少し更新を休んだ後の佐渡旅行記再開。
小木からレンタカーを走らせること約1時間、やってきたのはかつての佐渡の中心地・相川。カーナビの進路は相川の市街地に入るまでに山のほうにショートカットする道を選ぶ。
やってきたのはまだ新しい木の感じがする佐渡奉行所。江戸当時の建物を復元して観光客に開放している。最盛期にはこの金山の辺りに5万人の人口を抱えていたというが、その支配の拠点がこの奉行所である。玄関から入り、詰所やら役所など数々の部屋(といっても襖で仕切られているのだが)を回る。広すぎて迷うくらいである。島にこれだけの武家の役所があったとは、「佐渡に島流し」のイメージとは大いに異なるところ。
敷地内には勝場(せりば)という、鉱石を粉々にして漉して、金銀を含む砂を取り出すという工程が行われた場所も復元されており、当時の道具も再現されて体験学習棟のようなつくりになっている。係の人がグループ客に作業の様子を道具を使いながら説明していた。
さて、ここから坂道を2キロほど上ると、佐渡で一番の観光地・佐渡金山である。これまでは駐車場もガラガラで停めるのも苦労しなかったが、さすがにここではクルマの数も観光バスの数も多い。
ここで鉱山見学ということになるのだが、2つのコースがあるという。一つが江戸時代の宗太夫坑、そしてもう一つが明治時代の道遊坑である。確か前回入ったのは宗太夫坑だったと思うが、一般観光客、そして時間のない客にはこちらがお勧め、道遊坑は時間のある客向けという案内がある。一般に観光バスなどでやってくる客は、江戸時代の風情を残し案内もしっかりしている前者だけを見るようだ。
私もここに来るまでは道遊坑の存在を知らなかったのだが、近代産業の遺産としての佐渡金山が見られるというのであればここは多少時間を使っても見学しようという気になる。結局両方の坑道に入る共通券を買い求め、まずは宗太夫坑へ。外は太陽が照りつけて暑いが、坑道は気温が一定に保たれており急に涼しく感じる。
江戸時代のこととて、もちろん手掘りである。それでも地中の奥深く、時には「たぬき掘」という、たぬきくらいしか通れない幅の坑道も脇にあり、その様子を再現した人形たちが風情を今に伝えてくれる。ここで多くの無宿人が連れてこられて労働に従事したというが、その頃から「佐渡へ島流し」というイメージができたのだろうか。
坑道で涼み、地上の資料館も見学。採掘された後の金の精錬、最後の小判作りまでの工程がジオラマで再現されており、金、金とありがたみを感じる。
慶長の大判を初めとした大判小判を見ると知らず知らずの間に口元もゆるむようだ。
ここでは重さ12.5kgの金塊を直径15cmほどの穴から見事取り出してみよう、というチャレンジコーナーがあり、見学客たちが挑戦していた。この穴の大きさが曲者で、男性だと金塊を何とかつかんでもそこから抜け出せないとか、女性だと手はスッポリ入るが金塊を持ち上げられないとか・・・。
ここで一人の女性が健闘。何と両手が穴に入り、そこから何とか金塊を取り出そうと持ち上げてみるが、おしいところで力尽きた。過去にここから金塊を取り出した人はいるんだろうか・・・?
さて、一旦外にでてまた坑道の入口へ。今度は明治の道遊坑に入る。・・・とこちらは一転して見学客もほとんどいない。最近になって開放された坑道ということもあるし、佐渡金山といえば江戸時代でおしまいというイメージも手伝っているのかもしれない。
ただパンフレットによれば、佐渡金山というのは1989年、平成元年まで現役の鉱山として採掘が行われており、全採掘量78トンのうち明治以降が37トンということで、年度あたりの採掘量から見れば明治以降のほうが断然多いということになる。
やはり明治以降の富国強兵策の中で、通貨においても金本位制を取って諸外国とも対等に渡り合えるようにということでさまざまな技術が投入された。坑道にはトロッコも走っていたようである。
その採掘のすさまじさを示すのが「道遊の割戸」である。こうして山の下から眺める分にはちょうど山の真ん中を勝ち割ったように見えるが、これを手掘りでやったのだから江戸時代の人たちの執念のすさまじさを物語っている。
ただ、今回私にとっての新たな発見がその割戸の根の部分。道遊坑を抜けると、そこにたどる遊歩道を歩いてたどり着ける。これがパックリと大穴が開いている。この大穴の部分は近代化以降、地下からどんどん採掘を行ったために陥没したという。いずれにしても人間の欲というのか、執念を物語る遺産である。
坑道を出たところには機械工場の跡があり、トロッコやら採掘機械などが並べられている。こういう近代の鉱山の遺産を見ると思わずうなってしまう。ただ残念なのは一般の見学客は時間の関係かこちらにはほとんどおらず、いかにも「その筋」という人たちが目立つ。坑道だけにまさに「穴場」と言ってもいいだろう。
佐渡金山は世界遺産への登録を目指しているという。もちろん江戸時代から続く鉱山の歴史を後世に伝えようというものだろうが、個人的にはあまり俗化してほしくないというところからどこもかしこも世界遺産というのはどうかなという気がする。それはさておき、もっとこの「近代以後の佐渡」というのも歴史的にもっとスポットライトを当ててもいいのではないかと思う。
事前にもっと近代遺産のことを知っていれば、さらに山の上のほう、あるいは相川の町から港のほうに向けて残る近代遺産にも行ってみるところだったが、残念ながらそろそろ時間切れ。今にして思えばもったいない気もするが、これはまた今度、その時佐渡が世界遺産になっているかどうかはわからないが・・・・。
相川を出て、これから大佐渡の外周、外海府を目指すことにする・・・・。