗」という札を見かける。聖徳宗とは聖徳太子を宗祖として昭和の戦後に法相宗から独立した宗派で、法隆寺はその総本山である。行事案内に「聖徳太子御忌 二月二十二日」とある。2月22日・・・正に訪れたこの日であるということにここで気づいた。ただ、時間的にそうした法要の後だったのかもしれないが、法隆寺、中宮寺では特別の日という感じはしなかった。同じく聖徳太子が開いた歴史がある四天王寺(こちらは戦後に天台宗から独立した和宗の総本山)では、庶民信仰をウェルカムとした長い歴史もあり、現在の2月22日を縁日として諸堂も開放されていたようで・・。

さて帰りだが、法隆寺参道バス停から奈良交通バスでJR法隆寺駅まで揺られる。歩こうと思えば歩ける距離だったが・・。

コンコースに上がる。と、その窓に法隆寺の仏像のように掲げられているのは、バファローズ・曽谷投手の横断幕。法隆寺がある斑鳩町出身で、2024年は先発ローテーションに定着して7勝。この横断幕はそのオフに斑鳩町役場を表敬訪問した時のもののようで、直筆サインも入っている。

チームはオープン戦に入り、3月終わりにはいよいよシーズン開幕である。バファローズは投手陣の顔ぶれは多彩だが、ここに来てブルペン陣の故障、不祥事による離脱が相次ぎ、先発転向が予定されていた私の勤務先企業出身の古田島も再びブルペン陣に回ることになっている。それだけに、曽谷には先発の柱として試合をしっかり作り、勝ち星をあげること(少なくとも2024年の7勝11敗の逆になるように)が期待されている。

聖徳太子のご加護がありますように・・・。

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奈良13番「法隆寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・129(聖徳太子・・・)

2025年03月05日 | 神仏霊場巡拝の道

2月22日、神仏霊場巡拝の道は午後になり、この日2ヶ所目となる法隆寺に向かう。王寺からJR大和路線で1駅、王寺に向かってもよいのだが、駅からはそれなりに歩く。先ほど信貴山朝護孫子寺に行く同じ乗り場から法隆寺方面へのバスが出ており、これまで乗ったことがないバスルートで行ってみよう。

国道25号線に合流し、王寺駅から20分弱で法隆寺前に到着。ここから、松並木の参道を歩く。

法隆寺に来るのはいつ以来だろうか・・というくらい久しぶりである。子どもの時は遠足で来たり、家族で来たりはしたが、逆に大人になってからはいつ来たかな?というものである。少なくとも、このブログで取り上げている関西の札所めぐりで登場するのは初めてである。

法隆寺といえば・・歴史の教科書では必ず取り上げられるところであり(あ、でも最近の歴史の教科書では「聖徳太子」という言葉は出てこないから、法隆寺もどうなのだろうか)、今さら解説することもないだろうが、これまでの観音霊場や薬師霊場、不動尊霊場では全く登場しなかった寺院である。聖徳太子が創建したと伝わる寺院はいくつもあるが、その中の一つである四天王寺がいくつもの札所めぐりのスポットとなっているのとは対照的である。境内の雰囲気も対照的だ。

南大門をくぐると西院伽藍のそうそうたる建物が出迎える。外国人観光客の姿も目にするが、京都や奈良の中心部のようにインバウンドの連中が我が物顔に幅を利かせるというのとは一線を画しているように思う。

そこに、平山郁夫が揮毫した「日本最初 世界文化遺産」の石碑である。法隆寺が日本初の世界文化遺産として姫路城とともに登録されたのは1993年。世界最古級の木造建造物であること、また仏教文化を現代に伝えていることが評価されてのことである。当然そこには日本に仏教を定着させようとした聖徳太子の思いも受け継がれている。

まずは伽藍を拝観しよう。法隆寺の拝観料だが、西院伽藍、大宝蔵院、そして夢殿がある東院伽藍の共通で1500円。共通といっても例えば西院伽藍だけなら1000円・・というものではなく、セット券のみである。

・・・なお、私が訪ねた2月22日はこの料金だったが、翌週の3月1日から2000円と一気に値上げとなった。確かに広大な境内の維持には必要なのかもしれないが、さすがに一寺院の拝観に2000円という事態に対して、参詣に二の足を踏む人もいるのではないかと心配する・・。

拝観料が気になるとはいえ、やはり伽藍の中に入り、五重塔をはじめとした建物を見るとうなるばかりである。法隆寺は聖徳太子が創建したとされるが、その後火災により焼失。現在の伽藍はその後の再建である。それでも、往年の様式を伝えていることには変わりない。五重塔の最下層の扉からは、心柱を囲む形で釈迦の説話の場面を表現した塑像を観ることができる。

五重塔の東に建つ金堂へ。釈迦三尊像を祀る法隆寺最古の建物で、実質ここが本堂といえる。

奥の大講堂に向かう。大講堂の前から振り返ると、五重塔、中門、金堂というこちらもそうそうたる景色が広がる。大講堂には薬師三尊像が祀られている。

しばらく大講堂にいたが、外に出ると何と雪が舞っていた。この日(2月22日)は関西の天気も不安定との予報だったが、まさか雪になるとは・・。

伽藍を後にして、隣接する聖霊院へ。こちらは後の聖徳太子信仰の高まりにより鎌倉時代の建立だが、国宝に指定されている。聖徳太子を中心に、山背大兄王や高句麗の恵慈法師などが祀られている。聖徳太子関連の行事や法要はここ聖霊院で行われるのだという。

法隆寺の朱印はここ聖霊院での受付である。墨書は「以和為貴」。聖徳太子が定めた「憲法十七条」の第一条に記された文字である。和を以て貴しと為す・・・現在のような混沌とした、不安な世情を鑑みても、改めてこの言葉が持つ意味も大きいのではないかと思う。

先ほど訪ねた信貴山朝護孫子寺もそうだったが、聖徳太子も関係した歴史がある寺院は全国のあちらこちらにある。確かに後の世における聖徳太子信仰によるところも大きいのだろう、ただ一方、近年に「聖徳太子は実在しなかった」という説が幅を利かせ、現在の学校では「聖徳太子」という人物については教えないのだという。

歴史の教科書はその時代によって都合よく書き換えられるのだが、聖徳太子もその渦中の一人といえるだろう。昭和には数種類の紙幣の肖像画にも選ばれた聖徳太子だが、令和の現在では「厩戸王」という、その辺のおっさんの一人の扱いでしかないそうだ。

なぜ、そうなるかな・・・。ようわからん。

法隆寺はこの先、大宝蔵院、夢殿を含む東院伽藍があるが、次に訪ねた中宮寺と合わせてまとめることにする・・・。

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奈良17番「朝護孫子寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・128(寅・虎・トラ)

2025年03月04日 | 神仏霊場巡拝の道

奈良県西部をたどる神仏霊場巡拝の道めぐり。まずはJRの王寺駅に到着して、まずはどの順番で訪ねようかというところ。とりあえず、王寺駅に直結した商業施設「りーべる王寺」に100円のコインロッカーがあり、そちらに宿泊荷物を預ける。

ここはまず、西にある信貴山朝護孫子寺に向かうことにする。王寺駅の北口からバスが出ているので向かうと、長い列ができている。法隆寺方面へのバスも同じ乗り場から出るので、それを待っているのかと思うとそうではない。先に信貴山行きのバスが入ると次々と乗車する。臨時の続行便を出すとの案内もある。

信貴山ってそんなに人気のスポットだったかな?と思いつつ、続行便に着席して出発する。大和川を渡り、近鉄の信貴山下に着くとここからも大勢の客が乗って来る。バスが高度を上げて走るうち、混雑の理由がわかった。

訪ねたのは2月22日だが、ちょうどこの日と翌23日、朝護孫子寺では「信貴山寅まつり」なるものが行われており、それを目当てに訪れる人が多かったようだ。

この朝護孫子寺は「寅」にゆかりがあり、寺のほうも「寅のお寺 信貴山」としてPRしている。伝承では、聖徳太子が寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの山で毘沙門天を感得し、後に毘沙門天の加護により、仏教導入に反対する物部守屋を討伐したことから、改めて毘沙門天を祀り、「信ずるべき貴ぶべき山」と名付けたのが始まりとされる。

この寅の月というのは旧暦の正月、現在のカレンダーだと2月に当たる。そのため朝護孫子寺は2月を書き入れ時・・もとい縁起のよい月として多くの参詣者を集めるスポットとなっている。これは事前に予習したことでなく、現地に来て知った次第。それだけに余計めぐり合わせの良さを感じた。

神仏習合の名残か、境内のあちこちで鳥居も見える。そして、縁起物である張り子の寅が奉納所に山積みにされている。

・・・これは言わずもがななのだろうが、寅に縁がある寺ということで、朝護孫子寺は阪神タイガースの必勝祈願のスポットである。この3月にはタイガースの応援団が朝護孫子寺にやって来て応援歌をがなり立てるという告知もある(・・・うっかりその日に参詣して、タイガースのキ○ガイ連中と鉢合わせに・・ということがなくてよかった)。

そして朝護孫子寺の「映え」スポットである「世界一福寅」へ。

聖徳太子の像もあり、本堂に行く前にいくつかの塔頭寺院がある。寺の縁起としては聖徳太子が開いたとされる朝護孫子寺だが、本格的な寺院として伽藍が整備されたのは平安前期、命蓮上人による。この命蓮上人が当時病にかかった醍醐天皇を祈祷で治癒させたことから、朝護孫子寺の名前を賜ったという。

その後、信貴山は松永久秀が城を築き、織田信長と争う中で焼失したが、江戸時代に復興、現在にいたっている。朝護孫子寺の本尊は毘沙門天だが、毘沙門天が七福神の一つということで境内全体が七福神めぐりの要素もあるようだ。さらに、現在は真言宗の寺院として弘法大師像もあれば四国八十八ヶ所のお砂踏みもある。つまりは信貴山全体でさまざまなご利益が授かるよう、幅広くウェルカムということで・・。

ようやく本堂に到着。寅の月の間は本尊毘沙門天も御開帳とある。ただし祈祷中は拝観できないそうで、訪ねた時はちょうど祈祷の真っ最中。まあ、御開帳目当てではないので、外陣にてお勤めとする・・。

改めて周囲の景色も圧巻である。

本堂の脇にある霊宝館に立ち寄る。信貴山といえば平安時代の絵巻物「信貴山縁起絵巻」という国宝にも指定されている絵巻物がある。絵巻物の原本は奈良国立博物館にて保管されており、ここ霊宝館では複製が展示されている。「信貴山縁起絵巻」で描かれるのは朝護孫子寺の中興の祖である命蓮上人に関する説話。

中でも有名なのは「山﨑長者の巻」である(画像は奈良国立博物館のホームページから引用)。信貴山で修行していた命蓮上人は法力で鉢を飛ばしてお布施を受けていたが、それを疎ましく思った山崎長者はその鉢を米倉の中に入れて鍵をかけてしまう。すると米倉が揺れ、中から鉢が出てきてその倉を乗せて空へと飛んでいく。長者たちがその後を追うと命蓮上人のところにたどり着き、許しを請うことに。命蓮上人は倉は返せないが米俵は返そうとして、今度は鉢が大量の米俵を連れて空を飛び、長者の屋敷に戻った。この絵巻では命蓮上人の法力に驚き、慌てふためく人たちの表情や仕草が生き生きと描かれている。

霊宝館には聖徳太子の生涯の絵伝もあり、毘沙門天を篤く信仰した楠木正成が使っていた兜や菊水の軍旗、また諸仏も展示されている。先ほどの縁起絵巻ともども、霊宝館じたい見どころあるスポットといえる。

それにしても、何せ全体が広い。塔頭寺院が集まる中さまざまな神仏が祀られており、昔から多くの信仰を集めてきたところなのだなと改めて感じた。結局今回立ち寄ることができなかったエリアもあり、正直、ここまで規模が大きいとは思わなかった。この先もあるので、今回は寅・虎・トラの関連、本堂、そして霊宝館を訪ねたことでよしとする。

納経所で、先ほど預けた朱印帳を受け取る。墨書には毘沙門天の文字。

復路も満員のバスで王寺駅に戻る。すでに昼を回っている。この日は駅直結の「りーべる王寺」の地下にて豚カツの昼食とする。私の場合、特に旅先では昼飲みはあっても昼食を飛ばすことが多いのだが、その中で珍しく豚カツ店での食事である。いつ以来だろうか・・というくらいのものだ。信貴山にお参りした後ということで生ビールもいただき、セットにカキフライも追加した。調子に乗っててんこ盛りにするのも体に良くないのだが・・。

そして、すっかり午後になって札所めぐりの続きである。先ほどと同じバス乗り場から、次は日本最初の世界遺産である法隆寺を目指す・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~今回で奈良県をコンプリート

2025年03月01日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の神仏霊場巡拝の道めぐりの目的地は奈良19番・當麻寺。今回、実家沿線の近鉄南大阪線に乗ることになる。最寄りの駅名の字は「当麻寺」だが、寺としての名称は「當麻寺」である。そして當麻寺に行くなら、二上山を挟んで西、太子町にある大阪16番・叡福寺も合わせて訪ねることにしよう。

ところで、特別霊場の伊勢神宮から始まり、滋賀の比叡山延暦寺まで154の札所がある中、残りも30ヶ所を切った。ある程度エリアごとに固まっており、そろそろ追い込みもかけたいところだ。今回は當麻寺が目的地だが、いっそのこと1泊コースにして、他に奈良県内に残る札所を回りきろうかと思う。他に残っているのが奈良13番・法隆寺、14番・中宮寺、17番・朝護孫子寺、18番・廣瀬大社と、西部に集まっている。

地図を見ると、この辺りを一度に回るならJR王寺をベースにするのがよさそうだ。ちょうど駅前に東横インがあり、初めての宿泊地を増やすという意味でも面白そうである。

ということで2月後半の3連休を活用して出かけることに。まずは広島6時20分発の「ひかり500号」に乗る。「バリ得こだま」プランで新大阪に向かう始発列車である。

さすがに広島発車時点では指定席もガラガラなのだが、この水色のシートが並ぶ光景、先日、YouTubeでプレイ動画を観たホラーゲーム「新幹線0号」を連想する。新幹線車両の中で「異変」を探しながら運転台を目指すゲームなのだが、単なる間違い探しではなく数々の怪奇現象も発生するというもの。

・・もちろん、現実の新幹線ではそのようなことは起こらず、3連休の初日ということもあって各駅に停まるごとに乗降があり、新大阪に着く頃には着席も多く、ホームにも乗客があふれていた。

在来線ホームに向かう。まずは今回の拠点となる王寺に向かう。新大阪からだとJRおおさか東線で久宝寺に出るのが近道である。JRも大阪・新大阪~奈良間でおおさか東線経由の臨時特急「まほろば」を運行しているが、この3月からは定期運行、そして車両もリニューアルされるという。ああ、それならもう少し時季を遅らせてもよかったかな・・。

王寺に到着。久宝寺から快速に乗れば次の停車駅だが、先にやって来た普通列車の車両を見て、こちらで行くことにした。201系、かつて首都圏、京阪神で「国電型」として活躍した車両である。現在はここ大和路線・おおさか東線にわずかに残るだけだが、それらの車両も2024年度中・・・つまりはこの2025年3月に完全に引退するとのこと。マークしていたわけでなくまったくの偶然だったが、実質最後の乗車となるだろう・・。

大和川に沿う中で奈良県に入り、王寺に到着。さてこの後、どのような順番でめぐることにしようか・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第94番「大日寺」(久留米のかっぱ寺、そして久留米での一献)

2025年02月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは鹿児島線で久留米に到着。これで東九州から南九州にかけての九州一周ルートがたどり着く形になり、ここからは佐賀、長崎方面の西九州に入る。

コンコースに出ると酒樽が出迎える。訪ねた日(2月11日)の次の週末、久留米の城島地区にて「城島酒蔵びらき」というイベントが行われるとある。不勉強なもので初めて目にする地名だが、案内によれば灘、伏見、西条と並ぶ酒どころだという。

これから目指すのは第94番・大日寺。地図を見ると、歩こうと思えば歩けるし、ちょっと遠いかなと思えば遠いという微妙な距離。バスの便もあるが、久留米駅に着いた時点では間隔が空きすぎている。穏やかな気候だし、30分ほど歩けば着くかなというところなのでそのまま向かうことにする。バス乗り場がある東口に来たが、再び自由通路を渡って駅の西口に出る。

久留米駅の西には筑後川が流れており、長門石橋の歩道を歩いて渡る。ちょうどこの辺りは川幅も広く、河川敷にゴルフのショートコースも設けられている。九州新幹線、鹿児島線の橋脚もあり、ちょうど特急「ゆふいんの森」が橋を渡るところであった。

橋を渡ると長門石の町並みに入る。この辺りは筑後川を挟んで右岸が佐賀県、左岸が福岡県なのだが、ここ長門石地区は右岸に飛び出ている形になっている。その逆に、佐賀県に属するが筑後川の左岸に位置する地区もある。ひょっとしたら昔は筑後川も蛇行しており、その跡に合わせて佐賀県、福岡県が決まったという歴史でもあるのかな。

住宅地に入り、市営住宅を左に見ながら歩くうち、大日寺に到着。山門や境内があるわけではなく、住宅と本堂が合わさった建物である。正面の扉は閉まっており、不在にしている旨の貼り紙がある。朱印は玄関前の箱に入っていたのでセルフでいただく。

大日寺は1985年、檜枝淳心尼により開かれた寺院で、その名のとおり大日如来を本尊としている。ちょうど玄関前に大日如来像が祀られており、こちらでお勤めとする。九州八十八ヶ所百八霊場の公式サイトでの紹介によると、元々この辺りはのどかな田園地帯だったのだが、後になって宅地化が進んだとある。

また大日寺は「かっぱ寺」の愛称があり、建物の周りにはかっぱの像が並び、かっぱの好物であるきゅうりを形どった風鈴もある。久留米といえばかっぱにまつわるさまざまな伝説があり、その中でも筑後川にはその昔、九千坊河童という一族が棲んでいたという。元々熊本にいたのだがあまりの傍若無人ぶりに加藤清正から追われ、人畜に悪さをしないことを条件として久留米の有馬氏から筑後川に棲むことを許された。それ以後、筑後川の守り神になったとされる。

さて、今回の筑後シリーズで福岡県の南部も終了し、さらに数キロ行けば佐賀県に入り、第60番・龍王院がある。今からでも行こうと思えば行けそうだが、ただ今回はきりよく福岡県側で終了し、佐賀県へは次回から改めての訪問とする。ちょうど、札所めぐり以外のお目当てがあり、その日程に合わせて佐賀に向かうことにする。

帰りはたまたまタイミングよくバスが来たので乗車し、筑後川を渡って久留米駅に戻る。東口ではタワーマンションの建設工事が始まっているところ。そのロータリーにはからくり太鼓時計、世界最大級のタイヤ(ブリヂストン創業の地ということで)、「とんこつラーメン発祥の地」碑などが並ぶ。

今回は日帰りでのお出かけで筑後エリアでの宿泊とはならなかったが、帰りの新幹線の時間まで一献としよう。久留米でも賑わっているのは西鉄久留米のほうだが、そこまで移動することもなく、ちょうど駅直結の「えきマチ一丁目」にある「魚々路(ととろ)」に入る。土日祝日は昼間から営業のようだ。チェーン店のようだが、その店舗の場所が北海道の札幌、釧路、静岡の三島、愛知の刈谷、そして福岡の久留米・・・とばらばらである。

単品飲み放題があり、そちらでいただきましょう。筑後キャンプ見学と札所めぐり、結構中身が濃いものになった。

まずは前半戦、刺身の三種盛り、とり天おろしポン酢、ネギ冷奴をいただく。

そして後半戦。こちらの店は焼き鳥、海鮮浜焼きが売りとある。焼き鳥は盛り合わせとして、海鮮も単品で注文。人数が多い場合は自分で卓上料理もできるそうだが、ここは店の方が焼いたものを出してくれた。

・・何だかあっさりした書き方になったが、飲みのほうはこの後サワーものをいろいろ飲んで元は取ったし、まあ、新幹線の時間までのつなぎでこれだけのものを口にできてよかった。

その「魚々路」を出た後、同じ並びにあるラーメン店「満一」に入る。このところ「飲んだ後のラーメン」というのは控えるようにしているのだが、先に「とんこつラーメン発祥の地」というのを見たものだから、まだ明るい時間だし、夕食としてラーメンもいいでしょう。

これで久留米の味を楽しんだということで、筑後シリーズの終わりとする・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第10番「不動寺」(こんなところに第10番)

2025年02月27日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりはホークスの筑後キャンプ見学後、筑後船小屋から久留米に向かうルート。筑後船小屋駅、そしてタマスタ筑後のすぐ近くにある第59番・光明寺に参詣後、鹿児島線の列車に乗る。

筑後船小屋の次は羽犬塚。筑後市の中心駅である。今回筑後に来るにあたり、せっかくなので泊まったことがない筑後市で1泊、翌日にその先のエリアと合わせての札所めぐりというのも検討したが、今回は結局日帰りとした。羽犬塚には新幹線の駅はないが、鹿児島線の区間快速で羽犬塚行きというのがあり、それで何となく印象に残っている駅名である。

それにしても、筑後市の九州新幹線の駅が羽犬塚ではなく筑後船小屋に設けられたのはなぜだろう。新大牟田や新玉名のように在来線の駅から離れているわけでもなく、羽犬塚駅のすぐ横を通っている。周辺の人の利便性なら羽犬塚に新幹線駅を設けたほうが需要がありそうだ。筑後船小屋にホークスのファーム本拠地があるから・・という向きもあるだろうが、できた順番として逆である(筑後船小屋駅があることがファーム本拠地の誘致にプラスになったことはあるかもしれないが)。

羽犬塚の次の西牟田で下車する。筑後船小屋から九州新幹線の高架とずっと並走しており、新幹線の走行音もすぐ横で響く。大牟田、西牟田と似たような駅名が続くが、この「牟田」というのは、湿地を開墾した土地という意味とのこと。現在は簡易な駅舎があるのみだが、かつては貨物の取り扱いもあったそうだ(駅周辺にある程度の空き地が広がっているのは昔の名残だという)。

ここから、第10番・不動寺を目指す。案内板があり、住宅の間の狭い道を行くとほどなく到着する。

さて、これまで九州八十八ヶ所百八霊場をたどり、先ほど訪ねた光明寺は第59番、そして第89番以降の後発組の札所も100番台に入っている。それがいきなり第10番とは・・。この九州八十八ヶ所百八霊場めぐりにおいては特に札所番号順にこだわっているわけではないが、久留米より南にあることで九州一周として後に残ることになった。

この不動寺はいつ頃からあるだろうか。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの公式サイトによると、凰令尼という人が仏教の聖地であるインドのブッダガヤにて不思議な体験とともに「釈迦の教えを広めよ」との釈尊の言葉を授かったことで、この地に寺を建てたとあるが、それがいつの頃か書かれていない。現地に行ってみて、案内板にて1970年の建立であるとわかった。

不動寺という名前にあるように本尊は不動明王だが、九州八十八ヶ所百八霊場のほかに九州三十三観音霊場、九州二十四地蔵尊霊場の札所でもある。寺じたいの歴史は50年あまりとはいえ、積極的に活動しているといえる。

本堂の扉は閉まっているので外からお勤めとして、「納経所」の貼り紙がある小さなお堂に向かう。こちらに不動明王の石像とともに、各札所のセルフ朱印、書き置き朱印が用意されている。先ほどの光明寺に続き、自分で納経帳に押印。

このお堂を囲むように四国八十八ヶ所の本尊石像や十三佛が並ぶ。これはどこかから持って来たものかな。

この後、西牟田から鹿児島線の列車で久留米に到着。以前にも久留米を経て筑後の札所をめぐったこともあり、ようやくここまで戻ったかという気持ちである。

久留米から筑後川を渡り、少し進んだところに第94番・大日寺がある。次回のルートは久留米から佐賀へと向かう予定なのでその時に回ればよく、今回で九州一周のコマが久留米まで進んだということでおしまいにしてもよいのだが、さすがにまだ時間がある。帰りまでもう1ヶ所、大日寺を訪ねることにするか・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第59番「光明寺」(キャンプ見学の後で札所めぐり)

2025年02月26日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

先ほどまで札所めぐりといいながらホークスのファームキャンプの記事が続いていたが、これを拙ブログにアップする頃はオープン戦も始まり、キャンプも打ち上げる球団も多い。ペナントレースの開幕も待ち遠しいところだ。

午前中の練習が終わり昼休憩となったところで、私もタマスタ筑後を後にする。スタジアムの雰囲気は十分楽しめた。午後の部は本題である九州八十八ヶ所百八霊場めぐりということで、まずは第59番・光明寺に向かう。タマスタ筑後の入口から駅ではなく南のほうに歩く。スタジアムからのBGMを背に集落の中をほんの2~3分ほど歩くと寺の敷地に着いた。

一応正面は境内の南側ということでいったん通り抜け、堤防に向かって立つ山門から改めてお参りとする。ちょうど、筑後船小屋駅の新幹線ホームの南端も目に入る。

光明寺が開かれたのは奈良時代、聖武天皇の勅願により行基が千手観音を祀ったのが始まりとされ、筑後市では最も古い寺院と伝えられている。山門が川の方向(現在は堤防の方向)を向いているのは、目の前の矢部川の水運と何かしら関連するのだろうか。

本堂の前に、石造りの九重塔一対が建つ。このうち東側の塔は鎌倉時代のもので、平重盛が諸国の寺に寄進したものの一つだという。もう一方の西側の塔は江戸時代、久留米藩の有馬氏により寄進されたという。現在の本堂も江戸後期の再建とある。

本堂の外陣に入ることができ、ここでお勤めとする。朱印はセルフ式でいただく。

境内には大師堂があり、その周囲には四国八十八ヶ所の本尊が安置されてお砂踏みができる。石仏が奉納された年代を見ると結構年季が入っているようだ。

・・・キャンプ見学と比べるとあっさりした記述になってしまったが、これで九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの一つを終え、筑後にも足跡を残すことができた。

次の久留米、鳥栖方面の列車まで少し時間があるので、筑後船小屋駅の周辺をもう少し見てみる。船小屋の地名は、筑後国の中でこの辺りは立花氏の柳川藩の領地で、矢部川の河川工事用の舟を格納する小屋が設けられたことからつけられたという。元々鹿児島線の船小屋駅は現在地から北にあったのだが、筑後広域公園の整備と九州新幹線の開業に合わせて現在地に筑後船小屋駅が移設された。そこに、ホークスのファームの誘致である。

高架橋の向こうに九州芸文館という建物がある。地域の伝統工芸や芸術文化の学習、体験スポットである。この時も美術展が行われていたが、時間の関係でフリースペースをのぞいただけだった。その中で、タマスタ筑後オープン記念で寄贈された王貞治会長のサイン入りバットと、本多雄一、川﨑宗則両選手のサイン入りユニフォームも展示されている。

そろそろ時間になったので鹿児島線のホームに向かう。駅のホームからスタジアムが見えるというのもテンションが上がりそうだ。午後からの練習も間もなく行われることだろう。またいずれ、札所めぐりとは関係なく訪ねたいなという思いを胸に、鳥栖行きの列車に乗り込む・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~筑後キャンプをもう少し見学

2025年02月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

タイトルにはようやく札所の名前が出てきたが、もう少し筑後キャンプの見学記を。

今後はメインスタジアムのスタンドからグラウンド全体を見てみよう。ちょうどこちらでは打撃練習が行われているところ。本来のバッターボックスの他に、ネット裏、ファウルグラウンドでも打球音が響く。

こちらでは外国人選手が練習中。こちらも育成選手で、見守るのは斉藤3軍監督。近年、多くの球団に育成契約の外国出身選手が在籍しているが、後ろで見守るシモンはドミニカ出身でまだ20歳、そしてバットを振っている同じドミニカ出身のアルモンテにいたってはまだ17歳である。さらに驚いたのは、入団は2024年だから16歳、日本でいえば高校1年生の時である。今のNPBは育成選手もドラフト会議で指名されなければ入団できないし、そもそも16歳での指名はあり得ないのだが、外国人選手の場合はまた違うのだろう。

もしアルモンテが2025年シーズンに大ブレイクして支配下登録、そして1軍で「18歳の4番打者」を塗り替える「17歳の4番打者」てなことになると面白いと思うが、さすがに現実にはそこまでのことにはならないだろう。それにしても、ホークスとして何年後の活躍を期待しているのかは知らないが、こうした選手を受け入れられるだけの環境があるのはさすがだと思う(一方で、毎年多くの選手が入団するぶん、育成のまま見切らざるを得ない選手も多いという面もあるのは仕方がない)。

ちょうど昼時。スタジアムの売店も営業しており、せっかくなので生ビールと、肉と丸天が入ったホークスうどんをいただく。

さてグラウンドでは打撃練習のネットが片付けられる。ここからは「ライブBP」の時間。このところ野球関連の記事で「ライブBP」という言葉を目にすることが増えたように思う。BPとはバッティング・プラクティスの略で、つまり実戦形式の打撃練習のことだが、これまで呼ばれていた「シートバッティング」とはどう違うのだろうか(メジャー流にそう呼んでいるだけ?)。

ここで登板した投手は星野。かつてダイエー時代に星野という投手がいたなと思い出すが、マウンドに立っているのはその息子だという。

VIPチケットの特典のリストバンドがあるので、内野スタンドからフィールドシートまで行くことにする。最前列の背もたれに「VIP席」のカバーが掛けられており、午前中にツアーでご一緒した方も座っている。あくまで実戦を想定した打撃練習のため、打者がポンポンといい当たりを飛ばすわけでもなく、また投手もいろんな球種、コースを試すのでストライクもあればボールもある。

打球がファウルになった後、投手に次のボールを渡すのは的山コーチ(拙ブログに出るのは3回目)。

練習を見ていたが、ライブBPとは実戦形式といってもシートバッティングのようにストライク、ボールのカウントを取るわけでもなく、規定の投球数に達するとその時点で投手も交代するようだ。

フィールドシートもいいが、グラウンド全体を眺める場所にも行ってみる。ちょうどうってつけなのが「関家具グループシート」。内野スタンドの上段で、テーブルもあり家族やグループで観戦するのに持ってこいだ。

スタンドの外から歓声が起こる。選手の出待ちでもあるのかなとのぞいてみると、室内練習場への通路で選手にサインをお願いするファンの声である。その相手は、ケガで1軍キャンプを離れ、リハビリ組として筑後で調整中という川瀬。この日はバレンタインデーに合わせたファンサービスに登場したとのことだ。

そうするうちにグラウンドの選手も引き上げる。ライブBPや個別練習はこの後も続くが、ここで午前の練習は終了のようだ。

結局、朝9時前にタマスタ筑後に到着し、3時間半ほどをスタジアム見学、キャンプ見学で過ごすことになった。スケジュールの関係でブルペンでの投球練習を見ることはなかったが貴重な一時であった。こうなれば、いずれはウエスタンリーグの公式戦も観戦してみたいものである・・。

さて、ようやく本来の目的である九州八十八ヶ所百八霊場めぐりである。目指すのは第59番・光明寺だが、筑後船小屋駅に戻ることもなく、タマスタ筑後からそのまま南に歩いてすぐの集落の中にある・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~タマスタ筑後の施設見学ツアー

2025年02月24日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

札所めぐりと絡めてホークスの筑後キャンプ見学に来ている。まずはグラウンドに下りて選手に近い位置でウォームアップを見ることができた。

そして、施設見学ツアーである。キャンプ中ということもあって30分おきに行われており、その時々の練習メニューを見ることができる。

私が参加した回は子どもも含めて10人ほど。また正面玄関から入り、三塁側ベンチに向かう。

グラウンドでは投内連携プレーの練習中。係の人から「お静かに見学してください」との声がかかる。投球前に、「1アウト、2塁」というようにシチュエーションの声があり、その場面、打球に応じた守備を行うものである。バッターボックスに立つのは的山コーチで、投手が投げた後にノックバットで守備位置に打球を飛ばし、内野手がシチュエーションに応じた送球を行う。バント処理の練習もある。千本ノックのような派手な動きがあるわけではないが、実戦形式の練習もレベルアップに大切。

ベンチで練習を見た後、奥にあるミラールームに向かう。素振りとともにフォームをチェックできるところ。

ロッカールームも見せてもらう。こちらビジター側にはシャワー室があるが、ホームのホークス側にはないとのこと。同じ敷地にクラブハウスがあるので、入浴はそちらでゆっくり、ゆったりということだ。

スタジアムの玄関には、タマスタ筑後が開場した2016年度以降の新入団選手発表の写真とサイン色紙が飾られている。ここで係の人が指差すのは2018年度(2017年ドラフト)の新入団選手。この年から育成指名のサインも書かれているのだが、その中に「121 周東佑京」の文字がある。サインというより「署名」だ。この辺り「本指名ではなく育成指名」ということで控えめにしたのかな。

ホークスの育成指名といえば千賀、甲斐、牧原といったところがすでに活躍しているが、タマスタ筑後からの出世頭ということで特に紹介された。なおこの年の同じ育成入団選からは、大竹(現役ドラフトでタイガースに移籍して活躍)、リチャード(毎年何やかんやで期待されているが・・)といったところが出ている。ホークスの場合、毎年大量に育成指名があるかと思えば、一方でFA、メジャー帰りなどでの主力補強も抜かりない(その一方でFAや現役ドラフトで移籍し、その後活躍する選手も多いが)。

一番下に今季入団の選手の写真、サイン色紙がある。これらの選手の今後の活躍やいかに。

続いては室内練習場。国内最大級の広さを持つといい、屋根裏階段のキャットウォークから全体を見下ろす。

ブルペンは無人だったが、隣の打撃ゲージではバーチャル映像の投球マシン相手に打球を響かせる選手がいる。そのスクリーンに映るのは、あの左脚の上げ方からして今季ドジャースに入団した佐々木朗希のようだ。

グラウンドには最新鋭のピッチングマシン「アイピッチ」が置かれている。データを入力することで様々な投手の球種や球筋を再現できるという優れもの。1台は現在宮崎の1軍キャンプに出張中という。こういうマシンで鍛えていればどんな投手も攻略できるように思えるが、実際は勝負の駆け引きもあり簡単に打てないのが野球という競技である。

最後はサブグラウンドへ。一塁後方からグラウンドレベルで眺める。甲子園球場と同じ阪神園芸出身の方がグラウンドキーパーをしているという。真夏の筑後は当然猛暑なのだが、それでも人工芝のメインスタジアムと比べると体感温度はかなり低く感じるそうで、あえてこちらで調整する選手も多いのだとか。

サブグラウンド横のクラブハウス、選手寮の説明があり、施設見学ツアーはここで終了。係の人からは、ぜひタマスタ筑後のウエスタンリーグ観戦に来てほしい、そして観るなら夏のナイトゲームがお勧めと言われる。試合が始まり、筑後平野に夕日が沈む頃合いがよいのだとか・・。

改めて、充実した施設に感心した。また周囲を見渡すとある意味「何もない」エリアなので、若手選手が野球に打ち込む、修行するには適している。ファーム施設を雁ノ巣から移転するに当たり、九州各地から誘致の手が挙がった後、福岡市、北九州市、宮若市、そして筑後市に絞られたが、決め手となったのは「育成にふさわしい環境」だったという。そしてその判断は成功している。

さてこの後だが、メインスタジアムでの練習をスタンドから観ることにしよう・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~ホークス筑後キャンプでグラウンドに立つ

2025年02月22日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは筑後シリーズ、まずはホークスのファームキャンプが行われているタマスタ筑後に到着。九州新幹線、鹿児島線の筑後船小屋駅からすぐのところである。

到着したのは8時45分、今回は午前中をキャンプ見学に充て、午後から筑後の札所をめぐり、久留米から新幹線に乗るつもりである。それにしてもこの早い時間に到着したのは、特別チケットを事前購入していたためである。

この筑後キャンプ、メインスタジアムのネット裏エリアや、サブグラウンド、室内練習場、ブルペンなど基本的には無料で見学できる。またこれ以外の有料プランとして、メインスタジアムのフィールドシートから見学できるものや、スタジアム見学ツアーがある。また、日によっては選手とも触れ合えるイベントチケットもある。

その中で私が購入したのが、「あなたもカメラマン」体験付VIPチケット。バファローズファンがホークスのファームでVIP体験とは何事かと思う方もいらっしゃるかもしれないが(事実、この日も私はいつも札所めぐりで使うバファローズファンクラブ特典のリュックを背に筑後に乗り込んだのだが)、さすがホークス、スタッフの方も「結構、他球団のファンも来られますよ」と懐の深い反応である。

今回参加したのは私のほかに4人。もちろんホークスファンの方々である。まず正面入口から三塁側ベンチに出る。ベンチ前に広がる人工芝のグラウンド。青空によく映えている。

しばらくベンチにいるうちに、選手たちが少しずつ顔を出す。先ほどファームキャンプと書いたが、ホークスのファームといえば2軍だけでなく、3軍、4軍まである。2軍と3軍の違いなら、支配下選手か育成選手かということでまだ区別できるが、ならば3軍と4軍の違いは?となるとどうだろうか。ネット記事を見ると、ホークスの場合は同じ育成選手とでも、3軍は試合経験を通じた育成の場、4軍は高卒で入団したばかりの選手や故障明けの選手の体力づくりの場という位置づけのようだ。この日参加した選手は30人ほどいる。

係の人の案内でグラウンドに入る。やはり特別感がある。

選手のアップを見守るコーチ陣には、かつてホークスなどで活躍した選手たちが就任している。

その中で目についたのが、的山4軍コーチ。かつての大阪近鉄バファローズでも活躍した捕手である。その後移籍したホークスで現役引退、長くコーチを務めているが、ホークスの扇の要である甲斐がFA移籍した後、ホークスの捕手陣についてどのような気持ちで見ているのだろうか。

それはさておき、セカンドベースの後ろ辺りからウォーミングアップの様子を眺める。この日参加していた選手のほとんどが背番号100番台の育成選手だが、2024年オフのドラフト1位で神戸広陵高校から入団した村上投手も、まずは筑後でプロへの体造りの最中のようだ。まず1年はじっくり育てることができる、さすが選手層が厚いホークスである。そこから先は他球団以上にサバイバルなのだろうが・・。

トレーナーの指示でメニューが進み、ミスをした選手には罰でもう1本ダッシュが課せられたり、まずは明るい雰囲気で始まる。

そろそろ時間となりグラウンドから引き上げる。最後にリストバンドが渡される。特典として、この後はメインスタジアムのフィールドシートに入れるだけでなくその最前列のVIP席で見学できたり、屋内練習場でも最前列のVIP席が用意されている。

さてこの後だが、これは別料金でスタジアム見学ツアーに参加してみよう。キャンプ中ということで30分おきに開催されるようだ。次の回まで時間があるのでもう少し回ってみよう。

やって来たのはサブグラウンド。こちらはメインスタジアムの人工芝とは対照的に土と天然芝。異なるタイプのグラウンドが2面あるのもすごい。いずれのタイプにも対応した練習ができそうだ。

筑後七国のPRもある。筑後七国とは、ここ筑後船小屋を中心地点として、周辺の5市2町(大川市、柳川市、大木町、筑後市、みやま市、広川町、八女市)が連携して地域の魅力を発信するものである。そのスポットの一つにここタマスタ筑後も含まれている。

ウォームアップを終え、選手たちは次のメニューに移るようだ。メインスタジアムから室内練習場への通路の両脇にはすでに多くのファンが集まっており、移動する選手に声援を送る。中にはサインに応じる選手もいる。育成選手といっても、ファンからすれば将来のスター候補生(特にホークスは数多くの実績がある)だし、このところは選手情報を得られる機会も多く、ファンも熱心な方が多い。

そろそろ見学ツアーの時間である。その様子は次の記事にて・・・。

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第22回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~今回ホークス筑後キャンプと絡めます・・

2025年02月21日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

このところ、拙ブログの記事は関西と九州を行ったり来たりしている。九州八十八ヶ所百八霊場をめぐる細切れの旅も第22回である。前回で熊本県シリーズを終え、再び福岡県に戻り、筑後シリーズである。

その筑後の札所を見るとちょうど鹿児島線、九州新幹線沿いに並んでおり、第59番・光明寺(筑後船小屋)、第10番・不動寺(西牟田)、第94番・大日寺(久留米・・からちょっと離れている)と続いている。この中で注目するのは第59番・光明寺。寺の歴史については後ほど触れるとして、アクセスは筑後船小屋駅から徒歩5分とかからないところ。

九州八十八ヶ所百八霊場にあって、鉄道の駅から徒歩圏内にある札所はいくつもあるが、今回注目するのはその最寄り駅である。筑後船小屋は九州新幹線の駅だが、その駅前にはホークスのファーム拠点のタマホームスタジアム筑後がある。この九州の札所めぐりにあっては、私なりに観光や鉄道関連、居酒屋めぐりなどを絡めているのだが(だからここまで回数が重なっているのだが)、筑後を訪ねるならタマスタ筑後とセットにしようと思っていた。

スタジアムを楽しむならウエスタンリーグ、あるいは四国アイランドリーグ交流戦といった試合を観戦するのがベストだが、めぐり合わせはシーズンオフ。それでもタマスタ筑後では1日に数回スタジアム見学ツアーをやっているので、それで球場の雰囲気を感じられればよいと思っていた。

その中で迎えた2月。2月といえばNPBプロ野球のキャンプである。宮崎に行けばバファローズ、ホークス、ジャイアンツのキャンプ地、そして日南線に乗ればカープ、ライオンズのキャンプ地にも行けるが、結局札所めぐりとのタイミングは合わなかったな・・。

そしてタマスタ筑後だが、2月はファームのキャンプ見学ができるという。「スプリングトレーニングin筑後」ということで、主力選手が宮崎に入る前に調整をしたり、あるいは育成選手たちの修行の場の位置づけのようだ。お、これは正にいいタイミング。試合観戦やスタジアム見学ツアーとは違った楽しみができそうだ。

ということで、急遽2月11日の日帰りで九州行きのプランを組んだ。プロ野球キャンプと札所めぐり。どちらがメインなのか、いやどちらもメインということで、これも私流の札所めぐりである。

・・・さて、前置きが長くなったところで、広島6時43分発「さくら401号」で出発。西に向かうなら日本旅行の割安の「バリ得」プランを使い、6時53分発「こだま781号」に乗るのだが、筑後船小屋発着には「バリ得」プランが設定されておらず、また今回はタマスタ筑後に早く着くことにしたので通常料金で利用する。

7時56分、博多到着。8時13分発「つばめ313号」に乗り継ぎ、8時35分、筑後船小屋に到着。この駅に降り立つのは初めてのこと。

改札に向かう中、「筑後七国」の観光PRの一環としてホークス、タマスタ筑後が登場する。パネルでは2024年入団(ということは、現在2年目を迎えている)選手の紹介とともに、選手たちのサインが寄せ書きされたユニフォームが飾られている。

新幹線駅と在来線駅の間はロータリーになっており、こちらにも先ほどの選手たちのパネルが並ぶ。そのうち、2025年入団選手に入れ替わるのだろうが・・。

在来線駅横から線路をくぐる歩道を通り、5分ほどでタマスタ筑後に到着。初めて訪ねたのだがスタジアム、屋内練習場と圧巻である。

まだ時刻は9時前で人もまばらなのだが、わざわざ広島から朝の最速ルートを使って筑後まで来たのは、どうせならしっかり楽しもうということで・・・。

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京都12番「仁和寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・127(京の冬の旅特別公開)

2025年02月20日 | 神仏霊場巡拝の道

神護寺のある高雄からJRバスに乗り、仁和寺の門前に到着。先ほど神護寺でにわか雨に遭ったのが噓のようにまた冬晴れの空である。仁和寺は真言宗御室派の総本山であり、世界遺産にも登録されている寺院である。今回の札所めぐりでは天龍寺に次いで2ヶ所目の世界遺産となる。

仁和寺じたいはこれまで何度か参詣している。二王門をくぐると柵が設けられ、拝観受付を通る形になる。確か仁和寺は宇多天皇の御所庭園や霊宝館は有料だがそれ以外は無料で入れるはず。仁和寺じたいが有料拝観になったのかな・・と思ったが、ちょうどこの時「京の冬の旅」(1月10日~3月18日)の期間で、経蔵・五重塔の特別公開が行われており、御所庭園の拝観と合わせてここで受け付けているとある。

御所庭園は以前にも拝観したこともあり、今回はいいかなと思う。その代わり、経蔵・五重塔はせっかくなので観ることにしよう。

仁和寺が開かれたのは平安前期、先に記した宇多天皇による。皇族の人たちが別当を務める門跡寺院の歴史がある。「徒然草」には「仁和寺にある法師」というのが何度か登場し、そのたびに失敗談を繰り広げる。仁和寺のすぐ近くの双ヶ岡に庵を構えていたこともあるが、兼好法師はどういう意図をもって「仁和寺にある」と固有名詞を記したのかなと思う。

まずは金堂にて手を合わせる・・というところだが、今回は先に特別拝観の経蔵に向かう。特別拝観では20分おきに僧侶によるガイドが行われるとあり、ちょうどそのタイミングだった。

ここで仁和寺の歴史や、この経蔵に関する説明があり、この時は20人ほどが話を聴いていた。仁和寺は応仁の乱の兵火に遭って焼失したが、江戸時代前期の寛永年間に徳川家光の支援で伽藍が整備され、現在に至る。この経蔵もその時に再建されたものである。仁和寺は真言宗の寺院だが、この経蔵は禅宗の様式で建てられているとのこと。中央には八面体の書架が設けられ、「天海版一切経」が収められている。その引き出しの中身の経典もサンプルとして公開されている。

経蔵の正面側には、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊、そして三体の羅漢像が祀られている。

続いては五重塔。こちらは中に入れるわけではないが、各方向の一層の扉が開けられ、ガラス越しに内部を観ることができる。中央の心柱、塔を支える四本の天柱、そして柱や壁面に描かれた仏画や祀られた仏像たちである。

これで特別拝観を済ませ、改めて金堂の前にてお勤めとする。

そして仁和寺といえば「京都三弘法」の一つである。弘法大師空海を本尊とする北西の御影堂に向かう。同じ仁和寺だが、かつての伽藍、御所の歴史を伝えるエリアもあれば、御影堂から始まる御室八十八ヶ所のような庶民信仰のエリアもある。お堂に上がり、ここでもお勤めとする。

金堂前に戻り、預けていた朱印帳を受け取る。これで今回の目的地到達ということで、次の行き先決めのくじ引き&あみだくじ。長かった・・。

くじ引きアプリで出たのは・・

・法楽寺(大阪6番)

・生國魂神社(大阪7番)

・当麻寺(奈良19番)

・清水寺(京都37番)

・西教寺(滋賀16番)

・生田神社(兵庫1番)

神仏霊場めぐりも残り30ヶ所を切ったが、ここで清水寺が出てきた。嵐山以上にインバウンドが跋扈するエリアだが、西国三十三所の4巡目も残っているし、いずれどこかで訪ねなければならないところで・・。

そして出たのは、5枠に割り当てられた当麻寺。奈良県も西側の一帯はまだ手付かずで、大阪府に入った叡福寺も含めて次のシリーズとするかな・・。

仁和寺まで来たところで、今回の札所めぐりは終了して帰りの行程に入る。まずは嵐電の御室仁和寺に向かうが、ここで嵐電には乗らず、そのまま徒歩で南下する。「徒然草」の兼好法師の庵の跡も過ぎる。

そしてJR花園駅に到着。この日の朝、宿泊用の荷物をコインロッカーに預けており、これで循環ルートをたどることになった。

JR嵯峨野線で京都に出る。嵯峨野線ホームには、チームカラー、路線カラーともあわさってJリーグの京都サンガが大々的にPRされている。

この後、特急料金別払いで「サンダーバード」に乗り新大阪に出て、新幹線に乗り継ぐ。それほど遅くない時間に広島に戻ることができた。

今回洛西シリーズをたどったことで、京都の札所は清水寺周辺、そして鞍馬・貴船を残すだけとなった。次のタイミングはいつ来るかな・・・。

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京都10番「神護寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・126(にわか雨やら何やらありました・・)

2025年02月19日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりは、嵐山から嵐電に乗車し、帷子ノ辻に到着。ここで北野白梅町行きに乗り換える。今回残す札所は、神護寺、そして仁和寺である。まだ時間も早く、先の見通しも立った。

御室仁和寺の一つ手前の宇多野で下車。これから神護寺の最寄りである高雄に向かうため、その系統の京都市バス、JRバスの停留所がある福王子に向かう。福王子神社に面する福王子交差点だが、実質六差路という複雑な交差点のためか、信号で警察官らしき人が見守っている。

「バスの駅」福王子から京都市バスに乗車。「バスの駅」とは妙だが、高雄方面の停留所は竹垣で囲われ、木のベンチが置かれている。この先、国道162号線の周山街道を走り、少しずつ高度を上げる。速度が遅くなると乗降はないが近くのバス停に停まり、後続車を先に行かせる。

御経坂峠を過ぎ、高雄に到着。ここから神護寺に向かうのだが、いったん清滝川が流れる谷を下り、そしてまた川の向こう側の谷を上るというそれなりにハードな道のりである。さすがにここまで来るとシーズンオフということもあり、訪れる人の姿もほとんどない。

「山内女人禁制」の石碑があるが、今はもちろんそうした禁制はなく、誰でも進むことができる。ただこの石段、結構長く続いて運動不足にはきつく感じる・・。さすがは山岳寺院に分類されるだけのことはある。

ようやく楼門にたどり着く。上がってしまうと整地されたそれなりの広さを持つ境内である。

神護寺が開かれたのは平安初期、和気清麻呂による。清麻呂は奈良末期、道鏡の皇位継承問題に絡んで流罪とされたが、後に復帰し、平安京の遷都にも尽力した。その功績もあり、いずれも和気氏の氏寺であった神願寺と高雄山寺を合併する形で開かれたのが神護寺である。合併の背景にはいろいろあったようだが、伝教大師最澄を招いて法華会を開いたり、弘法大師空海が住んで灌頂の儀式を行ったりと、当時として新しい仏教を担う二人の人物と関連するスポットである。

後に荒廃したが、源平の戦いの頃、武士出身の僧・文覚が再興に尽力し、源頼朝や後白河法皇もこれを支援した。その後も衰退と再興を繰り返した後、江戸時代には山内に多くの支院や僧坊を数えるまでになったが、明治の廃仏毀釈でさらに衰退。現在の主要な建物は昭和の再建である。

最後の石段を上がり、本堂にあたる金堂に到着する。本尊の薬師如来は神願寺、高雄山寺のいずれかで祀られていたとされる。正面の厨子に収められている。両脇には日光・月光菩薩、十二神将という「チーム薬師」が陣取る。ここでお勤めとする。

堂内を拝観していると、外から水が垂れるような音がする。何か排水でもしているのかと外をのぞくと、それなりの量の雨が落ちていた。先ほどまでは晴天だったと思うが・・。今は冬、そして山の中、天気の急変があってもおかしくないだろう。ただ、この日は雨具を持ってきていなかった。スマホで雨雲レーダーを見ると、京都の中でも神護寺周辺のピンポイントで雨雲ができている。この後時間を追っていくと、すぐに消えたかと思うとまた発生したりと、結構複雑な動きをしている。

堂内にて朱印をいただく。墨書で薬師如来、神護寺の文字が入り、まず真ん中に薬師如来の宝印、続いて右上に神仏霊場の印、そして最後に左下に神護寺の印といただくのだが、その神護寺の印を押した後で、係の人が「しまった!」という顔をする。「和気公開創 高尾山神護寺」の印が上下逆になっていたのだ。

係の人はまことに申し訳ない表情をしていた。まあ、こういうこともあるだろう。余白に正しい向きで押し直していただいたが、朱印のお代はいらないという。そういうわけにもいかないと納めたところ、「では」ということで、金色の紙を使った限定御朱印(書き置き)をつけていただいた。かえって恐縮である。

しばらく待つうちに雨脚が弱まり、すぐに青空が出て来た。あの時間は何だったのだろうと思うが、この間に神護寺を後にしてバス停に向かう。ただ、このまま高雄のバス停に戻っても待ち時間は長い。ならばということで石段を下りて清滝川沿いに歩く。以前、神護寺を訪ねた時に神護寺の高雄、西明寺の槙尾、そして高山寺の栂尾という「三尾」をたどったことがあった。

川沿いの道から国道162号線に戻り、最後は歩道がないがクルマの通行が多い道をヒヤヒヤしながら栂尾のバス停に到着。高山寺の参詣はせず、ちょうど栂尾を出発するJRバスに乗車する。この系統に乗ると、次に訪ねる仁和寺の門前に着くのでちょうどよい・・・。

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京都9番「大覚寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・125(南北朝の歴史を思いつつ広大な大沢池を一周)

2025年02月18日 | 神仏霊場巡拝の道

嵐山の天龍寺を拝観後、大覚寺に向かう。朝方、JR花園駅前から乗車した京都市バスは嵐山を経由して終点・大覚寺に向かうのだが、ちょうど出発したところのようだ。普通ならここで嵐山の風情を楽しみ、後続のバスに乗るところだが、この日の私はさっさとここを離れたい気持ちだった。大覚寺まで徒歩で25~30分ほどとあり、バスの待ち時間をかけて歩いても着くのはほぼ同じくらいのようだ。

参道には「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」とある。先ほどの天龍寺と同様、元々この地は嵯峨天皇の離宮があったところである。弘法大師空海が離宮の中で五大明王を祀って祈祷を行ったとされるが、嵯峨天皇の崩御後に発生した政変で皇太子を廃された恒貞親王が出家して仏門に入り、大覚寺の開山とされた。

大覚寺ときいて連想するのが「大覚寺統」という言葉。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、皇室は「持明院統」と「大覚寺統」の二つの系統で皇位継承をめぐって争っていた。後嵯峨天皇(ここからは後に上皇や法皇となった人が登場するが、ややこしいので天皇で統一する)の皇子に後深草天皇、亀山天皇がいて、それぞれが後嵯峨天皇の後継であると主張して譲らなかった。「大覚寺統」とは、亀山天皇の子である後宇多天皇が後に大覚寺の再興に尽力し、自らも大覚寺で院政を敷いたことからその名がついたとされる。

この持明院統と大覚寺統の対立だが、一時は鎌倉幕府の仲立ちでそれぞれが交互に天皇に即位することで収まったのだが、これを破ったのが鎌倉幕府打倒に燃える大覚寺統の後醍醐天皇。そして足利尊氏や新田義貞らの手により鎌倉幕府を滅亡させたが、新たな対立が生まれる。ここで足利尊氏と手を組んだ持明院統は北朝、そして後醍醐天皇の大覚寺統は南朝として、およそ60年にわたる争いが繰り広げられる。

回廊を伝って宸殿に出る。

この大覚寺は皇室が住職である門跡寺院の歴史があるが、応仁の乱の兵火や後の放火により堂宇が焼失し、現在の姿に復興されたのは江戸時代のことである。寺は寺でも門跡寺院ということで、一般の人たちが日常的にお参りするというよりは、かつての御所や庭園の姿をしのぶスポットといえる。

伽藍の中心にあるのが心経前殿。嵯峨天皇、弘法大師空海、後宇多天皇、恒貞親王を祀る。まずはここで手を合わせてお勤めとする。

心経前殿の後ろに心経殿が建つ。内部には嵯峨天皇のほか、江戸時代の天皇たちが奉納した「勅封般若心経」が収蔵されている。この扉が開かれるのは60年に一度、戊戌の年である。直近の戊戌の年は2018年(平成30年)のことで、この年、私も近畿三十六不動尊めぐりの札所として大覚寺を訪ね、開扉された心経殿も拝観した。次の戊戌の年は2078年・・・まあ、生きていないだろう。

大覚寺の本尊である五大明王が祀られる五大堂に着く。ここで改めてお勤めとする。写経の場でもあるのでここで体験してもよかったのだが・・。

心経殿の開扉で訪ねた時は大覚寺エリアだけ拝観したのだが、隣接して大沢池がある。今回はせっかくなのでそちらにも足を延ばすことにする。天龍寺、嵐山ではインバウンドにうんざりしたが、大覚寺に来るとそういう観光客の姿(それどころか拝観者そのものの姿)が見えず、静かな一時となったのでもう少しめぐろうかと。

大沢池は嵯峨天皇が離宮を造るにあたり、唐の洞庭湖を模して造られたという。日本最古の人工池とされている。ちょうど冬の澄んだ空、水鳥が憩う景色も穏やかである。

奥にあるのは名古曽の滝跡。小倉百人一首の第55番・(藤原)大納言公任の「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」にある「滝」はこの滝跡とされる。「大覚寺のこの滝の音が聞こえなくなって久しいが、その評判だけは世に流れ伝えられ、今でもなお聞こえ知られている」という意味。これを解釈すると、栄枯盛衰というのは世の常だが、その中で、本人は亡くなっても優れた歌や作品、その心はいつまでも世の人々の間で生き続ける・・ということである。まあそうすると、大納言公任のこの歌は現在も小倉百人一首の一つとしてその名とともに生き続けているといえる。

この後も大沢池の周囲をめぐる。春夏秋冬、嵯峨野の山々を借景としてそれぞれの表情を見せるという。

一周して、大沢池の石碑の前に出る。ちょうどここで、何やら機材をかつぐ一行に出会う。どうやらこれから何かの撮影が行われるようだ。大覚寺は周囲に高い建物、電柱、電線が目立たず、かつての御所を彷彿とさせる建物があり、大沢池という名勝がある。そして、太秦のスタジオにも近い・・ということで時代劇のロケでよく使われるという。この日も撮影があったのかな。もう少し待っていれば俳優さんに会えたのかもしれない(前日訪ねた車折神社に玉垣を奉納していたりして)。

大覚寺の受付に戻り、預けていた朱印帳を受け取る。紙面いっぱいの墨書は「五大明王」である。

さて、次に訪ねるのは神護寺。大覚寺からまたもバスのタイミングが合わず、再び嵐山まで歩く。ちょうど往来の商店も開業しており、どこも長蛇の列。そして大声でわめきながら食べ歩き・・もとい食べ散らしするインバウンドの連中たち。やかましい、正直ウザい。

いや~、ある意味での難所を朝のうちに回っておいてよかった(もっとも繰り返すが、大覚寺は嵐山の騒擾とは一線を画す風情あるところ)。

そして乗るのは嵐山電鉄、嵐電である。ホームの有料足湯なんぞどうでもいいので、さっさと次の折り返し便で嵐山を去ることに・・・。

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