まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

神仏霊場巡拝の道めぐり~八幡山からの景色を楽しみ、締めの一献

2024年12月25日 | 神仏霊場巡拝の道

11月30日~12月1日の神仏霊場巡拝の道めぐりは4ヶ所を回り、その前に西国三十三所の谷汲山華厳寺にも参詣した。そして近江八幡の日牟禮八幡宮で終了。まだレンタカーの返却まで時間があるので、八幡宮のすぐ横から出る八幡山ロープウェーで山上にある八幡山城跡に向かうことにする。

通常ダイヤだと15分おきだが、ちょうど山上の紅葉が見頃ということで実質ピストン輸送している。早速乗り込む。所要時間は4分だが、その間に近江八幡の城下町の景色、琵琶湖につながる水郷の一帯の景色が広がる。

八幡山城が築かれたのは豊臣秀吉の天下取りの中である。本能寺の変の後に焼失した安土城に替わり、秀吉の甥の秀次への恩賞として与えた近江の新たな拠点として城を築き、安土から遷した城下町を開いた。ただこの秀次は悲劇の人で、当初は子のない秀吉の後継者と目されていたが、秀頼が産まれたことで次第に疎まれるようになった。最後は謀反の疑いをかけられて高野山に追放され、切腹させられた。

その後の八幡山城は京極高次が城主となったが没後に廃城となり、江戸時代には天領として近江商人の町として栄えるようになった。

さてロープウェーを降りると、山上一帯が紅葉の見頃である。ちょうどこの日(12月1日)まで「竹灯りの紅葉路」というイベントが行われており、竹を切って作った灯籠が並ぶ。そうし中、かつての城郭跡をめぐる。

かつての本丸跡には、日蓮宗の門跡寺院「村雲御所 瑞龍寺門跡」が建つ。豊臣秀次の菩提を弔うために京都に開かれた寺院だが、1961年にここに移築されたとある。切腹から400年以上の時を経て名誉が回復されたということかな。この境内からの眺めもなかなかよい。

反対側の西の丸跡に向かう。ちょうどこちらは琵琶湖に面した側である。近くは長命寺山、そしてはるか遠くには比叡山の方向も見ることができる。1日の札所めぐりの最後にふさわしい景色である。

ロープウェーで下山し、駐車場までぶらぶら歩く。そして近江八幡駅前のトヨタレンタカーに到着し、レンタカーを返却する。

さてこの後だが、近江八幡からJRで京都まで出て新幹線に乗る予定である。それまで時間があり、近江八幡で一献としてから移動しても十分間に合うくらいである。しばらく、駅前のイオンにて時間をつぶす。

そして開店を待って入ったのが駅前の「らいおん丸」。2023年の大晦日、神仏霊場めぐりで近江八幡に泊まったのだが、その時の一献の店として入ったところである。さまざまな料理あり、雰囲気もよかったのを思い出し、列車までの時間を過ごすことにした。

まずはサッポロの赤星で乾杯。「白子祭」ということで白子ポン酢と合わせる。

その後は近江鶏のとり皮ポン酢、寒ブリの塩たたきなどいただく。白子もそうだがいずれも濃厚な味わいである。

滋賀の地酒も充実しており、松の司、七本槍、喜楽長といった銘柄が並ぶ。またメニューにあったので鮒ずしも注文。

最後は、その七本槍を使った「サムライハイボール」。滋賀の夜はよいものになった・・。

近江八幡から新快速で京都に移動し、20時02分発「のぞみ79号」広島行きに乗る。帰りの列車を選ぶうえで、終点広島というのは安心である。

そして今回は7号車「Sシート」を選択。料金は上乗せになるが、隣を気にせずゆったりと・・(パソコンは使わないが)。

さて今回の札所めぐりで、神仏霊場巡拝の道も残り30ヶ所あまりになった。依然として京都近辺に札所が固まっているが他地区にも点在しており、2025年はどのような形で回ることになるかな・・・。

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滋賀10番「日牟禮八幡宮」~神仏霊場巡拝の道めぐり・120(近江八幡の町並み)

2024年12月24日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりは、途中八日市で太郎坊宮に参詣した後、近江八幡の市街地に入る。カーナビは日牟禮八幡宮でセットしたのでレンタカーはいったん境内に入るが、八幡宮やその周辺の店舗を訪ねる客で満車。ここは退散して、市営の小幡観光駐車場に向かう。八幡宮門前の駐車場が無料なのに対して(あくまで参詣者用だが)市営は駐車料500円だが、街並み散策と合わせると妥当なものである。

まずは新町通りから八幡堀を目指す。江戸時代から近世にかけて活躍した近江商人たちの邸宅が並ぶ。商人といっても近江商人の場合は、近江八幡のこの場所で店を構えて直接の商いをしていたというよりは、諸国を行商して回ったり、交易を担うことで利を得ることを主としていたという。その系譜は現在の商社、流通業、繊維産業などに受け継がれている。

その奥が八幡堀。琵琶湖に近い水郷めぐりとは異なるが、この堀をゆっくりめぐる遊覧船も出ている。

この堀に沿って歩く。昔ながらの家屋が続く中、それをリニューアルして飲食店や土産物店として多くの客を集める店舗もある。そういう店もあるが、この八幡堀のあたりも時代劇のロケ地によく使われるという。私が来た時、たまたま着物姿に二本差しという人が堀端を歩いていたが、この方は役者さんなのか、観光客のコスプレなのか・・。

改めて日牟禮八幡宮の鳥居をくぐる。境内にクルマが多いのは八幡宮への参詣者もいるのだろうが、それよりも有名店の「たねや」や「クラブハリエ」が目的という客も多そうだ。あくまで買い物が目的ということで無料にしたため混雑しているといっていい。まあ、ここでの駐車待ちで時間をロスするより、有料だが観光客向けに広いスペースを確保している市営駐車場のほうがタイパ的にもいいだろう。歩きながら城下町や堀端の風情も味わえる。

八幡宮の楼門をくぐる。ここ日牟禮八幡宮には今年(2024年)の元日、長命寺を訪ねた帰りにバスを降りてやって来た。ちょうど初詣ということで多くの参詣者がいたものの混雑はなく、スムーズにお参りできた。そしてその後神仏霊場の納経帳に朱印をいただこうとそると・・正月三が日は書き置きのみでの対応と掲示されていた。「これを何と読む!!」(注:このブログにおいては「朱印は書き置きのみでの対応」を指す)が発動した瞬間である。私自身、神仏霊場の道めぐりにおいて「これを何と読む!!」は何度かあったが(先ほど訪ねた百済寺もその一つ)、さすがに今度は大丈夫だろう・・。

前回は初詣だったが今回は七五三。12月なのに?と思うが、今は当日(11月15日)の1ヶ月前後に分散しているそうだ。

そしてこの日、七五三ではなく境内でご祈祷を受けていたのは新車である。

日牟禮八幡宮の歴史は古く、成務天皇が武内宿禰に命じて大国主命を祀ったのが始まりというから記紀の世界である。平安時代に一条天皇の勅願で宇佐八幡(応神天皇、神功皇后、宗像三女神)が勧請され、現在の近江八幡の地名の由来ともなった。室町時代には足利将軍家、六角氏の寄進を受け、豊臣秀次が八幡山城を築くにあたり、後の商人の町につながる城下町が整備された。

今回は無事に納経帳に朱印をいただくことができた。

さて、ここで今回の札所めぐりは終了。日牟禮八幡宮でちょうど120ヶ所ということで、神仏霊場全体の8割をたどることになった。そして次の行き先だが・・。

予備選のくじ引きで出たのは、

・四天王寺(大阪2番)

・六波羅蜜寺(京都38番)

・水間寺(大阪12番)

・天上寺(兵庫4番)

・仁和寺(京都12番)

・大念仏寺(大阪5番)

西国三十三所で残っている六波羅蜜寺もある中、あみだくじ。

・・・そして出たのは、京都でももう一方の仁和寺。仁和寺じたいは他の札所めぐり、そして四国八十八ヶ所をめぐる前の京都三弘法めぐりで何度か訪ねているが、次に行くなら他の洛西の寺社も合わせられないかなと思う。

まだ時間はあるので、八幡宮の奥にあるロープウェーで八幡山城跡を訪ねてみよう・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~太郎坊宮に参詣

2024年12月23日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりは百済寺から今回最後の札所である近江八幡の日牟禮八幡宮に向かう。その途中に通るのは東近江市・・というより八日市といったほうがピンと来るが。

彦根から近江八幡をたどるなら近江鉄道に乗れればよいのだが、札所があるのは近江鉄道よりもずっと東のエリア。やはりクルマ利用ということになる。

八日市の中心に入り、やって来たのは新八日市駅。「新」八日市という名前だが、現存する駅舎は八日市より「古い」・・という駅である。現在の近江鉄道は様々な鉄道会社の再編を経たものだが、この新八日市駅舎は1922年に竣工した建物。大正、昭和、平成、そして令和と歴史を伝えている。

もう少しレンタカーを走らせて、コンビニで休憩。この駐車場から見るのが太郎坊宮。独特の山の形で中腹にお堂が建っているのだが、その方向から太鼓の音、スピーカーの声、そして煙が立つのが見える。何やら祭事が行われているようだ。太郎坊宮には以前一度訪ねたことがあり、石段がきつかったのを覚えている。神仏霊場の札所ではないが、沿線に来ているし、神仏習合のスポットである太郎坊宮を訪ねるのもいいだろう。この後日牟禮八幡宮を参拝しても、近江八幡でのレンタカー返却までの時間は十分にある。

とりあえずレンタカーでお堂に近いところまで行こうと思ったが、途中の駐車場はどこも満車。そのまま誘導に従っていくと山道の片側にずらりクルマが駐車されていて、結局お堂よりも遠いところまで行ってもその状態。いったんそのまま走らせて山道を下り、八日市駅近くからやり直して結局太郎坊宮前駅近くにある鳥居脇の駐車場に停める。まあ、ここからのんびり歩くとしよう。

以前太郎坊宮に参詣したことがある・・といっても10数年前のこと。参道のことまでよく覚えていないが、こんな感じだったのか。

ここから石段である。太郎坊大権現としてまず着いたのは成願寺。ここでは太郎坊宮としているが、現在太郎坊宮として紹介されている阿賀神社と、ここ成願寺は神仏習合の関係であった。成願寺が太郎坊宮の神宮寺ともいえるし、太郎坊宮が成願寺の奥の院ともいえる。そういう由緒があるなら、太郎坊宮が神仏霊場巡拝の道の札所の一つになってもおかしくはないと思う。

で、ここからである。先ほどの「太郎坊大権現」の石碑から夫婦岩・本殿まで742段の石段があるという。まあ、札所めぐりではこれまでにも多くの石段を上がるとか、登山道を行くということはいくつもあったので、742段なら大丈夫と思うが・・。

・・勾配が結構急に感じる。年齢のせい、運動不足のせいもあるだろう。その途中、真新しい木製の鳥居の並びを見る。令和4年から、直近のものはつい数ヶ月前、令和6年9月とある。

そして中腹というのか、広場に到着する。先ほど見えていた煙はここから出ていたもので、修験者姿の人が何人もいる。知らなかったのだが、ちょうどこの日(12月1日)は朝から太郎坊宮お火焚祭りというのが行われており、全国屈指の神道による護摩行が執り行われたとのこと。私が着いたのはちょうどお祭りが終わった直後だったようだ。これを知っていれば予定を組み替えて訪ねるのも面白かっただろう。

ひとまず、ここまでで結構息切れしたので景色を見ながら少し休憩。

さて本堂までもうひと踏ん張り、石段の続きである。ここからは紅葉の景色を楽しむことができる。

太郎坊宮の歴史は古く、この上にそびえる夫婦岩を磐座として大和時代の欽明天皇の頃には信仰を集めていたという。聖徳太子の頃には阿賀神社につながる祠も建てられたという。後に、ここに棲む天狗の太郎坊のお告げにより、伝教大師最澄が阿賀神社の神宮寺として成願寺を建て、その後は修験道の霊場、神仏習合の地としての歴史が続く。

途中に腰掛岩というのがある。かつて、源義経が鞍馬寺から奥州藤原氏に赴く途中にこの地に立ち寄り、この岩に腰掛けて源氏の再興と必勝を祈願したと伝えられる。こうした歴史もあり、太郎坊宮は「勝利と幸福を授ける神様」として多くの人が参拝する。

ただ、ここも織田信長の近江攻めの時に焼き討ちに遭い、この後訪ねる本堂が再建されたのは江戸時代中期の頃である。そして明治の神仏分離で阿賀神社と成願寺は分離される。

そして夫婦岩へ。幅80cmの岩の間を抜ける。悪い心のある者が間を通ると挟まれるとされているが、無事に抜けることができた。

そして本殿に到着。勝ち運を願うところであるが、「勝つ」にもいろいろありますな。「勝つ」は「克つ」とも読め、今の自分の境遇からすれば「克つ」のほうがふさわしいのではないかと思う・・。

ともかく頂上まで来たことで、改めて湖東の平野部の景色を眺める。むしろ湖南かな・・。

帰りは七福神や福助像などが並ぶルートをたどり、先ほどの広場に出る。火焚き祭り用に、途中の駐車場に停まりながら太郎坊宮前駅までを結ぶ無料のシャトルバスが出ているのだが、ちょうど満席。帰りは車道をそのまま歩いて下る。

湖東の札所めぐりの中でこういうスポットも訪ねることができたことに満足して、改めて近江八幡に向かう・・・。

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滋賀9番「百済寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・119(湖東の「地上の天国」)

2024年12月22日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりは湖東三山を行く。西明寺から向かうのは滋賀9番・百済寺。門前の集落を抜け、坂道を上る。

ここ百済寺も紅葉の名所で、ちょうど時季的に多くのクルマで賑わっていた。

通用門をくぐる。百済寺には神仏霊場巡拝の道めぐりで一度訪ねた。その時、拝観受付にて一緒に納経帳を出して朱印をお願いしたのだが、「書き手がいないので書き置きになる」と言われ、拝観せずに引き返したことがある。その後で、あみだくじで改めて目的地になったところ。さすがに紅葉見物で多くの客が来ているので、今度は朱印をいただけるだろう。

朱印所の矢印があるので行ってみると、寺務所が建て替えられたようである。中では係の人が忙しそうに筆を走らせている。まず納経帳を預け、参詣とする。

本坊の玄関では猫が気持ちよさそうに寝ている。朝、彦根を出発した時は雲が広がっていたが、ここに来るまでに青空が広がり、12月に入ったとはいえ秋晴れというくらいのほどよい暖かさである。

混雑を避けるため、本坊・庭園を経由する一方通行での拝観である。

百済寺が開かれたのは1400年以上前、聖徳太子によるとされる。聖徳太子が師としていた高句麗の僧・慧慈とともにこの地を訪ねた時、山中に不思議な光を見た。その元を訪ねると杉の大木があり、この木から十一面観音像を作り、祀ったのが寺の始まりという。百済の龍雲寺と向かい合うことから百済寺という名前になったとされる。

聖徳太子が開いたというのは伝説かもしれないが、渡来系氏族の氏寺として開かれ、その後発展したのは確かなようである。

庭園を抜けて展望台(遠望台)に出る。湖東平野から琵琶湖を経て比叡山までを眺めることができる。

百済寺は平安時代に天台宗の寺院として周囲の谷に1000近い坊を持つ大きな規模となったが、室町時代に火災や兵火で多くを失った。それでも、戦国時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは書簡にて百済寺を「地上の楽園」と評した。

その後、織田信長による焼き討ちである。百済寺は信長に抵抗を続けていた六角承禎に味方したことから焼き討ちの対象となったが、本尊の十一面観音は奥の院に避難させていたことから免れたという。

江戸時代になってからは徳川氏から寺領安堵を受け、彦根藩に組み入れられて井伊氏の保護を受けた。現在の寺の建物は江戸時代以降の再建である。

庭園を抜けてからの境内の参道も、昔ながらの石垣と紅葉の景色が相まってなかなかよいものである。

大きな草鞋がかかる仁王門を抜けるともう少し石段が続く。突き当りに石垣があり、そこを回り込んでようやく本堂に到着する。

本堂は織田信長の焼き討ちに遭った後、天海僧正の弟子である亮算が諸国を勧進して回り、江戸初期に建てられたものでる。西明寺、金剛輪寺と同じく天台様式の建物である。本尊は秘仏の十一面観音で「植木観音」の呼び名がある。鐘を撞き、外陣にてお勤めとする。

帰りは石段をそのまま下る。百済寺はたびたび時代劇の映画やドラマのロケ地になっているそうで、なかなか風情のあるところだった。

預けていた納経帳を受け取る。今回、紅葉の時季に訪ねることができてよかったが、これも前回の「空振り」があってこそ。

さて、今回の目的地を訪ねたのでここで次の行き先を決めるあみだくじとするところだが、湖東地区ではもう1ヶ所、近江八幡の滋賀10番・日牟禮八幡宮が残っている。ここは今年の元日に訪ねたが、正月三が日ということで朱印は書き置きのみ。こちらも出直しでの参拝である。あみだくじは日牟禮八幡宮で行うとして、八日市を経て近江八幡に向かうことに・・・。

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滋賀4番「西明寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・118(さすが紅葉の名所)

2024年12月21日 | 神仏霊場巡拝の道

12月1日、彦根から湖東地区をたどる神仏霊場巡拝の道めぐり。まず滋賀1番・多賀大社に参拝し、こちらの境内でも紅葉を見ることができた。前日、西国三十三所の谷汲山華厳寺に続く紅葉めぐりである。

国道306号線から307号線に入り、名神高速にも近い西明寺に到着する。専用道路を伝って駐車場に着き、すぐに拝観受付に着くことができる。西明寺には西国四十九薬師めぐりで訪ねたことがあり、この時も広島から草津まで前日移動して、レンタカーで湖東地区を回った。

湖東三山は紅葉の名所としても知られるが、特に西明寺は国内外の「紅葉100選」や「ベスト○○」に選ばれることが多いようだ。西明寺の公式サイトによると、アメリカのニュース専門局CNNにおいて「日本の最も美しい場所31選」に滋賀県で唯一選出されたとある。なぜ「31」選なのかなというのは疑問だし、そもそもなぜアメリカでそういう評価をするのかわからないが、その中には日本の人なら誰でも知っているであろうスポットから、地元の人しか知らないかもしれないスポットまで毎年入れ替わりが激しい中、西明寺はランクインしている。

受付で神仏霊場の朱印帳を預け、このまま本坊庭園を経て本堂に行けばよいのだが、先ほど通った国道沿いにある山門から歩いて上る人が多い。先ほどクルマで駐車場に来たのはある意味楽なルートで、西明寺全体の風情を味わうなら国道沿いの駐車場に停めてそのまま石段を上がったほうがよさそうだ。ということで、わざわざ石段を下り、山門の手前に着いた後で折り返し上ることにする。

この参道もなかなかよい風情。かつては多くの建物があったと思われる。紅葉とともに、石垣につく苔との組み合わせもよい。

先ほどの入口に戻り、ここから順路に沿って本坊の庭園に入る。江戸時代に築かれたもので、こちらの回遊式庭園も紅葉の名所である。多くの人が思い思いにカメラを向けている。

そして本堂、三重塔が建つエリアに到着。西明寺が開かれたのは平安時代初期、仁明天皇の勅願とされている。こちらの本堂、三重塔は鎌倉時代の建築で、本堂の本尊薬師如来は比叡山延暦寺の根本中堂に祀られている薬師如来と向き合うように祀られている。戦国時代、織田信長が比叡山を焼き討ちした際、近江の天台宗寺院も同様に焼き払われたが、西明寺においては、寺の僧たちが山門近くの建物を激しく燃やして全部が焼け落ちたかのようにカムフラージュをしたことで、本堂、三重塔は難を逃れたという。

本堂の外陣に入る。本尊薬師如来、周りを固める日光・月光菩薩、そして十二神将の「チーム薬師」である。ここで神仏霊場としてのお勤めとする。

二天門をくぐる。石段を下り、改めて振り返る景色もよいものである。朝から曇り空だったが、ちょうどここに来て青空が広がるようになった。

入口で預けていた朱印帳をいただく。

この後、湖東三山でも前回訪ねた金剛輪寺は通過し、その時朱印をいただくことができず参詣しなかった百済寺、今回の目的地に向かうことに・・・。

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滋賀1番「多賀大社」~神仏霊場巡拝の道めぐり・117(朔日参りと鳥居前の風情)

2024年12月20日 | 神仏霊場巡拝の道

前日は滋賀を通り過ぎて西国三十三所の満願寺である谷汲山華厳寺に参詣し、大垣から彦根に移動して1泊。そして月が替わった12月1日、メインの神仏霊場巡拝の道めぐりである。まず道順で訪ねるのは、滋賀1番・多賀大社。

彦根から多賀大社だと、近江鉄道に乗って高宮で乗り換え、多賀大社前に行くのが順当なところ。ただ、他の札所と一緒に訪ねるとなると公共交通機関では結構難しい。今回、近江鉄道に1円も落としていないのが心苦しいのだが、彦根駅前からレンタカーで出発する。乗るのはトヨタのコンパクトカー・ヤリス。同一県内の一定エリア内なら乗り捨て無料というトヨタレンタカーの強みを活かして、この日は近江八幡まで向かう。

国道8号線から国道306号線に入る。この日も滋賀県内は日本海側、太平洋側の境界らしく、1日の中で天気の移り変わりも大きいとの予報。まずは雲が広がる中を走る。

ほどなく、国道沿いの駐車場に到着。クルマをこちらに置き、路地を抜けて多賀大社の鳥居前に出る。

多賀大社。「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」 「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」という俗謡があるが、多賀は伊勢や熊野より格上であると解釈されている。多賀大社の祭神は天照大神の親である伊邪那岐・伊邪那美の両神であるが、一方ではこの地を支配した豪族・犬上氏の氏神を祀ったともされている。その後、近江の交通の要衝にあることから多くの人が参拝するようになったが、上記の俗謡もいわばCMソングのように浸透し、そして新たな参拝者を呼び込んだことだろう。

鳥居をくぐって参拝。

さて、今回多賀大社を訪ねたのが12月1日。知らなかったのだが、この日は毎月の「お朔日参り」に当たっていて、朝から神事が行われていたとのこと。その拝殿には「お朔日参り」の御幣の授与があり、12月については翌月1月分の御幣もいただける。新年元旦に御幣が置けないからというのがその理由だとか。別に月初めを意識して滋賀に来たわけではないが、これはありがたいものに出会ったと思う。

朱印をいただく。

この後境内を少し歩き、近江鉄道の多賀大社前駅から続く参道の途中に出る。門前町として昔ながらの構えの店舗、家屋が並ぶ。

そしてその玄関には「笑門」と書かれた絵馬が掲げられている。「笑う門には福来る」ということで、多賀大社のご利益である「延命長寿・縁結び・厄除け」と相まって、「笑い」で明るく日々の生活を送りましょう・・という町の人たちの願いである。この通りは「絵馬通り」と呼ばれ、店には新年用?の「笑門」も売られている。

そのうちの一軒に「村山たか女住処」、そして生家とある。村山たかとは江戸後期~明治初期の女性で、多賀大社の寺坊に生まれ、彦根藩の井伊直弼の侍女となった。後に彦根藩の間諜として安政の大獄に加担したとして、桜田門外の変の後に尊王攘夷派に捕えられ、三条河原にて晒されたとある。NHK大河ドラマの第1作である「花の生涯」(原作・舟橋聖一)のヒロインとして描かれたことから知られるようになったという。

多賀大社名物「糸切餅」の老舗「多賀や」が賑わっている。普段甘いものは口にしないのだが、せっかくなので1パック買い求める。

駐車場に戻る。参拝している間に観光案内所が開いたようで中をのぞいてみる。そこはイーグルス・則本投手のパネルやらグッズやらが並んでいた。則本は多賀大社がある多賀町の出身で、高校は八幡商、大学は三重中京大(現在は閉校)を経てイーグルスに入団。1年目の2013年に15勝を挙げて、24勝の田中将大とともにリーグ優勝、日本一に貢献。新人王を獲得。田中のメジャー移籍後はエースとしてチームを支え、松井裕樹のメジャー移籍にともない今季から抑えに転向。その中で最多セーブのタイトルを獲得した。

メジャーからイーグルスに復帰した田中が今季終了後に退団となったことで、この人がイーグルスの支えになることだろう。このまま現役引退まで一筋で頑張ってほしいものだ・・。

さてこの後は引き続き湖東地区をめぐる。次は紅葉の名所として知られる西明寺・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~彦根で一献、そしてトレインと彦根城ビューを・・

2024年12月19日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりは番外編の谷汲山華厳寺から大垣を経て、彦根に移動。翌日(12月1日)、彦根からレンタカーで湖東地区をめぐり、近江八幡まで行くのに備えての宿泊である。以前、近江八幡から湖東地区をめぐって彦根までレンタカーに乗ったが、朱印をいただけなかった札所(今回の目的地である百済寺)があり、また突然の大雨に遭ったことでその後の札所めぐりもパスした。今回は逆回りでのリベンジの意味合いがある。

さて彦根での宿泊だが、前回は駅の西側にあるホテルAZに泊まったが、今回駅の東側にある東横イン彦根駅東口に向かう。彦根駅の自由通路、ちょうど日暮れ時の景色を眺めることができる。

部屋からは彦根駅構内、そして近江八幡、京都方面に向かうJR西日本、近江鉄道の線路を見ることができる。前回のホテルAZ以上の「トレインビュー」の部屋である。別に事前リクエストしていたわけでないが、わざわざこちら側の部屋を充ててくれたのかと。JRの新快速、そして近江鉄道の車両も見える。

また私が泊まった部屋からだと、やや遠方だし手前のマンションが邪魔に見えなくもないのだが、ライトアップされた彦根城の天守閣を見ることができる。いい宿、いい部屋に当たったものである。

部屋からの景色を楽しむうちに日が暮れ、彦根での一献とする。やって来たのは前回と同じ「丸又食堂 旭町スタンド」。江戸時代創業の愛知川の醤油屋である「マルマタ」がプロデュースする店で、彦根駅前というロケーションを活用した昼の食堂~夜の大衆酒場として、地元で人気の店である。

奥のテーブルに陣取り、改めてということで生ビールで乾杯。そしてアテとして「近江牛すじ煮込み」を注文したが、早くに売り切れという。

ちょっと出鼻をくじかれたようだが、それでもポテサラ、近江牛コロッケときて、串カツをいただく。飲み物も、ジンジャーが効いた「丸又ハイボール」をはじめとしてさまざま楽しめる。

最後はおでん。左奥にあるのは、滋賀、特に近江八幡のご当地食材である丁字麩。麩といえば円形をイメージするが、行商に持ち運ぶのに便利なように四角形に作られたものである。おでんやすき焼きといった鍋物のほか、水で戻して酢味噌と和えていただくそうだ。

この後は部屋に戻ってゆっくりする。時刻表をチェックして近江鉄道の列車が彦根駅に発着するのを見たり、外から列車の音がするので窓からのぞくと長い編成の貨物列車だったり・・というのを楽しむ。また東海道線は貨物列車が頻繁に走る路線。この後夜間から早朝にかけて結構な本数が走る。この走行音、気になる人は気になるだろうな・・。

さて翌朝・・も貨物列車や近江鉄道の眺めから始まる。

また、朝日を受けた彦根城の天守閣、石垣も見事である。彦根に来たからには国宝として訪ねるべきスポットなのだが、ホテルの部屋から同じくらいの高さの目線で見ることができただけで満足。この東横イン、(階層にもよるのだろうが)彦根城と鉄道のビュースポットとしてPRしていいところだ。さらに遠くには琵琶湖の湖面、比良の山々を見渡すこともできる。

東横インならではの朝食をいただく。結構ごった返している。彦根というところ、隣の米原と合わせて近畿、東海、北陸の接点のような位置にあり、ここから各方面に出発していくのだろう。

私の今回の神仏霊場巡拝の道めぐりは滋賀・湖東地区から近江八幡にぬけるルート。その手段として、東横インのすぐ近くにあるトヨタレンタカー彦根店に向かう・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~大垣にてちょい飲み、彦根に移動

2024年12月18日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐりの番外編?として谷汲山華厳寺を訪ね、樽見鉄道の谷汲口駅に戻る。コミュニティバスは養老鉄道の揖斐駅行きもあるのだが本数が少なく、まだ谷汲口駅行きのほうが土日祝日限定運転とはいえ、樽見鉄道との接続を意識したダイヤを組んでおり、これは助かる。

13時54分発の大垣行きに乗る。乗り鉄としては谷汲口から先の終点・樽見まで往復したいところだが、時間の都合で谷汲口が折り返し地になってしまっている。

この後も日本海側と太平洋側の境界らしく空模様が移り変わる中、本巣に到着。車庫見学のイベントも終わったようで、見学に来たらしい親子連れと係の人が手を振り合っている。また、モレラ岐阜ではショッピングモールを楽しんだ後の乗客も多く乗り込む、1両の気動車で立ち客も出て、14時36分、終点大垣に到着。

さてここからだが、今回の宿泊は結局彦根とした。せっかく岐阜県まで来たのだから大垣、あるいは(前の記事でも触れたが)関ヶ原に近い垂水といったところも検討したのだが、翌日レンタカーを利用することも踏まえ、この日のうちに彦根まで戻ることにした。

で、大垣でどうしたか。向かったのは駅ビル「アスティ大垣」の1階にある「OSOZAi+バル 美濃味匠」。この一角では昼飲みが可能で手羽先の「世界の山ちゃん」も入っているが、午前中到着した時に、「大垣の地酒」というのが気になっていた。

こちらは総菜の販売がメインのようだが、店内でも飲食ができる。その中でいただいたのが「大垣地酒三種呑みくらべセット」。大垣は「水の都」ということから酒もPRしているようである。「大垣城」、「道三」、「白雪姫」というそれぞれ個性の異なった地酒をいただく。

これで岐阜県を一区切りにして、東海道線で西に向かう。米原行きに乗り、再び関ヶ原を通過。この辺りの空模様も移り変わり、往路では見えなかった伊吹山もくっきり、そしてより近くに感じるくらいに見える。

米原で新快速に乗り換え、彦根に到着・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~といいつつ西国三十三所の満願札所・華厳寺にて満願気分

2024年12月17日 | 神仏霊場巡拝の道

11月30日、神仏霊場巡拝の道めぐりで湖東地区を訪ねるのとセットで、それより東にある谷汲山華厳寺を訪ねる。神仏霊場めぐりとともに西国三十三所の4巡目も行っているのだが、関西から唯一東に離れている札所もいずれ訪ねなければという中で、今回湖東地区が目的地になったことにより合わせることにした。

まずは新幹線で新大阪まで移動し、ここからは乗り鉄趣味発動で大垣まで特急「ひだ25号」に乗り、樽見鉄道で谷汲口まで来た。ここから揖斐川町のコミュニティバスに乗り、華厳寺の門前に到着。

この日は天気が今一つで、この後小雨にも遭ったが、参道は紅葉が見頃である。11月前半には地元イベントの「谷汲もみじまつり」も行われたそうだが、このところ猛暑の影響で紅葉の時季が遅れており、さすがにその時は風情も今一つだっただろう。その中、紅葉目当てで日程を組んだわけではないが、曇り空の下ではあるが紅い色遣いを楽しむことができる。本堂までの距離も気にならない。

山門に到着。改めて、西国三十三所の満願札所を目指す。参道にも紅葉の景色が広がる。これまで華厳寺を訪ねているが、この時季は初めてだったかな。同じスポットでも別の季節に訪ねるとまったく新しい景色に見える。札所めぐりにあっては、時間をかけてでも何巡するほうが土地、風土の理解が深まるといえる。

紅葉見物を兼ねてか、本堂にもそれなりの数の参詣者が集まる。まずは外陣でお勤めとし、その後、本堂下の戒壇めぐりでご結縁とする。

華厳寺の朱印は3種類で1セットである。本堂(観音堂)、満願堂、そして笈摺堂で、それぞれ現世、過去、未来を意味するという。これで西国三十三所の4巡目満願・・・ではないが、一つ区切りを迎えたように感じる。ちなみに西国で残っているのは、第16番・清水寺、第17番・六波羅蜜寺、そして第23番・勝尾寺の3ヶ所で、いずれも神仏霊場の札所と重なっている。どこが満願の札所になるかは、神仏霊場のあみだくじ次第である。

この後は本堂後方の諸堂に手を合わせる。まずは苔ノ水地蔵。紙の札を地蔵の前の鉢の水で濡らし、自分の身体の治したい部位と同じところに貼ってお祈りする。齢50を超え、あちらこちら気になるところがある。豆腐のメンタルもそうかな・・(こういうところで願掛けするより、自分でできることがあるやろ・・というツッコミが入りそうだが)。

笈摺堂では西国三十三所満願の御礼として笈摺や講中の記念写真なども奉納されている。

最後は満願堂へ。ちょうどこの周囲も紅葉が広がっており、訪ねる人も撮影に余念がなかった。今回この華厳寺をはじめとして、翌日訪ねた滋賀のスポットではさまざまな紅葉を愛でることができた。猛暑が続く中、関西~西日本の紅葉の見頃といえば11月下旬というのが定着しつつあるのだろうか。

満願堂で折り返しとして、境内を後にする。

ちょうど昼時ということで、山門のすぐ前にある富岡屋に入る。老舗の食事処で、「百寺巡礼」で華厳寺を訪ねた作家の五木寛之さんも参詣後にここで「満願そば」を食べている(そのため、参道にある看板にも「五木寛之」の文字が見える)。こちらでは「満願そば」と、味噌おでんを注文。まあ、クルマでないのでここ一献としてもよかったのだが。

「満願そば」の具は椎茸、たけのこ、ニジマスの甘露煮。汁を全部飲み干すと丼の底の「満願成就」の文字が見える。

バス停に向かうところで小雨がぱらついてきた。この日は冬型の気圧配置で、この辺りは日本海側~太平洋側の境界に近いところである。少し時間があるので参道にある酒店に入り、土産として「満願酒」の4合瓶を購入する。この記事をアップしている時点ではまだ封を開けていないが、正月のお屠蘇代わりにするか、それとも西国満願まで取っておくか・・。

コミュニティバスの時間となり、往路よりも小ぶりな車両で谷汲口まで戻る・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~まずは大垣、そして谷汲口へ

2024年12月16日 | 神仏霊場巡拝の道

まずは西国三十三所の満願札所である谷汲山華厳寺を訪ねるのだが、このところ西国札所めぐりも神仏霊場めぐりとセットで行われているので、ブログのカテゴリは神仏霊場で。(まあ、どうでもいいことだが)

11月30日、広島から新幹線で新大阪に向かい、8時07分発の特急「ひだ25号」に乗る。特急「ひだ」は名古屋から高山方面への列車だが、1日1往復、大阪からの便がある。「ひだ25号」はこの先岐阜で「ひだ5号」と連結する。今回、高山や岐阜に行くわけではないが、その手前の大垣まで在来線特急で移動するという「乗り鉄」を組み入れた。大垣までの停車駅は京都、草津、米原。やはり「特急」ということで新快速よりも大幅に停車駅が少ない。

現在JR東海の気動車特急はHC85系というハイブリッド車に置き換えられている。ディーゼルエンジンで発電した電力と、ブレーキ時に発生するエネルギーを充電した蓄電池の電力を組み合わせて走行する方式である。自動車ではこうしたハイブリッド車は浸透しているが、それが鉄道車両でも少しずつ広まりつつある。車端部の電光掲示板でも、現在のエネルギーの流れが表示される。

非電化のローカル線(幹線含め)に乗ると、路線の電化を願う地元の人たちによる横断幕などを見ることがある。それに対して、従来のように電柱や架線による電化というよりは、気動車の改良、こうしたハイブリッド車の開発のほうが進んでいる。そのほうがコスト面でも安く現実的だろう。

8時32分、「ひだ25号」は京都に到着。ここで多くの乗客があり車内もほぼ満席。インバウンド客も多い。前日に大阪、京都に宿泊したとして、8時台というのはゆったりしたもの。そして乗り換えなしで飛騨高山まで行けるというのは・・。「しなの」の大阪直通はなくなったが、「ひだ」には多くの需要があるようだ。

この後は、東海道線をハイブリッド車両で走り抜ける乗り心地を純粋に楽しむ。滋賀の県庁所在地駅・大津をあっさり通過し、次の停車は草津。この後も湖東地区を快走し、米原に到着。

・・今回の目的はあくまで神仏霊場巡拝の道めぐり、湖東地区である。ただいったん、滋賀県から岐阜県に抜ける。東海地区に足を踏み入れるのも久しぶりのこと。どうせ東に行くなら、今年開業したがまだ乗車していない北陸新幹線とセットで訪ねようかとも思ったが、神仏霊場もそろそろ後半から終盤に差し掛かるところである。

この日の天候は今一つ、車窓から伊吹山の姿は望めず。この後、関ヶ原を越えていく。帰りに関ヶ原古戦場を訪ねることも考えたが・・。

9時46分、大垣に到着。ここで下車する。新大阪から約1時間40分というほどよい時間の乗車であった。

大垣から谷汲山華厳寺に行くには、樽見鉄道の谷汲口、または養老鉄道の揖斐まで行き、揖斐川町のコミュニティバスに乗る。ただ、以前と比べてコミュニティバスの本数も減っているし、谷汲口からの便は土日祝日は定期運行しているものの、平日は予約制のデマンドバスである。昔は名鉄谷汲線という鉄道でのアクセスもできたところだが・・。

養老鉄道の揖斐からのバス便も少なく、今回は樽見鉄道の谷汲口からバスに乗る。次の樽見鉄道の便は10時41分発。まあ、新大阪から直通の特急に乗ったにも関わらず、ここで約1時間の接続である。特急に乗らず、後続の新快速・快速でも間に合ったのでは・・ということは置いといて。

しばらく駅前で過ごし、樽見鉄道のホームに向かう。やって来たのは「モトスミライ号」のラッピング車両。2024年、沿線の本巣市が市制20周年を迎えたことを記念して地元の高校生たちがデザインしたものである。このキャラクターは「もとまる」といい、名所の薄墨桜、そして根尾川の川下りをイメージしたものだという。

早くに入線した時は数人だった乗客だが、発車時刻が近づくと立ち客も出る。ローカル鉄道の単行列車・・といえば失礼だが、まずまずの利用のようだ。

発車後、しばらく東海道線と並走した後、離れて揖斐川を渡る。

乗客の多くは途中のモレラ岐阜で下車。私は訪ねたことがないのだが、地域最大級のショッピングモールとして、それこそ1日過ごすことができるスポットだという。樽見鉄道で訪ねるのは1日の来店者数からすればごくわずかだろうが、利用客としては便利だし、樽見鉄道としても一定の収入源である。

ラッピング車両の元となった本巣に到着。樽見鉄道の基地駅でもある。実はこの日(11月30日)、車庫見学・除雪車乗車体験会のイベントが行われたそうだ。

本巣からは根尾川と周囲の山々の区間となり、11時25分、谷汲口に到着。ここまで乗っていた客のほとんどが下車する。ちょうど駅前にコミュニティバスが着いており、皆さんそちらに乗り継ぐ。

谷汲口からなら10分ほどでバス停に着く。途中、名鉄谷汲線の廃線跡、そしてかつての駅跡も通り、門前の駐車場に到着。まずは華厳寺を目指す・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~といいつつも、まず目指すのは西国三十三所満願の地

2024年12月13日 | 神仏霊場巡拝の道

関西に広がる神仏霊場巡拝の道めぐり、ここまで、特別霊場の伊勢神宮内宮・外宮と合わせて154ヶ所の札所のうち、116ヶ所まで回っている。残り40ヶ所をきっているが、次に訪ねるところをあみだくじで決めるというスタイルのため、まだ2府4県それぞれに札所が残っている。

前回、住吉大社を訪ねた後のあみだくじで出たのが、滋賀9番・百済寺である。百済寺じたいは以前の神仏霊場めぐりで訪ねたことはある。ただその時、拝観受付にて朱印の書き手がいないという対応をされ、拝観自体を取り止めたところだ。その時は近江八幡から湖東地区をめぐり、あみだくじでの目的地だった滋賀3番・金剛輪寺は訪ねたのだが、百済寺でケチを食らったことで気持ちが切れ、滋賀4番・西明寺、滋賀1番・多賀大社はスルーした。

その中、今回改めて百済寺が目的地になった。何回目かの滋賀遠征となるが、今度こそ来いという何かのメッセージかと受け止める。

ならば、以前にスルーした札所、そして今年(2024年)の元日、「これを何と読む!!」を食らった(このブログにおいて「朱印は書き置きのみで対応」という意味)近江八幡の滋賀10番・日牟禮八幡宮も一気に回ることにしよう。とすれば、以前利用した近江八幡、あるいは彦根からレンタカーでたどるのがよい。前回は近江八幡から彦根まで行ったから、今度は逆に彦根から湖東を訪ねて近江八幡に向かうことにしよう。

このように、あくまで滋賀県内の神仏霊場めぐりが目的なのだが、これと同時に進んでいるのが西国三十三所めぐりの4巡目。神仏霊場めぐりの札所と重なっているところも多いので、自ずと西国三十三所の4巡目も進めることができた(ブログのカテゴリー上は「神仏霊場巡拝の道」にしているが)。そして残っているのが、第16番・清水寺、第17番・六波羅蜜寺、第23番・勝尾寺、そして第33番・華厳寺である。

前の3ヶ所は神仏霊場めぐりの札所でもあるのでその機会に訪ねるとして、華厳寺だけが岐阜県ということで一つ離れている。ただ今回、湖東まで遠征することもあり、何なら一緒に訪ねてはどうかと考える。まだ北陸新幹線の延伸区間に乗っていないこともあり、東海・北陸の旅として行ってもいいが、現在は神仏霊場めぐりと九州八十八ヶ所百八霊場めぐりが旅の中心となっている。ならば、滋賀まで行った後で大垣、揖斐川まで足を延ばすのが合理的だろう・・。

時刻表をあれこれ検討する中、1泊2日の行程として、まず華厳寺に行くのがよいとなった。そして折り返し移動で彦根に到着し、そのまま宿泊。そして2日目朝からレンタカーで湖東地区を回り近江八幡でレンタカーを返却、京都まで在来線で移動して新幹線で広島に戻るというルートを取ることにした。

さてこうなると、谷汲山華厳寺へは樽見鉄道の谷汲口からコミュニティバスで移動するとして、まず向かうのは起点の大垣である。広島から向かうなら米原まで新幹線で行き、在来線に乗り換えるのが一般的だろう。

ただそこは何か変化を混ぜたい。なかなか乗ることのできないルートや列車を折り込むのも面白いだろう。

11月30日、広島6時26分発「のぞみ76号」に乗る。まずは車内でゆっくり過ごし、7時55分、新大阪で下車。

まず大垣に向かうのに新大阪で下車とは・・・というところだが、ここから大垣まで乗り換えなしで移動することに。もうお分かりの方もいらっしゃるだろうが、新大阪から乗るのは8時07分発の特急「ひだ25号」。大阪から1往復する便で、この先東海道線を走り、岐阜から高山線に入る。架線の下を走る気動車(というより、ハイブリッド車)の乗り心地を楽しむことにする・・・。

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大阪1番「住吉大社」~神仏霊場巡拝の道めぐり・116(七五三と五大力、そしてミナミで憩う・・)

2024年11月09日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の神仏霊場巡拝の道めぐりの目的地である住吉大社に到着。これまで何度か参拝したことがある神社だが、札所めぐりとなると気持ちも改まる。

その昔はこの辺りが大阪湾の海岸線で、住吉大社は住吉津、難波津とも関係し、港や航海の守り神として信仰を集めた神社である。まずは立派な石灯籠の並びを見る。

ちょうどこの時は露店の蚤の市が出ていて、猿回しの興行もある。その中を外国人含め多くの人で賑わう。京都、奈良ほどではないが住吉大社も外国人で賑わうとは。大阪にも立派な神社があるとでも紹介されているのだろう。太鼓橋を渡り、境内に入る。

住吉式というのか、第一本宮から第四本宮まで並ぶ。正面から入るとまず目に入るのが第三本宮で、ここで手を合わせる。その後、右隣の第四、そして第二、第一と進む。この順番で参拝するのが正式・・といっていいのかな。

訪ねたこの日(10月27日)は七五三参りの人たちで賑わっていた。社殿の前には記念撮影用に神輿や人形、花が置かれたスポットもある。ご祈祷を終えた子ども連れが続々出てくる。神社としても書き入れ時の一つである。

その中、第一本宮まで手を合わせる。四つの本宮に手を合わせるのだからそれぞれと深くご縁ができた・・と勝手に思う。

そして向かうのは五所御前。住吉大神がこの地に鎮座した際、最初に祀られたところとして、現在ではパワースポットとして知られている。

ここは五大力の石探し。「五」「大」「力」の文字が墨書された石を見つけるものである。五大力とは体力、智力、財力、福力、寿力を指し、また心願成就が叶うとされている。宝探しのようだが、石そのものは見つけやすい。

そして3つの石を持って授与所に行き、御守り袋をいただく。そして願いが叶った後のお返しとして、新しい石に「五」「大」「力」の文字を書き、御守りとして持っていた石とともに五所御前に納める。元の石と新しい石とで「倍返し」の形である。これが積み重なることでご利益がさらに膨らみ、それだけ「パワー」が宿ることになる。いつの頃からこうした参拝になったのかな。私も御守り袋を求め、何を願うかは別として部屋に飾っている。この「倍返し」ができるのはいつのことか・・。

授与所までいったところで、専用窓口で朱印をいただく。

そして境内では雅楽の音が響く。何か神事かと思うと、神官、巫女の後に花婿・花嫁が続く結婚式の行列である。住吉大社は「住吉結び」として神前結婚式にも力を入れているそうだ。結婚する縁も資格もない私からすれば、こうした式を挙げられるカップルはただただ立派で、敬意を込めて見守るしかない。末永くお幸せに。

さて、ここで次の行き先を決めるあみだくじとする。くじびきアプリで出走表に出たのは・・

・神護寺(京都10番)

・大覚寺(京都9番)

・百済寺(滋賀9番)

・日吉大社(滋賀17番)

・水間寺(大阪12番)

・七宝瀧寺(大阪13番)

・・・京都洛西、滋賀、大阪南部ときれいに2ヶ所ずつ出た。この中で百済寺は、以前に湖東地方の札所をめぐる中、朱印帳への書き手がいないことから「これを何と読む!!(=ハズレ)」として参詣を取り止めた寺院である。

そしてあみだくじの結果は・・・その百済寺。できれば年内に、その時の流れでパスした寺社とともに訪ねたい。ただ、次に訪ねて「これを何と読む!!」とされたら凹むやろな・・。まあ、そこは運任せだ。

住吉大社の参拝を終え、南海本線の住吉大社駅に向かう。その高架駅の手前にあるのが阪堺電車の住吉公園停留所。天王寺駅前からの上町線の終点だったが、運転系統の見直しもあり、住吉~住吉公園間は2016年に廃線となった。それでもかつての駅舎は残されている。

住吉大社からは南海本線の「普通」で新今宮に移動する。難波まで行かずに新今宮で下車したのは、久しぶりに「スパワールド」に行こうというもの。前日夕方、自宅でシャワーを浴びたとはいえ、その後下関に移動して「WEST EXPRESS銀河」に乗車、そして京都から大阪に移動しての神仏霊場めぐり。どこかで風呂に入れればということろで浮かんだのが「スパワールド」である。

南海の新今宮で下車し、JRの線路沿いに歩く。そしてやって来たのが星野リゾートが手掛ける「OMO7大阪ホテル」。「オモ・セブン」と読むそうだが、どういう意味なのだろうか。偏屈な大阪人なら字面から「おもんな~」と読むかもしれない。「新今宮」という土地にこういうリゾートホテル・・ただでさえややこしいこの地区を余計に混沌とさせるのではないかと思うが、現在はリゾートホテル、そして巨万の富を得ている半島や大陸の人たちが幅を利かせている。

で、「スパワールド」。フロアごとに男女がアジア、欧州が入れ替わるが、この日の男性浴場は欧州エリア。さまざまな浴槽を楽しみ、またテレビではワールドシリーズの中継中。しばらくの入浴、そして休憩エリアでしばし横になる・・。

本来なら隣接する新世界、ジャンジャン横丁で昼間の一献・・なのだろうが、今やジャンジャン横丁は観光名所。どの店も長い行列である。元々、新世界にこだわるわけではないので、少し早いが帰途に着こうと、大阪メトロ御堂筋線で、コインロッカーに荷物を預けたなんばに戻る。

なんば、ミナミといえば・・ということで向かうのはやはり赤垣屋。気軽に入れるし、その時々に応じたメニューもあるのが楽しみである。

よい心持になったところでそのまま御堂筋線で新大阪に出て、翌日に備えて「ひかり」~「のぞみ」の乗り継ぎで早めの帰宅とする。

・・今回は前日の大相撲広島場所の観戦を終えてからの出発で、広島からの行程は新幹線~小倉~山陽線~下関~「WEST EXPRESS銀河」~京都~近鉄京都線・奈良線~難波~今宮戎~恵美須町~天神ノ森~住吉鳥居前~住吉大社~新今宮~動物園前~なんば~新大阪~新幹線~広島ということで、一応「一筆書きの循環ルート」をたどることができた。結構濃い2日間となった・・。

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大阪3番「阿部野神社」~神仏霊場巡拝の道めぐり・115(阪堺電車でトコトコと)

2024年11月07日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道めぐり、今宮戎神社の次は、大阪3番・阿部野神社を目指す。乗車するのは阪堺電車である。恵美須町、そして天王寺駅前から大和川を越えて堺市内、終点の浜寺駅前を結ぶ路面電車だ。

その恵美須町の電停だが、以前乗った時と様子が異なっている。「こんなに狭かったかな?」という印象。調べてみると2020年に元の場所から100メートル南に移設されたという。その時は大阪にいたが、そういうことがあったとは知らなかった。かつては恵美須町からの路線がそのまま堺市内に直通しており、天王寺駅前からの上町線が住吉公園やあびこ道までの支線扱いだったように思うが、今は運転系統も逆転しており、恵美須町~住吉間が支線のような扱いになっているように見える。本数も1時間に2~3本程度。

少し待ち、10人ほどの乗客で発車。次は新今宮駅前。かつては南霞町という名前だったところ。この後も西成区のディープなところをトコトコ走る。

天神ノ森に停車。阿部野神社の最寄りの電停である。ここで下車する。天神ノ森というから天満宮があるのだろう・・と思ったら、それこそ線路の真横に天神ノ森天満宮がある。後で訪ねることにしよう。

住宅が密集する一角を抜け、神社の西側から境内に入る。境内では七五三参りの記念撮影が行われているところ。

阿部野神社が建立されたのは明治時代のこと。祭神は、南北朝の争いで南朝方の主要人物だった北畠親房・顕家親子である。北畠顕家は石津の戦いで敗れ、この辺りで亡くなったとされており、墓もあったのだが、それを修繕して社殿を建てたのが阿部野神社の始まりである。楠木正成や新田義貞らと並び、明治という、南朝方について後醍醐天皇らに忠誠を尽くした人物を崇敬するという時代の流れもあったことだろう。そうした成り立ちもあり、阿部野神社は「建武中興十五社」の一つに名を連ねている。

本殿の周りをぐるり回る。私個人としては明治~戦前にかけて南朝を賛美し、北朝を朝敵とした歴史観が嫌いなのだが(あくまでフラットに論じるべきだろう)、北畠親子の功績や「神皇正統記」の紹介というのも歴史を受け継ぐスポットとしてしっかりしているという印象である。

朱印をいただく。

そして天神ノ森の電停に戻ったが、次の電車まで少し時間があるので、停留所の名前になっている天神ノ森天満宮に向かう。菅原道真が大宰府に左遷される途中、難波津を前にしてこの地で休憩したことで後に祠が建てられ、室町時代に北野天満宮からの分祀で開かれたとされる。

現在の建物は江戸時代のものだという。阿倍野神社より歴史は古いわけだが、今となってはあちらのほうが坂の上にあり、境内も広くなっていて・・。

しばらく電停で待つ。恵美須町方面のホームを見ると通販のアマゾンの受け取り用ロッカーがあるのが意外である。

やってきたあびこ道行きの電車に乗り込む。恵美須町から天神ノ森までは専用軌道を走ってきたが、東玉出からは道路の上、文字通り路面電車の区間となる。こちらも大阪市内で知られざるスポットといえるだろう。

住吉の手前で、国内現役最古という161形とすれ違う。まさしく偶然のこと。字幕には「団体」とあったから、何かのツアーで運行されていたのだろう。

住吉を過ぎ、次の住吉鳥居前で下車。さて本日の目的地である住吉大社参拝とする・・・。

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大阪4番「今宮戎神社」~神仏霊場巡拝の道めぐり・114(夢見る少女じゃいられない)

2024年11月06日 | 神仏霊場巡拝の道

10月27日、朝の南海難波駅に着く。8時半を回ったところだが、この時間なら広島を早朝に出発しても着くことができる。それをあえて、前日夕方に新幹線で小倉まで行き、下関から「WEST EXPRESS銀河」に乗車して早朝の京都に到着。そして近鉄京都線~近鉄奈良線を乗り継いで難波に着くという、何とも遠回りなことをしている(一応ここまで「循環ルート」継続)。

さて、今回の神仏霊場巡拝の道めぐりの目的地は大阪1番・住吉大社であるが、その前に沿線の神社を訪ねることにする。まずは大阪4番・今宮戎神社である。

今宮戎神社への最寄り駅は南海高野線の今宮戎である。他にも大阪メトロの恵美須町、大国町からも徒歩圏内だし、それこそ南海難波からでも距離は延びるがそれでも徒歩圏内で行ける。

その今宮戎、難波の次の駅だがアクセスにはちょっとした注意が必要。この先、岸里玉出までは南海本線、そして南海高野線が並走し、途中の新今宮、天下茶屋にはそれぞれの路線の全ての列車が停車する。その間にある今宮戎、萩ノ茶屋だが、特急や急行は通過するのはわかるが、「普通」は停まらず、「各停」のみが停車する。さらにいえば「普通」は南海本線の列車で、「各停」は南海高野線の列車である。「普通」も「各停」も、すべての駅に停まる列車種別では?と思うが、今宮戎、萩ノ茶屋には高野線のホームしかなく、南海本線は横を過ぎるのみである。厳密な意味での「各駅停車」ではないということで、本線の列車種別はそれに近い「普通」、高野線はガチで各駅に停まるから「各停」と使い分けている。南海電車を語る上での「あるある」として取り上げられることも多い。

元々この区間は南海本線で、急行線と緩行線が並ぶ複々線だった。東京近郊のJR総武線、中央線、常磐線などの快速線と各駅停車線や、東海道線と京浜東北線をイメージすればわかりやすい。そして高野線は岸里玉出から汐見橋を結ぶ路線だったが、営業面で難波に乗り入れるようになった。その後さまざまな線路の入り繰りがあり、所属としては本線の駅だが、停車するのは高野線の各停のみという現在の形になった。

なお、この記事のタイトルに「夢見る少女じゃいられない」としたのはどういうわけか? 以前、NHKの「鉄オタ選手権」という番組で南海電鉄を舞台とした回があったのだが、その中で「あるあるネタ」の芸人のレイザーラモンRGさんが「南海電鉄あるある」として出題したクイズに使われたのが、相川七瀬さんの「夢見る少女じゃいられない」。

その答えが、「夢見る少女じゃいられない」の歌詞を替え歌した「今宮戎で停まらない」・・・。ただこの時、「普通と各停どっちやねん」と答えた組があって、正解扱いになってたな・・・。って、何で何年も前の番組のネタを覚えているかな。

その今宮戎だが、街のど真ん中にあるし、各停しか停まらないといいつつもそれは他の南海高野線の駅と同じで極端に本数が少ないわけでない。ただ、難波、新今宮いずれも徒歩圏内にあることから乗降客は少なく、南海全駅の中でも結構下位の存在である。

・・何だか今宮戎駅の記事が長くなったが、本題の今宮戎神社である。それこそ改札口から数十メートルのところにあり、そのものずばりの駅名を名乗るにふさわしい。ただ、わざわざ今宮戎で下車して参拝するという方はどのくらいいるのやら・・。

今宮戎神社、大阪では「えべっさん」として親しまれている。年初めの「十日えびす」は「商売繫盛で笹持ってこい」の掛け声で賑わい、笹にさまざまな縁起物を結びつけることで商売繁盛を願うことで知られる。毎年「福娘」が募集され、後にアナウンサーになった人も多いことからそれらの「登龍門」とも言われている。

さて訪ねた時は「えべっさん」とも関係なく、静かな日曜の朝である。それでも地元の人や、観光客らしい人の参拝もちらほら見える。

今宮戎神社の歴史は長く、古くは聖徳太子が四天王寺を建立した際、西の守護神として祠を建てたというものや、京都の八坂神社の境内社である蛭子社を分祀したものと言われている。現在につながる「十日えびす」の祭りは江戸時代中期から行われるようになったそうだ。

それにしても、境内を囲む石柱には地元の氏子のほか、さまざまな企業の名前も見える。現在は古くから長年商売の信仰を集め、ご利益を授かったところも多いことだろう。現在はカタカナ表記の社名もある。もっとも実際は、祈願むなしくご利益にあずかることなく商売をたたんだところはそれよりもっと多いのだろうし、一時は大きな勢力を張ったもののその後倒産したところもあり、この石柱の並びにさまざまな栄枯盛衰を感じる。

その中で、場所柄もっとも哀愁を感じるのが「大阪スタヂアム興業」・・・。

お参りするが、「十日えびす」の賑わいの様子をテレビニュースで見るのと比べると、実際の境内は思ったより小ぶりに感じる。まあ、普段の様子で参拝することができてよかった。

さてこの後だが、大阪3番・阿倍野神社に向かう。それならば今宮戎神社から少し歩き、阪堺電車で天神ノ森に行くのが早い。神仏霊場巡拝の道めぐりに「チンチン電車」登場である・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~京都から大阪に行きまっせ・・

2024年11月05日 | 神仏霊場巡拝の道

下関から「WEST EXPRESS銀河」で一夜を過ごし、朝の京都に到着。時刻は朝の7時前で、土産物店等はまだ開いていないが、ホームやコンコースは利用客で賑わっている。

さて、「銀河」で関西に来たからには、神仏霊場巡拝の道めぐりの続きである。今思えば、まだ観光客が本格的に動く前の時間帯なので、京都市内の札所を回ってもよかったのだが、今回の目的地は、前回春日大社でのあみだくじで出た住吉大社である。ならば「銀河」も大阪で下車すれば早い話だが、そんな早朝に下車しても仕方ないし、せっかくなので列車を乗り通すことにした。

その京都からだが、JRで大阪に戻るのではなくルートを変えてみよう。極力、行きと帰りで循環ルートとしたいということで、向かったのは近鉄の乗り場。

乗車したのは7時10分発の鳥羽行き特急。車両はビスタカーである。その2階席に陣取り、構内のコンビニで買い求めたもので朝食とする。まずはこれで大和西大寺まで向かう。

京都発車後すぐに右手に東寺の五重塔。ここも京都の札所として訪ねたところである。

丹波橋を過ぎ、そのまま京都盆地を快走する。新名神高速道路の建設が進められているところである。

7時38分、大和西大寺に到着。伊勢方面へはまたの機会として、まずはここで近鉄奈良線に乗り換えるため下車する。駅ナカのタイムズプレイス西大寺は、京都、大阪方面から大和西大寺に出入りする列車の展望スポットがあるのだが、この時間はまだスーパーが開いているくらいで、スポットまで行くことができなかった。

ここから乗り継ぐのは8時08分発の特急「ひのとり」。基本的には名阪特急として運転されている「ひのとり」だが、1日数本、奈良線の特急としても活躍している。平日のこの時間だと、特急料金を払ってでも着席して大阪まで行く客もそれなりにいそうだ。

そして、どうせ乗るならと料金を上乗せしてプレミアムシートに乗る。前面展望、少し高い位置から見るというのも貴重な体験である。まずはほぼ直線に学園前、生駒と走る。ホームのすぐ先は生駒トンネルの入口である。

生駒トンネルを抜けると大阪平野へ。右手には大阪中心部の高い建物が並ぶ。近鉄奈良線で名高い展望スポットである。大阪~奈良~京都を結ぶ観光特急「あをによし」も、こちらの方向の座席は展望スペースを広く確保した構造になっている。

このまま快走し、鶴橋に到着。ここはそのまま地下に潜り、大阪上本町、そして終点の大阪難波に到着。現在、なかなか名阪特急に乗る機会がないのだが、その中で大和西大寺からわずか30分とはいえ、久しぶりに「ひのとり」の乗り心地を味わえた。

さて今回の神仏霊場めぐりの目的地は、あみだくじで出た大阪1番・住吉大社だが、未訪問の札所の分布を見る中で、大阪4番・今宮戎神社、大阪3番・阿倍野神社とたどってみようと思う。少し東には大阪2番・四天王寺や大阪6番・法楽寺もあるのだが、大阪はこれからも来ることになるから次回でもいいかな。

ということで近鉄の大阪難波から地下道を通り、南海の難波駅へ向かう・・・。

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