休日で引越荷物も片付いたことであるし、休日にふらっと散歩に出かけてみよう。尼崎・伊丹近辺といっても、いろいろと歩いて回るところはありそうである。というわけで、JR尼崎~阪神尼崎までの道を歩いてみることにした。
JR神戸線・東西線・宝塚線のジャンクションとして賑わいを見せている尼崎駅。駅近辺は新しいマンションも林立している。また今年秋のオープンを目指すショッピングモール「キリンガーデンシティ」も着々と工事が進んでいる。
今回目指すのは、そのガーデンシティの敷地内も通り、かつて尼崎港まで伸びていた線路、福知山線の支線である通称「尼崎港線」の廃線跡である。廃線跡というとどうしても北海道や九州の端のほうまで出かけるイメージがあるのだが、関西にもこうしたものがわずかではあるが残っているというのだ。この線の存在は昔の道路地図に載っていたのを幼い頃に見て覚えているというのもあったが、印象深いのは宮脇俊三の『時刻表2万キロ』でこの線を訪れたことが取り上げられていたところ。1日2往復だったかの本数で、貨車の後ろに申し訳程度に客車が連結されていたとか、乗車した後で大阪にいる知人に出会い、この線に乗ってきたことを話すと目を丸くして驚かれたとか、そんなところ。
廃線になったのは25年くらい前の話で、私自身は乗ったことがないのだが、近くにそういう路線があるのならということで出かけてみたのだ。距離的に歩いても知れているだろう。
尼崎駅の西、「開かずの踏切」と呼ばれている踏切があり、かつて尼崎港線はこの脇をオーバークロスしていたという。ただ、キリンガーデンシティの工事に伴い道路改良を行うとかで、踏切は閉鎖(まあ、開かずの踏切が永久に閉まったままといったところか)し、残っていた土手も取り壊されたとか。ここから南に伸びる方向でフェンスに囲まれた空き地がある。ここが尼崎港線の線路跡のようだ。
歩いていくとところどころ空き地が途切れ、工場や事務所が建っているのに出会う。線路が廃止になって、土地が整理された後に建てられたものである。
もっと進むと今度は住宅地に出会う。道路と道路に挟まれた空間(ちょうど単線の線路とその脇の砂利を足した幅:奥行き)に住宅が立ち並ぶ。玄関と裏口がそれぞれ道路に面しているという、ちょっと落ち着かない感じがする。この家に住んでいる方たちは、かつてここが線路だったことはご存知なのかな?
家が途切れ、小さな公園に出る。「天神橋緑地」という目印があるが、これがちょうど線路の車止めの形をしている。その先はちょうどレールの形をした歩道があり、かつてここに鉄道があったことを示してくれている。
ベンチのあるところはかつてホームがあったところだろうか。「天神橋緑地」とはあるが、かつて尼崎港線が走っていたことを紹介する立て札や看板の類はなかった。
天神橋という名前の由来か、近くに長洲天満宮というのがあったのでお参りしておく。
こうなればなるべく忠実に線路跡に沿って歩く。そう思ってみると、両側に建物が迫っていたのだろう、中途半端な広さの空き地が見られたり(そういうところは駐車場に活用されていましたね)、これが廃線跡ということかというのがわかってくる。ローカル区間の廃線跡であればサイクリングロードなどで整備されているケースがあるが、都市空間の中ではこういう土地活用ということになる。あるいは全部つぶして幅広道路にしてしまうか。
室町時代の「大物くずれの戦跡碑」というのに出会う。この向かいは黄色と黒のフェンス。この形からして、尼崎港線の踏切跡かな。
阪神の大物駅をくぐり、ひたすら南下。空き地との境にフェンスが並ぶところに出る。このフェンス、よく見ればレールの形をしている。ふーん、これも尼崎港線のものかな。
阪神高速神戸線をくぐったところが、かつての尼崎港駅。旅客線の終点である。その跡地とされているところは、某物流会社の営業所の建物があり、その南側には公園が広がっている。かつてはポツンとしたホームの周りにヤードが広がっており、貨物の拠点であったという。現在はJRのコンテナも置いてある物流会社の営業所があるということに、かつての鉄道の名残というのを感じる。
ちょうどこのあたりは、かつての尼崎城の敷地でもあったところで、南を流れる川は城の堀の役割も果たしていたという。その川の脇、貨物専用線はこの先まだまだ伸びており、この先の工場に至っていた。現在は遊歩道になっており、近所の人たちの格好の散歩コースである。ここを抜ければ、阪神尼崎駅も近い。
かつての尼崎港線の様子はいろんな人のホームページやブログでも紹介されているし、散歩コースもこれらから情報を得たりしたということもあった。次々に新しい建物ができ、変貌著しい街ではあるが、かつて尼崎の産業を支えた鉄道があったということも、歴史の一ページとして記憶にとどめておきたいものである・・・・。