まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第28番「光明寺」~新西国三十三所めぐり・19(中国ハイウェイバス)

2016年10月30日 | 新西国三十三所
10月も末となり、日中の最高気温もようやく25度を下回り朝夜も冷え込むようになってきた。紅葉はまだまだ先であるが、秋もそろそろ本番といったところである(日本シリーズも終わったことだし・・)。

30日は、四国八十八所めぐりの陰に隠れた形になったが、およそ2ヶ月ぶりの新西国三十三所めぐりである。前回、高野山の宝亀院でのくじ引きとサイコロで出たのは、兵庫は加東市にある第28番の光明寺である。客番5ヶ所を入れて全部で38ヶ所あるこの札所めぐり、今回が19ヶ所目ということで、今年1月から始めてちょうど半分まで来た。

こちらの光明寺へのアクセスは、JR加古川線の滝野駅から徒歩である。地図で見ると駅からの距離はそれほどないように思うが、案内によっては徒歩30分としたものもあれば、徒歩50分と書かれたものもある。五峰山(ごぶさん)の中腹にあるということで、また西国、新西国につきものの山歩きのようである。クルマの場合も途中の駐車場までしか行けないそうだ。

私の札所めぐりの楽しみの一つに「どうやってアクセスするか」というのがある。加古川線となると日帰りで出かけるのにはちょうどいい距離である。加古川線は山陽線の加古川と福知山線の谷川を結ぶ路線であるが、滝野はそのほぼ中間点にある駅である。そうなると、加古川から北上するか、谷川から南下するかの選択肢が出てくる。大阪近郊区間内なのでどちらから行っても運賃は同じなのだが、加古川から行けば、西脇市までのICカード利用可能区間である。また一方で、谷川からだとICカードの使えない区間を通るために、全体で使用することができない。ローカル線を行き、滅多に乗る機会がないのであれば、少ない本数の時間に合わせて行動することも考えられる。以前、福崎の金剛城寺に行く時に、一旦福知山経由で和田山まで上がり、そこから播但線の気動車と電車を乗り継いで福崎まで行ったこともある。加古川線はそれを一回り小さくしたようなものだ。

そんな中でJRの時刻表と地図を見ていると、ふと「いつもと違った方法で行こう」という気になった。それが中国ハイウェイバスである。

中国自動車道を走るハイウェイバスは大阪駅から津山駅行きの路線がメインであるが、沿線の町に行く路線もある。その一つが西脇行き。これが、滝野社インターまで中国自動車道を走った後、加古川線沿いに走り西脇の中心部まで行く。これが、滝野駅のすぐ近くを通る。このルートで行くと、大阪駅から滝野駅までおよそ1時間半、1280円ということで、加古川線を走るより速くて安い。事前に高速バスのサイトやコンビニで座席予約もできるし、当日でも空席があれば乗ることができる。運賃も最近はICカードで払うこともできる。この辺りの人が大阪に行くのは高速バスがメインなのだろうなと思う。

ということで、大阪駅を8時に出発する西脇行きに乗ることにする。乗車券は事前にネットで予約し、コンビニで発券しておいた。7時50分すぎにバスが入ってきて乗り込む。他の乗客もほとんどいない状況だが、窓際に割り当てられた私の横の席に先客がいる。その人は「こないガラガラやのに、何でやろうね」と笑って、通路を隔てた反対側に席を移す。時期的なものもあるのかもしれないが、直前に乗り込んで来た客には運転手も「空いているところにおかけください」と案内していたし、かえって事前にネット予約をすると固まって発券されるのかもしれない。この辺り、他の都市を結ぶ高速バスとは違った位置づけなのかな。

前に停まっていた津山行きと同時に発車。まずは新御堂筋から新大阪駅に停車。ここでも乗車がある。おばさま二人連れが乗って来て、「西脇のロイヤルホテル前という停留所があるんですか?」「西脇の2つほど手前にあるらしいんですが」と運転手に尋ねる。運転手は「ロイヤルホテル前というバス停はないですね・・・私も、ホテルの名前は知らないので」と要領を得ない。すると、先ほど私の隣にいた男性客が、「ロイヤルホテルやったら、西脇で降りたらよろしいですよ。西脇にホテルは一つしかありまへんわ」と助け舟を出す。私もスマホで見ると、何のことはない、バス停のあるアピカ西脇とロイヤルホテルは隣接する建物である。おばさまの訊き方もあいまいだったのかもしれないが、運転手も初めてではあるまいし、バス停の目印くらい案内できないかなと思う。

この後千里ニュータウン(桃山台駅前)を経由して、池田から中国道に入る。この時間はクルマの量はそれなりにあるが渋滞もなくスムーズに行く。途中のインターやバス停からも乗ってくる客もいる。まあ行きはいいとして、夕方に西のほうから大阪に向かうとなると絶対10キロ以上渋滞する区間である(日曜のゴルフ帰りで何回も経験しているので)。帰りのバスの定時性は怪しそうで、今回のやり方も帰りは通じないだろうなと思う。

滝野社で中国道を下り、インターのバス停に着く。ちょうど大阪駅行きのバスも停まっており、あちらはここから乗り込む人が大勢いる。やはりそれなりの需要はあるものだ。

滝野社インターから数分走り、加古川に架かる橋を渡った後、9時27分の定刻に滝野バス停に到着。滝野駅へは歩いて5分ほど戻る形になる。

駅前に続く道の角にロデオ像がある。現在この辺りは平成の大合併で加東市となっているが、その前は滝野町であった。この滝野町がアメリカ・カリフォルニア州のホリスター市と姉妹都市提携を結んでおり(現在は加東市に継承)、その記念に贈呈されたものだという。ホリスター市というのはカウボーイの町だそうだが、滝野町とどういうところで意気投合したのやら。

滝野駅に到着。昔は線路が2本あったと思われる跡もあるが、駅舎やホームは比較的新しい感じである。次に加古川方面から来るのは9時51分の列車で、大阪を同じ8時に出発すると、滝野駅に着くのはこの列車となる。高速バス利用で20分ほど早く着いたことになる。今回、20分早く着いたところで誰かが待っているわけでもないし、自分が勝手に歩くだけなのだが、この辺りの交通事情を体験するという意味ではよかったのかなと思う。

駅の西側に小高い山がある。これがこれから目指す光明寺のある五峰山である・・・。
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社会人野球日本選手権開幕と合わせて・・・ファイターズが日本シリーズ制覇!

2016年10月29日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
・・・タイトルは、単に前日のものをひっくり返したものということで・・・。

29日は、昼夜と野球で盛り上がったことである。

まず昼は、大正ドームで開幕した社会人野球日本選手権。勤務先企業の出場ということ球場スタッフの一員ということで行っていたのだが、役割分担の配置の関係で、試合開始後はグラウンドに近いところにいた。一般の観客のように応援用のスティックを叩くとか、普段のバファローズ戦のように選手を野次るとか、ましてや観戦のお供にビールを飲むということはできないのだが、そうしたところで接戦を目にすることができた。試合は終盤でようやく挙げた1点を何とか守りきり、初戦突破。ただ次は今大会の優勝候補の一つにも挙げられている、社会人を代表する強豪チームとの対戦だけに厳しいところだが・・・。

そして夜は日本シリーズの第6戦。いろいろとあったが終盤にファイターズがビッグイニングを作り、見事にカープを下しての日本一である。パ・リーグ代表としてあっぱれ。それも広島で決めて、大勢のカープファンを黙らせたのが溜飲が下がる思いである。

前の記事にも書いたのだが、広島は私にとってもつながりがあるところなので、カープに頑張ってほしいところではあった。ただ、シリーズを見るに連れて、複雑な気持ちが出てきたのも確かである。25年ぶりのリーグ優勝は祝福するところだし、広島在住時は「市民球場で日本シリーズを」という思いはずっと持っていた・・・。

一方で、優勝したからかどうか、カープが「与党」のような雰囲気になったことにどこか違和感を持っていたし、全国どこに行っても「カープが日本一になるのが当然」という雰囲気に、その当時のことが思い出されたのも確かである。

広島という街、地元球団なのだからカープを応援するのは当然として、テレビ、ラジオもカープびいきで、それに付随して巨人や阪神についてあれこれ語られるが、パ・リーグというのは全く無視された存在であった。近鉄バファローズのファンというだけで変人扱いされるのは仕方ないとして、広島の人たちが、巨人や阪神をライバル視する一方で、パ・リーグというのはセ・リーグの下部組織、マイナーな存在としてしか見ていないのを感じていた。

思い出されるのは、ある年、広島の居酒屋で飲んでいて、パリーグの優勝争いが決まろうかという試合を珍しく中継するという場面にあった。ただ、テレビを見ていた常連とおぼしき親父が「何じゃパ・リーグか。こんなんどうでもええけえチャンネル変えてえや」と言い、店の大将も「カープじゃないけえ」と言ってチャンネルを変えて、どうでもいいバラエティ番組を流したことがある。広島にあっては、パ・リーグなどプロ野球として認められていないのだなという厳しい現実に遭い、屈辱を感じたものだ。現在のように交流戦もなかったから仕方なかったのかもしれないが・・・。

広島を離れて12年になるが、これまで自分でも気にしていなかったことが、このシリーズの中でふつふつと湧き上がってくるのが自分でも不思議に思った。上記のことを思い出したのもその一つである。このシリーズ中継のテレビもほとんどがカープ目線での放送だったのがきっかけだったのかもしれないが。

・・・まあ、それはさておき、ここまで接戦を展開した両チームには拍手である。そして、その中でパ・リーグ代表として見事に勝利を収めたファイターズにはより大きな拍手。おめでとうございました!
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日本シリーズと合わせて・・・社会人野球日本選手権開幕

2016年10月28日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
第5戦を終えてファイターズが3勝2敗となった日本シリーズ。

今年はカープが久しぶりに優勝し、日本シリーズに出てきたことから、元・広島市民であり、広島系河内人の私としては、カープを応援するものだと思っていた。しかし、いざ開幕してみると、ファイターズの方に肩入れしていた。やはり、パ・リーグのチームに頑張ってほしい気持ちが強かった。広島での連敗ではガックリ来たのだが、札幌での連日のサヨナラ、逆転勝ちには、ファイターズファンではないが喜んだ。またしても広島での試合、どんな結末になるだろうか。

さて、野球といえば秋の風物詩がもう一つある。社会人野球の日本選手権が明日29日から大阪で開幕する。毎日新聞講読者は、期間中スポーツ面2ページぶち抜きで結果が報じられるので、夏の甲子園のように盛り上がる大会だとイメージするのだが、実際はそこまでの人気はない。大正ドームも、バファローズ戦よりもさらに観客は少ない。社会人野球となるとそんなものだろう。

ただ、例年プロの即戦力が輩出されており、試合のレベルもなかなか高い。ドラフト会議で注目の選手も出場する。先日のバファローズのドラフト会議でいえば、東京ガスの山岡、日本生命の小林の両投手、ホンダ鈴鹿の飯田捕手が出場する。こうした選手がどんな活躍を見せるか、また来年以降のドラフト会議で指名されそうなのは誰かというのをチェックするのも、楽しみの一つである。

・・・ちなみに、私の勤務先企業も本大会に出場(残念ながらドラフト指名された選手はいないが)、しかも29日の開幕日に初戦である。またまた球場スタッフということでドームに行くことに。

プロとも高校野球とも違った独特の雰囲気のある社会人野球の日本選手権。このブログをご覧の方の中で、球場に行ってみようという方がいらっしゃれば、各試合の1・3塁側のチーム受付に来てくだされば。チーム応援券を無料で配布しているので、それで入場できる。個人的には、明日の第2試合、1塁側内野席入口に来ていただきたいところです。

スタンドのどこかに、私の姿があるはず・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~3日間の最後は・・・

2016年10月27日 | 四国八十八ヶ所
充実と消化不良がごっちゃになった感じのある今回の四国八十八所めぐり。最終日の10日の昼には徳島駅に戻った。ここから出かけるなら13番の大日寺~15番の国分寺までだが、この歯抜けはまたの機会に埋めることにした。

そうなると、バスの時間である17時まで別にいることもないかなと思う。風も強く汗をかいたという感じでもないので、以前のように駅前のサンルートの「びざんの湯」に入ることもないかな。ということで、また明日から仕事なので早めに帰ろうとする。とはいうものの、高速バスは軒並み満席である。

そこで、帰りも南海フェリーで和歌山に向かうことにした。乗るのは16時半。これだと予約していた高速バスと帰宅時間はさほど変わらないのだが、フェリーだと安く移動できるのと、ゆったり過ごせるメリットがある。フェリーに乗るため、徳島駅発15時半の路線バスに乗ることにする。

そうなると、ともかく昼食である。何にするかという中で徳島ラーメンには目もくれず、向かったのは居酒屋「安兵衛」。徳島で最も人気とされる大衆酒場である。ちなみに初日の夜に訪れた郷土料理の「味祭」は「安兵衛」の隣で、姉妹店である。夜はなかなか一杯で入れないので、昼間に狙いをつけた。まあ、これで今回の打ち上げである。

大きなバッグは朝コインロッカーに入れたままなのでよいが、金剛杖は袋に収めて持ったままで店に入る。店の人にどこかに立てさせてもらえないか尋ねると、カウンター下の荷物入れに寝かせてはどうかと言われる。ここなら忘れることもない。「これって、杖?四国回ってはるんや」と、珍しそうに言われる。確かに、遍路は居酒屋にあまり来ないのかもしれないが、いつぞやの鴨島駅前の居酒屋とはまた違った反応である。これで思い出したが、無事に今回焼山寺への遍路ころがしをクリアしたことで、いつかお礼を言わなければと思う。

中は賑やかで、特にテーブル席で盛り上がっているグループもある。

一応大衆酒場ではあるが、「安兵衛」は大阪の行きつけの店と比べれば若干単価が高いかなという印象である。特に刺身類。一方で鶏肉メニューは良心的価格である。いろいろいただき、しばしゆっくりした時間を送る。地元の人たちの居酒屋を楽しむなら「安兵衛」だが、旅先で徳島らしいものを食べたいなら、お隣「味祭」のほうがいろいろ楽しめる。

食後、もう少し歩く。せっかくなので眉山に行くのもいいかなと思ったが、結局は駅の北側の徳島城跡に向かう。跨線橋の上から気動車がよく見えるのがよい。

ちょうど城内の公園では、現代アートの展示会が行われている。しばらくそれらを見た後に、かつての御殿跡に建つ徳島城博物館に入る。江戸期に阿波を治めた蜂須賀氏に関する紹介や、阿波おどりの歴史などがある。

駅前に戻ると、今や徳島の年中行事として人気らしい「マチ★アソビ」のイベント開催中である。アニメキャラクターのコスプレの人や、戦闘メカの着ぐるみ姿の人もいる。ステージで盛り上がっている歓声も聞こえる。また駅横のアーケード街では、店舗を利用してアニメイラストやフィギュアの展示などされている。楽しそうに歩く人が多いのでイベントとして盛り上がっている様子だが、あくまで私個人の感想としては、ついていけない。これは趣味のことなので人それぞれだし、私がやっていることも人によっては変なヤツ、痛いヤツにしか見えないであろうことは認識している。この空間は長くいたくないなと、足早に通過する。

そんな私、駅に戻りコンコースにある徳島インディゴソックスの案内板には興味を持って見てしまう。この時は、今月20日のNPBドラフト会議での指名を期待するもので、インディゴソックスにも何人か候補選手がいる。当日はパブリックビューイングもやるそうだ。ちなみに、この旅の後、20日に行われたドラフト会議では、エース格の福永投手が阪神から本指名、抑えの木下投手が中日から育成指名となった。他に四国アイランドリーグでは、巨人の育成で香川の中軸・松澤選手が指名となった。これからの活躍を期待したい。

そろそろ南海フェリー行きのバスの時間となり、満員で出発。待合室にはすでに結構多くの客がいる。中には四国八十八所めぐりの白衣をそのままつけたグループもいる。見た感じ、四国ではマイクロバスか貸切タクシーで移動しているのではと思う(だからと言ってどうというものではない)。

和歌山からの便が来て、折り返しの乗船となる。行きは桟敷席に横になりながらだったが、帰りは最初から甲板のベンチ席に向かう。乗船の様子だと船室内は満員だろうし、帰りは潮風と夕陽を受けようかなと。

風が強く、甲板は寒いくらいだが、その分空気が澄んでいる。写真では上手く表現できないのだが、離れていく徳島市街や眉山のシルエットはよく見えるし、進行左手の淡路島の島影もいい形だ。

そして日暮れ。フェリーが離れる四国の地と重なるように沈んでいく。これだけ長く、ゆっくりと日の入りを見たのはいつ以来かなと思ってみる。

まだ夕陽の余韻が残る中、前方は灯った風情の和歌山港。無事に到着して、大勢の客とともに南海和歌山港駅に向かう。18時半すぎだが、休日ダイヤでは特急サザンは運転しておらず、2両の普通列車である。これが満員で和歌山市駅に着き、ここで始発のサザンに乗る。休日の夕方、人の流れは徳島から和歌山、大阪なのではないかと思うが、そんなおいしい時間に特急を走らせないのはなぜかなと思う。

帰りの南海電車は何事もなく走り、大阪まで戻ってきた。ともかく、長い3日間であった・・・。

これで四国八十八所めぐりは19番まで進んだが、途中3ヶ所が穴あきなので実際は16ヶ所である。徳島県も残り7ヶ所である。当初、別に急がないという気持ちでいたが、四国まで何度も往復するうちに、何とかこの年末年始も使って、徳島は終わらせたいなという思いもある。これからもどのように計画を立てるか、どのようにアクセスするかが考えどころである・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~第19番「立江寺」

2016年10月26日 | 四国八十八ヶ所
恩山寺の下にある牛舎の脇を抜ける。両側が竹藪になっているが、竹も高く伸び放題である。この日は風があり、竹藪が風に揺れると葉がザワザワする以上に幹同士がカタカタぶつかる音がする。

この弦巻坂も義経ドリームロードの一部である。義経が小松島に上陸して恩山寺の方向に向かう際、最初は平氏側の軍勢が峠の向こうにいることを警戒して弓の弦を張らせたのだが、峠を越えて敵がいないのを確認したので、張った弓の弦を巻かせたという。このために弦巻坂という名前がついた。恩山寺から歩くとまず弦巻坂を登ることになり、峠を越えて下りになると、今度は弦張坂と名前が変わる。峠といっても山越えの厳しいものではないが、ちょっとした丘ぐらいの高低差がある。

弦張坂のほうを下る途中に柑橘類の畑に出る。徳島名産のすだちにしては実の粒があまりにも大きいように思う。これはみかんの木かな。みかんと言えばこの辺りなら愛媛か和歌山であるが、徳島県でも勝浦や小松島辺りでは栽培されているという。この先、昔の遍路道に沿って歩く中で、みかん畑の畦道や民家の庭先を通っていく。すれ違う地元の人から「かんばりや~」と声をかけられる。

県道に出る。ここには文化年間の道標もある。ここからは県道を歩く。普通の住宅も並ぶ。田野地区というところで、義経の軍はここを通って恩山寺や旗山に向かったそうである。

そんな道の途中に突然現れたのが石造りの常夜燈。なぜここにあるのか説明書きがなかったのだが、旧街道の道標なのか、あるいは以前この辺りが海と陸との境界だったのかとか、単に地主の趣味で置いているのか。

石造りといえば、他にも、徳島県に柑橘類の栽培を広めたとしてこれを顕彰する石碑もある。

建設現場の休憩所を、遍路用に開放しているところがある。平日の日中のみとあり、これは建設現場の稼働に合わせたためだろう。その建設現場というのが高速道路で、徳島市街と県南部を結ぶ路線のうち、小松島と阿南の間がまず着工されており、ここはちょうどトンネルができるようだ。これが県内の交通網のサービス向上にどのくらい貢献するかだが、高速道路はいいとしても、鉄道や路線バスはもう少し何とかならなかったのかなという思いもある。

沿道に幟が出て、休憩所という「お京塚」に着く。最近できた感じで、ベンチもありゆったりできそうだが、ここには八十八所めぐりにまつわる伝説があるという。

江戸の後期、大坂で芸妓をしていたお京という女性がいた。ここで要助という男といい仲になり、駆け落ちして故郷の石見に逃げて結婚する。しかしお京はいつしか鍛冶屋の長蔵という男と密通するようになり、挙げ句には長蔵と共謀して要助を殺してしまう。その後、お京は讃岐に逃れてきて四国遍路を始める。そして立江寺まで来たところ、髪の毛が逆立って鐘の緒に巻き付くという事態になった。そこでお京は不義を懺悔し、この地で祈りの日々を過ごし、生涯を終えた。その供養で建てられたのがお京塚という。

かつては殺風景で、ちょっとオカルトも入っていた場所だったそうだが、今は休憩所として整備され、中にはお京の位牌なんかも祀られている。このお京伝説は、四国の遍路でやましいことがある者は立江寺から先には進めないとして、教訓めいたこととして語られているそうだ。不義密通の上に殺人とは、当時としては実に許しがたいことだったのがうかがえる。現代はどうだろうか・・・・。

恩山寺から1時間弱で立江寺の立派な建物に到着する。ここは団体も泊まれる宿坊を備えている。山門をくぐったところで、「すだちのお接待やってます」と、神山町産というすだちを袋詰めにしたものを配っている。連休ということもあり人出も多いようだ。

門を入って手水を使うが、すぐ横に並んで水掛地蔵があり、その柄杓が並んでいる。一瞬間違えそうになる。

敷地はコンパクトだが、本堂は堂々とした造りである。立江寺の歴史は、この辺りのご多分にもれず聖武天皇と行基と長宗我部氏と蜂須賀氏が出てくる。そのうえ、昭和49年に火災で本堂が焼失し、3年後に現在の建物が再建されている。寺全体に新しさを感じるのはこのためである。

ここでお勤め。ここも団体の姿はなく個人がめいめいで般若心経を唱えている。5歳くらいの男の子がいて、動物の着ぐるみ姿ではしゃぎ回っているが、一緒に来たお爺ちゃんが般若心経の経本を読み始めると、一緒に一節を唱えていたのに驚いた。どこまで意味は理解しているかわからないし、いつもお爺ちゃんが家で唱えているのを横で聞いて自然に一種の歌のように覚えているのかもしれないが、子どももこのくらいの年齢での外からの影響は大きいのかなと思う(自分にも思い当たる節があるので)。

大師堂にも行く。この建物も新しい感じだ。ここには「黒衣大師」という札があるが、普段は開帳していないのかよくわからなかった。

納経帳に朱印をいただき、立江寺も終了である。ここからどこかに移動するなら徳島駅行きのバスかJR牟岐線だが、バスのほうは時間が合わないので、とりあえず7~8分歩いて立江駅に向かう。島式ホームのある無人駅だが、この日は風が強く、ホームでじっとしていると冷える。これからの秋~冬の季節に歩いて巡拝する場合、どのような出で立ちで行けばよいか、また考えなければならない。

時刻は11時半。これからどうするか。列車の時間が合えばこの先南下して、先に21番の太龍寺(桑野駅からバス乗り換え、さらにロープウェーにも乗る)、22番の平等寺(桑野の次の新野駅から徒歩30分)のいずれか、あるいは両方に行くことも考えるが、たまたまやって来た列車は桑野や新野より手前の阿南止まり。その先へ行く列車は待ちになる。ならば、徳島に戻って、間が空いている徳島五ヶ所まいりの残り三ヶ所に行くか。ただこの場合も、最も奥の13番大日寺に行くバスの便が悪い。仮にこれで行ったとして、途中の歩きや参詣の時間を重ねると、三ヶ所行くと徳島駅17時15分発の大阪への高速バスに間に合わなくなりそうだ。連休の最終日、高速バスの予約サイトを見ても、午後便はいずれも満席である。高速バスを遅い便に変更することはできなさそうだ。

うーん、「三ヶ所まいり」をさらにコマ切れにして一つ、あるいは二つだけ行こうかとも考えたが、それも中途半端。そこで結局は、まだ午前中にも関わらず、今回の札所めぐりはこれで打ち止めということにする。打ち止めというよりは打ち切りかな。ギブアップはこれで2回目。最初は、第1回の四国めぐりの2日目で、暑さにやられて午前中でギブアップした。ただ今回は計画の拙さによるギブアップである。元をたどれば初日の南海電車の人身事故となるが、あれから2日経っているのだからもう関係ないことである。初めて3日の日程を組んだが、少し消化不良である。別にやましいことがあって立江寺から先に進めなくなったわけではないが・・・。

・・・ならば、最後の午後は白衣を脱いで別の動きをしよう。立江駅のホームで白衣を取り、金剛杖も袋に収める。やって来た徳島行きでともかく徳島駅に向かう・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~第18番「恩山寺」

2016年10月25日 | 四国八十八ヶ所
恩山寺へはバス停から少し坂を上る。朝から歩いている人だろうか、「おはようございます」と一人の巡礼姿の人が私を追い越して行く。

クルマが通るからだろうか、山門は車道から外れた脇道にある。どこかから山道を通ってここに出るようになっており、山門に続く昔ながらの歩道というのは別にあるのだろう。山門の横に3本の木が伸びているが、普通の木とは違って、木肌があらわになっている。弘法大師が植えたとされるビランジュ(毘欄樹)の木である。比較的温暖な地域に生息し、別名をバクチノキ(博打の木)というそうだ。何でも幹の木肌があらわになった様子が、博打に負けて身ぐるみはがされた姿に似ているからだとか。だから、競馬が当たるようにとか、宝くじが当たるようにとかいうお願いごとは、この恩山寺にはあまりしないほうがよいかもしれない?

ビランジュの木を過ぎると、車道と昔ながらの山道が分離する。歩行者は山道を歩いたほうが近道で、上り坂ではあるが5分も歩くと境内の石段前に出る。比較的新しく建立した修行大師像が出迎えてくれる。

元々恩山寺は、聖武天皇の勅願で行基が開創したとされ、戦国時代には長宗我部の兵火で焼かれ、江戸時代には蜂須賀氏の保護を受けたという歴史がある。今回このあたりの札所を回る中で、藤井寺や焼山寺は別として、この同じような歴史が出てくる。弘法大師との関わり度合いが札所で違うというものだろう。中にはいささか「ほんまかいな」と思われるものもあるそうだが、恩山寺には弘法大師の母親孝行の伝説がある。当時密厳寺と呼ばれていたこの寺で修行していた大師を母(玉依御前)が訪ねてくるが、当時は女人禁制だったために中に入ることができない。そこで大師は仁王門に護摩壇を設けて祈祷を行い、女人禁制を解いて母を迎え入れ、孝行を尽くした。母もここで剃髪し、その髪を奉納した。それを記念して、先に触れたビランジュの木を植え、寺の名前も母の恩に報いるためとして「恩山寺」としたという。

当時の考え方として、「女人禁制を解く」というのはどういう意味をなすのだろうか。高野山も女人禁制であり、だからこそ室生寺をはじめとした「女人高野」があるわけで。女人禁制は、護摩を焚いて祈祷を行えば禁制が解けるものなのか(当時、女性は穢れたものという考えがあったとして、それなら祈祷をして穢れを払えば良いではないか・・・というのなら合理的)、あるいは弘法大師の母だから特別に許されたのか。それとも、密厳寺は所詮田舎の寺で高野山ほどの山岳修行の道場ではないから別にかまわないとか。背景はどうだったかわからない。

こちらはまず大師堂が境内の手前にあり、本堂へはさらにミニ地蔵が横にずらりと並ぶ石段を上がる。団体客の姿は見えないが、個人でお参りする巡礼姿の人は結構いる。まずは本堂に向かうと石段を上がる。石段の上から小松島の町が見えるかと思うが、境内の木々にさえぎられて見ることはできない。

石段を下りて、今度は本堂を背にして右側の大師堂に向かう。周りの人を見てもそれぞれの流儀?でお勤めをしているようで、全部の文言を丁寧に言う人もいれば、般若心経だけ早口で唱えてさっさと行く人もいて、それぞれである。この大師堂の横に、弘法大師の母の玉依御前の髪を祀ったとされているお堂もある。

納経所にてこの日最初の朱印をいただく。恩山寺で有名なのは「摺袈裟」というお守りだそうだ。「滅罪生善」といって、いかなる病気も癒え、悪いことが良いことに変わるという効能があるそうだ。摺袈裟というくらいだから、袋から出して輪袈裟のように首からかけるものかなと思ったが、あくまで肌身につけるお守りで、袋から出すものではないという。普段、あちらこちらの寺社に行っているが、お守りやお札というものにはさほど興味がないので「お守りなら別にいいか」として買わなかったのだが、今思えばここでしかないものだというから買い求めてもよかったかなと思う。四国をあちこち回っている方たちのブログなどにも出てきているし、この時も「朱印と摺袈裟をお願いします」と言っていた人もいた。

9時半を過ぎて、次の立江寺に向かう。およそ4キロ、1時間近くの道のりである。立江寺には先ほど乗って来た系統の路線バスで行くこともできるのだが、ここは本数も少なく時間が合わないのと、途中の竹やぶの道が歩きコースとしてお勧めということで歩くことにする。恩山寺のバス停にあった道案内の看板に書かれていたのだが、昔の遍路道を行く場合は恩山寺の下にある牛舎の横を通るようにとある。ただし、牛を刺激するようなことはしないようにと。いろんなところを通らせるものである。

で、牛舎を通ろうとするのだが、正面には犬がいてしじゅう吠えまくっている。あまり気持ちの良いものではないが、この中を行かなければならないのか。リードをつけているのかな・・・と、黒牛を間近に見ながら少しずつ牛舎の間を抜けていくと、中で牛の世話をしていたおじさんから「こっちちゃいますよ~、手前の入口の脇の細い道を通ってな~」と声がかかる。牛舎の手前に竹やぶに入る道がある。とりあえず、番犬の前を通る必要がないのでよいが、それにしてもあの番犬、1日中こうした白いのを着ている見慣れない人間がうろうろしているから、なかなか気の休まることがないだろうな。

これから続く竹やぶの道、その名も「弦巻坂」という・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~義経ドリームロード

2016年10月24日 | 四国八十八ヶ所
3日間の行程にも関わらず、長々と書いているものにお付き合いいただきありがとうございます。

さて3日目最終日となる10月10日、この日は徳島駅17時15分発の高速バスで四国を後にする予定である。当初は、以前の記事にも書いたように初日は先に小松島にある18番の恩山寺、19番の立江寺を回り、2日目は焼山寺、そして最終日である3日目は13番~17番までの徳島五ヶ所参りを回るというものだった。それが初日に列車の人身事故によるダイヤ乱れの影響で、16番の観音寺と17番の井戸寺を回るように変更。前日は予定通り焼山寺に行ったので、残っているのは13番の大日寺、14番の常楽寺、15番の国分寺、そして初日に回れなかった小松島の2ヶ所ということになった。

これはどうするか。時刻表を見ても、エリアの離れた両方を一度に全部回るのは難しそうだ。どちらか片方にするなら、札所の順番を埋めるということで13~15番に行くか、当初その気になっていた小松島に行くか。また、徳島に泊まっているというのをアドバンテージとして、小松島から南の札所に先に行ってしまうということも考えた。ただそれも、小松島は素通りできないし、小松島にプラスして回る・・・となると、そこまでする必要があるのかなとも考える。

結局は、徳島五ヶ所参りの残り三ヶ所はまた日帰りでも来ることができるということで、初日の目的地にしていた小松島に向かうことにした。これだけなら午前中で終わりそうだが、その後をどうするかはまた考えることにする。

徳島駅から恩山寺に向かうには、牟岐線の南小松島駅から歩くという手もあるが、その前にバスで恩山寺前という停留所まで直接行くことができる。始発のバスは7時55分発ということで、朝はゆっくりできる。東横インは無料の朝食がついているのだが(品数はさほど多くないが)、ようやくその恩恵にあずかることができる。ロビーで徳島新聞を読みながらということで、一面は「吉野川市長選挙、川真田氏無投票4選」というもの。前日告示されたものだが現職市長の他に届け出はなく、無投票当選となった。4町村が合併して吉野川市になってからずっと市長を務め、地域の活性化に取り組んでいるようだが、新聞では「選挙権が18歳以上に引き下げられてから初めて若者の声を聞く機会だったのに残念」などと、無投票という結果をマイナスに評価する社説や町の声を展開していた。まあ、市議会もほとんどが町長支持ということで、地方の首長、議会とはそんなもんだろう。だからお隣の阿波市では議会を休んで登山をするような副議長が・・・いや、何でもない。

チェックアウトして、大きな荷物を駅のコインロッカーに入れた後、駅前のバス乗り場。恩山寺へは6番乗り場の萱原行きというのに乗る。このバスは恩山寺前から立江小学校という立江寺最寄りの停留所も経由するので、この2つを回るのには便利である。今回は、恩山寺から立江寺の間は歩く予定である。元々は小松島の市営バスの路線だったのが、徳島バスに運行を委託しているそうだ。

日曜の朝ということで乗客もほとんどいない。まずは徳島の市街地を過ぎ、市の東から南を走って小松島市に入る。小松島と聞いて思い浮かべるのは、かつて走っていた国鉄の小松島線。昭和60年に廃止になったので実際に乗ることはなかったのだが、当時は和歌山からのフェリーも出ていて、関西と四国を結ぶ玄関口の役割も果たしていたのを旅行記や図録で見たことで憶えている。今、旅客の動きは明石海峡大橋~大鳴門橋のルートや、和歌山~徳島間の南海フェリーとなっているが、小松島は港の構造としては徳島よりも規模が大きいため、外航船の入港も可能となっている。また一方で、そうしたハード面以外に、福祉を充実させて住みやすい町づくりにシフトしているという。その象徴といえるのが日赤病院。小松島で最も大きな建物ではないかというくらいである。そしてここが、JR駅よりも小松島の交通の中心となっている。市内および周辺部のバスはここを起点としたり、あるいは経由したりする。テレビ東京系の「路線バスの旅」で、ルート選びに「必ず先につながるバスがある」としてよく総合病院を目指す場面があるが、小松島もそのケースに当てはまるようだ。

8時半、恩山寺前のバス停に到着する。バス停で金剛杖を取り出し、白衣に着替える。今回、半袖の笈摺と長袖の白衣の両方を持ってきており、前の2日は笈摺を着たが、この日は白衣を身に着ける。天気はいいが風が強く、涼しいのを通り越して一瞬「寒い」と思わせる朝である。

さて恩山寺へ・・・というその前に、一旦逆の方向に向かう。5分ほど歩くと小高い丘に出る。旗山といい、その上には八幡神社がある。

その神社の社殿の脇にあるのが、この騎馬像。源義経である。横には源氏の白旗もたなびいている。

源平合戦の一つに屋島の戦いがある。平氏は讃岐の屋島に陣取っていたが、まともに正面から挑んだのでは勝てない。そこで源義経はわずかな軍勢で大時化の中を紀伊水道を渡り、小松島に上陸した。ここから敵の裏をかく形で屋島に移動し、またも奇襲で勝利した。小松島で上陸したのはもう少し南のほうだが、上陸するとこの山に旗を立てて兵の士気を高めたという。

ネットの記事によると、今の小松島市街というのは当時は海だったそうである。この旗山も海に浮かぶ小島だった。ちょうど海に向けて旗を立てるのにはちょうどよい島だったのだろう。丘の上から周りを見ると平野が広がるが、これらは海、もしくは浜だったと言われれば納得できるように思う。

この一帯は、義経が四国に上陸して平氏追討に向けて進んだことから、「義経ドリームロード」としてPRしている。そこはさておき、まずは恩山寺にお参りということで再びバス停のほうに向かう。途中には「義経上陸の地」の石碑もある。目指す寺は、バス停から少し坂道を登ったところにあるようだ・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~神山温泉ですだち三昧

2016年10月23日 | 四国八十八ヶ所
鍋岩の集落から神山高校前を目指して歩く。ここからは完全に県道を歩くが、先ほどまで焼山寺に上っていたクルマが次々と追い越して行く。そして、先ほど停車していた観光バスも追い越して行く。15時を回ったこの時間からだとどうだろうか。次の13番の大日寺も行くのだろうか。

川沿いの道を少し急ぎ足で歩いたためか、神山町の集落が見えてきた。バス停は神山高校前だが、学校は徳島県立城西高校の神山分校である。この城西高校というのも、以前は徳島農業高校と称していたそうである。神山高校前だと16時04分発である。到着したのはその5分前。

バス停の標識があるので、乗り場がここでよいか確認しようと近づく。すると時刻表の様子が何か変だ。貼り紙があり、「10月1日にダイヤ改正」とある。そしてそれを見ると・・・これから乗ろうとする時間のバスはない。何と、15時59分発と書いてある。あらら、行ったばかりか・・・ともう一度よく見ると、その便は土日祝日は運行しておらず、もう1本、15時39分発というのが正解だった。スマホにわざわざ事前に時刻表をダウンロードしていたのだが、10月1日だからほんの少し前に変わっていたとは。おまけに、このダイヤ改正で変わったのは1日の中でこの時間帯だけなのである。ということは、絶対間に合わないバスを目がけて歩いていたわけである。思わず、本塁打を打たれた投手のように、膝に手をついてガックリくる。

ツイていないと言えばそれで済むことかもしれないが、これは公共交通機関で回ろうという者としては、絶対にやってはいけなかったことである。今回の初めのように、人身事故の影響でダイヤが乱れ、プランを練り直さざるを得なくなったのとは違う。まあ今日はお参りを済ませた後で、帰りに温泉に行こうというのだからまだいいが、場合によっては致命的なミスにつながりかねない。早めに予定を立てようと時刻表を早い時点でダウンロードしていたのが裏目に出た。実は他のバス路線についてもダウンロードしていたのだが、これらは一旦削除して、また行く直前に最新版をダウンロードすることにする。

さてどうするか。次のバスはおよそ40分後の16時47分発。ここは神山町の中心部ではあるが特段見るものもなさそうだ。神山温泉まではおよそ2.5キロ。・・・ならば、そこまで歩くか。これは時刻表見間違いのペナルティということで。

それでも、次のバスに乗るより多少早く、目指す神山温泉に到着。ここは日帰り入浴の他にホテルも備えていて、歩いて巡拝する人の中にはここに泊まる人もいるそうだ。とりあえず金剛杖は傘立てに置いてフロントへ。日帰り入浴は600円である。

浴室内の通路が畳というのに驚く。体を洗って湯船に身を沈めると、1日の疲れがじわりと出てくるのを感じる。膝の裏が時折ピリッとしたり、ふくらはぎが張った感じはするが、足にマメができるということもなくやれやれである。ただ一方で、左手親指の付け根が擦りむいている。ずっと左手で金剛杖を握っており、杖の角が当たるところである。これは意外。

当初は入浴をサッと済ませて、温泉前を17時25分に出るバスに乗ろうかとも思ったが、せっかくなのでゆっくりと入浴し、レストランもあるので早めの夕食(というよりは湯上りの一杯)を済ませることにした。となると、18時56分発の最終の徳島駅前行きに乗ることになる。今度はこの10月1日改正の時刻表を見たので間違いない。

大浴槽でのジャグジー、薬草風呂、露天風呂で汗を流した後で、レストランへ。地元の食材を使ったメニューがいろいろあるのだが、期間限定のすだち尽くしの料理があるので、それをいただく。神山町産のしいたけの佃煮をすだちで味付けした「すだちしいたけ」や、あめごの塩焼きにすだちを振りかけてみたり。

その中でメインは「すだちブリ」の刺身。すだちの皮を餌の中に混ぜて養殖したブリで、生臭さが少なく、ビタミンEが豊富に含まれる効果があるのだという。最近四国近辺(広島、大分も含めて)では、養殖のブリやハマチの餌にこのすだちだけでなく、レモン、みかん、かぼすなどを混ぜてそうした効果を引き出しているブランド養殖魚が増えている。山の中でブリ刺とは意外だが、これも徳島の名物ということで美味しくいただく。確かに、脂が濃いというよりは、さっぱりした味になっている。

そして忘れていた。これに合わせるのが「すだちビール」。まずは喉をうるおすということで普通の生ビールをいただいた後で、このすだちビールを注文。座っている位置から用意するところが見えたのだが、「すだちビール」というそういう製品があるわけではなく、まずは普通のビールサーバからビールをジョッキに7分目くらいまで注ぐ。そしてその上にすだちのリキュール(すだち酎かな?)を足す。それをかき混ぜた後、ビールの泡を一足しする。最後にすだちの一片を載せて「お待たせしました」。リキュールの甘さとすだちの香りが、ビールを爽やかなものにしている。

いろいろとあった1日は神山町特産のすだちで癒されるということで、以前の記事でチラッと触れた私の誕生日(10月9日)は思い出深いものとなった。

食後は休憩所でゆったりする。地元の人たちで日帰り温泉は賑わっているし、ホテルのほうも団体の宿泊があったようで満室とのことである。それだけ人気のところなのだろう。そろそろバスの時間と言うことで外に出るが、18時30分を回るともう真っ暗である。おまけに街灯もほとんどなく、少し歩いた先のバス停に行くのすら慎重になる。周りの家の中の照明が頼りである。昼にも聞いた町の防災無線が、暗くなった山の集落に響くのも結構こわい。

バスは18時56分発であるが、特段遅れる要素はないと思うのに定刻には来ない。こうなると「大丈夫かな」と不安である。徳島駅まで戻る最終便だからなおのことだ。5分ほど遅れてバスはやって来た。先に乗っていたのは女性一人だけ。着ているものから見て、先ほど焼山寺からの下りで、中途半端な時間だが下から上って来てすれ違った人のようにも見えるが、間違えていたら失礼だし、別に問い質してどうするということもないからそのまま乗る。もう外は真っ暗で何も見えず、どういうところを走っているのかわからない。今から乗る客もないからか、遅れを取り戻すためか、結構飛ばして走る。温泉に立ち寄り入浴したために周りが見られないのは残念だが、これも仕方ないだろう。

途中、13番大日寺最寄りの一宮札所前や、14番常楽寺前、15番国分寺前など、この先の札所最寄りの停留所を過ぎる。そして前日に訪れた府中(こう)の宮である大御和神社の前を通る。ここまで来ればもう町の中である。乗っていた女性が府中で下車した後は私一人。さすがに国道沿いで、19時半頃ではまだまだ多くのクルマも行き交い、沿道のレストランも家族連れなどで賑わっているようだ。結局徳島駅前に戻ったのは20時。

この日はもうこれで打ち止め、別に今から駅前のどこかに行くつもりもなく、そのまま東横インまで戻る。問題なのが明日の最終日をどうするかである。間で残っている13~15番を埋めるか、今回の目的地の一つだった小松島方面に行くか。スマホであれこれ考えるが結論が出ない。ともかく明日の朝ということで、この日は早めに就寝・・・・。

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第4回四国八十八所めぐり~衛門三郎

2016年10月22日 | 四国八十八ヶ所
焼山寺を14時すぎに出る。ここから鍋岩集落まで下り、町営バスに乗って神山町の寄井中に行き、徳島バスで徳島駅に戻る。焼山寺まで公共交通機関で来るならこのルートだし、クルマで来る場合もこの山道を通る。

先ほどまでのアップダウンに対して、復路はほぼ下りである。上りほどしんどくはないが、下りが続くのもきつい。たまに、左膝の後ろがピリッと来ることがある。3.5キロの距離で標高差は400メートルあるという。

車道をずっと歩くのかと思ったが、石段を下りるとすぐに標識があり、山道へと誘導される。車道を歩くのとどちらがいいかというところだが、クルマを気にしなくてもいいのは気分的には楽である。ジグザグした車道をショートカットするように下る。

車道に出る。結構行き来するクルマが多い。この道はこの先どこかに抜ける主要道でもないから、ほとんどが焼山寺参りだろう。その中にマイクロバスが連なって上ってくる。車内には白装束の人がずらり、巡拝ツアーの人たちである。普通の観光バスではこの坂道は上がれないため、鍋岩でマイクロバスに横持ちするそうだ。なかなかバスツアーも大変である。

この後も山道を下る。ふと気づくと、藤井寺から焼山寺までの上り道には、木にぶら下げられた札、メッセージがほとんどない。道は合っているのだろうが、変な方向に下りていないかと一瞬心配する。それとも、遍路ころがしで気持ちがピークになり、後は惰性で下っていくような道なのか。途中、歩いて登る一人とすれ違う。時間からして、神山町営のバスに乗ってきた人だろうか。

鍋岩までのほぼ中間点でまた車道に出てしばらく歩くと、杉の大木がある。その前で巡拝バスツアーの一団が般若心経を唱えている。杖杉庵(じょうしんあん)というところである。八十八所の札所ではないが、四国巡拝では有名なスポットとされている。

大木とお堂の横に銅像がある。右には僧侶、左には膝まずいて許しを乞うような人の姿。衛門三郎の像とある。四国遍路にはいろいろな伝説が残っているが、この衛門三郎伝説というのは広く知られているそうだ。

その昔、伊予の国に衛門三郎という豪族がいた。この人、土地の農民から重い税を取り立てる強欲な人物らしかった。ある日、一人の僧が屋敷の前に托鉢に来た。衛門三郎は追い払うが何度もやって来る。しまいには僧が持つ鉄鉢を取り上げて叩き割ってしまう。

僧はその場からはいなくなったが、その後、衛門三郎の家では8人の息子が次々と亡くなった。衛門三郎は、あの僧は修行で四国を回っている弘法大師で、自分の強欲を戒めるために来たのを無下に追い払った報いだと悔いて、田畑や屋敷を手放し、自分も大師を追うために四国を回る。しかし20回回っても大師に会うことができない。

そこで、「逆に回れば会えるのでは」として、21回目に逆に回ったが、焼山寺への途中で病に倒れる。自分の死期を悟ったところに現れたのが弘法大師。衛門三郎はそこで改めて自らの非礼を詫び、大師もこれを許す。望みはあるかと尋ねられた衛門三郎は、来世は伊予の国主の河野家に生まれ変わり、世の人に役立ちたいと言い残して息を引き取る。大師は「衛門三郎」と書いた石をその手に持たせた。そして、衛門三郎が持っていた杖をこの地に立てると、それが巨木になったという。

翌年、伊予の河野家に男の子が生まれた。しかし、左手は何かを握っていて離れない。そこで祈祷したところ、左手が開き、その中には「衛門三郎」と書かれた石が出てきた。これは衛門三郎の生まれ変わりだとして伝説となり、その石を納めたのが、松山の道後温泉の近くにある寺に納めた。これが観光地としても有名な石手寺の由来とされている・・・。

何とも教訓めいた話だが、弘法大師のたどった道を何度も歩くのが四国遍路の始まりと言われているし、逆に回れば弘法大師に会えるという「逆打ち」の始まりともされている。「弘法大師がずっと回っているのなら、追いかけずにその場で待っていればいずれは来るのに」とか、「逆に回れば会えるという単純なことに20回も回らなければ気づかないとは、衛門三郎は学習能力がない」などと、現代の合理的な発想で捉えては面白くない。まあ、手に石を持った子どもが生まれたというのは、後に長く伊予の国に勢力を持った河野氏の権威付けの話だろうが。

ちなみに、杖杉庵という名前からして、大きな木は杉だと思っていたが、後で写真をよく見るとイチョウである。元々は杉だったのが火災で焼けたそうで、後でイチョウを植え直したのだという。焼山寺の麓に、防火効果のあるイチョウがあるというのもシャレが効いている。

ここからまた昔ながらの道を下る。こうしたところを延々と下るのもなかなかない。途中、上ってくる人とすれ違う。巡拝の出で立ちでもなく、町営バスに乗ってきたにしては時間が中途半端である。

山道が終わり鍋岩の集落に出た。広場があり、観光バスが3台停まっている。ここがマイクロバスとの乗り継ぎ場所のようだ。時刻は15時を回っているが、町営バスには1時間以上ある。休憩できるところもあるし、ここで待つべきか。

ただここで思うのが、このまま徳島駅に戻るのももったいないなと思う。どうせ居酒屋に入って終わりである。おそらくこの先いつ訪ねることになるかわからない神山町をもう少し楽しむのはどうか。それに似合いそうなのが、神山温泉。朝から歩いて汗もたくさんかいたので、ちょうどいいだろう。徳島バスのルートの途中の停留所からも近そうだ。

スマホに入れていた徳島バスの時刻表では、神山高校前のバス停を16時05分に出る便がある。鍋岩からはおよそ4キロの距離だが、早足で行けば間に合いそうだ。1日3往復という町営バスがどんなものか乗ってみたい気持ちはあるが、この時は少しでも早く温泉に浸かりたい気持ちが勝ち、もう一歩きすることにした。普段の生活ならたぶんあり得ないことだが・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~第12番「焼山寺」

2016年10月21日 | 四国八十八ヶ所
長々とした歩きの記事のあとで、ようやく焼山寺にたどり着いた。最後の石段を登り終えるとここにも巨大な弘法大師像がある。「よう来たのう」と言ってくれているようだ。

周りは立派な杉に囲まれており、山岳寺院の風情が漂っている。今は昼13時過ぎで明るい雰囲気だが、朝などに来たら山霧の中に佇んでいる姿が似合うことだろう。

山深いところだが、寺の名前は「焼山」寺。今、山火事でも起きて文字通りの「焼山」になったらえらいことだが、そもそもこの名前がついたのはなぜだろうか。

かつてこの山には火を吐く大蛇が住んでいて、麓の村や人たちにも害を与えていた。修行のためにこの山を訪れた弘法大師も、杉の木の下で休んで目が覚めると、周りが火の海になっていた。大師は川で身を清め、水の印を結んで大蛇に相対するも、大蛇は山全体を火の海にして、頂上の岩窟に閉じこもって抵抗する。そこで虚空蔵菩薩、三面大黒天に祈願すると、大蛇をそのまま岩窟に封じ込めることができた。そのお礼としてこの地に虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建てた。これが焼山寺の由来とされている。八十八所で虚空蔵菩薩を本尊としているのはここだけとのこと。ちなみに、私の生まれた丑年の守り本尊である。

四国めぐりの参考書としている五来重『四国遍路の寺』によると、この伝説が示唆するものがいくつかあるようだ。一つは、ここで言う大蛇とは修験道などの山人たちで、弘法大師は密教の修行者。そして、山に入るのなら、山の神聖を守る山人に相対するために川で身を清めるというもの。また、虚空蔵菩薩の力を得るのも、求聞持法という密教修行の成果とされている。旧来の修験道に対していかに密教の力がすごいかということを表したのがこの伝説だという。

・・・ということを踏まえて本堂に向かうが、今となっては遍路ころがしの到着地としてのほうが知られている感じである。連休中ということで多くの参詣者がいて、それぞれのペースでお勤めである。ただそんな中にもバスツアーの団体がやって来る。この人たちはいずれも身軽な出で立ちだが、昔ながらの巡礼スタイルをきちんと着こなしている人が多いのが特徴の一つである。

焼山寺まで歩いて来たどなたかのブログで、遍路ころがしの坂道そのものはどうということはないが、登った後で、手ぶらの人たち(中にはハイヒールを履いた人も)が雑談をしながら歩いているのを見て、「精神的に転がされた」と、そちらのほうで心折れたというのがある。その気持ちは何となくわかる。まあ、今さらその優劣を競っても意味がないし、私も「遍路」を名乗る資格のない人間なのだから一緒である。

本堂、大師堂とお勤めして、下の納経所に向かう。列ができており、係の人が都度、何で来たか、今日は何人かと尋ねている。何で来たというのは、クルマだと駐車料金を一緒に収受するため。また何人というのは、人数分を超える数の納経帳や白衣、掛軸に押印はしないというものである。団体で来て、その人たちの分を誰かがまとめて印を受けに来るならよいが、実際に焼山寺に来ていない人の印はやらないという姿勢である。だから、「年で歩くのがしんどくてここに来られない親のぶんの納経帳です」というのは、ここでは受け付けない。これをどう受け止めるかだが、ネットなど見ると、この対応で焼山寺じたいをマイナスに評価する声もあるようだ。

私の番になると、こちらから何も言わないのに、先方から「歩き・・・ご苦労様でした」と頭を下げ、納経帳にも丁寧に印をしていただいた。たかが札所めぐりにそこまでしていただかなくても。外から見て結構殺気だったように見えたのかな。職場でも、上長から「人を2、3人殺して来たような顔しとるで」と時に戒められることがあるが(当たり前ですが殺してません。ただ、よほど殺気だった険しい表情に見えるのかもしれません)、この時はそんな表情だったのだろう。

これで一段落ということで、休憩所に入る。「田舎うどん 200円」の貼り紙がある。朝の藤井寺からの歩きの途中、カロリーメイトは口にしたが、昼食はまだである。それを頼むと、出てきたのは小ぶりな丼。町のうどん店なら「小」として出てくるかどうか。ただ、この時はこれでよかった。普段歩かない人が長い距離を歩いた後、なかなかいつものようには食べ物が入らない。うどんも、このくらいでよかった。

思ったよりも早い時間に焼山寺に来たので、復路の神山町営バスまで時間が空くと思う。ただ、焼山寺に居続けても仕方がないので、まずは下ることにする。目指すは町営バスの終点がある鍋岩地区で・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~遍路ころがしに挑む・3

2016年10月20日 | 四国八十八ヶ所
藤井寺から焼山寺への遍路ころがしの道は、距離としては半分を過ぎている。休憩ポイントの柳水庵を過ぎてしばらくはなだらかな上りだったが、急に勾配がきつくなるポイントに出た。

「へんろころがし4/6」とある。柳水庵が標高500メートルだったが、ここから最高地点の745メートルを目指す。その手前の急な坂である。時に立ち止まってはリュックを下ろして給水する。また上りを歩くうちに、前方に一人の男性が岩場に腰かけてキツそうにしていたのを追い越す。

そんな坂を10分も登ると、急に右手に一対の門柱が現れた。石段が続く。その先には杖をついた人の影。そう、弘法大師だ。

ここが焼山寺への道の最高地点である浄蓮庵。藤井寺からは9キロ手前で、全体の3分の2来たことになる。坂道を登ってきた人を温かく見守るような佇まいである。大師像の後ろには左右内(そうち)の一本杉という県の天然記念物があり、浄蓮庵は一本杉庵とも言う。ここで3回目のお勤めだが、風は涼しく感じるが身体からは湯気が出ている。

最高地点に来たからもう良さそうなものだが、何事も残り3分の1や4分の1を迎える当たりがしんどい。浄蓮庵を境に下りに転じる。それも左右内の集落まで一気に350メートルを下る。下りのほうが楽だと思う方もいるだろう。ただ、道は石や岩でゴツゴツしているし、前夜の雨でぬかるんでいるところもある。勾配も急だし、一歩を踏み出すのも慎重になる。上りはまだ這ってでも登れるが、この下りは金剛杖がないと無理。金剛杖に宿る弘法大師と、杖に貼り付けたアイランドリーグのキャラクターたちに「頼むぞ」と念じて下りていく。・・・それでも、二度ほど滑って坂道をずり落ちた。幸いどこも異常はなかったが、見事に遍路ころがされた。これ、場所によっては横が崖になっているところもあるので、気を付けなければならない。もう「巨人はロッテより・・・」などという例えはしない。逆にホームランを打たれて「バ~カ!」と言われないように・・・。

いつまで下るのかと思ううち、民家の屋根が見えてきて、12時のチャイムが鳴った。ちょうど4時間経過である。神山町の特産であるすだちの畑が広がり、近くには10件ほどの民家と、村の鎮守らしき神社がある。それでも山深いところだ。

ここからはすだち畑の畦道や民家の路地を抜ける。焼山寺まで6キロという看板が出て一瞬ドキッとしたが、これは車道をクルマで行く場合である。歩きのコースはまた狭いところに入る。丁石は残り17丁、いよいよカウントダウンである。左右内の集落に町の防災無線が入るのを聞きながら歩く。

そして最後の「へんろころがし6/6」である。最後にして最強の上り坂。標高差は300メートルで、岩場に張り付くところもある。さすがにペースがガクンと落ち、鼓動も激しくなる。数十歩進んでは立ち止まり、息を整えたり水を飲んだりする。誰かが言っていたが、こういう時はどんなにゆっくりでも体を動かし続けたほうが良いとか、休むにしてもドッカリ腰を下ろすと次に立ち上がるのがしんどいので立ったままのほうがいいとか、そんなことを思い出す。幸い、足にマメができたとかどこかを痛めたというのはないので、少し歩いては立ち止まって休むのを繰り返す。上から颯爽と下りてくる人がいて、「あともう少しですよ!」と声をかけてくれたのもうれしかった。

丁石を数えて確か残り7丁まで来たところで、ようやく道が広がった。やっと遍路ころがしを抜けたようである。

ここからは幅の広い緩やかな上りで、しばらく歩くと前方に車道を次々に行き交うクルマが見えた。焼山寺の駐車場に出入りするクルマである。やれやれ、ようやく到着した。

初めに間違えて本堂と反対の駐車場に行ってしまい、改めて参道を歩く。多くの人が白衣や笈摺を着て輪袈裟をかけているが、手にはほとんど荷物がない。クルマで来たのだからどうしてもそうなる。だからと言ってその人たちに何も思うことはない。

ようやく山門に続く石段の前に来た。時計は13時15分。藤井寺から何やかんやの合計で5時間15分である。自分の予想を大幅に上回る速さだった。まずは、ここまで無事に歩けたことに感謝する。

一方、これは四国八十八所めぐりの中で自分に何度も反芻しているのだが、移動に公共交通機関を使っているし、四国にも好き勝手な交通手段で入っているので、私は「遍路」を名乗る資格はない。これは、藤井寺から焼山寺まで山道を歩いたからといって変わるものではなく、ガチの遍路から見れば、どこまで行っても所詮は「焼山寺道を歩いたことがあるただの札所めぐりさん」でしかない。「焼山寺道を歩きました」と言っても「だからどうした。たかが電車バスで移動している軟弱者、エセ遍路が何を酔ったことを長々と言っているのか」と相手にされない。

私のやっていることは、所詮この程度でしかない。そんなことを長々と書いているだけである。これからも、四国八十八所、および巡拝の方々に対してはこのことを忘れず接しようと思う。

・・・と書くのは、行ってからしばらく時間が経った今だからなのであって、この時はとにかく先にお参りして楽になろうと思っていた・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~遍路ころがしに挑む・2

2016年10月19日 | 四国八十八ヶ所
まずは遍路ころがしの一つ目をクリアして、これからまた山道に入る。雨はすっかり上がった。地面が多少ぬかるんでいるが、注意して進めば問題ない程度である。

気候的にもよかった。歩くと暑く、汗もかくのだが、風が心地よい。これが真夏なら大変なことになっていただろうし、リュックに入れた水や麦茶のペットボトルもたちまち飲み尽くしてしまうだろう。しばらくは緩やかな上りが続く。藤井寺の奥の院の前で一人、最初の遍路ころがしの途中で二人、鴨島の町並みを見るスポットで一人を追い越したが、その後は前にも後ろにも人の姿を見ない。寂しいといえば寂しいが、山の中、金剛杖に付いた鈴の音だけが山道に響くのも悪くない。ただそれも暗いので、一人なのをいいことに鼻唄を歌ってみたり、南無大師遍昭金剛でリズムを取ってみたりする。でもまあ、歩き続けると息切れしてこれらも長続きしない。

道に沿って、木々にさまざまな札がぶら下げられている。これは道しるべでもあるし、歩く人への励ましもある。中には遍路の格言のようなものもある。

中腹に眺望が開けたところがあり、簡単な屋根つきのベンチもある。遠くに見るのは、前に歩いた吉野川の中洲である。そんなところも歩いたなと思うと、上り方面から「おはようございます」と一人の男性がスタスタ歩いて通過した。時刻は9時にもなっていない。どこからスタートしたか知らないが、この時間でこの場所とは、かなりの健脚である。

道端に休憩中の遍路が二人。ここは水大師として、湧き水のあるスポットである。ここの水量は天候により変動するそうだが、この時は雨上がりということもあり、豊富に出ていた。先に休んでいた遍路姿のうち一人は、見た目は日本人だが話すのは英語。(根拠はないが)韓国の人なのかな。水を指差してほめていたし、レモン味のキャンディーを分けてくれて、「筋肉モリモリね」とジェスチャーで言う。筋肉モリモリにはならないにしても、レモンの酸っぱさは活力にはなる。ここで、手持ちのペットボトルに水を汲む。もう一人の人は「もう少しで長戸庵ですよ」と。二人は別に連れでなく、たまたま水大師に居合わせたもの。少し休んで3人同時にリュックを上げるが、お二人がのんびりなので私が先に行く形になった。こうなると、追いつかれたくないとペースを上げてしまう。

これから長戸庵。ちなみに読みは「ちょうどあん」。藤井寺から登って一息つくのに「ちょうど」いいというのでついた名らしい。このあたりは登山道としても整備しているのか、しっかりした案内札もある。

一方で、昔ながらの丁石もある。私が初めに見つけたのが、焼山寺まで百十丁というもの。一丁が108メートルに当たる。この先、「あと何丁」というこの石にも励まされることになる。

藤井寺から1時間で長戸庵に着く。この1時間というのも、「ちょうど」いい時間である。ここで休憩を兼ねて、般若心経のお勤め。ちなみにここには「女性小便専用」の看板があるトイレがある。女性小便専用? 男性なら大と小が別なのでわかるが、女性でそういうのは理由があるのかな。「受け皿」が違うのかもしれない。もちろん、中に入ったわけでなく、実際がわからないので、どなたかご存知の方がいらっしゃれば・・・。

これから中間点に当たる柳水庵を目指す。途中に上りがあったが、その後は轍の跡がある林道や、きれいに整備された尾根道がある。丁石が見えなくなった代わりに、「四国のみち」の標識が立つ。ここまで少しきつい上りはあったが、全体的に見てまだまだ「そこまでのことはない」という感じである。まさに「巨人はロッテより・・・」いや、何でもない。

あと少しで柳水庵というところで、急な下りに出会う。先には建物の屋根が見えるが、初めての本格的な下りにうなってしまう。金剛杖がなければ難儀したところである。下りの途中、「へんろころがし3/6」の立て札がある。これが3ヶ所目か。ならば、2ヶ所目はどこに・・・?いつの間にか通過したようだ。藤井寺から2時間少しで柳水庵に着く。距離でいえばちょうど中間点である。ここで二度目のお勤め。

この柳水庵は弘法大師が祈祷をして清水を得たという言い伝えがあり、手水鉢に水がどんどん流れ込んでいる。ここでも給水し、しばらく休憩。給水ができるのはここが最後である。なお、ここだけ男女兼用のトイレがある。大のほうをするにはちょっと勇気がいりそうだが・・・。

柳水庵は数年前までは庫裏にも人が住んでいて、焼山寺に向かう途中、一夜を明かすこともできた。こんな山の中に人が住めるのかなと不思議に思うが、すぐ下にクルマも通れる道に出る。ここまで道ができたことを顕彰する石碑もある。また、柳水庵に泊まれなくなった代わりということか、遍路小屋ができている。これは地元の人たちがボランティアで建てたもので、水は先の柳水庵に流れていたのと同じようにじゃぶじゃぶ出ているし、電気も通っている。体力的、時間的なことで、遍路ころがしの途中で一夜を過ごさざるを得ない人には格好の場所である。ノートがあったのでパラパラめくってみると、外国語の書き込みも多い。この時も軽トラが停まっていて、地元の人らしき人が草刈り機を動かしていた。遍路ころがしの道もこうした人たちの手入れによって、私のような素人でも迷わず安全に歩くことができる。こうした支えには感謝しなければならないと改めて思った。

中間点まで2時間半ということで、思ったよりもハイペースで来ている。林道からすぐに再び山道に入り、丁石を見る。あと五十丁とあり、気持ちの上ではこれをカウントダウンすればいいのだなと思う。

・・・ただ、これからの後半が、遍路ころがしの遍路ころがしたるゆえんだった。少しずつ、あちらからの逆襲が始まった・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~遍路ころがしに挑む・1

2016年10月18日 | 四国八十八ヶ所
10月9日(ちなみに私の誕生日)、藤井寺から焼山寺への遍路ころがしに挑む。この歳ともなればそれほど誕生日にこだわりがあるわけではないが、こうした休日と重なったこともあり、ある意味記念、記憶に残ることになるだろう。

・・・さて、このブログで何回か「遍路ころがし」という単語が出ているが、ご覧の皆さんに向けてどんなものか改めて整理する。

遍路ころがしとは、山岳部にある札所への厳しい登り道で、「遍路を転げ落とす」ことからその呼び名がある。四国には何ヶ所かの遍路ころがしがあり、昔から阿波国では「一に焼山(12番の焼山寺)、ニにお鶴(20番の鶴林寺)、三に太龍(21番の太龍寺)」と言われている。その中で最もハードなのが、これから目指す焼山寺への道とされている。これまでの道が比較的平坦なところが多かったところに、いきなり山登りとなるため、特にずっと歩きで巡拝している人にとっては最初の難関と言える。

起点の藤井寺が標高40メートルにあるのに対し、焼山寺は標高700メートルにある。全長12.9キロの長丁場。その途中に急な上り下りが6ヶ所ある。745メートルの最高点まで上ったかと思うと、その後400メートルまで一気に下り、また最後に700メートルまで上る。最高地点までも上り下りがあるので、実質的には山を二つ登るようなものである。この距離も普段歩いているわけでなく、また上り下りのトレーニングをしているわけでもない。一応目安があるそうで、「健脚5時間、平均6時間、弱足8時間」というもの。途中の休憩も含めての時間だろうが、平均の6時間にプラスアルファして、後は参拝と反対側への下りを見込んで、16時半発の神山町営のバスにちょうど間に合うかなという計算で、8時に藤井寺出発とした。

登山口には励ましの札に加えて、「トイレはすませましたか?」の案内もある。焼山寺までの道中、途中の柳水庵というところには水場とトイレがあるにはあるが、後は山の中。もちろん店や自動販売機などないので、水と食べ物は持参である。ペットボトルで水2本、麦茶1本、食べ物はカロリーメイトとウィダーゼリーという携行食。山登りなので、本当はおにぎりとかが似合うのだろうが・・・。

まずは藤井寺の奥に広がる四国八十八所のミニ霊場を行く。もう雨は降らないだろう。前回藤井寺に来た時、ここだけでも回っておけばよかったかなと思う。私の前に登り始めた人が、この祠に手を合わせながらだったので、お先に失礼する。別にタイムを競うものではないが、まずは行けるところまで行こうというものである。

5分ほどで藤井寺の奥の院に着く。大日如来が祀られている。ここから焼山寺への道は、弘法大師が修行の際に実際に行き来したとされ、「最後まで残った空海の道」とされている。

そして小さく「へんろころがし1/6」の表示がある。丸木を埋めた階段がつづら折れに続き、その先を見上げる。まずはこれをひたすら登る。結構息が上がるが、10分ほどで、丸太の椅子もある車道に出る。まずは一つ目をクリア。

この時、遍路ころがしと言っても大したことがないな、と思った。これまで西国、新西国を回る中で、このくらいの坂、階段ならいくつもあった。槇尾山の施福寺、上醍醐、長命寺、安土の観音正寺など・・・。特に西国は一つ一つで見ればハードなところは結構ある。ただ、すぐにその言葉を飲み込んだ。

いつぞやの日本シリーズで、「巨人はロッテより弱い」と言った(とされる)近鉄の某投手のようなことにならないように・・・。

この例えはさておき、まずは車道にも出るし、地元の人が建てたらしい休憩所もある。吉野川方面を見下ろす展望スポットもある。雨は上がったが曇っていて見にくいが、鴨島駅の周辺も見てとれる。普通ならこれで満足、ここから下山なのだがそうはいかない。いよいよ、本格的な山道に入って行くことに・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~第11番「藤井寺」(2回目)

2016年10月17日 | 四国八十八ヶ所
10月9日、未明の徳島駅前。ホテルの窓から外を見ると、前夜に雨が降ったようで路面が濡れている。ただ雨粒は見えないので今は降っていないというところだろうか。

この日はいよいよ12番の焼山寺を目指す「遍路ころがし」歩きである。徳島から朝6時09分発の阿波池田行きに乗り、先月下車、宿泊した鴨島に6時44分着。そこから焼山寺への登山口に位置する11番の藤井寺に行きスタートする。鴨島駅から藤井寺までは3キロあまりの道のりで、前回の時に歩いているが、できれば駅前にタクシーでもいれば体力温存のために使いたいという気もある。そして焼山寺まで行き、帰りは神山町営バスと徳島バスを乗り継いで、徳島駅に戻ってくるというものである。10日夜も同じホテルに泊まるから時間はさほど気にしなくてもよいのだが、神山町営の焼山寺バス停の最終が16時31分発なので、一応これをリミットとする。

ホテルの朝食は7時からということで間に合わないので、前日にコンビニで買っておいたおにぎり等で朝食とする。天気予報では一度前線が通過し、その後は晴れるということを言っていた。そして駅に向かう。早朝ということで人の姿はほとんどないが、この時間からでも神戸・大阪方面に向かう高速バスは発車していく。

前日はあまり気づかなかったのだが、駅構内に入ると「マチ★アソビ」という幟や看板が目立つ。改札口通路にもパネルが敷かれている。「マチ★アソビ」とは、徳島で開催されるアニメやゲームに関する一大イベントで、2009年の開始以降、この10月8日~10日が第17回という。このところは5月の連休と10月連休の年2回に「クライマックスラン」というのが開催されている。商店街での展示会とか、声優を招いての野外ステージ、コスプレイベントなどが行われるそうである。どうやら10月のこの連休になかなかホテルが取れなかったのは、このイベントの影響もあったのかな。17回も開催されているとは毎年恒例のイベントとして定着しているものと言えて、夏の阿波おどり以外にも全国から旅行で集まるイベントがあるというのは、徳島の新たな魅力とも言えるのではないだろうか(・・・とエラソーなことを書いているが、私自身、見た目がアニメオタクと言われることはあるものの、アニメの世界は嫌いなほうだ)。

それはさておき、徳島線の気動車に乗る。2両編成であるが、見たところ遍路・巡礼とおぼしき客の姿は見られない。連休の中日、焼山寺に挑む人が他にいてもよさそうなものだが、多くは鴨島駅や藤井寺周辺に宿泊しているのだろう。前日下車した府中を過ぎ、周りも少しずつ田園風景となる。外を見ると雨粒が落ちてきており、進むにつれて雨具なしでは厳しそうな降りになってきた。

鴨島に到着。私のほかに下車したのは地元客2~3人のみで、お参り姿の人はいない。外は雨が降っており、これは傘なしではしんどい。またタクシーも停まっておらず、結局雨の中藤井寺までの道を歩くことになる。駅の待合室で笈摺を着用し、折りたたみの傘を差して商店街を歩く。まあ、ちょうど1ヶ月前に歩いていてだいたいの距離感は憶えているし、山道に挑む前の準備運動だと思えばよい。

ここまでお読みの方で、「四国のお遍路さんは菅笠を持っているのではないのか?」と疑問に思われた方もいるだろう。現に、特に歩きで回っている人で菅笠使用の人は多い。ただ私は、かさばるからという理由で(それでなくても、自宅からの移動で大きな荷物を抱えるというのに)、かぶりものは登山用の帽子にしている。これだといらない時は丸めてリュックの中に入れることができる。また、雨具についてはレインコートかポンチョを着用する人が多いようだが、私の場合は蒸れて暑く感じるのが嫌だし、普通に町中や農村の道を歩くということであれば折りたたみ傘で十分である。もっとも、これまでの八十八所めぐりは雨具の必要はなかったが、これからどんな道を通ることになるかわからず、両手を開けるという意味でもこうしたものは用意したほうがいいのかもしれない。ともかくこの日は、まず藤井寺まで、右手で傘を差して、左手で金剛杖をつくという格好で歩く。

駅から40分あまりで11番の藤井寺に着く。大阪の藤井寺市民としては、やはり同じ名前ということで気になる札所である。朝7時を回った後だが結構多くの参詣者の姿が見える。早速焼山寺への道に挑んでもいいのだが、雨も降っているし、せっかく来たのだから挨拶代わりにちゃんとお参りしようと、ローソク、線香、お勤めという一連の所作を本堂、大師堂で行う。本堂横の弘法大師像も「登る気になったか。まあ頑張れや」と言っているように見える。

まだまだ空白のページが多い納経帳であるが、これもせっかく来たのだからと、四国初めての「重ね印」をいただく。西国三十三所と違い、四国の場合は納経帳に朱印をした日付を書かないので、ハンコをポンポンポンと3ついただくだけである。四国の場合は何度も回る人が多いから、いちいち日付まで書くスペースがないからだろう。1回目と同じように本尊御影と限定散華をセットでいただく。

一連のお参りと納経帳で時間をつくったためか、先ほどまで降っていた雨が小降りになり、全然気にならなくなった。スマホで雨雲の動きを見ると、先ほどまでが雨雲のピークで、この後の予報ではもう雲は通り過ぎるようだ。これは何というタイミングのよさだろうか。弘法大師が雨を晴らしたかのようである。

これを見てか、しばらく納経所の前で雨宿りをしていた何人かの人が遍路ころがしに向けて出発し始める。また、後の列車で鴨島に来たのか、新たに大きなリュックを背負って藤井寺に来る人もいる。混雑というほどではないが、この道を行こうという人はそれなりにいるものである。私もぼちぼち身支度をして出発する。弘法大師もそうだが、今回金剛杖に貼り付けてきた四国アイランドリーグの各チームのマスコットのシールにも「頼むぞ」と声をかける。時刻は間もなく朝8時・・・・。
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第4回四国八十八所めぐり~第17番「井戸寺」

2016年10月16日 | 四国八十八ヶ所
16番の観音寺の参詣を終え、府中(こう)駅の手前で進路を右に取り、次の17番の井戸寺を目指す。二つの札所の距離は2.5キロほどといったところである。途中の道も、伊予街道に沿って昔から栄えていたところなのかなと思わせる。

井戸寺へと続く道を北に曲がる。1台のクルマが追い越していったが、車体の横と後ろに遍路のシルエットをかたどったステッカーが貼られている。こういうのを見ると、遍路中であることをアピールしているのか、それだけ遍路に入れ込んでいるということなのか、あるいは単なるファッションなのか、興味深く感じる。

観音寺から30分近く歩いたところで、井戸寺にはクルマは直進、歩きは右折という標識に出る。右折すれば細い道であるが近道。クルマの場合は駐車場が寺の裏手にあることからそちらへの誘導である。門前町のような風情の細道を抜けると、朱塗りの山門に到着。山門というと二階建て、三階建てという楼閣のイメージがあるが、こちらの山門は平屋。寺というよりは武家屋敷の長屋門のような感じである。ここでは大きな草鞋が出迎えてくれる。

開放的な境内では2グループの団体ができていた。1号車、2号車という言い方をしていたから、バス2台を連ねての巡拝であろう。言葉からすると、広島か岡山方面から来たかのような感じ。先達の口上から、この日は20番の鶴林寺から始まる「逆打ち」のようで、この日は井戸寺が最後のようである。日帰りか、あるいは今夜は徳島市街にでも泊まって明日16番の観音寺から12番の焼山寺まで回るのかな。

本堂は中に入ることができる。本尊は七体の薬師如来とかで、正面奥にずらずらと並んでいる。正面にセンターの薬師如来がいて、両側に三体ずつ薬師如来が並ぶ。気になるのは、日光・月光菩薩と十二神将という「チーム薬師」の面々だが、まあそれはその周りにいるんだろうなという感じである。それら薬師と対面する正面は販売用のお守りや巡拝用品が並んでいるので、じゃまにならないように隅のほうに立ってお勤めをする。

この井戸寺も、先の観音寺と同じく聖武天皇の勅願により建立されたとされている。当初は「妙照寺」という名称だったが、後に弘法大師がこの地にやってきて、土地の人たちが水不足や濁り水で困っているのを見て、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、たちまち清水が湧き出たという。そのことから「井戸寺」という名前になったのだとか。その井戸が今でも「面影の井戸」として境内に残っている。覗き込んで自分の姿が映れば無病息災、映らなければ3年以内の厄災に注意とあり、覗き込んでみたが・・・・時間帯のせいなのか何なのか、真っ暗で私の姿は映らない。うーん、これは注意しないとならないな・・・・。

井戸寺も全体に建物が新しい感じである。長い歴史の中で、こちらも戦国時代に三好氏と長宗我部氏の戦火で消失し、江戸時代に蜂須賀氏の手により再建された。先ほど武家屋敷の長屋門のように見えた山門も、蜂須賀氏の別邸の門を移築したものだという。ただ、その後も火災があり、最近になってから本堂ともどもまた新たに建てられたそうだ。今では巡拝の人だけではなく、地元の人たちの憩いの場でもある。境内のベンチに腰掛ける人が何人もいる。

納経所に向かう。先ほどの団体2組の添乗員らしき人が玄関で待っており、その奥では2人の係員が急いで筆を走らせている。しばらく待つとちょうど片付いたようで、私に「どうぞ」と声がかかる。元々そうなのか、あるいは団体分の何十冊という納経帳に筆を走らせた勢いか、豪快な走り書きである。ただそれでいてぞんざいな扱いではない。

ここで時刻は16時。時間的にも場所的にも本日はこれで終了である。これから徳島駅に向かうが、徳島バスの竜王団地系統の井戸寺口というバス停が近くにあるようだ。スマホからでは時刻がわからなかったので直接バス停に向かうと、数分前に出たばかり。次は1時間ほど空いている。ならば仕方なく、同じ道を戻る形になるが府中駅まで歩く。この日は府中駅を中心に、観音寺往復、井戸寺往復、そして徳島~府中間の往復ということで、旅先ではなるべく「循環ルート」で回りたい私としては、あまり効率的ではなかったかなと思う。16時32分発の列車で徳島駅に出る。

今回の宿泊は、第1回の八十八所めぐりと同じく、東横インの徳島駅前店。サイトでの予約番号は1泊ずつで別々だったので、フロントでは「本日からご一泊ですね」と言われたが、翌9日も別の番号で予約していることを申し出て、連泊の扱いにしてもらう。ちょうど2日とも同じ部屋が使えるとのことで、これで翌日の支度の心配をしなくて済む。部屋は10階、ちょうど徳島駅に続く道路が見渡せるところだ。

シャワーを浴び、明日も着用する笈摺も手洗いして浴室に干す。夕食ということで向かったのが、前回も含めて徳島に来ればほぼ立ち寄るようになった駅前の「味祭」。徳島の郷土料理を味わうことができる店で、それなりの価格で楽しめる。

初日は消化不良の感じだったが、翌朝はいよいよ今回の最難関である、12番の焼山寺へと続く「遍路ころがし」に挑むことになる。心配なのは天気で、この夜から明日にかけては雨、ただし明日から回復には向かうという。できれば雨の中での山道は歩きたくないし、少しでも早く回復してくれればと願うところである・・・。
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