まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第8回中国観音霊場めぐり~尾道七佛めぐり

2019年11月30日 | 中国観音霊場

11月24日、この日は尾道の札所めぐりである。天気が下り坂なのが気になるが、前日から予報をこまめに見ていると、雨が降り始める時間が少しずつ後にずれている。帰りは尾道駅前16時02分発の高速バスだが、それまで持ってくれるか。

さて、中国観音霊場の札所として、尾道には第9番の浄土寺、特別霊場の西國寺、第10番の千光寺がある。寺の町でもある尾道にあって、この3ヶ所は観光スポットとしても有名である。私も過去に訪ねたことがあるが、今回は久しぶりのことだし、これまで意識していなかった中国観音霊場の札所として訪ねるとなると、やはり新たな気持ちになる。

この3ヶ所を東から順に訪ねればいいのだが、「尾道七佛めぐり」というのがあるという。上記3ヶ所の他に、海龍寺、大山寺、天寧寺、持光寺の4ヶ所が加わる。七福神めぐりを意識した組み合わせだが、尾道を古寺巡礼をベースとして回ると、自然につながるという。ならば、中国観音霊場めぐりとセットにしよう。七佛めぐりとしての朱印もあるようだ。

この七佛めぐりの案内を見ると、いずれも拝観・納経は9時からとある。普段の札所めぐりの感覚では遅いスタートだが、尾道ではこれがルールなのだろう。ならば、朝はゆっくりできる。

ということで、バイキング形式の朝食を済ませ、チェックアウト後に尾道駅前に出たのは7時半。ようやく曇り空が明るくなったかという頃合いである。まずは、もっとも東にある海龍寺に9時に着くようにのんびり歩けばいい。

目の前は昨日から見ている尾道水道。ふと、渡し船に乗りたくなった。向島まで往復しても時間はある。ちょうどやって来た渡し船に、地元の通学生やサイクリストたちとともに乗り込む。しまなみ海道を自転車で走るコースでも、尾道から向島へは渡し船の利用が推奨されているという。

向島までわずか数分だが、両側の景色は見ごたえがある。運賃は100円。係の人が集金に来る。

海岸線から少し入ったところに到着。向島から尾道本土に向かう人たちが待ちかねたように乗り込んでいく。休日でこうなのだから、平日は尾道~向島ならではのラッシュが繰り広げられるのだろう。本数もピーク時には6~7分おきに1便というのは、鉄道とほぼ変わらない。

今回乗ったのは駅前渡船だが、近くからは福本渡船というのがある。ただし日曜日は全面休み。こうした棲み分けもあるようだ。

再び渡船で尾道駅前に戻り、この後は海岸沿いに歩く。散策コースとしても整備されているので歩きやすいし、写真になるスポットも多い。絵や彫刻も飾られていて、自然の景色を活かした美術館にもなっている。

向島との間にはさらにもう1本の渡し船がある。こちらは乗らずに入港の様子を見る。自転車とともにクルマも降りてきた。

尾道が中世からの優れた港であることをアピールする一角もある。広島県は太平洋戦争にて、広島に原爆が落とされたのを始めとして、各地の港も空襲で壊滅的な被害を受けたが、尾道だけは空襲を免れた。そのおかげで寺や文化財も数多く残された。

海岸に沿って住吉社や胡神社といった、海に関係ある神を祀る祠もある。
 
やって来たのは浄土寺の山門に続く石段。この途中を山陽線の線路が横切っていて、列車が行き交うのを見ることができる。これも尾道らしい景色である。今は黄色1色の車輪がほとんどだが、この景色には昔の緑と橙色の「湘南カラー」のほうが似合うように思う。
 
時刻は9時。このまま浄土寺にお参りすればよいのだろうが、七佛めぐりの海龍寺はこの先にある。浄土寺の境内を通り抜けても行けるのだが、石段の途中、線路をくぐったところの細道を入る。しばらく進むと静かな佇まいの海龍寺の山門に着く・・・。
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第8回中国観音霊場めぐり~尾道の夜

2019年11月28日 | 中国観音霊場

尾道の駅前では23日に本の販売のイベントが行われていた。私が駅に着いた時はちょうど店じまいの頃合いだった。

尾道に泊まるのは初めてである。ホテルの数も少なく、あまり泊まるところというイメージもないのだが(宿泊なら福山や三原のほうが選択肢がありそうだ)、最近ではゲストハウスなど外国人も利用する施設はちょこちょこ増えているようだ。

その中で選んだのは、駅から少し西に行ったホテルアルファーワン。チェックイン時にはおしぼり(温・冷)のサービスもある。オプションで選んだ部屋にはマッサージチェアがあり、テレビをモニターにしたパソコンもある。ただし、パソコンのサービスは近々終了という。Windows7のサポートが終了することも関係あるのだろう。

さて夕食。事前にグルメサイトなど見ていたが、特に決め打ちはしていなかった。ホテルの1階に海鮮の店があり、めぼしい店がなければここにしようかというくらいだった。それが、駅に来てみてこれは!という店があったのでそこに入る。

「食堂ミチ」というが、のれんには大衆酒場の文字がある。単なる大衆酒場ならどうということもないが、ここは駅前どころか、リニューアルオープンした駅舎の中に入っている。元からあった店というわけでもないようだが、昼は食堂、夜は大衆酒場。なお土日は通しで営業しているが、入ったのは昼の定食がオーダーストップの頃合い、本格的な居酒屋タイムに入るところである。

ビールはサッポロ、瓶は赤星である。注文すると「後ろのケースから取ってください」とある。横の冷蔵庫からアテを取ることもできる。まさに大衆酒場スタイルだ。

尾道だから魚メインかなと思うがこの店では必ずしもそうではなく、豚の角煮が一押しだという。柔らかく煮込まれた一品は美味い。
 
ホッピー、しかもキンミヤ焼酎もある。尾道でキンミヤホッピーをいただけるとは予想していなかった。リニューアルされた尾道駅、2階にはしゃれたカフェ、バーがあるのだが、1階にこうした濃い店を入れるとは、どういう経緯があったのかな。

その中でレモンサワーは地元のこだわりがあるようだ。他のサワーと値段は同じだが、瀬戸田レモンを生で搾り、キンミヤ焼酎の上から炭酸水を注ぐ。「搾ったレモンでタワーを作りませんか?」というポスターもあり、たくさん積んだ人を表彰した張り紙もある。それだけ飲んだということだが、多いところでは百何個とかあったので驚く。よく見るとグループでの記録だというが、いやグループにしても一人当たり10杯以上飲んでるぞ。

これも名物という「浜子汁」を頼む。浜子汁、または浜子鍋は生口島の郷土料理で、塩田で働いていた浜子と呼ばれる人たちが仕事の合間に食べていた海鮮鍋である。時季により具材は変わるのだろうが、鍋をすくうとあさりや小エビがふんだんに入っている。

これは前座、露払いのようなもので、鍋の中央に陣取っていたのは鯛のアラ。

そして親玉のように出てきたのはワタリガニの半身。尾道では「ワタリ祭り」ということで、旬のワタリガニ料理を提供するキャンペーン中という。この「ミチ」はキャンペーンではないが、旬の食材として入れたのかな。胴体から身をほじくるくらいだが、いいものに出会えた。こうした海鮮が混じった汁もおいしく、もし鍋の下にコンロがあったらご飯を注文して雑炊にしてもいいと思う。

すっかりいい心持ちになったところで出ると、外はすっかり暗くなっていた。尾道水道に面した芝生広場でしばらく憩う。目の前を向島との渡し船が行ったり来たりするのをボーッと見やる。普段の生活ではなかなか見られない景色だ。

思い出すのは、夜の尾道水道といえば、昨年だったか、今治の刑務所から脱走して、向島に潜伏した後に尾道水道を泳いで渡り、最後は広島駅横のネットカフェにいたのを通報され、マツダスタジアムの近くで身柄を確保された男がいたこと。あの時は、富田林警察署から脱走して四国や中国を自転車で回っていた男もいて、二人の脱走劇が結構話題になったものだ。それはさておき、尾道水道を前にすると、この距離なら泳いで渡れるのではないかと思わせるものがある。渡し船の運航がない時間なら特に。

景色を楽しんだ後、締めということで選んだのは尾道ラーメンではなく、お好み焼。この辺りならいわゆる広島流なのだが、一口に広島流といってもいろいろあり、こちらでは「尾道焼き」というのがある。入ったのはホテルにほど近い「すみちゃん」。

尾道焼きの特徴としては、豚肉の代わりに砂ずり、イカ天が入ることとされている。さらにこの店ではレンコン、カマボコが入るとあり、、ここまで来ると正に「お好み焼」。ベースであるキャベツ、そば、玉子は変わらないので、一品でさまざまな栄養が取れることには変わらない。

砂ずり、レンコン、いずれも歯応えある食材であるが、下こしらえをしているのか極端に硬いわけではない。独特の味わいを楽しむ。

ホテルに戻る。シャワーを浴びた後、普段使う機会はないのだがせっかく置いているのだからと、マッサージチェアを使う。コースをお任せにすると15分ほどで首から全身をやってくれる。調子に乗って2サイクルやると実に気持ちよかった。何やかんやで日々の疲労がたまっていたのかな。

マッサージ効果でこの後は早くに眠る。翌日は尾道3ヶ所めぐりだ・・・。
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第8回中国観音霊場めぐり~平山郁夫美術館

2019年11月27日 | 中国観音霊場

向上寺からレトロは「しおまち商店街」を抜けて、平山郁夫美術館に到着。こちらはだいぶ昔に一度訪ねたことがある。

平山郁夫といえばシルクロードとか奈良を描いた画家というイメージがある。いずれにしても仏教に関係するところ。まずロビーに飾られているのが、玄奘三蔵がインドから仏典を持ち帰る情景を描いた「仏教伝来」である。

美術館といえば撮影禁止のところがほとんどだが、ここでは全館での撮影が可能である(ただし、フラッシュ撮影や三脚使用、自撮りは禁止)。展示は平山郁夫の生涯をたどる構成で、小学生から中学生時代にかけての作品もある。

12月1日まで秋の展覧会「世界遺産 敦煌」展が行われている。平山はそれまでにもシルクロード沿道の各国を訪ねていたが、敦煌を初めて訪れたのは1979年のこと。現在は北京から直行便で行くことができるが、当時は空港もなく、鉄道やクルマを乗り継いでまる3日かかったという。その敦煌にある莫高窟を描いた作品は見ごたえがある。

この展覧会の見どころの一つに、「スーパークローン文化財」の展示というのがある。文化財の保存と公開の両立として、クローン技術により文化財を再現しようというものである。東京藝術大学が開発したもので、最新のデジタル技術と伝統美術の職人芸を組み合わせた作品たちは単なる模倣や複写の域を超えて、紹介記事によっては「本物を超越した」という表現もある。

今回展示されているのは、敦煌莫高窟の第57窟。第57窟は敦煌の中でも最も小さい部類だそうだが、中の壁画の美しさで知られている。現物は保護のため公開されていないそうだが、それが敦煌から遠く離れた日本で体験することができるというのがクローン文化財である。多くの菩薩が描かれた壁画も、単に写真パネルを貼ったものではなく、石の質感が出ている。

少し前に鳴門の大塚国際美術館に行ったが、陶板画ということで製法は異なるが、あれもクローン文化財の一種と言えるだろう。

敦煌の莫高窟との出会いも、平山が後にユネスコの親善大使として世界各地の文化財保護に取り組んだことにつながる。特に政治情勢が不安定な地区ということで、カンボジアのアンコールワットや、アフガニスタンのバーミヤン(これは残念ながら後に破壊されてしまった)、北朝鮮の高句麗古墳(北朝鮮で唯一の世界遺産)などの保護にも携わった。

一方で、故郷である瀬戸田、尾道というのにも愛着があり、先に触れた「しまなみ海道五十三次」などの作品群もある。シルクロードを描いた雄大さもすばらしいが、日本の瀬戸内の穏やかな景色の作品も、ほのぼのとしてよいものである。

一通り鑑賞して美術館を後にする。その隣にあるのが耕三寺で、ちょうど紅葉まつりの時期ということもあって大勢の人で賑わっている。西の日光とも呼ばれる建物群は見どころが多いが、今回は門の前を素通りした。

「しおまち商店街」を抜けてフェリー乗り場に戻ることにする。途中人だかりができているのは肉屋の岡哲商店。その店頭で売られているコロッケが名物で、多くのテレビ出演の紹介や有名人の写真、サインが並ぶ。それがまた人を呼び、ちょうどしまなみ海道をサイクリング中の人たちも多く立ち寄って、店頭でコロッケをかじっている。私も昼食が軽めだったので1個いただく。味はまあ、普通に美味い。

こういうのをいただいたし、本日の札所めぐりは終了ということで何か一杯を。酒屋に入って見つけたのが、瀬戸田レモンを使用したというチューハイ。瓶で売られていて1本買い求め、フェリー乗り場横の岸壁でキュッとやる。

この時間だと、15時05分発の瀬戸田行きがある。そしてその前に15時発の尾道行きというのもある。この日は尾道泊まりなのでそちらにも乗れるが、実は宿泊用のバッグは三原駅のコインロッカーに入れている。少し時間があるので乗り場で待っていると、サイクリングの人たちが次々にやって来て桟橋に行列ができる。この人たちは尾道行きに乗るようだが、これだけの自転車が乗るくらいなら大型船が就航しているのかな。

そしてやって来たのは、先ほど三原から乗ったのより少し大きいくらいの小型船。歩行者だけならともかく自転車が乗れるのかな。そう思って見ていると、係員が自転車のタイプによって船の前後に誘導し、自転車を隙間なく積んで行く。何とも器用なものだ。もっとも自転車の数が多くて1隻では乗り切らなかったようで、桟橋の別の場所に控えていた続行便らしきもう1隻にも誘導していた。

こうして自転車も満載した尾道行き。その様子を見ていた、三原行きを待っていた観光客が「あれだと、先に並んでいた人の自転車が一番奥だから、着いた後出してもらえるのは一番最後になるな」と分析していた。まあ、先を急ぐわけではないだろうが・・。

続いてやって来た三原行き、今度は弓場汽船の船である。こちらは尾道行きとは対照的に自転車はママチャリが2台。こちらは沢に立ち寄って数人の乗船客を乗せ、三原に直行する。

三原からは16時04分発の播州赤穂行きに乗る。糸崎から尾道の間では車窓に海を見ることができる。そろそろ夕方の気配になってきた。

尾道に到着。駅のホームは昔ながらの造りだが、改札を出て驚いた。駅に降り立つのは何年ぶりかだが、駅舎が今年の3月にリニューアルオープンしたばかりということで、斬新なデザインの建物である。また駅前も素朴な港町風情だったのが、プロムナードも設けられすっかり表情が変わっている。

この夜は尾道に宿泊し、翌24日は朝から夕方にかけて中国観音霊場・尾道3ヶ所をめぐることに・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~第11番「向上寺」

2019年11月26日 | 中国観音霊場

山の次は海ということで、三原港からの高速船に乗り込む。瀬戸田行きの便は、直近だと3年前に、マツダスタジアムに行く途中の立ち寄りということで乗っている。この時は耕三寺を訪ね、レンタサイクルにて島を渡って大三島の大山祇神社にも行った。これから行く向上寺のすぐ近くも通っているが、その時は全く意識することもなく、実は行くのは初めてである。こうした「抜け」というのは結構あるもので、他も含めて札所めぐりというのがきっかけになって訪ねるところは結構ある。ということで今回の瀬戸田行きは、向上寺と平山郁夫美術館が目的地で、同じ寺でも耕三寺に行くかどうかは行ってから考えることにする。

これから乗るのは12時10分発の便。三原~瀬戸田は2社が運航しており、やって来たのはマルト汽船の便である。同じ区間でもう1社の弓場汽船と競合するというよりは、ほぼ交互に便を出したり、途中の島に立ち寄るのがマルト汽船だったりと、それぞれ小さな船会社どうしが共存しているようである。もちろん瀬戸田までの運賃は同じで、瀬戸田や、同じ生口島にの沢まで行くのなら来た便に乗ればいいわけである。

船室の座席にも余裕があるが、天気もいいし、外も穏やかなので船尾のデッキに陣取る。途中の島で下りるのか、買い出しの食料を積んだママチャリを持ち込む外国人らしい客もいる。こういうのを見ると瀬戸内航路らしさを感じる。

定刻に出航。少し遅れて因島行きの便が続く。まずは三原の港を抜け、左手には糸崎の町並み、右手には筆影山を見る。沖合に出ても極端に揺れることもなく、風も心地よい。先ほどの山の紅葉とは打って変わった景色である。ここまでハードな歩きが多かった(まあ、夏の暑い時季だったこともあるが)中国観音霊場めぐりだが、こんなに交通機関で楽をさせてもらっていいものやらと思う。

この便は途中の立ち寄り便で、小佐木(小佐木島)、向田(佐木島)に停泊する。その都度数人が下船し、ママチャリでやってきた外国人も向田で下船した。佐木島は人口が700人あまり、小佐木島にいたっては10人いるかいないかくらいの小島だが、こうしたフェリーは欠かせないものである。

生口島に差し掛かるとまず目に入るのは内海造船の巨大な造船所。ちょうど客船を手掛けているところのようで、フェリー会社のロゴらしきものが部分的に見える。どこの会社だろうか。

高根島との間の狭い水路に入ると、瀬戸田に到着である。その港の奥に小高い丘があり、三重塔の上半分が見える。これから目指す向上寺の国宝三重塔である。

まずは向上寺を目指そうということで、港町らしく家並みが固まった一角を歩く。すると石段が現れる。寺に行くにはもう一本奥の坂道を上るようだが、この石段の先に生口神社というのがあり、その脇からも向上寺に行けるようなのでそのまま上ってみる。

生口神社は生口島の祇園社だったそうで、室町~戦国時代に生口島を拠点とした水軍の生口氏が寄進したとされている。生口島には他にも小さいながら寺社があちこちあり、生口氏や商人たちの寄進によるところが多いそうだ。

そして向上寺である。瀬戸田出身の平山郁夫は、しまなみ海道の開通を記念して「しまなみ海道五十三次」と題して水彩画を描き下ろしたが、生口島とは別に向上寺三重塔だけで1グループとした。そのくらいのスポットなのに、これまで訪ねたことがなかったとは、午前中の仏通寺ともども、まだまだ経験が足りないなと思う。

山門をくぐり、少し坂を上ると本堂に出る。新しい感じの建物だ。その背後に、先ほどと比べて近くなった三重塔が見える。

向上寺は曹洞宗の寺院である。先に訪ねた仏通寺と同じく、室町時代の応永年間に、先に触れた生口氏、そして仏通寺を開いた愚中周及(仏徳大通禅師)により開かれた。仏徳大通、ここでも出たか。記録が残る室町時代のことだから、単なる言い伝えではなく実際に携わったのだろう。

扉を開けると畳敷きの空間が広がる。ただなぜか、靴を脱いで上がるのはためらわれる。これも外のところでちょこちょこっとお勤めとする。こういうのは、これまでの札所めぐりのほとんどが真言宗か天台宗の系列だったのと比べての禅宗系寺院の違和感だろうか。無邪気にお賽銭をあげて「観音様、お大師様、よろしくお願いします」と手を合わせるのとは少し世界が違うというのか(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の系統についてはひとまず置いておくとして)。

この本堂は2010年の再建で、なるほど新しいわけだ。かつては他にもいろいろお堂があったそうだが、江戸時代に臨済宗から曹洞宗に変わり、その後もいろいろあって失われたという。その中にあって、唯一開創時代から残っているのが三重塔である。歴代の向上寺の人たちが、何があっても三重塔だけは守ろうと受け継いで来た歴史があるのだろう。

本堂の裏手は潮音山公園という。「しまなみ海道五十三次」のスケッチポイントもある。

少し歩くと、三重塔を上から見る展望台に出る。甍の向こうには瀬戸内の海、その先は大三島。これは素晴らしい。こうした景色が楽しめるのも中国観音霊場めぐりのポイントである。

ここから再び港まで下り、もう少し歩いて平山郁夫美術館に向かう。途中の商店街のことなどは、また次回にて・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~第12番「仏通寺」

2019年11月25日 | 中国観音霊場

9時40分頃に仏通寺の駐車場に臨時バスで到着した。道路を一方通行にして駐車場に入るクルマをさばいているが、確かに道幅の狭いところで離合は難しい。他の時季ならともかく、紅葉の時季は賑やかだろう。こうした臨時バスが運行されるのはありがたい。ただ、この時季は紅葉のライトアップも行われるが夜間のバスの運行はない。

参道の紅葉も青空によく映えていて、訪れる人は立ち止まっての撮影に余念がない。またSNS映えを狙ってか、モデルのようにポーズをとって撮影する光景も見られる。それも日本人だけでなく、東南アジア系の客も多い。彼らが日本で生活する人でなく海外からの旅行者ならば、こうした山の中の寺が紅葉の名所であるとの評判がそうしたところまで広がっているということである。広島への旅行というと原爆ドーム、平和公園、宮島、尾道、しまなみ海道というところが連想されるが、そこに三原の仏通寺が入るとは。

青空に映える紅葉だが、境内の土塀や石灯籠との組み合わせもよい。バス停から少し歩いて巨蟒橋(きょもうきょう)という屋根つきの橋を渡って境内に入る。橋の手前で入山料を納めるが、その前の仏通寺川というのは寺と俗世の「結界」とされているという。橋を渡るには一切の俗塵を捨てよとあり、不心得者が渡ろうとするとどこからともなく蟒蛇(うわばみ)が現れると言い伝えられているそうだ。教えとしてはそうなのだろうが、現実のこの賑わいは俗塵がそのまま境内にもあふれているようで、まあそれは仕方がないと思う。入山料も境内の環境を維持するにはやむを得ないもので、それでも300円、しかも駐車料金は取らないというのは、関西の紅葉の名所ではあり得ない価格設定だろう。

まずはお参りということで山門をくぐる。正面には本堂にあたる仏殿がある。釈迦如来像を祀るが正面からは入れず、この後の拝観順路に従って入ることになる。この中の拝観も紅葉の時季限定とのことで、今回訪ねる順番を変えたのが良いほうに出ている。

境内の庭の砂はきれいに掃かれていて、自然と石畳に沿って歩く。その途中に納経所があり、行列ができている。帰りのバスまで時間はあるが、道順でもあるし先に朱印をいただくことにする。行列になっているのは、書き手が一人のところで、朱印をいただくほうが2種類求めるため時間がかかるからだ。途中から応援が一人入ったので多少流れがよくなった。

中国観音霊場としていただいた朱印は「圓通」。ちなみにもう1種類は「大覚殿」である。この「圓通」、以前に円通寺という名前の札所にも行ったし、何か仏教の世界では意味がある言葉なのかなと思う。ネットで検索したところでは、「仏の悟りがあまねく行き渡り、自在に作用する」という意味があるそうだが、そこから発展して「圓通大士」という言葉があり、これが観世音菩薩の別称とある。初めて目にした墨書の言葉で、一つ勉強になった。

仏通寺は臨済宗の寺院。室町時代の応永年間に、この一帯を治めていた小早川春平が愚中周及(仏徳大通禅師)という禅僧を迎えて開いたのが始まりとされている。ちょうど周囲の自然が修行に適していたのだろうか。小早川氏の保護を受けて多くの塔頭寺院、末寺を有したが、戦国の世を経て小早川氏~福島氏~浅野氏と支配者が移る中で勢力は縮小した。それでも1905年に臨済宗の仏通寺派として新たに独立し、大本山として備後地区を中心に勢力を持ち、現在にいたっている。今日は紅葉のスポットだが、普段では座禅などの修行体験も受け入れているそうだ。

達磨大師像が出迎える玄関から大方丈に入る。こちらでも達磨大師の絵がお出迎え。儀式や法要はこの大方丈の広間で行うとある。この中央に祀られているのが、中国観音霊場としての本尊である十一面観音像である。ちょっと丸顔で、童子観音と呼ばれている。拝観客が次々と手を合わせていくので、広間の片隅にてちょこちょこっとお勤めである。

続いて仏殿の後扉から入る。小早川氏、浅野氏の位牌が祀られているのを見て、正面に出る。釈迦三尊を祀り、天井には龍が描かれている。

この後は境内の紅葉を愛でる。特に川沿いの石灯籠と紅葉の組み合わせは人気のようで、撮影する人の姿が絶えない。まあ、今時コンパクトデジカメの私でもこのくらいの写真が撮れるくらいだ。

開山堂があるので行ってみる。長い石段が続く。石段に沿って羅漢像だろうか、表情豊かな石像が並ぶ。

室町時代の建物が残る開山堂では仏徳大通禅師と、その師である仏通禅師を祀るが、ここはモミジ、カエデの他にいちょうがあり、また違った鮮やかな黄色が見る人を楽しませていた。

多宝塔に向かう。こちらは昭和の建設で仏通寺の中では新しいが、ここから先ほど訪ねた境内を見下ろすことができる。対岸の岩山と合わせて雄大な景色である。かつて広島に住んだことがありながら、なぜ今までこの景色を見に来なかったのかなと思う。まあ、当時は今のように札所めぐりには関心がなかったとは言え・・。

そろそろいい時間となり、バス停に戻ることにする。来た時よりもクルマの量が増えていて、渋滞している。クルマとともに人の数も増えている。

茶店で一息、紅葉を愛でながら一杯・・という気にもなるが、この後も寺を訪ねるのでお預けだ。

駐車場の中のバス停には、行きのバスで乗り合わせた人たちが列を作っている。それでも10人ほどだから帰りも楽に移動できそうだ。そう思いつつふと前方の岩肌を見ると、「尊皇」と彫られた2文字に気づく。こんなところで尊皇って、仏通寺はそちら寄りの寺だったのか?

さすがにこれには謂れがあるのだろうと調べると、確かにあった。広島市出身で昭和の陸軍中佐・杉本五郎という人の書を石に刻んだものだという。杉本は生前、週1回仏通寺に修養のために通っていた。陸軍に入り、将来の出世も期待されていたが、「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」として望まず、貧しい部下の兵士の家庭には自分の給与の中から送金していたという。後に日中戦争で戦死したが、その直前まで息子たちに宛てた手紙が同士たちの手で『大義』という書物となり、「天皇を尊び天皇のために身を捧げることが日本人の唯一の生き方だ」という内容が当時広く受け入れられ、ベストセラーになったという。私はもちろん読んだことはないが、もし現在この書物があれば、熱狂的に支持する人と徹底的に毛嫌いする人がそれぞれ声高に騒ぐのだろうなと思う。

ただ、ここ仏通寺では、尊皇がどうということではなく、一途な、純粋な思いを持つ人物として、それが禅の心に結び付くとして顕彰しているようだ。日中戦争の時点で戦死したのはまだよかったのだと思う。もし生き延びていたら、「軍神」に祭り上げられた杉本は、大義もへったくれもない太平洋戦争の突入を見てどう感じたか。何よりも広島には原爆が投下された・・。

・・仏通寺を訪ねた当日は杉本中佐のことなど何も知らず、バスを待っていた。やって来たバスは立ち客が通路までびっしりあふれた状態だった。先に来ておいてよかった。

帰り11時15分発のバスは下車に時間がかかったので遅れての発車だったが、上記の事情で楽に座り、途中迂回ルートをたどって三原駅に到着した。次は一転して、海を渡った生口島である。駅前の再開発工事の中を抜けてフェリー乗り場へ・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~まずは三原へ、紅葉の里へ

2019年11月24日 | 中国観音霊場

11月23日の早朝、そろそろ日の出という時間に新大阪駅の山陽新幹線ホームに現れる。乗るのは6時50分発の「さくら543号」鹿児島中央行き。これまで四国めぐりでも利用した列車だが、中国観音霊場めぐりでも登場である。この先、広島、山口と回る中で乗る機会もあるだろう。

指定席は満席。今回は当初福山、尾道と回るとして、指定席特急券は福山まで購入していた。しかし、前の記事で触れたとおり、行き先を尾道、三原、生口島に変更した。仮に三原まで新幹線で乗り越しの場合はどうするか、事前に変更したほうがよいものか、前日にみどりの窓口で尋ねてみた。すると、特急券の区間を変更する場合、確保している席をいったん手放すことになり、ひょっとすると同じ席が取れないかもしれないとのこと。「さくら543号」は前日の時点でほぼ満席のようだ。そこで、乗ってから車掌に申し出てはどうかと勧められた。

これを踏まえてだが、23日は先に三原、生口島から訪ねることにした。天気予報では、23日は晴天だが24日は下り坂という。また、尾道駅からの帰りのバスは16時なので、それなら時間の融通がきく尾道市街にいたほうがよい。また三原と生口島のどちらから行くかだが、やはり紅葉は早い時間に見たほうがよいだろうし、混雑するといっても午前中ならまだそれほどでもないかな。

新大阪、新神戸、姫路と進むに連れて乗客が増えて満席になる。自由席も満席でデッキの立ち客もいるようだ。車掌も来るが、携帯型端末で着席の確認をするためか車内改札もなく、特急券変更について訊くことができなかった。まあ、三原の改札口で申し出るとするか。

岡山に到着。このまま福山まで行っても後続の「こだま729号」に乗るのは同じなので、岡山で乗り換える。前回中国観音霊場めぐりを終了した新倉敷に停車ということもある。

新倉敷を過ぎると左手に丘が見える。位置的にあそこが前回訪ねた円通寺がある丘としておく。ここから、中国観音霊場めぐりのつなぎである。

8時27分、三原に到着。新幹線改札口で係の人に事情を話すと、新大阪~福山と新大阪~三原では特急料金が同じなので追加なしでそのまま出てよいとのことだった。乗車券だと福山~三原間の運賃が別払いになるが、特急料金の場合はそれぞれの区間を比べて高くなれば差額を支払うとあり、今回たまたま同額だったのでそのまま出してもらった形である。

さて、三原駅から仏通寺である。11月24日まで紅葉シーズンに合わせた臨時バスが出る。駅前のバス乗り場に案内が貼られていて、これから乗るのは9時08分発である。仏通寺まで途中停車はなく、所要時間は約30分とある。来るのを待つうちに10数人の行列ができるが、着席は問題なさそうだ。運賃は630円、ICカードを使うこともできる。

バスは市街地を抜け、国道2号線に出る。沼田川沿いのこの区間を通るのも久しぶりだ。昔の広島勤務時代、この時はクルマを持っていたこともあり休みを利用してドライブしていたが、高速料金がもったいないとか、鈍行の鉄道旅行に通じるとか言って、国道2号線を延々とたどることも多かった。もう15年以上前のことだが、国道2号線からの案内板で仏通寺という名前には覚えがあった。実際に訪ねたことはなかったが・・。

時おり道幅の狭いところでの離合はあったが、順調に走る。

寺が近づくと、周辺の一方通行の規制がある。一般車は脇道に迂回するよう指示があり、結構迂回してから仏通寺の門前に出ることになる。一方バスは、対向車の通行を一時ストップさせたうえで通常の最短ルートを行く。これも路線バスならではの優遇措置だ。時折歩く人とすれ違うが、ハイキングというよりは数百メートル離れた臨時駐車場にクルマを停めて、歩かざるを得なかった人たちのようだ。
 
駐車場の中に転回スペースがあるバス停に到着。駐車場はもちろん満車で、迂回して上からやって来たクルマは寺からかなり手前の臨時駐車場に誘導される。いやそれにしてもクルマの多いことよ。

帰りのバスは11時15分発とする。三原駅行きの最初の便なので、乗るのはここまで一緒に来た客たちだけのはずだ。それなら混雑もない。

仏通寺の山門までは少し歩くが、早速鮮やかな色合いのお出迎えである。山あいにこのような素晴らしいスポットがあったのかとうなりつつ、今季初めての紅葉見物である・・・。

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第8回中国観音霊場めぐり~今回から広島県へ

2019年11月22日 | 中国観音霊場
今年の6月に始めた中国観音霊場めぐり、これまで7回のお出かけで岡山県の8ヶ所を回り終えた。7回かかったのは日帰りが多く、1回で1ヶ所または2ヶ所というペースだったからだが、鉄道三昧や野球観戦などさまざまなお出かけと組み合わせたこともあって楽しめた。

さてこれからは2県目の広島県に入る。広島県も広いが、札所があるのは福山(明王院)、尾道(浄土寺、西國寺、千光寺)、生口島(向上寺)、三原(仏通寺)、広島(三瀧寺)、宮島(大聖院)である。これは備後シリーズと安芸シリーズとして、それぞれで1泊2日、あるいは往復新幹線の日帰りで組むと、合わせて2~3回で回れそうである。

ただ、そこは急ぐこともないし、それぞれ時季も少しずらしたいところではある。また町歩きもしてみたい。

広島県の第1回として、11月23~24日の1泊2日で出かけることにした。寺だけなら備後シリーズの6ヶ所全てに行けそうだが、明王院の先の鞆の浦にも久しぶりに行きたいし、尾道は3ヶ所回る中に坂の町歩きも入る。生口島へのフェリーにも乗りたいし、平山郁夫美術館や耕三寺もある。そうなると一度に全部というのは厳しく、今回は札所順番で福山と尾道に絞り、生口島と三原は次回にしようかと思う。行きは新幹線、宿泊は尾道、帰りは初めての手段として、尾道から大阪までの高速バスに乗ることにした。

三原を次回にしたのは、公共交通機関で回る場合に仏通寺が難所であるからというのもあった。最寄り駅は山陽線で三原の1駅西にある本郷だが、バスの本数が少ないなら駅から歩いて行こう・・というわけにはいかない距離である。このバスは三原駅~仏通寺~本郷駅のルートだが、三原駅発は12時20分、16時00分の2本、本郷駅発に至っては13時30分の1本しかない。さらに仏通寺からの帰りは実質13時49分発(本郷駅から三原駅への便)と16時43分発(三原駅から本郷駅への便)の2本しか使えない。ただ寺で3時間滞在というのは考えものなので、実質、三原駅12時20分発に乗り、現地滞在55分で帰りのバスに乗るしかなく、ここを軸に他のエリアも決めることになる。55分あれば境内は一通り回れるとは思うが・・。

そんな中、芸陽バスのホームページのお知らせで、三原駅から仏通寺への臨時バスを何便か運行するというのを見つけた。私が広島に住んでいた当時一度も行ったことはなかったが、仏通寺は県内有数の紅葉スポットで道路も交通規制が敷かれるほど混雑する。そこで、11月24日までの期間限定で臨時バスを出すという。時刻表を見たが、午前、午後それぞれに便があり、これはコース選択の幅が広がる。

また、生口島の平山郁夫美術館では、12月1日まで秋の特別展が行われ、敦煌を描いた作品も展示されるという。

こうなると、寺を含めた観光を考えると、秋のうちに先に三原、生口島に行ったほうがいいのかなと思う。臨時バスを使えばこの2エリアは1日かけて無理なく行けそうだ。そしてもう1日は町歩きをしながら尾道の3ヶ所を回る。そうなると福山が残るが、これは青春18きっぷの日帰りでも行けるので次回に回す。

後は、尾道が先か生口島・三原が先か。これは天気の動きも見て、当日に決めることにする。

例によってプランニングだけで1記事となったが、果たしてどのようなお出かけになるか・・・。
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ウエストエクスプレス銀河

2019年11月21日 | ブログ
これはぜひとも乗りたいが、きっぷの争奪戦が激しいだろうな。あるいは、日本旅行やクラブツーリズムがツアーでも企画してそれを利用する形になるか。

JR西日本が2020年5月から、新たな長距離列車「ウエストエクスプレス銀河」を運行する。かつて新快速で走っていた117系を改造した車両で、指定席やグリーン個室など導入する。「トワイライトエクスプレス瑞風」とは異なり、あくまで通常の運賃、特急、グリーン料金を適用するという。

運転区間は、5月~9月が京都・大阪から山陽線・伯備線回りで出雲市まで夜行列車として走る。また10月~3月は大阪から山陽線で下関まで昼行特急として走る。いずれも週2往復ほどの運行という。

京阪神~出雲市といえばかつての「ムーンライト八重垣」や、経路は異なるが「だいせん」を思い出す。夜行列車というのも久しく乗っていないし、私の中国観音霊場めぐりに使えないかなとも思うのだが、昼間の山陽路・瀬戸内を新幹線ではなく在来線特急で乗り通すというのに魅力を感じる。鈍行乗り継ぎとはまた違った楽しみがありそうだ。

先に、利用客の減少や災害の影響で鉄道として維持することが困難な路線のことに触れたが、一方では新たな鉄道旅行の楽しみを提供する動きもある(2020年に登場する近鉄の「ひのとり」も含めて)。鉄道会社や地域それぞれの意気込み、観光客の呼び込みに対して、一緒になって楽しみたいものである・・・。
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桂太郎

2019年11月19日 | ブログ
安倍首相の在任日数が日本の憲政史上最長となった。19日で2886日でタイとなり、20日で単独トップとなる。

史上最長ではあるが、国民の中には複雑な思いの方も多い。長く務めるのは確かに立派ではあるが、ではその期間にどのような実績を挙げたのか、経済、外交の成果は?、他にとって変わる勢力はなかったのか、また昨今取り上げられているモラルの問題はどうなのか・・・素直に喜べないところがある。

この記事では安倍政権の批判をすることが目的ではなく、在任日数が最長になったことで名前が登場した桂太郎についてである。スポーツの世界でも何か新記録が出るとなると、その前の記録保持者が紹介されるようなものである。

桂太郎は明治から大正にかけての首相。歴史の時間では「桂園時代」という言葉で習った方も多いと思う。西園寺公望と交代で首相を務めたからだが、当時の首相は今のように政党のトップが議院内閣制で選ばれるのではなく、元老たちが候補者を推薦し、天皇が任命する制度だった。このため薩長を中心とする藩閥の意向が強く働いた。桂太郎は長州の出身で、山県有朋に引き立てられた人である。

首相になった時は「小山県内閣」とか「第二流内閣」とかパッとしない呼ばれ方だったが、在任中はちょうど日清戦争後の東アジア情勢が緊迫していた頃で、日英同盟の締結、日露戦争の勝利、ポーツマス条約の締結は第一次桂内閣の時である。そして西園寺内閣の後を受けての第二次桂内閣では韓国併合の実現、関税自主権の回復による不平等条約の解消があった。さらに西園寺内閣の後を受けての第三次桂内閣ではわずか2ヶ月で退陣となったが、その原因は、藩閥政治に反対する民衆による大正政変であった。

こうして見ると桂太郎は明治から大正にかけての日本の大事な局面に首相にいた人物で、最後に首相の座を追われたのも、後の大正デモクラシーと呼ばれる民主主義の芽生えからで、時代の転換点ともいえる。存在は地味だっただろうが、何やかんやで国難を乗り切ったのではないか。この機会にもう少し取り上げればよかったのではと思う。

時代は下って、これも首相在任期間が長かった佐藤栄作。いろいろ言われているが、沖縄返還、非核三原則、そしてノーベル平和賞。こちらも立派である。

・・・で、安倍首相。

確かに日本を取り巻く情勢は厳しく、周囲の各国のトップはあの方々ということで難しいのはわかるが、明治、大正、昭和、平成と時代を経た末に政治が劣化した象徴が安倍である。確かに在任日数は長いが、あれだけ大風呂敷を広げるだけ広げて、安倍はいったい何をしたというのか。単に令和の改元にでしゃばっただけのおっさんである。後は、レベルの低いどうでもいいことで国政を停滞させたこと、世間の経済格差を広げたくらいか。憲法改正?あんなもん、改正のうちに入らんぞ。

・・最後は思いっきり脱線しましたが、こうした機会に明治以降の近代史も見ようということで・・。
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第6番「壺阪寺」~西国三十三所めぐり3巡目・7(秋のお身ぬぐい参拝)

2019年11月17日 | 西国三十三所

11月も中旬になると、職場にも来年の挨拶回り用カレンダーが届いたり、お歳暮の贈り先のとりまとめがある。最近では「虚礼廃止」の方向でそうしたものを取りやめる流れが強くなっているし、私の勤務先企業でもトップはその方針を出しているが、まだまだ現業レベルではこうしたものは挨拶のツールであるのが実情である。まあ、相手先は精査する必要はあるが。

年末年始、青春18きっぷを軸にどこに行くか、夏のうちからああでもないこうでもないとプランニングして、宿のチェックもしていたが、ここに来て大筋は決まった。後は予約が必要な交通機関の席が取れるかどうか。

そんな中、16日の午後にすっぽり時間が空いた。この時間に何をするということもなかったところ、ふと、西国三十三所めぐりの近場に行こうという気になった。とはいうものの、山道を上る槇尾山施福寺はまた別の機会に行くとして、1ヶ所行くならばと近鉄電車とバスで訪ねる壺阪寺にした。1巡目は秋の高取城との組み合わせ、2巡目は近鉄特急「青の交響曲」との組み合わせだったが、今回は単純に寺との往復である。西国三十三所開創1300年の記念印がまだなので、早めに押してもらおうという思いもある。

雲一つない秋晴れの下、近鉄の壺阪山駅に降り立つ。この時間からだと次のバスは14時20分発。乗り込んだのは私だけで、山道を登ること10分あまりで参詣入口に到着した。

壺阪寺に来たのは、12月1日までの期間、秋の特別拝観ということで、本尊の十一面千手観音像の「お身ぬぐい」ができるためである。1巡目、ちょうど5年前だが訪ねたのが秋の時季で、ちょうど同じようにお身ぬぐいを体験した。このお身ぬぐいがどのくらいの頻度で行われているかは知らないが、今回は西国三十三所開創1300年記念と、天皇陛下即位記念として行われるそうだ。

まずは大講堂で諸仏に手を合わせる。そうするうちに外で賑やかな声がする。ちょうど札所めぐりの団体が到着したようで、先達の案内で本堂にぞろぞろと向かっている。この後、団体の後について境内に向かう形になる。

山門をくぐる。境内も少しずつ紅葉が進んでいるようだ。見頃にはまだまだほど遠いのだろうが、壺阪寺もこの奥にある高取城ともども紅葉のスポットとして紹介されている。

本堂前のめがね供養像、舛添要一・元東京都知事寄進の石灯籠も健在だ。舛添氏といえば東京オリンピックのマラソンが札幌開催に変更されたことに対していろいろ発言して、久しぶりに存在感をアピールしていたなあ。

本堂に着く。先ほどの団体が先に中に入るところである。この後のお参りもかぶりそうなので、先に納経帳への朱印をいただくことにする。先達用の巻物は重ね印だが、開創1300年の記念印がまだである。それもいただくようお願いすると、「ほんまにええんですか?」となぜか二度も念押しされてから押される。その一方で、西国観音曼荼羅の八角形の台紙は、書き置きか直筆かの選択を確認されたので、ならばと直筆をお願いした。ドライヤーで乾かす必要があり、先ほどの団体の添乗員が納経帳や納経軸の整理をしているところだったが声をかけて場所を空けてもらう。

本堂に入る。ちょうど団体が先達のリードでお勤めの最中である。そこは外陣の片隅に控えて終わるのを待つ。団体の中も皆さんそれぞれ熱心に読経されているのに感心する。お勤めが終わり、「集合は16時ですが、揃い次第出発します」という先達の声で団体はそれぞれ動く。それを見終えてから私もお勤めとする。外陣には常に椅子が並べられているので楽だ。

せっかくお身ぬぐい参拝があるので団体も多くが体験するのかと思いきや、多くはそのまま本尊が祀られる八角円堂をぐるりと回ってそのまま出たようである。そのため、八角円堂に入ってのお身ぬぐいも待ち時間なしで自分だけ体験することができる。

特別参拝料の500円を納める。手にお香をまぶし、笈摺を着せられる。そして布をいただき、十一面千手観音像の前に立つ。室町時代制作という貴重なものなので、保護の意味もあってぬぐうことができるのは胡坐をかいているその足から下である。貴重な体験の後は、係りの人から「ちょうど外でお参りしている人もいませんし、よかったら観音様の写真を撮っていただいても結構です」と言われる。このご本尊、これまでも撮影してよいものかどうか迷いながら写真に残していたのだが、お身ぬぐい参拝だけでなく誰でもOKのようである。心の広い観音様である。ぬぐった布は枕カバーと枕の間に挟んで眠るとご利益があるそうで、その夜から実践してみるのだが・・・。

この後は、インド渡来の大観音石像、大涅槃石像のエリアに向かう。開放的な壺阪寺にあって大和盆地を望むことができるスポットである。ちょうど1時間後の15時35分発のバスに乗って、壺阪山駅に戻る。居合わせた団体よりも少し短い滞在時間だった。

今回は思いつきで慌ただしい参拝となったが、秋の一時を過ごすことができた。西国三十三所めぐりについては引き続きボチボチと・・・。

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ローカル線は災害に勝てず

2019年11月13日 | ブログ
先日書店に行った時、鉄道書のコーナーで、「交通公社の時刻表」の1964年10月号の「復刻版」というのを見つけた。ちょうど前回の東京オリンピックの時で、東海道新幹線が開業した時の号である。

巻頭の路線図を開くと、55年前、日本の各地に国鉄だけでなく地方私鉄の路線が張り巡らされていたのがわかる。当時は計画途中で後に新たに開通したところもあれば、昭和から平成にかけて廃止された路線も多い。ただ、路線図の賑わいという点だけ見れば当時のほうが勝っているように思う。また本文を見ると幹線には特急、急行、夜行列車が目立ち、当時の様子を想像するのも楽しそうだ。まだパラパラとしかめくっていないが、今の鉄道旅行と比べつつ、机上旅行を楽しみたいと思う。

さて、このところローカル線の廃止が相次いでいる。最近だと、留萌線(留萌~増毛)、石勝線(新夕張~夕張)、江差線、岩泉線、三江線などがある。ここに札沼線の末端区間が加わる。まあ、これらは利用客が少ないこともあるし、どこかのタイミングで旅客会社が判断してもおかしくなかったところと言える。

それよりこの国の現状を現しているのが、災害による長期の不通区間である。豪雨、台風、津波、地震といった、この数年に襲いかかった災害で多くのローカル線、第三セクター線が影響を受けている。

11月現在で北から見ていくと、根室線(東鹿越~新得)、日高線(鵡川~様似)、八戸線(階上~久慈)、三陸鉄道(釜石~宮古、田老~久慈)常磐線(富岡~浪江)、磐越東線(いわき~小野新町)、只見線(会津川口~只見)、阿武隈急行(富野~槻木)、吾妻線(長野原草津口~大前)、水郡線(西金~常陸大子)、八高線(寄居~北藤岡)、箱根登山鉄道(箱根湯本~強羅)、小湊鉄道(上総牛久~上総中野)、しなの鉄道(田中~上田)、上田電鉄(上田~下之郷)、日田彦山線(添田~日田)、豊肥線(肥後大津~阿蘇)といったところ。先日の台風19号により不通になった区間も多いが、数年前の災害からまだ復旧に至っていない区間も目立つ。いや、これだけの路線が数えられるという時点でこの国もどうかしていると思う。いついつを目処に復旧作業中ならいいが、まったく目処が立たない路線というのは廃止の方向に向かうのではないか。

このことを記事にしたのは、日高線の今後について沿線自治体が協議した結果、全線の8割にあたる不通区間(鵡川~様似)を廃止・バス転換に合意したというニュースから。やはり災害から復旧させ、その後維持するとなるとJR北海道、そして沿線自治体の力では難しいという結論である。

また、東日本大震災の影響でBRTにて運行していた気仙沼線(柳津~気仙沼)、大船渡線(気仙沼~盛)について、鉄道事業の廃止が決まった。まあ、BRTにした時点で鉄道としての復旧は事実上なくなっていたが、書類の上ではBRTはあくまで代行運転で、鉄道としての復旧の道は残していたようだ。それはやむを得ないとして、今後は鉄道の一部とするのか、完全にバス路線として切り離すのか、どのような位置付けにするのか見守るところだろう。

この前に宇高航路の廃止について書いたが、地方の鉄道、フェリーにとってはこれまでとは違った逆風続きである。単に利用客が少ないというだけでなく、このところは激甚化する災害リスクを入れなければならない。ひとたび災害を受けるとジ・エンドの危機。

まあ、議員が香典を出したとか、花見がどうしたというのが最重要議題になるような国会では、こんなことなど枝葉末節、地方の話だろう。そもそも今の国会議員は、ローカル線なんか乗ったことがない金持ち、エリートばかりですから・・・。
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宇野~高松航路が全面休止へ

2019年11月12日 | ブログ

およそ1ヶ月後の12月16日から、宇野~高松間の「宇高航路」である四国急行フェリーが休止することが決まった。

驚きなのは、単に一つの会社が運航を取りやめるということではなく、これで100年以上続いた宇高航路そのものが廃止になるということである。

宇高航路は1910年に旧国鉄の連絡船が就航したのが最初で、かつては他に宇高国道フェリー、本四フェリーもあり、本州と四国を結ぶ手段として賑わっていた。

ただ状況が変わったのは瀬戸大橋の開通。本州と四国を結ぶ航路は他にもいくつかのルートがあったが、少しずつ廃止。宇高航路も撤退が相次いだ。現在の四国急行フェリーも1日5往復と、利用者の減少と便数の減少が負の連鎖となっていた。

本州と四国を結ぶのは今は瀬戸大橋、明石海峡大橋&大鳴門橋、しまなみ海道が主力で、橋を渡る高速バスも多数運転されている。私が四国八十八所めぐりをした時も高速バスにはずいぶんお世話になったし、さまざまな交通機関で本州と四国を行き来したが、宇高航路という選択肢はなかった。乗船も5年半ほど前までさかのぼる(この時の記事はこちら)。今思えば八十八所めぐりの中に一度入れておけばよかったかなと。

これで本州と四国を結ぶ航路はどうなるかということだが、まだ和歌山~徳島、神戸~高松、大阪・神戸~新居浜・東予、広島~呉~松山、柳井~三津浜といった航路は健在だし、途中の島に向かう航路もまだまだある。宇野~高松についても、直行ルートはなくなるが、途中の小豆島や直島とのフェリーを乗り継げば行くことはできる。

その中でこれだけニュースになるのは、やはりかつての「連絡船」ルートがなくなるからだろう。瀬戸大橋が開通したのが1988年だから、宇高航路はちょうど平成の時代を通して衰退し、令和の始めに廃止ということになった。時代の移り変わりに重なる。

スケジュールの都合で「お別れ乗船」に行くのは難しいが、運航最後にはどのような光景が広がるのか、またニュースを追ってみたいと思う・・・。

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第41番「正法寺」~西国四十九薬師めぐり・9(石の寺)

2019年11月11日 | 西国四十九薬師

勝持寺から大原野神社を通って正法寺に向かう。極楽橋という橋を渡ると境内である。

まず目につくのは朱塗りの新しい建物で、遍照塔という。日露戦争の戦没者の慰霊ということで1908年に高台寺に忠魂堂として建てられたが、2007年に正法寺に移築されたものである。これを建てたのは亀岡末吉という明治~大正期の建築家で、他にも仁和寺の勅使門や宸殿、東本願寺の勅使門といった寺社建築や保存修理に携わったという。

続いて目に入るのが両脇に仁王像が並ぶ不動堂。扉を開けると土間のところでお参りする形になるが、ここは本堂ではない。矢印に従って進み、地蔵菩薩の脇を抜ける。境内の横から入った形で、改めて山門から入りなおす。書院が受付で、入山料を納めるのに合わせてバインダー式の朱印をいただく。本堂はこの奥にあり、そこで上がって本堂、庭園、さらには書院の中を通って先ほどの不動堂までお参りできると案内される。

本堂の前に広がる石庭を通る。砂利が波模様に掃き清められて枯山水が広がっている。手水鉢は大坂の鴻池家伝来という。

靴を脱いで本堂に上がる。

正法寺は奈良時代、唐から日本に渡った鑑真和上の高弟である智威大徳が隠棲して、薬師如来を祀って修行したのが始まりとされている。後に最澄が智威大徳のために大原寺として開き、弘法大師空海も乙訓寺にいた時期に智威大徳に師事したという。

しかしその後は応仁の乱の戦火で焼失し、江戸時代に正法寺として再興、桂昌院の深い帰依を受けて・・・という、この日たどってきた寺に共通する歴史を持つ。

本尊の千手観音は鎌倉時代の作とある。正面の顔の両側にまた別の顔があるということで、三面千手観音と呼ばれている。両側の顔は過去と未来を表しているといい、時間的にもつながる一切のものに救いの目を向け、千の手でこれらを救い取ろうという思いが込められているそうだ。その脇には阿弥陀如来像、聖観音像、弘法大師像などが並ぶ。本堂の奥が防火構造になっていて、そこに祀られている格好だ。

では薬師如来はというと、外陣の一角にある。こちらではチームではなく薬師如来単体が厨子に収められてデンと座っている。とりあえず薬師如来もひっくるめて本堂でお勤めとする。

続いて奥の庭園に向かう。宝生苑という建物の前に枯山水の庭園が広がるが、正面の塀が低く抑えられていて、そのため遠方の東山の景色とも一体となっていい眺めである。またこの庭園は「鳥獣の石庭」として知られている。配置された石が何となく鳥、兎、獅子、象、はてはペンギンなどの動物の形に似ているということで、解説のパネルもある。パネルと実物を見比べると、言われてみれば何となくそう見えるかなという程度だが、しゃれが効いている。先ほどから境内のいたるところに石が目立つし、こうした石庭もあるため、正法寺は「石の寺」とも呼ばれている。先ほどの勝持寺の「花の寺」と一対になっている感じがするが、この「石の寺」に集められた石は全部で200トンもあるそうだ。

宝生苑は客殿のようで、走る姿の大黒天が祀られていたり、座敷に腰掛けて石庭をゆっくり眺めることもできる。思わずここでお茶を飲みつつ弁当でも広げたくなるようなスポットだが、飲食は禁止とのことで念のため。

続いて戻る形で新しい感じの書院の中を通る。その途中に風景画の襖絵がある。大原野の景色を描いたもので、解説板によると地元の日本画家、西井佐代子さんの「遺作」とある。西井さんは幼なじみだった正法寺の住職から書院の襖絵41枚の制作を頼まれ、高速道路の建設などで変わりつつある大原野の原風景を描き始めたが、直後にがんが発見された。その後も闘病生活の中で17枚の襖絵を描いたところで亡くなった。作品名は「西山賛歌」という。都から少し離れて自然を感じるのに良いスポットだったことが、優しいタッチの絵から伝わってくる。

渡り廊下を伝って、不動堂の横扉から入る。春日不動明王と呼ばれる像が祀られている。

さて引き返そうかと立ったところで、入れ違うように寺の女性が清掃のためか入って来た。「こちらに神仏習合ということでお稲荷さんがあるので、拝んで行ってください」と、不動堂の奥へ案内される。拝殿があり、奥の石段の上に稲荷社がある。寺の境内に稲荷社があることじたいは珍しくないので、こういうのもあるのだなと手を合わせる。

ただ、これも記事にするにあたって初めて気づいたことだが、このお稲荷さんはただのお稲荷さんではなく、その「元祖」と言ってもいいくらいのものだというのだ。

正法寺を開いたのは智威大徳であることは先に書いたが、開いた時は正法寺は春日禅坊と称していた。智威大徳は修行中に禅坊から出ることがなく、老翁が一人仕えて身の回りの世話をしていたが、その翁には白狐が従っていた。当時の人たちは智威大徳を文殊菩薩の化身とあがめ、翁を神様の使いとして敬っていたという。やがて時が経ち、死が近づくのを悟った智威大徳は、禅坊の奥の石窟で坐禅に入った。すると翁も姿を隠し、白狐だけが石窟の前に控えていた。人々が石窟をお参りすると良い香りがただよっていたという。それをめでたいとして祠を建て、「狐王社」と名付けた。

後に弘法大師が東寺に入った際、姿を隠していた翁が稲を担って現れ、それ以来長く寺を護って奉仕した。弘法大師はこの翁を菩薩として迎え、祀ったのが今の伏見稲荷だという。つまり元をたどれば、日本のお稲荷さんの総元締めである伏見稲荷のルーツがこの春日禅坊、現在の正法寺にあるというのである。白狐が稲荷社の前にいるのもここから来ているとか。

・・・というのは正法寺のホームページに書かれたことである。では伏見稲荷大社側の見解はというと、いわゆる「諸説あります」というもので、これが確実なルーツと特定されていない。まあ、さまざまな伝承や当時の信仰がいろいろ寄せ集まって、いつの間にか何となく成り立ったというところだろう。

さてこの大原野めぐりにて勝持寺、正法寺の2ヶ所を回り終え、次の行き先のサイコロである。出目は、

1.西宮(東光寺)

2.羽曳野(野中寺)

3.舞鶴(多祢寺)

4.高野山(龍泉院、高室院)

5.海南(禅林寺)

6.湖南(善水寺)

出たのは「5」。西国四十九薬師めぐりで初めての和歌山県である。これで、2府5県全てに一度足を踏み入れることになる。また海南に行くということであれば、西国三十三所めぐりで紀三井寺も一緒に組み合わせることもできる。またこれを含めてプランを考えよう。

帰りは南春日町からバスに乗ろうと思ったが時間が合わず、再び灰方まで歩いて戻り、善峯寺から向日町行きに乗る。車内は西国詣でやハイキングとおぼしき客で結構賑わっていた。

今回は善峯寺以外のスポットに初めて訪ねた。これも札所めぐりとしてグループ化され、これらを回るきっかけになっている。西国四十九薬師めぐりは残り40ヶ所あるが、そのほとんどが初めて訪ねるところ。さまざまな歴史の勉強にもなるし、関西にもまだまだ知らない街並みがあるのを見るのも楽しみである・・・。

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第42番「勝持寺」~西国四十九薬師めぐり・8(花の寺、桜の寺)

2019年11月10日 | 西国四十九薬師

大原野神社の奥にある勝持寺。山門には「花の寺」の札がかかる。入山料が大人400円とある。まあこれはよいとして、「トイレのみ利用の方100円」とある。周囲のトレッキングコースの一部になっているからだろうが、トイレを利用したい人もそれなりにいるのだろうか。 受付が納経所も兼ねているので、入山料を払う時にバインダー式の朱印をいただく。

勝持寺は白鳳年間に天武天皇の勅願にて役行者が開いたとされているが、これは伝説の域のようで、寺として造営されたのは平安時代になってからのことと言われている。また隣接する大原野神社の別当寺としての位置づけもあり、多くの塔頭寺院も持っていたが、応仁の乱の兵火でほとんどが焼けてしまったという。そして時代が下り再興され、善峰寺のところでも出てきた桂昌院も深く帰依したとのことである。

受付を過ぎ、境内の木戸から入る。本堂は阿弥陀堂であるが、その横の瑠璃光殿への案内がある。

西国四十九薬師としての本尊薬師如来はそちらに祀られているとのことで、阿弥陀堂はそこそこにして、渡り廊下を伝って瑠璃光殿に向かう。頑丈な防火扉があり、その奥の扉を開ける。

そこでは「チーム薬師」が総出でお出迎えである。いずれも撮影禁止なので画像はないが、中央には鎌倉時代の作という本尊の薬師如来が秘仏ということなく鎮座する。左手に薬壺を持つが、右手でそれをちょいとつまもうとする姿がユニークだ。そして日光・月光菩薩、十二神将が前と横に陣取る。そして両端には仁王像が立つ。見たところ、「チーム薬師」の記念撮影にでも収まっているかのようである(実際、この瑠璃光殿の仏たちの絵葉書が売られている)。本堂の内陣の奥深く暗いところではなく、瑠璃光殿の照明が明るいところで間近に見られるというのがよい。「見仏記」の人たちも拝んだのだろうか。

手前には小野道風の筆による「勝持寺」の額、そして西行法師の像がある。この西行法師が、勝持寺が「花の寺」と呼ばれる由来となった人物である。西行は元々は佐藤義清という北面の武士だったが、後に出家して歌を詠みながら漂泊の旅の生活を送った。その出家をしたのがこの勝持寺とされ、一株の桜を植えて愛でたことから「花の寺」と呼ばれるようになったという。そういえば境内を回っても色とりどりの花が咲くという感じでもなかったが、「花の寺」とは「桜の寺」ということだったか。また紅葉のスポットでもあるようだが、これはまだ見頃には早かった。そうすると、何とも中途半端な時季に来てしまったものだ。まあ、これもサイコロである。

不動堂がある。その本尊は石に刻まれた不動明王で、弘法大師の作と伝えられている。お堂の裏手に回って直に見ることができる。

これで勝持寺を終えて、札所順としては逆になるが正法寺に向かう。先ほど通った大原野神社の鎮守の森を歩いて神社の参道に出てそのまま向かう。この時は全然気づかなかったのだが、帰宅後にネットを見ると、このルートを往復したことで、古くから存在する仁王門を見逃していたことがわかった。先ほど通った山門だけだろうと思っていたが、実は坂道をそのまま下ると仁王門があったのだ。大原野神社の境内を経由せずに車道を通っていたら目にしたはずである。

札所への交通機関についてはいろいろ調べる(それだけで一つの記事にすることもある)のに、札所に着いた後は見落とし、見越しが結構ある。まあ、これが自己流、私の札所めぐりなのかなと、後になって苦笑いする・・・。

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第42番「勝持寺」~西国四十九薬師めぐり・8(大原野神社)

2019年11月08日 | 西国四十九薬師

西国三十三所の善峯寺からバスで灰方下車。今回の薬師めぐりである第41番の正法寺と第42番の勝持寺は西京区の同じエリアに位置する。地図で見ると灰方のバス停からは2キロくらい離れているか。この二つの寺の間にあるのが大原野神社である。

歩き出すと、先ほどの阪急バスとは違う灰方バス停の標識に出会う。京阪京都交通バスのもので、阪急の桂、JR京都駅からの系統のようだ。後でこの先歩いて通った南春日町には同じ敷地にバス停があり、さらには京都市交通局バスの標識もあった。バスの本数は1時間に1本の向日町からの阪急バスが多いが、京都市街からなら桂駅、京都駅からもアクセスできるというわけだ。これは現地で初めて知ったこと。

歩く途中に大原野神社と刻まれた石灯籠がある。神社の鳥居跡とある。元々は江戸時代に建てられた一の鳥居があったのだが、自動車事故で破損したため境内に移したという。

左手に京都縦貫自動車道が見え、その奥の山の中腹に建物が見える。先ほど訪ねた善峯寺の境内、奥の院である。

灰方から20分あまりで大原野神社の鳥居に出る。石の鳥居が建つが、これが移された一の鳥居だろうか。

この鳥居の向かい側に第41番の正法寺があるが、まずは由緒ありそうな大原野神社に参拝する。初めて来るところだ。まっすぐ伸びる参道を歩く。11月になったが紅葉にはまだまだ早いところだ。

2018年9月の台風21号では大原野神社の境内も被害があり、社殿の一部が損壊したり、大木が折れるなどあった。

手水場では鹿の像がお出迎え。その奥の社殿もどこかで見たような造りである。狛犬の代わりに一対の鹿が両側を護る。そう、奈良の春日大社である。

大原野神社は、桓武天皇が長岡京に遷都した際、藤原氏の氏神である春日大社を勧請したのが始まりで、平安時代に文徳天皇の手で社殿を造営した。そこで「京春日」との呼び方もある。この頃の皇室は藤原氏との外戚関係が強まりつつある時期で、藤原氏も、女の子が生まれるとその子が皇后や中宮になれるよう大原野神社に祈願し、それが叶うと改めて参詣するというのが通例になったそうだ。また紫式部も大原野神社を深く崇めていて、『源氏物語』でも帝の行幸の様子を描いている。都からほどよく離れていて、レジャースポットのような位置付けでもあったのだろう。

時季柄、七五三のご祈祷に来る家族連れが目立つ。この時代、皇后や中宮になれるよう祈願することはないだろうが(いや、今の悠仁親王の将来の皇后になる可能性は0ではない)、子どもの健やかな成長を願うのはいつの時代も同じである。

先にも触れたが、境内には昨年の台風被害の跡も残る。

このまま参道を引き返して正法寺に向かおうとすると、「勝持寺(花の寺)近道」という札があり、山道を指している。これを抜けると7~8分で着くとある。神社の鎮守の森を抜けるようだ。最後は急な上り坂である。

やって来た勝持寺は、「花の寺」というのを前面に出している。さてこの時季、花はあるだろうか。ここまでの道のりで、紅葉にはまだまだ早いことは感じているが・・・。

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