男は見た目が全て。やっぱりイケメンでないと。
一方関西では「オモロイ」というのが人間評価に大きなウエイトを占めている。
・・・そのどちらでもない私など、人間としての魅力は何一つないよな。
世の女性皆が私のことを避けているし。
男は見た目が全て。やっぱりイケメンでないと。
一方関西では「オモロイ」というのが人間評価に大きなウエイトを占めている。
・・・そのどちらでもない私など、人間としての魅力は何一つないよな。
世の女性皆が私のことを避けているし。
7月29日、この日は久しぶりにクラブを握ってのコースへの出陣となる。もともとは一週間前の22日に予定されていたのだが参加者の都合で変更となった。でもまあ、22日でも29日でも、暑かったのは暑かったのだが・・・・。
場所は兵庫のゴルフクラブ銀座とでもいおうか加東市の某コース。かつてはプロのトーナメントも開催されたところである。
この日は朝が早いということもあり、ともにプレーする人に送迎をしてもらったのだが、その前泊ということで前日は阪急伊丹駅前のホテルに投宿。ちょうど夏祭りのシーズンということで近くの小学校やホテルの前の歩道スペースには盆踊りの櫓も組まれ、太鼓の音も心地よい。そんな中で近くの居酒屋で生ビール、そして伊丹ということで「山が富士なら~、酒は白雪~」の白雪の冷酒をいただく。
翌朝チェックアウト時に、制服に身を固めたCAのグループに遭遇する。空港に近いということで宿舎代わりということなのだろうか。朝から素敵なものを見させていただき良い気分である。
途中でブロック氷や水、スポーツドリンクなどを大量に買い込んでクーラーボックスに詰め、コースに到着。いやこの日はどのくらいの暑さになるか、それとの闘いの様相である。私も前日にサングラスやら冷却スプレーなどを買い込んでおり、一応武装はしているのだが・・・・。
それらが功を奏したか、また途中の茶店で冷房に当たったりという休憩もでき、暑さのほうは何とか乗り切ることができた。こういうコンディションで暑い暑いと言いながらも豪快なショット、正確なアプローチを見せる同伴の皆さんはすごいなと思ったし、今回送迎をしてくれた彼もゴルフ初心者ながら、元々スポーツマン、そしてこの暑さもさほど応えていないようなプレースタイルを見せ、感心するものがあった。
私もこのままではアカンなと思いつつ、また来るプレー日に備えて少しでもスコアが縮む術を施さねばというところであるが・・・・・。まずはこの暑さをしのいだということで・・・・・それにしても、帰宅途中で立ち寄った店での生ビールが何とも言えないノド越しだったなあ・・・・。
プロ野球の後半戦が始まり、オリックスが3連勝して阪神が3連敗するというまことにもって理想的な滑り出し。まあ、関西のマスコミは野球のことには触れずにオリンピックのサッカーの話題でお茶を濁しているようだが、本当にご都合主義だこと。
さて、そんな裏で書き記してきた大和人さん(http://tosawa.cocolog-nifty.com/yamatojintravel/)への追悼の書き込みも今回が最後。
これまでは鉄道旅行、野球と共通の趣味のことで書いたが、飲み会の場で出る話はそれにとどまらず彼の本職である教育のこともいろいろとあった。
「生涯一教師」。野村克也氏の「生涯一捕手」から取ったものだが、よく口癖で出ていたことである。大学も教育大学で、ずっと教師になることに憧れていた。私と知り合った当時は教員免許は取得しているもののなかなか公立の採用選考に合格することがなく、私立学校の非常勤講師などをこなしながら選考合格への勉強を行っていた。科目は社会科。
私も歴史好き、特に日本の近現代史には興味があるのだが、学校の教育がともすれば考古学や上代に偏りすぎて、現代に直結する近現代史がおろそかになっているのではないかという思いがある。そこまでたどり着いたらもう3学期で時間切れになってしまったとか。だから「日本史は逆に現代から始めたらどないですのん」などとプロの教師相手に無茶ぶりをしたこともあったが、優しく笑って応じてくれたのを覚えている。
その後正式な公立教員として採用ということになったが、彼が興味があったのがそうした一般の社会科教師ではなく、障害を持つ生徒への支援教育。養護学校、聾学校、特別支援学校を歴任してきた。「障害といっても程度がさまざまで、ほとんど健常者と変わらない生徒もいれば、一人では本当に何もできなくて介添えを必要とする生徒もいる。社会に出れば風当りも強くなるが、あの子らが社会に出るまでの間、できるだけの教育をしていきたい」と常々語っていた。
しかしその一方で、現場の教師としてのハードさの愚痴もしばしば。教壇に立つ、事務処理もやる、そのうえ部活動の顧問も任されるようになるともう自分の時間というのがなくなる。後は研修だ出張だ行事だと入ればそれこそ休みもない。手当が厚ければまだ納得もできるのだが聞いた中ではほんのお印程度だという。よく教師と生徒のコミュニケーションということが言われるが、日常業務で忙殺される中で生徒とじっくり付き合おうと思えば、よほど好きな人でなければ続かないのではなかろうか。
前の勤務地はかなり忙殺されていて(だからガンも発生したのかもしれない)、身体が大丈夫かと私も気になっていたが、今年度から大阪市内の特別支援学校に転任となり、そこではゆとりも出てきたようである。6月に最後に会った時には「少しは自分に余裕ができてきたんで、私もそろそろ婚活でも始めようかな」と話していた。
そんな中での急逝である。
現役の教師として、「生涯一教師」ということは最後まで貫いた形にはなったが、新しい学校にもそろそろ慣れて、2学期以降はああして行こう、生徒とこう触れ合って行こうというのをいろいろと考えていたはずである。それができなかったこと、本当に志半ばという無念さは残っているだろう。
次に会った時には、大津の事件でも騒動になっている「いじめ」について、教師としての意見も聞いてみたいところだったのだが。
通夜式で弟さんが挨拶していた。「努力すること、最後まであきらめないこと。これは兄が教育者としてずっと教えてきたことです」と。彼が教壇に立つ姿を私は見たことはないが、生徒の皆さんに真面目に、熱く向き合って接してきた姿が目に浮かぶ。
大和人さんの教え、これを胸に一人一人の生徒さんが立派な人間として成長してくれることを願うばかりである・・・・。
・・・さて、このブログでのまとめ書きはこれでいったん終わる。ただ、彼との「約束」はまだ残っている。
8月5日、大正ドームでのオリックス対ロッテ戦。この日は「近鉄バファローズ」の復刻試合、あの猛牛マークもよみがえる。この試合はともに行く約束をしていた大和人さんへの追悼試合ということで観戦しようと思う。熱戦になるか、それとも私たちがいつも観戦するのと同じようなドタバタ試合になるか。昔を振り返りつつ声援を送ることにしよう。
これまで長々と書いた文章におつきあいいただいた皆さん、ありがとうございました。
このしばらくは、紀伊半島の旅行記を中断して、このたび急逝された大和人さんのことについて書いてみようと思う。http://tosawa.cocolog-nifty.com/yamatojintravel/
私が大和人さんと知り合ったのはもう15年も前になるだろうか。当時広島に勤務していた私が、旅や鉄道のことについて語り合ったり紀行文を寄稿することのできるサークルを探す中で見つけた「フリーフライト」という大阪を中心に活動するサークル。そのオフ会に広島から参戦した折に知り合ったところ。自己紹介で「近鉄のファンです」と公言したところ「僕もそうなんですよ」というのが初めの会話だったと記憶している。
そしていつしかまずは野球のほうからご一緒することができた。舞台は大阪ドームかグリーンスタジアム神戸。そして、だいたいが「乱戦」になるのである。延長戦やサヨナラ試合、4時間超えは当たり前。たまに近鉄の投手が完投勝ちなどしようものなら、「こりゃ明日は雨ですね。飛行機のフライトは気を付けて」と大和人さんを送り出したところ、雨は降らなかったものの飛行機の機材トラブルで飛び立つことができなかった・・・なんてこともあった。
その中で印象に残っているのが2001年のシーズン。9月のペナントレースの大詰め。広島から大阪に遠征してきて観戦したのが、近鉄ファンなら覚えている「タフィー・ローズ55号」の試合。その試合はローズの55号が飛び出しただけではなく、9回裏に北川の代打本塁打、そして最後は中村ノリが松坂から逆転サヨナラ2ランを放った試合である。その後、あまりの興奮でその場にへたり込んでしまった私の手を引っ張り上げてくれたのが大和人さんである。
その年の日本シリーズの初戦にも参戦したが、石井一久の好投にやられたのも今となっては思い出である。
2004年の球団合併のシーズンではともに合併反対の署名を行ったこともあるが、オリックス・バファローズ初年度の2005年は交流戦での広島戦で「16対14、両軍合わせて42安打」という乱打戦をやらかした。その後は、鈍な支障さんも交えて「混戦BB会」を名乗り、さまざまな試合観戦でご一緒することに。試合後のグラウンドに降り立って、ヒーローインタビューのお立ち台に3人で上がったのもよかった。
ご家族の影響を受けてか、かつては南海ホークスも応援されていたようだが基本的に「関西のパ・リーグの球団」をこよなく愛する方であった。外野でメガホン片手に応援というよりは、ゆったりとシートに腰かけて扇子持って野次ったり、選手をボロカスに言いながらも冷静に試合の状況を見ていたり。・・・ただそれでいて乱打戦だったり、両軍合わせて投手が15人も出てくるようなダレた試合だったりというのが多かったが、勝敗もさることながらその場の雰囲気を楽しんでいたように思う。ご一緒してその点が安心できたし、「また次も一緒に行こう」という気にさせられたというのがあった。
オリックス・バファローズについては当初は批判的なことも言っていたが、一昨年の「がんばろう神戸」の復刻や、昨年からの阪急・近鉄のレジェンド企画などを見て「見直した」ということもあった。だからこそ、この8月に行われる80年代の近鉄復刻試合にはぜひともご一緒したかった。亡くなる直前もごく普通に、私が購入したりあつらえたりした近鉄の帽子、ユニフォームも見るのを楽しみにしているというやり取りもあった。
その企画を元気な姿でご一緒できなくなったのは残念である。ただ、今でも気持ちはグラウンドに向いているのではないだろうか。であれば、亡くなった大和人さんの分のチケットも用意して、彼の分のレプリカユニフォームも携えてドームに行こうと思う。野球の面白さ、熱い気持ちのこもったヤジ、それらを含めて、彼が好んだグラウンドの雰囲気の中で大いに盛り上げて、送り出してあげようではないか・・・・。
プロ野球もオールスター明けの後半戦が開幕。本来であればオリックス・バファローズの巻き返しのこととか、あるいは前の記事から書きかけとなっていた紀伊半島縦断の旅行記の続きを書かなければならないところなのだが・・・。
実は、それどころではない、私にとってショックな出来事があり、とてもそれどころではないという心境である。
去る22日、拙ブログを長年支援いただき、そしてこれまで野球観戦や鉄道旅行の記事で登場いただいた「大和人」さんが急逝された。
そのことを、あれこれ手をつくして私の携帯番号を探し当てたお父様から電話で伝えられた。・・・しかし正直、それにどうお応えしてよいのやら、その時はよくわからなかった。
実は大和人さんはご本人のブログにもあるように、甲状腺ガンの手術とその後の投薬治療を受けている。最初はそのガンによるものかと思って尋ねたがそうではなく、本当に帰宅途中の突然の出来事だという。場面が場面だけに警察での司法解剖も行われたのだが、「これ」という原因が特定できないらしい。
こういう言い方は失礼だが、例えばガンが転移したなどの原因であれば、ある程度わかっていることでまだ対処の仕様があるだろう。ただ、それとは関係のないところだというのだから・・・・。
24日、仕事の後で葬儀会場にかけつける。式場内のご両親から「あなたが、まつなるさん(とは言わず本名を尋ねて来られたが)なんですね」ということで声をかけられる。ご両親、そして弟さんとは初対面なのだが、これまで野球観戦や鉄道旅行をご一緒させていただく中で、大和人さんからは私のことをいろいろ話していただいたようである。
式場には大和人さんが「生涯一教師」として現役にこだわったように、多くの学校関係者、そして彼が生きがいとしていた障碍児教育の教えを受けた生徒さんたちが多数参列していた。それに引き替え私のようなものが参列してよかったのかという気持ちはあったが、通夜の読経後の弟さんの挨拶の中で「旅と野球を愛する兄といつも賑やかに過ごしてくれた友人・・・」というのがあって、どうにもいられなくなった。
本日はここまで。
これまで心の支えになってくれていた大和人さんとの思い出について(先日の紀伊半島旅行のことはしばらく置いておくことにして)、この次以降、いろいろと書き綴ることにしようと思う。
拙ブログをご覧いただく皆さんにおかれても、ぜひ彼の人間性を感じていただければと思います・・・・。
(「大和人トラベルがたり」URL:http://tosawa.cocolog-nifty.com/yamatojintravel/)
7月15日、大和八木から新宮までの路線バスの旅を終えた私。実はこの後紀勢本線の鈍行を乗り継いでもこの日のうちに大阪に戻ることができるのだが、せっかく紀伊半島の南まで来たのだからと、一泊することにする。
とはいっても泊まるのは新宮ではなく、那智勝浦。宿泊は温泉旅館ではなく普通のビジネスホテルなのだが、本場のマグロ料理も味わえるのも楽しみである。
ということで、新宮から列車で移動するが、その鈍行の前に特急「南紀」がある。特急料金分だけ割増しになるが、なかなか乗る機会もないし、早くチェックインしたいということもあって乗車する。駅のホームには熊野三山=ヤタガラス=日本サッカー協会のシンボルということで、Jリーグの各チームの旗がお出迎え。J1はともかくJ2まで含めると、最近ではさまざまな地方都市の文字も見え、プロ野球と比べた地域性の裾野の広さを感じさせる。一方でプロ野球はまた球団統合、1リーグ化への動きもちらほら見られるだけに、なぜこうも逆の動きになるのかなと思うばかりである。
さて特急「南紀」は終着間近ということでガラガラ。大きな窓から王子ヶ浜を見る。ここに来てパラッと一雨来た。
そして終点の紀伊勝浦に到着。ホテルは駅からすぐの商店街の中にあるのだが、建物から外に出ると何やら音楽が流れている。どうやら祭りをやっているようだ。商店街を歩行者天国として開放しており、交差点を「おまつり広場」ということでここを中心に催しをやっている。ちょうど子どもたちのグループがダンスを披露しているところ。周りにはさまざまな衣装をまとった人たちでごった返している。それにしても、こういう祭りでの踊りとなると昔ながらの伝統舞踊か、ヒップホップ、そして最近はどこでも見られるよさこいソーランというのが三本立てかな。
ホテルにチェックインしてチラシをもらったのだが、この日は地元の南紀勝浦夏祭り。いやこれがあるのはここに来て初めて知ったことで、これを狙って勝浦に宿泊したわけではない。「夜にはめはり音頭というのを踊りますから、参加してはどうですか?」と言われる。
まあ音頭はともかく、まずはマグロをいただくことにしよう。生マグロのパンフレットがあってさまざまな店が紹介されている。ダンスのBGMが流れる中、しばらく町中を歩いて店を物色するが、結局落ち着いたのは駅から港に向かう通り沿いの「竹原」という店。
中はカウンターのみの狭い店だが、17時を過ぎてすでに満席。店内は多くの有名人の写真やサインが飾られている。いや別にこちらも狙ったわけではないのだが、やはりいいものを食べさせる雰囲気というのが通りにも漂ってきて、それに引き寄せられたというところだろうか。
少し待つと空きが出たので、メインというマグロの定食を注文。出てくるのはトロと赤身の刺身とハラボである。そして現地ならではの味ということで、追加単品でマグロの目玉の煮付、チコロと呼ばれる心臓を焚いたものをいただく。それに尾ひれのスープ。これらに、昼間のバスでは我慢していたビールを流し込み、一心地つく。価格は完全な「観光地値段」であるが、まあ本場で食べるのを売りにするというのであればやむを得ないかなというところである。
せっかく来たのだから温泉に入ろう・・・と思い、再び駅に出て電車に乗る。向かったのは新宮方面の那智駅。那智大社への玄関駅であるが、ここに地域交流センターが併設されており、その2階に「丹敷の湯」という温泉がある。浴槽一つのみのシンプルなつくりであるが、窓からは駅のホーム、そして奥に広がる海水浴場、そして勝浦の旅館群を見渡すことができる。先にここで立ち寄り入浴してから勝浦に向かえばよかったのだろうが、まあいいでしょう。
入浴後、次の列車までの一時は海岸で涼む。といっても海はベタなぎで、風が吹き抜けるというわけではない。ただ、風が通り抜けない入り組んだ地形というのが勝浦を良港たらしめているのも確かなところである。
駅に戻ると、夜のメインである「めはり音頭」の最中。三波春夫の歌声に乗せて、さまざまなグループがプレートを先頭にして商店街、おまつり広場を流し歩く。
こういう、観光イベントというよりは地元の人たちが楽しんでいる夏祭り、ふらりとやってきた旅行者にとっては何だかよその家におじゃましたような感覚であるが、その分土地の表情に触れることができるようでよいものである。さすがにめはり音頭は踊らなかったが。
グループの練り歩きに続いては、熊野曼荼羅太鼓に合わせての踊りである。こちらは新宮を拠点に活動しているグループという。熊野曼荼羅とは熊野三山の神仏や信仰を描いたものであるが、その名にふさわしい勇壮な音色を奏でる中、おまつり広場をぐるぐる回っていく。
そして最後は餅まき。これは見物客も参加できるということで櫓の周りに人だかりができる。私も餅を土産代わりにしようというか、その中に入る。ビニール袋に入った一口サイズの紅白餅が次々に投げ込まれる。私も片手だけで挑戦したが6個をキャッチ。まずまずの成果だったかな。
これで夏祭りは終了。なかなかに楽しい一時を過ごすことができた。部屋に戻り、缶ビールとともに駅前の土産物店で購入したクジラの干物をつまむ。料理店ではマグロとともにクジラの刺身もあったのだが、ちょっと値段が高い(ベーコン、赤身なら大阪の居酒屋でも味わうことができるが、それと比べても)ことがあったので土産物の干物ということで。
翌日16日は海の日。今回は15日が山や川の風景を楽しんだだけに、それとは対照的な海の風情を味わうことにしよう・・・・。
20日のオールスターゲーム第1戦、大正ドームで行われたこの試合でDeNAの中村ノリが上段席に飛び込む豪快な本塁打を放った。ここぞというところで存在感を見せるこの打者の魅力がたまらない。
「もう一度大阪のユニフォームを着てくれ・・・」というのは現金な発想として、こういうサムライのようなギラギラしたものが、現在のバファローズに足りないのも確かである。李大浩は「気はやさしくて力持ち」を地で行くようなタイプで、それはそれでいいのだが、T-岡田なんかはもっとワイルドにやってくれてもいいと思うのだが・・・。
さて、ワイルドといえば少しブログ更新の間が空いたが、八木から新宮へと向かう日本最長の路線バスの続き。バス同様時間がかかっているのだが、車窓も段々にワイルドな風情を増してきた。
谷瀬の吊橋での休憩時間を終え、再び狭い国道を通る。北に出るにも南に抜けるにもこの国道がライフラインで、村にとっては必要不可欠な道路である。ただ手持ちの地図によると「崩落危険箇所」という文字が見える。昨年の台風12号で大きな被害を受け、またそれ以外にもしばしば豪雨に遭う地域である。その豪雨の爪痕が今でも残る箇所があちこちに見える。元の姿を完全に取り戻すにはかなりの時間がかかることであろう。
八木を出てから4時間近くなったところで十津川村役場に到着。ここで、八木から乗ってきた一人旅風の女性が下車。これで八木からの乗り通し組は5人。この役場の向かいに十津川の歴史資料館もあるし、道の駅や川を渡れば日帰り温泉もある。ここで途中下車しておよそ2時間後のバスに乗るというのも観光の一手である。この十津川の資料館も、村の自然、そして熊野への道、幕末の天誅組のことも紹介されているし、明治の豪雨で村が壊滅的な被害を受け、北海道へと集団移住することになった様子も触れられている。なかなか見ごたえある施設である。
この辺りは村落も見えるところで、村内唯一の十津川高校もある。ネットで見ると偏差値が36とか34とかあるが、地域性を考えれば偏差値では測れない、なくてはならない教育機関である。それにしても通うのが大変だろうなと思うが、そこは寮があるという。
十津川温泉に到着。ここで最後の休憩である。バス停の向かいのダム湖に面して公衆浴場がある。
さすがに10分休憩では入ることができないが、入口のところに手湯と飲用泉があり、コップで飲むことができる。今回は一気通貫で行くため、十津川温泉はこれで体験したことにする。
温泉郷にほど近い昴の郷で下車があり、車内は6人。うち5人は八木から乗車、1人は先ほどの十津川温泉からの乗車である。ここで奈良県と和歌山県の県境の険しい区間を行く。いくつあるか数えきれないほどのカーブで高度を上げる。いつしか十津川がはるか下になった。上から見る川は数日の豪雨で土砂を含んでおり、濁っている。またこれが暴れ川にならないかヒヤヒヤものである。
現に国道も崩落している箇所があり、片側一車線通行のところもある。
そうかと思えば熊野方面から伸びてきた立派な橋脚の新しい道路も見える。初めてこの区間をバスで通った時はまだ建設中で、運転手が「橋脚1本で1億円や」てなことを言っていたのを覚えている。ここまで立派な道路ができれば少々の豪雨でも大丈夫だろう・・・とは思うが、人間の予測を超えた大きな災害をもたらすのも自然である。
このまま真っ直ぐ行けば熊野本宮は近いが、集落を通るために途中で降りていく。集落を通るからといって乗降があるわけではないが、山、川とともに暮らす人々の生活を感じるうちに、「和歌山県」の標識。ようやくに奈良県を超えて和歌山県に入ってきた。
このあたりから人家も開けてきて、熊野本宮に到着。参拝客で駐車場もほぼ満車である。ここで、八木から乗っていた用務客風とおぼしき男性が下車。八木からの客は残るは4人ということになった。本宮にも参拝せずに素通りするのも失礼な話かとは思うが、そこは大斎原の大鳥居に手を合わせることでご勘弁願おう。
ここからは湯峰温泉、川湯温泉というところを通る。二つの温泉の間を利用する客もいた。川湯温泉には大きな露天風呂もあるというが、何よりも川での水遊び客が多い。何だか「夏」という言葉が濃いものとしてバスの車内にも伝わってくる。
二つの温泉を経て新宮に向かう。後は道幅も広くなるし安定した走行を・・・というところだが、ここからの区間がまた激しかった。
国道への影響というのはむしろここから新宮市内にかけてのほうが大きいようだ。瀞峡めぐりの拠点である志古からは途中の停留所を飛ばす「特急」区間になるのだが、川幅の広い雄大な熊野川に沿う中で、途中何箇所か片側交互通行のために停まる。
対岸を見ても山の真ん中がパックリと割れる感じで土砂崩れになっているところがあり、水が滝となって流れ落ちているところもある。ガードレールが切れているのも確認できる。うーん、滝というのはこういうメカニズムでできるのかな、と妙なところで感心する。
ただここまで大きくなると、これは土砂崩れなのか、あるいは木材の伐採によるものなのか、よくわからない。
熊野川の水質観測室の建物も崩落のために壊滅してしまったようだ。こうして見ると、確かに国道は開通してバスも行き来できるようにはなったが、まだまだ全面復旧の道は遠いようだ。
最近では関西のニュースでもほとんど出ることのなくなった奈良・和歌山の水害であるが、現地に来て改めて被害の大きさを感じるところである。
片側交互通行の影響でバスの遅れも出たようであるが、少なくとも今車内にいる5人は、別に急ぐわけでもなく、長い道のりを淡々と進むに身を任せるだけである。私も、まだまだ復興道半ばの熊野の様子を見ることができただけ、ためになったバス旅行であったと思う。
新宮の市街地に入ってきた。新宮高校の停留所で十津川から乗ってきた客が下車し、これで4人。「長かったバスの旅も間もなく終わろうとしております・・・」というアナウンスが、これ絶対狙っているなという感じで流れる。新宮速玉大社の前を通り、新宮城の脇を抜けて中心部に入り、ようやく終点・新宮駅に到着。定刻からは20分ほど遅れたようであるが、無事に山を抜け谷を越え、海べりの新宮までやってきた。改めて紀伊半島の長さと深さを感じさせるだけの乗りごたえのあるバスである。
さてここで料金支払い。整理番号1番の八木駅からは5250円。私の前、先頭席に座っていた客は何やら紙のきっぷを出していた。後でわかったことだが、八木から新宮の路線について、途中の一部区間での途中下車可能、2日間有効のきっぷがあるそうである。それで同じ5250円。二つ折りの台紙は開けるとイラスト地図になっており、中央にバスが飛び出るという造り。八木駅横の観光案内所で購入できたということで、乗車記念にそっちがよかったかなと思う。
で、私はPitapaで精算しようとするのだが、タッチしてもエラーになる。運転手が「エリアが違うから、ちょっと操作しますわ。八木からやね」と言って「5250」と入力し、「はいどうぞ」とやるがそれでもエラー。まさか発車時にちゃんと読んでなかったのかな、もしダメなら現金で払うわと言おうとしたところ、「何か上限が1000円みたいやわ。1000円ずつ精算するんで5回タッチして」ということで、タッチ5回。最後に250円分をタッチしてようやく精算完了となった。方法はともかく、ICカードで全区間走破できるのもワイルドな路線である。
まだ日は高いが、この日の行事はほぼバスに尽きる・・・ということで、次に来るのは特急であるがそれに乗ってしまおう。まずは今夜の宿泊地である紀伊勝浦に移動する・・・・。
大和八木から新宮に向かう6時間半の路線バスの旅。旅行記が1時間あまりの行程で結構な量を費やしたので少しずつスピードを上げていこう。
五條バスセンターを出発し、吉野川の手前で国道168号線に入る。案内板には「十津川 新宮」と出ているが、ここからが長い道のりである。
昔ながらの風情を残すという五條の街並みも一度歩いてみたいなと思いつつ、吉野川の橋脚を渡り、前方に屏風のようにそびえる奥吉野の山々に挑んでいく。
ほどなく、バス専用の道路が分かれるのを見る。かつての国鉄が五條と新宮との間を鉄道で結ぶべく建設を進めた「五新線」の跡地である。途中まで橋脚を立て、トンネルも掘ったにも関わらず結局未成に終わり、バスの専用道路としても活用されたところである。私の乗っているバスはその橋脚を車窓の一つとして時折交差していくが、現在もこの高架橋をバスが走ることはあるのだろうか。
五條バスセンターでは10人いた乗客も2人下車し、車内は8人。そのうち八木からは6人。ここからしばらくはバス停での乗降もなく、時折後続のクルマに道を譲るためにバス停に退避するくらいで、淡々と走っていく。こういう実情から「特急」バスを名乗っているのかしら、と思ってしまう。まあこれも鉄道のローカル線を行く鈍行列車の味わいに似ているのかもしれない。ローカル線の車窓の友といえば缶ビールかワンカップを傾けたくなるが、トイレのついていないバスとあってはリスクが大きいとしてその辺りの水分は我慢することに。
かつての南北朝時代の北畠親房の本拠地にもなった賀名生を過ぎ、いよいよ山深くなる。先ほどまで青空が広がったかと思えば、にわかにバスがワイパーを使うようになるなど、天候も変わりやすいところである。その中でさしかかるのは天辻峠。
ここでは登坂車線もあり、バスは当然そちらを走るのだが、スピードもガクンと落ちる。時速で20キロくらいしか出ていないのではないだろうか。私のマイカーでかつて走り抜けた時も相当苦労した覚えがあるから、バスにとっては難儀な区間である。同じ県内ではあるが、吉野川水系と熊野川水系との分水嶺に当たるところである。
その峠をようやく越して、少々楽な感じで大塔地区に入る。こちらも南北朝、大塔宮護良親王ゆかりの地であるが、現在は豊かな自然や温泉をアピールしているところ。このあたりもまた立ち寄ってみたいところである。
温泉や宿泊施設のある「星のくに」を過ぎると急な下り。眼下に阪本の集落が見える。いよいよ押し詰まってきた感じの車窓であるが、奈良県の南5分の1を占める十津川への道はまだまだ続く。この辺りはダム湖も広がるが、この数日の豪雨の影響で水もかなり濁っている。まだ暴れ川にならずに済んだだけ幸いだったということか。
そのダム湖の一つ、猿谷ダムの脇を過ぎてすぐのトンネルである。この辺りまで来ると道幅もせまくなり、中央線もなくなる区間も増えてくるのだが、このトンネルも狭いところ。そこへバスが入る。と、前方からもトンネルに入る乗用車。まあハンドル捌きがそこそこできれば何とか離合できるかなというところだが、対向の乗用車は「どうしよう・・・」という感じで動きが取れない。後ろにもう1台来ていることからバックするのも難しいようだ。
そこへ、バスの後ろから何台ものバイクの爆音。五條方面からやってきて、前方にバスが居座っているのが気に食わないのか、エンジンを吹かして煽り立てる。また対向車もいることから、そちらに向かってのバッシングもあっただろう。
するとそこで対向車の後続のクルマの天井で赤いパトランプが光る。「そこのバイク!あおるのをやめなさい!」という車内からの警告。ただそれが聞こえないのかどうなのか、バイクの爆音はやまない。
そうするうちにバスと対向車が少しずつ動く形で、どうにか離合ができた。となれば、パトカーとバイク集団もすれ違うことに。「あおるのをやめろ!」「じゃかぁっしんじゃボケ!!」というやり取りがトンネルの中に響き渡る。その後バイクがどうなったかは・・・知らない。
熊野川に沿ってバイパス線の建設が進む。いずれ五條まで通る日は来るのだろうが、沿線の集落の足というバスの性格上、わざわざ旧道を通るところも。それにしても、こういう山間を切り開く日本の土木技術力というのもすごいなと感じさせる。それも自治体をめぐる「カネ」の力ということだろうか。一方で崩落したままの斜面もあり、台風や豪雨の爪痕というのが生々しい。
そんな大塔に「夢乃湯」という日帰り温泉施設があるのだが、この日はやけにクルマが多かった。敷地の駐車場に入れず国道の路肩に停めるクルマも結構あった。こんなに賑わう施設だっただろうか。ただ、夜のローカルニュースを見ると、昨年の台風12号の被害により、施設も避難所として使われるなどした影響で営業を停止していたのが、この15日で営業を再開したとのことである。営業再開記念ということで入浴料も無料だったとか。まだまだ多くの傷跡があるであろう奈良・和歌山であるが、これは復興に向けた明るいニュースである。
夢乃湯を過ぎてしばらく走ったところでようやく十津川村に入る。最初の見どころは谷瀬の吊橋。ここに近い上野地で2回目の休憩。狭い道を巧みなハンドル捌きで切り抜け、狭い駐車スペースに入る。20分ほど停車するが、「吊橋を対岸まで渡りますと発車時刻に間に合わない恐れがありますのでご注意ください」と運転手に送り出される。
その谷瀬の吊橋。これまでにたもとで見物したことはあっても、高所恐怖症の私としては時間云々よりもまず渡ることができない。
バスの乗客の中には真ん中あたりまでホイホイと出て折り返してきた人もいたが、私はといえば・・・・20メートルくらい進んだところでギブアップ。そりゃ、足を踏み出すごとに足元の板が動いたり、反対側が少し浮いたりという状況では(足を出すと板が浮くのは私の体重のせいかもしれないが)、先に進めるものではない。思わぬ冷や汗をかいた。
ここで昼食とする。大和八木で食糧は買い込んだのだが、橋のたもとの土産物屋で十津川産食材のめはり寿司を見つける。これをバスの発車までにいただく。何せ走行中にものを食べるというのは、このバスではまず不可能なこと。幕の内弁当なんぞ食べようものなら、辺りにおかずが飛び散って仕方ないだろう。にぎりめし、サンドウィッチあたりがバスの食事としては手頃かと。後、バスだからといっても、アルコールは酔いを助長するからやめておいたほうが・・・・。
ここで乗客が2人増え、再び2ケタ10人となり発車。ようやく十津川に入ったのはいいが、村の役場、あるいは温泉地区はまだまだ遠い・・・・。
大阪からバスで6時間半といえば、どこまで行けるだろうか。
時刻表をさらっと見てみると、東海道であれば静岡までは十分に行けるし、中央道方面なら長野、四国なら松山、須崎、山陽なら広島はとっくに過ぎるというところである。
ただこれらはもちろん、高速道路を使用した「昼特急」とでもいうべきバス。リクライニングシート、車両によっては3列配置で、トイレも完備。長距離の格安移動手段として人気である。
ところが、この6時間半をかけて地道、しかも山の中のカーブのきつい隘路を、ローカルバスで行くとしたらどうだろうか。
・・・その格好の区間が、大和八木から十津川、熊野本宮を経て新宮に至る、高速道路を使わないという点で日本最長となる路線バスである。それが1日3往復、一応「特急」は名乗るが、166.9キロ、一部の停留所を除く167の停留所で客扱いをしながら走るローカルバスである。運行する奈良交通のHPではわざわざこの日本最長の路線バスのために専用ページを設けているほどである。
これまで五條から新宮まではクルマで走破したこともあるし、バス乗り継ぎでも一度走ったことがある。途中下車しながら観光地を見て回る、あるいは温泉に入るのもいいが、今回は、起点の大和八木から新宮まで、一気に乗ることにしよう。列車のほうの長距離鈍行ということであれば根室本線や飯田線、山陽本線に残るところであるが、それに近い趣は感じられるだろう。
ということで、近鉄南大阪線と橿原線を乗り継いで大和八木駅前に現れる。まだ朝の9時だが日差しが照りつけて暑く感じる。乗り場の案内には小さく「新宮」の文字が見えるが、この乗り場からはイオンモール橿原アルル行きや関西空港行きのリムジンバスが発車する。それらが来るたびにそこそこの乗客が吸い込まれていく。
それらをやりすごす中で、最近のバリアフリー対応とかコミュニティバスとは違った昔ながらの車両という感じのバスが入ってきた。これが新宮まで6時間半、奈良南部の山々に挑む車両である。
昔ながらの車両の側面にあるボード式の経路案内を見ると、知らなければ本当にどこに連れて行かれるのやらという不安がよぎるかもしれない。ただ扉が開くと「Pitapa」の文字、「ICカード ここにタッチしてください」とある。「これはひょっとして対応するのか」とまずはピッとタッチする。これが有効なら、5000円以上の現金の持ち出しがまずは抑えられるので旅の進め方としてはいいのかなということで。
車内はリクライニングこそしないものの先頭を除いて2列シートが並ぶ。運転席左側2列目の席に陣取る。先頭でもよかったのだが荷物がじゃまになるし、ここでも前方の展望はばっちり楽しめる。前の席の横に足を伸ばして過ごすことができるのもよい。
八木から乗り込んだのは8人。この中で新宮まで乗りとおそうかという人は何人いるだろうか。地元の人らしいのが2人、用務客ふうの男性が1人、旅行者らしい女性が1人、あとは「このバスに乗りに来た」という風情が私を入れて4人。その中でも最も大きな旅行バッグを抱えた私が一番浮いているかもしれない。
9時15分、8人の乗客を乗せたバスは出発。前方には液晶モニタ式の運賃表。次の橿原市役所前を皮切りに、途中の停留所の表示はすっ飛ばして「終点 新宮」の文字。主要な停留所までの所要時間があるが、新宮は6時間半後の到着。もう、どないなとしてくださいな・・・・。
まずは橿原市から高田市の近郊区間を走る。ごく普通の生活路線で、早速に途中の停留所で地元客が1人下車。この後、近鉄南大阪線の高田市駅の下をくぐる。高田市・・・今朝通って来ましたがな。時間の効率ということを考えれば、この時点で無駄をやっている(ドライに考えれば、もっと遅くに自宅を出発しても間に合ったということ)。
続く御所でも客を拾うが、それでも最大で12人。国道24号線に入り五條を目指す中で下車する人もおり、この辺りでは生活路線としての役割も果たしている。
八木から1時間あまり経過して五條バスターミナルに到着。ここで10分の停車となり、隣接するイオンのトイレで用を足す。いよいよここから奈良南部、西吉野の山々に分け入っていくのである。いよいよここからが本番と言ってもいいだろう。
ここで下車した人もおり、車内は8人。八木からの乗客は私を含め6人に減っていた。別にサバイバルレースをやっているわけではないのだが、果たしてこの中で全区間走破者が何人いるのかは気になるところである・・・・。
夏の行楽シーズンも本格的に・・・といいたいところであるが、この数日来、九州に大きな被害を及ぼした集中豪雨。このところ「湿舌」という気象状況で雨雲が発生し、豪雨になるということが起こっている。昨年の東日本大震災、台風12号に次ぐくらいの甚大な被害になりそうで、九州はちょっと旅行どころではないところであろう。
そんな九州の豪雨の中であるが関西は何とか天候も持ち直したところである。出勤してそういうニュースを見た後での帰り道。乗り合わせたJR大阪環状線の車両はまた「1社で広告枠買占め」状態であった。
それを見て「おっ」と思ったのが、このポスター。
「おしい!広島県 夏のキャンペーン」。
今年は広島県の観光キャンペーンということで「おいしい」ではなく「おしい!」がキャッチコピーで使われていることは、拙ブログでも以前に紹介したことがある。一通りのものは揃っている、これぞ広島名物というのは数多くあるのだが、どうも「日本一」にはなれない。観光資源があるのに、もう一つ殻を破ればもっとメジャーになれるのになというもどかしさもあるところである。宮島しかり、広島カキしかり、お好み焼きしかり、カープしかり、広島ヤクザしかり・・・(ヤクザは違うかな)。
その夏のキャンペーンということでポスターに登場したのは三原タコに広島レモン。タコといえば関西では明石という絶対的なブランドがあるだけにちょっと苦しいかなという気がするが、レモンをはじめとした柑橘類はもっとアピールしてもいいのではないかと思う。
うーん、やはりこう「広島」というのを突き付けられると、また訪れにゃあいけんのぉ・・・・という気持ちになってくる。どこかスケジュールに入れられるだろうか。
その広島のアンテナショップが明日7月16日、東京銀座にオープンするとか。その名も「tau(たう)」。「たう」というのは広島弁でいうところの「(高いところに手が、プールの底に足が)届く」という意味(否定形は「たわん」)。この名前の由来は「人々の手が届くところに広島の宝物を提供する」ということだが、果たしてどこまで盛り上がるだろうか。
「たう」といえば、今年の広島東洋カープのAクラス入りに手が「たう」かどうかというところ。現在は4位であるが、野村監督の采配がボロカスに言われている割には健闘している。何といっても憎き阪神タイガースの上を行くというのは、カープファンの溜飲下がるところではないだろうか。夏場の投手陣の踏ん張り次第、堂林や新外国人の打線の活躍次第で「クライマックスに『たう』」ところだろうか。あと一歩のところで「おしい!」とならないよう、こちらも注目したいものである・・・・。