今年に入ってのブログ記事はほとんど旅先でのことのように思う。そろそろ日常的なことも書かなければというのもあるが、それがこのところはtwitterに役割をゆだねているようなところも。「twitterをやりだすとブログの比重が落ちる」という記事もあったが、私としてはA面とB面、主音声と副音声の位置づけで。
さて、旅先では列車やバスの乗車時には音楽を聴いたり読書をしたりするのだが、その中の一冊。
『東京飄然』町田康著、中公文庫版。
町田康といえば「親のいいつけにそむいてパンク歌手に成り下がり・・・」ということで、パンク歌手でもあり、芥川賞作家であり、役者でもあったりする。このほかにもエッセイも多く出ており、独特の言い回しやら大阪人らしいボケツッコミなどで不思議な世界を広げてくれる。私はどちらかといえばエッセイの方が好きかな。
そんな筆者が「風に誘われ花に誘われ、一壷を携えて飄然と歩いてみたくなったのだ」ということで、飄然と旅に出かける。まあ、旅といっても早稲田、鎌倉、江ノ島、高円寺、上野だったり、遠くて大阪だったりというもので、東京からの距離ということであれば旅とはいえないかもしれない。でもまあ、「遠くへ行くだけが旅ではない」ということは私にもよくわかるので、そこは置いといて。
知人の「慶西君」とのヤジキタ的な道中やら、串カツ屋を求めてさまようやら、ロックな服装についてグルグルと思いをめぐらせるなど。筆者のエッセイによく見られるどこか悲哀のキャラと、どこまでが現実でどこからがフィクションかわからない世界が広がり、結構笑わせてくれる。
ちい散歩やブラタモリ、ぶらり途中下車の旅など(このうち2つは関西では観られないのだが)、東京を舞台にした散歩ものが人気だが、『東京飄然』は筆者自身の写真とも合わさって、それらの番組とはまた違った東京の一面を垣間見ることができる。私の旅・散歩もこういう感触のものを取り入れられればなと思うのである。
・・・あと、これを読むと串カツを食べたくなってくるな・・・・。行きますか、スタンドへ。
熊野灘を眺めた後は国道42号線を北上する。紀勢線の線路はこの後いくつものトンネルを抜け、新鹿の海岸などを通るのだが国道はぐんぐんと高度を上げていく。坂のきついところで往年の旅の苦労がしのばれる。
尾鷲に到着。三重県南部の中心の町である。ここも地方都市のパターンで国道沿いには大型店も見られる。その一角にあるお魚センター「おとと」で海産物の土産物を買い求めた後、一度尾鷲駅に立ち寄る。まあ、別に立ち寄ったところで何をするというわけではないが・・・・。ちょうど列車のない時間帯で、駅前も駅の中もガランとした感じだった。
ここから線路に沿って走る。と、紀伊長島を前にした古里海岸というところに立ち寄る。ちょうど入り江になっており、夏場の海水浴に適したところである。ただ、この冬の時期は人の姿も見えず、夏場は海の家にでもなるような建物の寂れ具合が、余計に海の寒々しさを物語っているようだ。
紀伊長島の駅前を過ぎるとここで高度を上げ、紀伊と伊勢の国境にあたる荷阪峠に挑む。紀勢線でも最後に開通した区間で、私が乗車した時も気動車がエンジン音をうならせながら登って行った。それをクルマで走るのは初めて。
山の向こうには先ほどまで眺めてきた熊野灘が見える。半島の大きさを感じるところ。
うーん、よく鉄道旅行の文章でも見るのだが、この峠は紀伊長島側から登るのではなく、松阪方面から山の中を抜けてきて、すると遠方に熊野灘が開けるというほうがより印象に残るだろう。
ちょうど太陽が山の陰に隠れる頃。山中の日暮れは早い。もう後は帰り道である。荷阪峠を越えて梅ヶ谷、大内山という力士のような地名を過ぎると紀勢道の高速道路の入口がある。どうせETC割引が適用されるのだし、少しでも早く帰るようにしようということでここから乗車。鉄道や国道があえぎながら走るところを一気に抜けるのは高速道路の技で、これも紀伊長島方面に向けて延伸工事中だが、先ほどの荷阪峠からのような眺めは期待できないかな。
伊勢自動車道に入ると交通量が増えてきた。亀山から四日市にかけて25kmの渋滞という表示も見える。
夕食をということで安濃SAに入る。ここで食べたのは「松阪肉定食」。あくまで「松阪牛」ではなく「松阪肉」である。全国のブランド牛肉に関する表示基準が強化されており、「松阪牛」というのはごくごく限られた条件になるとか。そりゃそうだろうな、松阪牛がサービスエリアの定食で出るわけがない。それでもまあ、普通の焼肉弁当ということで見ればなかなかだった。
この後は新名神~京滋バイパス~名神で帰宅。往路は熊野の山越えで半島の大きさを感じたものだったが、一方で高速道路であっけなく通ってしまう感じもあった。結局一日の走行距離は自宅~自宅で550km。久しく出動のキューブ、お疲れさん。
熊野本宮と湯の峰温泉を後にして、熊野川に沿って新宮へと向かう。地図で見る限りは流れが太く見える熊野川であるが、実際の河原は上流のダムのために水流もほとんどなく、砂利だけが無限に広がるという感じだ。途中、瀞八丁のジェット船が走る光景を見るが、心細い流れの中を走るのが何とももったいなく思う。
新宮の街中に入る。紀伊半島を縦断してようやく東海岸に出た。これまで鉄道では何度も来たところだが、国道を走るのは初めて。全国の地方都市の例にもれず、駅前はがらんとした感じだが、国道沿いには駐車場を兼ね備えた大型店もあり賑わっているようにも見える。この辺りで昼食をと思ううち、道路沿いに見つけた看板を頼りに「錦」という回転寿司の店へ。
ここの売りはネタの大きさとか。値段はそれなりに張ったが、定番から珍しいネタまで揃っており、「これはどう考えても太平洋では上がらない魚やな」というものについてもそんなの関係なくおいしくいただく。新宮名物とくれば「さんま寿司」だが、こういう押し寿司、なれ寿司系のものはさすがに置いていなかったが・・・。
紀勢線の鉄橋を見つつこちらも熊野川の河口を渡り、三重県に入る。ここからの国道42号線は海沿いを走る。空は申し分ないくらい青く、右手には穏やかな黒潮の流れが広がる。ここからが七里御浜と呼ばれる海岸線だ。ただその途中で海上に大型船が横たわっているのに出くわして驚く。昨年座礁したフェリーで、その撤去作業がまだ進んでいないという状況のようだ。漁業にも深刻な影響が出ているようで、単に海岸線がきれいというだけではいけないのだなということを思い出す(停車する間もなく通過したためフェリーの写真はなし)。
熊野市に入る。ここでしばし停車し、海岸線に出る。七里御浜の終点である。
さて、この海岸から近くにあるのが奇岩・鬼ヶ城。ここも熊野古道に面しているせいか、「世界遺産」を名乗っている。先ほどの穏やかな海岸線のすぐ隣になぜこのような奇勝が広がるのか、不思議な感じがする。
かつてこの地を拠点として「鬼」と恐れられた海賊・多俄丸というのがいた。これを征伐したのが坂上田村麻呂。その伝説から「鬼の岩屋」と呼ばれていたのがいつしか「鬼ヶ城」と呼ばれるようになったとか。
そう言われれば身を隠したり籠城するのは適当な穴倉が出来ていたり、その侵食具合が不気味だったりと、本当に鬼が住んでいるようなイメージを彷彿とさせる。
アクションもののロケなんぞに出てきそうな風景。もう一つ、沖の向こうは鳥羽一郎と山川豊が漁船に乗って現われそうな海。
ただこの鬼ヶ城も、昨年の台風18号で遊歩道に被害が出ており、途中から先には進めなくなっていた(実際には立入禁止の柵を乗り越えて釣りを楽しむ人もちらほら)。それも含めて自然の姿というのも楽しむ。昔からの多くの熊野詣での人たちを楽しませてきた風景である。
しばらく海岸沿いを楽しんだ後、ここで折り返しということで今度は国道を北上し、ぼちぼちと帰ることにする・・・・。(続く)
十津川村で朝の一時を過ごした後、再び熊野本宮に向けて南下する。熊野川の上流に当たる十津川に沿った走りだが、段々に渓谷が深くなる。
国道沿いに十二滝を眺め、これから和歌山との県境にさしかかる。改めて、奈良県の山深さを感じるドライブである。
その深い渓谷であるが、十二滝から見ても谷に高架橋が並ぶのが見える。これは国道168号線を「高規格化」した後の道路である。6年前に十津川ルートで熊野本宮を訪れた時にはこの道路は建設中で、バスの運転手が「橋脚一本で億はいっとるやろな」と話していたのを覚えているのだが、その道路がどうやら開通したようである。
かつて崖の道をヒヤリとしながらバスで通り抜けた国道は、きれいに舗装された高架道路とトンネルで一気に県境を越える。まあ、クルマでこうやって走る身にとってみれば時間短縮になり、おまけに無料の国道となれば「ありがたいな」と、ハンドルを握っている間は思う。しかし、ドライブから戻ってみると、こういう高架橋、そして上流のダム化ですっかり河原が干上がって砂利ばかり目立つ熊野の川を見るに、なんだか複雑な思いがする。
熊野の世界遺産登録で全国から注目され、訪れる人が増えたのは喜ばしいことであるが、それと引き換えに、沿線の開発であったり、紀伊山地の自然が機械的に切り取られていったりという事象を見るに、旅行者がこれに少し加担しているようにも思えて何だか複雑な気分である。
そんなことを思ううちに熊野本宮に到着。いつ来ても、この本宮はあっけなく到着してしまう気がするのだがどうだろうか。
世界遺産登録を機に整備したのだろう。木目が新しい観光センターの建物が出迎えてくれる。この向こうに、元々の本宮のあった大斎原が広がる。その象徴が、建立された大鳥居。参拝する人も口々にその大きさに感心している様子がうかがえる。
さてこれから本宮に参拝。ヤタガラスのいる本宮はサッカーともつながりがあり、私にとってはどうでもいいことなのだが今年はサッカーのW杯があるために注目されているようだ。それっぽい参拝客の姿も見かける。
境内に入り、第一社から第四社まで順番に参拝を行う。神域ということにはなっているが、伊勢神宮ほど重々しく架せられた雰囲気というのはなく、神道の元々の素朴な姿を現しているようで、訪れる人たちを温かく迎えてくれるかのようであった。おそらくそれは、境内に警備を行うような人の姿を見かけなかったことも作用しているのかな。神社に参るというのは元々オープンなことであって、そこに変に権威だの何だのというのをつけるようになったのはやはり明治政府以降の戦前の政治がさせたものかな、とも思うことがある。
ともあれ参拝を済ませ、せっかくなので少し寄り道をする。向かったのは湯の峰温泉。ここも熊野への参道にあって、温泉地も世界遺産の一つということになっている。
この温泉の売りというのが小栗旬・・・・もとい小栗判官の「蘇生の地」というもの。イケメンとは270度くらい違う私が書くブログなのでその辺りのいきさつはすっ飛ばすことで(私には照手姫はいないしね)、「熊野のPRに小栗旬を持って来いやー!」とわけのわからん気勢を上げるのが関の山。
小屋の温泉「つぼ湯」というのが有名だが、順番待ちということであきらめ、公衆浴場の中の「くすり湯」に入る。昔ながらの建物で、浴室内ではシャンプー、石鹸使用禁止ということになっている。ちょうど昼前時とあって観光客も大勢訪れており、小ぶりな浴槽はたちまち一杯に。結構熱いのだが、朝の冷える時間帯から走ってきた(十津川で足湯は使ったが)身にとってはありがたい熱さ。昔から賑わったであろう温泉の風情を味わう。
この温泉地の真ん中に囲いが設けられており、90度の源泉が沸いている。ここに食べ物を漬けてゆでるのが名物とかで、周りの店では玉子が売られている。
私も生玉子5個を200円で買い求め(スーパーの相場で行けば結構高いな)、ネットに入った玉子をここに漬ける。囲いには引っ掛け用の釘が打たれており、またネットの先にもひもがつけられており、釘に引っ掛けて待つこと15分で玉子が茹で上がるとか。その中で、夫婦連れの観光客が袋に入ったウインナーを漬けようとしていた。しかし袋が軽すぎて温泉に漬からず、「袋に穴開けようか」「そんなんしたら中の脂が出るからあかん」というやり取りがあり、「その辺の棒で押さえとこか」てなことを言っていた。でもまあ、結局あきらめたみたい。
しかしこういうところでは、地元の人たちも野菜などをゆでたりする姿が自然に見られるんだろうな。昼間の一瞬ではなく、普通の日に泊まりに来て、翌朝ともなればそういう光景も見られるかも。
さてその待ち時間中に茹で上がった玉子を引き上げる。これを川べりのベンチに腰掛けて一ついただくことに。茹で上がったばかりなので殻をむくのも一苦労だが、それをむくと白い玉子が出てきた。味は・・・・もう言うまでもないでしょう。BANDAGE(バンデイジ)もとい板東英二さんなんかが見れば一気に5個いってしまうやろな・・・。
結局私はここで1個食べ、帰宅後にもう1個。残りは、今回のドライブで手に入れた食材とともに「おでん」にしていただいた。いいなあ、温泉玉子。
小栗判官は照手姫の愛で蘇生したが、イガ栗みたいな形の頭のまつなるはテカテカの茹で玉子でうなり(何とも色気のない話や・・・)、午後のドライブに向けて、紀伊半島の東海岸を目指すのであった・・・・。(続く)
先の熊野本宮詣での記事。遅ればせながらの書き出しとなります・・・・。
24日は朝5時に自宅を出発。阪神高速~阪和道~南阪奈道をたどる。日曜の朝のこととて各道路は空いており、順調な走りを見せる。
大和高田から国道24号線を南下する。そろそろ、東の方、大和の山々の稜線が明るくなる頃である。こういう光景を見ると、万葉集の柿本人麻呂の「東の野に陽炎の立つ見えて・・・」の一首を思い浮かべる。阿騎野(宇陀市)で詠まれた歌というのがわかっているだけに、いずれ、彼の地でこの歌と同じ現象を見てみたいと思うのである。
さて、私が走っているのは熊野への道のうち、奈良県最大の村・十津川を通るルート。直線距離では最も近いと思われる。しかし、大和の山の中を抜けていくということで厳しい山越えのルートではある。奈良県というのも結構広いもので、五條あたりに来れば相当南側に来たと思いきや、実はこの辺りが奈良県の真ん中あたりだというのだから驚くばかり。県の南半分は本当に山のまた山の中ということになる・・・。
五條からは国道168号線を南下。6年前にこのルートを路線バスに乗って十津川まで行ったことがあるが、それ以来初めて足を踏み入れることになる。もう、急カーブの連続である。ただその中で時折姿を見える高架橋。実はこれは旧国鉄阪本線の建設跡という。その昔は「五新線」といって、五條と新宮の間を結ぶ計画だったそうだが、その前段で大塔村の阪本まで開通しようと工事が始まったものの、建設は途中で打ち切り。現在はその高架橋をローカルバスが細々と走るのみという。それでも「専用道路」という位置づけのようだ。
出発してそろそろ3時間というところで十津川村に入る。ここで一時休憩。
ここで見物するのは「谷瀬の吊り橋」。長さ297m、高さ54mというこの吊橋。「日本一」という称号が与えられている。
前回来た時は路線バスのトイレ休憩の間に橋のたもとから見物しただけだったが、今日は時間を自由に使えるドライブである。これを往復するのもよいかなと・・・・。
・・・と思って橋に乗り出したわけだが、ここで言うのも何だが私には「高所恐怖症」の気がある。橋に足をかけてふと視線をやると遥か下に見える河原。朝の風もあり、おまけに足を踏み込むと、敷かれた板のもう片方がちょいと浮くというもんである・・・・。
「谷瀬の吊橋を渡りました!」ということならもう少しカッコイイ記事になるのだろうが、全長297mのところ、わずか3mで渡るのを断念・・・。いやこれは、「もしこれを渡りきったら好きなものを何でも与えるぞ」と言われても「ごめんなさい」と言って辞退してしまうくらい。いくら生活のためとはいえ、これを普通に渡っていく地元の人たち(観光客もかな)には敬意を表するというくらいのものである。
結構ヒヤリとした後、国道を南下。9時前に十津川村の役場前に到着。ここが十津川の行政の中心部となる。
まずは休憩をというところだが、国道沿いの小ぶりな道の駅には地元の人たちによる朝市が開かれ、その脇では足湯が温かそうな湯気を発していた。これはいいということで、早速足湯の「一番風呂」を体感。天気は良いとはいえ結構冷え込む山の中。結構癒されるものを感じる。ドライブの休憩にはもってこいのスポットかな。
さて十津川に来たのだからと、以前にも入った歴史民俗資料館に入る。2階建ての資料館では、まず1階で世界遺産に関する展示を見る。熊野古道の風情と修験道の伝統を今に残す各地のルートが世界遺産として登録されており、ここ十津川にも参道の跡が残されている。
一方の2階では、十津川の歴史の展示。南北朝時代や明治維新の折には「天皇親政」側の立場として十津川の郷士が登場する。そんなところから「十津川=勤皇」というイメージが私の中で出来上がってくるのだが、これは地元の人たちも認めるところではないかな・・・。
もう一つ触れられていたのが明治22年の大水害。この水害によって村は壊滅状態となり、財産を失った人たちが新天地を求めて北海道に集団移住した。これが現在のJR札沼線の終点・新十津川駅のある「新十津川村」である。私は「新十津川」にある資料館に入る機会があったのだが、その中でも「母村」への懐旧の思いというのが語られており、「災害で生活基盤を失う」ことの悲惨さが語られていたと思う。後はこの歴史をいかに後世に伝えるか、ということだろう。
さて十津川での一時を終え、クルマをさらに南下させることにする・・・。(続く)
23日は午前中に大阪市内へ出かけた以外はのんびりと過ごす。思えば、今年に入って休みのたびに何かしら仕事・プライベートの両方で出かけており、昼間の時間を自宅で過ごすというのは今年初めて。そのおかげで、大相撲初場所の朝青龍の優勝決定もテレビで観ることができた。もう25回になるのか。
さてそんな中、ネットをいろいろと見る中で、当ブログでもおなじみの大和人さんが聖地・熊野本宮に参拝した記事を読み、私も何だか行きたくなってきた。ちょうど、24日は太平洋側を中心に晴天が広がるという天気予報もあったために、どこかに日帰りで出かけようとは思っていた。熊野本宮に前に参拝したのは2004年の夏で、ちょうど熊野三社と熊野古道が世界遺産に認定されてすぐ後のことである。結構前の話になるのかな。
ただ、日曜日に日帰りで行こうということになれば、残念ながら公共の交通機関では難しい話。青春18きっぷのシーズンも終わり、一泊するのも旅費がかかるということで、今回は早朝出発でキューブを出動させることにした。
・・・ということで、その様子について次からボチボチ書いていきます。クルマの旅ならではの面白さもあったということで・・・・。今日はさすがに疲れたので、これで失礼します。
1月17日の富山紀行の続き。
駅前で昼食を済ませた後に向かったのは、富山ライトレールの「ポートラム」。JRの旧富山港線を引き継いだLRT。この成功が公共交通のあり方に一石を投じることになったのは記憶に新しいところである。
今回、セントラムに乗車したということもあり、それならばこちらにも顔を出しておこうというものである。車内は岩瀬の競輪場に向かう人も含めて結構乗車している。
道路上から専用軌道に入る。道床上には根雪が張っている。雪の上を走るライトレールに乗るのは初めてで、何だか不思議な気持ちがする。その一方で車内には穏やかな日が差し込み、コトコト走る中でウトウトとしたくなる。
そんな眠気覚ましということで、終点を前に東岩瀬で下車。あまり時間はないのだが、また岩瀬の町並みを歩くことにする。2007年の時刻表検定試験での「旅打ち」で大和人さんと一緒に歩いて以来。
その時は北前船の廻船問屋で栄えた森家住宅を見物し、南北をさかさまにした「環日本海地域」の地図などに感心したのだが、今日のところはさほど時間がないとあって、通りから建物を眺めるにとどめる。
ライトレールとの相乗効果で岩瀬の知名度も少しずつ上がってきているようで喜ばしいところである。
その代わりにということで、富山港を見下ろす展望台に上がる。この日の朝、雨晴の海岸に立っていた時と比べても実にいい天気である。たださすがに立山連峰の方面は雲がかかっており、天候がよければこちらの方向にパノラマが広がったことだろうが残念。
ロシア語をはじめ各国語で書かれた看板などを見ながら、岩瀬浜に到着。ここから再びライトレールに揺られて富山駅に戻る。こちらにもまた乗りに来る機会があることだろう。
そろそろ、鈍行乗り継ぎの旅に戻ることにする。長丁場ということもあり、立山そばを小腹にいれる。このそばも駅そばにあって人気の高いメニューである。
金沢行きは急行型のボックス席車両。北陸に来たからには寝台電車改造の車両に乗りたいところであるが、このところ途中ですれ違うことはあっても乗る機会がない。そろそろ現役運転から外れる話もあり、もう一度乗っておきたいところであるが・・・。
そう思っていたら、金沢駅に到着した時に回送として停車していたのを見つけたのですぐにカメラを取り出して撮影。この先、何回この姿を見ることができることやら。
このほかには、大阪行きとなる「雷鳥」にも遭遇。こちらもこの3月で実質上の廃止となることから、ファンの注目を浴びている。このほかには、「『北陸』『能登』撮影場所はこちらです」とホームの一角が仕切られていたりと、この冬はそれらの列車を目がけてやってくるその筋の人たちが多いのだなと推察される。
さて時刻表上では次の列車にはすぐ乗り継ぎとなるが、ここは次の敦賀行きまで一本落として、夕食を買い求めに駅のコンコースへ。ここで見つけたのが、香箱ガニのちらしずし。金沢の冬の味覚である香箱ガニをほぐしてすし飯の上に盛り付けたもの。まあ、ご飯はともかく香箱ガニの身が味わえるのはよい。さすがに金沢発車時は車内も混雑していたので広げることはできなかったが、小松を過ぎると空のボックスも見えるようになり、ここでゆったりと味わうことに。いや、北陸の味に出会えましたな。
この後は敦賀、長浜と乗り継いで尼崎まで乗車。ただ、長浜から乗った新快速だが、気がつけば高槻ということで睡眠が長かった。夜行バスで出発して一日乗車して戻ってくるという強行軍、後半戦はさすがに疲れたような気がする。それでもまあ、この冬も充実した「青春18」の旅をすることができたように思う。
春になればまた北陸・上信越でBCリーグが開催される。またこれらの観戦を組み合わせた北陸旅行を楽しみたいものである・・・・。(終わり)
富山の新たな顔・セントラムの乗車を楽しんだ後は、旧型車両の路面電車でガタゴトと南へ。やっきてのは「広貫堂前」停留所。
この広貫堂というのは富山の製薬会社。富山といえば「薬売り」である。この広貫堂の本社工場の敷地内に資料館を設け、富山売薬の歴史について紹介しているという。これは会社のPRも兼ねていることもあり入場は無料である。
入口では昔の装束の薬売りの人形が出迎えてくれる。合わせて係の人の出迎えを受け、入場料を取る代わりにアンケートの記入を求められる。何県から来たか、ここを知ったのはどのツールからか、などの質問に答えると、記念にということで栄養ドリンクを1本進呈される。
まずはPR映像の鑑賞。広貫堂の社名の由来とは「広く救療の志を貫通せよ」という言葉から来ているのだとか。そして、その言葉の主というのが、富山藩2代目の藩主である前田正甫というのだそうだ。この正甫というのは富山売薬の祖として尊敬されている。江戸城の集まりの折、別の藩主が急に腹痛をもよおした際、正甫が持参の反魂丹を服用させたところたちどころに治ったというエピソードがある。
それがきっかけで富山の薬というのが評判となり、富山藩でもこれを利用して藩の財政をまかなうことにしたのが富山売薬のルーツという。
この売薬に用いられたのが、先に薬を置いておき、次に回って来た時にはそれまでに使った分だけの代金を収受するという「先用後利」の商法。現在もうけつがれている富山の商法である。
資料館にはこういう売薬の行李やら、薬の袋に使われたさまざまな絵柄、それに薬草のサンプルなどさまざまなものが見られる。富山には民俗村や金岡邸など、売薬の歴史がわかるスポットがいろいろとあるが、ここ広貫堂資料館がコンパクトながらわかりやすい展示のように思う。
ここでは直接触れられていなかったが、江戸期以降の北前船のネットワークの発達には富山の売薬も大いに絡んでいる。ここではくどくどとは書かないが(書けば長くなってしまう)、こういう流通と文化交流のネットワークの役割を受け持ち、さまざまな影響を及ぼした歴史に興味ある者として、北前船ネットワークの影響で富山が「昆布ロード」の中継点となったこと、これら諸々の産業史の舞台となっているところも、私が富山というところに興味を持っているひとつの理由である。
富山売薬の解説の冊子を買い求めた後、再び路面電車で富山駅に戻る。昼食をということだが、夜ならば見当をつけてキトキトの魚が出る店ということで、駅前にあってBCリーグ・富山サンダーバーズファンの集まる店である「やっとるぞー五條」に行くところなのだが、日曜の昼は「やってないぞー」ということで、さてどこに行こうか。ありそうでなかなか店が見当たらないところが地方都市の物足りないといえば物足りないところ。
駅前のビルに料理屋を見つけ、「旅御膳」というセットをいただく。ホタルイカ、白エビの昆布締め、白エビの天丼、氷見うどんというところ。確かに富山名物は揃っているが、うう、やはりなあ・・・。
とりあえず昼食を済ませ、駅構内へ。富山に来ればほぼ毎回、駅待合室内の「魚吉」で魚料理やら寿司やらを買い求めている。ここで寿司でも買ってどこかで広げたほうがよかったかなと、食後になって思ったりもする。まあここは土産物ということで。
さてこれから午後の部ということで・・・・。(続く)
雨晴海岸にいるうちに明るくなった高岡の空。氷見線で高岡に戻ったころにはすっかりと青空が広がり、太陽も柔らかな姿を見せてくれた。地元の人にとってはありがたいことだろう。
高岡で少し時間を作ることにして、駅の南口から歩いて10分ほどの国宝・瑞龍寺に参詣する。富山前田家の菩提寺であり、重厚な造りの伽藍構成の建物が並ぶ。
青空が広がるが凛とした寒さはあり、それが境内に入ると余計に身が締まるように思う。しばらく境内を散策した後、駅に戻る。時間があれば万葉線に乗車するとか、高岡の古い町並みを見て回ることもできるのだが、今回は富山市内がメインということで移動する。そろそろ街中に向かう人も多かった。
さて、これから乗るのが「セントラム」である。正しくは富山地方鉄道の軌道線であるが、これまで大学前~富山駅~南富山駅前をちょうど三角形に走っていた路面電車について、街の中心部に当たる丸の内~グランドプラザ前~荒町の間に新たに線路を敷き、この区間を含めて「環状線」として運転するというものである。旧JR富山港線を利用した「ポートラム」に続き、路面電車を交通の軸に据えた富山の新しい街づくりの顔として期待されるという。
富山駅から路面電車乗り場に向かうとちょうどその「セントラム」用のLRT車両が停車していたので迷わず乗り込む。
窓には「2009.12.23 DEBUT!」という大胆なシールも貼られ、何というのか、この街の新たな意気込みというのを感じる。
車内はクロスシートありベンチシートありで、ちょうど昼前の時間だからかほどよい混雑ぶり。早速シートに腰を落ち着けて走りを楽しむ。
丸の内までは従来の軌道を走り、ここで左折する。ここからは単線である。「環状線」とは言うものの「内回り」「外回り」という区別はなく、半時計回り(結局は内回りということになるのかな)のみの運転である。それでも、富山城の堀端を通ったり、街の中心部の大きな建物の前に出たりと、中心部を抜けていくコースどりはなかなかのものである。これまでありそうでなかったコースというのかな。
乗車は1回につき200円ということだが、面白いので結局富山駅前まで一周し、もう半周した国際会議場前で下車。車内をよく観察すると、同じように一周以上している人もいるし、何本も列車を待って「これに乗りたかった」と係員に話をしていたお年寄りもいて、注目度の高さがうかがえるところだ。もっとも、一周といっても直線距離で1キロ四方の環状線。20分もあれば終わってしまうので、これは本当に気軽なアクセスとして楽しめるのではないか(もっと欲をいえば、1回100円にでもすればより乗車が増えると思ったりもして・・・)。
ちょいと絵になるかなと思ったので、「セントラム」と富山城天守閣(復元です)のツーショットを・・・・(ヘタクソですが)。いや~、富山市もオツなことをしてくれたもんだ。
もう一度乗車し、グランドプラザ前で下車した際に乗換券をもらう。これを持って従来の系統である南富山駅前行きに乗り継ぐと、従来線の運賃はタダになる。環状線と従来線の連絡もきちんと考えているところも評価の対象。
こちらは従来のガタゴトいう電車。LRTのスムーズな乗り心地はもちろん快適であるが、こういうガタゴト電車の乗り心地も、「路面電車やなあ」ということで捨てがたいものである。下駄履きでも気軽に乗れるというかな。従来線だと日中5分おきでやってくるのもいい。
これで向かうのは、富山の産業史を今に語ってくれるポイントである・・・・。(続く)
1月17日、富山5時43分発の小松行きで西に向かう。ブルートレイン「北陸」やボンネット車両「能登」を見ることができなかったのは残念だが、また出会えるだろうか。
ところで、発車してすぐの5時46分、西のほうに向けてしばし黙祷。この日はちょうど、阪神・淡路大震災から15年である。
高岡に到着。この日は氷見線に乗ろうと思う。ただ始発列車はちょうど出て行った後で、1時間ほど待機となる。特急を待つ客や高校生の姿も多い。センター試験の2日目であり、JRも臨時列車を出すなどで対応に当たるようだ。
さて、氷見線の到着する7・8番ホームに向かう。4両の気動車が停まっているが、そのうちの2両が「忍者ハットリくん列車」というやつ。
これは、ハットリくんの作者、藤子不二雄Aさんが氷見の出身ということで、観光PRの一環で走っているものである。境線のゲゲゲの鬼太郎の塗装と双璧をなす。車内には直筆サインもあった。
これが氷見をイメージさせるのが、豪快に描かれた「氷見ブリ」。この車両に乗るのは初めてだが、以前高岡の構内に停まっているのを見た時に「こりゃ"ブリートレイン"やな」と思った。「ブルトレ」は見ることができなかったが、「ブリトレ」に乗れたことでよしとしよう。
少しずつ外が明るくなる中出発。周りの家々の屋根には20~30cmほどの雪が乗っかっており、ツララも見える。それでも今日の天気予報は曇りということで、まずまずのコンディションで旅ができそうだ。
住宅街を抜けると巨大な工場群が並ぶ一角へ。専用線を行くかのような車窓が広がったと思うと、昨年まで「如意の渡し」が運航されていた伏木を過ぎるとかつての越中国府の古い町並み。今度は路地裏を走り、これを抜けると広がるのは黒い日本海・・・・。終着の氷見は魚介類に氷見うどんも楽しめる町ということで、30分ほどの間にこれだけめまぐるしく車窓が展開する路線もなかなかない。こういうことから、私の好きなローカル線の一つにこの氷見線が挙げられる。
この日は海岸に近い雨晴で下車。観光写真でもおなじみの雨晴海岸へと向かう。
海岸にも雪が積もっているが、その雪の中で三脚を立てて陣取ったり、カメラを構えて動き回る人もいる。みんな、海岸の向こうに立山連峰が姿を見せるのを期待しているのだろうか。
ただ、雪も舞わないものの山のほうから雲が広がっており、残念ながらそういう思った構図の写真撮影は叶わず。ただこういう高波の厳しさというのも結構うならせるものがある。
その代わりといっては何だが、海岸を行く列車を撮影しよう。時間まで義経岩のところに陣取って、高岡駅で買い求めた銘酒立山をチビチビやりながら待つ。
まずやってきたのは先ほどの「ブリートレイン」。海岸を行く列車を外から見るというのもなかなか面白いものである。
雨晴から高岡に戻る列車は一度氷見まで行くのが折り返してくることがわかっているので、その氷見行きも撮影。素人の構図ながら自分的には満足である。
雨晴駅に戻り、地元の観光協会の人が焚いてくれるストーブで暖まりながら、構内に飾られた四季折々の海岸の写真を鑑賞。お決まりの海岸と立山連峰の構図に始まり、夜明けの写真、雪化粧などいろいろあってうならされる。また自分で実際に目にしたい、また来る機会を楽しみにしよう。
8時28分発の高岡行きで雨晴を後にする。先ほどいた海岸を今度は車内から眺める。するとどうだろう、空が明るくなってきたように見え、しばらく走ると空もすっきりと青くなった。
うーん、雨ではなかったが海岸を後にした後に晴れるとは、文字通りの「雨晴海岸」でびっくり。冬の時期に訪れた貴重な晴れの日、これからの行程が楽しみである・・・。
「青春18」も残り1枚となった1月16日の夜、阪急の梅田駅に現れる。先週に続いてもう一度「夜行バス+青春18折り返し」の旅をしようというものである。向かったのは、北陸は富山。
鉄道や町歩きが好きな私にとっては、富山というところはなかなかバラエティに富んでおり面白い。今回は、昨年12月に開通した路面電車「セントラム」に乗ることも一つの目的である。
阪急梅田から各方面に向かう夜行バスは土曜日発ということでほとんど「空席あり」の表示だったが、富山行きに限って「満席」の表示。何かわけがあるのだろうか。まずは半数くらいの席が埋まって梅田を出発。新大阪や名神高速のバス停を経由して京都駅へ。ここで残りの座席が埋まった。草津サービスエリアで休憩を取り、ここでお休みタイムとなる。
翌朝、小矢部川のサービスエリアで乗務員休憩停車をしているところで目覚める。列車もそうだが、停車すると目覚めるというのは不思議なものだ。こうなると後はおぼろな状態で富山駅まで運ばれる。定刻では5時30分だが、15分くらい早着した。おっと、これはラッキーだと思いつつ、駅構内に向かう。
というのが、これは17日の行程をどのようにしようかとバスの中でざっと時刻表を見ていた時のこと。これによれば、5時34分「北陸」到着、5時39分「能登」到着とある。この3月のダイヤ改正により廃止が決まった両夜行列車の到着である。乗ることはできないにしても、その姿だけでもカメラに収めるとしよう。定刻だとちょっとバタバタするかなという気持ちがあったので、この早着はありがたかった(写真は過去に遭遇した「能登」)。
・・・・が、改札口までやって来るとこの表示である。上越地方の大雪による「運休」。いやまあ、自然というのはそういうものだろう。今や夜行列車の運休情報はこちらが意識しない限り接することがないが、おそらく年に数回はあるだろう「運休」も、この夜行列車の廃止の一因となったと言えるのではないだろうか。
これからこれらの列車に乗ること、見ることができるかどうか。そんな気持ちを持ちながら、とにかく改札をくぐる。まず向かうのは高岡方面・・・。(続く)
まだ10日の話が続いています・・・。
鳥取から当初の「山陰線を東へ」という方向を変えて因美線に入る。まあ、山陰線の但馬地方というのはまた訪れる機会もあるだろうからという思いがあった。
鳥取から少しずつ山が深くなる。ただ周りの雪はみるみる少なくなり、山陰の冬景色はこんなものなのかなという気がする。
この列車の終着駅・智頭に到着する。せっかく訪れたのでここでも少し下車することに。この智頭というのは因幡の国の中でも最大の宿場町であり、山陰と山陽を結ぶ交通の要衝である。
その宿場町のあたりに古い町並みが残されているということで駅から歩く。15分ほどでその一角にやってきた。「智頭往来」と呼ばれる通りである。格子づくりの家が並ぶ一角。
ここで、最大の屋敷である石谷家を見学。古くは塩問屋、その後は問屋業や山林業を興し、このあたりでは最大の庄屋だったという。また説明書によれば、経済活動の一方で学校建設、道路改修、救済事業など町の発展につくしたともある。
座敷やら庭園やらにさまざまな意匠をこらしている。庄屋屋敷というが、そのつくりは結構武家屋敷っぽかったりする。それにしても冬の日本家屋というのは結構冷える。ちょいと早足で室内を見て回る。
この辺りは宿場町の名残か、昔の「屋号」と思われる店名を書いた札が軒先に吊るしている家が多い。
また「屋号」とセットになっているのが、軒先の杉玉。中にはふくろうなどアレンジして作られたものもある。これも町の観光名所に、ということで作られたものである。そして杉玉といえば思い浮かべるのが酒造会社。果たして、諏訪酒造という酒蔵があり、ここで地酒「諏訪泉」というのを買い求める。
智頭駅に戻る。ここからの選択肢は、関西への短縮ルートである智頭急行と、一日に数本しかない津山までの因美線。さてどうするかと時刻表を見るに、その一日数本の因美線の発車が近い。おまけに車両も岡山カラーのキハ40ということで、これは乗っておくことにしよう。
私が車内に入った時はガラガラだったが、発車間際に鳥取からの列車が到着し、乗り継いでくる客で結構座席が埋まる。結構「青春18」利用と思われる客が多い中で県境越えに挑む。
先日クルマで若桜鉄道や因美線の木造駅舎を回るドライブをしたが、その時はカーナビの気まぐれで細々としたカーブが連続する山道に誘導された。そこへ来て因美線は長い物見トンネルで一気に抜けていく。
そろそろ夕闇の迫る中、美作河井、知和などの木造駅舎のある駅を通る。このあたりは乗降客もほとんどなく坦々と進む。
美作加茂からは少し町が開けてきて、何人かの乗客があった。そのうちの一人の男性が私のいるボックスに腰掛け「今日はやけにたくさん乗ってますね。あなたもご旅行ですか?」と話かけてくる。津山に勤めているのだが普段はクルマ通勤のところ、今夜は宴会だとかで鉄道に乗っているとか。「乗りたくても本数がほとんどないし、結構不便。乗ったとしてもほとんどガラガラだしね」などという話になった。これはローカル線にとって永遠のテーマと言えるだろう・・・。
すっかり暗くなって津山に到着。そろそろ関西に戻ろうということで、ここで男性と別れて反対側ホームに停車していた姫新線の作用行きに乗車。ロングシートに陣取り、音楽と読書で過ごす。周囲が暗いため、昨年の台風で被害にあった作用の様子を見ることはできない。
そうしてやってきた作用駅だが、このまま姫新線を乗り継ぐとして、1時間ほどの待ち時間ができた。ちょうど夕食の時間帯ということで、まだ帰宅には遠いのだからここで食事ということにしよう。
作用の名物と聞いて思い浮かべるのが「ホルモンうどん」。幸い、駅前に小ぢんまりとした居酒屋があり「ホルモンうどん」の文字も見える。こういう小ぶりな店に初めて入るのは緊張するものだが、周りに他に店はなし、ということで入ってみる。
「汽車で来たの?どこまで帰るん?」とおばさんに鉄板の前に案内され、ここでホルモンうどんを注文。目の前でホルモンと野菜を炒め、これにうどんを絡ませて焼きうどんのようにこしらえる。これを独特のスパイスとソースで味付け。これを鉄板からよそっていただく。寒い日にこういうあったまる料理というのはよろしいもので。
カウンターの奥では地元の人と思われる二人が酒盛りの最中(店に自分の冷蔵庫スペースをキープしているのか、冷蔵庫から缶ビールを取り出す光景も)。北朝鮮問題、日米安保問題、靖国問題など、酒場のテーマとしてなかなか熱い議論が繰り広げられており、議論に参加するわけではないが横で聞いているだけでも結構中身の濃い話。
一息ついたところで姫路行きに乗車。新型車両キハ127系は転換クロスシートを備えた、ほとんど都市型の車両。「気動車に乗っているな」ということをあまり感じさせない軽快な走りである。ここも坦々と進み、ようやく姫路まで出る。あとは新快速に乗り継ぐだけだ。
朝の松江に始まり、結構長い一日であった。夜行バスにはこれまであまり乗らなかったのだが、こういう変形の「日帰り」というのもなかなか面白いものであった。この「夜行バス+青春18」というのもこれからありかな、と思ったところである・・・。(終わり)
10日の昼前に鳥取駅に到着。ここでは昼食の時間を含めてのインターバルを取ることにしている。
ということで、まずは昼食に出かける。せっかくここまで来たのだから何か海の幸を食べたいものである。駅の構内には日本海の魚を使っているという回転寿司の店があるが、まあここは押さえにしておいて、街中に出ることにする。といっても、駅前通りはシャッターを閉めている店が多く、外の気温を合わせて余計に寒々しく感じられる。
冬の鳥取といえばカニかな・・・という思いと、昼間からカニを出す店もそうあるものではないという思いの中で歩くと、「太平楽」という店に出る。ひょっとしてこの建物は昔ビジネスホテルではなかったかな・・・?
という思いをするのが、私がJR乗りつぶしの旅に出るようになって初めて泊まったビジネスホテルが、確かこの場所にあった「ホテル太平」というところだったからである。もう20年も前のことだし、今や格安チェーンホテルもあちこちできることから、ホテルをたたむことも充分に考えられる。そういうことがあったからというわけではないが、いろいろ魚メニューも取り揃えているようなのでここに入る。
昼のことで定食がメインだが、カニの一品料理もある。ただし、店の人によれば今日は市場が閉まっているとかで、松葉ガニに親ガニ(セコガニ)の入荷はないとのこと。ただその中で、冷凍でよければカニの刺身はできるという。まあ私の場合、冷凍ものでも有り余る話であり、通常の刺身の定食にカニも付け加えるという形で注文する。
やってきたカニ刺。もっといい産地や店にいけばこんなものではないのだろうが、充分に甘味を楽しむことができる。そんな、刺身なんてなかなかお目にかかれるものではないしね。これだけでも鳥取まで出張った(折り返してきた?)甲斐があるというもの。
一方の刺身の盛り合わせもボリュームたっぷりで、ごっつぁんでした。これらの品々を味わううち、思った以上に昼食タイムが延びてしまった。これも「飲み鉄」活動の一環といってしまえばそれまでなのかもしれないが・・・・。
当初の予定では昼食を取った後に、鳥取砂丘にでも出かけようかと思っていたのだが、店を出ると結構な雨。この分では砂丘に行ったところでコンディションも悪く、あまり面白いものでもないだろうということで結局キャンセル。あそこはカラッとした天気の下、プチ砂漠気分を味わうのが楽しいだろう。この時期に行ったとしても普通に巨大な砂浜を歩くだけになるだろうし・・・。
ということで、方針転換で鳥取温泉に向かう。この温泉は別にバスに乗って出かけるわけではなく、駅から徒歩の圏内に天然温泉があるというのである。県庁所在地の真ん中に天然温泉があるところというのもそうあるものではなく、鳥取の楽しみ方の一つである。まず向かったのは老舗の「こぜにや」だが、日帰り入浴の受付にはまだ1時間ほど後だという。
さすがにそこまでは待てないのでとその辺りをぶらつくうちに見つけたのが、「日乃丸温泉」。ここは昔ながらの街中の銭湯で、入浴料は350円(ただしシャンプー等の備え付けはなし、タオルももちろん持参)。結構熱い湯の中に、地元の人たちに交じって身体を収める。こういう冬の時期の温泉というのも本当にありがたいものだ。昨夜の夜行バスから来てようやく心身をリラックスできる時間に会えたような感じがする。
結局鳥取の時間は食事と入浴に費やされたようなもの。夜のそれなりの時間に関西に戻ることを思えばそろそろタイムリミットである。当初の「山陰線を東へ戻る」という計画であれば14時18分発の浜坂行きに乗れば結構途中下車もできる。ただ、ここに来て駅の行先表示板を見るに、14時10分発の智頭行きというのもある。こういうのを見るとどちらにも魅力を感じるように思うし、海沿いに行くか、山の中に入るか、結構迷うところである。
・・・少し迷った結果、選んだのはここでも「あらかじめ計画をガチガチに立てない」という趣旨の旅。ということで、当初の予定を変更する形で智頭行きに乗車する。やってきたのは、今朝方米子から倉吉まで乗ってきた普通列車と同じ車両。
鳥取駅を出発すると間もなく、浜坂方面に向かう線路をプイと分けて南のほうへ。山のほうに向かうのだから雪も深くなるだろうと思いきや、案外そうでもなかったりする・・・・。(まだ続く)
昨日の記事で大関・魁皇の幕内通算808勝のことを書き(今日は大関が4人とも揃って負けましたね・・・相変わらずの体たらくで)、その相手が千代大海だったことにも触れた。
それが一夜明けてみて、その千代大海が引退を表明。うーん、昨日のテレビ解説で北の富士さんが取組終了後に「もう取れないんじゃないかな、もう取らせたくない気持ちだね」と言っていたその通りになった形だ。やはりプロの目にはそう映っていたのかな。
ともあれ、万年カド番とかいろいろ言われたが、突き押しだけで大関まで昇りつめた力士というのはそういるものではなく、また、大関在位も史上一位(これは、ついぞ横綱になれなかったという意味でもあり、通算の金星や三賞獲得が史上一位の力士が大関になれなかったのもその類)というのも大相撲史上に名を残すことである。少々、大関の地位や晩節を汚した面は感じられるが、ともあれ、お疲れ様でしたというところ。
・・・・さて、山陰夜行折り返し旅行記録の続き。10日の未明に松江駅に降り立ち、もうそのまま東に向かうことにした。まずは松江5時58分発の「やくも4号」に乗車。駅前のコンビニに「出雲の割子そば」があったので、出雲に来た印として朝食とする。
松江駅の看板に、「フリーゲージトレインの導入で山陰と大阪・東京が直通」という内容の島根県の広告があった。フル規格新幹線、ミニ新幹線のいずれとも異なる方式であるが、果たして実現するのはいつのことやら・・・・。
まだ暗い中を走り、米子に到着。最初は、鬼太郎列車の走る境線に20年ぶりくらいに訪れようかとも考えたが、境港まで行ったら鬼太郎やら日本海の鮮魚やらにも触れたくなるし、ここは松江・出雲と合わせて次の楽しみとしておこう。
冬の山陰の日の出は遅く、暗い中を坦々と走る。線路際には白いものも見え、雪は降っていないが寒々とした感じがする。ボックス席に陣取った客たちも厚着のまま小さくなっている。そろそろ空が明けてきたが、どんよりとした曇り空で、この天候では伯耆富士(大山)の姿を見ることはできない。
7時52分に倉吉に到着。いくら「東へ戻る旅」といっても途中下車しないのは面白くないので、ここで下車することにする。鳥取県の中央部に位置する町で、赤瓦や白壁で彩られた伝統的な町並みが残されているスポットがある。ただ駅が町の中心部から外れたところにあるため、現在建て替え工事中の駅前からバスで15分ほど移動する。
やってきたのが倉吉の町並み。朝早いこともあり観光客の姿を見ることはないが、その分静かな感じのところを歩く。ちょっと散歩するには適したところだ。
実はこの町並み、2003年の5月に出火し、古い建物も全焼するということがあった。倉吉にはその後で一度訪れたことがあるが、当時は復興工事中で周囲を覆われていたのを覚えている。その建物も今は復元されており、逆に「往年の白壁はこのように鮮やかに見えたのだな」ということをうかがわせることになった。
商家の店頭には懐かしいコレクションということでいろいろなものが展示されている。その中の一軒でこのようなものを見つけた。大関・琴光喜に琴欧洲のサイン色紙。はて、両大関であるのはわかるのだが、なぜこんなところに飾られているのか・・・。
その答えは、この町並みの一角に立つ銅像にある。両手を広げた恰幅のいい姿は、第53代横綱の琴桜。琴桜といえば横綱だったということ以上に、佐渡ヶ嶽親方として数多くの関取を育てたり、審判部長として土俵の充実に寄与したということで評価されている。四股名に「琴」とつく力士はたいていこの親方の弟子で、現親方の琴の若にはじまり、琴風、琴千歳、琴錦、琴富士、琴稲妻、琴光喜、琴欧洲、琴奨菊・・・など猛げいこで鍛え上げられた力士が並ぶ。
この琴桜は倉吉の出身で、その顕彰で建てられた像である。大相撲の興行というのが「この力士はどこの国の者か」という、昔の大名お抱え時分の頃から番付に出身地名(国名)を記したり、今でも場内アナウンスで「○○県××群△△町出身、□□部屋」というように、郷土の代表が土俵で争うようなところがある(それが最近は「モンゴル○○市」とか「グルジア」やら「エストニア」に代わったのはさびしい感じがする)。
こういう、郷土に銅像が建つというのも、郷土を代表して土俵にあがる力士冥利につきるというものだろう。先に808勝を挙げた魁皇に独特の雰囲気と魅力があるのも、こういう「郷土色」を今に残す数少ない力士ということがあるように思う。私も子どもの頃からそういう力士を通して、「青森県はどんなところなんや」とか「北海道に強い力士が多いのは何でかな」と思ったクチなのだが・・・。
さて、そんなことを思いながらやってきたのは、倉吉線鉄道記念館。ここは、1985年まで走っていた旧国鉄倉吉線の打吹駅の跡地に建つ。元々はここが倉吉駅を名乗っていたそうだ。
記念館は無料で、自分で勝手にドアを開けて照明もつけるというセルフサービス。往年の機関車の展示をはじめ、倉吉線の往年の賑わいと、廃止間近の姿をとらえた写真パネルが展示されている。現役で走っていた時には乗る機会がなかった路線であるが、こうやってみると、地元の人たちが鉄道を本当に必要としていた時代がうかがえる。おそらくこの頃は大相撲も国民的な娯楽として人気だったよな・・・・と、先の琴桜の像とダブって感慨にふける。
ただ、倉吉の町並みも伝統的な町並みを大切にしたり、昔懐かしいものを「世間遺産」として大切に展示する一方で、「さわやかなトイレで町おこししよう」と清潔な公衆トイレの整備を行ったりと、魅力のアピールに懸命である。もう少し多くの観光客に認知されてもいいな、と思うのである。
しばし歩き回った後に再びバスで倉吉駅に戻り、次の鳥取行きの客となる。伯耆から山越えをして因幡の国に入る。それにしてもこの列車、行き違いやら通過待ちなどでやたらと多くの駅に数分から20分近い停車を行う。寒い中、ドアを開けて外に出て写真を撮ったりして時間を過ごす。途中から乗ってきた親子連れの小さな子どもが、「スーパーまつかぜ」や「スーパーはくと」になぞらえてか「この列車、スーパー鈍行や!」と喜ぶ。「スーパー鈍行」ね・・・。なるほと、駅ごとに長時間停車したりというのもなかなか見られない光景で、言い得て妙かな。
その「スーパー鈍行」もいつかは終点に着くのであって、11時08分、鳥取に到着。この駅に降り立つのも久しぶりのことだ。ここは昼食も兼ねてある程度時間を見込んでいる。寒く、雪ではなく雨の降る中、高架の駅舎を出る・・・。(続く)