大宰府政庁跡、坂本八幡宮と回り、いよいよ観世音寺に参詣する。
観世音寺が開かれたのは古く、天智天皇が母・斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は百済救援のために出兵し、自らも筑紫まで遠征したが、その地で亡くなった。それから造営が進められたが、完成したのは奈良時代に入ってからのことである。後に鑑真が日本に渡り、日本における授戒の制度を整えた後は奈良の東大寺、下野の薬師寺とともに「天下三戒壇」の一つとされた。当時は大きな伽藍も有していたが、平安時代以降は寺の勢力も衰え、また何度も火災に遭ったことで建物も失われた。現在の建物は古いもので江戸時代の再建という。
まず、西にある戒壇院に向かう。戒壇院は聖武天皇の勅願により、鑑真により設けられた。案内板では「観世音寺・戒壇院」と記載されている。
正面の本堂は江戸時代の再建で、この時には禅宗様式で建てられている。なおこの時に戒壇院は観世音寺から独立したそうで、現在はあくまで別の寺院だという。そういえば、本堂の前に書置きの朱印が置かれていたが、その様式が九州西国霊場のものと違っており、「あれ?」と思ったものだ。戒壇院の本尊は東大寺と同じく廬舎那仏である。それはともかく、かつての観世音寺の一部ということでここでもお勤めとする。
さて、戒壇院で手を合わせていると、東の方向から何やら大きな叫び声が聞こえてくる。そして拍手も起きている。最初は、近くのグラウンドで運動会か、あるいは何かの集会でも行われているのかと思った。でも、1月下旬に運動会などないだろうし、この近くにグラウンドがあったかな。
戒壇院の横の通用口から観世音寺の境内に入る。するとそこには大勢の人だかり。そして、その向こうでは空手の道着姿の子どもや若者が集まっている。そして観世音寺の正面には「武神会館」と書かれた旗が掲げられている。
これを見た瞬間は、「せっかくの結願なのに、これではお参りできないではないか」と思った。本堂の前も立入禁止になっている。これは何の集まりかと調べてみると、「武神会」とは筑紫野市に本部がある空手道場で、この日(1月22日)は観世音寺にて奉納演武と成人式が行われていたそうである。朝に観世音寺を訪ねていれば、子どもたちを中心とした演武が見られたそうで、人だかりの多くは子どもの保護者たちのようだった。
先ほど、戒壇院の境内で聞こえた叫び声というのは新成人によるもので、両親への感謝や、これからの自分の夢について気合を入れて大きな声で語っていたそうだ。そして新成人は、周りの「バンザーイ」の掛け声とともに胴上げされ、最後は落とされて境内の砂(泥)を掛けられ、最後には師範、両親の元に駆け寄って抱き合って・・・という一連のお祝いの儀式が行われていた。
まったく関係ないことだが、新成人がこうして道場のみんなから祝福され、大人の仲間入りをする様子は、その昔、ここで授戒を受けて正式な僧侶として認められた若者たちも似たようなものだったかな・・と勝手に想像してみる(さすがに胴上げはなかっただろうが)。
最後に記念撮影を行って奉納演武は終了したが、まだ境内はごった返している。
本堂での参詣は後にすることにして、境内の一角にある宝蔵に向かう。かつて本堂(金堂)と講堂に祀られていた仏像の多くは、1959年に完成した鉄筋コンクリート造りの宝蔵に移されている。平安~鎌倉時代の作が多く、よりよいコンディションでの保存のためである。仏像を拝むのが目的なら、最初から宝蔵に来れば間近で拝観もできる。また朱印もこちらで受付しており、九州西国霊場が結願する旨を告げて、後で受け取ることにする。
宝蔵の2階に上がる。丈六(立像は約4.8メートル、坐像は約2.4メートル)の像が多く、九州西国霊場の本尊である聖観音像をはじめ、十一面観音像、馬頭観音像、不空羂索観音像、阿弥陀如来像などが並ぶ。台座、展示台と合わせると5メートル以上の高さであり、それらが何体も並ぶ姿は圧巻である。本尊がこちらにおわすということなので、この宝蔵の中にてお勤めとする。
また、宝蔵の完成にともない、本堂(金堂)や講堂から仏像が運び出され、宝蔵に搬入される様子の写真も展示されている。
大宰府といえばどうしても天満宮や九州国立博物館に目が行きがちで、最近は「令和」ゆかりの地として坂本八幡宮も有名スポットになっている。その間にあって観世音寺は目立たない存在かもしれないが、かつての国際都市である大宰府にあって、その仏教部門を引き受け、隆盛したであろう歴史はもう少し知られてもよいのではないかと思う(先ほど訪ねた大宰府資料館では、模型で当時の伽藍も表現されていたが)。
拝観を終え、朱印をいただく。通常の第33番・観世音寺の朱印のほかに、「結願成就」と書かれた朱印をいただいた。結願ということで、表彰状のようなものをイメージしていたのだが、こちらの朱印に、観世音寺の台紙をもう1枚いただいたのでそちらに貼り付ける。これも、いい記念になった。
もう一度金堂に戻ると、立入禁止のロープも撤去され、お堂の前に立つことができた。ここで改めて手を合わせ、結願とする・・・。
さて、2021年3月から始めた九州西国霊場も無事に結願となった。奈良時代の初め、仁聞菩薩と法蓮上人により開かれたとされる日本最古の霊場。種田山頭火も回ったことで知られている。BRTに転換される日田彦山線の彦山から始まり、中津の耶馬渓、宇佐八幡、六郷満山、別府の湯、臼杵の石仏などと合わせて回った大分県。噴火もあった阿蘇山に、宮本武蔵も修行した熊本の岩戸観音、復興途上の熊本城。大牟田の石炭遺産、カッパの田主丸の筑後地方。佐賀では清水の鯉料理、吉野ヶ里遺跡、有明海の景色も楽しんだ。そして長崎に入りオールスターゲーム、軍艦島、西九州新幹線、佐世保軍港。再びの佐賀ではイカ料理。そして福岡に戻り、糸島半島や美空ひばり観音、宗像の世界遺産を楽しみ、大相撲九州場所も。そして最後は大宰府で締めるという・・・札所めぐり以上に私なりの九州観光も楽しませていただいた。いろいろな列車、バスに揺られ、レンタカーで穴場を訪ね、夜の一献もできた。これまでには気づかなかった九州の面白さを感じられた貴重な体験だった。
これで中国、九州の観音霊場を回り、西日本の「百八観音霊場」をめぐるなら残りは四国三十三観音霊場となるが、こちらは今のところ考えていない。札所めぐりが多重になっているので、どこかを終わらせてからのことになるだろう。ただ、四国といえば本家の四国八十八ヶ所めぐりもあることで、下手すればその2巡目もやらざるを得ないのでは?とも思う。
また、九州では九州八十八ヶ所百八霊場もまだ序盤である。こちらも、この先どのくらいの時間がかかるかわからないが、より広い九州の魅力を楽しむことにしよう。
さて、これで一段落し、天満宮と九州国立博物館に向かう。ちょうど太宰府市のコミュニティバスが来たので、そちらに揺られることに・・・。