確かに、学校を閉鎖しなければならないとか、遅ればせながらも何か手を打たなければならないというのは理解する。
ただ・・・安倍が何か言っても信憑性がないし、そもそも心に響くものがないんですわ。これまで散々詭弁で国民を馬鹿にした対応をした国賊が今さら何を言っているのか。こんな奴、殺処分上等やろが。いや、インフルエンザの報道で殺処分される鶏や豚に申し訳ない・・・。
家原寺のお参りを終えて、津久野駅近くの塩ラーメンの「龍旗信」にて昼食。
普通列車に乗り、2つ目の百舌鳥で下車する。せっかくなので大仙古墳(仁徳天皇陵)に向かうことにする。昨年世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の代表的なスポットである。
2月だが早咲きの桜も見える中、仁徳陵のへりに出る。世界遺産に登録されて以来、訪れるのは初めてである。あまり観光客を呼び込むタイプのスポットではないなと思ってはいたが、ガイドは立っているものの特別に賑わうという感じもなく、ごく普通に訪れている感じである。
仁徳天皇という人を知る手がかりは『古事記』、『日本書紀』の世界であるが、初めて都を大和国から難波(高津宮)に遷したとされる。知られた話としては、ある日高台から国の様子を見ると、どの家からも竈の煙が上がっていない。民衆が炊事もできないくらい貧しいことを知り、3年間、課税と労役を止めた。すると国中の家から煙が立つようになったという。そうしたこともあって「仁徳」という謚がついたわけだが、少なくともこの古墳をこしらえるのに、多くの課税と労役を必要としたことは間違いないだろう。
大仙公園から堺市博物館に向かう。堺の地で茶道の地位を確立させた武野紹鴎、千利休の石像が出迎える。
堺の歴史となるとやはりまずは古墳。仁徳陵をはじめとした百舌鳥・古市古墳群である。土器や埴輪などの出土品も多数展示されている。
その世界遺産登録の証書が飾られている。この中に微力ではあるが私の地元藤井寺市も含まれていると思うと、誇らしく思う。もっとも、藤井寺市の世界遺産で紹介されることが多いのは、誰でも自由に入れて子どもたちの遊び場にもなっている(私もその一人だった)古室山古墳だったり、高速道路の高架下にある赤面山古墳だったりなのだが・・。
堺の歴史紹介の一つとして、先ほど訪ねた家原寺ゆかりの行基も出てくる。いずれも複製だが、行基像や、行基の生涯を描いた屏風絵が展示されている。以前から展示されていたと思うが、おそらく印象に残らずスルーしていたと思う。今回行基ゆかりのスポットに行ったことではじめて意識するようになったかな。
堺といえばもちろん鉄砲や刃物もあるし、祭りも盛んだ。企画展があった生活道具も合わせて見学する。一通り見て博物館を後にして、この日はそのまま帰宅した・・。
さて、新型コロナウイルス感染拡大はさまざまなところに波及していて、特にこの3月の予定は公私ともに空きが出るようになった。その合間を埋めるのは・・やはり寺かな。西国四十九薬師めぐりもこの機に進めて行くのもよい。この時期に出歩くことは不謹慎だと思う方もいるかもしれないが、心を安らげる意味でいろいろ回るのもよいだろう・・・。
2月24日、新型コロナウイルス関連のニュースが続く中で、また私の体調も今一つだったのだが、無事に快方に向かったので、家にこもるのもどうかと外出する。今回は遠方に出るわけではなく、人混みや密室に長時間いるわけではないから、まあいいだろう。
今回目指すのは堺市の家原寺(えばらじ)。西国薬師めぐりがきっかけで初めて目にした名前で、私は最初「いえはらでら」と間違って読んでいた。「えばらじ」とわかったのは、前回のサイコロで行き先が決まってからである。最寄り駅はJR阪和線の津久野で、普通のみ停車である。
時刻は午前中のゆったりした頃合いで、快速で行っても乗り換えになるからと、天王寺の頭端式ホームから出る普通列車に乗る。途中、特急「はるか」や関空快速などに何回か抜かれ、天王寺から30分ほどかけて到着する。
家原寺へは駅から徒歩10分とあり、新旧のマンションや商店が続く通りを歩く。
交差点の角に親子の象の像が立つ。何の建物かと見ると、堺市総合医療センターとある。何でまた病院の前に象がいるのだろうか。堺市の資料では、「生命の尊さと愛を伝えたいという気持ちを、大自然の象徴であるアフリカゾウの親子の姿に表現した」とある。医療センターが以前別の場所にあった1996年に制作されたそうだ。
この医療センターの先に進むと、漢字で「家原」と丸くデザインした模様が書かれた門がある。砦を模した造りだなと見るに、「家原城跡」とある。時は戦国時代、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場する三好長慶や松永久秀の頃である(ドラマ観てないけど)。松永久秀の軍勢「泉州衆」と、三好長慶の後を継いだ「三好三人衆」の争いの舞台にもなったという。
石碑の前に池があり、体育館もある公園になっているが、かつて濠としても使われていたのではないかとされる。
さて家原寺に着く。道路に面して駐車用のゲートがあり、500円コインで開くという。逆にいえば500円玉がなければクルマで入ることはできない。
山門があり、門の内側の通路を向いた仁王像が出迎える。その壁には多数の落書きの跡があるが、さまざまな学校への合格祈願の文字が目立つ。結構前に書かれたようなものもあれば、この1~2年というのもある。
仁王門をくぐったところの駐車場の向こうにフェンスがあり、「行基宗 家原寺」の看板がある。行基と言えば奈良時代の高僧で、全国各地の寺にも「行基ゆかり」のところが結構見られるのだが、「行基宗」とはまた大胆な名前である。行基らしいイラストの看板で、拝観料500円、本堂受付横で支払うようにとある。
寺が開かれたのは奈良時代、行基の出自がこの地にあることからだとされている。その後、鎌倉時代に再興され、多くの塔頭寺院を有していたこともあったが、復興と衰退を繰り返していて歴史はよく伝わっていないところもあるようだ。
正面の本堂を見ると、扉や縁側に何やら白いものが多くついている。本堂の横に賽銭箱があり、拝観料はこちらに入れるようだ。ちょうど500円あったからよかったが、細かいのがない場合はどうするのだろうか。横に寺務所があるのでそこで両替してくれるのか、いやいや賽銭箱形式だったら拝観料を踏み倒すこともできそうだ。先ほどの駐車場が500円玉限定だったり、小銭は必須である。
その白いものだが、「志望校合格」「◯◯大学合格」といった合格祈願の文字が書かれたハンカチである。家原寺の本尊は文殊菩薩。地元では智恵の文殊さんとして親しまれているそうで、昔から学力向上や合格祈願に訪れる人が多いという。場所によっては二重、三重にも貼られている。
いつの頃からか、そうした合格祈願の文字というのは先ほどの仁王門と同じく、本堂の壁や天井に直接書かれていたそうだ。そのため「落書き寺」とも呼ばれていたが、寺の方で願掛け用のハンカチを用意し、それを貼りつける形をとった。特に今はちょうど受験シーズンの終盤戦。下の層のハンカチに書かれた日付を見ると昨年の年末や今年の正月のものが目立つので、二年参りや初詣の時季くらいから貼りつける人が多いのかなと思う。これだけ多く貼られているのを見るとご利益はあるのだろう。
本堂に入る。堂内撮影禁止のため画像はないが、確かに壁や柱に祈願の文字の跡が見える。高い位置にあるものは、わざわざ脚立でも使って書いたのだろうか。ここは文殊菩薩を祀っていて、薬師如来は別にあるようだがともかくお勤めとする。
その間、本堂の外の廊下から足音がずっと聞こえる。本堂を回るお百度参りで、賽銭箱の横にはお百度参りの札を入れる箱がある。本堂を一周すると札を納めて手を合わせて・・・を繰り返す人が何人もいる。これも「行基宗」独特のものかなと思うが、行基宗といっても別に怪しいものでも何でもなく、元々は高野山真言宗の寺だったのが、2018年に独立して単立の寺院になったものである。お百度参りは以前から行われていたものだろう。
では薬師如来はと言えば、本堂から離れたところに薬師堂がある。中に入ることはできず、ともかく外でもう一度お勤めとする。
他にも三重塔、四国八十八所のお砂踏みや、行基生誕の地の石碑と祠などがある。いろいろなものが雑然と建っているようだが、外とは壁や塀で厳然と仕切られているようでもなく、開放的な境内とも言える。
1.福崎(神積寺)
2.東山(雲龍院)
3.加茂(浄瑠璃寺)
4.伏見(法界寺、醍醐寺)
5.大原(三千院)
6.湖南(善水寺)
この中の四つが京都府ということで確率が高そう。一方、湖南の善水寺はサイコロに登場するのは7回目とダントツに多いのだが(出目を決めるくじ引きのアプリにも結構偏りがあるのかな)、ここまで出ていない。
サイコロの結果は「3」、浄瑠璃寺である。ここは加茂としているが、JR奈良からもアクセスすることができる。当初、3月はさまざまな予定が入っていたのだが、新型コロナウイルスの影響で中止が相次いで、ぽっかりと時間が空くようになった。春の風情を楽しみにするか。
さてこれで寺を後にして、津久野駅に戻ることにする・・・。
こうした状況なので致し方ないだろう。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響はスポーツの方面にも出ているようで、サッカーJリーグやバスケットボールBリーグでは3月の試合日程の延期が決定した。
また、野球のオープン戦は今後の全ての試合を無観客試合で行うことが決まった。
オープン戦はバファローズ戦の現地観戦ということで、3月8日のファイターズ戦、15日のタイガース戦(試合後にファンによる決起集会が開かれる)の前売り指定券を購入していた。ただこれらも含めて無観客試合である。チケットの扱いについては後日発表されるそうだが、果たして払い戻しになるのかどうか。「オリックス」のことだから、いったん購入したものは雨天中止以外の理由では一切返金しないという対応も十分考えられる。まあ、払い戻しはないだろう。球団の責めに帰するものではなく、雨が降ったわけではないという、弁護士とやらの個人的見解を法的根拠として。
で、世間の関心は大相撲春場所に向くのだろう。相撲協会側も通常開催、無観客試合、中止、さまざまな事態を想定しているとはいうが、どうするのかな。何年か前に不祥事で中止や「技量審査場所」になったのとは状況が異なるので、判断にも困ると思う。これも一般のファンとしては状況を見守り、判断を尊重するしかないだろう。
あ、関心が向くといえばもう一つ、センバツ高校野球があった。
今の政府に批判的なM新聞が主催するイベントなのだが、これまでにセンバツ開催の是非について何らかの見解を出しているのだろうか。普段政府に対してエラソーなことをのたまっているのだから、当然、こうした状況下でのセンバツの是非については「非」のスタンスなのでしょう。M日、A日、ともに高校野球は莫大な収入源で、特に大阪朝日のごときは夏の高校野球を狂人的に、いや狂人以上に報道することを社是としているカスゴミだからどうしようもないが。
ことのついでに、国会も1~2週間、休止でいいでしょう。どうせ会議で何か話し合っているわけでもなく、傲慢な政権のアホ面をさらしているだけなのだから。安倍が何かわけのわからんことを片言の棒読みの日本語で読み上げようとする姿は、今年の夏の24時間テレビのネタでいいでしょう。
・・・まあ、別にどちらでもよい。こうしたマスゴミが日本の中では「正義」とされているのだから・・・。
私個人に立ち帰ってみると、これで3月の予定も結構空いてきたことになる。何なら、個人で動くことまでは禁止されないだろうということで、札所めぐりの先を進めることにしようかな・・・。
前の記事にて、体調が思わしくない旨のことを書いていたのだが・・・。
(2月23日)
朝から平熱だったが、時間によって体に異変を感じることもなく、普通の状態。これで大丈夫だろう。
(2月24日)
昼前後、移動距離もそうないことから四国四十九薬師めぐりのために堺に向かう。病気平癒のご加護をいただけたとして、勝手にお礼を申し上げて手を合わせる(というわけで、またこの記事を書くことに)。
(2月25日)
問題なく出社。ともかくよかった。
・・・新型コロナウイルス感染拡大に関する政府の基本方針が今になってようやく発表された。今の時期なら基本方針ではなく突っ込んだ具体策が出るはずでは?というのはさておくとしても、前日の専門家会議の発表と合わせても、これまで言っていたことと何ら変わらない内容だった。結局は自治体や事業者、個人任せで、政府として強力に何かを進めるとか指示を出すこともなく、責任を持つ様子もないようだ。まあ、たぶんそうだろうなとは思っていたが。
感染者数が地域によってばらつきがあるのも、単に検査をしていないから感染者にカウントされないだけの人もいるかもしれないし(つまり「感染はしているが、感染者ではありません状態」)、この先大切なイベントがあるからといって隠したり誤魔化したりしている自治体がないとも言えない。政府も、加藤厚生労働相が連日矢面に立たされているが頼りなさそうだし、その親分はウイルスよりもお友達の宴会で忙しそうだし、内閣もどうしていいのかわからないのだろう。
こうなれば神仏頼みでもいいのではないか。いっそのこと、ウイルス退散の加持祈祷でもお願いするかな・・・。
いやいや、翌日は2月26日、いわゆる「二・二六」である。この日にちなんで、安倍のような奸族に実力行使で「天誅」を加えてやったらどうですか(笑) まあ、安倍は五・一五の犬養毅とは真逆の下種だけど、いざ事が起これば真っ先に逃げて証拠も廃棄・隠蔽して責任逃れをするのだろうけどね。
貴様のこれまでの歴史こそシュレッダーにかけてやりたいが・・・。
連日、新型コロナウイルスの感染拡大にともなうニュースが相次いでいる。イギリスの豪華客船からは乗客の下船が行われたが、その後亡くなったというケースも出ているし、またこのところでは各種イベントの中止や延期、無観客での実施という措置も出ている。私の勤務先企業でも3月からの会社説明会を見合わせるという通知が出た。学生の方も不安なことだろう。
日本国内の感染確認者も日々増えているが、一日も早い回復をお祈りします。
・・てなことを言っている私だが、この冬、特にどこか痛いとかしんどいとかいうことは全くなかったのだが、2月20日くらいからちょっと身体に異変を感じている。人のことは言っていられない。
(2月20日)
ちょっと鼻水、寒気がする。早くに帰宅して熱を測ると37度後半。ただこれは、私の場合年に1~2回くらい起こる症状。疲れが溜まって発熱をする。ただし一晩眠れば次の日は大丈夫である。ちょこちょこ熱を測ると38度を越える時もあったが、これも想定の範囲内。
(2月21日)
体温は36度台、平熱である。身体が少しだるいがこれなら大丈夫である。まして、この日はどうしても外せない予定がある。(こういうことを本当は言ってはいけないのだろうが)私が万が一休むとなると他の職場の人に代打を頼まなければならない。同じ職場ならまだしも、他の職場が絡むとなると話はややこしい。朝は普通に出社して、道順の関係でたまたまいったん自宅に戻ることができたので改めて検温すると37度台前半。午後にあった予定は何とかこなし、そのまま自宅に直帰。夕食も摂らずに布団をかぶる。時折検温すると、36度台に下がることもあれば、37度を少し越えることもある。朝からトイレに駆け込むことは数回あり、体全体のだるさを感じる。
(2月22日)
22日~24日は3連休。ちなみに、3月14日に営業運転を開始する近鉄の新型特急「ひのとり」の試乗会に応募していたのだが、抽選は見事に外れ。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で試乗会そのものが中止となった。この情勢なので、このまま試乗会はなく営業運転開始となるのだろう。
近鉄「ひのとり」の試乗会に落選したのを受けて、この3連休のどこかでは西国三十三所めぐり、西国四十九薬師霊場めぐりを進めようかと思っていた。しかし22日は雨の予報だったために自宅にて静養。それはいいが熱は36度台で落ち着いたかと思うと、身体がだるいなと思って測ると38度になっていたり。夕方から夜にかけても体温の変動の幅が大きい。
ここまで来ると疲労とか風邪の範囲を超えて、インフルエンザ・・・いやひょっとしたら新型コロナウイルス??ということが頭をよぎった。ネットにはさまざまな記事や識者のコメントが出ているが、それらをまとめると今の私の段階では病院には行かないほうがよいようである。解熱の薬も下手には飲まない。
新型コロナウイルスということであれば、ちょうど2週間前に中国「地方」に渡航していましたけどね・・・(それが言いたいだけか)。ただあの時に他人から移される明らかなリスクがあったとは思えない。
まあよくわからないけど、新型コロナウイルスということであれば、それにはメキシコの「コロナビール」でしょう。ウイルスなんか吹っ飛ばせ・・・(ライムの切れ端がないのだが)。
(2月23日)
朝の時点では平熱で落ち着いている。
ともかくこの連休中での札所めぐりは休むとして、23日、24日は静養とする。体調がどうなるかだが・・・。
宮島のかき祭りというのは第36回とある。広島の冬の味覚の代表といえばかきだが、広島県内各地で開かれるかき祭りの中で最も早くから行われていたのが宮島だという。36回も続けばすっかり年中行事だ。
会場に着いたのは12時半頃で、ちょうど食事どきである。テントには長蛇の列ができていて、また周囲には縁石に腰かけて、トレイやカップを手に舌鼓を打つ大勢の人がいる。宮島名物の鹿もあちこちにいるが、彼らもかきを食べるのかな?
その中でまずは回転が早いかきポン酢をいただく。1皿200円のところ、2皿いただく。他の客も2皿、3皿は当たり前で注文する。もやしが余計な感じだったが、味のついた身をいただいてほっとする。
続いては1杯100円のかきうどん。かきの味が出汁にもよく出ていて、あっさりといただける。
そして一段と列が長かったのが、かきの土手鍋。かつて衣笠祥雄さんが「僕も好きです」と長くCMに出ていた「ますやみそ」提供のブースである。衣笠さんと「ますやみそ」・・衣笠さんが亡くなった時にこんな記事を書いていた。
弥山の山頂から下山する。来た道と同じ大聖院ルートを戻ることもできるが、弘法大師ゆかりの弥山本堂へは続いていないので、ロープウェー乗り場がある獅子岩方面に向かう。帰りは素直にロープウェーとゴンドラを乗り継いで下りることにする。
こちらも巨岩がそそり立つ一帯で、くぐり岩という、ちょうど大人の背の高さ分のスペースをくぐるところがある。またその奥には岩の下がちょうど祠になる不動岩があり、不動明王像が祀られている。こうしたところがよく自然のまま残されているなと思う。
下りの坂道や石段が続く。文殊堂、観音堂という小さなお堂の前を過ぎる。こちらのほうが山頂へのメインルートということで多くの人とすれ違うが、一様にしんどそうな顔をしている。「もう限界」「(山頂まで)まだあるん?」というやり取りも聞こえる。山頂への紅葉谷ルートの登山道も、大聖院ルートと同じく所要時間は1時間半~2時間と案内されているが、この辺りも含めての時間ということだろう。麓から歩いて上って来たならば最後の我慢のしどころと言えるが、くぐり岩や不動岩は、こちらから来たほうが出会った時の感動は大きいのではと思う。
三鬼権現堂を経て、すぐ下にある弥山本堂の広場に出る。わずかな人の姿しか見なかった大聖院ルートと比べて、ここは弥山のパワースポットとして多くの人が手を合わせたり、腰を下ろして休憩している。中にはここが山頂だと思い、まだ10~15分は上らなければならないと聞いて悲鳴をあげる人もいたが・・。
唐から帰国した弘法大師空海が修行の地として宮島を訪ね、弥山にこもって百日間の虚空蔵菩薩の求聞持法の修行を行ったとされる。山の上から海を見渡すというのは、四国の室戸岬や足摺岬にも似た修行にふさわしい場を感じたのかもしれない。また一方では、古くから山頂付近の巨石群を磐座として信仰の対象とする山岳信仰や修験道の舞台でもある。そうしたものがいろいろ合わさったものが厳島神社であり、その別当寺である大聖院であるとも言える。
ここでお勤めとして、信仰の島としての宮島霊場めぐりに一区切りである。
本堂の向かいにある黒ずんだ建物が霊火堂である。弘法大師が弥山で修行した時に焚かれた護摩の火が1200年以上消えることなく燃え続けているという。比叡山の「不滅の法灯」は油で燃えているが、こちらは囲炉裏の火だから薪や炭で燃えている。消えることなくというが、消防法的に大丈夫なのかなといらぬ心配をしてしまう。寝ずの番もいるのだろうか。なお、この火は広島の平和公園の原爆慰霊碑にも分けられている。今回の観音霊場めぐりは平和を願う広島という要素が強い。
消えずの火の上に茶釜がかかっていて、この茶釜で沸かされた霊水は万病に効くという。ひしゃくで紙コップに注いでありがたくいただく。
ここからアップダウンとなり、紅葉谷公園に下りる登山道ルートの分岐を過ぎて、最後は緩やかな上りとなる。獅子岩のロープウェー乗り場に到着する。ここの傘立てに杖が何本かあったので、使ってきた杖を返す。
こちらも展望スポットになっており、1キロほど先にある山頂も見ることができる。また山頂とはまた違った角度での瀬戸内海の景色も楽しめる。山頂まで行くことにこだわらなければ、ここまではゴンドラとロープウェーの乗り継ぎだから登山道を歩くこともなく、より手軽に「日本三景の一の真価」の景色を味わうことができる。まあつまりは、宮島に来たら厳島神社だけで折り返すのはもったいなく、弥山に少しでも足を踏み入れることで幅が広がるということで。
ロープウェーは通常15分ごとの運行だが、この日は客も多かったので臨時便が随時出ている。まずは獅子岩から榧谷まで約10分の空中散歩である。
続いては紅葉谷へのゴンドラだが、「循環式ロープウェー」という方式である。定員8人のゴンドラが一定の間隔で次々にやって来て、係の人が何人かずつに振り分けて客を乗せていく。総延長が1100メートルと長い区間で、通常のロープウェーなら始点と終点で同時にスタートして交互に往復となるため、運転間隔が結構空いてしまう。しかし循環式だとゴンドラが常に動いているため、長い距離の輸送でも輸送力を一定に保つことができるという利点があるそうだ。私の乗ったゴンドラは5人で出発したが、紅葉谷から上って来てすれ違うゴンドラを見ると、8人いっぱいのものもあれば、2人だったり無人だったりとバラバラである。
無事に下山して、厳島神社の裏手を通って桟橋に向かう。途中の料理店の店頭で焼きかきとかきポン酢のスタンドが出ていて、かき祭りの会場はすぐそこだが、それでも待てないとばかりにまずはここでかきポン酢を一皿いただく。
この後で厳島神社の参拝入口の前を通るが、参拝前に行列ができていて、さらにツアー団体が加わるところだった。やはり朝のうちにお参りしておいてよかった。
桟橋に着くとかき祭りの最中で、それぞれのテントには長蛇の列ができている。これから広島の冬の味覚を楽しむことに・・・。
このところの報道を見て、腹立たしさが増幅している。
何で、こいつらの中で罹患する奴がいないのか。国民に勝手なことを押しつけて、かつテレビの向こう側でどうでもいいことで時間をつぶしているのやら。
まあ、庶民とは縁のない「上級国民」の方々だから、今さら何を言っても仕方ないな。
大聖院のお参りで今回の中国観音霊場の札所めぐりの目的は果たしたが、ここまで来たのだし、またこれも修行の一つとして、徒歩にて弥山の山頂を目指すことにした。別に強制ではないが、後で振り返った時に「ああしておけばよかった」ということになるのもどうかと思う。実は中国観音霊場、この先にもそうした難所スポットがあるが、この流れならそこにも行くことになるのだろう。
山頂まで二十四丁というのを、これまでの遍路ころがし等の経験値に置き換えて、まあ1時間半あれば大丈夫と踏んで出発する。ふと、杖か4、5本転がっているのを見る。この先の道のりを予感させるもので、丈夫そうなものを1本借りる。ちょうど糸でグリップも作られていて、地元の人か寺の方かはわからないが、ご厚意を受けることにする(四国遍路では、他人の金剛杖を使うのはその人の業を背負うことになるとしてご法度のようだが)。
まずは昔からの石仏が並ぶところを過ぎると、巨大な岩がゴロゴロする一帯に出る。公園のようで立派な石段も整備されているが、公園にしては豪快すぎるなと進むと「白糸川2号砂防堰堤 災害関連緊急砂防事業 平成19年10月完成」という広島県の礎石がある。砂防堰堤とは砂防ダムのことだ。
2005年(平成17年)9月の台風で弥山では大規模な土砂崩れが起きて、登山ルートだけでなく大聖院の敷地の一部も被害を受けた。その修復で砂防ダムが造られたが、「白糸川2号」というからには、この上に「1号」があるのだろう。大聖院ルートも台風から約3年間は通行止めだったという。
この先に瀧不動堂がある。この建物も土砂崩れで破壊され、砂防ダムともども新たに建てられたものだとある。宮島の台風被害といえば何年前だったか、厳島神社の本殿や拝殿の屋根が飛ばされ、境内が水浸しになったのを連想するが、弥山でこうした土砂崩れがあったとは恥ずかしながら知らなかった。
本来ならこの先にある白糸の滝を見るべきだが、そこまで行くのも遠いので手前の瀧宮神社で手を合わせる。平清盛が力を持っていた時期、高倉上皇ゆかりの神社という。
この辺りから昔からの参道、本格的な上りとなり、石段が続く。時折現れる丁石を数えながら上るが結構きつい。そんな中、桟橋のかき祭りが始まったのか、下のほうからステージ上のマイクの声が聞こえてくる。木々の間に厳島神社、桟橋あたりを小さいながら見ることができる。JR、松大汽船のそれぞれの船が頻繁に行き来する。ジオラマを見ているようだ。
六丁、七丁あたりだったか、開けた場所に出て屋根つきの休憩ポイントに着く。かつては里見茶屋という茶屋が建っていたそうだ。ここからの眺めも良いものだ。防寒の出で立ちで来たが、ここまで来ると逆に暑く感じる。一瞬、ここで折り返してかき祭りに行こうかとも思ったが、後悔するのもいやなのでもう一踏ん張り上ることにする。
丁石で頂上までの道のりをカウントしながら進むうち、巨大な岩が現れる。ここも土砂崩れかと見るに、対岸の岩は「幕岩」とある。高さ30メートル、幅150メートルあり、舞台の幕に見えることから名がついた巨大な一枚岩である。宮島の山上では長い歴史の中でさまざまな奇岩を産み出しているが、そのことが現れている。
この先に、また豪快な景色が現れる。ここが「白糸川1号堰堤」。先ほどの2号堰堤からそれなりに高度が上がっているが、この険しい地形に砂防ダムを造ってしまう技術の高さに今さらながら感心する。元の登山ルートは土砂崩れで破壊されたそうで、今歩いているのは新たに設けられた道だ。不謹慎ながら、山城の石垣に見えなくもない。毛利方、陶方、どちらでもいいが、もしも「厳島の戦い」が、弥山の山城に立て籠る相手との攻城戦だったら、中国地方の勢力争い、または守護大名と国人出身の戦国大名との争いも、また違った結果になっていたかもしれない・・と想像する。
木々の中の参道を進み、大聖院からまもなく1時間というところで分岐点に出た。四叉路になっていて、これから向かう山頂へは仁王門が建つ。後の二つは奥の院への道と、駒ヶ林から麓に下る大元ルート。まずは仁王門まで来て、頂上も見えてきたということで一息つく。この仁王門は2004年の台風で倒壊して、2012年に再建されたとある。先ほどの土砂崩れが2005年だから、2年続けての被害である。
2年連続は偶然かもしれないが、このところ、例えとして失礼だが広島商高や広陵高が甲子園に行くのと似たような頻度、間隔で宮島には何かが起こっているようにも感じる。厳島神社や弥山を含めた宮島全体というのは、常に自然災害の危機にさらされている一帯ながら、長年そうした役割を、あるいは広島市街を護る役目を担っていたのかもしれない。その宮島が護りきれなかったのか、あるいはスルーしたのか、その果てが2014年に安佐地区を襲った広島豪雨災害、2018年に県内では坂町や呉市に大きな爪痕を残した西日本豪雨災害だったのか・・とも感じる。全く個人的な感想で、広島の人に怒られそうだが。
ともかく、中国観音霊場がご縁を結ぶ中国仏教聖地の一つである普陀山からいただいたという仁王像の間を抜けて、山頂を目指す。険しい石段や巨岩の間を抜けて、ようやく先が見えてきた。いわば裏ルートから来たのかもしれないが、標高535メートルの山頂はそこにある。
ようやく着いた。大聖院からの所要時間は1時間15分だった。
とりあえず展望台の1階と2階の両方から景色を見る。麓の厳島神社や宮島桟橋の賑わいだけでなく、瀬戸内の島々、広島市街から岩国にかけて広がる山陽道など、雄大な景色が広がる。伊藤博文が宮島を「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と評したが、ここまで上がって来てこその「日本三景」ということだろう。
厳島神社、大願寺とお参りの後、中国観音霊場めぐりの一つである大聖院に着く。
山門から石段が続いていて、階段の手すりには釈迦十大弟子の紹介、そして奉納された大般若経のマニ車がある。これをくるくる回しながら上って行く。
大聖院は弘法大師空海が唐から戻った後に宮島で修行した際に開かれたとされる。鳥羽天皇の勅願道場でもあった。厳島神社の別当寺としての歴史が長かったが、これも先ほどの大願寺と同様に明治の神仏分離で分けられ、厳島神社の本地仏であった十一面観音がこちらに移された。この観音が中国観音霊場の本尊である。
石段を上りきると、左手に本坊、右手に観音堂がある。中国観音霊場としてはまずはこちらでお参りだが、堂内の様子が慌ただしい。寺の人が、アルバイトらしい10人くらいの高校生に何やら指示を出していて、何かの準備中のようである。この日は「十三参り子ども豆まき」といって、数え年13歳の子どもたちの厄除け祈願、豆まきが行われる。
ちょっとバタバタした感じだが、観音堂の外陣に上がってお勤めとする。
右手のスペースは一風変わった雰囲気である。そこにはダライ・ラマ14世の写真や祭壇、チベット仏が祀られていている。2006年に弥山開創1200年の行事があり、ダライ・ラマ14世を招聘し、法話とともに弥勒菩薩の開眼法要を行ったとある。
また左手のスペースには多くの仏像に加えて、明治天皇の肖像画や、宮島に行幸した時の絵図が掲げられる。1885年(明治18年)に厳島神社を参拝した際にはこの場所が行在所に充てられたそうだ。ダライ・ラマに明治天皇が左右に並ぶとは恐れ多く感じる。
境内正面の勅願堂に向かう。鳥羽天皇の勅願というのはここで、大聖院としての本堂である。祀られているのは豊臣秀吉が朝鮮出兵にあたり祈願したこともある波切不動明王。その周りは奉納された1万体の不動明王が埋め尽くす。また三十六童子も勢揃いで、何かこう力強いものを感じる。
境内はさらに奥に続き、順路に沿ってお参りできる。いたるところに石像があるが、見ていて心が和む。同じように多くの石像があった前日の三瀧寺は被爆者追悼、平和への祈りの色合いが強く、改まった雰囲気があったが、ここ大聖院はエンターテイメント感があふれている。宮島、厳島神社の雰囲気がそのまま来ていると言ってもよさそうだ。
極楽観音というのがある。中国観音霊場の他に四国三十三観音霊場、九州西国霊場という二つの霊場が合わさって「百八観音霊場」が形成されているが、その第18番霊場が大聖院の中にあるこの極楽観音である。
般若心経のマニ車の手すりを伝って、摩尼殿に向かう。弥山の三鬼大権現を祀り、日々祈祷が行われている。
弘法大師を祀る大師堂が一番奥にある。お堂の周りには西国三十三所のお砂踏み霊場があり、奉納された弘法大師像がある。寒いのか、大師の頭に毛糸の帽子をかぶせたり、首にマフラーをかけたりという像がいくつもある。そうしたことが許されるような雰囲気である。また奥には一願大師という、願い事を一つだけ念じることで叶えられるというありがたい大師像がある。絵馬にもさまざまな願い事が書かれている。
その大師堂の下にあるのが遍照窟。四国八十八所の各本尊が祀られていて、実際の砂が埋め込まれたプレートがある。本格的なお砂踏み霊場である。大師堂の下にあるというのも高野山の奥の院をイメージさせるもので、大量の灯籠、大量の仏像というのも荘厳な感じがする。これもエンターテイメント感の一つ。四国を回り終えたのがちょうど1年前ということで、その時のことなどを振り返りつつ、お砂踏みでの四国一周とする。
さらには七福神を祀る萬福堂を回り、結構お腹いっぱいになった感じで元の勅願堂、観音堂のエリアに戻る。ここで朱印をいただく。
下りは下りで、先ほどの石段とは別の通路がある。こちらには寄進された五百羅漢像が表情豊かに並ぶ。最後まで飽きさせない。
中国観音霊場めぐりの中でここまでさまざまな仏像の寄進や、参詣者参加型の寺というのもなかった。建物自体は最近の建造、再建によるものが多いが、そのぶん参詣者に身近に感じてもらおうという取り組みが多く感じられた。
さて、当初はここからロープウェー乗り場まで徒歩で移動して、ロープウェーにて弥山を目指すことにしていたが、やはりここまで来たら徒歩で行かなければならないのかなという気になってきた。弥山の登山道として整備されているのは3コースあるが、その一つに大聖院コースというのがある。弥山の山頂まで二十四丁とあるが、ふと「修行」という言葉が頭をよぎる。
「かき祭り」は気になるが、広島を出るのは夕方の新幹線だから時間は全然問題ない。案内では山頂まで1時間半~2時間。せっかく来たのだからこの際「弥山に歩いて登った」という経験も積んでおこうか。
ということで、山門の横から続く参道に向かうことに・・・。
2月9日、まだ夜が明けない朝の5時にホテルのロビーに下りる。今回宿泊した「アーバイン広島エグゼクティブ」だが、5時から朝食のサービスがある。メニューは簡単なもので、ごはん、パンの他はボタンで機械から注がれる味噌汁、ハンバーグ、焼き魚、肉じゃが、サラダなどシンプルなところだが、それでも朝5時からというのはありがたい。平日はだいたいこの時間に朝食を取っているから同じようなリズムだ。
広島6時24分発の岩国行きに乗る。この日は宮島の大聖院に向かうのだが、それにしても早い時間である。少しずつ明るくなるうちに広島市から廿日市市に入り、6時52分に宮島口に到着する。駅の内装もシックな感じに改装されたようだ。
宮島に渡るのも久しぶりで、ブログ記事で振り返ると2013年の正月以来となる。この時は青春18きっぷで米子~津和野~湯田温泉~宮島~大阪と回る旅の途中だった。その時はJRのフェリー乗り場の建物のすぐ向こうに桟橋があったように思うが、実は2014年からリニューアル工事が行われており、フェンス越しに新たな建物が出来つつあるのが見える。完成後は宮島口のフェリー乗り場は「厳島港」という名前に改められ、現在JRと松大汽船が別々の桟橋から出ているフェリーも同じ場所になるそうである。新たな商業施設もできるそうで、二つのフェリーが共存して盛り上げようというところか。
フェリー乗り場に向かう途中に「かき祭り」の立て看板を見つける。2月8日、9日の両日とあり、正にこの当日だ。今回この2日で中国観音霊場めぐりとしたのは、翌10日から宮島ロープウェーが点検のため運休となるからだが、その結果がかき祭りとはラッキーだ。昼食はかきで決まりかな。
次のJRの7時05分発のフェリーは朝の第2便。この時間から結構多くの人が乗っている。やはり観光地である。
遠方に厳島神社の大鳥居が見える・・・はずだが囲いで覆われている。現在の大鳥居は1875年に建てられたものだが、損傷や老朽化が進んでいることから、昨年6月から「令和の大改修」が行われている。どの程度の改修作業が必要なのかを調査するところから始められたため、現時点でいつまで工事が行われるかは未定とのこと。まあ、今しか見られない宮島の景色なのかもしれない。
宮島に着くと、かき祭りのステージやかき料理のテントがお出迎えである。「かきうどん」や「かき土手鍋」という文字が並ぶ。かき祭り自体は10時頃から開催とのことで、大勢の人が訪ねることだろう。
海沿いに厳島神社を目指す。先ほどフェリーに乗っていた人の全てが観光客というわけではなく、途中で路地に入ったり、もみじ饅頭の店の通用口の扉を開ける人もいる。要は宮島に「通勤」している人たちだ。確かに、店や旅館はたくさんあるが、そこの従業員すべてが宮島に住んでいるわけではなく、住むなら本土側という方も大勢いることだろう。
朝の7時半頃、厳島神社の境内に続く石の鳥居をくぐったのはこの時点で10数人。広島駅を早朝に出発したのは、朝早く空いている時間帯で厳島神社を参拝しようということもあった。
さすがに早朝の参拝者というのは少ない。おかげで回廊を回り、建物の写真を撮るのにも人が入る心配がほとんどない。
厳島神社の潮の干満についてはネットでも日々示されているが、ここは事前にチェックせずに、訪ねたその時の姿を見るのも良いと思う。満潮、干潮、それぞれに違った景色があるが、この時は干潮から満潮に向けて少しずつ潮位が上がりつつあるところだった。
ただ拝殿の裏手のほうまでは潮が来ておらず、「鏡の池」を見ることもできる。
本殿に向けて手を合わせた後で、平舞台に出る。この日は少し寒かったこともあり、水に濡れた床が所によって凍っている。ちょっとすべりそうになる。改めて、工事中の大鳥居を見る。覆いで囲われているのは景観として残念にも見えるが、この位置から見る大鳥居の先の本土側で目立って見える宗教団体の施設の建物が気にならなくて済む。
いろいろ写真も撮りながら、ゆっくりとお参りして回廊を抜ける。
回廊を出たところにある山門は大願寺。鎌倉時代には開かれていたとされる寺院で、かねてから厳島神社との関係が深かった。宮島は江ノ島、竹生島と合わせて日本三大弁才天の一つとされており、厳島神社の中心的な神である市杵島姫神(イチキシマヒメカミ)は神仏習合で弁才天と同一とされていた。それが明治の神仏分離で弁才天が厳島神社から移されたのが大願寺である。
前回厳島神社に来た時には札所めぐりというものを始める前のことで、あまりこうした神仏習合、神仏分離ということを気にすることもなく、単に同じ敷地に寺があるなという程度でしか見なかったが、こうして中国観音霊場めぐりで来るといろいろなものが気になる。大願寺には弁才天の他に阿弥陀如来、如意輪観音、薬師如来、釈迦三尊、不動明王(護摩堂)、弘法大師とあらゆる仏がズラリと祀られている。また中国四十九薬師霊場の第22番、さらには広島新四国八十八ヶ所霊場の第1番でもある。
ちなみに広島新四国八十八ヶ所でいえば、前日訪ねた三瀧寺は第15番、そしてこれから訪ねる大聖院は第87番。さらに第88番は弥山の本堂である。別に狙っていたわけではないし朱印をもらうわけではないが、安芸の国を回る八十八所の最初と最後を訪ねることになるのも面白い。
この後、海に面した清盛神社を回ったり、厳島神社の宝物館にて平家納経などを見て、宝物館の奥に続く大聖院に向かう。この先は初めてのゾーンだ・・・。
中国観音霊場の札所・三瀧寺へのお参りを終えて、広島駅に戻る。まだ外は明るいが、ホテルにチェックインする。
今回の宿は「アーバイン広島エグゼクティブ」。宿を最終的に決めるにあたり、いろいろ考えてネット予約~事前キャンセルを繰り返していた。翌日の2月9日には宮島に渡るのだから、宮島口駅の近く、いやいやいっそのこと宮島島内に泊まろうかとも考えたが、そこは広島駅近くにした。アーバイン広島エグゼクティブは新幹線口から徒歩で3分ほど。予約したのは、部屋のタイプがお任せの代わりに安くなるというプラン。
フロント横には販売用のカープグッズや熊野筆が並ぶ中でチェックイン。エレベーターで上がると、一般的なホテルの屋内ではなく、マンションのような吹き抜けの空間が現れる。ホテルの部屋というより、ワンルームマンションで一夜を明かすかのような造りだ。
部屋も一風変わっている。コーナーにダブルベッドがあるのはよくあるとして、壁側のテーブルと同じ並びに洗面台がある。また、すぐ横にあるガラス扉を開けるとトイレ、さらにその奥は浴槽のないシャワーブースである。
シャワーブースがよかった。通常のシャワーホースだけでなく、上からのシャワー、またボディシャワーもあり、自在に使える。まあ、ビジネスホテルに泊まってユニットバスを使う場合も、浴槽に湯を張らずにシャワーだけで済ませているので、むしろ充実したシャワーのほうがありがたい。
入浴後はパソコンでブログ記事の書き込みをしながら、テレビでハンドボールの試合を観る。NHKの広島限定の放送だが、女子リーグのイズミメイプルレッズ対飛騨高山ブラックブルズ岐阜の一戦をやっている。紅葉やカープの「赤」と、飛騨牛の「黒」というのも濃い組み合わせだなと思いつつ、滅多に観られないハンドボール中継を追う。俊敏性とパワーの両方の要素があり、ハードな競技だなと思いながら、一進一退を追いかける。
試合は実力上位のメイプルレッズが順当に勝利したが、アナウンサー、解説者とも「下位相手にこれじゃあいけん」という主旨の話をしていた。イズミの実力としてはこんなものではないという思いが乗せられていたように感じ、ハンドボールの世界もいろいろあるようだ。
さて夕食。この日は店を予約していて、向かったのは広島「エキニシ」地区。文字通り広島駅西側にある大須賀地区を指すのだが、広島駅周辺で昔ながらの店があるとか、個性豊かだとか、ディープだとか言われている。最近では古民家を改装した新たな店もいろいろできている。
その中の「広島赤焼 えん」に入る。鉄板焼の店だが、ここにしようと思ったのは後ほど出てくるあるメニューが目にとまったからだ。
まずは広島菜漬とがんすをアテでいいただく。
店の名前にもなっている赤焼をいただく。広島ブランドの「廣島赤鶏」を鉄板で焼き、オリジナルのピリ辛赤ソースで味付けしたもの。いろんなところに「赤」が登場するのも広島らしい。地鶏の割には固さを感じず食べやすく、赤ソースのほどよい辛さでビールが進む。
日本酒もいろいろあるなとメニューを眺めていると、「こちらはどうですか?」と薦められたのが、賀茂泉の「立春朝搾り」。「令和二年庚子二月四日」と書かれたラベル、毎年2月4日の立春の朝に搾った生原酒である。数量限定、扱う店舗も限定。春を祝い、新たな年に幸運を呼び込もうというものだ。訪ねたのは2月8日だからまだ5日目で、値段はそれなりにするがせっかくなので1杯いただく。しっかりした味わいだ。
後でわかったが、この「立春朝搾り」は賀茂泉だけではなく、全国で44ヶ所の蔵元で展開されているとのこと。ラベルのデザインは共通で、右上の蔵元の名前が変わるだけのようだ。こういうのを見ると、毎年続けて入手して並べてみたくなるのもわかるし、全銘柄をコンプリートする人もいるのだろうなと思う。この店でも4年ぶんの瓶がインテリアで飾られている。「令和元年はないんですがね」というが、いやいや平成三十一年というのもレアだと思う(立春の時にはまだ新元号は発表されてなかったし)。
さて、最後に締めでのお好み焼。「えん」では先ほどの赤焼で出てきた赤ソースを使ったお好み焼が売りだそうだが、ここで頼んだのがカキをてんこ盛りにした「マシマシ牡蠣」。マシマシって、どこぞのラーメン店の注文の仕方のようだが、冬の広島といえばカキ料理。広島県、広島市の観光サイトでも盛んにPRされていて、オリジナル料理の一つで紹介されていたのが「マシマシ牡蠣」である。
まずはお好み焼を作る。これは一般的な広島お好み焼と手順は同じだ。
合わせて鉄板にカキのむき身を円形に並べる。その数20個。これがほどよく焼けると、先に私の前に置かれたお好み焼の上に豪快に盛り付ける。最後にバターを乗せて、お好み焼とカキという広島の両エースの競演である。
こうなると食べ方はいろいろで、カキだけつまんでもよし、ヘラで切ったお好み焼と合わせてもよしだ。先ほどの賀茂泉から瀬戸田レモンサワーにスイッチ。
店の主人も気さくな感じでいろいろ話もしたが、そろそろ客も増えてきて忙しくなりそうなところで店を後にする。
一次会でお好み焼までいただいたので、この後どこかで飲み直そうともならず、駅近辺をぶらついてホテルに戻る。カープグッズの扱い量が豊富なフタバ図書や、マツダスタジアムに続くカープロードを歩く。
ミスター赤ヘル・山本浩二さんのパネルもある。先日久しぶりに公の場に出て、昨年4度にわたるがん手術を行ったことを明らかにしていた。このところ、金田正一、高木守道、そして旅の後のことだが野村克也と、プロ野球で一時代を築いた方たちの訃報が相次ぐこともあり、少しでも長くお元気でというところである。
他の名球会入り選手たちもまだまだ指導者としての活躍が期待できるので、お元気でいてほしい。
ホテルの部屋も静かに過ごすことができ、早めの就寝とする。翌9日は宮島行き・・・。
広島駅に到着後、この日の目的地である第13番の三瀧寺を目指す。アクセスとしてはJR可部線の三滝駅から徒歩15分とあるが、改札口で電光掲示板を見るとちょうど列車が出たばかりで、次の列車まで30分待ちだった。
ただ帰宅してから思うに、この時私は電光掲示板を見間違えていたようだ。時間で行けば12時48分発のあき亀山行きに乗れたはずである。そうしたことも気づかなかったとは、今の総理大臣や国会議員の連中と同様、私の脳も新型コロナウイルスのためにイカれてしまったのだろう。
この時はそうした気づきはなく、次の13時08分発まで時間があるからと、一度南口から駅前に出た。広島勤務時代は駅前の待ち合わせスポットにもなっていた噴水を見る。
マツダスタジアムができてからの広島駅南側の再開発、変貌ぶりには来るたびに驚くのだが、これからさらなる開発が進められるという。駅ビルそのものもホテルや商業施設が入る複合型に建て替えられ、駅前の広電の乗り場も2階にかさ上げされるそうだ。駅ビル「アッセ」もこの3月末で閉館との案内が大きく出ており、この噴水もいずれ撤去される方向だ。
確かに三瀧方面に向かうバスがあったのではと乗り場をたどると、赤バス(広島バス)の三滝観音行きというのがあった。観音とあるから三瀧寺まで行くのだろう。1時間に1本だが、ちょうど12時49分発というのがあったので乗り込む。
先ほど通った八丁堀や紙屋町を再び走り、原爆ドームの前も通る。ドームについては車窓から見ることで今回訪ねたことにする。
この後横川から太田川放水路を渡り、三滝駅の近くを過ぎると上りになる。広島駅から30分あまりで終点の三滝観音に到着。三瀧寺はもう少し先にあり、坂道を上がる。
途中に墓地があるが、その一角に原爆で無縁となった方々の墓という立札がある。正しくは原爆で亡くなった人の墓ではなく、墓を持っていた家族や親類の人たちが原爆で亡くなったので、身寄りがなく無縁仏になった人たちの墓石を集めたところだ。先ほど原爆ドームは車窓で通過・・としたが、やはり広島の歴史には原爆の影が見える。
車道が行き止まりになり、三瀧寺に着く。標石はあるが山門はなく、そのまま入る。観音や地蔵などさまざまな石仏が出迎える。
まずは三瀧寺の由緒について。平安時代に弘法大師空海により開かれたとされ、境内に三つの流れの異なる滝があることから三瀧寺の名がついた。鎌倉時代に安芸の領主武田氏により本堂が建てられ、その後は三滝観音として広く信仰を集めた。
「被爆建物」という案内がある。原爆の影響は市街地の西にある三瀧寺にも及んだ。本堂は損壊したが、境内の想親観音堂、鐘楼、稲荷社、三鬼権現堂、鎮守堂は被爆を乗り越えて現在に残っている。被爆建物は爆心地から5キロ以内で現存する建物について指定するもので、現在80件あまりがリストアップされているそうだ。ちなみに三瀧寺は爆心地から約3.2キロのところ。どうしても原爆ドームに目が行きがちだが、改めて広島市のホームページでリストを見ると、現役で使われている建物、施設にも結構残されているものがある。
多宝塔に向かう。元々は和歌山県内の神社にあった建物だが、原爆犠牲者を弔うためとして移築されたものである。
「各宗祖師之庭」というところに出る。左から弘法大師空海、日蓮、道元、親鸞と並ぶ。日本で檀家・信徒が多い代表的な宗派の祖師たちである。ここでも原爆死没者への回向と、世界平和を願うためとある。宗派の壁を超えたオールジャパンのようだが、祖師とは違うが聖徳太子像というのもここにあってよいと思った。
周りには原爆被害や平和を詠んだ句碑や歌碑も立つ。三瀧寺はそうした祈りの場でもある。被爆当時、市街地から三瀧寺に逃れてきた人も大勢いたという。しかし三瀧寺にたどり着く前に太田川放水路で亡くなった人もたくさんいるという。
この先、本堂に続く参道にも四国八十八所のお砂踏み霊場があるだけでなく、さまざまな石仏が並ぶ。また被爆者の慰霊碑や、ナチスドイツの収容所で亡くなったユダヤ人などを弔う石碑もある。山の中に涼しげな境内が広がり、新緑や紅葉を楽しむことができるスポットではあるが、慰霊と平和への祈りについては真摯なものを感じた。これまでの中国観音霊場の札所とは違うものを覚えた。
本堂に着く。戦後に再建された建物で、畳の上にホットカーペットが敷かれた外陣でお参りできる。ここでお勤めとする。他にお参りする人も少なく、滝の音を聞きながらの観音経である。
本堂と対峙する位置に建つ三鬼権現堂。3つの鬼神が祀られていて、それぞれ大日如来、弥勒菩薩、不動明王が神様の形を変えたものとされる。両脇には天狗と烏が守る形だ。この建物は被爆建物の一つである。
本堂の奥には第一の滝である幽明の滝があり、三滝山の神と天神を祀る鎮守堂が建つ。これも被爆建物である。さまざまに手を合わせるところがある。
ここまでで三瀧寺を一通り回ることになった。この先、三滝山のトレッキングコースがあるが、鎮守堂で引き返し、本堂横の納経所で朱印をいただく。墨書の文字は「福聚海」と書かれている。観音経の一節「福聚海無量」から取られたもので、観音菩薩の福徳は海のように広大無量であるという意味だとある。また「一緒に炊いてください」と、清められた米が入った小袋もいただいた。
こうした思いのある寺だとは知らず、逆になぜ広島勤務時代に訪ねなかったのかなと思う。
広島で平和を祈るといえば平和公園、原爆ドームということになるのだろうが、あそこは宗教色がない代わりに、政治色のようなものを個人的に感じる。怒りが入っているというのかな。それとは別に、こうした昔からの寺院で、観音菩薩の慈悲というものを感じつつ、静かに手を合わせて祈るのも日本人らしいのではないかとも思う。長崎で教会で祈るように。
昼食は広島駅で購入したむさしの「山賊むすび」を参道の東屋でいただく。「みんな大好き 野球はカープ むすびはむさし」である。海苔を全面に巻いた「爆弾おにぎり」はこの辺りに来ると「山賊むすび」になり、そこから「海賊むすび」に派生する。この地区のセブンイレブンでも「山賊」「海賊」が売られているが、それが山口県や山陰に行ったらどうなるのかも、中国観音霊場めぐりの中で見てみたい。たぶん山陽限定だと思うが。
三瀧寺を後にしてバス停に向かうが、1時間に1本のバスのタイミングは合わなかった。ならば帰りは鉄道でということで、坂道を三滝駅まで歩き、可部線の列車に乗る。時間はまだ早いが、ならばいったんホテルにチェックインしてゆっくりすることに・・・。
中国観音霊場めぐりも、現地へのアクセスが少しずつ長くなってきた。
大阪から広島となると夜行バスも運行される区間である。まあ、私の場合はさまざまな交通手段を合わせて楽しみたいところもあるので、四国八十八所めぐりの時と同じようにいろいろ試してみたい。最も西にある札所は長府の功山寺だが、まだどのように行くかは決めていないが、山陽線の鈍行をひたすら乗り継いでもいいし、いっそのこと逆に九州から上陸するのもありだろう。時刻表や交通機関のサイトをいろいろ調べるのも面白い。
さて今回はJR高速バスのグラン昼特急広島1号に乗る。かつてこの路線では2階建てのダブルデッカー車両が走っていたが、グランドリーム車両にリニューアルされている。グランドリーム車両は以前に四国めぐりで松山まで乗ったことがあるが居心地はよかった。その時も昼行便だったが、いずれ夜行バスとしての運転にも乗りたいものだ。
2月8日、広島号の始発は湊町バスターミナルだが、今回はJR大阪駅からの乗車とした。7時30分発だが、大阪駅に着いたのは結構ギリギリの時間だった。乗車の様子は見られなかったが、おそらく満席に近い乗客数だったと思う。シートが大きめに作られているので、後ろのほうが見通せないのだ。
座席は先頭を指定していた。本格的に眠るわけではなく前方の景色を楽しみたいので、ほんの軽くだけリクライニングする。グランドドリーム車両の一番の売りがこの「クレイドルシート」。クレイドルとはゆりかごの意味で、背もたれを倒すと座面が連動して前にずれる仕組みだ。体がシートにフィットしやすくなり、名前の通りゆりかごに包まれた感じがするというので好評だ。
バスは大阪駅を出ると途中の乗車停留所はなく、2回の休憩を挟んで広島を目指す。まずは福島から阪神高速に乗り、池田から中国自動車道に入る。それほど渋滞もなくスムーズに走る。
神戸ジャンクションから山陽自動車道に入る。このルートが最短であることはわかっていても、鉄道での移動が多いためか、神戸や明石を通らずに、吉川や三木の山の中を抜けていくのにもう一つ距離感がつかめない。
8時50分、姫路東インターと姫路西インターの間にある白鳥パーキングエリアで休憩。場所でいえば書写山を過ぎたところだ。始発の湊町バスターミナルが7時発だったから、ちょうど2時間に1回の休憩ポイントである。セブンイレブンがデンと構えていて、店の前の幟には大阪、京都、神戸、姫路、岡山の土産とそれぞれ書かれている。サービスエリアほどの品揃えはないが、確かに菓子類が少しずつ置かれているので、土産を買う時間がなかった人もとりあえず何か手にすることができる。
ここで15分休憩。グランドリーム車両の場合、昼行便でも座席カーテンを使うことができるので、運転手はプライバシーに配慮して人数確認はせず、時間になるとそのまま発車するとの案内がある。そのためか、ほとんどの人が心なしか早めに戻ってきて、特にトラブルもなく発車する。
相生の先で山陽新幹線の下をくぐる。ちょうど上を新幹線が通過していく。あれに乗って7時半頃に大阪を出発したら今頃三瀧寺の近くにいるはずだが、いろいろな交通機関に乗る、また費用をいくらかでも抑えることで今回バスに乗っているのだから、そこは考えないようにする。
岡山県に入る。備前の山の中から吉備の平野に出てくる。この区間、前々回の帰りに福山東インターから走っているが、夜のために景色が見えなかった。今回はそのぶんを回収している形になっている。前回休憩停車した吉備サービスエリアは通過である。高速バスの場合はサービスエリア、パーキングエリアの大小ではなく、あくまで始発から2時間を目処に休憩を取るための停車である。
広島県に入り、福山東インターを通過。これで、中国観音霊場めぐりの線がつながる形になった。鉄道ルートは帰りに広島から新幹線に乗るから、それでつなぎとなる。
10時50分、三原市街の北にある八幡パーキングエリアで2回目の休憩となる。こちらも尾道ラーメンの軽食堂の他にセブンイレブンがあるが、広島土産としてカープグッズも並ぶ一方、岡山土産に加えてなぜか福岡の一品もある。扱う幅が広い。隣にとさでんバスの高知発広島行きが停まっているが、そこの運転手が「大阪から来たバスですよね?」とこちらの運転手に声をかけて一人の客を連れてきた。やはり乗り間違いというのはあり得るものだ。さまざまな路線があり、同じパーキングエリアで休憩することが多いのでこうしたことが起こる。
八幡からは上り坂となる。この辺りが山陽自動車道の最高地点(375メートル)である。同じ広島県内であるが、備後と安芸の境目はこの辺りにある。
トンネルが続く区間を抜けて広島市に入る。太田川を渡った広島インターで山陽自動車道から下り、すぐの中筋駅で最初の降車となる。
このまま祇園新道を経由し、広島城の横を通り、広島バスセンターに到着する。バス用のスロープを上がる時に、かつての広島市民球場跡地の様子が見える。当時のライトスタンドの一部もまだ残っているが、この跡地もずっと工事しているが具体的にどのように活用されるのか、外にはなかなか伝わってこない。一時はサンフレッチェ広島の新しいスタジアムを建設しようという話も出たが見送りとなったようだし。
バスセンターで半分くらいの客が降りて、広島駅に向かう。定刻の12時32分ちょうどに新幹線口に到着した。5時間かかったわけだが、そう長くは感じなかった。時間に余裕があるなら高速バスでの移動も選択肢として十分「あり」と言える。
さてこれから三瀧寺に向かう・・・。