まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回九州西国霊場めぐり~長崎の夜に「あっぱれや!」

2022年09月30日 | 九州西国霊場

9月23日、西九州新幹線開業当日の賑わいにあふれる長崎駅。観光案内所を見た後で外に出る。

駅前はまだ工事中で仮通路が通っているが、2ヶ月前までと比べて整備が進んだ様子もうかがえる。この連休中はこのスペースで開業記念のイベントも行われており、テントも出ている。

ネットニュースで目にしたのだが、新しくなったJR駅と路面電車の乗り場が遠くなったことに不満という声もあるようだ。ただ、これから路面電車の線路をJR駅側に寄せるとなると相当な費用がかかるし、それだけのメリットはないと判断されたのだろう。新幹線開業を機に駅の南北の市内電車の線路をつなげて直通運転させた富山駅や、駅建て替え工事にともない電停をJR駅の2階に持って来ようという構想がある広島駅をイメージしてのことだろうが。まあ、西九州新幹線については歓迎記事の一方でさまざまなツッコミ記事、批判的な記事が紹介されており、そうした見方もあるものだなと思うばかりである(新幹線の開業にともな特急が廃止されたことで快速・普通しか停まらなくなった隣の浦上駅利用者の声も、負の側面記事として紹介されていたなあ)。

この日の宿泊はその路面電車には乗らず、五島町にある東横イン長崎駅前である。23日の「かもめ」のきっぷを購入した時に長崎での宿泊先を探したが、その時は極端に値段が高いホテルか(県民割を適用して半額で利用できるのをエサにして値上げしたところもある)、安いけど相部屋のゲストハウスくらいしか空きがなかった。そのため、長崎を離れて諫早でビジネスホテルを予約していた。ただチェックを続けるうちに、東横インに空きが出たので変更した次第である。季節を問わず一定の価格で利用できるのは良心的である。

チェックインして、大相撲中継を見た後で外に出る。

向かったのは駅前にある「大衆酒場あっぱれや」という店。大衆酒場といいつつも地元の珍しい一品もいろいろ揃うようで、事前に席だけ予約しておいた。

ともかく生ビールにて、西九州新幹線の開業を祝して一人乾杯。メニューにもさまざまな魅力的な一品が並ぶ。

その中でまずは鯛の昆布締め。長崎県は真鯛の水揚げ量が日本一だという。普通に「鯛の刺身」ではなく昆布締めにすることで味が深まるように感じる。昆布締めときくと富山の料理のイメージがあるが、調理法としては全国的にありのようだ。私も一度チャレンジしてみようかな・・。

続いては馬の生レバ刺し。他にも馬刺しメニューはあるのだが、生レバというのはなかなかお目にかからない。今から10年前、O157による食中毒事故を受けて牛の生レバ刺しの提供が禁止されたが、今のところ馬は生食でも大丈夫のようである。牛のような反芻動物の消化管の中にはO157が存在するそうだが、馬は反芻動物ではないうえ、牛よりも体温が高くO157が生息できないため、とされている。

長崎は古くから捕鯨文化を有していた地域の一つで、それを反映してかクジラ料理もある。3種盛りというのにひかれるがさすがに値段がかさむので、ここは3種の中でもっともお目にかかる確率が低いさえずり(舌)をいただく。とろける触感で口の中ですぐになくなる感じだ。

今回は普段の居酒屋、大衆酒場ではめったに食べられないものを選択することになっているが、その中で異色だったのがカメノテ。岩礁に張り付いて生息しており、その外観からついた名前である。見た目からは貝類の仲間なのかと思っていたが、店の人によるとエビやカニといった甲殻類の仲間だそうだ。カメノテ、これまでみそ汁の具材で入っていたのを一度だけ食べたことがあるが、こうしてゆでられて盛られたのをいただくのは初めてである。店の人に教えてもらい、カメノテの指に見える部分をちぎると中から身が出てくるので、それをいただく。磯の香りが口の中に広がる。日本酒のアテにもよろしい。

最後にはカラスミ。これも長崎郷土料理の一つである。ボラの卵巣を塩漬けにして干したもので、これは少量をちびりちびりとやるのがよさそうだ。

大衆酒場といいつつ、珍しいものをあれこれ注文したのでお代はそれなりにかかった。ただ、長崎らしいものを楽しめたということで、まさに「あっぱれ!」「あっぱれ!」の連発である。満足して店を後にする。

この後は稲佐山から夜景を見ようということもなく、そのままホテルの部屋に戻りゆっくりと過ごす。翌24日は、本題の九州西国霊場めぐりの長崎~佐賀シリーズである・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線「かもめ」はあっという間に長崎へ

2022年09月29日 | 九州西国霊場

9月23日、開業初日の午後に西九州新幹線に乗車する。武雄温泉で折り返しとなる「かもめ87号」の入線後、車内清掃、点検の待ち時間があって乗車する。

今回乗るのは指定席の1号車で、本来接続する「リレーかもめ87号」の到着よりも前に乗り込んだので、車内や座席の様子も観察できる。指定席は2列×2列とゆったりしており、テーブルはひじ掛けから出るタイプ。また座席ごとにコンセントもついている。シートが黒系、背面は木目ということもあるし、車内の照明も柔らかく感じる。この辺りは「みずほ」、「さくら」のN700系や「つばめ」の800系とも通じるものがある。「のぞみ」のN700系のクールな内装が冷たい感じで個人的にはあまり好きではないので、「かもめ」がJR九州らしい雰囲気でほっとする。

そして博多からの「リレーかもめ87号」がホームの向かい側に到着し、次々に客が乗って来る。私が予約した時は通路側を中心に指定席も結構空席があったが、さすが開業初日、発車時点では満員御礼である。私の隣も含めて座席が埋まり、車内の様子を撮ろうとあちこちからスマホやカメラを構えた手が伸びる。16時25分、ホームにいる人たちからも手を振って見送られ、いよいよ出発である。

この列車は途中、嬉野温泉、新大村、諫早と各駅に停車する。むしろ、嬉野温泉、新大村を通過する列車のほうが限られている。まず、在来線の佐世保線から南に分かれる。

ニュース等では新たに開業した区間の長さは66キロと報じられているが、改めて時刻表で武雄温泉~長崎間の営業キロを見ると、69.6キロとある。営業キロとの間に差があるのは、諫早〜長崎間は在来線が並行していることから、在来線の営業キロをそのまま適用したからという。

この69.6キロという長さは、広島を基点として山陽新幹線に当てはめると、東は三原の手前、西は徳山の手前。新大阪からなら東は京都の向こう、西は西明石の向こう。キロ数でいうなら京都~米原間が一番近いかな。その途中に3駅あるということで、京都~米原なら大津、栗東、八日市あたりに途中駅がある感覚かな。一時、栗東に新幹線の新駅を建設する、しないが話題になっていたなあ。

他の新幹線区間になじみのある方は、それぞれ近いところを当てはめていただければと思う。

そんな駅間ということもあり、武雄温泉を出発して、途中の停車駅や、携帯電話のマナー、新型コロナ対策について、不審物を見つけたら・・といった案内が外国語も交えて一通り流れ終わるか終わらないかというタイミングで、「まもなく嬉野温泉です」となる。この間、わずか5分ほどのこと。武雄温泉、嬉野温泉いずれも佐賀の有名な温泉地で、それぞれ駅が設けられるのもわかるが・・。

西九州新幹線のルートの約6割がトンネルだという。嬉野温泉から新大村に向かう途中も彼杵トンネルや、トンネル入口の法面に独特な工事が施された三ノ瀬トンネルなどがある。

それらを抜けて不意に右手遠方に広がるのが大村湾。その奥には西彼杵半島の山々が見える。大村湾内には長崎空港もある。

その長崎空港の最寄り駅ともなるのが新大村。並走する大村線にも新たな駅ができて、博多方面から大村市へのアクセス、また、長崎空港から長崎市内に向かう客の利用も期待されるという。

続いてまたトンネルが相次ぎ、長崎線、島原鉄道との接続駅の諫早に到着。長崎県中部の交通の要衝ということで、すべての「かもめ」が停車する。以前の九州西国霊場めぐりで、まだ工事中だった高架橋やホーム、改札口を見たが、いよいよ開業である。諫早の先で、道路から新幹線を見下ろすことができるスポットがあり、この日の夜や翌日朝のニュースでは、大勢の人がそこに集まって「かもめ」に手を振る光景が流れていた。

諫早の次は終点長崎。もう着くのかという感じだが、上に書いた新幹線の距離感を当てはめるとそんなもんかと思う。まあ、武雄温泉~長崎はあくまで先行開業、部分開業という扱いなので・・・。ただ、武雄温泉から新鳥栖、博多までどのように建設されるかはまだ何も決まっていない。

諫早からはしばらく外を走った後、長いトンネルへ。諫早から長崎への長崎線はもともと大村湾に近い長与経由を通っていたが、長崎トンネルを通る市布経由が1972年に開通。そのうえで西九州新幹線は、約5キロの久山トンネル、そして最後は約7.5キロの新長崎トンネルと続く。

そして新長崎トンネルを抜けた、そろそろ長崎駅だな・・と思う間もなく、右手の車窓には夜景のビュースポットである稲佐山が見え、あっという間に減速して長崎駅の構内に入る。トンネルを抜けてすぐに長崎の街並みに出るとは、一瞬何かのトリックかとすら思われた。武雄温泉からわずか30分。なるほど、確かにこれだけの時間で、しかも車窓の6割がトンネルとなれば、車内で駅弁でも・・・という感じにはならず、移動時間と割り切るところだと思う。

ホームに降り立つ。乗客は思い思いに車両や駅の撮影である。その中でホームの先端に行くと、「日本最西端の新幹線駅」のプレートがかけられている(ちなみにこの前の日本最西端の新幹線駅は鹿児島の川内駅だったそうだ)。さすがに、ここから先には新幹線はおろか線路を延ばすことは無理である。

ホームには地元テレビ局のアナウンサーやリポーター、ローカルタレントらしき人たちが取材ロケの最中で、乗客へのインタビューも行われていた。私のところにはそうしたマイクは回ってこなかったが、ひょっとしたら後ろ姿がローカルニュースで映っていたかもしれない。

コンコースに降り立つ。ここまで乗って来た「おためし!かもめネット早特7」のきっぷだが、改札口で申し出ると快く記念印を押していただき持ち帰ることができる。さすがに開業一番列車ではなく、乗客数でいえば何千番目かの乗客だが、ともかくよい記念になった。

改札横の「みどりの券売機」では、これから「かもめ」に乗るのかきっぷを買う列ができている。また、西九州新幹線の開業までのカウントダウンが「0日」となったサイネージや、開業祝の花も並ぶ。その中で開業記念きっぷの立ち売りがあり、普段はこうしたきっぷは購入しないのだが、せっかくなので1枚買い求める。実際に足を運んだからこその記念と言えるだろう。

さて時刻は17時を回り、長崎に来たのだから宿泊して西九州新幹線開業に一人祝杯を挙げようと思う・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~「リレーかもめ」で武雄温泉へ

2022年09月28日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの記事を続けるところ、元西鉄ライオンズのエース・池永正明氏死去に関する一文を入れた。下関に生まれて福岡の球団で活躍した往年の名投手。紀行文も関門海峡を渡ったところだし、中国四十九薬師めぐり、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりがちょうど関門エリアに着くところで、ふと思い立って綴った次第である・・。

話は本題へ。広島から博多への高速バス「広福ライナー」で博多駅バスターミナルに到着。ちょうど昼時ということで、バスターミナルの8階飲食店街で昼食とする。ランチメニューが中心のところ、見つけたのは福岡のB級グルメである鉄板焼肉(辛味噌鉄板)の「竹ちゃん亭」。福岡をメインに展開する「竹乃屋」の系列店という。

福岡で「焼肉」といえば「鉄板焼肉」を指すらしい。豚肉とキャベツ、にんにくというシンプルな一品がやって来る。この「辛味噌鉄板」のおすすめの食べ方とは、鉄板をちょっと傾けて、浮かせたところに積み木の棒をあてがう。そうすると脂が低いほうに集まって来る。そこに辛味噌を混ぜ、豚肉、キャベツを絡めて豪快にいただく。ビールにもよく合うし(実は1杯注文)、白飯をかっ食らうのもよし。私は初めていただいたが、すでにテレビでも福岡のご当地料理として紹介され、知名度は高いそうだ。豚肉とキャベツを炒めるなら自宅でも再現できそうだが、辛味噌と積み木、どこかに売ってないかな・・。

JRの博多駅コンコースに出る。これから長崎まで乗る「おためし!かもめネット早特7」はJR九州のみどりの窓口、みどりの券売機での受け取り(JR西日本の券売機では受け取り不可)なので、窓口の行列に並ぶ。博多だから普段から乗客も多いのだが、西九州新幹線の開業ムードにもあふれていると言っていいだろう。

ホームに上がると、14時33分発の特急「みどり35号・ハウステンボス35号」が発車を待っていた。この佐世保、ハウステンボス行き特急は健在である。便によっては「みどり」単独で運行されるが、その場合は885系の「白いみどり」も使われるという。前日まで「白いかもめ」として運転されていたが、「白い『みどり』」とはねえ。もっとも、特急「みどり」はかつては赤一色に塗られた車両が「赤い『みどり』」として運転されていたこともあったそうで・・。

「みどり35号・ハウステンボス35号」はハイパーサルーン車両で出発し、その次には14時54分発の「リレーかもめ37号」、そして私が予約している15時08分発の「リレーかもめ87号」と続く。いずれも列車じたいは武雄温泉までだが、JRとしてはあくまで「長崎行き」なのである。

私が持っているきっぷは、武雄温泉にて「リレーかもめ87号」と「かもめ87号」を3分で乗り継ぐようになっている。少なくとも指定席はそのような売り方で、あくまで博多~長崎は1本の列車だという考え方である。その割には、「リレーかもめ」、「かもめ」の座席番号は連動していないのだが、それぞれ自分でネット画面で指定できるから、そこはよしとしよう。

このまま「リレーかもめ87号」に乗ると武雄温泉では3分の接続だが、せっかく初めて乗る新幹線なのだから、乗る前にも外から車両を眺めてみたい。そこで思いついたのが、先に出る「リレーかもめ37号」で武雄温泉に行くこと。武雄温泉では「かもめ37号」が待っていてすぐに発車するが、私が乗る「かもめ87号」はその後に入線するので、車両を見る時間は十分に取れそうだ。

「リレーかもめ37号」の自由席の乗車列に並び、前日まで「黒いかもめ」でも走っていた787系に乗る。かつてはこの形式が鹿児島線の看板列車である「つばめ」に充当されていた。それが九州新幹線の先行開業で「リレーつばめ」となり、全線開業にともなって「かもめ」や「にちりん」などに充当。そして本日からは「リレーかもめ」である。一方では「36ぷらす3」といった観光列車にも改造されている。なかなか波乱に飛んだ形式の車両といえる。

自由席に乗り込む。停車駅は鳥栖、新鳥栖、佐賀、江北・・・と続く。江北は前日まで肥前山口という駅名だった。西九州新幹線の開業にともない駅名が変更され、肥前山口の名前が消えるのを惜しむ声も結構あったという。ただ、肥前山口駅があるのは佐賀県の江北町で、「山口」という名前は合併前に駅があった「山口村」から取ったものだという。肥前山口という名前は長崎線、佐世保線の分岐点という歴史もあって由緒あるものだが、地元の人たちが新幹線開業を機に現実的に「江北」の町名を高めようとして改称したことは尊重すべきだろう。

さて、博多発車後しばらくして車内改札があった。私の「おためし」を見た車掌が「まずいなあ・・」という表情を見せる。決まりでは、「リレーかもめ」、「かもめ」両方とも指定された座席に乗ることが前提のきっぷで、自由席が空いているからといって前の列車に乗るのはNGだという。JRとしては、「おためし」でも乗ってほしいのは博多~長崎を最短、最速で移動する客であり(それでこそ新幹線効果を実感できる!)、武雄温泉で1本ずらして新幹線車両を見物しようという客は想定外なのだろう。

車掌は、このまま「リレーかもめ37号」に乗り続けた場合だと、博多~武雄温泉の自由席特急料金1200円を申し受けるという。ただ一方で、次に停車する鳥栖で下車して、本来の「リレーかもめ87号」に乗るなら追加料金なしでよいと言ってくれた(これは多分に融通を利かせてくれたものだろう)。

ただ、鳥栖で下車してしまうと、武雄温泉でのすぐの乗り継ぎと一緒である。2秒だけ考えて、1200円を支払った。別にロックでもワイルドでもなく、策を講じたつもりで策に溺れた形になったが(別に自分は策士でも何でもないが)、「おためし」価格が通常のネット割に戻っただけだし、それよりも武雄温泉のホームの様子をわずかの時間でも眺めるほうが体験だと割り切る。

まあ、車内改札がなくそのまま乗りおおせていれば不正乗車になったわけだが、一方で、「リレーかもめ」と「かもめ」の間にもう少し柔軟な乗り継ぎがあってもいいのではと思う。そこはあくまで「一つの列車」というスタンスは崩れないのだろうが・・。

列車は鳥栖から長崎線に入り、快走する。西九州新幹線と接続するのはいつになるのやらという新鳥栖も過ぎる。ここに来て外はどんよりした天候となり、時折雨粒も見える。そして佐賀に到着。下車する人もそれなりにいる。佐賀が目的地の人なら、やって来る列車がこれまでの「かもめ」が「リレーかもめ」になったところでこれまでと変わることはないだろう。

ただ、手元の「JTB小さな時刻表」2022年秋号を見ると、これまで長崎線・佐世保線で一つのページだったのが、長崎線・佐世保線・西九州新幹線で一つのページとなり、「かもめ」がなくなった江北~諫早間は別ページに切り取られ、見開き2ページだけとなっていた。特急「かささぎ」が肥前鹿島まで走るものの、完全にローカル線の扱いとなった。

その江北に到着。ホームの一角には青く塗られた気動車が停まっている。肥前浜~諫早間は今後非電化区間として運行されるが、その車両には改装を施されたキハ47も加わるという。有明海沿いの区間、これはこれでローカル線としての人気が出るのではないかと思う。次に長崎に行くことがあれば、この有明海非電化ローカル区間を経由したいものである。

西九州新幹線といえば・・開業からわずか4日目の26日に、早々と一時運休となった。江北町にある踏切でトラックが脱線して動けなくなったためだという。これはあくまで「在来線区間」での出来事だが、この影響で「新幹線区間」も一時運休となったのだが、これはいかがなものだろうか。確かに「リレーかもめ」の車両運行には支障が出たかもしれないが、長崎~武雄温泉の「かもめ」が事故を起こしたわけではない。せめて新幹線区間だけでも運行して、武雄温泉から先はまた別の手立てを考えるのも一手だったのでは?と思うが、JR九州としてはあくまで「一つの列車」の扱いという姿勢なのだろう・・・。

江北を出ると10分で武雄温泉に到着。在来線ホームとは別の、「リレーかもめ」と「かもめ」の乗り換え専用ホームに着く。島式ホーム1本で、同じホームでの乗り換えである。新幹線側にホームドアがあるのは昨今の標準的な安全対策である。

基本的には乗り換え時間は3分で、「リレーかもめ」から「かもめ」に乗り継ぐ客も多い。そのわずかな間に車両はホームの写真を慌ただしく撮る客もいれば、地元の人たちだろうか、ホームで新幹線の見物、お見送りという人も結構いる。その中で、まず発車する「かもめ37号」を見送る。

そしてホームをぶらつくうち、折り返しとなる「かもめ87号」が長崎側からやって来た。報道陣も含めて一斉に注目する。入線のシーンを見ることができたのも、「リレーかもめ」を1本ずらしたからと言える。「かもめ」が到着したのと同時に、一度閉めていた「リレーかもめ」の扉が開き、長崎方面からの乗り継ぎ客が向かっていた。

「かもめ」は6両編成。側面の「かもめ」の毛筆体がインパクトある。JR九州の青柳会長が社長時代に揮毫したものだそうで、開業に向けての熱意、期待がうかがえるが、このノリが通用するのは九州内だけだろう。

しばらく車内整備のために待った後で、いよいよ乗車する・・・。

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元西鉄ライオンズのエース・池永正明氏、死去

2022年09月27日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

2022年のNPBペナントレースはセ・リーグはスワローズが25日のベイスターズ戦でサヨナラ勝ちで優勝決定。そしてパ・リーグは26日を終えてホークスが何とか首位キープ、マジックを減らしているところである。あと1週間もすれば、ホークス、バファローズのどちらが優勝するか決まる大詰めのところで、それによって私の10月の行動もガラリと変わるところだが・・・。

さて26日、そのホークスの前に福岡に本拠地を置いていたライオンズの元エースだった池永正明氏が死去したと報じされた。

私は現役当時の姿は知らなかったが、初めてその存在を知ったのが、今から30年あまり前、高校時代に手にした「豪珠列伝」。文芸春秋の「ナンバー」に掲載された記事をまとめた一冊で、このシリーズはほかに「豪打列伝」、「魔球伝説」、「暴れん坊列伝」、「助っ人列伝」など、往年のプロ野球のスターたちを取り上げており、私が昔々のプロ野球史に興味を持つきっかけとなったものである。

池永正明氏は下関商業から西鉄ライオンズに入団。入団早々、その豪珠、投球術で頭角を現し、6年間で103勝を挙げるほどだった。同じ時期に西鉄に入団したのが甲子園優勝投手のジャンボ尾崎こと尾崎将司氏だったが、「こんなすごい投手がいるのか」と、早々にプロ野球での活躍をあきらめたほどだ(その後、ゴルフに転向して大成功するのだが・・)。200勝、300勝は早々に達成するものと思われていた。

しかし、球界を襲った「黒い霧事件」に関わったとして永久追放処分を受ける。池永本人は先輩投手からカネを預かったものの、八百長は否定している。彼の投球を見ている他球団の選手たちも「池永は八百長などしていない」と語っていたそうだが、結局、カネを返さなかったことが仇となり、永久追放となった。

「豪珠列伝」に掲載されたインタビュー記事は、処分から月日が経ってからのものだが、ナマで観たこともなく、またライオンズファンというわけでもない私も、「こんなすごい投手だったのか」と感心したものである。その後のライオンズには球団名が変わる中で東尾修というエースが育つのだが、もし池永がそのまま投げていたら、ライオンズの歴史、いやパ・リーグの歴史もいくらか変わった経緯をたどることになっただろうと思う。

その池永投手、一度だけナマで観たことがある。時はくだって2003年の11月。当時オフに行われていた「プロ野球マスターズリーグ」の試合である。福岡ドンタクズ対大阪ロマンズ戦が下関で開かれた。その試合で、当時まだ永久追放の身であった池永が登板するというので行ってみた。マスターズリーグは別に公式試合ではなく、稲尾和久氏をはじめとしたプロ野球OBたちによる池永復権への後押しということでその前から福岡ドンタクズに入団していたが、このたび故郷の下関での試合ということで先発登板となった。

スタンドには「池永復権会」「下関のエース」といった貼り紙が出て、復権を応援するシンガーソングライターのCDも発売されていた(「翼は折れても」というタイトルで、私も1枚購入したのだが、その後何度かの転居のうち手放してしまった。惜しかったかな・・)。

また、この試合も含めて、「池永がいたためにプロ野球生活をあきらめた」と言った尾崎将司氏も池永氏の復権のために大いに尽力した一人である。

スコアボードには手書きで「池永」の文字。

その当時だから50代半ばだと思うが、きれいなフォームだった。その当時は写真もそれほど撮っておらず、試合経過もよく覚えていないが、福岡チームからは「私ピンクのサウスポー」の永射投手が登板したり、イニング合間にグラウンドから投げ込まれたボールをキャッチしたり(投げた主はあの川藤さん・・)、そんなことは今でも覚えている。

2005年に池永氏の復権が認められ、その後は稲尾氏の後を受けて福岡ドンタクズの監督を務めたり、野球関連のイベントで姿を見せることはあっても、残念ながらNPBの監督、コーチという形でグラウンドに戻ることはなかった。まあ、そこはお互い心苦しくも致し方ないところはあったのだろうが、そのことで一層「伝説の人」になったと思う。

もっとも、伝説のOBといえども、歳を取ってから現代の世間の感覚について行けず過ちを犯し、「老害」と叩かれるようになるのも、「徒然草」のネタのようで嫌なものだが・・・。

下関出身の池永氏に対して、「あの時、『海峡』を渡らせなければよかったのだ」との関係者の証言も含まれたノンフィクションも読んだように思う。関門海峡というと、私個人としては現在中国、九州の札所めぐりをする中で、その間は近いものだという印象を持っているのだが、やはり「海峡」には近くて遠いものを感じさせる何かがあるなとも思わせる。

その下関からはこの夏、下関国際高校が甲子園の決勝に進んだ。池永氏も活躍を喜んでいたのかな。

謹んで、ご冥福をお祈りします・・。

(追記)この記事を書いてみて、いつかまたマスターズリーグを復活させてほしいなと改めて思った。今はこうしたOB戦もサントリーモルツ球団の試合くらいでなかなか目にすることはないが、かつて札幌、東京、名古屋、大阪、福岡の名前を冠したチームが日本各地で試合を行っていたのを振り返ると、大きな取組だったなと思う。上に取り上げた2003年11月の試合の前日には旧広島市民球場で福岡対札幌の試合があり、私も観戦している。両チームにカープOBがいたことで(札幌の監督は古葉竹識氏だった)大いに盛り上がったなあ。

・・・何だかこう書くと、ここに来て福岡のチームの後押しをしているようにも思うのだが、それはそれ、これはこれ・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線目指して「広福ライナー」で博多入り

2022年09月26日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの第12回の行き先は長崎。もっとも、長崎市は前回7月に野母崎半島にある第26番・観音寺、長崎市内にある第25番・清水寺を訪ねており、目指すのはその先である。

前の記事で触れたが、9月23日の西九州新幹線開業当日に、武雄温泉~長崎間の初乗りを行うことにした。始発列車の指定席が1ヶ月前の発売開始からおよそ10秒で完売したということは伝えられたし、何やかんやで多くの人が乗りに行くのだろうと、当初は別に開業初日でなくてもよかったなと思っていた。ちょうど秋の拝観時期にもなったし、関西の神仏霊場めぐりを考えていた。

しかし、指定席の発売開始から数日が経過した後、ふと西九州新幹線の予約状況を見ると、23日も午後以降の列車なら空席が見られ、中には窓側の席も空いている列車もあった。そこで、臨時列車である武雄温泉16時25分発の「かもめ87号」の指定席を確保した。窓側の席が空いている列車の一つだった。

広島から長崎へ最速ルートで行くならば、「さくら」で新鳥栖まで向かい、「リレーかもめ」に乗り換え。そして武雄温泉で新幹線「かもめ」に乗り継ぐところである。もっとも、「のぞみ」で博多まで行き、そこから「リレーかもめ」で武雄温泉、または「つばめ」で新鳥栖まで行って「リレーかもめ」乗り継ぎが最速のケースもある。JR九州とすればその通り乗るのが一番ありがたい客となるのだろうが、こと九州内に関していえば、西九州新幹線開業で確かに博多~長崎間は約30分縮まるとはいうものの、新たに武雄温泉での乗り換えが発生するし、料金が高くなる。これは高速バスとの競合の面で弱点である。

JR九州は主要駅間のネット割引のきっぷも用意しているが、西九州新幹線開業に合わせて発売したのが「おためし!かもめネット早特7」。今年の12月31日乗車分までの発売で、7日前までの購入が必要だが、指定席利用で通常なら6050円のところ、3200円と半額に近い値段である。開業直後の「おためし価格」で西九州新幹線(プラスリレーかもめ)に一度乗ってもらい、その後の利用につなげようというところ。それだけ、乗客の確保に苦戦しているのかなと思うが・・。

博多から長崎まで「おためし」を予約したのはよいとして、博多までどう行くか。「かもめ87号」につながる「リレーかもめ87号」は博多15時08分発。これなら当日昼過ぎに自宅を出ても間に合うので、日本旅行の「バリ得こだま」の出番だろう。広島~博多は6200円。ただ、そこまで遅い時間なのなら、「こだま」でもなく違ったルートで行ってみようという気になった。

そこで出てきたのが、広島と博多を結ぶ高速バス「広福(こうふく)ライナー」である。ようやく、この記事の主題が登場である。

「広福ライナー」は現在1日8往復。中国JRバス、広交観光、JR九州バスの共同運行で、バス会社によって広島市内での経路が異なるが、4時間半ほどでの運行である。時季によっては夜行便が運転されることもある。前回の広島勤務時だから20年ほど前のことだが、広島から福岡行きの夜行便に乗ったことがある。その時の目的地も今回と同じ長崎で、当時所属していた旅行サークルのオフ会参加のためだった。ちなみに博多到着後はそのまま高速バスで長崎に向かった。

「広福ライナー」の通常料金は4250円で、座席によってはさらに早割料金も設定されている。4時間半とはJRの普通運賃よりは高いが鈍行乗り継ぎで行くより早い、そして乗り換えなし・・・ということで、安定した利用があるそうだ。今回は逆算して、広島バスセンター8時33分発の便を予約する。これだと博多駅バスターミナルには13時すぎの到着で、「リレーかもめ」までは約2時間待ちとなるが、その次の便だとぎりぎりで間に合わない。

夕方に長崎到着後はそのまま宿泊し、翌24日、25日は九州西国霊場めぐりということで、長崎~佐世保~伊万里~唐津と移動し、最後は筑肥線~福岡地下鉄で博多に戻り、新幹線で帰広ということにした。

さて迎えた9月23日、朝の情報番組で西九州新幹線の開業の様子を見る。指定席が完売なのでせめて自由席に乗車しようと、前日夜から100人以上の徹夜組ができていたともいう。路線の定義でいえば武雄温泉が始点、長崎が終点なのだが、この西九州新幹線については開業までの事情が事情だけに、圧倒的に長崎側が盛り上がっているように見える。

この日の夕方にはあの場にいるのだなと楽しみにしつつ自宅を出て、広島バスセンターに到着。8時33分発の博多行きを待つ客もそこそこいる。やって来たのは中国JRバスの車両。もう少し早くに思い立っていれば最前列の席を確保したところだが・・。

スマホで予約状況を見ると前のほうを中心に結構座席が埋まっていたが、運転手が気を利かせて、お連れさん同士ではなく2席が埋まっている列については、1人を他の空席に案内する光景も見られた。長時間の乗車、少しでも密を軽減しようという気づかいのようだが、ふと車両後部を見ると、最後尾にあるはずのトイレがない。発車後に「車両検査の都合で・・」との案内があった。一応、途中2ヶ所の休憩時間があるし、緊急を要する場合は運転手にお気軽に・・とあったので気持ちの面では大丈夫かと思うが。先ほど、席を移ってもよいとしていたのはトイレがない分座席に余裕が出たからかな。

座席の片側がほぼ埋まる程度の乗車率で発車。この先、アストラムラインの大塚駅、広域公園前駅で停車して、広域公園前で1人が乗車。その先にある五日市インターから山陽自動車道に入る。山口あたりまでは仕事でちょくちょく利用する区間だが、バスに乗ると目線が高くなり、景色もまた違ったものになる。

山口県に入り、山陽新幹線、国道2号線、岩徳線に近いルートを通り、下松サービスエリアで1回目の休憩のため約15分停車。3連休初日ということでマイカーも多く、バス優先エリアにもびっしりと停車していた。

この後もしばらくは順調に走っていたが、中国自動車道と合流する山口ジャンクション手前から渋滞につかまる。これは自然渋滞ではなく、工事のため山口ジャンクション~美祢東ジャンクション間で車線規制が行われているためだ。

NEXCOでは手前の山口南インターから国道2号線~山口宇部道路を経由して山陽自動車道(宇部下関線)へ迂回するよう案内しているが、そうしたクルマはなかなかないようである。いったん国道2号線に下りてふたたび山陽道(中国道)に乗っても、ETC利用ならその前後の高速料金は通しで乗ったものとして計算する措置が取られているそうだが、十分周知されているとは言い難い。

渋滞区間の中には30~40分もいただろうか。これは博多着も相当遅れそうで、2時間の待ち時間があってよかったなと思ううち、小郡ジャンクションの先でようやく順調に走り出した。運転手の案内では予定時刻より15分ほどの遅れということで、意外に少ないなと思った。どうやらそれまでの順調走行の間にいくらか「貯金」を作っていたようだ。

渋滞を抜けると順調に走り、関門橋を渡っていよいよ九州に入る。

新門司港近くの吉志パーキングエリアで2回目の休憩。15分ほどの遅れは変わらずである。

その後、九州自動車道を走行。途中の停留所である小倉南インターに到着。1人が下車した。このバスでいえば小倉への玄関口だが、最寄りの駅・バス停まではかなり離れており、この先徒歩利用だと結構厳しい様子である。

時折雨が落ちるところもあった。ちょうどこの日は台風15号が東海から関東にかけて接近しており、交通への影響も出始める時だった。この前週の18日~19日にかけては西日本でも交通機関に大きな影響が出ていた。西九州新幹線も、ひょっとすれば台風の影響で開業がずれ込んだかもしれない。

福岡インターから都市高速4号線に乗り継ぎ、粕屋町から箱崎ふ頭を走行する。福岡貨物ターミナルやふ頭の倉庫群を見渡すこともできる。

呉服町で下車すると博多駅も近い。結局そのままの遅れで博多駅バスターミナルに到着した。この後の行程には影響ない。ターミナル内には飲食店のほかに大型書店も入っており、しばし時間を過ごすにはぴったりである・・・。

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第12回九州西国霊場めぐり~西九州新幹線、開業初日に乗りました・・・!

2022年09月23日 | 九州西国霊場

前回の九州西国霊場めぐりは長崎編ということで、7月に特急「かもめ」のお別れ乗車と、NPBフレッシュオールスターゲームの観戦(この試合の後、各球団で育成から支配下登録を勝ち取った選手も数多い)、そして天候条件を満たさなかったため上陸はできなかったが、かつての炭鉱である軍艦島へのクルーズを楽しんだ。

それから2ヶ月が経った9月23日、武雄温泉~長崎間の西九州新幹線の先行部分開業となった。7月の札所めぐりの後には、次回は西九州新幹線に乗る展開だとしても、開業からある程度日数が経ってからかなと思っていた。この部分開業に対してはさまざまな意見も出ているそうだが、何やかんやで世間からは注目されている。果たして、23日の始発列車の指定席は、1ヶ月前の前売り開始からわずか10秒で完売したという。その筋の人たちの執念というのはまさに仁義なき戦いである。

・・・しかしながら、私がふと興味本位で9月23日の空席状況を見ると、前売り開始から結構な日数が経つ中で、さすがに午前中の列車は軒並み満席だが、午後以降の便にはまだまだ空席がある。窓側の席が空いている列車もある。

・・・ならば、別に一番列車でなくてもよいのだが、開業初日に武雄温泉から西九州新幹線に乗ってしまおうという気になった。そこに、7月の九州西国霊場めぐりの続きでもある。長崎の次は佐世保、唐津と続く。長崎行きの新幹線と組み合わせると、結構大がかりな行程となる。

入手したのは、武雄温泉16時25分発の「かもめ87号」の指定席窓側。列車番号が80番台なのは臨時列車であることを示す。なるほど、臨時列車なら指定席確保の確率も高まるところである。

一方、長崎到着後の宿泊についても、長崎市内なら高価格帯のホテルか、相部屋のゲストハウスくらいしか空いていない。9月後半の連休初日でもあり、そのまま長崎に宿泊する人が多いのだろうか。その影響もあり、いったんは23日の宿泊は長崎から1駅東の諫早でようやく確保していた。

ただ、数日前に長崎駅近くの東横インに空きが出たのでそちらを確保した。新幹線開業にともない旅行客の増加が見込まれる中、ぼったくりをせず年中ほぼ一定価格で提供してくれる東横インは良心的である。

そして迎えた23日。朝の情報番組で、一番列車が長崎を発車するところ、そして武雄温泉に到着したところの中継も流れる。多くの人たちがホームに詰めかけたようだ。それを見てからの出発である。

その後の道中はまた記事にするとして、ともかく夕方近くに武雄温泉から乗車し、30分足らずのあっという間の行程で長崎に到着した。この記事は長崎の東横インの客室にて入力中。翌日はこれから終盤に入る九州西国霊場めぐりの佐世保、唐津シリーズである・・・。

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日生諸島のミニクルーズ船に「ノリナハーレ」・・(それぞれの島に特徴あり)

2022年09月21日 | 旅行記F・中国

9月10日、広島から大阪に向かうのに赤穂線を経由して乗車した「ラ・マル・ド・ボァ備前長船」。その終点の日生に到着する。

そして雨が降るか降らないかという境目の空模様の下、駅の目の前の桟橋に停泊している遊覧船に乗る。その名も「NORINAHALLE(ノリナハーレ)」という。乗りなは~れか。日生まで「ラマル備前長船」に乗って来たほとんどの客が桟橋に向かったようだ。

いったん、客室内に入る。船のデザインを監修したのは、岡山出身のあの水戸岡鋭治氏だそうで、そう言われれば木目を主張したがる背面、そしてシートの形状など、良くも悪くもそれらしいなと思わせるところである。

客室内にいてもいいのだが、せっかくなので階上の展望デッキに上がる。出航時には展望デッキも含めて結構な乗客数となった。そして「ノリナハーレ」は日生港を出航、これから1時間、日生諸島をめぐるミニクルーズである。備前市のボランティアガイドも乗り込み、この先周囲の案内放送をしてくれる。

まずは右手にドックなどの施設、左手に「備前💛日生大橋」を見る。名前にハートマークがついているのは一般公募によるが、架橋事業への熱い思いが込められたそうだ。その橋の向こうにあるのは鹿久居島である。橋が開通したこともあり、現在はキャンプや釣りなどが楽しめるとして訪れる人も多い。古代の暮らしを体験できる施設もある。

この鹿久居島だが、ガイドの案内では「ここに厳島神社が建っていたかもしれない」とある。平清盛が平氏一門の守り神を祀る神社を建立しようと、瀬戸内海を西に進むうちに鹿久居島に出会った。神社を建立する条件として、「周囲が7里以上あること」、「谷が1000あること」、「野生の鹿が生息していること」の3つが挙げられており、島の広さと鹿が生息していうという条件は満たしていた。しかし、谷が999しかなく、あと一つを探していると、神様がもっとも嫌うというキジの鳴き声がした。それで鹿久居島をあきらめてさらに西に向かい、条件に合う島として出会ったのが宮島だという。

ただ、広島県側の人間として、それはどうだろうかと思う。厳島神社の前身となる社はその時までにすでに宮島に存在しており、平清盛が安芸守に任ぜられた縁で本殿他の造営に取り掛かったと伝えられているので・・。

続いて右手には曽島、そして鴻島が見える。曽島は無人島だが、鴻島は葉タバコやみかんの栽培がおこなわれ、またちょうど南東側の斜面にはバブル期に建てられた別荘の建物が並ぶ。実際には廃墟も多いが、手入れをして格安で売りに出されている物件もあるそうで、ガイドからも「もし興味がありましたらお問い合わせください」とある。

左手に頭島を見る。結構住宅もあるようだ。江戸時代、この先の大多府島が風待ち港となってことを受けて入植が進み、戦後はカキの養殖、みかんの栽培が盛んとなり、民宿も建つようになった。現在は鹿久居島を経由して本土とつながっており、アクセスも容易になった。

時折、小雨が降って来る。雨の予報は出ていたかな・・と思いつつ、雨の様子を見ては階上と階下を行き来する。

そして、長島である。船からは見えないが、国内初の国立ハンセン病療養所が開設された島である。本土とは数十メートルしか離れていないが、ハンセン病への差別、偏見により長く隔絶された島だった。橋が通ったのは1988年のことで、「人間回復の橋」と呼ばれている。

「ノリナハーレ」は長島から大多府島にかけてもっとも沖合いを行く。雲に隠れているが小豆島を見ることもできる。日生と小豆島を結ぶフェリーも運航されている。

ここから、大多府島を反時計回りに周遊する。南側の岩場では釣りを楽しむ客も多い。また奇岩も多く、洞窟や夫婦岩といった景色も楽しめる。一方北側は天然の良港であり、江戸時代には風待ち港として防波堤も築かれている。

島はまだまだ続く。鶴島という、現在は個人所有の無人島がある。この島はキリシタン受難の地として知られているそうだ。江戸時代末期、長崎の浦上のキリシタン弾圧が行われ、捕らえられた100名あまりが岡山藩預かりとなり、鶴島に送られた。明治になり信教の自由が認められるまでの間に亡くなった人もいて、殉教碑が建てられ、毎年慰霊祭が行われるそうだ。

再び鹿久居島が大きく見えるところで、手前に小さな島、首切島がある。物騒な名前だが、江戸時代、鹿久居島は岡山藩の流刑地になっていたが(厳島神社が建つはずだった島・・からはえらい落差だが)、それでも改悛の情が見られない者はこの島に連れてこられて打ち首になったという。

最後に、鹿久居島と頭島を結ぶ橋をくぐる。カキの養殖いかだも並ぶところだ。

ここまで回り日生港まで戻る。1時間のミニクルーズ、途中雨に遭うところもあったが満喫した。日生諸島をこうしてじっくり見るのは初めてで、ガイドの案内も含めていろいろ知ることができた。「ラマル」と合わせて来てよかったと思う。

ちなみに、帰りの「ラマル備前長船」の日生発は14時30分。「ノリナハーレ」が日生に戻ってから2時間20分ほどあるが、昼食を取り、周辺を散策するには手ごろな待ち時間と言えるだろう。

さて私はこの先播州赤穂方面に向かう。日生のグルメといえばカキを使った「カキオコ」であるが、カキの旬はやはり秋から冬である(その時季にお好み焼店を訪ねたことがあるが、どこも長蛇の列だった)。周辺の店では夏もカキを扱うところもあるが、無理にいただくこともないかな。駅横の食堂で、季節の膳ということで刺身や天ぷら、ミニうどんが盛り込まれた定食をいただく。

日生から播州赤穂行きで東に進む。この先、播州赤穂、姫路と乗り継いで大阪へ。決戦の京セラドーム大阪に向かうのであった・・・。

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「ラ・マル・ド・ボァ備前長船」に乗車

2022年09月20日 | 旅行記F・中国

話は9月10日のこと、バファローズ対ホークスの試合観戦のために広島から大阪に向かう。

ちなみにこの時はパ・リーグの優勝争いが大混戦で、ホークス、ライオンズ、そしてバファローズがゲーム差なし、厘差で1~3位に並んでおり、バファローズとしては9月10日~11日、17日~19日のホークス戦5試合の結果如何で優勝争いがどうなるかというところだった。結果で言えば生観戦した10日の試合は山本の好投、吉田の本塁打などでバファローズが勝利して厘差で単独首位浮上。しかし翌11日はホークスが勝って首位奪還。その後3ゲーム差まで広がったが、17日~19日の3連戦でバファローズが3連勝してゲーム差なしに迫る。またその一方で、ライオンズが4位に転落してイーグルスが3位浮上。さらに、ホークスとの対戦を多く残すマリーンズも食い込んできた。この先のパ・リーグには(最下位ファイターズも含めて)消化試合というものはなく、1試合1試合が大変なものになる・・・。

さて、その10日だが試合はナイトゲームのため、この日が有効期間最終日の青春18きっぷを使って大阪まで行くことにした。この大阪行きはその数日前に思い立ったことである。試合後は大阪に泊まってもよいのだが、翌11日はさすがに広島の自宅でゆっくりしたいため、夜行バスで引き返すプランにした。

この日は初めて西広島5時31分発の糸崎行きに乗る。広電がまだ動いていないので、この列車に乗るとすれば自宅から西広島駅まで30分ほど歩く必要がある。今回は宿泊用の荷物がないので、時間をかけて歩いてみた。まだ完全に夜が明けない時間だが、それだけ歩けばそれなりに汗をかく。駅前のコンビニで朝食を仕入れ、車内もそれほど混んでいないので車内でゆっくりいただく。

この後、7時14分糸崎着で、ホームが替わって7時26分発の岡山行きに乗り継ぐ。朝の時間帯らしく7両編成だ。9時01分岡山着。

このまま大阪に行くなら9時18分発の相生行き(始発は三原で7時38分発)に乗ればよいのだが、岡山で別の列車に乗り換える。赤穂線で日生まで行く観光列車「ラ・マル・ド・ボァ」である(この後、「ラマル」と省略する)。

「ラマル」は時季によって宇野、尾道、琴平、日生と行き先が変わるが、9月の土・日曜日は日生行きの「ラマル備前長船」として運転される。グリーン料金プラス乗車券代が別途かかるが、これで赤穂線回りで行くのもいいだろう。実は鈍行乗り継ぎでこの列車に間に合わせるために、西広島5時31分発の始発に乗ることになったのだが・・。

9時41分の発車まで少し時間があるので駅構内をぶらつく。そうするうち、津山線・桃太郎線ホームにピンク色の気動車が停まっているのを見つける。この7月に運転を開始した観光列車「SAKU美SAKU楽(さくびさくら)」である。もっとも、岡山発の時刻にしてはやけに早く、この時間にホームにいるのはなぜかなと思ったが、まさかここで車両を見ることになるとは思わなかった。

実は、元々10日はこの「SAKU美SAKU楽」に乗る予定だった。9月まではツアー専用で運転されていて、乗車する場合は日本旅行等のプランを申し込む必要がある。乗車券、指定席券、お弁当、スイーツまたはお土産つきで岡山発が5200円、津山発が6000円である(この800円の差は何なのかと思うが・・)。青春18きっぷの日帰り鉄道旅行として、西広島~倉敷~新見~津山~岡山(ただし、新見までは特急「やくも」利用)のコースとして、津山発の午後便(3号)を予約していたが、野球観戦を取ったためにキャンセルした。キャンセル料が結構かかったがやむを得ない。

この「SAKU美SAKU楽」、10月からは土日祝日に定期列車の快速「ことぶき」に併結して、一般の指定席車両として運行されるとのこと。ならば、お弁当やスイーツにはそれほどこだわりがなく、むしろ通常料金で乗ることができるなら10月以降でよい。無理に9月に乗ることもないな・・と割り切る。

「SAKU美SAKU楽」を見ているうちに、肝心の「ラマル備前長船」の発車時刻が迫っていた。発車する5番線は東岡山寄りの端にあるということも頭から抜け落ちていて、慌ててホームを移動する。何とか間に合ったが、乗り込んですぐに発車を知らせる「鐘」が鳴らされ、ドアが閉まる。

「ラマル」号に乗るのは2回目。前回は旅行会社による貸切列車ツアーへの参加で、往復の車内ではビール飲み放題、そして旧片上鉄道の駅舎、車両の見学、そしてキリンビール岡山工場の見学・試飲というものだった。その時はカウンター席に陣取り、車窓を眺めながらのビール三昧だった。コロナ禍の前のことである。

発車した「ラマル備前長船」の停車駅は東岡山、長船、伊部、終点日生である。列車名に「備前長船」とつけているのは、刀剣の里目当ての客を当て込んでのことと思われる。その他、東岡山は山陽線方面からの乗り換え客のための停車としても、伊部は備前焼の里であり、日生は赤穂線の岡山県側の端である。私はこの先も播州赤穂方面に乗り継ぐので終点日生まで行くが、日生まででも乗車時間は1時間少しということで、観光列車としては若干短いかなと思う。

今回もカウンター席に座る。「e5489」ではカウンター席、リクライニングシートのいずれも予約可能だったが、ここはこの列車ならではということでカウンター席を取った。席の両側はアクリル板で仕切られている。

2両編成の乗車率は5~6割ほどといったところで、まずは山陽線を走り、東岡山に到着。列車行き違いもあり5分ほど停車する。岡山発車時は直前に乗ったので、ここで改めて列車正面の写真を撮影する。

赤穂線に入る。車窓自体は特に起伏に富むとか、海の近くを走るとかいうことはなく淡々と走る感じである。しばし車内も散策する。カウンターは営業しており、鉄道グッズや飲食物の販売も行われている。

西大寺に到着。ここではドア扱いはないが列車行き違いのためそれなりの時間停車する。車内放送では西大寺の案内もある。かつて中国観音霊場めぐりの第1番で訪ねたところだ。西大寺といえば毎年2月に行われる「会陽」で、大勢のまわし姿の男たちが宝木をめぐって争う「はだか祭り」が有名だが、このところはコロナ禍の影響で宝木の争奪戦は中止、祭りを支える地元企業などの「祝主」の中から福男を選んで授与する方式だという。おそらくもう数年はこの方式で続けられるのだろうが、ただここまで来ると、以前のような男たちの宝木争奪戦を復活させる大義名分を探すのが難しいのではないかとも思ってしまう。

西大寺での待ち時間の間に乗務員が手作りの乗車記念品の配布や観光案内で回って来る。長船から刀剣博物館への案内もあるが、私を含め、日生まで乗る客に対しては、日生湾のクルーズ船の案内がある。「ラマル備前長船」の運転日に合わせて運航するもので、およそ1時間のコースだという。そのくらいであれば、その後の列車を乗り継いでも大阪での野球観戦には十分間に合う時刻だ。

長船に到着。果たしてここで下車する人もいたが、それほど多いわけではない。刀剣博物館へのシャトルバスが出ているそうだが、その博物館、公式サイトを見ると入館には事前予約が必要とある。刀剣博物館も歴史ブームのおかげか、敷居が高い施設になったものである。こうしてふらりと列車に乗ってやって来て、予約がないからと入館を断られたら洒落にならないな・・。

伊部では地元の人たちの出迎えがあったが下車する人はほぼおらず、そのまま日生に向かう。

10時50分、終点の日生に到着。せっかくなので、日生湾を周遊するクルーズ船に乗ることにしよう。出航は11時10分である・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~直方の炭鉱史跡から筑豊電鉄へ

2022年09月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

9月19日は台風14号が九州から中国地方を通過。広島近郊の交通機関は今日は全面的に運休。朝から自宅に籠り、ニュース、ローカルの情報番組で台風情報をテレビで観ていた。広島県西部では特別警報も出て、一部で川の増水や建物、看板の倒壊もあったが、多くの犠牲者が出る大規模な被害ではなさそうなのが幸いである(ただ、その中で亡くなられた方、負傷された方もいるわけで、お見舞い申し上げます)。

ということで、昼間は京セラドーム大阪でのバファローズ対ホークスの1戦を、テレビ桟敷でビールなど飲みながら観戦する。本来なら現地観戦予定だったが、台風接近を受けて大阪行きを中止したもの。

試合は序盤、吉田正の先制3ランなどでバファローズが4対0とリードするも、ホークスが中盤に追い上げる。バファローズの守備の乱れもあってホークスが5対4で逆転。その後、両チームともリリーフ陣がしのぎ、迎えた9回裏。ホークスの抑え・モイネロを攻め立て、二死から吉田正が同点に追いつくタイムリー。そして延長10回、宗がサヨナラ打を放ち、バファローズが6対5で勝利。宗は失点につながるエラーをしていただけに、最後に打てて感情がこみあげて来たか、ベンチでは目に光るものがあった。昨年も終盤に決勝本塁打を放って涙ぐむシーンがあったなあ・・。

これで見事に天王山の3連戦を3連勝として、ホークスにゲーム差なしと迫った。まだホークス有利には変わらないのだが、本当に最後までもつれそうだ・・・。

さて本題。8月末の中国四十九薬師~九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの紀行文も、ようやく最終回である。

九州八十八ヶ所百八霊場の札所は先ほどの東蓮寺で終わりとして、駅に戻る前に、寺にほど近い直方市石炭記念館に入る。こちらには以前にも来たことがある。

まず出迎えるのは2両の蒸気機関車。福北ゆたか線の線路側にあるのがコペル32号。貝島炭鉱がドイツから輸入した機関車で、50年以上専用線輸送で活躍した。そしてもう1台がC11。こちらは日本製で、30年間で130万キロ、地球32周した距離を走ったという。他にも掘削機、人員移動用のトロッコ、坑夫の像などが屋外展示されている。

見学順路は新館からとのことで、そちらから入館する。直方市の教育委員会の方が「石炭記念館の概略をご案内します」と出てくれる。

展示室の最初の見どころは、2トンの石炭塊。なかなかこれだけの大物に出会えるものではなく、「これは、来た人をびっくりさせるためのものです」とのこと。

「『筑豊』という地名の由来をご存知ですか?」と振られる。そんなの、筑前と豊前の頭文字から取ったものではないかと思うと、「筑豊」が地域の呼び方になったのは明治時代中頃のことだという。それまでは筑前、豊前それぞれで好き勝手に石炭を採掘し、大小さまざまな炭鉱で乱掘が行われた。そこで、統制のある採掘を行おうと、筑前、豊前の5つの郡が集まって「筑前国豊前国石炭坑業人組合」が結成された。これが後に「筑豊石炭鉱業組合」となり、この辺りから「筑豊」というのが地域名として広まったという。

2つの旧国名が一つの単語というのなら、私の近くなら「芸備」とか「防長」などがあるが、一つの地域名として定着しているとは言いにくい、その点、「筑豊」は石炭をベースに成り立った地域の事例である。その中で麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎が「筑豊御三家」として栄えることになった。その中で「直方代表」と言えるのが貝島太助で、現在の宮若市にあった貝島炭鉱では露天掘りが行われていた。

そのパネルも含めてさまざまに紹介していただく。気づけば、概略説明といいつつも1階の展示スペースをずっと回って案内していただいた。他に見学者がいなかったこともあるが、それだけ思い入れも強いことがうかがえた。表に展示していたC11の機関士もされていたそうである。

なお、敷地内には坑道跡がある。坑道と言っても実際に地下につながるものではなく、救護練習用の模擬坑道だという。各地で炭鉱のガス爆発事故が相次いでおり、危険性の高い炭鉱では救護隊を設けることが義務付けられ、その養成所がここに設けられた。ここで学んだ人たちが全国の炭鉱にて活躍したという。元々は大正時代に造られたものだが、炭鉱の閉山が相次ぐ昭和40年代まで改修も施しながら使われていたそうだ。

隣の本館は、かつて「筑豊石炭鉱業組合」の会議所だった建物で、1910年建築当時のままで残されている。組合関連、貝島炭鉱関連の史料のほか、救護練習所があったこともあり、救命器具に関する展示が充実している。

ここから再び福北ゆたか線、平成筑豊鉄道の線路を渡る。この歩道橋にはかつての転車台が活用されている。

直方駅に戻る。2日間の行程もそろそろ終わりということで、広島に帰ることにする。時刻は13時台で、今からなら鈍行乗り継ぎでもそれほど遅くない時間に帰宅できそうだ。

順当なら、福北ゆたか線で折尾まで出て鹿児島線に乗り継ぐところだが、ここは筑豊電鉄で黒崎まで行くことにする。実は筑豊電鉄にはまだ乗ったことがない。かつては北九州と福岡を結ぶ、それこそ「筑前と豊前を結ぶ」鉄道として計画されたが、中間を経て直方まで来たところで計画はストップした。

筑豊電鉄の直方駅はJR、平成筑豊鉄道から徒歩10分ほどのところにあり、暑い中歩いて行く。駅間が離れているのは直方での国鉄との接続よりも博多まで線路を延ばすためということだが、中途半端に離れていて地元の人たちは不便に感じないのだろうか。

その筑豊直方駅は意外にも高架駅だった。すぐ近くを遠賀川が流れており、その鉄橋からの距離もさほどないのでこうした造りになったのかな。

筑豊電鉄はかつて西鉄北九州線という市内電車と接続していて、そのために車両も路面電車タイプである。ただ、路面電車タイプならではということで、駅(電停)も比較的短い間隔で設けられており、現在も地元の人たちが身近に利用できるようになっている。最近ではノンステップ型の新型車両も導入されている。

田園地帯から近郊住宅を抜け、次第に家並みも増えて来た。30分あまりで黒崎駅前に到着。黒崎駅隣接のビルの1階に入り込んでおり、隣にはバスターミナルもあり、相互の乗り換えも便利だ。

JRの黒崎に移動し、15時06分発の小倉行きに乗車。そのまま小倉、下関、岩国と乗り継いで広島に戻る。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは次回は北九州市に入る。合計4ヶ所あるが、どのように回るか。また中国四十九薬師めぐりが次回下関ということで、三度両札所めぐりのコラボとするか。予定としては10月の見込み。10月といえば、クライマックスシリーズ、日本シリーズの日程も気になるところなのだが・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第14番「東蓮寺」(福岡の支藩)

2022年09月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

強力な台風14号が発生し、9月18日夕方、鹿児島に上陸。この後20日頃にかけて九州~本州と横断していく予報である。広島には19日の午後から夕方にかけて最接近するようだ。

これを受けて、19日は広島近辺の在来線、山陽新幹線(広島~博多)は終日運休するという。また山陽新幹線の新大阪~広島も午後から段階的に運休するということで、私はその前に18~19日に予定していた京都での神仏霊場めぐり、19日の大阪での野球観戦を中止としたが、これできれいにあきらめがついた。野球のチケットはネットでのリセールでほぼ定価で譲渡できたので、その方に現地でしっかり応援してもらおう。

それにしても、19日はJRだけでなく、高速バス、フェリー、広島電鉄の路面電車、各社の路線バスも終日運休。さらに、本当に滅多なことでは運休しないアストラムラインですら運転を見合わせるという。まだ祝日だから通勤通学への影響がそれほど大きくないのが幸いだが・・。また商業施設も臨時休業するという。果たして、19日はどのような1日になるのだろうか・・・(一応、私も籠城できるだけのものは準備しているつもりだが)。

・・・さて、ようやく本題である。8月28日、筑前植木から直方に戻って来たところ。駅弁「かしわめし」を販売している東筑軒のうどん店が駅舎内にあり、こちらでかしわうどん(とり天トッピング)の昼食とする。

これから向かうのは第14番・東蓮寺。駅の自由通路を渡り、線路下に数々の車両を見る。現在もさまざまな形式の電車、気動車、そして目を転じれば平成筑豊鉄道の車両も見えるが、かつてはより広大に線路が張り巡らされており、機関車、貨車で賑わっていたそうだ。直方は各地で採掘された石炭が集積する場であった。

しばらく歩くうち、寺が並ぶ一角に出る。そして住宅地の中を抜けると東蓮寺の入口に出る。ちょっとした上り坂になっており、上がった境内からは木々の間に直方の町を見ることもできる。

本堂は比較的新しい時期に再建されたものか。中からは何かのご詠歌だろうか、繰り返し再生されたものが流れる。九州八十八ヶ所百八霊場のほかに「直方八十八ヶ所第1番」の札がある本堂の扉を開ける。

本堂の中で外陣がさらに一段高いところにあり、靴を脱いでそちらに上がる。本尊不動明王に向かってのお勤めとする。

東蓮寺が開かれた年代ははっきりしていないが、弘法大師が唐から戻った時にこの地も訪ねたとも伝えられており、何らかの関わりがあるとも考えられている。

そしてこの東蓮寺だが、一時筑前を領有した小早川隆景が再建したとされている。そして江戸時代、黒田氏が福岡藩主になると、支藩の一つとして東蓮寺藩というのを置いた。後に直方藩と改称されるが、遠賀川水系の治水事業を行い、直方の現在の町の基礎が築かれた。

さて朱印だが、ここでは大々的に「セルフでお願いします」と、本堂の入口にて押印のための台が設けられている。納経料は貯金箱へ入れ、そしてもし釣銭が必要な場合はお菓子の缶から取るようにとある。

境内の反対側に石段がある。元々はこちらが表門だったようだ。こちらの石段を下り、野球場の横を通って直方市石炭記念館に向かう。九州八十八ヶ所百八霊場で、飯塚、田川に次いでの石炭関連の資料館だ・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第16番「善覚寺」(筑前植木で祈祷の声)

2022年09月17日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの後半戦、飯塚から直方に移動する。福北ゆたか線、平成筑豊鉄道伊田線、そして少し離れているが、筑豊電鉄の直方駅というのもあり、こちらも交通の要衝である。

駅前で出迎えるのは直方出身の元大関・魁皇(現・浅香山親方)の銅像である。まわし姿で、これから最後の塩をまいて勝負に向かおうという表情をとらえたものだという。ご当地力士への声援ということでは九州場所がもっとも熱いと思うのだが、私がテレビで見る限り、魁皇はその中で一際声援が大きかったのではないだろうか(今年はぜひ、九州場所も観戦したいものだ)。ちなみにその四股名がそのまま列車名となった特急「かいおう」はまだ運転されている。

さて、直方で訪ねるのは第14番・東蓮寺と第16番・善覚寺の2ヶ所である。間の第15番・西教院は前回クルマで広島に戻る途中に立ち寄った。札所順なら東蓮寺からで、直方駅からも徒歩で行けるところだが、今回は先に善覚寺から行くことにした。直方から福北ゆたか線で折尾方面に2駅進んだ筑前植木が最寄り駅だが、直方ではこの後石炭資料館の見学も予定しているので、先に善覚寺を済ませておく(・・という言い方もどうかと思うのだが)ことにする。

折り返しとなる直方発若松行きは「DENCHA(デンチャ)」の愛称を持つ車両。架線式蓄電池電車というもので、電化区間の走行時には架線から電気を取り、また蓄電池にも充電する。そして蓄えた電力を利用して非電化区間も走るというものである。このデンチャ、香椎線や若松線といった距離の短い非電化路線に導入されることで、電化工事を行うことなく電車が走ることになった。車内がロングシートばかりなのは近郊区間なので致し方ないだろう。

筑前植木に到着。昔ながらの木造駅舎が出迎える。元々の建築時期は不明だが、1989年に原型を活かしながら改築が行われ、その後も大切に使われているようだ。かつての側線跡もあり、石炭輸送の賑わいをしのばせる。

善覚寺は筑前植木からそれほど遠くなく、駅舎を出て100メートルあまりのところの踏切を渡ると、高台に寺らしき建物、幟が見えてくる。最後は寺の下を回り込む形で、細い坂道を上る。駐車スペースには結構な数のクルマが停まっており、建物の中からは読経の声が聞こえてくる。

ちょうど、中から檀家らしいご家族が出てきたところ。「今日はよくお参りでした」と寺の方と挨拶を交わし、パックのお弁当をいただいていた。ご家族が出た後で寺の方に声をかけると、「ちょうど施餓鬼供養をやっています」と返って来た。出た、施餓鬼供養。

「八十八ヶ所の方ですか?」と言われ、「その納経帳なら私でも押せますので、お持ちしましょう。よかったら中だけでものぞいて行かれますか?」と、納経帳を預かってくれる。外玄関の扉を開け、三和土のところから中の様子をうかがうと、広間には檀家らしき方がびっしり座っている。さすがに一見さんは入れない。ここから手だけ合わせることにする。

善覚寺が開かれたのは大正時代。岩熊善行尼が夫の死をきっかけに出家し、菩提を弔っていると夢の中に石鎚山の行者が現れた。千年前から岩熊家で祀って来た石が、この行者である孝之真が千年前に開眼した石だと告げられ、善行尼が石を祀り祈願するとさまざまな霊験が現れたとして信仰を集めた。

本尊は石鎚大権現で、境内には孝之真が開眼した石を祀るパワースポットとしての孝之真堂や、さまざまな地蔵などが並ぶ。

再び筑前植木駅に戻り、同じく「デンチャ」にて直方に戻る。この後は今回最後の東蓮寺へのお参りである・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第13番「法善寺」(パ・リーグも押し詰まってきましたな・・)

2022年09月16日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

混戦が続くパ・リーグの優勝争いも、9月15日の試合の結果、ホークスにマジック11が点灯した。バファローズも先週末「20時間あまり」首位に立ったが、やはりホークスがじわじわと来たかという感じである。その最後の直接対決3連戦が17日~19日に大阪であり、いよいよこれが天王山というところである。私は元々9月18日~19日に関西の神仏霊場めぐりを兼ねて京都、大阪に行き、19日の試合を観る予定にしていたが、それが本当の大一番になりそうだ。

・・・しかし、ここに来て台風14号の接近である。この記事を書いている16日夜の時点で、台風の進路は九州から日本列島を縦断する可能性が高くなり、3連休後半の18日には九州から西日本にかけて影響が出る予報が出ている。3連戦、ドームなので試合は行われるだろうが、18日~19日は山陽新幹線で計画運休の可能性ありという発表もあり、大阪に行くのが難しい、あるいは行ったとして19日に帰れなくなる恐れも出ている。

残念だが、この時点で今回の関西行きは断念した。テレビ桟敷で応援することにしよう。まあ、九州に台風が来るのが1週間後でなくてよかったなと、プラスに考えることにする・・・(そのココロは?)

そして、次は10月半ばに大正の地を踏むことができればと願うばかりだ・・(そのココロは?)。

 

・・・ブログ記事は8月28日の九州八十八ヶ所百八霊場まで戻る。

第12番・金倉寺を参詣して飯塚駅に出る。飯塚からは福北ゆたか線で新飯塚に戻り、第13番・法善寺を訪ねる。法善寺も、8月中旬の第3回では途中突然の大雨に遭ったのと、寺の前まで来て門が閉ざされていたので入るのを断念し、今回に回したところである。

新飯塚の東口に出る。駅前に高層マンションも建ち、すぐのところに飯塚市歴史資料館もあるところ。目指す法善寺も駅から5分も歩けば到着する。

そして、パッと見ただけでは寺という感じがしない屋敷の前に出る。見覚えのある建物に。門の前を水路が流れていて、そこにかかる橋には寺のものだろうか、クルマが1台デンと停められている。その奥に門があるのだが、やはり閉ざされている。こちらで入口は合っているのかと思うが、九州八十八ヶ所百八霊場の札がかかっており、他に入口がある様子もないので、ここが正面だろう。

インターフォンがあるので鳴らしてみる。応答がある。八十八ヶ所で来た旨を告げると、「門の鍵は開いてますのでどうぞお入りください・・。なお住職が不在ですので、ご朱印でしたら本堂の前に箱がありますので、そちらで押してください」と丁寧な案内があった。前回は雨のために閉めていたのかと思ったが、この寺はこれが普通の対応なのだろうか。本堂の扉が開くのも、それこそ何かの法要の時くらいなのかな。

寺というよりは普通の屋敷の庭にお邪魔する感じである。その奥に本堂があり、確かに朱印が入った箱が置かれていた。九州八十八ヶ所百八霊場の納経帳は、あらかじめ墨書が印字されていて、寺の方が不在でも3ヶ所の朱印は自分で押すこともできる。これもローカル札所ならではである。とりあえず本堂の前でお勤めとして、セルフで押印する。

法善寺は大正時代、智仙尼によって開かれたという。智仙尼は四国八十八ヶ所を数回巡礼し、四国第81番の白峯寺で修行を積んだ。白峯寺といえば保元の乱で敗れて讃岐に流され、そのまま亡くなった崇徳上皇の御陵の近くにある札所である。後に篠栗四国の第81番である二瀬川観音と縁を結び、本尊の十一面千手観音を授かったという。

寺に隣接して明星幼稚園というのがあるが、九州八十八ヶ所百八霊場の紹介サイトによれば、幼稚園の明星という名前は、弘法大師が室戸岬での修行中、明けの明星が口の中に飛び込んで悟りを開いたとされる言い伝えから取られているとある。法善寺が直接経営しているのかはわからないが、いずれにしても弘法大師、真言宗に関連したところである。先ほどの金倉寺と同じく、四国八十八ヶ所との縁が九州八十八ヶ所を構成する要因にもなっていることがうかがえる。

屋敷の庭にお邪魔した感もあり、寺の滞在時間はごく短いものだった。これで新飯塚駅に戻るが、この先の動きも多少前倒しになったかな。次からは直方編である・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第12番「金倉寺」(住職から加持をいただいて・・)

2022年09月15日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

8月28日、この日は田川伊田から飯塚、直方と回る九州八十八ヶ所百八霊場めぐりである。

まずは田川後藤寺から新飯塚を目指すのだが、せっかく平成筑豊鉄道のホームの真横(のゲストハウス)で寝起きしたこともあるので、この路線にも乗ることにしよう。かといってそのまま直方に向かうのではなく、途中の金田で糸田線に乗り換えて田川後藤寺に行くという、大回りである。そのため、ちょっと出発を速めて7時31分発の直方行きに乗る。

行橋方面から来たのは「へいちく浪漫号」という車両。テーブル付きの転換クロスシートで、車内も木目調に仕上げられている。貸切・イベントでも使用されることがある。先ほどの駅舎ホテルの続きにいるかのようだ。

平日なら通勤、通学の人がそれなりに乗るのだろうが、日曜日の朝はガラガラである。右手に香春岳を見ながら走る。伊田線はかつての石炭輸送からの複線がそのまま活用されており、開業後の新駅設置、列車本数の増加にプラスに働いている。

7時45分、金田に到着。ここから糸田線に乗り継いで田川後藤寺に向かう。田川伊田から田川後藤寺へは日田彦山線で行けば1駅、170円である。しかしそこをあえて平成筑豊鉄道で大回りする。田川伊田の自動券売機、運賃表には田川後藤寺までの運賃が記載されておらず、乗車券を買わずにそのまま乗車し、金田下車時に田川後藤寺までの通し運賃410円を支払う。精算済の券を渡され、田川後藤寺下車時にはこれを渡して下車するとある。

複線の伊田線、単線の糸田線と3本の線路がしばらく並走し、やがて糸田線の区間となる。路線としては短いが、元々は金田~糸田、糸田~田川後藤寺は別々の鉄道会社が建設し、後に統合された歴史がある。伊田線と比較的近いところを走っているため、筑豊の炭鉱線区にあって廃止されてもおかしくなかったと思うが、無事に平成筑豊鉄道の1路線として生き残ることができた。

田川後藤寺着。改札口で青春18きっぷに日付を入れてもらい、8時20分発の新飯塚行きに乗車する。まだ朝の時間帯のためか、キハ147の2両編成である。

この線区も短いながら車窓の変化があり、次の船尾では麻生セメントのプラントの中を進む。入水トンネルを抜けると豊前から筑前に入る。座ったのと反対側だが、ゴルフコースのすぐ横を通るところもある。

9時44分、新飯塚着。ここから第12番の金倉寺(きんそうじ)、第13番の法善寺を目指す。まずは改札外のコインロッカーに泊まりの荷物を預け、札所順として先に第12番の金倉寺を目指す。金倉寺はこの半月前も行ったのだが、施餓鬼供養が行われている最中でクルマが停められず、そうした法要の中ということで入るのを見合わせたところだ。

鉄道なら福北ゆたか線に乗り継ぎ、次の飯塚から徒歩10分ほどとある。ただ、前回寺の前まで行ったこともあり、バスなら寺に近い道路を経由するのではないかと思っていた。そこで出発前に西鉄バスの路線図を検索すると、新飯塚駅から飯塚バスセンターを経由して天神まで行く特急バスが、堀池というバス停に停まることがわかった。バス停から金倉寺までは5分も歩けば着きそうだ。

その特急バスは30分に1本、天神直通ということもあり、新飯塚駅前からも10人ほどが乗車。観光バスタイプで出入口が前方1ヶ所だけで、すぐに下車するので前の席に座る。途中立ち寄った飯塚バスセンターからも7~8人ほど乗客があり、座席も結構埋まったようだ。

新飯塚駅から10分あまりで堀池到着。福岡行きの特急バスにちょこっとだけ乗ってかえって恐縮だが、私と入れ換えで4~5人ほど乗車して、八木山バイパス方面に走り去った。国道201号線の歩道橋からは忠隈のボタ山もはっきり見ることができる。

住宅地の中を歩いて数分。まず目につくのは貴船神社である。貴船神社は水を司る神として信仰を集めており、近くを流れる穂波川は一帯の田畑を潤すとともにかつては水運でも賑わったことで今でも大切にされている。

金倉寺はその境内に隣接している。先般来た時、寺というより貴船神社の社務所かと思った建物である。玄関横に不動明王像があるので寺とわかるかなというところ。この日は歩いてきたので駐車場の心配はない。私が訪ねた時、ちょうど先にお参りしていた人が住職と挨拶をしていたところで、その流れで玄関から招じられる。廊下を曲がったところに広間があり、ここが本堂にあたる。

金倉寺が開かれたのは大正時代の初め。高野山開創1100年という節目に、四国八十八ヶ所第76番・金倉寺(こんぞうじ)の渡辺龍真という修行僧が諸国行脚の旅に出た。その途中、貴船神社で投宿した際、この一帯に疫病が流行していることを聞いた。そこで貴船神社にて加持祈祷を行ったところ、疫病は退散した。この縁で神社の脇に観音堂が建てられて地元の人の信仰を集め、四国の金倉寺から薬師如来を勧請して「筑前金倉寺」と称した。

本尊は後に不動明王となり、「ちり取り不動」として地元の人から信仰されている。

さて、住職が出迎えていただき、どうぞお参りをと正面を勧められる。そこでお勤めとすると、住職が後ろに回って法螺貝を吹き、真言を唱える。わざわざ私のために加持祈祷をしてくださっているようだ。

お勤めを終えると、「いい日にお参りされましたね。不動明王の縁日(28日)なので!」として、先に預かっていただいた納経帳を返していただく。この時は住職のお心に圧倒されてそのままありがたく寺を後にして気づかなかったのだが、朱印とともにセットになる本尊御影をいただいていなかった。まあ、なくて困るものではないし、御影よりも住職じたいが本尊のような接し方だったので、この記事を書いている時点では特に気にはしていないのだが・・・。

金倉寺を後にして、先ほど下車した堀池バス停から新飯塚への時刻を調べるが、あいにくちょうどバスが出たばかりのようだ。ならば、行き帰りで変化をつける意味で、飯塚駅まで歩く。金倉寺から少し歩いた角を曲がると、ちょうど駅までほぼ一直線だ。

飯塚からは福北ゆたか線で1駅、新飯塚に戻る。次はこれも駅に近い第13番・法善寺である・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~田川伊田駅舎ホテルで夜汽車気分

2022年09月14日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

8月27日、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの前泊として田川伊田を訪れる。田川市石炭・歴史博物館を見学後、駅に戻りこの日の宿である「田川伊田駅舎ホテル」にチェックインする。ホテルの入口扉には、チェックインの場合は同じフロアのレストランに声をかけるようにとあり、開店準備中のスタッフを呼んでチェックインとする。

田川伊田駅舎ホテルは、田川市が駅舎を譲り受けてリニューアルし、新たに2019年に開業した。ホテルというよりはゲストハウスで、トイレ、シャワールーム、洗面所が共同で、食事などの共有スペースもある。

今回予約したのは、シングルベッド+2段ベッドの定員3名の部屋。これ以外にも2段ベッド2つが並ぶ部屋もある。いずれも夜行列車のコンパートメント室をイメージした造りである。3人部屋にしたのは、頭上を気にせずゆったりできるスペースがほしかったためであう。夜行列車の中でもちょっとグレードの高い部屋の感じかな・・。それぞれの部屋に鍵がかかり、3人部屋、4人部屋でも他の客と相部屋となることなく、だからといって極端な割り増し料金にならず利用することができる。

各ベッドにテレビ、コンセントがあり、テレビはイヤホンをつけて視聴する。

そしてこのホテルの売りが、窓の外、目の高さに見える田川伊田駅のホーム、線路。一番近いのは行橋方面への田川線だが、目を上げると向かいの直方方面の伊田線、さらに立ち上がると側線を挟んで日田彦山線のホームも見える。意外と多くの頻度で列車がやって来るので、つい外を見てしまう。

もっとも、すべての部屋から駅が見えるわけではないので、予約時にはリクエストしたほうがよいと思う。具体的には、客室1~3が寝台列車風の4人部屋、客室4~5が広い寝台列車風の3人部屋である。

しばらく部屋でゆったりとした後、夕食とする。田川伊田の町並みに出てみるのもよさそうだったが、せっかくなので同じ駅舎ホテルに設けられているレストランに向かう。先ほどチェックインで声をかけた店で、店名は「神様の宝石でできた料理店」。一瞬、「黒いダイヤ」(石炭)からついた名前かなと思ったが、どうもそうではないらしい。

10月30日まで、「田川の街のマジックアワーと二本煙突のライトアップを楽しむ」ビアガーデンがあり、事前予約で税込5500円とあったので、ホテルの部屋と合わせて予約していた。WEB上のチラシでは田川の町や田川坑の煙突のライトアップをガーデン席で楽しめるとあったが、この日はそこまでの予約もなかったようで屋内のみの営業である。それでも店内は賑わっており、それを受けるのが「駅舎の総支配人」とスタッフ2人だけということで、なかなか忙しそうだ。

コース料理ということなので食べ物のペースは任せる、ただドリンクは速やかにね・・という思いで過ごす。客が多くて最初の一杯が来るまで時間がかかったが、その後は順調におかわりもできた。

料理もなかなか凝ったもので、サラダ、健康もずく、刺身わかめ、冷製コーンポタージュ、手作り豆腐と進む。ビアガーデンのアテといえば枝豆、鶏のから揚げ、焼きそば・・・などが思いつくが、ここはしっかりと「総支配人」の手作り料理を味わってもらおうというスタンスである。

窓の外を、日田彦山線や平成筑豊鉄道の列車が時折通る。いずれも1両または2両しかないので、気づいたら行ってしまった後だった・・というのはあるが、少しずつ暮れる中でそうした景色を楽しむのもいい。

ふと、宮脇俊三の「最長片道切符の旅」を思い出す。その旅の後半、筑豊地区の路線を回る中で伊田駅(当時)で45分の待ち時間があったので、駅前の小さな飲み屋に入って燗酒と豚の角煮で一杯やっている。ガラス戸の隙間から冷たい風が吹き込んできて、店のおばさんが「すんませんなあ、田川の家はみなガタピシしとるけん」と言う。町の下は無数の坑道が掘られたまま放置され、空洞化していて陥没が絶えないという。しかし、「線路の下は掘らさんかったけん」ということで「汽車の線路は落っこち」ないそうだ。それを聞いた宮脇俊三が「そうであったか、と私は反省し、思わず『何も知らないもんだなあ』とひとりごちた」とある。「そういう大事なことも知らずに鉄道に乗りまくっている自分が情けなかった」ともしている。

それから40年以上経った令和の現在も田川伊田のあたりでそうした陥没があるのかどうかは知らないが、夕方に田川で一献やることになり、ふと上記の一節を思い出した。あの旅は晩秋の夕方、長い旅の終盤にさびれた炭鉱路線を回った後いうこともあり、宮脇俊三も内省的な気分になったのだろうなと想像する。

田川に来たらあえてそうしたガタピシいうような一杯飲み屋を探したほうが面白いという声もあるだろうが、今回は田川市といても推しているスポットである駅舎ホテルを楽しむことにする。

さてコース料理も後半となり、田川産のアスパラの一本揚げ、アスパラとエビのバターソテー、華味鳥の鉄板焼き、手作り餃子と続く。普段の私の飲み鉄では並ばない豪華なラインナップで、しっかりいただく。

そして最後は、「今から焼いてもよろしいですか?」と訊かれたうえで出て来た壱岐牛の鉄板焼き。本格的だ。

締めはお茶漬けで、甘味が苦手なのでデザートは辞退した。気づけばビールに始まり、サワー、角ハイボールと結構豪快にいただいた。会計時は、「宿泊の方やけん」というわけではないが、5500円のところ5000円にしてくれた。これで田川駅舎ホテル満喫である。

食後、もう一度駅の南にある石炭博物館に向かう。竪坑櫓、二本煙突のライトアップされた姿を見る。この夏にしてようやく夜の涼しさを感じることができた。虫の音色も秋のそれになって来た。しばしたたずむ。

部屋に戻り、後はゆったりするだけである。シャワーを浴びてガウンに身を包み、横になるのはあえて2段ベッドの下段である。せっかくなので寝台列車気分を味わうことにする。時折窓の外に気動車の音はするが、別に部屋自体がガタゴト揺れるわけではなく、静かなものである。テレビもつけていたが早くに消して、早々に横になった・・・。

・・・開けて28日、田川伊田は5時台から列車が動いている。この日は極端に出発が速いわけではないが、2段ベッドを出て、シングルベッドにも寝そべりながらゴソゴソと支度する。

プランでは「朝食なし」だったが、実際には宿泊者には1人あたりパン2個と、共有スペースの冷蔵庫にあるドリンクのサービスがついていた。前日チェックイン前に、駅舎内のパン店で朝食用にいくつかパンを購入していたのだが、サービスで出るパンもこの店のものだった。持ち戻って、部屋でテレビと列車を見つつの朝食である。

ちょうど画面では福岡ローカルのミニ番組があり、9月3日に直方の遠賀川河川敷で行われる「MAKE A MONOGATARI 2022」に向けて頑張る人たちが紹介されていた。音楽ライブや花火大会で注目されるイベントである。この「MONOGATARI」はもちろん「物語」であるが、アルファベットの綴りを見ると「MO(マウンテン)ーNOGATA(直方)ーRI(リバー)」ということで、直方の町を包む福智山と遠賀川の意味も込められているという。へぇ~、この後直方にも行くので、一つ勉強になった。

駅舎ホテルを出て、朝の涼しい空気を受け、平成筑豊鉄道のホームに立つ。当初は日田彦山線で田川後藤寺に出て後藤寺線に乗るつもりだったが、せっかくなので平成筑豊鉄道にも乗ってみようかと・・・。

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第4回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~田川伊田の炭鉱遺産へ

2022年09月13日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

山口市にある中国四十九薬師第29番・長徳寺と、その長徳寺を含む秋穂八十八ヶ所のいくつかを回り、いったん防府駅までバスで抜け、ここから下関を目指す。途中、新山口で30分停車ということで実質別の列車のように客が入れ替わる。

12時09分に新山口を発車。また駅間の長いところを走り、13時19分下関着。ここから関門トンネルを抜けて九州に入るが、後続の列車まで時間があるので、買い物も兼ねて下関でいったん改札口を出る。構内には、夏の甲子園で準優勝に輝いた下関国際高校を讃える貼り紙が並ぶ。

次の中国四十九薬師は下関、ようやく本州の西の端まで来ることになる。その時は下関で一献とするか、また関門海峡をまたいで九州八十八ヶ所百八霊場との組み合わせを行うか、現在思案中である。

13時54分発の小倉行きで九州に入り、小倉からは14時22分発の添田行きで、日田彦山線に入る。今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりのコースだが、8月27日は日田彦山線でこのまま田川伊田まで移動して、田川市石炭・歴位博物館の見学までで終了、田川伊田に宿泊する。そして翌28日は後藤寺線で新飯塚に移動して飯塚の2ヶ所(金倉寺、法善寺)を回った後、直方に北上して2ヶ所(東蓮寺、善覚寺)と回り、鹿児島線に戻る。おそらく、帰りも新幹線を使わずそのまま鈍行乗り継ぎで広島まで戻ることができるだろう。

飯塚、直方に行くならこのまま鹿児島線に乗って折尾で乗り換えるのが便利だが、なるべく循環ルートを取りたいのと、昔ながらの気動車に乗ること、そして田川の炭鉱関連スポットに出かけることを目的としている。炭鉱関連では、前回は飯塚市の資料館を見学しており、またこの後直方でも訪ねる予定にしている。そうした意味での筑豊シリーズとも言えるだろう。

呼野、採銅所、香春にかけて、香春岳やセメント工場を眺めた後、田川伊田に到着(実は、採銅所あたりからウトウトしていたようで、気がついたら1駅先の田川後藤寺に着いていた。慌てて下車して、反対側ホームの列車に乗って田川伊田に着いた。まあ、この先の行程には影響ないが・・)。田川伊田は日田彦山線と、平成筑豊鉄道の田川線、伊田線が乗り入れる駅である。田川線、伊田線とも石炭輸送を目的として敷かれた路線で、田川伊田はそれだけ交通の要衝としての歴史があった。現在でこそ草生しているが、側線跡も多く残る。

田川伊田の駅舎に出る。いずれの鉄道にも係員はいないが、改札はしっかり別々に設けられている。現在の駅舎は1990年に建てられたものだが、2016年に田川市がJRから駅舎を購入し、リニューアル工事を行った。そして、駅舎を活用したホテル、レストランなどが入る建物となった。実はこの日宿泊するのはここ「田川伊田駅舎ホテル」である。「日本で一番駅のホームから近いゲストハウス」という触れ込みで、今回宿泊をどこにしようか考える中での決め手となった。ゲストハウスおよびレストランについては次の記事で触れることにする。

チェックインは後にするとして、そのまま駅横の線路下のトンネルを抜けて田川市石炭・歴史博物館に向かう。筑豊の中でも最大級の規模の炭鉱だった三井田川鉱業所伊田坑の跡地である。現在は公園としても整備されていて、坂を上ると田川伊田駅をはじめとした街並みを見ることができ、その向こうには香春岳、そしてボタ山も見える。

ここ田川は「炭坑節発祥の地」である。一時、同じ福岡の三池炭鉱が発祥の地と言われていたが、現在は田川が発祥の地とされている。まあ、いずれにしても炭鉱で働く人たちにとっては相通ずるものがあるから、一円に広まったものと言える。

田川のシンボルと言えるのが、伊田坑の2本の煙突と竪坑櫓である。これだけでも見どころあり、世界遺産「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つに含まれてもおかしくないと思う。実際、世界遺産の構成施設の候補にも挙がったそうだが、他地域と比べて資料が少ない等の理由で選考から外れたという。それでも国内の近代化産業遺産として大切にされている。

石炭・歴史博物館に入館する。往年の田川鉱業所の模型が圧巻で、田川伊田駅も炭鉱と一体化していたことがうかがえる。他にも採掘関連の展示が充実している。

見学順路はいったん外に出る。採掘に使われた車両、機材の向こうにはかつての炭鉱住宅が移築保存されている。

明治~大正~昭和と時代が進むにつれて少しずつ間取りは広がったように見えるが、いずれにしても長屋住まいには変わりない。

再び展示室に戻ると、採掘関連や石炭の活用方法の紹介の後、田川が炭鉱で賑わっていた当時の思い出として、映画館の紹介コーナーもあった。高倉健さん、吉永小百合さんといったスターに加えて、筑豊を舞台にした五木寛之原作の「青春の門」関連のパネルも多く並ぶ。

2階の中心は「山本作兵衛コレクション」である。山本作兵衛は炭鉱労働者で、後に筑豊の炭鉱が次々に閉山するのを目の当たりにして、その記憶を後世に残そうと、炭鉱での仕事や生活を描いた記録画を数多く残した。絵に解説文を添えているのが特徴である。それが、「名もなき一人の労働者が自らの体験をもとに、日本の近代化を支えた筑豊炭田の姿を、驚くべき正確さと緻密さで克明に記録した」、「私的な記録でありながら、日本の工業化を支えた人たちの持つ『コレクティブ・メモリー(集団内記憶)』をともなっている」(いずれもパンフレットから引用)として、「世界記憶遺産」に指定されている。田川の炭鉱のハード面は世界文化遺産に入ることができなかったが、それよりも前に、田川では「世界記憶遺産」となる記録画の数々を見出していたことになる。

元々は墨画で描かれていたが、炭鉱の様子がよりよくわかるようにと勧められて後には水彩画も描くようになった。絵に添えられた文によって、当時の様子を伝える史料としての価値もある。炭鉱の記録だけなら他にも写真や動画も残されているが、それでは伝えきれない味わいというのが感じられる。

展望室から改めて田川の景色を眺める。往年の賑わいを直接感じることはできないが、こうした遺産はこれからも残してほしいものである。

さまざま見学することができ、満足して田川伊田駅に戻る。そして、この日の寝床である田川伊田駅舎にチェックインである・・・。

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