まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

和歌山10番「慈尊院」~神仏霊場巡拝の道・32(高野山への出発点)

2022年11月30日 | 神仏霊場巡拝の道

11月13日、神仏霊場巡拝の道にて高野山を目指す。近畿2府6県(伊勢神宮のある三重県は除く)で和歌山県に入るのは初めてである。

高野山金剛峯寺を目指すように、和歌山10番・慈尊院に始まり、11番・丹生官省符神社、12番・丹生都比売神社と続いている。高野山といえば南海高野線に乗れば極楽橋でケーブルカーに乗れば上がることができるが、先ほどの札所の並びは、高野山町石道に近い。四国遍路の後、金剛峯寺、奥の院にお礼参りに行くのに町石道をたどろうという人もいるそうだ。まあ、今の南海線より町石道ルートのほうがまだ歩くのに適していたのだろうか。今回は3つの札所を訪ねることもあり、レンタカー利用である。

希望する時間帯ごとにあらかじめカードを受け取るシステムの朝食会場でゆったり朝食を取り、出発する。まず目指すのは和歌山10番の慈尊院。ホテルからはクルマで15分ほどで、あまり早く着きすぎて寺が閉まっていてもいけないかなと、7時40分頃に出発する。大阪勤務時代、仕事で橋本のこの辺りに何度か訪ねたことがあり、国道24号線沿いの景色にも見覚えがある。

前日は気持ちよい晴天だったが、この日は天気が崩れる予報である。朝焼けは見られたが、その反動で早くも西から厚い雲が広がって来た。

紀ノ川を渡り、九度山町に入る。富有柿の産地であり、また関ヶ原の戦いの後で真田昌幸・幸村父子が身を寄せていたことで最近では歴史好きも多く訪ねるところだが、九度山という名前の由来はこれから目指す慈尊院にある。

門前の駐車場にレンタカーを停めて山門をくぐる。「女人高野別格本山」「世界遺産」の文字がある。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成する寺である。

弘法大師が高野山を開いた際、その表玄関としてこの地に伽藍を建て、高野山の政所の機能を持たせるとともに弥勒仏を祀った。また合わせて高野山の狩場明神とその母の丹生都比売大神も祀った。当時は神仏習合だったが、それが後に分かれたのがこの後訪ねる2つの神社である。

弘法大師の母・阿刀氏(玉依御前)は空海に合おうと高野山を目指したが、当時は女人禁制だったためやむを得ず慈尊院にとどまった。そして逆に弘法大師のほうが月に9度、慈尊院まで下りてきて母を訪ねたとされる。それでこの地を九度山と呼ぶようになった。月に9度といえば3日に一度、金剛峯寺と慈尊院の間は20キロ以上あるので、ほぼ毎日のように行き来していたように見える。そこは言葉のアヤだそうで、本当に月に9度というわけではないにせよ、頻繁に訪ねていたという意味合いである。弘法大師の親を思う気持ちのエピソードが残されているということだ。

高野山へ歩いて上る、あるいは歩いて下る人それぞれに向けて、出発点であるここ慈尊院の本尊である弥勒仏に参詣するよう案内板が出ている。そしてその周りには多くの「おっぱい」が奉納されている。別にいやらしい意味ではなく、女人高野ということで安産、授乳、子育て、そして乳がんの治癒など、昔から女性の祈りを集めるようになった寺の歴史である。

その前でお勤めとする。なお、後ろの建物は拝殿で、後に回るとにこちらの中からもお参りできることに気づいた。先ほど立っていたのは拝殿と本堂の間だが、確かに法要など執り行うにはこうした拝殿のようなスペースが必要である。

朱印をいただき、この後は境内の大師堂にも手を合わせる。

境内に町石道の道標がある。「百八十町」の文字がある。ここから20キロあまりということで、歩くと6~7時間かかるという。途中、神社などにお参りすればもう少し時間がかかるから、高野山までは1日コースと見ればいいだろう。昔の人は九度山で1泊して、そして翌朝慈尊院にお参りして、その日1日かけて金剛峯寺まで上ったことだろう。

そして現在、この石段の途中にある鳥居の先は別の神社として存在する。先ほどの駐車場にも「神社に御用の方は神社の駐車場へ・・」というよそよそしい注意書きがあったのだが、どう見ても同じ敷地内だろう。そのまま、丹生官省符神社に向かう。一応、ブログとしては別記事にするが・・・。

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神仏霊場巡拝の道~橋本にて1泊

2022年11月29日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、高野山を前に麓の橋本で1泊である。今回、堺を起点として施福寺、金剛寺、観心寺と回ったので夕方近くになっており、高野山に一気に上がるにはちょっとしんどいかなと。いや、ちょっと予算を増やして高野山の宿坊に泊まる・・というのも面白そうだったが、今回は金剛峯寺に行く前に、丁石めぐりではないがその途中の慈尊院その他の札所を順番にたどるのがストーリーだろうと、翌日に橋本から順番に行くことにした。ただ翌日13日の天気が雨模様というのが気がかりで・・・。

国道24号線沿いのルートイン橋本に1泊。上層階の部屋からは紀ノ川流域の眺望を楽しむことができる。そろそろ、日が西に傾くところである。国道24号線に沿ってJR和歌山線の列車のトコトコいう走行音が聞こえてくるが、橋本駅からは結構離れていて列車利用だとちょっと使いづらい。今回レンタカーだからこそ宿泊場所に選んだ次第である。

同じ敷地の中にはルートイン直営の居酒屋があり(値段が高そうなのと、グルメサイトでのクチコミでは最悪の評価だった)、また国道を挟んで回転寿司のスシローと餃子の王将があり、普通に食事するなら十分だが、この日の一献は国道を少し東に歩いて、焼き鳥の八剣伝に向かった。ここに来てチェーン居酒屋なのだが、八剣伝や姉妹店の酔虎伝という店舗はある意味はずれはない。スシローや王将だと食事メインだから、時間を楽しむということなら八剣伝のほうがよさそうだ。

時間帯が早かったためか十分に空席があり、テーブル席に通される。

こういう店なら注文もシンプルになる。生ビールに始まり、焼き鳥を待つまできゅうりの一本漬けや親鶏のたたきなどでつなぐ。

そして定番の焼き鳥。1本100円(税抜)から各種1本単位で注文できる。そうこうするうちに若者のグループを中心とした客が入って来て、店内もにぎやかになる。

名物の「八から鍋」も注文。1人前からでもいただける。その名の通り辛さのレベルを0~8で選ぶことができ、レベル0なら唐辛子なしの鶏白湯鍋。レベル3が一般的なほどよい辛さとのことで、こちらをいただく。鶏肉を中心にさまざまな具材がたっぷり入っていて満足の一品である。ビールから切り替えたサワーもよく進む。そして雑炊もセットする。出てきたのは1人前とされるが、栄養学的に一般的な量の食事ならこれだけでも2人前あるといっていいだろう。

鶏料理は橋本に限る・・とは言わないが、よい一献の一時となってホテルまでぶらぶら歩く。

あ、八剣伝って・・・私の今の住まいのごく近くにもあるぞ。そういえばその八剣伝は1回訪ねただけだったかな。逆方向だが同じくらいの距離のところに養老乃瀧があり、居酒屋メニューの幅広さということでこちらを訪ねることのほうが多かった。たまには八剣伝にも行くことにしようか・・。

ホテルに戻り、大浴場も楽しみながら部屋でゆっくりと過ごす。

・・さて翌日11月13日、朝食会場に向かう。こちらのルートインでは、朝食会場の混雑防止として、チェックイン時に朝食の希望時間帯を記したカードを取っておくシステムを取り入れている。6時45分開始で、30分だったか45分だったか、時間帯が区切られている。私は最も早い時間帯のカードを取っており、1番の時間は同じような考えの人が多くて結構混雑するのだが、カードのおかげか、最初に行列ができたものの後はゆったりしていて、来た人すべてが席を楽に確保できたし、ご飯や味噌汁のお替りは並ばずともスムーズにできた。導入に至るにはさまざまなトラブル、きっかけがあったのだろうが、なかなかよい整理方式だと思った。質量ともにボリュームよくいただく(朝食の盛り付けが汚いので、画像には残してません・・)。

朝食が早く済んだので身支度もゆっくりすることができ、そろそろ出発する。13日だが、天気は下り坂、雨の予報が出ている。関西も一時雨のマークが出ているが、下界は晴れ、曇りでも高野山の上は雨という可能性もある。はたしてどうなるだろうか・・・。

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大阪15番「観心寺」~神仏霊場巡拝の道・31(楠木正成の「非理法権天」)

2022年11月28日 | 神仏霊場巡拝の道

11月12日、施福寺、金剛寺を回り、3ヶ所目となる観心寺に到着。観心寺は新西国三十三所の客番霊場となっていて、新西国の時も金剛寺とセットで訪ねた。

山門前の駐車場に到着。ここでは「楠公さん」こと楠木正成の像が出迎える。少年の頃、観心寺にて学問や仏教、兵法を学んだという。また後で触れるが、建掛塔を手掛けたり、また首塚もこの観心寺の境内に祀られている。特に南河内では地元の英雄として今でも親しまれている存在と言える。

受付で拝観料を納めると、奥の霊宝館がお勧めと声を掛けられる。後で訪ねることにしよう。また、観心寺の奥には河内長野を仮の都としていた南朝の後村上天皇の陵墓もある。

本堂へと続く石段の両脇は紅葉が見頃である。先ほどの金剛寺ともども、河内長野における紅葉の名所だという。空気も澄んでいるし、いい時に来たものだと思う。

本堂にあたる金堂は室町時代初期の建立で、大阪府下で金堂として最古の国宝建造物に指定されている。寺じたいはそれよりも古く、役行者により開かれたという伝承があり、弘法大師がこの地を訪ねて北斗七星を勧請したともされている。境内には、北斗七星を現す7つの塚がある。その金堂にあがり、外陣の片隅に腰を下ろしてのお勤めである。本尊は如意輪観音である。

伽藍の一つである建掛塔へ。楠木正成の発願で、元々は三重塔として建てていたが、正成が湊川の戦いで戦死したことで建造が中止となり、屋根だけがかぶせられたそうだ。その一方で、この三重塔の完成予想図とされる図面が残っていたり、二重、三重に建てられた塔が描かれた絵もあるようだ。また、現実の建物にはそうした修復を加えた跡が確認されておらず、絵はあくまで予想図、イメージ図の範囲だという説もあるという。

その奥には楠木正成の首塚。正成の墓所は神戸の湊川神社にあるが、足利尊氏の命により首は故郷の楠木氏の菩提寺でもあった観心寺に送られた。「非理法権天」という、正成の旗印にも書かれた文字が石碑になっている。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」として、天道に従って行動すべきであるということを唱えている。元々は、天とは国家を治める力であり、国の安泰は民の幸せにつながるという密教の教えだそうだ。正成はそれを天皇ととらえ、その元で日本の国が安泰に治められ、国が平安になれば人々も幸せになる・・として自身の旗印にも使ったのだろう。ただ時代が下ると、楠木正成は忠臣として崇め奉られ、「非理法権天」も天皇への忠誠を誓う言葉として重宝され、戦艦大和や特攻隊の出撃の際にも旗印に掲げられたそうだ。・・・まあ、それも時代の背景ではあるが、戦前のそうした話はあまり好きではないな・・。

霊宝館に向かう。平安~鎌倉時代の木像の如意輪観音、十一面観音、聖観音、薬師如来など、多くの重要文化財指定の仏像が並ぶ。後醍醐天皇の綸旨や楠木正成の書状などもある。観心寺は平安時代には多くの荘園や塔頭寺院を有していたそうで、霊宝館の仏像はその時のものである。そして南北朝の戦いではずっと南朝方につき、それ以後は守護大名の畠山氏の庇護を受け、豊臣氏や江戸幕府からも保護を受けた。明治の廃仏毀釈で衰えたが、その後の軍国教育で楠木正成が英雄視されるようになるとまた栄えて・・という歴史。

来た時に預けていた納経帳を受け取って、観心寺を後にする。

さてこの日だが、翌日の高野山詣でを控えて、県境を越えて橋本に泊まることにしている。国道310号線から府道を経由して国道371号線に出る。ちょうど南海高野線とも並走するルートで、さらにさかのぼると京・大坂と高野山を結ぶ高野街道の現在形である。その昔は難所だっただろうが、今は紀見トンネルで一気に和歌山県に入る。

橋本のどこに宿を取るか、何ヶ所か候補があったのだが、結局選んだのはルートイン橋本。南海の橋本駅からは離れているが、国道24号線に沿っているし、翌朝、早めの時間に高野山に向けて神仏霊場の札所を経由するにはもっともよいかなと判断した。橋本での宿泊は初めてで、ルートインホテルならではの大浴場を味わい、ゆっくりと過ごすことに・・・。

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大阪14番「金剛寺」~神仏霊場巡拝の道・30(河内長野は一時都だった?)

2022年11月27日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、大阪11番・施福寺から大阪14番・金剛寺に向かう。このルートだが、西国三十三所の2巡目で施福寺を訪ねた後、一部関西ダイトレをたどりつつ、歩いて向かったことがある。和泉市から河内長野市へと、大阪府内でも歩いて「国境越え」した形である。

今回はレンタカー利用で、国道170号線であっさりとアクセスする。

金剛寺にはその時は新西国三十三所で訪ね、本堂にあたる金堂が改修工事中だった。鎌倉時代に建立され、江戸時代に2回、豊臣秀頼、そして岸和田藩の岡部氏による大規模な改修が行われた。そして3回目が「平成大修理」として行われた。

金剛寺は奈良時代に行基が開いたとされ、弘法大師も修行したことがあるが、現在の形になったのは平安時代末期、高野山の僧・阿観による。後白河法皇や妹の八条院の帰依を受け、女性の参詣もできたことから「女人高野」と呼ばれて信仰を集めた。

改修を終えた金堂に参拝。本尊は大日如来である。ちょうど内陣では僧侶がお勤めの最中で、理趣経が唱えられている。その外陣の片隅に座り、こちらもお勤めとする。

正面奥の五仏堂に向かう。こちらは新西国の本尊である千手観音を祀っている。豊臣秀頼により改修された建物の一つ。各地に、豊臣秀頼により再建、改修という寺社の建物があるが、秀頼が信仰心あふれる人物だった面もある一方で、徳川家康が寺社の再建に金を使わせることで豊臣氏の財力を削いだ・・という見方もある。

五仏堂に接しているのが弘法大師を祀る御影堂、そして後村上天皇が月を愛でた観月亭がある。後村上天皇は後醍醐天皇の後の南朝の天皇だが、京を追われ、金剛寺で政務をとっていたことがある。なお、御陵は観心寺の中にある。

金剛寺はこのように南北朝の戦いの舞台ともなったところである。楼門を出て、塔頭の一つである摩尼殿に向かう。後村上天皇の行在所であり、その御座所も保存されている。

南北朝の戦いも結構複雑なもので、一時的には南朝が優位に立っていたこともある。その時南朝は北朝の光厳、光明、崇光の3人の上皇を捕らえ、塔頭の観蔵院に住まわせた。このエリアは拝観受付も別にあり、観蔵院、庭園、そして宝物館が見学できる。

南北朝の天皇、上皇が同じ場所にいた・・・それも河内長野に。河内長野じたいは難波、和泉、高野山含む紀伊山地ともつながる交通の要衝であるが、本来京にいるはずの天皇、上皇が戦いのたびに都から離れた地に逃れなければならなかったというのが、時代の混迷をうかがわせる。一時、河内長野に都があった・・とも言えるが。

境内の紅葉も楽しむことができ、金剛寺とセット・・というわけではないが、続く大阪15番・観心寺に向かう。路線バスならいったん河内長野駅に出るが、そこはレンタカーの利点で途中ショートカットする・・・。

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大阪11番「施福寺」~神仏霊場巡拝の道・29(西国三十三所の難所を行く)

2022年11月26日 | 神仏霊場巡拝の道

11月12日、南海の堺駅前からレンタカーで槇尾山口に着き、いよいよ施福寺に向かう。以前に参拝した時にはコミュニティバスであるオレンジバスで訪ねており、その時は細道を通った覚えがある。しかし今回カーナビに従って走ると、そのまま新しい道に出る。

この辺りは以前、並走する槇尾川にダムを建設する計画があり、工事も始められていたのだが、時の橋下大阪府知事の判断により中止となった。ただ、ダムに沈む予定だった細道の府道の付替工事はそのまま進められ、道路は予定通り開通した模様である。これで参道入口まで多少近くなった。

ちょうど紅葉、行楽の時季である。多くの参詣者、ハイキング客が訪ねているようで、駐車場には観光バスが2台停車していた。こちらは西国三十三所の巡拝ツアーだろう。ようやく駐車場の片隅に空きを見つける。

オレンジバスを待つ人の中を抜け、槇尾山観光センターの前から参道に入る。交通の便もそうだが、寺への徒歩でのアクセスが西国三十三所の中でもっとも厳しい札所である。「観音八丁 登れば足守の馬頭さん」の看板にもあるよう、寺までは八丁の坂である。こうして目安を示していただくとある程度先が読める。

参道入口に小屋があり、ここで入山料をいただくとある。参道や境内施設の維持のためとして今年の4月から徴収を始めたそうだ。まあ、下の駐車場が無料なので致し方ない面はあるだろう。また、施福寺は参詣者だけでなく、関西ダイトレのコースの一部としてハイキング客が訪れることが多いため、そうした人たちからも維持費を求めようということか。

まずはコンクリート造りながら急な坂を上る。仁王門までの2丁が意外に厳しい。

仁王門のところで残り6丁である。ここから自然の山道、そして石段の区間である。

ちょうど巡拝ツアーの人たちの塊が前方にいて、その後ろについて途中で止まる場面もあるため、一息つくこともできる。

愛染明王堂に到着。ここまで来ればあと一息である。初めて施福寺に来た時にはさすがにきついなと思ったが、4巡目となると体が経験を覚えているのか、思ったほど時間がかからなかったようにも感じる。

最後のコンクリートの階段を上がると境内に出る。ちょうど青空に紅葉がよく映えていて、来てよかったと思うところである。

改めて本堂の前に立つ。ちょうど西国三十三所のバスツアーは2団体来ているようだ。お勤めはツアー全員が揃ってからのようだが、納経帳を持った添乗員は先に納経所に来ており、窓口の中ではひたすら墨書、押印と手が動いている。また、個人の参詣者も多く外陣内には行列ができている。

まずは外陣にてお勤めとする。時間差で、1つ目の巡拝ツアー客からの読経が始まった。

その後は納経所の列に加わり、朱印をいただく。本堂内が500円で拝観できるが、その支払いのためにはこちらで並ぶ必要がある。拝観料500円のほかに入山料500円が加わった形だが、檀家を持たず、山道の参道、山の上の本堂を維持する寺なれば・・。そして、今回は西国三十三所の重ね印に加えて、目的である神仏霊場巡拝の道の朱印の両方をいただいたから、合計1600円納めたことになる。

本堂は元々限られた日しか開放していなかったが、いつの頃からか通年で開けているようである。また、以前は禁止だったそうだが、仏像の撮影も可能とある。少しでも入りやすいようにハードルを下げているように見えるが、それだけ寺の維持に切羽詰まっているのかもしれない。

まず、寺の本尊として中央に祀られているのが弥勒菩薩。そして向かって左手に立っているのが西国三十三所の本尊である十一面千手千眼観音である。右手の文殊菩薩と合わせて三尊がお出迎えである。

時計回りに進むと、こちらも立派な方違大観音が祀られている。ここだけで見られる観音ということで貴重なものだそうだ。方違とは、凶と出た方角を悪い方角にしないために、いったん別の方角に向かった後で、そもそもの方角に向かうという意味合いである。

本堂の裏手にはさまざまな仏像が並ぶが、弁財天、不動明王を挟んで弘法大師、伝教大師の像が祀られている。施福寺は弘法大師が剃髪し、また唐からの帰国後に滞在したこともあって元々は真言宗の寺院だったが、戦国時代に織田信長の兵火により焼失し、江戸時代に徳川家の保護を受けたことから天台宗に変わった。そのことで二人の像が残されているようだ。

最後には馬頭観音である。足腰が丈夫になるというご利益があるそうで、「足守の馬頭さんである。ここまで多くの仏像が山上に残されているのも貴重なことである。参道入口にあった「山上大堂立体マンダラ仏の世界」というのも決して誇大広告ではない。

ちょうど2組目の巡拝ツアーの方たちが本堂内に入って来たので、入れ替わるようにして本堂を出る。

昼も回っているが、遅めの昼食としよう。新大阪駅にて柿の葉寿司を購入しており、これを境内でつまむ。寺参りとともに山登りの気分も味わえるということで、こうして屋外で食事をするというのも久しぶりのように思う。

一息して下山する。石段を行き交う人たちが挨拶するのもハイキングの感覚である。

これで西国三十三所の4巡目も兼ねた施福寺行きが終わり、駐車場に戻って先に進むことにする。ここからは国道170号線まで出て、金剛寺、観心寺という南北朝の戦いにも登場する寺院へのお参りである・・・。

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神仏霊場巡拝の道~秋の高野山を目指して、まずは堺へ

2022年11月25日 | 神仏霊場巡拝の道

10月、プロ野球クライマックスシリーズ観戦と兼ねた神仏霊場めぐりで京都を訪ね、そこでのあみだくじの結果、次は高野山金剛峯寺への参拝となった。これから季節が進む中、冬になる前に訪ねることにしよう。ちょうど紅葉の時季とも重なっている。

行くのは、11月12日~13日の2日間。目的地は金剛峯寺だが、神仏霊場めぐりにはそのふもとにある慈尊院、丹生官省符神社、丹生都比売神社も含まれる。いずれも高野山、弘法大師とも関係ある寺社であり、今回は一連のシリーズとして訪ねることにしよう。ただ、金剛峯寺以外は公共交通機関で一度に回るのは時間的にしんどく、今回もレンタカーを使う方向で考える。その場合、ふもとの橋本で借りるか、あるいは大阪市内で借りるか・・。

また、神仏霊場めぐりの場合は札所順番に関係なく、目的地に近いところも一緒に回ることにしている。橋本から先の慈尊院その他に行くことは決まりとして、その前後に他のところも回れそうだ。大阪南部にするか、和歌山の紀ノ川沿いにするか。

いろいろ考えたが、大阪から鉄道で高野山に向かう途中に通過する河内長野に着目した。神仏霊場めぐりとして、金剛寺、観心寺の2ヶ所がある。いずれも新西国三十三所めぐりで訪ねたことがあるが、神仏霊場も兼ねている。

そして、河内長野の西隣の和泉市には、西国三十三所第4番・施福寺がある。厳しい参道で知られる寺だが、ここも神仏霊場を兼ねている。今回は、南大阪のこの3ヶ所を先に訪ねることにしよう。なお、3ヶ所に参詣した後に和歌山県に入り、橋本で1泊。13日の朝から高野山を目指すことにする。

広島から朝の新幹線で出発。6時14分発の「ひかり500号」に、「バリ得こだま」プランを利用する。

新大阪に到着。このまま大阪メトロ御堂筋線に乗り換え、難波まで南下する。

向かったのは南海のなんば駅。今回レンタカーを利用するのは南海本線の堺駅からとした。「南海ロマンス」というキャンペーンの大きな看板がある。観光列車「天空」には乗れないが、バックにある寺の一つである天野山金剛寺には後で行く予定である。

なぜ堺まで行くか。新大阪駅近くのレンタカーにも空きがあったのだが、以前利用した時に、新大阪駅から新御堂筋を経て大阪市内に入るのに時間がかかった覚えがある。それならば大阪市内は地下鉄~南海で通過し、エリアに近づいた堺駅とした。

この駅に降り立つのも久しぶりである。いずれ、神仏霊場めぐりの中で「堺に宿泊」というのがあってもいいかなと思う。和泉エリアから紀伊北部にかけてもいくつかの札所があり、堺のほかに泉佐野もベースキャンプの候補地になりそうだ。

フェニックス通り沿いにあるニッポンレンタカーに到着。用意されたのはマツダ2、かつてのデミオである。マツダ系のタイムズレンタカーならいざ知らず、ニッポンレンタカーでマツダ車とは、広島から来るというのでイメージしてわざわざ用意したのかな。

時刻は10時を回ったところ。まずは難所の施福寺を目指すべく、フェニックス通りから国道26号線を南下する。

その前に立ち寄ったのが、JR阪和線の和泉府中駅。JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所めぐりデジタルスタンプラリー」のためである。施福寺のデジタルスタンプがもらえるのが和泉府中駅のみということで、参拝の前に立ち寄ることにした。レンタカーは駅前のパーキングに停め、スマホで改札口横に掲示されているQRコードを読み取る。以前ならばスタンプ台紙と、駅によっては参拝の証明として納経帳または散華を駅員に提示していたが、このご時世、わざわざ駅員に対応させることなく、QRコードを自由に読んでくださいというものである。

以前、施福寺の下から和泉府中駅まで路線バスに乗ったことがあり、ここからはそれを逆走する形だ。そして、クルマでアクセスするのは初めてである。カーナビで行き先指定するが、ここで注意すべきは、「施福寺」を入れると明後日の方向に連れていかれることである。そしてたどり着いた場所には「ここではない」という注意を促す看板が立っている。ネット情報でもよく広まっている。最も確実なのは「槇尾会館」と指定して到着し、さらにその奥の道をたどることである。

国道480号線から国道170号線を目指す。それなりに交通量もあるし、信号にもよく引っかかる。思ったよりも時間がかかる。和泉府中駅から50分ほどかかって、施福寺への公共交通機関のアクセスとなる槇尾山口のバス停に着く。オレンジバスの車両が停まっている。

早朝に出発して、ここに来て早くも昼前である。この先、いよいよ難所の施福寺を目指す・・・。

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「みまさかスローライフ」列車に乗りに行く~県境を越えて那岐へ

2022年11月24日 | 旅行記F・中国

11月6日、「みまさかスローライフ」列車は美作河井に到着。14時10分発まで22分停車する。走っているより停車している時間のがほうが長いように思う。

美作河井は岡山県側最後の駅で、物見峠を前にしたところである。因美線が全線開通する前は、津山方面からの執着駅だった。

かつては島式ホームで、反対側にも線路が敷かれていたが今は使われることはない。

こちらでも地元の人たちによる物産の販売がある。いろいろあるが私の目に留まったのは手作りのこんにゃくと、生の落花生。後日、こんにゃくは他の具材と一緒におでん風に煮立て、落花生は殻ごと塩ゆでした。しばらくは酒のアテとして楽しめた。乾燥したピーナッツとはまた違った味わいだった。

駅前ではなぜか電気自動車の展示もある。今はこうして「スローライフ」列車だ、「ノスタルジー」車両だとかで楽しんでいるが、地域の人たちにとっては、数年後にはこうした乗り物が現実の生活の中に入り込んでくるのだろう。鉄道は環境に優しい乗り物としてPRされているが、ことローカル線区間にあっては、こうしたコンパクトな自動車が気動車を動かすよりも環境に優しいのでは?と言われていて・・。

ホームのはずれには手動の転車台が保存されている。かつて、除雪車の向きを変えるために使用されていたが、使用されなくなってからは土中に埋まっていたという。それが掘り起こされ、今は近代化産業遺産の認定を受けている。ここもノスタルジーのスポットである。

「矢筈城跡」の看板がある。戦国時代、美作、因幡の国人領主だった草苅衡継により築かれた山城である。草苅氏は後に毛利方につき、宇喜多軍、羽柴軍とも戦ったが城が落ちることはなかったが、本能寺の変の後、毛利輝元と羽柴秀吉が和睦したこともあり、輝元の要請で城を明け渡したという。山頂までは2時間ほどかかるそうで、登城というよりはちょっとした登山である。

物見トンネルで岡山県から鳥取県に入る。美作河井~智頭間の開業により因美線が全通したのが1932年のことで、今年がちょうど90周年である。

鳥取県に入り、14時26分、最初の駅である那岐に到着。「みまさかスローライフ」列車はこの先智頭まで運転されるが、ほとんどの客が那岐で下車した。逆に智頭まで行く人は鳥取方面、智頭急行に乗り継ぐか、はたまた那岐駅での時間よりも少しでも長く列車に乗るほうを選んだか・・ということになる。構内の踏切を渡る前に、智頭に向かう「みまさかスローライフ」を見送る。この列車が折り返してくる35分間が那岐での滞在時間である。

那岐は因美線全通時に開業した駅で、90周年の記念碑も建てられている。待合室には厚意による図書棚があり、利用する人の心の交流の一つとなっている。

駅前では柿の葉寿司などが売られており、夕食用に買い求める。またお出迎えとして、先ほどの美作滝尾のエレキバンドに対抗するわけではないだろうが、津軽三味線でのお出迎えである。駅前に自然と輪ができる。

そしてその後は、先ほど那岐に降り立った「寅さん」の登場である。今度は自らがマイクを手にして、「わたくし~」から始まる例の口上を述べる。「今日は鳥取県は那岐駅にやってきました~」などと、映画「男はつらいよ」についてとうとうと語る口調も旅慣れたもので、ただのコスプレの人ではなさそうだ。

途中で「わたくし、『植木寅次郎』と発します」という一節があったのでその名前で検索すると、「寅さんの心を伝える会」というのが出てきた。「植木寅次郎」さんは茨城県の方のようで、寅さんのそっくりさんとして各地のイベントにも顔を出しているようだ。

また、同じく寅さんに扮してカメラを構えているのは津山市の市議会議員だとの紹介があった。「男はつらいよ」の熱心なファンだそうで、「みまさかスローライフ」列車の運行にあたり、地元イベントを盛り上げるためにこの議員も「植木寅次郎」さんを呼ぶなど頑張っているのかな。津山はB’zの稲葉さんだけやないんやぞと・・。

寅さんのトランクの中。今のご時勢、トランクで旅行に出かける人というのはほとんどいないのではなかろうか。それでも、結構小物が入るものだ。龍角散の昔ながらの粉というのも時代を感じる。

帰りの時刻となり、ホームに上がって智頭からの折り返し便を待つ。復路で乗車するのは2号車、キハ47の国鉄急行色である。今度も窓側の席を確保していたが、進行方向の後向きである。まあ、先ほどとは反対側なので違った景色を見ることができる。

近くのボックスに寅さん御一行が着席している。「寅さんの心を伝える会」の皆さんと美作の地酒で乾杯である。私、「男はつらいよ」を本気で観たことがないのでわからないのだが、映画の寅さんは酒をたしなむのだったかな?

そんな中、市議会議員がお土産を配りに来る。あ、これは政治的に何か問題がある行為ではなく・・・。

いただいたのは、因幡国の若一宮である河野神社のお守りである。手足、肩、腰の病に霊験があるそうで、この足型で患部をなでて祈願するとたちまち快癒するとされている。

物見トンネルを抜けて、再び岡山県に戻る。美作河井では物販のテントはすでに片付けられていたが、地元の人たちはまだ残っていて手を振ってお見送り。

美作加茂に到着。行きの列車の停車時に買い物をした人はくじを引くことができて、当たりだと帰りの列車の時に地元の物品が提供される。私は残念ながらはずれだったのだが、帰りにも少し停車して景品を受け取る姿も見られた。

この後はウトウトしたようで、美作滝尾は気づかずに過ぎたようだ。16時17分、津山に到着。往復で4時間半、途中下車の時間もたっぷりあって充実した乗り鉄、呑み鉄の一時であった。2日続けて乗車した寅さん御一行はこの後どうするのかな?

この日は日曜日ということもあり、津山で1泊ということもなく、このまま16時37分発の津山線岡山行きに乗り継ぐ。先ほどの「みまさかスローライフ」からの乗り継ぎが多く、車内も結構賑わっていた。

そして岡山からそのまま新幹線に乗車。岡山駅前のミシュラン居酒屋「鳥好」にも久しぶりに行きたかったのだが、翌朝に備えて早めに帰宅しよう。

「みまさかスローライフ」については、この夏、秋と盛況のうちに運行されたことであり、2023年もまた時季を見つけて運行されるだろう。またその時は寅さん御一行が来るのかな・・?

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「みまさかスローライフ」列車に乗りに行く~美作滝尾に「寅さん」出現

2022年11月23日 | 旅行記F・中国

11月6日、津山から因美線を走る「みまさかスローライフ」列車に乗車。因美線の東津山~智頭間は岡山、鳥取の県境を越えるところで、ローカル線らしい景色、また昔の設備の名残が残されている区間である。とはいうものの、芸備線の東城~備後落合間までとはいかないが路線の存続も決して楽観視できないところだ。岡山から鳥取に向かう特急が、わざわざ兵庫県まで行って智頭急行経由で走るくらいだから・・・。

因美線のこの区間だが、この夏に急行「砂丘」の復刻運転として、キハ47の国鉄急行色を使った団体列車が走り抜けた。このツアーには乗ってみようかなと思ったが、ネットでの発売開始日を失念していて、気づいたら完売になっていた。まあ、今回「みまさかスローライフ」で乗ることができてよかった。「砂丘」は団体列車ということでツアー料金も強気に出ていたが、こちらはあくまで臨時列車で、普通運賃と指定席530円で乗車できる。

次の高野にて4分停車。短い時間だが駅舎や列車の撮影に多くの人がホームに降り立つ。別に先を急ぐ列車ではないのだが、一応定時運行は確保しなければならない。発車時刻が近づくと車掌がハンドベルを鳴らして乗客に車内へ戻るよう促す。

この日は天気もよく、沿線にはさまざまな撮り鉄が集まっている。だいたいは安全な場所から、また列車だけではなく周囲の景色と組み合わせたらしい構図の写真を撮っているように見えるが、中には線路際すれすれの場所でカメラを構えるのもいる。

次の停車は美作滝尾。昭和初めの開業当時の木造駅舎がそのまま残っており、映画「男はつらいよ」のロケ地になったことで知られている。私も、この駅舎を見るためにわざわざクルマを走らせたことがある。美作滝尾では12時50分発まで27分停車し、地元の人たちからのおもてなしが受けられる。

列車が入ると、駅前からエレキバンドの演奏が聞こえてくる。また歓迎の横断幕が広げられる。長時間停車ということで100人あまりいた乗客のほとんどが下車するので、ホームは人であふれかえる。通常のローカル線輸送では見られない賑わいである。もう何度も列車が運行されており、地元の人たちにとっては年中行事のお祭りの日のような感覚だろう。

・・・と、そこへ降り立ったのはフーテンの寅さんの出で立ちの人々。トランクを手にした寅さんが3人、そして佐藤蛾次郎さんが演じていた弟分の源ちゃんの出で立ちが1人という「御一行」である。「男はつらいよ」ロケ地の美作滝尾に「スローライフ」が停まることから、いつの頃からか寅さんのコスプレ客が乗り込むようになったという。この御一行は前日5日の「スローライフ」にも乗車していたようで、地元の人たちとも顔なじみであるかのようだ。

現存するのはもちろん映画のセットではなく、現役として使われたものである。改札口を通して、国鉄急行色の車両が停まるのも、私個人はそれほど経験がないことだが懐かしい景色として伝わってくる。「スローライフ」という名とは裏腹に駅前はごった返すのだが、ちょっと時間を距離をおくと静かな風情が楽しめる。

駅前では地元の人たちのお出迎えで、地元の農産品や弁当としてちらし寿司の販売もある。

バンドによる「男はつらいよ」のテーマソングの演奏もあり、寅さんたちも手拍子で応える。

この後は獅子舞の披露。

テレビの取材もあったようで、寅さんの一人がインタビューに応じている。その様子をスマホで撮影する別の寅さん。

楽しいひと時が過ぎ、そろそろ車掌のハンドベルが鳴って乗客が車内に戻る。

次の三浦はすぐの発車で、13時02分美作加茂に到着。13時35分発まで30分あまりの停車である。

こちらでは物販のほかにうどんのスタンドが出ている。美作滝尾でのちらし寿司は見送ったが、うどんなら喜んでいただこう。列車を眺めながらホームでうどんをすするのも汽車旅の風情である。寅さん御一行もうどんに舌鼓のご様子(寅さんの一人は「大盛はないのか」とボヤいていて、結局おかわりでもう1杯注文していたな)。

停車中、駅員によるタブレット授受の演出があった。現在は指令室にて信号のコントロールが行われているが、こうしたアナログな光景もこの駅に似合っている。撮影時間中、ずっとポーズを保っている駅員もお疲れ様・・・。

昼下がりのローカル駅の景色。

次の和知も昔ながらの駅舎が残っているが、「みまさかスローライフ」はわずかな時間ですぐに発車する。次の岡山県最後の美作河井でまた長時間停車のようで、さらなる風情を楽しむことに・・・。

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「みまさかスローライフ」列車に乗りに行く~津山線・因美線

2022年11月22日 | 旅行記F・中国

11月6日、早朝の新幹線「のぞみ」の自由席にて広島から岡山に向かう。各地の札所めぐりが続く中、この日は純粋な乗り鉄(呑み鉄?)のお出かけである。

お目当ては、因美線を走る「みまさかスローライフ」。2007年に運転を開始し、その後、年に何回か走る臨時列車である。走行するのは因美線の津山~智頭間で、私も10年前だったか、乗車したことがある。ただその時は、車内に乗客があふれていて、途中の駅でもホームに人がごった返していただけに、「スローライフ」とは真逆のファーストな印象を持ったように思う。

この「みまさかスローライフ」、その年ごとに全席自由席だったり、全席指定席、あるいはその混合ということで運転されている。車両も当初はキハ58・キハ28が充当されていたが、同車両の引退後はキハ40・キハ47が担当し、それぞれ「ノスタルジー」塗装になったことで定着している。キハ47がかつての国鉄急行色をまとうようになり、また人気も出たようである。走行するのがほとんど津山市内ということで、津山の観光資源としてPRされている。

コロナ禍の影響で2020年からは運転見送りとなっていたが、2022年7月、因美線の開業90周年記念も兼ねて3年ぶりに運転された。その時は私の九州西国霊場めぐりとフレッシュオールスター観戦で長崎に出かけたので乗る機会はなかったが、今回、11月5日、6日の運転が決まり、スケジュールの都合で6日に狙いを定めて乗ることにした。

「みまさかスローライフ」は3両編成でいずれも指定席で運転とあるが、どの号車がキハ40(国鉄一般色)、キハ47(国鉄急行色)なのかはわからない。また、e5489や指定席券売機では窓側か通路側かの指定しかできない。だから、窓側指定で座席を割り当てられたとしても進行方向に対してどちら向きかわからない。「みまさかスローライフ」の走行写真や乗車記をネットで検索すると、車両外観の写真はいくらでも出てくるが、座席の情報についてはほとんど得られなかった。

また、これまで別の機会で「ノスタルジー」車両に乗ったので知っていたが、普段通勤通学用にも使用しているセミクロス車両のため、ボックス席ではなくロングシートに当たる可能性もある。まあ、それはそれでいいのだが、ロングシートで隣に知らん人と並ぶのも気持ちよいものではない(ロングシートなら、せめて2席を1人で使わせてほしい)。

結局、発券前にe5489の中で何回も指定と変更を繰り返し、少なくとも往復でキハ40一般色、キハ47急行色それぞれに乗車できる組み合わせで指定席を揃えた。前向きか後向きかは、現地での運に天を任せることにする。

・・・ということを「のぞみ」車内で振り返ったところで岡山に到着。まずは津山線で津山に向かう。

「みまさかスローライフ」の津山発は11時48分で、津山線の岡山9時47分発の快速「ことぶき(「Saku美Saku楽」を併結)が接続するのだが、それよりも1時間半ほど早い8時22分発の鈍行で早めに津山入りすることにした。

ちょうど朝の津山方面行きということで乗客も少なく、ボックス席を1人で占有することができる。そうなると前のシートに足を置いてゆったりしたくなる。また、後ろのボックスでは中年の4人組が朝から缶ビールなど開けている。会話の内容から「みまさかスローライフ」乗車ではなく、津山からバスに乗り継いでどこかに向かう様子だが、秋の行楽列車という感じがしてよろしい。こちらも十分「スローライフ」である。旭川の車窓や、沿線ののどかな景色を眺めながら北上する。

9時53分、津山に到着。早めに着いたのは、10月にも訪ねたばかりだが、先に「津山まなびの鉄道館」に立ち寄ってみようというものである。

扇形機関庫には往年の車両が並ぶ。転車台には10月に続いてDD13が搭載されている。また時間を区切っての転車台回転の実演があるようだ。

青空の下、車両もいい感じで日向ぼっこしているようだ。

その奥には津山線、因美線、姫新線の車両が留置されていて、その中に「みまさかスローライフ」の3両が出番を待っているところだ。これを見ると、智頭方から3号車、2号車、1号車と並んでいて、3号車・2号車がキハ47の急行色、1号車がキハ40の一般色である。私の指定席を見ると、行きが1号車、帰りが2号車で、行き帰りで両方の形式に乗ることになる。

なお、列車は智頭まで行くが、指定席の設定は手前の那岐までである。智頭まで行ってそのまま因美線の鳥取方面や智頭急行に乗り継ぐ人もいるだろうが、多くは那岐で降りてもらって、地元のおもてなしを楽しんでほしいという主旨のようだ(ちなみに、智頭まで行ったとしても10分ほどですぐ折り返しとなる)。

一通り見学を終え、駅前のコンビニで飲食物を仕入れて駅に戻る。ちょうど窓口にはこれから新規で指定席を購入するのか、あるいはe5489の引き換えかで行列ができているが、スマホで空席状況を見ると、それでも列車そのものは「○」と出ている。ただし窓側を指定しようとすると「×」表示となる。

駅に戻る間に移動したようで、改札口からホームを見ると入線しているので早速行ってみる。乗車するのはキハ40の一般色だが、幸い、進行方向の前向き窓側である。あとは、ボックス席にどのくらい相客が来るか(さすがに、1ボックスを占有とはいかないだろう)。

そのうち、岡山からの快速「ことぶき」も到着し、「みまさかスローライフ」に乗り継ぐ客もそこそこやって来た。

ボックス席には2~4名の乗車率で、私の割り当て席にも向かいに男性客が陣取った。本当は窓側の座席券を持っているのかもしれないが、結局は通路側に体を持ってきて、ボックスを対角線で使う形となった。時刻となり発車。ホームでは駅員、ギャラリーの見送りを受ける。

旭川を渡り、列車は姫新線との分岐である東津山で停車。早速ホーム、駅舎での撮影でホームが賑わう。先ほどの津山駅ではホームが工事中ということもあって撮影スペースが限られていたぶん、東津山では開放的に編成を眺めることができた。

姫新線の佐用からの列車が到着したのを受けて「みまさかスローライフ」も発車する。これから因美線に入り、列車自体は各駅に停車していく・・・。

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第20回中国四十九薬師めぐり~安倍家墓所と元乃隅稲成神社

2022年11月21日 | 中国四十九薬師

11月3日、中国四十九薬師めぐりとしては目的地の第32番・向徳寺を訪ねて帰宅するが、ここまで来たのだから同じ地域にある元乃隅稲成神社に立ち寄ることにする。

・・ただその前に、今年の7月に大和西大寺駅前で銃撃され死亡した安倍晋三元首相の地元はこの辺りだったなというのが頭に浮かぶ。もっとも、「安倍三代」という書籍にもあるように、安倍元首相は別に長門市で生まれたわけではなく、あくまで祖父・寛、父・晋太郎の地盤を受け継いだのだが、安倍家のルーツがこの地であることは確かで、晋三もことあるごとに墓参りをしていたという。

元乃隅稲成神社に行く前に、安倍家の墓所を訪ねようと思う。銃撃事件があったからかどうかは知らないが、墓所の場所はグーグルマップにも掲載されている。それを頼りに細道をたどる。

墓所は共同墓地という感じでもなく、わざわざ参道が設けられている。そして一段上がったところに「安倍家之墓」と刻まれた墓石があり、多くの花が手向けられている。

その手前の墓誌に、安倍寛、安倍晋太郎の戒名、俗名、そして命日、功績がある。いずれ晋三もここに納骨され、墓誌に名前が刻まれることだろう。

墓石の手前に記帳所がある。昔からここにお参りに来る人もいたようだが、7月の銃撃事件後にはその署名の数も増えているように見える。元首相への感謝の言葉も添えられており、地元山口県だけでなく他県からの来訪も目立つ。私が来た時も他県ナンバーのクルマが停まっており、手を合わせる人がいた。

安倍政治に対しては様々評価が分かれるところだし、私も決して支持をしていたわけではないのだが、少なくとも首相としての存在感はあったし、何かしら事を成そうという姿勢はあったように思う。それに比べて現在の岸田政権と来たら・・・就任当初は地元ということもあり期待したのだが、1年経過して「こんなはずではなかった」という思いが強くなるばかりである・・。

さて、改めて元乃隅稲成神社に向かう。しかし、私のクルマのカーナビにはスポットとして掲載されていない。クルマ自体が中古ということもあるが、元乃隅稲成神社がアメリカのCNNにて「日本の最も美しい場所31選」として紹介されたのが2015年のことで、そこから参拝者が急増したところだ。スマホで住所を確認し、それを入力して大体の見当をつけて向かうことにする。

それでも、後付けで設置した案内板があったり、それらしきドライブのクルマ、さらには団体客を乗せた観光バスに出会う。バスの後ろをついて行けば着きそうだ。

ところが、途中で離合が難しいところがあり、そこに観光バスが突っ込むものだから渋滞が発生する。まあでも、元々細道だけだったのが途中何ヶ所かに新たに離合できるところが設けられただけでもよしとしなければならないのだろう。

そして神社が近づいたところで駐車場への順番待ち。誘導員も出て交通整理に当たっている。観光シーズンなら1~2時間待ちは当たり前だそうだが、この日は10分ほど待ったところで駐車場に入る。最近広げたような感じで、適当なところに駐車スペースを見つける。

元乃隅稲成神社には前回の広島勤務時に一度来たように思う。だから20年より前のことで、その時の写真も残っておらず記憶もあいまいなのだが、鳥居の上に賽銭箱があり、そこに硬貨を投げて見事に入ればご利益がある・・というので知られていたと思う。岩場に鳥居が続く印象はそれほどなかったかな。

神社が建てられたのは1955年のこと。地元の網元の枕元に白狐が現れ、自分をこの地に祀るようお告げがあったという。その後、商売繁盛、大漁、海上安全の御利益があるとして地域の人々の信仰を集めていたが、先に書いたような出来事により一気に注目され、こうして各地から参拝者が絶えず訪れることになった。神社そのものが現世利益となったことである。ただし、神社自体は個人の所有ということで、宗教法人に登録されているわけではないようだ。

この鳥居も参拝者の増加により今のところに移されたそうだ。私も賽銭を投げてみるが、日ごろの運動不足のためか全然肩が上がらずあさっての方向へ飛んでいく。その一方で、バスケットボールのゴールを決めるがごとく簡単にひょいと続けて入れる男性がいて、驚きの声があがる。

新しい社殿もできて、狐の石像も出迎える。

そして、海岸へ続く123基の鳥居である。この先に「龍宮の潮吹」というスポットがある。断崖に荒波がぶつかると、その勢いで海水が吹き上がる現象を潮吹きと呼ぶとのことで、この鳥居の並びは龍宮に向かう龍の姿に見えなくもない。

鳥居をくぐって岩場に出る。

そして、この先の竜宮の潮吹を間近に見る岩場に進む。先端に立つと海面まで思ったより高さがあり、身をすくめる。東尋坊のようなスポットとは言わないが、足を滑らせて落ちようものなら助からないだろう。身を乗り出すように下をのぞいている男性がいて、少し離れたところからパートナーらしき女性が「やめて!」と真剣な表情で叫んでいる。

ちょうど海に向かって地蔵か観音か、風化して顔の形がよくわからないが仏も祀られている。稲成神社よりも前からあったものだろうか。白狐が網元の夢枕に出たのが稲荷神社建立のきっかけというが、むしろこちらの祠のほうが、ここが昔から普通に海の安全や豊漁を願う場であったことを物語っているように思う。

この日は天候、波ともに穏やかで、龍宮が潮を吹く光景はみられなかったが、この数年で一気に有名スポットとなった神社参りもできてよかった。今回ずっと回り、北長門の海岸の美しさをあちらこちらで感じることができた。

地元の直産品や山口土産を扱う土産物店もできており、近くの東後畑棚田でとれた新米を購入して神社を後にする。この時間もまだまだ駐車場待ちの車列ができていた。

このまま国道191号線まで出て、黄波戸を過ぎる。対岸には青海島が見える。山口県まで来たのだからこの島にも久しぶりに渡ってみたいのだが、中国四十九薬師めぐりでは残念ながら立ち寄らずコマを進めることになりそうだ。

長門市駅近くの正明市で国道316号線に入る。ちなみに正明市とは長門市の開業当時の駅名であるが、元々は美祢線の延伸によりできた駅である。帰りは国道316号線で美祢線沿いに走り、美祢インターから中国自動車道に乗ることにする。

途中、安倍元首相、プーチン大統領の日ロ首脳会談が行われた長門湯本温泉を過ぎる。大谷山荘だったかな。あの当時、成果はともかくとしてロシアともいろいろ会談が行われ、諸問題に対して何とかならないか模索はしていたと思う。ただ現状を見ると・・(いや、これ以上はやめておこう)。

この区間は特に難所というところはなく順調に美祢市に入り、中国道に乗る。クルマ移動ということもあり、入ってすぐの美東サービスエリアにて土産物の購入である。鹿や猪といったジビエ加工品もあり、珍しいので買って帰る。その後いただいたが、ソーセージなども結構美味かった。

中国四十九薬師めぐりだが、これで山口県は萩にある第33番・円政寺のみとなった。順番で行けば萩への観光を兼ねて次に訪ねるところだが、実は後日、ここを飛ばして先に島根県に入り、第34番、第35番と回った。それは、冬に入る前の11月下旬に先に行っておこうというのと、その地ならではのイベントに絡めてのことである。記事になるのはかなり後のことだが、こちらはこちらで少しずつ進めることである・・・。

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第20回中国四十九薬師めぐり~第32番「向徳寺」(油谷湾をのぞむ楊貴妃の里)

2022年11月19日 | 中国四十九薬師

11月3日、中国四十九薬師めぐりは国道191号線・北浦街道を進む。

山陰線の阿川駅近くに「阿川ほうせんぐり海浜公園」がある。「ほうせんぐり」とはどういう意味かと思うが、砂浜の奥に穏やかな色の海が広がっている。夏は海水浴で賑わうことだろう。先ほどの角島大橋近辺もそうだが、響灘の海がきれいなのは水質なのか、海底の地質なのか。

ようやく下関市を抜けて長門市に入る。対岸に、向徳寺のある油谷半島が見える。地図によると半島の先端に近いほうにあるため、ぐるり回ってもまだまだ距離がありそうだ。

油谷半島に入り、丘の上に県道が続く。途中の案内標識には「川尻岬」と「楊貴妃の里」の文字が目立つ。

やがて小さな漁港が見え、県道はぐるりと回り込む。ちょうど「楊貴妃の里」がある二尊院が向かいにある。後から行ってみよう。

向徳寺に到着。境内の入口に差し掛かる。なお今回はクルマで来たが、本数は少ないものの長門市駅、センザキッチン方面を結ぶ路線バスもこの門前に停車する。ちょうどここからも油谷湾を見下ろすことができる。

向徳寺が開かれたのは江戸時代の初めで、長門市の大寧寺の鉄村玄鷲により開かれ、当時は向津庵という名前だった。明治時代に海徳寺と合併して向徳庵、そして昭和になって向徳寺に改称された。

山門をくぐると正面にデンと本堂が構えており、扉に手をかけると開いたので中に入る。すぐ前にセルフ式の朱印と、前後の札所の案内図が置かれている。

禅寺ということで本尊は釈迦如来で、薬師如来は隣の間に祀られている。江戸中期に別の寺から移されたそうだ。こちらでお勤めとする。

棟続きで納骨堂があるようで、お勤めをしているとちょうど寺の方か、あるいはお参りに来ていたかと思しきご老人がそちらから本堂にやって来た。「まだまだ暑いですね」と言われる。11月に入ったが、日中はまだまだ暖かい日が続いている。

境内はあじさいのスポットとして知られているそうだが、この時季は庭に特に見るものはなく、そのまま寺を後にする。

漁港を回り込んで、「楊貴妃の里」と名乗る二尊院に向かう。裏手の駐車場から境内に入ると、楊貴妃と玄宗皇帝の出会いの場である長安の華清池をモチーフにした小さな池(画像ではわかりにくいが、ハート型の掘られている)や、中国風の屋根を乗せた東屋がある。

小さな本堂の前に楊貴妃の石像がある。

二尊院は平安時代初期に伝教大師最澄により開かれたとされるが、現在では楊貴妃の伝説で知られている。楊貴妃は安禄山の乱により絞殺されたとなっているが、実はそこでは亡くならず、海を渡って日本に逃れたという伝説が昔からあったようだ。

楊貴妃の霊が夢枕に立ったことで玄宗皇帝は楊貴妃が亡くなったことを知り、阿弥陀如来、釈迦如来の二尊像を持たせた使者を派遣した。ただ、使者は楊貴妃がどこに漂着したかわからなかったので、京都の清凉寺に二尊像を預けて帰国した。その後、漂着したのが長門のこの地であることが分かったが、清凉寺は二尊像を手放すのが惜しくなり、同じ仏像を作らせてここで祀ることにした。

本堂でお勤めとする。幟には「南無楊貴妃大明神」とある。何でも大明神にしてしまうのが日本らしい景色である。

その後、楊貴妃の墓とされる場所に行ってみる。ちょうど油谷湾を見やる場所に建てられており、楊貴妃と侍女の墓が並んでいる。現在は婦人病封じ、安産、子育て、縁結びのご利益を求めてお参りする人も多いようで、楊貴妃を描いた絵馬も多数奉納されている。

この地は向津具(むかつく)と呼ばれ、また唐渡口という地名でもある。長門の国は古くから朝鮮半島、中国大陸とのつながりがあったとされており、仮に楊貴妃が東の海に逃れたとして、まったく当てずっぽうに漂着したわけでもないと考えられている。

こういう景色を眺めながら余生を過ごしたのかな。

これで中国四十九薬師めぐりとしては目的地に着いたことで、そろそろ帰途につくことにする。ただ、ここまで来たのだから元乃隅稲成神社に行ってみよう・・・。

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第20回中国四十九薬師めぐり~響灘を望む稲荷神社と角島大橋

2022年11月18日 | 中国四十九薬師

11月3日、下関駅前から国道191号線がスタートする。ここから響灘に沿って下関から長門市を目指す。前回の広島勤務時も、国道191号線をひたすら走ったことがあるのだが、その時とは様子もずいぶん変わっているだろう。

まずは商店やビルが並ぶ中心部を走るが、そこを抜けると新たに下関北バイパスができており、山陰線の安岡駅近くまで続く。

この先は鮮やかな色の響灘が続く区間もあり、思わず下車してしばらく潮風にも吹かれてみる。並走する山陰線の観光列車「○○のはなし」でも途中海の眺めがよいポイントで運転停車するが、国道はより海岸に近いところを行く。国道191号線の山口県西部の区間は「西長門ブルーライン」の愛称もある。青い空、青い海・・。

景色がきれいなのはいいが、ずっと下道を走って来たために、下関を出た時点ですでに10時半を過ぎており、かつ、山口県の最西部の国道を走り続けている。目的地の油谷半島に着くのは何時頃になりそうだろうか・・。まあ、こうしたこともやっているから、今回の中国四十九薬師めぐりも1回で1ヶ所だけ回るという、相変わらずの効率悪い札所めぐりになっているのだが。だいたい、第32番に着くのに「第20回」っていったい・・・。

瓦そばで知られる川棚温泉や、下関からの山陰線の列車の多くが折り返しとなる小串を過ぎる。その先、前方の高台に赤い鳥居が連なっているのを見る。長門地方で赤い鳥居が連なるスポットといえば、この先の元乃隅稲成神社が有名で、中国四十九薬師の向徳寺の後に立ち寄る予定にしているのだが、ここにも同じような稲荷神社があるようだ。

そこに現れたのが、福徳稲荷神社の看板。そういえば、仕事の関係で山口の人と話をした時に、その人が県内でおすすめの寺社だとしてこの神社が挙がっていたのを思い出す。彼が言うには、元乃隅稲成神社はごく最近のインスタ映えのおかげで有名になっただけで、神社の「格」としては福徳稲荷神社のほうがよほど上なのだとか・・。

クルマは急斜面を上り、境内の駐車場に入る。稲荷神社らしく朱塗りがベースで、社殿も堂々としたものである。ちょうど鳥居から振り返ると響灘の景色を眺めることができる。

この地には第12代の景行天皇が訪ねたことがあり、景色の美しさに魅入って時が経つのを忘れてしまったという言い伝えがある。その頃にはすでに神が祀られていたそうだが、福徳稲荷神社として現在地に設けられたのは1970年代のことだという。また、現在の形に整備されたのは平成になってからだそうだ。

鳥居の真下、そして拝殿の正面に「撮影禁止」の札がある。建物自体が撮影禁止というわけではなく、その場所での撮影がNGということのようだ。ちょうど神様の通り道に当たるし、例えば社殿を真後ろにして記念撮影するとは、神様に尻を向けているから失礼・・というそうで、なるほどそれも一理あると思う。

ちょうどこの日は行事に当たっていたようで、拝殿内では儀式が執り行われていた。

さて、先ほど国道から見えたのは千本鳥居である。伏見稲荷大社を思い出す。ここを下ると響灘を見下ろす祠があるとのことで行ってみる。鳥居には順番に番号が振られており、ずっとたどると970番台まで確認できた。正味千本といっていいだろう。

この先端に建つ谷川稲荷からの眺めも良い。国道191号線の奥に山陰線の線路も走っている。響灘沿いということで、乗った時は海の方に目が向いていたはずで、山側にあるこの稲荷神社の存在に気づいていなかった。クルマで来たからこそのスポットだが、なるほど、山口の彼が薦めるだけのことはある。今度会った時、福徳稲荷神社に行ったことを報告しよう。

さらに響灘沿いに進む。この辺りは「北浦街道」の通称があり、人気の道の駅もある。立ち寄ってもよかったが、駐車場待ちの渋滞が国道の分岐点まで伸びている。

次に向かうのは角島大橋。こちらも元乃隅稲成神社と並んで北長門の人気スポットで、クルマのCMのロケ地になったことで注目されている。日本にもこうしたスポットがあるものだ。ここに来るのは初めて。ちなみに公共交通機関だと山陰線の滝部からバスで行くことができるが、本数は限られている。

大橋の本土側のたもとには展望公園が整備されており、売店もある。駐車場も常にクルマが出入りしている。幸い、ほとんど待つことなく無事に駐車できた。

さすが晴れの特異日である。実際に橋を渡るクルマも多いのだが、中にはゆっくり楽しもうとわざと速度を落として走るクルマもいる。

展望台に上がってみる。こちらからだと、海の鮮やかさをより感じることができる。年配の団体客もカップルも一人ドライバーもこの景色に魅入っている。

これが山口県、それも日本海というのが意外である(冬の荒天の時に来るとまた違った景色なのだろうが・・・)。それにしても、こういう色合いというのは何が作用すれば現れるものだろうか・・。

本来なら角島大橋をクルマで走って、この海をさまざまな角度から楽しむところなのだが、何せ時間が押し気味である。目的地である油谷半島へはまだまだ距離がある・・・。

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第20回中国四十九薬師めぐり~下関から山陰へ回ろう

2022年11月17日 | 中国四十九薬師

場面は変わって中国四十九薬師めぐり。

前回、10月10日に下関の第31番・東光寺を訪ね、ようやく山陽側の札所を回り終えた。そして次は長門市にある第32番・向徳寺である。いよいよ、札所めぐりは後半の山陰側に移る。札所は全部で49ヶ所だから山陰側のほうが数は少ないのだが、まだまだ難所も控えている。もう少し、時間がかかりそうだ。

第32番・向徳寺の次、第33番・円政寺は萩の武家屋敷群の中にある。当初は、2ヶ所を一度に回ろうかと考えていた。向徳寺へのアクセスが公共交通機関では不便なので、クルマで下関からぐるりと日本海沿いにたどることを考える。ただ、2ヶ所を一度に回るとなると日帰りでは厳しい感じだ。ならば長門または萩での宿泊も考えたが、泊まりたいと思わせる手ごろな宿泊施設がなかった。まあ、お金を積めば名湯・長門湯本で1泊は可能なのだが・・。

一応、中国四十九薬師めぐりでの中国一周のルートは、「○○のはなし」に乗ったことで東萩まではつながっていることもあり、今回は長門の向徳寺はマイカーで目指すことにして、萩の円政寺は別の機会とした。そのぶん、円政寺については萩の町並み見物とも組み合わせたいし、山口県内のローカル線とも絡めてみたい。

ということで、広島からいったん下関まで行き、国道191号線を基本として長門市まで行き、油谷半島にある向徳寺を目指す。そして、クルマで移動するメリットを活かして北長門の人気スポットもたどってみよう。昨今インスタ映えのスポットとして人気の角島大橋、元乃隅稲成神社にも行くことにする。

そして、まずは下関を目指すのだが、国道2号線をベースにひた走ることにする。ふと、山陽線の鈍行乗り継ぎとどちらが早く着くか競争してみようという気になった。JR最寄りの西広島の始発は6時ちょうどで、岩国乗り換えで6時44分発の下関行きは、10時01分に下関に到着する。「下道」を走ることでどのくらいの時間で着くか。感覚的には同じくらいの所要時間だと思うが・・。

11月3日、文化の日。晴れの特異日である。

本来なら西広島駅のロータリーを6時ちょうどに出発すべきなのだろうが、支度でドタバタしたために自宅を6時ちょうどに出発した。まあ、近くの高須踏切では警報音が鳴っていたので、ほぼ同時スタートとしていいだろう。まだこの時点では夜が明けていない。

後は、列車ダイヤと国道2号線の勝負である。西広島バイパスの効果もあり、宮島口まではクルマがリードしていたが、その後岩国着までの間に山陽線が逆転した。

山陽線の下関行きが岩国を発車した10分あまり後にクルマは岩国駅近くの国道2号線と国道188号線の分岐にたどり、その後は国道2号線から県道15号線、欽明路道路を走る。JRの山陽線は柳井経由で南へ遠回りするが、欽明路ルートは徳山までショートカットする。

途中、並走する岩徳線の列車を追い越す場面もあった。

ショートカットしたので徳山近辺では列車を逆転した。その後は列車、クルマともに同じようなペースで走る。国道も信号待ちの時間がそれほどないところだし、列車も途中各駅に停まるが駅間距離が長い分スピードも出す。新山口時点でもほぼ同時刻のペースでそれぞれ走っている。

国道は防府バイパス、小郡バイパス、再び一般道、厚狭埴生バイパス、小月バイパスと続き、長府までは数分クルマのほうが早く到達した。ここで山陽線は山側に入り新下関、幡生と経由し、クルマは周防灘沿いに壇ノ浦を経由する。ただ、ここでクルマのペースが落ち、ちょうど関門橋を遠くに見るところで10時01分、山陽線の列車が下関に着く時刻を迎えた。

下関駅への到達は山陽線に軍配があがったが、こちらは関門橋を見上げる壇ノ浦古戦場に着き、関門人道トンネルの駐車場にクルマを停める。下関駅へは列車の勝ち、下関駅から関門海峡の観光スポットへはクルマの勝ち・・ということで、この勝負、引き分けということでいいだろう・・。

さて、壇ノ浦である。今回は関門人道トンネルで九州へ・・とはせず、このまま周防灘から響灘に回って山陰側を目指すが、自宅を出てから休憩なしで来たのでここでしばらく休む。。

源義経、平知盛の像が出迎える。前回の中国四十九薬師めぐりでは、下関の唐戸市場まで来たが関門橋は遠かった。

関門人道トンネル入口横に売店があり、朝食も早い時間だったので、こちらであご出汁のうどんをいただく。この辺りまで来ると味付けも九州にかなり寄って来る。

唐戸市場と関門橋の間にある赤間神宮や春帆楼(日清講和記念館)は結局通過して、下関駅前に到着。ここから国道191号線に入り、ようやく山陰側に入る。時刻は10時半を回っており、この先あちこち立ち寄る時間が取れるかどうか・・・。

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第13回九州西国霊場めぐり~香椎宮に参詣、そしてご利益は「日本一」!!

2022年11月16日 | 九州西国霊場

10月30日、鎮国寺、宗像大社でパワーをいただいた東郷から香椎まで戻り、今回最後の目的地である香椎宮に向かう。

当初のプランでは夕方まで福岡近辺を回る予定にしており、最初に元寇防塁を見学したこともあって元寇の激戦地の一つだった海の中道や志賀島、筥崎宮にも行こうかと思っていた。ただ、この日はもつれにもつれた日本シリーズの第7戦が行われる。この試合に勝てばバファローズの日本一が決まるということで、試合開始までには帰宅してテレビ桟敷で観戦とする。

香椎宮を取ったのは歴史ある神社ということもあるし、先ほどの宗像大社もそうなのだが、小倉~博多間の鹿児島線は何度も乗っているが、沿線のどこかに訪ねたことがほとんどなかったということもある。志賀島にはだいぶ昔に訪ねたが香椎宮には参詣したことがなかった。

香椎宮へのアクセスだが、鹿児島線の香椎からだと少し遠いが徒歩圏内だし、西鉄には前日レンタカーを返却した香椎宮前もある(さらに離れているが、西鉄でもアクセスできるというアピールだろう)。その中で最寄りの駅となると、香椎線で1駅乗った香椎神宮である。ちょうど香椎線の13時17分の宇美行き「DENCHA」が出発を待っている。

1駅3分、香椎神宮に到着する。JRになってから開かれた駅だそうで、ホーム1本だけの簡易な造りだが、それなりの数の利用はありそうだ。その一方で、天神に直通する路線バスも出ている。

駅から3分ほどで鳥居の前に出る。先ほどの宗像大社とはまた違った趣である。こちらも七五三のお参りの家族連れがちらほらといる。

香椎宮の祭神は仲哀天皇、神功皇后である。この二人は夫婦だが、仲哀天皇は熊襲討伐のため遠征した筑紫にて亡くなり、その霊を祀るために神功皇后みずから香椎に祠が建てたという。奈良時代に仲哀天皇、神功皇后の霊廟として整えられ、平安時代頃からは神社としての扱いになったという。また、二人の間の子が応神天皇で、八幡宮の祭神であることから、この三者全て合わせると、国家安寧、世界平和、家運隆昌、子授け、安産、厄除け、交通安全、武運長久・・・と、何でもありである。現在にいたるまで信仰を集めるのもうなずける。

拝殿にて手を合わせる。ちょうど本殿は改装工事中だった。

また、境内には武内神社がある。仲哀天皇、神功皇后、応神天皇も含む何代もの天皇に仕えた武内宿禰が祭神である。記紀の記述によると武内宿禰は300歳近くまで生きたとあり、そのために不老の神として信仰されている。まあ、この300歳というのも神話の世界で、実際はどうかわからないが、ひょっとしたら複数の人物がしこ名のように「○代目武内宿禰」という形で代々仕えたとかいうことがあったのかもしれない。

境内に「ugiihsak」と書かれた看板が目につく。うぎいさく? うぎいしゃく? どう読むのかわからないが、境内でアートに関するイベントが行われている。改めて文字を見ると、「kashiigu(香椎宮)」を逆に並べたものと気づく。

メイン会場が勅使殿で、鑑賞無料ということでのぞいてみる。

和室、洋室、浴場を舞台として、空間を利用した作品が並ぶ。香椎宮近辺の風情をモチーフとしたものもある。ただ、これのよさをどう評価すればよいのか、おっさんの感性ではついていくのが難しい。入場時にアンケート用紙を渡されて感想を求められたが、地域の盛り上がりについては肯定したものの、作品に関する設問には答えることができなかった。

また、屋外展示では絵馬殿や武内神社下の森をセットにした作品もある。丸太に腰かけて鑑賞するのがお勧めだとか。ちょうど日が差し込んでおり、風も心地よい。

香椎宮を後にする。少し待てば香椎線の列車がやって来るようで、再び香椎神宮駅に戻り、1駅乗って香椎に戻る。

今回の九州西国霊場めぐりはこれでおしまいとして、そのまま博多に移動する。

博多から乗り込んだのは予定より3時間前倒しで博多駅から15時07分発「こだま856号」である。車内では遅い昼食とおやつを兼ねて、毎度購入の鳥栖の「焼麦」をあてに一献だ・・。

九州西国は残り2ヶ所で、第32番は祗園にある龍宮寺、そして第33番、大宰府跡に隣接する観世音寺で結願となる。次でいよいよ一つの札所めぐりが完結できそうだ。

無事、日本シリーズ第7戦の試合開始に間に合う時間に帰宅した。そして試合はまたも接戦となったが、5対4でバファローズが勝利、見事に日本一を勝ち取った。場所が福岡というのはさておき、さまざまな神様仏様がご利益を授けてくれたのかなとも思う・・・。

さて、ここからは記事アップ時の余談だが、ライオンズでFA宣言した森選手のバファローズ入団が決まった。宣言当初からバファローズ移籍が有力視されていたので、まあ、正式に決まったかという感じである。チームが強くなれば、こうして移籍先として選択する選手も出てくるものである。期待が大きい反面、これまでのチームのムードが崩れないか、また誰かが人的補償で出ることになるなとちょっと複雑な気持ちもあるが、そこは本人も含めて大人同士、プロなのだからうまくやってくれるだろう・・と思いたい。

あ、でも福岡県内の寺社としては、来季こそはホークスのV奪回にこそご利益を授けるべく頑張るのだろうな・・・。

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第13回九州西国霊場めぐり~宗像大社・辺津宮へ参拝

2022年11月15日 | 九州西国霊場

10月30日、鎮国寺の参詣を終えて宗像大社に向かうが、その前に手前にある「海の道むなかた館」に立ち寄る。道の駅とは趣が異なり、宗像の世界遺産に関する紹介がメインである。

世界遺産の登録証が誇らしげに掲げられている。

これから参拝する宗像大社は、正しくはその一つである辺津宮である。海を渡った大島にあるのが中津宮、そして九州本土からおよそ60キロの海上に浮かぶ沖ノ島にある沖津宮と合わせて宗像三社である。中でも沖ノ島は島そのものが御神体とされており、かつては年に一度の大祭の日に限って一般人(ただし男性のみ)が禊を行ったうえで上陸することができたが、世界遺産登録後は宗像大社が特別に許可した者以外は立ち入れないことになったという。世界遺産に登録されると多くの観光客が訪ねて地域が活性化して・・という狙いもあったかもしれないが、沖ノ島についてはそれを危惧して逆に上陸を厳しくし、島を保護する方針を取っている。軍艦島と同じようなものかな。

「海の駅むなかた館」では、その沖ノ島についても上空からの映像や、ところどころではCGによる再現も使いながら、かつて祭祀が行われ、今に残る遺跡について大画面で紹介してくれる。

また、沖ノ島はその位置条件や、古来から「神宿る島」として人工的なものが入ることがほとんどなかったことから、自然がそのまま残されている。そのために動植物も独自の種類のものが生息しており、そちらの面でも貴重な場所だという。そして、沖ノ島の遥拝所として大島の中津宮があり、そして九州本土で日常的にお参りできる辺津宮がある。

宗像大社は天照大神から産まれた三女神を祭神としており、辺津宮はイチキシマヒメが祭神とされている。日本最古の神社の一つとされており、神功皇后も三韓征伐の成功を祈ったし、弘法大師も遣唐使の航海の安全を願った。現在も海上・交通安全の神として多くの参拝者が訪れる。ちょうどこの日(10月30日)も七五三の時季ということで、着飾った子どもを連れた家族連れで賑わっていた。

まずは拝殿にて手を合わせる。古来、宗像氏が大宮司を務めていたが、現在の社殿は宗像氏の後に小早川隆景が再建したものという。

順路に沿って、第二宮、第三宮に向かう。それぞれ沖津宮、中津宮の分社とされており、ここに来れば宗像三神を拝んだことになるそうだ。

それにしてもこれらの建物、どこかで見た造りだなと調べてみると、かつて伊勢神宮にあったもので、1973年の式年遷宮の際に宗像大社に贈られたという。伊勢神宮の式年遷宮にあたっては、旧の社殿となった建物もあちこちの神社で再利用されるケースが多いと聞いていたが、実際に見ると風格を感じる。

参道はさらに続き、高宮祭場に着く。社殿が建てられる以前から祭祀が行われていた場所で、現在も遺構として保存されており、現在も大祭の時には儀式が行われるという。辺津宮でもっとも神聖な場所とされており、近年はパワースポットとして訪ねる人が多いという。

神社といってもさまざまなスタイルがあり、ところによっては巨大な鳥居や社殿で参拝者を圧倒させる感じの神社もあるが、宗像大社については草木や岩などに神が宿る自然崇拝の色合いが強いように思う。

最後に神宝館に向かう。沖ノ島の古代の祭祀遺跡からの出土品はこちらで保存展示されている。沖ノ島には行けないが、こちらに来るだけでもその歴史は十分学べそうだ。まずはエントランスで沖ノ島の信仰と自然についての映像を見る。

沖ノ島で出土したものは約8万点に上り、それらがすべて国宝に指定されているそうだ。国宝8万点とはすごいが、現在の全国の国宝の数を見るともっと少ない。時代により国宝の定義も異なるし、ひょっとしたら沖ノ島関連はひとまとめにして国宝になっているのかもしれないが、いずれにしても貴重なものには間違いない。そのくせ、意外にも館内展示物の撮影はOKだという。

沖ノ島で祭祀が行われるようになったのは古墳時代、4世紀後半とされている。前日訪ねた「伊都国」より時代は下るが、日本と朝鮮半島の交流が盛んになった時代背景もあり、その経路上にあった沖ノ島の巨岩の上で祭祀が行われた。時代が下るにつれて少しずつ緩やかな場所に移ったが、9世紀末頃までは祭祀が行われていたとされる。大和~奈良~平安と時代が移り変わる中、朝廷の力があった年代と重なることである。また、9世紀末といえば「白紙(894)に戻す遣唐使」にもあるように、遣唐使が廃止され、日本国内も内向きになった頃と重なる。

朝廷の影響は少なくなったが、それ以降も沖ノ島では神事が続けられており、宗像大社の信仰も受け継がれた。そして、世界遺産への登録である。

館内では企画展として唐津焼の展示が行われていた。

これで宗像大社・辺津宮の参詣を終えて、バスで東郷駅に戻ることにする。ただ、昼間はバスの本数も限られていて、宗像大社前12時17分発の便まで30分ほど待つことになった。しばらく、境内のベンチにて日向ぼっこだ。

帰りのバスに乗り、東郷駅に到着。この日も昼食抜きとなるが、快速にて香椎に戻る。広島に戻る前にもう1ヶ所、駅舎のイメージにもなった香椎宮に参詣することに・・・。

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