1995年1月17日5時46分。
あの阪神・淡路大震災が発生した時である。あれから20年ということで報道の取り上げも大きく、改めてその時のことを思い起こす。今でこそ仕事の関係もあり神戸の街も近く感じるのだが、当時大学3年生で藤井寺の実家に住んでいた私は、確かに大きな揺れはあったがそれだけのことで、テレビで次々に映し出される被害のすさまじさに驚いたものの、神戸そのものになじみがないこともあり遠くの出来事のように見ていた感もある。親戚知人で被災した人もおらず、避難所や仮設住宅に見舞いに行く必要もなかったことも、そう感じられた要因かもしれない。
ただ4年前の東日本大震災は、災害の規模が阪神淡路より大きかったこともあるが、社会人になって年月を経てやはり「自分の国の未曾有の出来事」という認識ができたのだろう、自分としても関心を持って見るようになった。ボランティアではないが被災地に2度訪問して、改めて津波被害の大きさと、復興への難しさにやるせなさを感じた。
そこで迎えた20年。朝のテレビでは各局が追悼式典の様子を中継しており、5時46分には私も自室で黙祷する。その後でふと、これまで「1.17」に神戸を訪れたことがなかったことから、「これは一度行かなければ」という気になった。
昼に三宮に現れる。多くの人に混じって東遊園地方面に歩く。その手前の神戸市役所前では「1.17追悼・連帯・抗議の集い」というのが行われていた。ぜんざいのふるまいの呼び込みがあり長い行列ができている。ただよく見ると公式行事ではなく、労働団体系のイベントのようである。歩道に新聞記事の拡大コピーが掲げられ、借り上げ復興住宅の期限である「20年」が過ぎたから退去を求められるとか、高齢化が進む中での孤独死や自治会の破綻といった問題に注目し、その問題をアピールするという主旨のようである。市役所の前で行われているし、三宮駅から歩いてくるとこの集会に先に出くわすので「これが公式行事?」と一瞬思うのだが、「抗議」という言葉にもあるように、もともとは市役所前での座り込み活動から起こった行事だという。それがいつしか市役所や警察も敷地や歩道の使用を正式に許可するようになったとか。
確かに震災から20年が経過して、街は復興したがこうした新たな問題も出ているのは確かである。当初は「20年もあればその間に問題は解決するだろう」と思っていたのかもしれない。ただ20年は長いようで短かったのかもしれない。東日本大震災も問題解決が進まない中でもう4年が経とうとしている。だからさまざま考えなければならないし、こうした集会を行うのが悪いとは言わないが、まずは静かに祈りを捧げさせてくれよとも思う。
東遊園地に到着。竹筒を燈籠のように並べて「1.17」の形をつくっている。ろうそくの配布所があったのでそこで何がしか募金して、水に浮かべるろうそくにもらい火をして点灯する。犠牲となった人、今も「復興」ができずに苦しんでいる人たちに思いを致す。
しばらく広場にいると、ポツポツと雨が落ちてきた。やがて降りが強くなり、傘を持っていないのでどこかに避難することに。震災へのメッセージの寄せ書きをするテントがあったのでそこに入る。同じように雨宿りをする人たちで一杯だ。雨が止むのを待つ間、その分さまざまな寄せ書きを見ることができた。20年前に実際に被災した人、まだ産まれていなかった人、東北から来た人・・・さまざまな人たちの、さまざまな思いがそこにある。
そんな寄せ書きを見て回ると、ふと同じテントの中に見覚えのある顔。
「支障さんじゃないですか」
声をかけると果たして鈍な支障さんで、やはり震災20年ということで三宮にやって来ていた。当時すでに社会人として働いている中で、知人にも被災された方がいるとのこと。当時の状況はやはりショックだったそうだ。
これが男女の出会いなら何とまあ偶然からドラマチックだろうかと思うが、お互いおっさん同士、時間がよければ三宮のガード下にでも一杯やりに行こうかという口である。さすがに時間も早く、私も夜は大学時代のメンバーと一席あるのでそれはなかったが、せっかくなのでそれまで神戸歩きとする。
「久々に雨男本領発揮ですわ」と話す支障さんだが、その雨も小止みになったのでテントを出る。これからHAT神戸にある人と防災未来センターに向かう。また雨が降ってもいけないので、三宮から春日野道まで阪神で一駅乗車する。地下ホームから地上に出るとまた青空が広がっていた。
ちょうど広場では震災の追悼式典やイベントが行われており、耐震や防災について紹介するテントも並んでいた。私たちが広場に着いたその時、サイレンを鳴らして救急車が入ってきた。急病人か?と救急車の行く先を見ると、停まったのは赤十字社のテントの前。どうやら救急救護の訓練イベントだったようだ。
訓練イベントの一環か、ちょうどそこに海上保安庁の巡視艇がやって来た。巡視艇「ふどう」。船内の一般公開が行われるとのことで、私たちも列に加わる。大阪湾から播磨灘を担当しており、消防救助活動に当たる。
しばらく着岸を待つうち、海上保安庁と言えば「海猿ですなあ」と支障さん。目の前では「リアル海猿」が着岸作業を行うが、なかなか位置が決まらず何回もロープを巻き直している。後ろの人たちは「普段一般の人乗せへんし、安全にロープとか張っとかな何かあった時に責任になるからなあ」と話すが、それにしては時間がかかる。支障さんも「ドラマの海猿の伊藤英明のほうが早かったりして」などと言い、さすがに監督らしいのが「おい○○!」と呼んで自分の左手首を指差す。停泊時間も限られている中、当事者から見ても時間がかかっていたのだろう。ようやく見学開始で、一度に30名程度が入れ替わって中に入る。
巡視艇「ふどう」は前方、中段、上段に計4門の放水銃を持つ。放水のイベントがなかったのでわからなかったが、威力は相当なものだろう。尖閣諸島沖での中国船との衝突ではないが、武力がない中で相手に対抗するには水鉄砲くらいしか手段がないのだし、それなりのものはないと・・・。舵が自動車のハンドルと形が似ているのに意外さを感じる。
続いては消防挺の「くすのき」に乗船。こちらは神戸市消防局の船である。小型な分機動力がありそうだ。こちらも両弦にホースが扇状に立てられており、各方面への放水が可能である。こうした船が出動する事態にならないに越したことはないが、万が一の時の安心ということで。
この日のイベントはさまざまな車両が並び、自衛隊の風呂用の給水車や人員輸送車、装甲車があるかと思えば地震の揺れの体験車両もある。特に子どもには好評のようだった。
そしてやって来た「人と防災未来センター」。阪神淡路大震災を伝えることで、震災を風化させないとともに防災意識を高めようということでできた施設である。昨年、「関西私鉄サイコロしりとりの旅」で阪神春日野道に降り立った時に訪れ、内容の濃さに「神戸観光のスポットとしてお薦め」と感心したものだった。ちょうどこの時期震災20年の特別展示が行われており、しかも1月17日は入場無料である。
タイミングよく、待たずに最初のシアターへ。ここでは震災を特撮と音響、CGで再現。淡路島、三宮、阪神電車、阪急伊丹駅、阪神高速、病院、商店街などが倒壊する映像がこれでもかと続く。その作り込みは一瞬「震災の瞬間を狙って、そこにカメラを仕掛けてたのでは?」と思わせるくらいのリアルさである。
もちろんそんなことはなく、これはあくまで特撮の映像なのだが、その次の部屋で見た「震災から復興までの様子を一人の女性の体験談風に綴る」映像に流れるのは実際の光景である。20年前の映像を見て、今とは違うと思う反面、今でも同じと感じるシーンもあり、うなるしかない。
映像を観た後は、さまざまな写真、遺品、語りで満たされたフロアへ。目につくのは小さな子どもを連れた家族。両親は私と同じかそれより若い感じ。話したわけではないのだが、両親のいずれかあるいは両方が何らか被災し、その後さまざまな苦労を越えて結ばれ、今度は子どもに伝えようということだろう。子どもがこの日どこまで理解したかはわからないが、そんな光景が「自然に」あちこちで見られたことに「ええなあ」と思った。
この後で、特別展示を見る。改めて20年を年表で振り返る中での震災。前日の1月16日の神戸新聞では、神鋼ラグビー部の日本選手権7連覇を伝えていたが、その翌日の夕刊は・・・。
被災地の様子を3D眼鏡で観るコーナーもあるが、その横で目にしたのがブルーウェーブの44番のユニフォーム。高橋智のもので、右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンが光る。仰木監督の采配とイチローを軸としたあの年のブルーウェーブの快進撃は他を圧倒するものだった。個人的には藤井寺球場で(近鉄ファンなのだが、当日は同行のブルーウェーブファンにお付き合いする形で三塁側で)佐藤義則の当時最年長のノーヒット・ノーランをナマで観たのが印象的だった。もうこれは敵ながらあっぱれとしか言いようがなかった(一方で、にわかブルーウェーブファンで佐藤の投球には興味がないのか、それほど遅い時間でもないのに、試合終盤だがイチローの最後の打席が終わるとともに席を立つ人も結構いたのも憶えているが)。
2015年、震災20年の記念行事の一環ということもあり、4月に神戸で行われるオリックス対西武戦は、ブルーウェーブの復刻試合となることが発表された。5年前は日本シリーズを争ったヤクルトとの交流戦がそれだったが、今度はペナントを争った西武戦である。これはぜひとも行かなければ・・・(ただ、私が「BlueWave」とデザインされたレプリカユニフォームに袖を通すかどうかは、もう少し心の整理が必要だと思うのだが)。
その後で、東日本大震災とのデータ比較、南海トラフ地震、首都圏直下型地震に関する展示を見る。
首都圏直下型地震のコーナーでは「さて、あなたは、どこにいますか?」という結び言葉とともに、首都圏のあちらこちらで地震が起こったとしてどのような被害が想定されるかのイラストが展示されていた。名前は明らかにしていなくても、イラストはどこを描いたのかは作品や解説を見れば明白である。ただ、それぞれの解説文の末尾につけられている「さて、あなたは、どこにいますか?」というフレーズは、「あなたはこのイラストのどこにいますか」ということではなく、「これだけの数のイラストがあるなら、どれかのイラストの、どこかにあなたはいるでしょう」という意味合いなのだろうか。仮に私の以前の東京勤務がその地震の日まで続いているとすると・・・確かに、どこかにはいると言えるだろう。その瞬間にどういう行動を取るかはわからないが・・・。
最後に避難所の一家族のスペースを再現したコーナーを見て、見学は終了とする。センターの下にあった慰霊碑に手を合わせる。沈みゆく夕日が物悲しさを際立たせる。
「人と防災未来センター」は、阪神・淡路大震災を総括するとともに防災教育の場として充実しているし、やはり多くの方に来ていただきたいスポットだと思う。その一方で、震災から4年が経とうとしているのに復興の「ふ」の字が出ているかどうかという状況である東北はどうなのかと思う。福島原発がもたらした暗く深い闇や、津波被害の甚大さはわかることなのだが、それを割り引いても復興が進んでいないのが事実である。
これは乱暴な意見で、たかが一ローカルブログを綴る者の酔言でしかないのだが、「津波で逃げ遅れた自動車学校の生徒たちの親などが起こした訴訟に対して、自動車学校の安全配慮義務違反を認めて、原告の訴え通り19億円の損害賠償の支払いを命じた」という判決に現れていると思う。あるいは、石巻の小学校の津波被害に対して損害賠償を訴えた保護者たちの姿勢にもつながる。
20年前とは訴訟に対する意識の変化もあるし、「何事も訴訟」という西洋式の考えが浸透したということだろう。震災被害の広がりは天災ではなく人災だというのが今の主流の考えである。ただ、何事も人災だとして、その解決を損害賠償に求めるというのは、何か違うと思う。阪神・淡路大震災の時はどうだったか。何でも安全配慮義務として裁判を起こしたのか。神戸の人々とは違い、東北はそういう連中ばかりなのか。もしそれが本当なら、石原元環境相が言った「要は金目でしょ」は事実をよく言い表したけだし名言となる。そんな訴訟の損害賠償でカタがつくのなら、「絆」って何やねんと思う。カネで結びついた「絆」か、それなら納得。その一方で、損害賠償で多額のお金を得たのなら、そんな連中に義援金はビタ一文配分してほしくない。
・・・本気でこう書けばそれこそ簀巻きにされることだし、そうは思いたくない。思うに、2011年に阪神・淡路大震災が起こっていたら、東北と同様にこのような訴訟が起こされ、その件数も東北とは比べ物にならなかったかもしれない。ただ結局は、地元民がというよりは、一部の「プロ市民」がそそのかしていることだろうか。21世紀に入って顕著になった、人の弱みにつけ込み、問題解決を装いながら結局は自身の懐を肥やす「プロ」の「市民」。それって、どうよ??ようわからん。
そんなことはこの時に鈍な支障さんに答えを求めるものではなく、そろそろセンターを出て大阪に戻ることにする。最後にセンター横の慰霊モニュメントに手を合わせる。6434名の犠牲者たちは、20年後の今の姿を見て何を思うのだろうか・・・・。