まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

早くも明日からキャンプイン

2016年01月31日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
早いもので、今年も1月が終わり。何だか報道もベッキーとSMAPと甘利前大臣のことばかり言ってたなと思う。あ、琴奨菊も話題を集めたな。

明日からはプロ野球もキャンプイン。各チームとも新戦力がどのくらいのものか、また昨年故障や不振に苦しんだ選手がどこまで戻っているかが注目である。

昨年はオープン戦や練習試合を観戦していないので、今年こそは(さすがに遠征は無理だが)どこかの試合に行きたいものである・・・・。
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政治家はよく記憶をなくす?

2016年01月29日 | ブログ
「記憶障害」というと、本人にとっては日常生活を送る上でいろいろな支障が出てくるし、家庭や職場でも周りのサポートが不可欠である。

ただ、記憶障害が一種の職業病と言える職業があるようだ。そしてそれが発症するのは、「不正なカネを受け取った時」によく見られるようで・・・。

「記憶にございません」で、大事なところが務まるのかが心配である。いろんなことが頭の中にインプットされていて、引き出しを自在に操ることができなければ、なかなかちゃんとした仕事ができないと思う。この「記憶障害」を医学的に解明して、特効薬とかナントカ細胞の開発につなげることができれば、それこそノーベル平和賞ものだろう。

・・・ここまで書くと、最近渦中の人として2名出てくる。一人は、先日初公判が行われた野々村元議員。あの号泣会見から一転、初公判では「記憶にございません」を何十回も繰り返し、裁判帳からも叱責、しかも「逃亡の恐れあり」として勾留された。この方は、記憶障害とはまた別な精神疾患がありそうで、(だからといって免罪とならないが)本当に医療の手を借りたほうがよいのかと思う。

そしてもう一人が、甘利大臣。こちらも「記憶にありません」としつつも、結局大臣を辞職した。ただ、辞職の潔い態度が逆に評価を上げたとする向きもある。私も、どちらかと言えばそう思う。

甘利氏は、TPP やらマイナンバー制度において「矢面」に立ってきた感がある。マイナンバーでは「私以外私じゃないの」の替え歌を披露して笑われたこともあるが、安倍内閣を実務面で支えたところはある。そんな人でも、職業病にかかる(移される?)。

別に甘利氏を支持するのではないが、このタイミングで辞めなくてもよかったのではないかと思う。せめてTPP の最終調印まで務めてもよかった、いや国際的にみてそうすべきではなかったかと思う。

野党は、安倍内閣の主要閣僚を辞任に追い込んだことで意気上がっているが、弥藤の意気が上がるのがこんな時だけというのが情けない。例えばTPP で、野党はどれだけの論陣を張って与党に対抗したのか。政策面でどれだけ正面から向かったのか。

今はTPPに合意したら合意したで、その後の農業や産業振興について討論すべきと思うが、甘利氏の辞任を巡っての首相の任命責任が国会の焦点って・・・・ 。他に話すことはないのか。

どっちもどっち、どっちも高槻・・・。
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2016「俺のオリックス」

2016年01月26日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
シーズンオフということもあり、野球のカテゴリで記事を書くのは今年初めてである。

バファローズ関連ということになるが、まず驚きは今季のキャッチフレーズ。これが「俺のオリックス」。

球団のホームページによれば、「監督、コーチ、選手はもちろん、スタッフやファン、オリックス・バファローズに関わるすべての人たちが皆、「俺のオリックスだ!」という誇りやチーム愛、強い気持ちを抱き、戦いに挑む姿勢を表している」とある。

うーん、あまりにも直球勝負。私自身が日常で使わないためか、「俺の」という表現にはちょっと照れを感じる。日常会話なら「ワシのオリックス」かな。あともう一点、これが「俺のバファローズ」でないのがなぜかということで。これは、監督・コーチに旧阪急、ブルーウェーブ色が強くなり、今季はこの路線で売って行こうという意味かと感じた。最近大阪、旧近鉄色が強くなったことへの反動ともとれるが・・・。

限定ユニフォームはチェック柄ということで、昨年の地球儀柄に続いて大胆だ。またこれも、前売券を購入した人全員に進呈となるのだろう。これはこれで押さえたいところだ。

一方気になるのが、「OSAKA CLASSIC」は継続されるのかということ。これまで、バファローズ対ホークス戦を「近鉄対南海」として復刻ユニフォームで盛り上げるイベントがあり、私も楽しませてもらった。ただ、阪急、ブルーウェーブ色が強くなったとすると、このイベントも見直されるかなと思う。

となると、今度は「阪急対南海」か、「オリックス対ダイエー」か。今季の日程表を見ていないのだが、もし神戸で対ホークス戦があるなら、絶好の機会と思う。ぜひやってほしい。

これから公式戦やオープン戦の日程を見て、「観戦したい」日をチェックしなければ・・・・。
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客番「清水寺」~新西国三十三所めぐり・2(大阪にもある清水の舞台と音羽の滝)

2016年01月25日 | 新西国三十三所
四天王寺を出て谷町筋を渡る。この夕陽ヶ丘は閑静な住宅街が広がるとともに、浄土宗を中心とした寺院の多いところである。

そんな一角に、新西国の「客番」という清水寺がある。パンフレットには四天王寺の支院とある。客番というのは、西国の「番外」とはちょっと意味合いが違うようで、どうなんだろう。投票で次点になったとか、高校野球の21世紀枠とか、そんな扱いなのかな。

古くは有栖寺という寺があったとされていたが、江戸時代に延海阿闍梨が十一面千手観音を本尊として祀り中興したという。清水寺というのは、観音像を京都の清水寺から移したからとされている。京都の清水寺といえば世界的にも有名な寺院だが、西国ではもう一つ播州清水寺というのがあった。そして、大阪にも清水寺が出てきた。

その清水寺、こうして石碑は立っているが、寺らしい建物はない。写真の左側の小道を進むと、左側に柵で仕切られた空き地、そして右側に墓地が広がる。左側の空き地には「本堂建設予定地」とある。ただ実際に工事をやっているわけでもなく、空き地も長く放置されているような感じだ。

一方で墓地は整備されており、今でも新規分譲を受け付けている様子。やはりここも「和宗」ということで、宗派問わずいろいろな墓が並んでいる。

その先に広場があり、その名も「清水寺舞台」とある。ちょうど上町台地の端に当たるということで展望が開けている。ここに立てば難波、通天閣、あべのハルカスもきれいに見渡すことができる。元々は京都の清水寺や、同じような造りの長谷寺のように、舞台のすぐそばに本堂があったのだろう。それが全て墓地になってしまったのはいわれがあるのかな(失礼ながら、墓地にしたほうが儲かるとか・・?)。

では本尊はどこにあるかというところで、階段を下りた先の建物の2階が仮本堂である。古い食堂のような建物の扉を開け、靴を脱いで2階に上がる。

仮といっても一応は本尊のいる本堂だから、仏像や仏具などはきれいに並べられている。いやそれでも、本堂というよりはどこか田舎の屋敷の仏間に上げていただいたような気持ちで、寺という感じが薄い。

お勤めをした後、仮本堂の奥にある玉出の滝(パンフレットでは玉手の滝)に向かう。四天王寺の金堂下にある青竜池から流れ出る霊水がここで滝になって出ているものだ。大阪市内で唯一の天然の滝という。

この造りを見て、「どこかで見た」とお気づきの方もいらっしゃるのでは。清水寺にある音羽の滝によく似ている。長い柄杓を差し出して、落ちてくる滝の水を飲むというアレである。

こちらの玉出の滝も飲めるのだろうが、長い柄杓がないのでそれはちょっとできない。ただ、時折この滝に打たれる修行をする人がいるそうだ。脱衣場もある。

舞台と滝・・・ということで、ここ清水寺が、京都の清水寺を模して建立されたことがはっきりする。こういうことからネットでは「大阪らしい珍スポット」として紹介しているものもあるが、寺伝によればこれは清水寺をパクッたのではなく、観音のお告げに従う形で最初から建立したのだという(観音のお告げというのが後付けではないかと言われればそれまでだが)。

仮本堂の1階が納経所になっており、こちらで新西国のご朱印をいただく。号は「清水観音」。書いていただいている間に、窓に貼られた過去の新聞記事の切り抜きを見る。やはり「大阪に清水寺そっくりの寺がある」という書き方である。

それはそうと、これで西国・新西国で清水寺が3つ出てきたわけだが、その記事によれば「清水寺(きよみずでら・せいすいじ)」という名の寺院は、全国におよそ90ほどあるという。そして、京都の清水寺の呼びかけで「全国清水寺ネットワーク会議」というものを立ち上げて活動もしている。寺の成り立ちもそれぞれだが、「水が清らかなところにある」ということで名がついたものもあれば、京都の清水寺と同じく観音を本尊とすることからあやかってその名をいただいたとか、「清水寺ブランド」というのがあるのだろう。

小ぢんまりしているがなかなか味のあるところだった清水寺。で、次にどこに行くかということだが、ここで出てくるのは西国と同じく「くじ引き」と「サイコロ」である。スマホに変えてみて、それぞれアプリがあるだろうと調べてみると、すぐに見つかった。くじ引きアプリは、くじの中身、そして一度に引く回数を端末で設定できる。新西国について各エリアをくじにしてみた。

再び清水寺舞台に上がって、くじ引き。そして出揃ったのは・・・

1.鞍馬(鞍馬寺)

2.御坊(道成寺)

3.長岡京(楊谷寺)

4.大阪市内(太融寺、鶴満寺)

5.太子町・竹ノ内街道(西方院、叡福寺、当麻寺)

6.加西(酒見寺)

京都、和歌山、大阪、兵庫とバランスよく出揃った。そしてサイコロアプリ(こちらも立体的な動きをするようになった)で出たのは・・・・「6」。加西の酒見寺(さがみじ)である。いきなり、西に飛ぶことになった。

ここに鉄道で行くには、北条鉄道利用となる。・・・となるとローカル線の旅も含めて「こういうプランで行こうか」というのが頭に浮かぶ。ただこの通り行くにはタイミングが必要で、新西国はその折を見てというわけで、しばらく間が空くことになる・・・。

清水寺横の坂を下り、再び階段を上がったところにあるのが安居神社。菅原道真が大宰府に流される時に一時休憩したことから天満宮として信仰を集めている。ただそれよりもここが知られているのは、大坂夏の陣で真田幸村が戦死した場所とされていること。真田幸村といえば今年の大河ドラマの主人公であり、昨今の武将ブームとも相まって人気が高い。そのPRの幟も立てられている。

境内には幸村戦没の地の石碑と、幸村の像がある。夏の陣の奮戦で家康を後一歩のところまで追いつめたが、結局家康を討つことはできなかった。戦いの疲労でこの神社で休んでいるところを相手方の武将に見つかり、最後は「自分の首を取って手柄にせよ」と言ったとされている。この像はその時の姿をイメージしたものだそうで、家康を打ち取れなかった無念さと、それでも「やるだけのことはやった」という満足のような表情が見える。こちらはちらほらと参拝者の姿もあり、「幸村像の刀に手を触れるとパワーをいただける」というようなことを言っている人もいた。

これで新西国の第1回、四天王寺シリーズは終了。次の酒見寺に行くのはいつのことになるか・・・?
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第1番「四天王寺」~新西国三十三所めぐり・1(和を以って貴しとなす)

2016年01月24日 | 新西国三十三所
2016年からスタートすることになった「新西国三十三所めぐり」。近畿2府4県、これまで訪れたことがないところも多く、地元関西をより深く理解するきっかけになるかと思う。

ということで、まずは第1番の四天王寺に向かう。四天王寺そのものはこれまでにも休日の散歩の時にも何度もお参りしているところだし、わざわざ出かけるという感じではないのだが、新たな札所めぐりとなると改まった気持ちになる。バッグに数珠とお経の本を詰め込んで行くのは初めてだ。

阿部野橋からJR天王寺駅構内を過ぎ、そのまま四天王寺の参道を歩く。門前では仏具やら巡礼用品を売る店が並んでいる。その中の一軒に入る。これから四国遍路に出るのか、輪袈裟やら笈摺やら装束一式を選んでいる人がいる。今年は4年に一度の閏年だが、四国遍路には「閏年に逆打ちすると功徳がある」という言い伝えがあるそうだ。朱印帳も、88番から始まって1番で終わる逆打ちバージョンのものが出ている。

四国やら西国のいろいろな種類の朱印帳が並ぶ中で、そこに埋もれるようにして置かれていたのが、お目当ての新西国の専用朱印帳。新西国はこれ1種類のみで、四国や西国に比べればやはりマイナー感は否めないが、それぞれのページに寺の歴史や本尊、ご詠歌の紹介があり、実用性はある。A5サイズと、西国で私が使っていたのが大型のものだったのに比べるとコンパクトになった。

境内の真西にある鳥居をくぐる。メジャーな寺ということで多くの参拝者で賑わっている。ただkメジャーといっても地域に親しまれた庶民的なところで、敷居が低い。ふらりとやって来て手を合わせて帰るのが似合う感じだ(もちろん、きちんとお勤めする、祈祷をお願いするというのもよく似合う)。

極楽門の四隅には車輪の形をした転法輪があり、両脇には大師堂、見真堂があり、それぞれ弘法大師と親鸞聖人の像が立つ。あちらでは南無大師遍照金剛と唱える人がいるかと思うと、こちらでは南無阿弥陀仏と手を合わせる人がいる。これも四天王寺らしい光景である。

さて、新西国の対象となる本尊の救世観音は中央伽藍の金堂にいる。南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺式」の伽藍。そのシンボルとも言える五重塔が現在囲いで覆われている。2022年の「聖徳太子千四百年御聖忌」に向けて耐震工事を行っている。工事は2018年までの予定。

そんな中、拝観料を納めて金堂に向かう。ここでまず新西国最初のお勤めを行う。続いて講堂には十一面観音と阿弥陀如来があり、ここでも手を合わせる。

続いて、中央伽藍の北にある石舞台と六時堂に向かう。先の中央伽藍が戦後の再建なのに対して、六時堂は江戸時代のもの。そのためかこちらのほうが風情を感じる。無料エリアということもあるのか、六時堂のほうが参拝者が多いように思う。中にはここが四天王寺の「本堂」と思っている人もいるかもしれない。ここは薬師如来が祀られていて、西国四十九薬師の札所にもなっている。ここでも般若心経のお勤め。

続いてはこちらも経木流しで知られる亀井堂。この横には不動尊が祀られており、こちらでは不動真言を熱心に唱える人も。

他にも大小さまざまなお堂があるが、それらを全て回ろうとすると結構な時間がかかる。四天王寺はいろんな信仰が集まっている。そんな四天王寺の宗派は「和宗」という独立したものである。元々聖徳太子の創建時には「○○宗」というのはなく、その後さまざまな宗派に分かれるのだが、それでも四天王寺は別格とされてきた。最澄や親鸞も聖徳太子を崇拝していたが、その中で聖徳太子が法華経を重んじていたこともあって、いつしか天台宗に属するようになった。ただ戦後になって、創建当時の基本に戻ろうということで独立し、聖徳太子の「和を以って貴しとなす」から「和宗」を名乗るようになった。「○○宗とかごちゃごちゃ関係ないねん。仏教やったら何でもええんや。オール仏教、聖徳太子さんで盛り上がったらええねん」・・・とでもいう教えかな。だから四天王寺は、何でもあり。

最後に宝物館に入る。ここでは聖徳太子の像や絵伝が収められている。最近では日本史の教科書もいろいろ変わっているようで、学説でも「聖徳太子は実在しなかった」とか「厩戸皇子というおっさんはいたが、聖徳太子という聖人は造られたものだ」というものまであるそうだ。確かに聖徳太子にまつわる伝説の多くは作り話かもしれないが、実在しなかったというのは夢のない話かと思う。仏教を盛んにし、当時の政治を変えることに大きな役割を果たした人物がいたのは間違いないだろう。

現在五重塔が耐震工事中で参拝できないということもあり、五重塔の歴史について紹介するコーナーも設けられている。現在の五重塔は史料で確認する限り8代目だそうで、平安時代には雷、火災で2度焼失し、その後は石山合戦、大坂冬の陣という戦乱、1801年の落雷、室戸台風、大阪大空襲でそれぞれ焼失や倒壊の被害に遭っている。特に室戸台風の後に再建された五重塔は、わずか5年で空襲に遭って焼失した。ただそのたびに再建されるというのは、やはり四天王寺の特別な存在というのがあるだろう。四天王寺の建つ上町台地は大阪の中で最も安定した地盤があるが、地震の場合は老朽化したコンクリート建物はかえって危ない。1400年忌を前にした耐震工事というのも、一大事業として行われることである。

ここで参拝を終え、納経所に向かう。大阪で最もメジャーな寺院、また「日本仏教最初」ということから、いろんな札所めぐりの札所となっている。それぞれの神仏をどこかの建物が担当しており、まさに「和宗」である。

ここでもさまざまな朱印帳や納経軸の見本が並んでいる。四天王寺の朱印だけでもいろいろあり、四天王寺専用の朱印帳というのもある。今回、新西国については軸は作らず朱印帳のみいただくことにしており、順番が来て専用の納経帳を出す。

書き終えると、「新西国を回ってはる方には、こちらを差し上げてます」と一枚のお札をいただいた。四天王寺の本尊、救世観音の御影である。「新西国を」というところに、この札所めぐりが聖徳太子の「和の道」をベースにしていることのこだわりが見られる。客番を含む38の札所には、聖徳太子に関連する寺院が結構あるということで、回る中でそうしたことも学べればと思う。

そろそろ境内を後にする。ちょうどこの日は大学入試センター試験が行われていたが、四天王寺学園も会場になっていたようで、試験を終えた学生たちが出て来ていたところ。門のところで出迎える親御さんらしい姿もある。その一方で予備校だかのパンフレットを配る人も。

この後は、歩いてすぐ近くにあるもう一つの札所に行く・・・。
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西国三十三所 公認先達に補任されました

2016年01月21日 | 西国三十三所
・・・・何だか少しずつ深みに入っているようで、怖い気もする。

年末年始に手続きを行っていた西国三十三所の先達申請だが、無事に承認が得られたようで、自宅に箱詰め荷物が届いていた。

中身はこんな感じ。先達に補任されたことを通知する書面の他に、まずは名札。名前の下に「H 28-05-X X X X 」とある。補任された年、満願の申請を行った札所の番号(私の場合は、5番の葛井寺)、その年の通し番号である。これが西国三十三所の先達番号である。別に国家資格でも何でもないが。

次いで輪袈裟。お参りの時はこれを首から提げるようにとある。名札と輪袈裟が先達の証明になるそうだ。

そしてこの巻物。先達にはいくつかの階級があり、それには階級に応じた回数を満願する必要がある。例えば先達として2回満願すると中先達、中先達として3回満願すると大先達に昇格する。さらにその上は特任先達とかいろいろあり、そこまで行くとほとんどプロの坊さん、いや修行僧と変わらないだろう。ネット記事によれば、一般の先達で8千人以上(一度補任されたら、運転免許のようにその後で何年かおきに更新することもなく、生きている間はずっと有効。だから先達の数はこれからも増えるだろう)、さらにその上の中先達や大先達もそれぞれ数百人、さらにその上の位も何十人といる。上には上がいるし、一種のピラミッドができている。

先達だからといってこの巻物でしか朱印が受けられないわけではないが、一歩進んで中先達以上に必要な満願の回数は、一般の朱印帳ではなく、この先達専用の巻物でのみカウントする。それにしても、なぜ帳面ではなく巻物なのかなと思うが・・・。

こうしたものを一つに収めるのがこの頭陀袋。パッと見た限りでは小型のショルダーバッグで、ちょっと町歩きにぶら下げるのもいいかなと(ファッションとしてイケテるかどうかは別として)。

ただこれにはからくりがあり、真ん中のポケットの口を開けると、「西国三十三所公認先達」の文字が出てくる。肩紐のボタンで止めると、この文字を出したままにすることもできる。場面ごとで使い分けることができるのは面白い。

さて、こうした先達であるが、別に拝観料が割引になるといった特典はない。ただ朱印をいただく時にご詠歌の札を先達とその同行者に授与される。私も一度西国巡礼バスツアーに参加したが、この時にガイドとして先達がいたので、帰りのバスの中で札が配られた。今度は私だけでもいただけるし、仮に私と一緒にお参りする人がいれば、その方もいただけることになる。

他には先達研修会への参加とか、ひょっとしたら葛井寺から何か呼び出しを受けるとか?、まあ、そんなところかな。

とは言いながら、この間から新西国三十三所の札所めぐりを始めている。これから元祖西国のほうは、新西国の合間とか、それとは別に思い立ってとかいうことに合わせればいいかなと思う。どうしても中先達、大先達になりたい!というものではないので、まあ、ボチボチと・・・。
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新西国三十三所めぐり始めます

2016年01月19日 | 新西国三十三所
世の中にはよく「新」とか「続」という形で次のシリーズが展開することがある。もっとも、元祖とか本家とかに比べれば若干マイナーだったり、二番煎じだったりすることが結構多いようだが・・・。

一昨年からあれこれ書いている西国三十三所の観音札所めぐりであるが、実はこれにも「新」がある。その名も「新西国三十三観音霊場」(以後、このブログでは「新西国三十三所」または「新西国」と表記する)。

西国三十三所の発祥には謎のところも多いが、千年を超える歴史がある。これに比べて新西国は歴史が新しく、1932年にできたもの。当時の大阪時事新報(今の産経新聞)、神戸新聞、京都日日新聞(今の京都新聞)が共同で企画し、読者の投票で選定された。選定に当たっては従来の西国三十三所以外の寺院という前提とともに、聖徳太子の「和の道」というのもテーマにしたそうだ。

その後辞退した札所があったり、「客番」というところを加えたりして、戦後になって現在の三十三の札所と、五つの客番の合計三十八所となった。下に書いているが、那智勝浦から天橋立、果ては美濃まで広がっていた西国に比べれば範囲はコンパクトに収まっている。また、大阪市内や阪神間にも結構あるとともに、四天王寺や飛鳥、大阪兵庫の両方の太子町といった、聖徳太子に関係ある寺院もある。法隆寺が含まれてないのは、観音が本尊ではないからだろう。やはりあそこは別格かな。

結構有名な寺院も多いが、やはり「新」の宿命か、知名度は低い。かくいう私も最近まで知らなかった。別に今のJR キャンペーンのようなものがあるわけでもない。それを知ったのは昨年で、札所めぐりのバスツアーが行われているとの新聞記事を見たことからだ。これは大手旅行会社の商品ではなく、霊場会自ら企画したもの。もちろん何回かに分けて回るわけだが、ガイドには先達ではなく本物のお坊さんがついてきて、札所では法話も聴けるという。残念ながらツアーは昨年で満願、終了となったが、私ももう少し早ければ参加してもよかったかなと思う。

・・・となれば自力で、また公共交通機関を使って回ることにする。例によって(何の例なのか)、一番と三十三番を除いて、エリアを決めてくじ引きとサイコロで次の行き先を決めて回る。そのラインナップは・・・・

・スタート:四天王寺、清水寺

・大阪市内:太融寺、鶴満寺

・貝塚:水間寺

・御坊:道成寺

・高野山:宝亀院

・河内長野:金剛寺、観心寺

・太子町・竹ノ内街道:西方院、叡福寺、当麻寺

・飛鳥:飛鳥寺、橘寺

・阪急宝塚線:萩の寺、満願寺

・高槻:安岡寺、神峯山寺

・京都市街:誓願寺、大報恩寺

・長岡京:楊谷寺

・比叡山:延暦寺横川中堂

・鞍馬:鞍馬寺

・大津:立木山寺

・西宮:神呪寺

・六甲山:天上寺

・兵庫須磨:能福寺、須磨寺、太山寺

・三木小野:伽耶院、浄土寺

・加古川:鶴林寺

・滝野:光明寺

・北条鉄道:酒見寺

・福崎:金剛城寺

・赤穂:花岳寺

・龍野太子町:斑鳩寺

・結願:瑠璃寺

このうちスタートと結願を除いては、くじ引きで出たところからさらにサイコロで決める。そのコースは24通り。さて、この先どういうことになるか。

そんな中で、まずは最初ということで、聖徳太子が開創した四天王寺に向かう・・・・。
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西国三十三所 JRキャンペーンに当選

2016年01月18日 | 西国三十三所
昨年末に満願となった西国三十三所の観音霊場めぐり。これを全部回ろうというきっかけづくりになったのが、JR西日本が主催する「駅からはじまる西国三十三所めぐり」のスタンプラリーである。

このスタンプラリーでは、各札所を回り、いただいた朱印や散華を札所ごとに指定された駅の改札口に提示すると、スタンプをいただくというもの(中には自分で押すものもある)。これをコンプリートしたことで散華の台紙が送られてきたことは以前の記事で書いた。

この中で、5ヶ寺、10ヶ寺、20ヶ寺、満願のそれぞれでプレゼントのコースがあり、それぞれ駅名小印をいただくと応募できる。今回、満願した時にまとめてハガキを送っていた。2019年3月までのキャンペーンで、年4回抽選を行うという。

さて先日、JRの事務局から封筒が届いてきた。開封すると「ご当選おめでとうございます」の手紙とともに入っていたのがこちら。「コンパクト観音経」である。賞品で言えば5ヶ寺の西国コースで、毎回25名に当たるというもの。

コンパクト観音経。書店のレジ脇などに「ポケット般若心経」とかいうのが置いていることがあるが、これの観音経版と言っていい。中には観音経の偈文とその解説が載っている。

そして、裏には「JR西日本 駅からはじまる西国三十三所めぐり」の文字が書かれている。観音経そのものより、この文字が正にオリジナルということで、このキャンペーンならではである。一度の抽選に何通のハガキがあったのかはわからないが、25名というのはなかなか狭き門ではないかと思う(もっとも、同じ時期に抽選しているだろうから他のコースは外れたのだが)。これは日常携行するのがいいかな。

さてこれで、西国三十三所については先達申請の受理待ちということで、とりあえずは一段落。その中で、「次なる巡礼」を始めることにした。

これについてはまた別の記事にて・・・・。
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浜村温泉~居酒屋駅弁

2016年01月17日 | 旅行記F・中国
山陰線で鳥取からやって来た浜村。駅前は小さな温泉街である。500年ほどの歴史があり、湧出量は山陰でもトップクラスなのだとか。

駅には民謡「貝殻節」の文字があり、その像に「手湯」がある。この貝殻はホタテ貝で、海底から貝を引き上げる重労働のしんどさを紛らわすために唄われた。「何の因果で貝殻こぎなろた 色は黒うなる身はやせる」

温泉街と言っても高級ホテルが林立しているわけではなく、小ぢんまりとした集落である。5分ほど歩いたところにあるのが「浜村温泉館 気多の湯」。日帰り入浴は430円という、町の銭湯価格。受付で「どちらの風呂にされますか?」と訊かれる。展望風呂と内風呂の2種類があり、それぞれフロアが違い、ロッカーも別になるからのようである。名物は展望風呂とのことでそちらを選択。78段の階段を上がり脱衣場に着く。

結構歴史ある感じの造りで、浴室は年季の入った檜風呂がある。そして外の展望風呂からは浜村温泉の集落と、目を転じれば遠くかすかに日本海を見ることができる。まずまずの眺めである。

貼り紙があり、今年の3月いっぱいで営業を一時休止し、設備点検・改装を行うという。カニのシーズンが終わると山陰もしばらくのシーズンオフになるのかな。ただ建物の老朽化というのもあるようだ。

わざわざ銭湯に入るためだけに気動車に揺られたようなものだが、帰りも同じようにキハ47がやって来る。そろそろ日が落ちてきた鳥取駅に戻る。大阪行の特急の発車が近いこともあって、駅もUターン客で賑わっている。青春18利用の私は、17時55分発の智頭行に乗り、行きと同じく智頭急行で上郡に出る。智頭急行の1日乗車券の効力が発揮される。

乗車前に向かったのは駅弁コーナー。ここで事前に予約をしていた駅弁を受け取る。前の記事で「夕食はとある事情で」と書いたが、その事情というのがこれ。別に弁当くらい普通に買えばいいし、多客期ならば数量も用意されているだろうが、お目当ての一品が万が一売り切れていたらということで。これを受け取り智頭行に乗り込む。こちらもキハ47の気動車で、18時前という時間なのにガラガラ。ボックス席にゆっくり座って食事をすることができる。

そのお目当てというのが「とっとりの居酒屋」。一度いただいてその内容にうならされ、その後鳥取を訪れるごとに予約をしていた。あご、イカ、とうふ竹輪、長芋、カニ、ラッキョウなど、鳥取名物がさまざまな形で入っている。この弁当はビールより地酒がよく合うが、それを見越したかのようにイカの猪口も入っているのが最もインパクトがあった。

・・・と、イカの猪口で一杯というのを期待して蓋を開けたが・・・入っていない。これは期待を裏切られた感じである。箱の大きさは変わっていないので、OUT=イカの猪口、IN=○○ということかと帰宅後に確認すると、鳥取牛の煮込みというのがイカの猪口に取って代わったようだ。イカの猪口が案外人気がなく(作るのも手間がかかりそうだし)、肉の一品も入れてほしいという要望でもあったのだろう。ちょっと残念だが、駅弁そのものの美味さが変わるわけではないので美味しくいただく。

締めは「山陰鳥取かにめし」。これは、この数日前に訪れた福井のかにめしとの食べ比べとなった。本格的にカニを食べることはできないが、駅弁という形なら手軽に味わうことができる。越前と鳥取・・・それぞれのカニを食べるというのも駅弁ならではだろう。味は・・・甲乙つけがたい。

また食べ比べということでは、この日は持ち帰っただけで翌日いただいたが、福井と同様、ひもを引いて温めて食べるカニの駅弁がある。「あったかかにしゃぶ弁当」で、カニの棒肉も入っている。しゃぶしゃぶというよりは、肉入りのカニ雑炊という感じだが、玉子が絡んでいるのもよく、私としては鳥取に軍配。

智頭に着いた時には数人の客となり、ここから智頭急行に乗り継ぐ。30分ほど時間があり、智頭急行の駅舎で待機する。「18きっぷ、使われへんねんて」「1日フリーきっぷってあるけど」と話している客もいる。ちょうど智頭急行の運転手らしいのがやって来たが、「1日フリーきっぷは駅員のいる駅で、窓口が開いている時間にしか買えない」と話す。ただ智頭駅の窓口は18時で閉まるし、車内では発売しないので、その客も残念がっている。

もう後はこのまま大阪に戻るだけだが、次の恋山形で行き違い停車。この恋山形、日本に4つある「恋」の名がつく駅ということで、PRのためにホームにピンク色をふんだんに使い、ハート型の駅名標もある。夜のイルミネーションという演出もよく、停車時間を利用して乗客もホームに出て記念撮影。もっとも、この「恋」の字は地元に何か由来があるわけではない。新たに駅を造るに当たり、客よ「来い」という願いを込めるのとともに、字面がいいということで「恋」をつけたとか。果たして駅名で注目され、恋愛のパワースポット?として知られるようになった。クルマでわざわざ来る人もいるようだが・・・。

この後、あわくら温泉、大原でも行き違いや通過待ちで長時間停車。行きや昼間なら楽しみだが、夜になって早く帰りたいところでの長時間停車は結構しんどい。恋山形のようにホームを見る楽しみがあればいいが、それもなければシートでぼんやり、ウトウトするくらいである。

上郡に到着。ここでも山陽線上りまでの待ち時間が長い。その一方で姫路では乗り継ぎが2分しかなかったりと慌ただしい。鳥取からの帰途は結構時間がかかり、結局帰宅したのは日付がもう少しで変わろうかというところ。久しぶりに1日乗り倒した感じであった・・・・。
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暖冬の鳥取砂丘へ

2016年01月16日 | 旅行記F・中国
朝から智頭急行、若桜鉄道と乗って来て鳥取に到着。時刻は12時を回ったところで、ちょうど昼時である。

鳥取といえば知事が「スタバはないけど砂場はある」と、自県のことを自嘲気味にコメントしたことがあるが、それを受けてできた「すなば珈琲」というのがある。駅前店もあるようで、そこで昼食というのもありかな。

ただ、駅前のビルの1階にあるその店は店の外までこの行列。知事発言からできたことで注目されたこともあり、今や鳥取の新たな観光スポットと言ってもいいだろう。まあ、元々喫茶店にあまり入ることがないし、並んでまで行くほどでもないかなと思い、行列を見るにとどめる。

その代わりというわけではないが、せっかくここまで来たのだから海の幸をいただくことに。駅構内に「魚鮮水産」という居酒屋がある。ちょうどランチタイムで開いており、半個室がちょうど空いていたので通される。お勧めは魚鮮定食ということで、賀露港直送という鮮魚の刺身、焼き物がメイン。

次々に客が入ってくるが、奥の座席では新年会らしい乾杯の声も聞こえる。聞けば昼からがっつり単品メニューや地酒も扱っているという。うう、それなら定食ではなくそれなりの注文をしたところだが、仕方ない。ならば帰りの列車に乗る前にそれらを食べればよいのだろうが、今回は「とある事情」でそれができない。また来た時の楽しみとする。

お腹もできたところでどうするか。鳥取に来たのだからとりあえず砂丘に行こう。普通の路線バスもあるが、市内の観光スポットを周遊する「ループ麒麟獅子バス」というのがちょうど停まっており、そちらに乗車。1回300円は路線バスよりで行くよりも安く、1日乗車券もある。

商店街を抜けたところのホールの前には大勢の若者がいる。1月3日であるが、成人式である。成人の日は今年は1月11日であるが、地方では進学や就職で都市に出ている新成人の帰省に合わせて正月に成人式を行うところもある。鳥取市もそうか。成人式といえば今年もまたいくつかの自治体での荒れっぷりがニュースになっている。そういう連中は新成人のごくごく一部であるとはわかっていても、毎年のように報道されていると、その町自体がそういう連中が大きな顔する、またそれが受け継がれている土壌なんやなという目で見てしまう。ここ鳥取はそういうニュースに出てこなかったようだが・・・。

30分ほどで砂丘に到着。早速入るが、冬の鳥取とは思えない晴天、暖かさである。この日の鳥取の最高気温は17度まで上がったそうである。おかげで砂も泥ではなく、さらさらとしたものが広がる。そんな中、馬の背と呼ばれる丘を目指して歩く。日本離れした景色である。

馬の背に登頂。日本海の風をモロに受けるところだが、ここも冬の厳しさというのは感じられない。中にはわざわざ裸足になって海側の斜面を駆け下りる観光客もいるくらいだ。

まあ、砂の上を走ったり、ここで手製の飛行機を飛ばす分には問題はないのだが、国立公園ということもあり、砂を持って帰ったり、砂丘に落書きをするのはご法度である。そんな中、こういう落書きが見られる(注:画像に写っている男性がこれを書いたわけではない。逆に落書きを消している係りの人だ)。

昼間は観光客の目があるから、夜とか早朝に書くのだろう。「砂に書いたラブレター」のビッグ版ということで、書いたほうかさぞ気持ちいいだろうが、これはNGである。以前に「水曜どうでしょう」の原付の旅で、砂丘に番組名を落書きしたり、砂丘の砂を袋に詰めてその後旅をしたのが自然保護法違反ということで厳重注意を受けたことがあった。それを見て「そうなんや」と知った次第である。ただそれ以外にも、ダカールラリーの真似をして砂丘にクルマを乗り入れて結局動けなくなったとか、砂丘を巡ってのトラブルはちょくちょく発生している。これだけの砂を見ると、子どもの頃の砂いじりの記憶や、砂浜のロマンを存分に味わいたくなるのだろう(実際にやってはいけないことだが)。

砂いじりというと、それを芸術の域まで高めている砂の美術館というのがあるが、今回はいいかなと思う。ちょうどループバスがやって来たのでこれに乗ってしまう。車内は暖房が入っていて暑いくらいだ。

バスはこの先、賀露港や湖山池を経由する。賀露港にはカニの幟や看板が立ち並び、食欲をそそられるのだが結局このままバスに乗車し
駅に戻ってきた。

さてまだ時間はある。市内の見学施設は年末年始で休み。鳥取市内には温泉が湧いているので公衆浴場に行ってもいいが、せっかく青春18きっぷを持っているので、少し足を伸ばすことにした。時刻表を見るに、浜村はどうだろうか。ここも温泉地で、ネットで調べると駅の近くに日帰り入浴可能な施設がある。行き帰りの時間の都合はあるが、現地で1時間くらい滞在できそうだ。

高架ホームに上がると、今や希少価値となったキハ47、しかも首都圏色と呼ばれるタラコ色の車両がいる。この国鉄型気動車に乗れるのもあとどのくらいだろうか。浜村までは30分ほどだが、昔ながらの車両の乗り心地を楽しむ・・・・。
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若桜鉄道でレトロな鉄道風景

2016年01月15日 | 旅行記F・中国
郡家から若桜鉄道の1両の気動車に乗る。特急から乗り継いだのは私だけで、車内には男性の乗り鉄1名と、地元の人らしい親子連れが一組いるだけ。そんな車内だが車掌も乗務している。普段はワンマン運転なのだろうが、正月だからだろうか。

そしてもう一人、運転台の後に立っている。ボランティアガイドの名札がある。これも正月のサービスだろう。この後終点の若桜までいろいろと沿線のガイドをしてくれて面白かったが、数人の客では張り合いが少なかったかな。

甲子園にもたまに出場する八頭高校の横を通る。ガイドによれば野球だけでなく、ホッケーが強いとのことで、卒業生の中にはオリンピックのメンバーもいるそうだ。

次の因幡船岡ではかかしがお出迎え。地元の人たちの発案で、若桜鉄道の活性化の一環で「ふるさとの駅づくり」を行っている。何でも、同じ鳥取県の西にある境港や同地を走る境線が、(先日逝去した)水木しげる氏ゆかりということで妖怪を前面に出しているのに対抗して、「西の妖怪、東のかかし」というPRである。この後あちこちの駅でかかしが登場する。

次の隼。木造の駅舎が残る。ホームの横には電気機関車と1両の客車。かつて「ムーンライト高知」等として走っていたのを譲渡されたもので、「ムーンライトはやぶさ」というプレートがつけられている。

この隼、ライダーには有名なスポットである。バイクのことはよく知らないのだが、同じ名前の名車があり、その愛好家たちが訪れる。はやぶさに乗って隼駅に集うイベントも行われたそうだ。

安部駅はホーム1面だけの駅だが、ホームのベンチにもかかしがいる。ガイドが「どこかで見た姿ではないですか」と話す。そう、寅さん。映画 「男はつらいよ」のロケがこの駅で行われたのだとか。因美線の美作滝尾駅もこの映画のロケ地の一つだか、ローカル線の木造駅舎というのが寅さんの世界にはよく合うのだろう。木造駅舎というのも希少価値がある。カネがあれば新しい駅舎に建て替わるし、カネがなければ壊されて簡易なものになる(中には貨車を改造した駅舎などというものがある)。木造駅舎が残った事情はいろいろあるだろうが(大切に残そうというものもあれば、壊すカネがもったいないからと放置されていたものもあるだろう)、ここまで来ればこれからも大切に残してほしいと思う。

それはさておき、まだ若桜鉄道の切符を買っていない。終点で精算かなと思っていると、車掌が声をかけてきた。1日乗車券もあるという。往復するだけでも割安になるので買おうとすると、「どれにしますか?」とサンプルを出す。今は珍しい硬券で、しかも図柄は5種類。鉄道ファンを多分に意識した商品である。もちろん買ったのは1枚だけだが、中には全種類集めるという強者もいるだろう。

終点若桜に到着。こちらはかかしだけでなく人間の駅員も総出でお出迎え。ガイドのお兄さんもお疲れ様。

若桜鉄道の大きな売りはこの構内にある。ただ間近で見るには、乗車券とは別に300円の入場券が必要である。まあ、維持費に充てられるということでうなずけるし、鉄道ではなくクルマで来る人についてはなにがしかは取ってもいいだろう。

それが蒸気機関車。以前来た時には構内運転として若桜駅内を走っていた。この時に運転台に乗り、動く蒸気機関車を初めて直に感じることができた。今は冬で運転は行われておらず構内で休んでいるが、この機関車を若桜鉄道線内で本格的に復活させようという動きもある。実際の線路で試運転もされている。

そのSLに続いて並ぶのはディーゼル機関車。これは初めて見た。リアルタイムに乗っていないSLとはまた違い、ディーゼル機関車は実際に客車列車に乗ったことがあるぶん、個人的には親しみと懐かしさをより感じられる。

若桜駅構内には機関車だけでなく、客車も新たに留置されている。これもSLに客車を牽引させて走らせるためのものだろう。いつの日になるかだが、これは楽しみだ。

もう少し時間があるので、駅前を歩く。若狭は関西と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町である。駅前に昔ながらの町並みがある。蔵通り、寺通りという看板も出ている。表通りを一つ入ったところは、同じ鳥取にある倉吉をコンパクトにしたようなイメージが浮かぶ。若桜は結構古い町並みの穴場、若桜鉄道とセットするとよりレトロ風情が満喫できるところだ。

そんな中、こんな看板を見る。こういうところの看板はキリスト教に関するものが多いイメージがあるが、そこには「貧しく維持出来ない土蔵群を 豊かな自治労は暗いものにするな!」と書かれている。これを見てその時は何が言いたいのかわからなかった。帰宅後にネットで検索すると、所謂古い町並みがある自治体の悩みがあるのかなと窺えた。

昔ながらの町並みというのは、その町にとっては貴重な観光資源。当然、その維持に力が入る。中には建物に手を入れること自体がハードルになっている町もある。観光資源は維持しなければならない、だから地元の方々にはちょっと負担していただいて・・・というところだが、それも限度があるだろう。若桜の場合は、どうにかこうにか町並みは維持しているが、そこに自治労という名の力が変に働いていないかという危惧があるようだ。

こう書かれると、古い町並みの風情というのを普通に楽しむのに少しずつ罪悪感を覚える。そこに住んでいる人たちは貧しく苦しい生活を送っているのに、訪れる人たちは上から目線で見せ物を楽しみ、根本のところでは田舎を嘲笑っていると。本音はそうなんだろう。その上で、町起こしだなんだと言っても、所詮は権力とズブズブの自治労だけが潤うと。

これは若桜に限らずあちこちで問題になっていることだろう。これが現実なわけだが、何だかなあ・・・。

古い町並みを観光気分で見物する、というのは、きれいごとのように見えて、既存勢力とか、結局は地元の大地主にしかカネが回らないことなのか。そういう現実の中、のほほんと「風情ありますなあ」と見て回る私ってアホ丸出しやね・・・。

それなら、貧しい田舎は徹底して貧しくなって滅んだほうが、それが現実ということでいいのではないか?いや、滅んでしまえ。根本のところで外から来た人間をバカにするのなら。

さて若桜の折り返し時間もあっという間に過ぎ、出発する。因美線に乗り入れる鳥取行には来た時よりも乗客があり、ローカル線と言えども賑わう。先ほどの景色を巻き戻す形で走る中、沿線では布団を干す家もある。正月で子ども一家が里帰りするのか、あるいはたまたま天気がいいからか。こんな光景が見られるだけ穏やかな天候である。冬の山陰とは思えない。何でもこの日の鳥取の最高気温は17度まで上がったという。

そんな中、駅ごとに少しずつ乗車があり、因美線に入ると立ち客も出る。高架の鳥取に到着。時刻は12時過ぎ、これからしばらく、穏やかな山陰の風情をしばし楽しむことに・・・。
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智頭急行に乗って鳥取へ

2016年01月12日 | 旅行記F・中国
冬の青春18きっぷが一回分あるので使うことにした。今回は大垣、福井とそれぞれ中距離の往復での使用で、がっつりではないが一応元は取れている。東、北と出向いたので、今回は西を目指す。その中で選んだのは鳥取。日帰りとなると結構慌ただしい。

大阪からだと、福知山~山陰線回りが考えられるが、所要時間だと別料金がかかるが、智頭急行回りが早く着く。上郡から直通の普通に乗れば11時に鳥取に着く。夕方までの結構長い時間滞在できるし、またここを拠点に足を延ばしてもよい。

ということで、福井から帰って中1日置いた1月3日、早朝に大阪を出発。網干行の快速である。早朝だが座席がほぼ埋まるくらいの乗りである。これで姫路に着くと、ホームの向かい側に停車していた岡山経由新見行が先に発車する。短い編成に乗り継ぎ客が殺到する。一本後の列車でも上郡からは同じ列車に間に合うのだが、少しでも先にコマを進めておく。

上郡着。下りホームの先にある智頭急行乗り場に向かう。出札口があり、切符拝見となる。「智頭急行線内は青春18きっぷは使えません」の表示が目立つ。それは既に承知していることで、1日乗車券を買い求める。青春18の時期に合わせて売られており、乗り降り自由で1200円。車内発売はなく、有人駅の窓口が開いている時間にしか買えない。ただ、上郡から智頭まで普通に買って1300円のところ、素通りするだけでも100円安い。今回は帰りも智頭急行に乗るつもりで、そうすると半額以下で利用することになる。

早い時間から1両の気動車が来たので、ボックス席に陣取る。一本後に上郡に着いた列車からの乗り継ぎもわずかで、10人ほどで出発する。智頭急行は全線高架で、気動車と言っても爆走気味である。

天気は良さそうだが、沿線の霧が濃い。佐用の次の平福は川沿いに古い町並みが広がるところだが、もやっていてその様子はほとんど窺えない。

岡山県に入り、宮本武蔵駅を過ぎると大原に着く。不思議なもので、岡山県の山合に入ると霧がすっかり晴れた。ここで特急を先に通すために長時間停車する。

この時間を利用して車両を出る。待ち合わせの間の散策・・・ではなく、後から来る特急「はくと」に乗るのである。青春18の旅なのに、第三セクター区間と言え何故に特急に?

・・・これは、上郡で列車の出発を待つ間に時刻表を見て急に決めたこと。

中国地方にもいろいろ鉄道が走っているが、その中にあって、鳥取の南、因美線の郡家から分岐して若桜に至る若桜鉄道にはまだ乗ったことがなかった。終点の若桜でSLの運転台体験や、途中の隼駅訪問はしたことがあるが、いずれもクルマで来たもの。昔を振り返っても、若桜鉄道そのものに乗っていないことに改めて気づく。広島に住んでいたこともあり、中国地方は幅広く回ったものだが、若桜鉄道が未乗とは。

時刻表を見るに、鈍行ばかりでは接続も悪く、鳥取着もかなり遅くなる。ただ、智頭急行の大原から特急に乗れば、郡家で若桜行に連絡している。終点の若桜では50分ほどの折り返し時間がある。若桜からの折り返し列車はそのまま鳥取まで走り、12時過ぎに着く。これなら、当初の予定から1時間あまり遅れるだけで、特急を使う効果は大きい。ならばせっかくということで、若桜鉄道に乗りに行くことにした。

やって来た「スーパーはくと」は、前側が自由席。自由席なら、智頭急行の1日乗車券の客も特急料金の追加で乗ることができる。この列車、前方の眺めが良い車両が自由席扱い。最前列に陣取った客が前方の撮影に余念がない。

この後郡家まで乗る私、車内での精算は、大原から郡家までの特急料金に(智頭急行、JRそれぞれかかる)、智頭~郡家までの乗車券。これらだけで青春18きっぷの貯金を吐き出したようなものだが、まあ、これはこれで・・・。

対向列車の遅れとかで3分ほど遅れて郡家に到着。次に乗る予定の若桜行はホームの向かい側で待機していた。スーパーはくとから乗り継いだのは私だけで、しばらくするとエンジン音を立てて出発する・・・。
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西国三十三所 散華台紙

2016年01月11日 | 西国三十三所
昨年満願となった西国三十三観音霊場めぐり。

これを行うきっかけはJRのキャンペーンだったわけだが、それぞれの札所を回り、スタンプシートに最寄駅のスタンプをいただくという、寺の朱印とは別のスタンプラリーもあった。

回った駅の数に応じてプレゼントが当たるので応募したのだが、これとは別に満願になるともれなくもらえるのが散華台紙。

散華とは法要の際に諸仏を供養するために撒かれる花のこと。元々は生花だったのが、いつしか蓮の形をした色紙で代用するようになった。

この散華、色紙だけではなく、そこに絵や文字が入っている。寺によってはオリジナルの散華もある。今回、JRのキャンペーンに合わせて配布されているのは文字が入ったもの。一つの札所に一つの文字。「観」や「誓」など、これだけを見れば何のことやらということになる。

これが満願になり、札所の順番に並べると「観音経」の一節が出来あがる。まず「観音力」としたうえで、「汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願」と続く。

この散華を台紙に貼り、家にあった額に入れるとこの通り。本当は散華台紙にぴったりのサイズの額も別売りされているのだが、少し高いのでこれで十分かな。

改めてこうして見ると、一つの達成感というのが思い出されるし、いい記念である。

このたび初めての本格的な札所めぐりということで西国三十三所めぐりを行ったわけだが、世間にはこれに倣ったわけではないが、さまざまな札所・霊場めぐりがある。今年はこの中で、次の札所めぐりを予定。その一番札所とは・・・・。
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勝山城博物館、越前大仏・・・とある実業家の遺産

2016年01月10日 | 旅行記D・東海北陸
平泉寺白山神社から坂を下ったところの田んぼの中に巨大な城がある。見たところ新しい感じだが、最初にこれを見てイメージしたのは、「風雲たけし城」のセット。

勝山の観光スポットの一つである勝山城博物館である。勝山城そのものは戦国時代に柴田勝家の一族である柴田勝安により築城され、その後江戸時代には勝山藩として小笠原氏がこの地を治めた。その後明治の廃藩置県で城は取り壊された。

今そびえる天守閣はその再建かと思いきや、そもそも勝山城の場所というのがここではなく、駅に近い勝山市役所が城跡である。今あるのは元の勝山城とは全く関係のない場所に建てられたものである。また、勝山城には天守閣がなかった。天守閣の建設には幕府の許可も得ていたのだが、勝山藩に財政面の余裕がなく、結局建てられることはなかったのである。それがこうしてデンとそびえるとは。

レンタサイクルを乗りつけて天守閣の下に行く。石垣には龍の彫刻がなされている。そして見上げる天守閣の高さは57.5mということで、姫路城、大阪城、名古屋城という名だたるところを押さえての日本一である。

・・・ここまで書かなくても、この勝山城が歴史的な建造物でないことは明らかだろう。あくまで模擬天守閣の「博物館」である。それでも元日から開いているというのはよろしい。中は近代的な造りである。

まずはエレベーターで最上階の6階に行く。ここは展望室で、扉を開けると勝山の地の展望が開ける。勝山の市街地や先ほど訪れた平泉寺の「寺領」などもよく見える。

ここから階を下るが、階段も緩やかで高齢者にも配慮した造り。撮影禁止なので画像はないが、各階ごとにさまざまな展示がある。白山信仰や平泉寺白山神社の歴史について地元の画家が描いたさまざまな絵で紹介したり、中国の清朝末期の刺繍コレクションの展示もある。刺繍を寄贈したのは魯迅の孫の周令飛という人で、これも魯迅と「藤野先生」こと藤野厳九郎博士(福井出身)とのつながりからである。

さらに階を下ると数々の武具が展示されている。その中で圧巻なのは、川中島合戦と賤ヶ岳合戦の屏風。川中島では武田信玄と上杉謙信の一騎討ちが描かれているし、賤ヶ岳では七本槍の活躍が描かれている。それぞれわずかしか現存していないもので史料的にも価値がある。また2階では日本の四季をテーマにした障壁画がそびえ、自動演奏のピアノが美しい音色を響かせる。先ほどの平泉寺白山神社が見事なまでに「何もない」ところだったのに対して、勝山城博物館はてんこ盛りである。

ここを後にしてペダルを漕ぎ向かったのは越前大仏。正式には臨済宗妙心寺派の清大寺というところ(清水寺ではない)。広大な駐車場を持つこともあってか、参拝者もそこそこいる。門前には商店街があるがシャッターを下ろしているところが多い、その中に「ネジアート」として、ネジで仏像などをつくっているギャラリーもあるのだが・・・。

普段は500円の拝観料を取るようだが、初詣期間は無料とある。これも新しい感じの巨大な仁王門がまず出迎える。その後はこれも先の勝山城と同じような巨大な大仏殿。この中に越前大仏が安置されている。

中に入る。正面にデンと座っているのは盧舎那仏。高さは17mということで、奈良・東大寺の大仏よりも2m高い。坐像としては国内最大だという。

この廬舎那仏を中心として両脇を菩薩像が固め、さらには両側にはこれでもかと坐像が並ぶ。こういう光景を見ると「21世紀の仏教はこうでなくちゃ」ということか、建てたほうは至極真面目かもしれないが、見ていると逆に滑稽に見えてしまう。

ここでは縁起物の授与も行われており、地元の人たちでそこそこ賑わっていた。

1300年の歴史を持つ平泉寺白山神社とは対照的に新しい感じの勝山城に越前大仏。勝山市の観光スポットとして紹介されているが、さまざまなネット記事を見ると、まっとうな観光スポットというよりは「珍スポット」的に扱われているように思う。私も史跡としての城郭や古刹としての寺院という観点から見ると、「何だかなあ」と見えてしまう。

・・・というこの2つのスポットであるが、これらを建てたのは同じ人物である。この勝山出身の故・多田清氏。子どもの頃に稼業が傾き、さまざまな仕事に就いた。その中でタクシー運転手からタクシー会社の経営に着手して、これが当たった。今も関西を中心に展開する「相互タクシー」である。

晩年の多田清氏は「今の自分があるのは世間の人々に迷惑をかけ借金をしてきたから」という「人生借金返済論」を掲げ、慈善事業や寄付に力を入れた。その中で故郷の勝山の活性化ということで、この清大寺と越前大仏を建てた。勝山城博物館も「天守閣を建てたくても建てられなかった当時の人たちの願いをかなえる」として着手したものである。ただ、その天守閣の完成を前に多田氏はこの世を去ってしまう。

勝山のためとして建てられたこれらのスポットだが、多田氏の死去後に相互タクシーが法人税の追徴課税や市税滞納などを理由として、五重塔など一部の資産を差し押さえられたことがある。公売にかけられたが結局買い手がつかず、市は結局徴税を放棄、寺も宗教法人に移行して現在に至るというものである。勝山市のページでも一応観光スポットとしては紹介されているものの、こうした経緯があってか、あっさりした扱いである。これらを嫌って「恐竜推し」になるのも仕方ないか。

「人生借金返済論」は、これだけを聞けば「人様に感謝の気持ちを抱いて奉仕の心を持つ」というように捉えられるが、それを巨大な建造物、城や大仏にというのは「やはりカネの力でしか物事をどうこうできない人なのかな」と思わせる。借金返済どころか、税金滞納って。大仏や菩薩像に凄味はあるが、信仰とか徳の深さということになるとどうだろうか。

ただ、清大寺に限らず、今は古刹とされている寺院の中には同じような経緯で建立されたところも多いのではないだろうか。今なら日本史の教科書で「○○という人が建立」と紹介されていても、当時とすれば権力や財力の象徴で、一族の繁栄とか、(民衆の救済なぞ考えずに)自らの成仏を願ったとか、当初はそういう目的で建てられたものもあるだろう。それを考えれば、今は珍スポットとか、バブル時代の象徴のように言われているところも、長い目で見ればまた違った評価を得るかもしれない。

この辺りで市内見物は終了とする。昼過ぎということで、勝山名物のおろしそばでも食べようかと市街地を回るが、正月ということでイラストマップ記載のどの店も休業中である。仕方なくコンビニで昼食を仕入れて、駅の待合室でいただく。ぼちぼち、勝山を後にする。

えちぜん鉄道に揺られて福井に戻る。時間的には、今回行こうかとも考えた丸岡城くらいなら行けるところだが、もう引き上げることにする。15時10分発の長浜行というのがある。2両編成の列車は青春18きっぷの乗り継ぎ客で満席。

このまま長浜まで行くところだが、途中の敦賀では湖西線経由の新快速が出ている。これに乗り継ぐと大阪には長浜・米原回りよりも早く着くということで、こちらに乗り換える客も多い。日の短い時期だが辛うじて琵琶湖の景色を見ることもできる。

短い1泊旅行であったが、年をまたいだこともありなかなか充実したものであった。福井は関西から近く、一方で関西とは一味違った文化を楽しめるところである。年末に限らず、また平常でも来たいところである・・・・。

(追記)
前夜に福井のかにの駅弁(紐を引いて温めるタイプのもの)を食べたが、定番は「かにめし」である。帰りにも食事用で買い求めようとしたが、ふとあったのが限定版の「特撰かにめし」。かにのほぐし身だけでなく、脚、そしてかに味噌をまぶしたホタテが入る。帰宅後の夕食としていただいたが、駅弁としてなかなかのものである。
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勝山平泉寺白山神社

2016年01月09日 | 旅行記D・東海北陸
勝山の駅から電動レンタサイクルで町に出る。勝山で最も人気があるのは恐竜。駅の周りにも恐竜の像があるし、恐竜博物館はJR西日本の北陸キャンペーンのCMにも登場する。新しくなった福井の駅舎にもさまざまな恐竜が描かれ、県全体が「恐竜推し」の状態である。

ただ、肝心の恐竜博物館は年末年始休館。えちぜん鉄道の福井駅でも告知はされていたが、観光ということを考えるとちょっと惜しい。それを承知で勝山に来たのは別のスポット目当てである。

平泉寺白山神社。奈良時代初期に泰澄により開かれたとされる。白山信仰の修験道により栄え、中世には比叡山の保護の下、多くの寺領を持ち、源平の戦いや南北朝の時代には、常に勝ちそうなほうについた。中でも南北朝の時は、最初は後醍醐天皇側だったのが、足利側から領地の約束をされるとあっさり寝返り、果ては新田義貞の折伏祈祷を行ったことも。ただ時代が下るとその権威に不満を持つ一向一揆の手で焼き払われた。江戸時代になると再興されたが、明治維新の際の神仏分離令で「神社」の扱いとなった。そう、元々は寺である。

司馬遼太郎の「街道をゆく」に「越前の諸道」編がある。今回福井に来ようと決めた後で久しぶりに読んだ。その中で永平寺よりもページが割かれていたのは平泉寺である。道元の真の教えに反して商売の手を広げた(と言わんばかりの)永平寺よりも、日本の仏教、神仏習合・分離の歴史をそのままなぞったような平泉寺のほうに興味を感じたのだろう。私はこれを読んで、今回平泉寺に行こうかなと思っていた。ただアクセスをどうしようかなと思っていたところに、レンタサイクルである。駅からは7キロほどあるようだ。

冬の北陸とは思えない晴天の中を走り、菩提林に着く。ここが平泉寺の旧参道で、鬱蒼とした林が広がる。これは司馬遼太郎によれば、地元の人たちが時代の壁を超えて守ってきた「寺領」である。今でもそんな感じで保護されているのかな。駅からここまでも上りが続き、時折電動アシストのボタンを押していたが、さらに本格的な上りになった。頑張って濃いでみたが、最後には自転車を押して歩く。そもそもここに自転車で来ようという観光客がどれだけいるのやら。

参道に向かう。その門前に「東尋坊跡」を見つける。東尋坊といえば前日も訪れた福井を代表する名所である。その由来が「東尋坊」という坊さんだったことは聞いたことがあるが、その東尋坊がいたのがこの平泉寺である。東尋坊は怪力を頼みに悪事を働いたとか、あるいは恋敵となった別の僧とのいさかいがあったとかで、最後は酒に酔ったところを断崖から突き落とされた。その後で海は荒れ、雷雨が平泉寺を襲い、その一角にあった東尋坊の館の井戸が血の色に染まったという。平泉寺は中世には宗教都市とでもいうべき繁栄を見せたが、一方では権力の横暴とも言える行いもあったようである。

参道を歩く。両側には苔が広がっている。苔と杉のコントラストがよい。木漏れ日が苔を照らす風景も神々しいものがある。中世の宗教都市も、江戸時代以降は苔が名物ということで、それだけ「放置」されてきた歴史なのかなとも感じる。

拝殿は今では小ぢんまりとしたものであるが、かつては三十三間の幅があったそうである。そして奥に本殿であるが、これも小ぢんまりしたもの。

広大な敷地を持っているし、由緒ある神社である。元日となれば初詣客で賑わうところだろうが、神社の派手さはない。巫女さんがいて縁起物を分けるとかおみくじを引くわけでない。静かな佇まいで、柏手を打つ音が山に響くようである。何とも不思議な雰囲気である。ただ、わざわざ自転車を漕いでやってきただけのことはあった。改めて「街道をゆく」を読み直してよかった。

参拝を終えて麓に戻る。今度は下り坂で、危ないくらいにスピードが出る。次に向かうのは、恐竜と並んで勝山の名所となっている「デカイもの」である・・・・。
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