まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

広島へ

2015年01月30日 | 旅行記F・中国
下関から小野田線・本山支線を訪ね、岩徳線に乗り岩国へ。宮島・厳島神社への初詣客で混む中、今回は宮島は通過して広島市内へ。青空も広がってきた。

横川から広島に向かう途中で駅の建設風景に出会う。祇園新道の白島の辺りだ。ここにJR、アストラムラインの両方が新駅を設けるとか。確かにここにも一つ駅があれば鉄道でカバーできる範囲は広がる。

広島に到着。こちらは駅本屋は従来通りだが、各ホームと新幹線口とを結ぶ通路が新しくなった。ホーム上にあった売店や駅そばもこちらに集約され、新たにできた店もある。中国地方の中心都市ではあるが、こと鉄道面では(駅の立派さや路線、車両の豊富さでは)岡山駅に負けている感のある広島駅だが、これで少しは面目を取り返したか。

ここで昼食はもちろんお好み焼き。当日2日が初売りの駅ビルのASSEに向かい、いつもの「麗ちゃん」に並ぼうとするが、フロアを超えて階段までの行列。さすがにこれは長すぎる。ここはまたの機会にして、以前は「第二麗ちゃん」が入っていたスペースにある「いっちゃん」に並ぶ。見た感じ回転が良さそうだったので。

B級グルメはどれもそうなのだろうが、広島のお好み焼きもバリエーションは広い。麺、ソース、マヨネーズ&青のり、焼き方・・・これらの組み合わせ次第で味も変わるし、それだけ好みも分かれる。広島もん10人に「オススメの店」を訊いたら、おそらくバラバラな答えが返ってくるだろう。「いっちゃん」は初めてだったが、まずまずよかった。

・・・とは言うものの、そもそも今回の記事は、お好み焼き食べ歩きではない。

今回関門海峡紀行の帰途に広島訪問を入れたのは、昨年8月の集中豪雨である。私が就職して最初に赴任した街だし、特に被害のあった安佐南区は、一時期勤務した営業所もあり、担当エリアとしてクルマでいろいろ走り回っていたところ。八木地区もいろいろ行くことがあった。

ボランティアに行くわけでもなく、何を今さらという感もあるが、災害から数ヶ月が経ち、広島ではともかく大阪ではその後の様子が伝わらない中、せめて自分の目でほんのわずかでも現場を見たい気持ちがあった。

広島から可部線に乗る。この線に乗るのもいつ以来だろうか。広島に住んでいた時もクルマでの移動が多かったのでそんなに乗ったことがなかった。各駅に停車していくが、周辺にはいろいろ新しいマンションや店舗もできている。当時の記憶を引き出しつつ、懐かしさと新鮮さを感じる。またここで、雪が舞ってきた。

被害が大きかった八木地区は後で歩くとして、まずは終点の可部に到着。かつてはこの先、三段峡まで非電化区間が延びていたが廃止。ただ、通勤通学輸送が見込めるとして、少し先の新河戸までを「延伸」の形で復刻させるそうだ。確かに可部駅は地区の南の端で、安佐北区の中心から少し外れているので、この延伸は現実的だろう。ただ列車運用はどうなるか。やはり可部折り返しがメインで、3本に1本が(つまり、1時間に1本が)新河戸まで行くとか・・・。

いろんな思いを持ちつつ、雪の舞う可部である・・・・。
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小野田線・本山支線を行く

2015年01月29日 | 旅行記F・中国
1月2日、まだ真っ暗な下関駅のホームに現れる。これから1日かけて大阪に戻るわけだが、仮にまっすぐ鈍行と新快速を乗り継いでも、大阪に着くのは15時とかそのレベルだ。

ただ、自宅には2日の終電までで戻れればよいとなると、「最大何時まで引っ張れるか」ということが出てくる。時刻表で何度となくシュミレーションを行っていた。

ポイントは2つ。昨年夏の豪雨で甚大な被害を受けた広島の安佐南区八木を訪問すること。そしてもう一つが、タイトルにある小野田線の本山支線に乗ることである。

本山支線は小野田線の雀田から伸びる支線で、一時は昭和8年製造の旧式国電車両、クモハ42という車両の最後の生き残りが走るということで、その筋から人気があった路線である。私もJR乗りつぶしで1往復、そしてそのクモハ42が廃止になるという噂が出た時に1往復乗っている。中は完全に木でできており、正に博物館にありそうな骨董品の現物が走っている感があったものだ。

その車両がなくなって久しいが、今は本山支線そのものの存続が大丈夫なのかというところである。私が過去乗った時も本数はかなり少なかったはずだが、2012年のダイヤ改正で、朝に2往復、そして夕方に1往復というとんでもないことになった。関西では考えられないことだが・・・いや待て、和田岬線の休日ダイヤもそんな感じだった。まだ和田岬線の場合は、車両工場からの搬出があるとか、平日には三菱重工などの通勤客があるとかいう話ができるが(それでも廃止の話はちらほら出ている)、本山支線はこの先どうなるのだろうか。JR西日本が次に路線を廃止するならここではないかとも言われている。

今回、山口県に来たこともあり乗ることにする。できれば雀田からの始発に乗り、終点の長門本山では折り返し6分の滞在ではもったいないので一本ずらし、もう28分後に出る(まあ、同じ車両が行ったり来たりするのだが)朝の2便で雀田に戻ることにする。これで決めると、下関出発は朝の6時。まあ、普段の通勤とさほど変わるものではなく、藤井寺からの始発に乗ってどこかに出かけることと比べればゆったりである。

ただ、冬の山口県まで来ると、日の出の遅さを感じる。下関から小野田まで山陽線に揺られ、すぐに接続する小野田線の宇部新川行きの123系単行電車に乗り継いで走っても外は暗い。ようやく、雀田まで来てそろそろ周りの景色が見えるようになった。

雀田駅のホームは独特で、小野田から宇部新川に向かう本線のホームはカーブ状になっており、駅舎とホームを挟んだ向かい側に長門本山行きの乗り場がある。ちょうど扇を少しだけ開いたような造りだ。こちらにも同じ123系が停車している。この車両、元々は荷物車だったのを改造して走らせているが、この車両も今では小野田線、宇部線に残るくらいとなっている。ロングシートだがトイレもついている。6時59分発の始発電車に乗ったのは私を含めて6人。いずれも一目見てその筋の客とわかる。いずれもロングシートに横座りして前方を眺める。

近郊の田園地帯を走り、5分で終点の長門本山に到着する。折り返しまでの数分間、列車と駅の撮影会である。線路も途中で切られたかのような感じで車止めがある。ただ線路脇には花壇があるものの、どこまでが駅の敷地で、どこからが民家なのかはっきりしない。

折り返しの便に乗車する組と、それを見送る組に分かれる形で電車が出て行く。私は見送り組。普段なら宇部あたりへの通勤通学客が乗るのかもしれないが、1月2日の朝からそのような動きをする人はいない。

電車が出た後には寒々とした終着駅の風情が漂う。しばらく周囲を歩く。駅前にはバス停があり、小野田駅方面へ向かう便がある。本数が多いというわけではないが、本山支線の朝2本、夕方1本に比べれば地元の人にはまだ足として使えるだろう。そもそも、こんな中途半端な鉄道路線が今もよく残っているなと思わせる。もともと、この長門本山の沖に海底炭鉱があり、そこで採れた石炭を各地に積み出すために敷かれた線路である。昔はこの先の海べりまで線路が伸びていたし、長門本山の構内も貨車の側線が広がっていたそうだ。

現在その名残をとどめるものはないが、海が近いので行ってみる。空はどんよりとしており、風も強い。今回の旅、どこに行っても強風にあおられている。住宅の間を抜けるときららビーチというのがある。日本の夕陽100選の一つである。もっとも、アクセスとして本山支線は現実的ではない。無理に来るとすれば、夕方の便で来て、ここで夕陽を見て、帰りは・・・・もう「終電」は出た後なのでバスで小野田駅に出るくらいしかないか。

この日はそんな夕陽に思いを馳せるどころではなく、風が強く寒いので一瞬で引き返す。電車がやって来るのをしばし待つ。

線路の上を高校生くらいの女の子が一人歩いて来る。次の便の地元の乗客は彼女くらいか。朝の2便目がやって来て、先ほどと同じようなその筋の客たちが降りて来て駅の写真を撮る。バスで抜けることでもない限り、これを逃すと次の電車は夕方までの「11時間後」である。

唯一の中間駅である浜河内から、朝の1便目で長門本山に降りたうちの一人が乗って来た。雀田から長門本山まででも営業キロは2.3キロしかない。30分の折り返し時間があれば歩いて次の電車を捕捉することもできるようだ。それなら3駅とも訪問ということで、本山支線制覇である。

雀田に到着。列車行き違いで少し停まるので一旦外に出る。「もうじき100歳」というポスターを見る。2015年、小野田線は開業100周年を迎える。もともとセメントとか、上に書いた石炭とか、工業資源と関係することの多かった宇部線と小野田線。それが山口県の産業を支えた時期があった。今は地元の人たちのローカル輸送で粛々とやっているが、このうち宇部線は今でも運賃計算は「幹線」扱いである。そうしたものを見るのも面白い。

シュミレーションでは宇部新川まで行き、宇部線に乗って新山口に出ようということだったが、この日は宇部新川の一つ前の居能で下車。行き違いでやってきた列車に乗り換えて宇部線で宇部に出た。山陽線の宇部駅は幹線らしい広さを持つ駅だが、駅前にはこれといったものがない。看板にも「宇部の中心部へは宇部線で宇部新川へ」ということを書いている。

目的の一つであった本山支線を乗り終え、まずは東へ向かう。宇部からの新山口行きは外面は黄色一色に塗られたが内装はオリジナルをとどめる117系。そして新山口から岩国行きに乗り継ぐ。ただ徳山に来たところで、時間はかかるが変化球とすべく岩徳線に乗り継ぐ。さすがにここまで来ると早朝からの移動ということもあるし、また外も晴れていて暖かく感じるほどだったということもあり、睡魔が襲ってくる。トコトコいう単行気動車のリズムに合ったのかもしれない。いつの間にか岩国に到着していた。

ここで乗り継ぎ、初詣客で賑わう宮島口を過ぎて広島に到着・・・・。
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関門・元日の夜2

2015年01月27日 | 旅行記H・九州
下関の駅前で夕食とした後、再び門司港レトロに向かうことにする。乗り込んだのは小倉行きの列車。門司で乗り換え、終点の門司港に到着する。下車したのはわずかに数人。元日の夜の駅前もひっそりとしており、もし泊まるとなれば寂しい感じだっただろう。小倉ならホテルもピンキリで開いているようだし、夜もまだ賑やかだろうが、翌日の行程を考えて下関に連泊としたわけだ。

夜の門司港レトロは風もあり寒さを感じるが、朝に比べればまだましである。ライトアップされた各建物を見る。オンシーズンならここから関門海峡に出るナイトクルーズで夜景を楽しむことができるが、何もない。人通りもほとんどなく、その分静かに眺めることができる。

前日は下関の海峡ゆめタワーに上ったが、今日は門司港レトロ展望室に上がる。地上31階建てのマンションの最上階で、以前に一度昼間に上がったことはあるが夜景は初めてである。設計は故・黒川紀章。東京都知事選挙に出た時に1票を入れたのを今でも覚えている。

それはさておくとして展望室へ。関門海峡を挟んだそれぞれの街並みを対角線に観ることになる。遠くに海峡ゆめタワーや海響館の観覧車を見る。日本にさまざまな海峡があるが、海を挟んだ両方の夜景がこれだけ眺められるのは関門が随一だろう。明石海峡や鳴門海峡ではこうはいかない。

ただ、写真映りはどうだろうか。こちらの建物だが、展望室の中も結構明るく、中の照明がガラスに反射してしまうのである。自分の体を壁にしてみるのだが、結構難しい。夜景の展望スポットとしては、下関に軍配が上がるかな。

しばし夜景を楽しみ、下関に戻ることにする。最後は関門連絡船で海峡を近くに感じてみよう。時間通り出るようだが、今朝のような強風に雪が混じる天候では運航していたのだろうか。いやいや、関門海峡の冬ならあれくらいは日常的なレベルか?

私の他に親子二人連れが一組の3人で出航。これに対して乗組員が2人。出航を後部デッキに出て見届けるが、出るとスピードが結構激しく、水しぶきがかかる。船上から写真を撮ろうと思っていたが、とてもではないがそれどころではない。慌てて客室に戻る。

唐戸に到着。こちらも元日の夜は食事のできる店は皆閉まっており、開いているのはコンビニのみ。ちょうどやって来たバスに乗り、下関駅に戻る。

これで今回の旅での関門海峡巡りは終わりである。翌日2日は早朝から1日かけて大阪に戻る。ただ、その道中がまた長いことになるので、拙ブログをご覧の皆さんにはまだもう少しお付き合いいただくことに・・・・。
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関門・元日の夜

2015年01月26日 | 旅行記F・中国
関門海峡と北九州を一巡りして夕方に下関に戻る。そろそろ暗くなってくる時間帯である。そんな中、下関駅前を少し歩くことにする。

駅前には歩道橋が巡らされているが、その一角に釜山門というのがある。ここから伸びるのが下関グリーンモール商店街。元々は邦楽座という映画館があったのだが火災で焼失。その後で買い物通りとして整備したのだが、駅前のシーモールができたこともあり客足が減り、そこに韓国人向けの店がいろいろと入るようになった。元々下関と韓国・釜山の結びつきは強いところ。それがいつしか「リトルプサン」ということで下関観光の一面として積極的にアピールするようになった。

まあ、規模で言えば大阪の鶴橋と比べても小さい感じであるし、おまけに元日のこととて商店街全体が閉まっているようだ。焼肉店が2~3軒開店準備をしているが、特に釜山とか韓国を強く感じさせるというほどのことはない。

一筋入った長門町。こちらは長門市場というのがあるそうで、開いていれば下関の下町風情を感じることができるのだろう。人通りのほとんどない中では、市営住宅の建物の古さを見るばかりである。ただあまり余所者がうろつくべきところではないだろう。

時間になったので、駅前にある「さかな市場下関店」に向かう。元日ということで食事処、飲み屋もほとんど開いていないだろうし(前日入った「和や」もお休み)、また開いていても混雑して入れないという恐れがあった。そのためにネットで調べて、元日で開いているところ、下関らしいものが食べられるところということで見つけて、席だけ押さえておいた。店自体は九州から山口にかけてのチェーン店のようだ。駅前の一つの通りに各チェーン店が圧縮されており、その一つのビルの地下が店の入口。チェーン店の居酒屋として見れば結構高級感のある内装で、案内されたカウンターの前には巨大な生簀がある。シーズンならここに活イカが泳いでいるそうだがさすがに今は水だけで空っぽ。後で聞けばこうした生簀を真ん中にデンと置くのは九州系の居酒屋では結構あるそうだ。

元日ということでメニューは限定ものだったが、まずはトラフクの刺身。量はこれまでのものと比べたら断然少ないのだが、皮やえんがわもついており、味としてはなかなかのものである。

下関で最近押しているあんこうは、あん肝を注文。こちらは身の大きなものだったが、前日食べてお代わりをした味噌和えと比べれば、こんなものかというところ。

ここで圧巻だったのがクジラ。クジラ刺の盛り合わせがあり、赤身、ベーコン、皮の三種が出てくる。

まあ、ここまでは大阪の居酒屋でもあるメニューだが、ここから先は下関ならではのメニューだろう。注文したのはクジラの食道の刺身(写真左)と、ひゃくひろの刺身(写真右)。いずれも湯通ししたものが出てくる。ひやくひろとは小腸のこと。漢字なら「百尋」と書くようだ。単位で「尋」は両手を横に伸ばした時の長さで、1.5~1.8m(5~6尺)くらい。それが100あるくらい長いというところから来ているのだろう。いずれもさえずりに似た味で、内臓系の臭みというのはほとんど感じられない。歯ごたえを楽しむことができる。

もう一つ出てきたのが、冬から春が旬というウチワエビの塩焼き。その名のとおりうちわに似た形だが、何だかウルトラマンかウルトラセブンで、こういう形をした怪獣がいなかったかな。小型で身もほとんどないが結構甘い。(そんなに食べた経験がないので私の実感は薄いのだが)味は伊勢海老に匹敵するかそれ以上であるという人もいるそうだ。別メニューでウチワエビの味噌汁もあり、なるほどこのエビなら出汁に使うのがよさそうな感じである。

2晩続けて下関の味覚を楽しむことができた。ただまだホテルに戻るには時間が早い。前日は海峡ゆめタワーからの夜景を見たのだが、今夜は門司港に行ってみようか。門司港レトロの建物もライトアップされているそうだ。午前中は風と雪でそれほど楽しめた感じがしなかったし、展望台からの景色も見比べたい。再び列車に乗り込み、関門海峡をくぐるのであった・・・・。
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北九州ぐるり乗車

2015年01月25日 | 旅行記H・九州
門司港から列車に揺られて3駅、小倉に到着。駅ホームのスタンドでラーメンの昼食。

一旦改札を出る。さすがに北九州の中心ということで人で賑わっている。これからどうするか。元日でも小倉城や松本清張記念館は開いているそうで、そちらに行こうかとも思う。小倉をちゃんと訪れるということで。

ただ一方で、せっかく九州まで来たのだから鉄道に乗りたいという気持ちもある。バッグに時刻表を入れているのでこの辺りの路線の時刻を見る。すると、日田彦山線で田川後藤寺まで南下し、後藤寺線で新飯塚、そして折尾まで北上することができる。折尾で乗り換えて若松まで行き、戸畑を結ぶ渡船に乗ろうか。いずれも接続が良すぎて乗りっぱなしになるが、そこは発想の転換でいわゆる「大回り乗車」ということができる。

ということで、日田彦山線の気動車に乗る。国鉄型のキハ47の2両編成であるが乗車率もそれなりにある。折り返しとなる列車の到着が遅れたため、小倉の発車が3分ほど遅れた。田川後藤寺での接続時間がわずかなので、たぶん待つだろうが時間が気になる。城野まで日豊線を走り、日田彦山線に入る。単線区間であるが近郊住宅地が広がる。志井公園はモノレールの終点である。

石原町を過ぎると周囲は山がちとなり、香春岳やらセメント工場やらを見る。採銅所という野趣ある名前の駅も過ぎる。

田川後藤寺に到着。遅れた時間はそのままで、後藤寺線の列車は跨線橋を渡らなければならないが、列車は待っていた。今度はキハ31、かつての新幹線の転換シートを利用した1-2列の車両で、乗客は数人。

この辺りを含めた筑豊はかつて炭鉱で栄えた地域で、石炭の運搬を目的とした路線が張り巡らされていた。現在それらの多くは過去のものとなり、残った路線もJRの手を離れて平成筑豊鉄道に移管されたものもある。日田彦山線と筑豊線を結ぶJRの唯一の路線が後藤寺線である。

次の船尾は工場の構内にある雰囲気の駅。麻生セメント、関の山鉱山の中を行く。麻生セメントと聞くと、やはりあの政治家の顔が浮かぶ。沿線の自民党のポスターにもその顔が出ている。セメント工場を抜けると今度はゴルフ場が広がる。かほゴルフクラブである。なかなか車窓の変化に富んでおり、一山越えて飯塚市に入る。

新飯塚で筑豊線に乗り換える。今は筑豊線というより福北ゆたか線という愛称である。ここ飯塚も炭鉱の町というよりは完全に福岡のベッドタウンとなっている。やってきた黒崎行は817系。2両単位で運用できるとあって近郊区間、ローカル区間で活躍の幅を広げている。独特の造りのシートは頭の辺りはヘッドレストがあり快適だが、背中が板に当たるので長時間座るには痛そうな感じである。

車両区のある直方を過ぎる。以前に来た時には開業当時の駅舎だったが、数年前に改築されたそうだ。また直方といえば元大関・魁皇(現・浅香山親方)の出身地で、九州場所でのファンの熱狂的な応援でも知られていた。特急「かいおう」というのが走っていたな・・・と思い手元の時刻表に目をやると、現役を引退した今でも走っていた。しかも朝の直方発博多行が3本、夜の博多発直方行が2本。今こうした人名を冠した列車名というのは他にあったかな。

このまま北上して折尾に到着。さて若松行に乗り継ごうと降りる支度をしていたら、列車は右にカーブを取る。曲がる時に気動車の姿がある。あ、そうか。福北ゆたか線から鹿児島本線に直通する列車は折尾では三角の連絡線を通り、その途中にホームがあるのだった。確か一度改札を出なければ乗り換えられなかったはず。今回は大回り乗車で来ていることもあり、何だか乗り換えが面倒に思い、今回若松はもういいかなとそのまま乗り通す。

黒崎に到着。ここで一度改札を出て切符を一度無効にして、再び改札をくぐる。快速で小倉まで戻り、下関行きに乗車。午後の時間を列車の中で過ごすうちに天気は回復の方向に向かっており、もう雪が降ることはなさそうだ・・・・。

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門司港レトロと九州鉄道記念館

2015年01月24日 | 旅行記H・九州
元日の門司港。下関から関門人道トンネルを抜けて和布刈神社に出る。トンネルの中は暖かかったが、外に出るとまた雪と強風である。亀山八幡宮、赤間神宮に続いての参拝である。九州の最北端、関門海峡を目の前にした神社である。

ここから門司港レトロまで歩くことにする。寒いので身体を動かした方がいいだろう。雪も降ったり止んだり。

線路が見える。かつての貨物線であるが、現在は門司港レトロの観光トロッコ列車が走る。今回の旅でも乗ろうかと思ったが、この路線は冬季運休である。まあそりゃ、窓のないトロッコだから走らせても客は集まらないだろう。線路に沿って歩く。

門司港レトロに着く。観光客で賑わうスポットであるが、朝の10時で人の姿はほとんど見られない。また海べりに来たことで風が強くなり、台風並みである。降るのは雪だから傘を差さなくてもいいが、立って踏ん張るのがやっと。旧門司税関の建物が開いているのを見て寒さを避けるように中に入る。中のレンガは冷たく見えるが、暖房のおかげで何とか落ち着く。

しばらく暖まり、再び強風の中に出る。旧門司税関の向かいにある国際友好記念図書館にも行くが、こちらは年末年始の休館中であった。中国大連市とのつながりで、久しぶりに中国語の本でも目にしようかと思っていたが残念。門司港に来るというのは今回の旅の大きな目的だったが、「元日の日中は関門エリアをぶらつく」というくらいの大ざっぱなプランでしかなかったので、施設が開いているかどうかはほとんどチェックしていなかった。

次は旧大阪商船。こちらは開いており、1階では正月らしくカルタの展示。2階では門司港ゆかりのわたせせいぞう氏の作品を展示したライブラリーである。外のどんよりした雲、強風とは全く正反対の青空、鮮やかな色彩が広がる作品が並ぶ。80年代、バブル・・・そんな言葉が頭の中に浮かぶ。

門司港駅へ。重要文化財であるこの駅舎、平成24年から平成30年までの予定で大規模な改修工事に入っている。駅前広場全体が大きな覆いに囲われていて、以前訪れた時と雰囲気が違っている。その工事中の姿をデッキから見ることができるそうなのだがこれも「荒天のため中止」との看板が出ている。駅からは観光客も出てくるがそれほど数も多くなく、観光用の人力車の呼び声もするがそれに応じる客はなかなかいない。

せっかくここまで来て申し訳ないのだが、門司港レトロということで楽しみにしていたが、荒天で何だか楽しさが半減したような感じがする。でもまあ、それもまた旅の思い出である。

そんな中でやはり楽しいスポットは、駅前の九州鉄道記念館。ここは正月でも開館しており、見学客の姿が多かった。私もようやくほっとするものを感じる。屋外ホームに展示されている車両にはそれぞれ注連飾りが施されている。

機関車の次は気動車、電車、客車とある。いずれも中に入って座席にも座ることができる。現に動いたら面白いなと思うのがキハ07。旧宮原線で昭和44年まで走っていた車両だが、ローカル線好きとすればこういう車両に乗って山里を揺られてみたいと思う。

こちらは電車特急クハ481。にちりん、かもめ、有明として九州内を走り回っていた車両である。

その中で「これから乗ろうと思っても乗ることができない」のが寝台列車である。世界初の寝台電車として製造された581系。昼は4人掛けのボックス席、夜は寝台に変わる独特の構造である。同じグループである583系は急行「きたぐに」で乗ったことがあるが、晩年はローカル用に改造されていたのが走っていた。鈍行列車にしてはゆったりした座席で、当たるとラッキーと思ったものだ(もっとも、扉が狭く乗降に時間がかかるということで通勤通学には不評だったようだが)。

そして14系B寝台車。寝台に限らずこうした「客車」に乗ることが今後あるだろうかというところである。SL等のイベント列車くらいということになるだろう。ただそうした列車というのはなかなか指定席券が取れなくて・・・。

また雪も降り出したので本館に戻る。こちらは子ども連れでも賑わっており、ちょうど鉄道模型のジオラマ運転の時間で車両に食い入るように見ていた。九州新幹線、白いかもめ、ソニック、SL人吉といった現在のJR九州の看板列車が次々に紹介される。JR各社にあって最も個性派揃いと言っていい九州の車両。

その九州に初めて鉄道が走ったのは明治22年(1889年)12月1日のこと。ちょうど2014年12月~1月に「九州鉄道誕生125周年記念企画展」というのが行われており、昔の資料や乗車券などさまざま並ぶ。九州鉄道の手により博多から千歳川という筑後川の北岸までの区間がまず開業し、明治24年4月に現在の門司港駅まで、7月に熊本まで、8月に鳥栖から佐賀までが開業した。その後九州北部を中心に路線の新設や小私鉄を吸収合併するなどして拡大したが、明治40年の鉄道国有法によりそれらの路線は国有化され、九州鉄道は解散した。

他に様々な展示物を見る。結局門司港レトロ見物の中で、鉄道記念館での時間が最も長かった。またここまで来たところで、やはり実物の列車に乗りたくなった。夕方には下関に戻るのでそれまでの間、どこかに行くことにする。とりあえず小倉まで乗ろう。

門司港駅に戻る。駅舎は改装中であるが切符売り場やホームは従来のままである。0マイル標、長いホーム・・・これらも旅立ちを演出するものである・・・・。
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BCリーグ三冠のカラバイヨを春季キャンプで入団テスト

2015年01月22日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
昨年の9月に拙ブログでこのようなことを書いた。

BCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスで2014年の打撃三冠に輝いたカラバイヨ。「大正ドームの一塁側に置いてみるのも、悪い話ではない」と書いたが、私がそう考えるくらいだから球団も早々と目をつけていたわけだ。

昨年末からの補強で、オリックス・バファローズの今季の外国人選手はブランコ、へルマン、ディクソン、バリントン、マエストリの5人と契約だが、そこにもう一人加わるかというところである。三冠とは言えそれは独立リーグの話だから一応テストしようというものだろうが、かなりの確率で入団できるのではないかと思う。

ブランコは中日、横浜で実績があるが故障もある。またへルマンも年齢的なことがある。いずれもフル稼働は厳しいかもしれず、投手とも合わせた外国人枠争いも激化する中で、さらに野手同士の争いとなる。ブランコ、へルマンの壁を崩すに至るか。それがチームによい方に回れば。

カラバイヨ復帰となると、近鉄系外国人打者伝統の「リスト~を利かせ~て、放て怒号の一撃を・・・」の応援歌も復帰かな。それも楽しみである・・・。

(追記)そりゃそうと、BCリーグで思い出したが、石川ミリオンスターズの新監督はどうなるのだろうか。先日、日本ハムから元メジャーでもある多田野投手がコーチ兼任投手で入団したが・・・ひょっとしたら、このまま監督も兼任とか?
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申し訳ありません

2015年01月21日 | ブログ
このところ遅々としてブログ更新が進みません。

年が明けてからもう20日以上経過しているというのに、年末年始の紀行文がまだ1月1日の朝で停滞していたり。

・・・まあ別に、吹けば飛ぶようなたかが一旅行者のローカルブログの状況など、御用とお急ぎの皆様にとってはどうでもいいことなんですがね・・・。
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阪神・淡路大震災20年

2015年01月18日 | まち歩き
1995年1月17日5時46分。

あの阪神・淡路大震災が発生した時である。あれから20年ということで報道の取り上げも大きく、改めてその時のことを思い起こす。今でこそ仕事の関係もあり神戸の街も近く感じるのだが、当時大学3年生で藤井寺の実家に住んでいた私は、確かに大きな揺れはあったがそれだけのことで、テレビで次々に映し出される被害のすさまじさに驚いたものの、神戸そのものになじみがないこともあり遠くの出来事のように見ていた感もある。親戚知人で被災した人もおらず、避難所や仮設住宅に見舞いに行く必要もなかったことも、そう感じられた要因かもしれない。

ただ4年前の東日本大震災は、災害の規模が阪神淡路より大きかったこともあるが、社会人になって年月を経てやはり「自分の国の未曾有の出来事」という認識ができたのだろう、自分としても関心を持って見るようになった。ボランティアではないが被災地に2度訪問して、改めて津波被害の大きさと、復興への難しさにやるせなさを感じた。

そこで迎えた20年。朝のテレビでは各局が追悼式典の様子を中継しており、5時46分には私も自室で黙祷する。その後でふと、これまで「1.17」に神戸を訪れたことがなかったことから、「これは一度行かなければ」という気になった。

昼に三宮に現れる。多くの人に混じって東遊園地方面に歩く。その手前の神戸市役所前では「1.17追悼・連帯・抗議の集い」というのが行われていた。ぜんざいのふるまいの呼び込みがあり長い行列ができている。ただよく見ると公式行事ではなく、労働団体系のイベントのようである。歩道に新聞記事の拡大コピーが掲げられ、借り上げ復興住宅の期限である「20年」が過ぎたから退去を求められるとか、高齢化が進む中での孤独死や自治会の破綻といった問題に注目し、その問題をアピールするという主旨のようである。市役所の前で行われているし、三宮駅から歩いてくるとこの集会に先に出くわすので「これが公式行事?」と一瞬思うのだが、「抗議」という言葉にもあるように、もともとは市役所前での座り込み活動から起こった行事だという。それがいつしか市役所や警察も敷地や歩道の使用を正式に許可するようになったとか。

確かに震災から20年が経過して、街は復興したがこうした新たな問題も出ているのは確かである。当初は「20年もあればその間に問題は解決するだろう」と思っていたのかもしれない。ただ20年は長いようで短かったのかもしれない。東日本大震災も問題解決が進まない中でもう4年が経とうとしている。だからさまざま考えなければならないし、こうした集会を行うのが悪いとは言わないが、まずは静かに祈りを捧げさせてくれよとも思う。

東遊園地に到着。竹筒を燈籠のように並べて「1.17」の形をつくっている。ろうそくの配布所があったのでそこで何がしか募金して、水に浮かべるろうそくにもらい火をして点灯する。犠牲となった人、今も「復興」ができずに苦しんでいる人たちに思いを致す。

しばらく広場にいると、ポツポツと雨が落ちてきた。やがて降りが強くなり、傘を持っていないのでどこかに避難することに。震災へのメッセージの寄せ書きをするテントがあったのでそこに入る。同じように雨宿りをする人たちで一杯だ。雨が止むのを待つ間、その分さまざまな寄せ書きを見ることができた。20年前に実際に被災した人、まだ産まれていなかった人、東北から来た人・・・さまざまな人たちの、さまざまな思いがそこにある。

そんな寄せ書きを見て回ると、ふと同じテントの中に見覚えのある顔。

「支障さんじゃないですか」

声をかけると果たして鈍な支障さんで、やはり震災20年ということで三宮にやって来ていた。当時すでに社会人として働いている中で、知人にも被災された方がいるとのこと。当時の状況はやはりショックだったそうだ。

これが男女の出会いなら何とまあ偶然からドラマチックだろうかと思うが、お互いおっさん同士、時間がよければ三宮のガード下にでも一杯やりに行こうかという口である。さすがに時間も早く、私も夜は大学時代のメンバーと一席あるのでそれはなかったが、せっかくなのでそれまで神戸歩きとする。

「久々に雨男本領発揮ですわ」と話す支障さんだが、その雨も小止みになったのでテントを出る。これからHAT神戸にある人と防災未来センターに向かう。また雨が降ってもいけないので、三宮から春日野道まで阪神で一駅乗車する。地下ホームから地上に出るとまた青空が広がっていた。

ちょうど広場では震災の追悼式典やイベントが行われており、耐震や防災について紹介するテントも並んでいた。私たちが広場に着いたその時、サイレンを鳴らして救急車が入ってきた。急病人か?と救急車の行く先を見ると、停まったのは赤十字社のテントの前。どうやら救急救護の訓練イベントだったようだ。

訓練イベントの一環か、ちょうどそこに海上保安庁の巡視艇がやって来た。巡視艇「ふどう」。船内の一般公開が行われるとのことで、私たちも列に加わる。大阪湾から播磨灘を担当しており、消防救助活動に当たる。

しばらく着岸を待つうち、海上保安庁と言えば「海猿ですなあ」と支障さん。目の前では「リアル海猿」が着岸作業を行うが、なかなか位置が決まらず何回もロープを巻き直している。後ろの人たちは「普段一般の人乗せへんし、安全にロープとか張っとかな何かあった時に責任になるからなあ」と話すが、それにしては時間がかかる。支障さんも「ドラマの海猿の伊藤英明のほうが早かったりして」などと言い、さすがに監督らしいのが「おい○○!」と呼んで自分の左手首を指差す。停泊時間も限られている中、当事者から見ても時間がかかっていたのだろう。ようやく見学開始で、一度に30名程度が入れ替わって中に入る。

巡視艇「ふどう」は前方、中段、上段に計4門の放水銃を持つ。放水のイベントがなかったのでわからなかったが、威力は相当なものだろう。尖閣諸島沖での中国船との衝突ではないが、武力がない中で相手に対抗するには水鉄砲くらいしか手段がないのだし、それなりのものはないと・・・。舵が自動車のハンドルと形が似ているのに意外さを感じる。

続いては消防挺の「くすのき」に乗船。こちらは神戸市消防局の船である。小型な分機動力がありそうだ。こちらも両弦にホースが扇状に立てられており、各方面への放水が可能である。こうした船が出動する事態にならないに越したことはないが、万が一の時の安心ということで。

この日のイベントはさまざまな車両が並び、自衛隊の風呂用の給水車や人員輸送車、装甲車があるかと思えば地震の揺れの体験車両もある。特に子どもには好評のようだった。

そしてやって来た「人と防災未来センター」。阪神淡路大震災を伝えることで、震災を風化させないとともに防災意識を高めようということでできた施設である。昨年、「関西私鉄サイコロしりとりの旅」で阪神春日野道に降り立った時に訪れ、内容の濃さに「神戸観光のスポットとしてお薦め」と感心したものだった。ちょうどこの時期震災20年の特別展示が行われており、しかも1月17日は入場無料である。

タイミングよく、待たずに最初のシアターへ。ここでは震災を特撮と音響、CGで再現。淡路島、三宮、阪神電車、阪急伊丹駅、阪神高速、病院、商店街などが倒壊する映像がこれでもかと続く。その作り込みは一瞬「震災の瞬間を狙って、そこにカメラを仕掛けてたのでは?」と思わせるくらいのリアルさである。

もちろんそんなことはなく、これはあくまで特撮の映像なのだが、その次の部屋で見た「震災から復興までの様子を一人の女性の体験談風に綴る」映像に流れるのは実際の光景である。20年前の映像を見て、今とは違うと思う反面、今でも同じと感じるシーンもあり、うなるしかない。

映像を観た後は、さまざまな写真、遺品、語りで満たされたフロアへ。目につくのは小さな子どもを連れた家族。両親は私と同じかそれより若い感じ。話したわけではないのだが、両親のいずれかあるいは両方が何らか被災し、その後さまざまな苦労を越えて結ばれ、今度は子どもに伝えようということだろう。子どもがこの日どこまで理解したかはわからないが、そんな光景が「自然に」あちこちで見られたことに「ええなあ」と思った。

この後で、特別展示を見る。改めて20年を年表で振り返る中での震災。前日の1月16日の神戸新聞では、神鋼ラグビー部の日本選手権7連覇を伝えていたが、その翌日の夕刊は・・・。

被災地の様子を3D眼鏡で観るコーナーもあるが、その横で目にしたのがブルーウェーブの44番のユニフォーム。高橋智のもので、右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンが光る。仰木監督の采配とイチローを軸としたあの年のブルーウェーブの快進撃は他を圧倒するものだった。個人的には藤井寺球場で(近鉄ファンなのだが、当日は同行のブルーウェーブファンにお付き合いする形で三塁側で)佐藤義則の当時最年長のノーヒット・ノーランをナマで観たのが印象的だった。もうこれは敵ながらあっぱれとしか言いようがなかった(一方で、にわかブルーウェーブファンで佐藤の投球には興味がないのか、それほど遅い時間でもないのに、試合終盤だがイチローの最後の打席が終わるとともに席を立つ人も結構いたのも憶えているが)。

2015年、震災20年の記念行事の一環ということもあり、4月に神戸で行われるオリックス対西武戦は、ブルーウェーブの復刻試合となることが発表された。5年前は日本シリーズを争ったヤクルトとの交流戦がそれだったが、今度はペナントを争った西武戦である。これはぜひとも行かなければ・・・(ただ、私が「BlueWave」とデザインされたレプリカユニフォームに袖を通すかどうかは、もう少し心の整理が必要だと思うのだが)。

その後で、東日本大震災とのデータ比較、南海トラフ地震、首都圏直下型地震に関する展示を見る。

首都圏直下型地震のコーナーでは「さて、あなたは、どこにいますか?」という結び言葉とともに、首都圏のあちらこちらで地震が起こったとしてどのような被害が想定されるかのイラストが展示されていた。名前は明らかにしていなくても、イラストはどこを描いたのかは作品や解説を見れば明白である。ただ、それぞれの解説文の末尾につけられている「さて、あなたは、どこにいますか?」というフレーズは、「あなたはこのイラストのどこにいますか」ということではなく、「これだけの数のイラストがあるなら、どれかのイラストの、どこかにあなたはいるでしょう」という意味合いなのだろうか。仮に私の以前の東京勤務がその地震の日まで続いているとすると・・・確かに、どこかにはいると言えるだろう。その瞬間にどういう行動を取るかはわからないが・・・。

最後に避難所の一家族のスペースを再現したコーナーを見て、見学は終了とする。センターの下にあった慰霊碑に手を合わせる。沈みゆく夕日が物悲しさを際立たせる。

「人と防災未来センター」は、阪神・淡路大震災を総括するとともに防災教育の場として充実しているし、やはり多くの方に来ていただきたいスポットだと思う。その一方で、震災から4年が経とうとしているのに復興の「ふ」の字が出ているかどうかという状況である東北はどうなのかと思う。福島原発がもたらした暗く深い闇や、津波被害の甚大さはわかることなのだが、それを割り引いても復興が進んでいないのが事実である。

これは乱暴な意見で、たかが一ローカルブログを綴る者の酔言でしかないのだが、「津波で逃げ遅れた自動車学校の生徒たちの親などが起こした訴訟に対して、自動車学校の安全配慮義務違反を認めて、原告の訴え通り19億円の損害賠償の支払いを命じた」という判決に現れていると思う。あるいは、石巻の小学校の津波被害に対して損害賠償を訴えた保護者たちの姿勢にもつながる。

20年前とは訴訟に対する意識の変化もあるし、「何事も訴訟」という西洋式の考えが浸透したということだろう。震災被害の広がりは天災ではなく人災だというのが今の主流の考えである。ただ、何事も人災だとして、その解決を損害賠償に求めるというのは、何か違うと思う。阪神・淡路大震災の時はどうだったか。何でも安全配慮義務として裁判を起こしたのか。神戸の人々とは違い、東北はそういう連中ばかりなのか。もしそれが本当なら、石原元環境相が言った「要は金目でしょ」は事実をよく言い表したけだし名言となる。そんな訴訟の損害賠償でカタがつくのなら、「絆」って何やねんと思う。カネで結びついた「絆」か、それなら納得。その一方で、損害賠償で多額のお金を得たのなら、そんな連中に義援金はビタ一文配分してほしくない。

・・・本気でこう書けばそれこそ簀巻きにされることだし、そうは思いたくない。思うに、2011年に阪神・淡路大震災が起こっていたら、東北と同様にこのような訴訟が起こされ、その件数も東北とは比べ物にならなかったかもしれない。ただ結局は、地元民がというよりは、一部の「プロ市民」がそそのかしていることだろうか。21世紀に入って顕著になった、人の弱みにつけ込み、問題解決を装いながら結局は自身の懐を肥やす「プロ」の「市民」。それって、どうよ??ようわからん。

そんなことはこの時に鈍な支障さんに答えを求めるものではなく、そろそろセンターを出て大阪に戻ることにする。最後にセンター横の慰霊モニュメントに手を合わせる。6434名の犠牲者たちは、20年後の今の姿を見て何を思うのだろうか・・・・。
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関門海峡の朝

2015年01月15日 | 旅行記F・中国
話は2015年の年明けに戻る。もう半月前のことだ。

下関のホテルで寝ている間に年越しを迎え、元日の朝。窓の外は薄暗いがどんよりとしているのがわかる。テレビでは富士山上にヘリコプターを飛ばして初日の出の中継をしていたが、こちら下関では初日の出は拝めないだろう。海峡ゆめタワーの早朝営業に行こうかと思っていたのだが取り止め、そのままホテルで朝食。おにぎりやパンが中心の軽いバイキング形式だが、正月ということで黒豆もメニューにあった。

元日は関門海峡を巡り、門司港レトロ地区も散策して下関に戻る。朝食後、とりあえず唐戸方面に歩き出す。山口銀行の謹賀新年の広告には山口出身の卓球・石川佳純選手が振袖姿で登場。今や日本女子卓球のエースである。

歩くのはいいが、海からの強風、そして雪も舞う。対岸の北九州側も山の上は雪が積もっているようだ。そんな中でも日課なのか海べりをジョギングする人がいる。寒い中、より気合いが入るというところか。唐戸市場は正月休みで、灯りはついているものの人の姿はない。

大晦日にも参拝したが、向かいの亀山八幡宮に行く。初詣客もそこそこいるが混雑するということはなく、新年初めて手を合わせる。

続いては赤間神宮。年越しの時は大勢の参拝客で賑わったことだろうが、この時間は落ち着いている。拝殿に行列することもなく落ち着いてお参りする。ここで境内の一角にある平家の墓と耳なし芳一のお堂に向かう。新年ということでお供えも慎ましくなされている。ここでふと、「芳一の身体中に書かれたのに(男子のイチモツに書かれたかどうかの詮索は置いといて)耳だけ書かれなかったのはなぜか」という般若心経に思いが至る。前日お参りした時は思わなかったが、西国巡りで手にするようになった般若心経をここで唱えるのはどうかと。般若心経はそもそも悪霊退散の呪文ではないが、現代の人たちにとっての般若心経のイメージは、耳なし芳一の怪談に依るところも大きいと思う。

・・・というわけで、新年初めての般若心経は耳なし芳一像となった。ただ経典を持って来ておらず、暗記しているわけではないので、携帯画面で般若心経を表示させての読経。その間、このエリアに来る参拝客はいなかった。

ここからさらに国道沿いを歩く。関門橋の下をくぐって着いたのは関門人道トンネルの下関入口。この日は関門海峡エリアで過ごすが、九州へ歩いて渡るのが第一のイベントである。地下へのエレベーターでトンネル口に着く。外は強風と雪で寒いが、トンネルは暖房はないだろうが暖かく感じる。風があるのとないのとで体感温度は変わるものである。ここでは地上の悪天候とは無縁とばかりに、本州と九州をジョギングで何度も往復する人が結構いるし、走らないまでも健康のためのウォーキングをする年配の方も見かける。

本州と九州の境目、文字通りの「関門」を意識して特別な感傷に浸る旅行者も多い中、単に条件のいいジョギング、ウォーキングの場所ととらまえる感じの地元の人たちの差を実感する。本州とか九州とかではなく、関門エリアなんだと(もっともこれは一人の旅行者の印象で、実際に住めばさまざまな違いがあるのではないかと思う)。

門司側の人道トンネル出口を出る。自らの脚での九州再上陸である。この言葉の由来は下関と門司にあるわけではないそうだが、「関門突破」である。下関、門司の両方にスタンプがあり、これを合わせると符号のように円形のスタンプが完成する。これをそれぞれの指定スポットに持参すると「関門TOPPA記念証」というのがいただける。写真はこの後門司港でいただいた証明書だが、この証明書もこうしたシンプルなもののほかに、「恋愛」と「受験」をモチーフにした証明書がある。現在そのいずれとも縁がない状態なので、シンプルなもので十分。

これから門司港エリアを歩くのだが・・・・とりあえず、この強風を何とかして!!
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賢島の海、松阪の牛

2015年01月14日 | 旅行記D・東海北陸
11日、職場行事として伊勢神宮を参拝し(これもいわゆる一つの公式参拝ということで)、宇治山田駅で伊勢うどんと手こね寿司の昼食としたところで、一行は解散となる。もっとも、私以外の一行は皆さん大阪難波まで同じ列車で戻るとのことで(特急券の座席指定を受けるタイミングがバラバラで、席どころか車両もバラバラになったのだが)、宇治山田のホームで見送りをする。

解散となったことだし、ここから先は自由行動ということになる。当日は現地解散でどこかに行くかもしれません、とは周りの人に伝えていたのだが、そうかと言ってどこに行くか具体的に決めていたわけではない。ならばシンプルに、せっかくなので近鉄の終点である賢島まで行くことにする。

やってきた伊勢志摩ライナーに乗り込む。子どもが騒いでいるがこれは仕方ないだろう。リゾート列車の位置づけもあるし、親御さんも注意したり叱ったりしているのだがそんなもんで言うことを聞かないのが子どもなのだろう。鳥羽から先の志摩線は長らく単線であったが、志摩スペイン村の開業などもあり、一部区間を除いて複線化された。特急もほとんどが賢島まで行くようになった。鳥羽からミキモト真珠島、鳥羽水族館の建物を車窓に見て、志摩半島の中に入り込む。特急はコトコトと進んでいく。

宇治山田から40分ほどで賢島に到着する。私の乗った伊勢志摩ライナーの隣に観光列車「つどい」が停まっていたが、伊勢志摩ライナーの到着と同時に出発した。反対側には「しまかぜ」が2編成。この後で伊勢志摩ライナーがもう1編成到着して、何とも豪華な顔ぶれとなった。最も山側が普通列車のホームであるが、こちらは2両編成のワンマン運転である。豪華特急とローカル鈍行列車・・・これも近鉄ならではの取り合わせである。

今でこそ端のホームを当てられているが、志摩線が現在のように複線化されるまでは、普通列車は1フロア下の別ホームに発着していた記憶がある。賢島といえば伊勢志摩のリゾート地として名高いが、ウィキペディアに掲載されていた賢島駅の年間利用者数は、昭和40年代後半から昭和50年代前半が50万人(ピークは昭和49年の59万人)だったのが、平成20年代となると30万人を割るまでに落ち込んでいる。交通手段が多様化したのもあるだろうが、そのテコ入れが伊勢志摩ライナー、「しまかぜ」、「つどい」」といった観光特急、観光列車の投入であり、阪神なんば線開業にともない(試験的ではあるが)神戸三宮までの特急を走らせてみたりということである。ただ、賢島自体の観光客の入れ込み数も減少傾向にあるとかで、観光地、リゾート地としての人気が落ち込んでいるのかなと思う。

せっかく来たので少し回ろう。といってもゴルフや宿泊をするわけでもなく、食事にも中途半端な時間である。そこで目にしたのが英虞湾の遊覧船である。一周50分、途中真珠店への立ち寄りが入る。駅構内の窓口で乗船券を買い求め、ホテルへの送迎バスが発着するメインの入口とは逆の、海側のほうに出る。かつての駅舎も残る。駅前には昔ながらの風情の真珠店や土産物店、食堂などが並ぶ。海鮮をバーベキューに出す店や、いかだの上のレストランもある。

そこにやって来たのは大航海時代のスペインをイメージした遊覧船「エスペランサ」。マストの上で彼方を指差す船員の人形が目立つ。

穏やかな天候なので甲板に上がり、出航。周囲を半島に囲まれた穏やかな水面。陸地が複雑なリアス式海岸である。志摩スペイン村といい、なぜ志摩がスペインなのかというところだが、このリアス式海岸が共通点だという。志摩の国が情熱の国かどうかはわからないのだが、英虞湾や的矢湾について言えば、真珠やあおさ、牡蠣の養殖ができる穏やかな海があり、それが志摩の気質を作っていると言えるか(一方外海に面しては、九鬼水軍がいたのだが)。それでも湾の中央まで来ると風が強く、荷物が飛ばされそうになった。

周遊して立ち寄った真珠工場。10分の停泊で真珠の核入れ作業の見学とある。確かにちょこちょこっと作業して、アコヤ貝の様子も見ることができたが、その女性もさっさと席を離れ、真珠の並ぶカウンターの後ろに立つ。要は真珠の即売タイムである。プレゼントする相手もおらず、かと言って自分で身につけるわけにもいかない私は商品と値札をあれこれ見比べて目の保養をしただけだったが、この短時間で商談成立となった客もいた。

再び乗船して賢島に到着する。ここから帰りとなるが、行きは伊勢志摩ライナーに乗ったことから帰りはローカル普通列車の伊勢中川行きで松阪まで戻ることにした。やはりこういう方にワクワク感を覚えるのは鈍行乗り鉄の悲しい性である。まあ、ローカルと言っても30分に一本あるのだから頻度は高い。

2両で6人の乗客でひっそりと発車。志摩線内は鵜方と志摩磯部は特急も停まる有人駅だが、あとはワンマンで前の車両の扉しか開かない。PiTaPaも使えない。駅間が短いのは元々が志摩電気鉄道というミニ私鉄だったからだろうか。そんな中、鳥羽や五十鈴川では乗客も多い。松阪まで特急や急行の通過待ちで停車しながら走るが、どの駅もそれなりに乗り降りがあった。伊勢志摩特急を前面に出しつつ、地元の足としてもきちんと機能しているようだ。

松阪に到着。ここで下車する。そろそろ夕方になり、大阪に戻るまでに夕食とする。松阪と言えば松阪牛。すき焼きで有名な店があるが、肉なら焼肉という想いもあり、改札を出てにわか雨の中を8分ほど歩く。

やって来たのは市内に何軒か構える焼肉の「一升びん」。本店は少し離れたところにあるが、そもそもの発祥地とされるのがこの平生町店。入ると煙が充満しており、松阪牛の高級感とはほど遠い構えである。ただ逆にこれが人気の要因なのだろう。幸運にもカウンター1席だけ空いていて、そこに座る。

ここは松阪牛を焼肉店価格で出すので知られている。リーズナブルなのは赤身の切り落としとか内臓系。さすがに、すき焼きの名店ではホルモンは味わえないだろう。だから人気なのだろう。テーブルはガスコンロだが、カウンターなら炭を入れた七厘が置かれるので風情も楽しめる。より美味そうだ。松阪ではないが和牛の部位もいろいろあり、店の雰囲気と合わせて楽しめる。

もし満席なら同じ松阪駅近くの焼鳥屋にしようと思っていたが(こちらはこちらで十分楽しめる店)、一升びんはよかった。すっかり夜となり、大阪に戻る。帰りの列車も伊勢志摩ライナーで、初詣割引きっぷの権利で鶴橋までの特急券を入手する(列車は上本町行き)。外も暗くなったので読書で過ごす。

ダイヤ検索で、このまま鶴橋まで乗るよりも、大和八木で橿原線~南大阪線と乗り継いだほうが藤井寺に早く着くことがわかり、そのように乗り継ぐ。

長い一日となったが公私ともに充実したものになり、改めて2015年が素晴らしい年になればと思うのである・・・・。
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伊勢神宮参拝

2015年01月11日 | 旅行記D・東海北陸
1月10日の成田山不動尊大阪別院での安全祈願、伏見稲荷大社プラス一ノ峯での商売繁盛祈願に続き、11日は、日本の神の総元締めである伊勢神宮に新たな年の繁栄を祈願しての職場からの参拝である。

一昨年の秋から始まった伊勢参拝も今回で3回目であるが、回を重ねるごとに参加者が増え、今回は大阪・神戸から9名の参加。こうなればちょっとした団体ツアーである。こうなれば自ずと添乗員的役割は私のところに回るのであって、事前に近鉄の伊勢神宮初詣割引きっぷを買い求め、行きの特急券も押さえた(普段の仕事よりてきぱきとしている)。まずは大阪難波から朝日を受けての出発である。

伊勢市駅に到着。まずは外宮参拝である。一昨年の式年遷宮の時のブームのような賑わいに比べれば落ち着いているのだろうが、伊勢神宮は年間を通して参拝客が多いし、まだ松の内、世間は3連休ということで人出も多い。

駅からも近く開放的な雰囲気の外宮。参拝するのも気軽な感じである。前に神がおわした社殿は取り払われ、ガランとしている。二十年に一度の遷宮、さすがに次に遷る時は私もいい歳になっていて・・・とその前に、まずその歳まで健全に過ごせますように。

ここからはバスで移動する。初詣期間ということか、通常の路線バスもあるが「内宮へは直通の臨時バスをご利用ください」という案内がしきりに流れる。観光バスタイプの車両も「路線バス」の表示を出して通りに何台も停まっている。予め乗車券を買い求め、入口のところで渡す。席が埋まり次第次々に発車させている。バスを運行している三重交通もさすがこのあたりの段取りはスムーズである。

内宮に到着する。本体が正宮にまず参拝する間に、私一人抜けて先に御饌殿での祈祷を申し込む。一回の祈祷の所要時間がおよそ20分ほどで、次の祈祷が始まったばかりなので一行を待つにはちょうどよい時間となった。その間神札授与所や朱印所の賑わいを見る。

朱印か・・・・昨年から西国三十三所巡りを始め、各札所での朱印を受けているが、これをきっかけに特に関西にさまざまな霊場巡りがあることを知るようになった。新西国三十三所とか、西国四十九薬師とか。その中で関西で最大の札所巡りとして2008年に設立されたのが、「神仏霊場会 巡礼の道」である。これまでタブーとされていた神社と寺院が一体となって、関西の60社90寺からなる巡礼の道を定めた。まあ、神社と寺院が分けられたのは江戸後期の国学者たちと、そこから生まれた勤王思想、および明治政府の政策によるものであるが、そんな中、新しい時代に改めてそれぞれの寺社の歴史や自然を見直し、新たな「こころの道」を開こうとしたのがこの神仏霊場会の取り組みである。その特別霊場に伊勢の外宮・内宮が選ばれている。現在朱印帳を持っていないし(特別霊場である伊勢神宮で求めることはできない)、この150寺社に挑むだけの気持ちがまだできていないので朱印はいただかなかったが、いずれそういう時も来るのかなと思う。

さて一行も戻ってきて、祈祷の時間となる。御饌殿には大勢の参拝客が入る。祝詞でそれぞれの名前を呼ばれるのだが、全国各地から訪れている。私たちも謹んでお受けする。

祈祷も無事に済み、これで伊勢参拝は終了である。ただ私はまだ内宮の正宮に行っていない。順序が逆になるのだが声をかけてそちらに向かう。ただ行列ができており、途中からは全く動かなくなった。警備の係員が「本日は儀式が行われていますのでお待ちください」という。またしばらくして「参拝路を神官が通りますので端に寄ってください」とある。

待つうちに、数十人の神官が前方からぞろぞろと歩いてきた。儀式は終わったようである。帰宅後に調べたところでは、1月11日というのは「一月十一日御饌」という神事の日だった(これは1月の第2日曜日、というものではなく、毎年固定されているそうだ)。この神事は、内宮正宮内で天照大御神、豊受大御神をはじめとした諸神々に食事を奉り、年に一度神々が大御神と食事をともにするという。

ようやく正宮に到着する。これで内宮・外宮両方の参拝となり、伊勢参拝も無事終了である。

こちらで時間を食ったせいか、他の一行は先のバスで内宮を後にしており、昼食場所の宇治山田駅で合流する。この日は駅前の伊勢市観光文化会館で成人式が行われており、ちょうど終了したばかりで振袖姿の女性の姿が多かった。

駅内のレストランで昼食後、解散ということになる。一行は難波までの特急に乗るが、参拝も終えたことだし、伊勢神宮の割引きっぷも持っていることから、皆さんをお見送りして私だけ寄り道(というか、足を延ばす)をさせていただくことにする。ということで大阪とは逆の賢島行き特急に乗り込んで・・・・。


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下関、大晦日の夜

2015年01月10日 | 旅行記F・中国
強風雨の仙崎からバスで長門市に戻る。するとどうだろう。強い雨が一気に小降りになった。何だか天気にもて遊ばれているようだ。ここで予定より一本早い美祢線の厚狭行きに乗る。キハ120の単行は全てロングシート。すでに8割方の席が埋まっている。

ふとホームを見ると「通商人の方へ」とある。通商人とは何とも時代がかった言葉である。ものの本では、山陰線は沿岸に漁業の町が多いのと、道路があまり整備されていないことがあって、昔は魚の行商が列車で行き来していたという。行商人が利用する早朝の列車もあったそうである。そんな人たちが長門市には今でもいるのだろうか。「線路横断はしないようにして下さい」はわかるとして、「ホームでの売買や品物を並べることはやめて下さい」というのは独特の注意だろう。それにしても通商人、何だか幕末の長州藩とか長崎商人といったものを連想させる言葉である。

美祢線に乗るのも久しぶりで、外はまた雨が降ったり止んだりである。ただ車内温度のせいか窓ガラスが前面曇り、外の景色もよく見えない。景色を見るなら前方あるいは後方の景色が見える車端部に行けばいいが、眠たくもなってきたし、そこまではいいかなと車両の揺れに身を任せる。

厚狭から下関に移動。これで山口西部の路線をぐるり一周してきたことになる。

大晦日と元日の2夜連泊するのは、下関駅前のヴィアイン。JR西日本グループのホテルチェーンで、シンプルな造りである。チェックイン時に、「年越しそばです」と、どん兵衛のそばのミニカップをいただく。いろいろホテルがある中でここにしたのは、夕食つきのプランがあることから。年末年始だと食事のできる店も限られるだろうし、せっかくなのでふくをはじめとしていろいろな料理を食べたい、かつ大衆的な店をということで、道路を挟んでホテルの向かいにある居酒屋「和や(なごや)」という店のコースメニューがついたプランを選択した。

予定より時間が繰り上がったが店のほうはすでに席を用意してくれていた。2人がけのテーブルにコンロも置いている。まだ早い時間なので、フリの客で来ても楽に入れる感じである。ホテルとのタイアッププランというわけか、料理が出るのが早い。元より飲み物は別料金だし、足りなければ単品の追加注文もできる。

まずはふくさし。高級店のように大皿にぐるりと切り身が並ぶ・・・というわけにはいかないが、おひとりさまで気軽に食べられる感じが良い。

続いてはくじらの赤身もある刺身盛り。そう、下関は鯨料理も多いところで、朝の唐戸市場でもずらりと並んでいたし、駅高架下のイズミゆめタウン(この紀行文ではよく出てくるな)にも当たり前に置かれていた。くじらは他に竜田揚げも出てくる。

そしてメインの鍋。このプランではふくちり・・・ではなく、乗っているのはあんこう。あんこうと言えば茨城のイメージがあるし、下関の魚と言えば何と言ってもふく。それにくじらもあるという感じ。それがこのところ、新たな地域観光資源としてあんこうも売り出しているそうだ。事実、下関漁港でのあんこうの水揚げは茨城~福島・相馬にかけての漁港と比べると2~3倍のトン数がある。まあ、下関の場合は日本海から対馬、中国にかけて広い漁場を持つ漁船の基地として規模が大きいから、そういう結果が出ているのかな。老舗の料理店でも、ふくのコースの他にあんこうのフルコースもあるとのこと。

セットメニューにはあん肝の味噌漬けなるものがあったが、これも結構いける。この頃にはビールからふくひれ酒に移っていたが、酒にもよく合う。

また酒と言えば、この店には最近人気で入手困難とされる「獺祭」が置かれている。ただ300mlで1500円と言われると、さすがにそこまでして飲もうとまでは思わない。細かな味の違いがわかるわけではないし・・・。それよりも珍しいなと思ったのが、ふくの骨酒。ひれとはまた違った香りが楽しめるのがよかった。

コースメニューも十分で、結局一品で追加注文したのはあん肝の味噌漬けのみ。最後はあんこう鍋の雑炊で締める。2014年最後の夕食、ご馳走様でした。

さてこれからどうするか。下関の水族館・海響館や対岸の門司港ではカウントダウンのイベントが行われるそうだ。ただ、水族館に一人行くのもどうかと思うし、門司港に行くと朝まで戻ってくることができない。まあ、年越しは部屋で行く年来る年でも見ることにするが、まだ部屋に戻るには早い。

そこで目に入ったのはネオンがきらめく建物。海峡ゆめタワーである。あそこに登って海峡の夜景見物とする。歩いて行くが結構風が強い。エレベーターで143mの展望台へ。カップルが数組いるが静かな佇まいである。

そして観る関門の夜景。展望台の照明も抑えられており、ガラスの向こうに展望台の光が反射することもほとんどなく落ち着いて観ることができる。これはいい眺めだ。

再びエレベーターに乗り、下に降りる。そこで見た案内に、翌日、元日の朝は6時半から営業を開始して、展望台から初日の出を見ようというのがあった。本当に見られれば素晴らしい景色だろうが、ただ元日の天気予報は良くない。日の出の予想は7時20分台だが、ちょっと期待薄かな・・・。

部屋に戻る。大晦日の夜に特定のどの局の番組を見るわけでもなく、モバイルパソコンをいじったりする。ただやはり朝からの疲れが出たのか、行く年来る年どころか、ベッドの中でウトウトするうちにそのまま寝入ってしまったようである。目が覚めたのは日付が変わって午前1時。これでは風邪を引いていかんと本式に眠ることにする。窓の外から笛のような音が聞こえる。どこかで新年の神楽でもやっているのかと思ったが、何のことはない、端の部屋ということでドアの外に窓があるのだが、そこが少し開いていて風が入ってくる音だった。これは寒い年明けになりそうだと、眠りに落ちながら思うのであった・・・・。

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こだまでしょうか

2015年01月09日 | 旅行記F・中国
いや、乗っているのはこだまでもひかりでものぞみでもなく、鈍行列車なのだが・・・。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか。
いいえ、だれでも。

・・・2011年に発生した東日本大震災。20年前の阪神・淡路大震災の時もそうだったのだが、こうした大災害が起こるとテレビの一般CMは自粛され、AC(公共広告機構)のものにすり替えられる。1日中「エ~シ~」という効果音が繰り返され、ええ加減にウンザリとしてきたのを憶えている。

その東日本大震災の時にテレビで流れていたACの広告の中に、上の詩を読むものがあった。こういう教育とか道徳めいた内容が多いのがACである。ただ、繰り返せば繰り返されるほど、マスゴミのご都合主義というか、普段下らない情報ばかり流しているくせに、こういう時に上から目線で何を言っているのかというひねくれた反応をしたくなるのはどういうことだろうか。

それはさておくとして、この詩を作ったのは金子みすゞである。そんな詩人の名前が冠せられた列車で仙崎までやってきた。

仙崎の駅舎は木造の昔ながらの風情が残るが、改札を出ると一面の壁画が広がる。仙崎名産の蒲鉾の板をパネルとして貼りつけて、金子みすゞの肖像画が浮かび上がる趣向である。近くで見るとその1枚1枚にメッセージが書かれている。ただ中には文字が色あせて、その上から新たなメッセージが書かれたものもある。

さて「みすゞ潮彩」号でやってきた乗客の多くは、列車や駅内、そして外の駅舎を撮影するとその多くが折り返しの車両に乗っていた。実は私も仙崎から下関までの指定席券を持っている。これは、この列車に下関側から乗るか、仙崎側から乗るかがはっきりしていなかったことがある。同じ指定席を押さえているので折り返し便に乗ればそれだけ早く下関に戻ることができる。ただ、せっかく仙崎まで来たこともあり、それは見送ることとする。

さてどうするか。時間は結構あるので、まずは青海島めぐりの船乗り場まで歩くことにする。ただどうだろう。先ほどパラパラと降っていた雨が、仙崎に着くと結構強い降りとなった。おまけに風も強くなった。折り畳み傘を持っているので差すが、とてもじゃないが持たない。

そんな中、遊覧船の乗り場まで行くと、大晦日のこの日は運航見合わせである。まあこの雨風では致し方ない。そんな中でも土産物群は年内最後の商売をしており、「フェリーが出んで、お兄さん日が悪かったね~」などと言いながら、「せめて蒲鉾1枚でもええけ、買ってって~」「イカ1枚どうですか~」という掛け声が響く。

青海島めぐりができないというのは残念だが、折り返しの下関行きの「みすゞ潮彩」号は出発したばかりである。ならばせめて仙崎の町を歩くことにする。

駅から真っ直ぐ伸びるのは「みすゞ通り」である。一応は商店街をなしており、雨風の強い中ではあるが行けるところまで行くことにする。沿道の商店や家屋の前には、金子みすゞの詩を板やボードに書いたものが飾られており、天候が良ければそれらをじっくりと眺めながら散策できるのになと思いながら歩く。

そんな中でやってきたのが金子みすゞ記念館。年末年始は休館ということのようだが、通りに面したこの建物の玄関口を公衆トイレと休憩スペースということで開放されていた。ひとまず、傘を差していたも大いに濡れたのを乾かす。閉館なのに休憩スペースだけは開けていたのだなと思っていたが、旅から帰ってネットで調べると、何と年末年始も時間短縮ながら開館していたというではないか。中を見ずに仙崎を早々と後にしたことで、これは残念だった。正に、金子みすゞの「星とたんぽぽ」という詩の一節にある「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」の境地である。

記念館のすぐ北に「角の乾物屋」という詩碑がある。「わがもとの家、まことにかくありき」というサブタイトルがついており、

角の乾物屋の塩俵、
日ざしがかっきり
もうななめ

二軒目の空屋の空俵、
捨て犬ころころ
もぐれてる

三軒目の酒屋の炭俵、
山から来た馬
いま飼葉

四軒目の本屋の看板の
かげから私は
ながめてた

その乾物屋とされたのはこちら。今は乾物屋というよりは、昔ながらの食料品や煙草を売る小ぢんまりとした店である。ここから2軒挟んだ4軒目が、金子みすゞの生家跡でもある記念館である。確かに実家は本屋をしていた。これは、四軒目の本屋の看板から通りの様子を眺めていた「私」を「もう一人の私」が見つめて詠んだものだろうか。そして、それは淋しかったのかどうなのか。なかなか詩からメッセージをくみ取るのは難しい。

ここまで来たところで、雨も止む様子もないし引き返すことに。本当なら青海大橋を渡ってすぐの王子山というところから見下ろす仙崎の町並みというのが随一の展望スポットというが、この雨では残念である。駅に戻り、待合スペースで力を取り戻す。

さて仙崎の支線にやって来る列車の本数は少なく、先の「みすゞ潮彩」の折り返し列車が出た後は、4時間近く列車の行き来はない。ならどうするか。幸い、山陰「本線」の駅で仙崎支線と美祢線とのジャンクションである長門市駅が近い。本数もそれなりにある。仙崎まで来て結局何を見るということもなく折り返しというのも辛いが・・・。

やってきたのはサンデン交通の子会社であるブルーライン交通のマイクロバス。実はこの2分後に、JTB時刻表の冊子にも載っている大型バスの発車もあったのだが、何だかあえてマイクロバスに乗ったという気分である。途中のルート経由の差で大型バスに追い越される展開となったが、ここはこういうマイクロバスで十分なのだろう。

総合病院や大型ショッピングセンターなどを経由して、20分ほどで長門市に到着。次の美祢線の厚狭行きが間もなく出発する。ちょうどセミクロスの120系・・・・。





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みすゞ潮彩号

2015年01月08日 | 旅行記F・中国
門司から下関に渡り、唐戸などを巡った後で下関駅に戻る。これから乗るのは山陰線を行く観光列車である。

その名も「みすゞ潮彩」号。列車名の元となったのは、仙崎出身の詩人・金子みすゞである。文学史ということで見ればこの詩人が文壇というのか詩壇というところで果たした役割はどれほどのものかと思うが、現在このような形で列車の名前で残ったり、その詩がさまざまなところで引用されるというのは、影響力の強いことである。

これから乗るのは下関10時21分発の仙崎行き。列車は新下関が始発で、下関で折り返しとなる。車両にカメラを向ける人も結構いる。キハ47をベースとするこの車両、2両編成で下関側が通常のボックス席が並ぶ自由席車、そして仙崎側が座席が海を向いた指定席車である。

中国地方にあって同じキハ47をベースとしたイベント列車に「瀬戸内マリンビュー」というのがある。あちらは海側の窓も大きいだけではなく、シートもホテルのラウンジのようにゆったりとした造りである。山側のシートも海を臨めるようにソファーシートとなっている。それだけゆったりと瀬戸内の海を眺めることができた。

そのみすゞ潮彩号、指定席車の端がボックス席になっているのを除けば、全て海側に向いている2人がけシート。これは景色を見るのにはいいし、隣に素敵な方が座れば2人の独特のムードに浸ることができるのだが、相席に恵まれなければただの狭いソファーである。また、端の座席は窓が△の形をしており、視野が狭い。後で乗ってきた女性二人連れの客も狭間から覗き込むような感じで外を見ていた。何もそんな造りの窓にしなくてもよいと思う。居住性ということで言えば断然瀬戸内マリンビューに軍配があがる。

さてそんなみすゞ潮彩号。私も指定席に陣どる。乗車率はおよそ半分というところである。そんな中、指定された私の席の隣は、ヤクルトのバレンティンを思わせる顔かたちと体格を持つお兄さん。まあお互いに色気も何もあったものではない。結構シートが狭くなった。下関を出発し、幡生から山陰線に入る。ここからも乗客がある。

山陰線に入ったところで、車内での早めの昼食とする。朝に唐戸市場で購入したふくさしの皿も開ける。身の部分も結構あるし、皮もついている。車端部には物販のコーナーがあり、本来ならここで弁当や飲み物が売られるのだろうが閉まっている。土日祝のみの営業ということで、大晦日はそれらには該当しないということだろうか。他の飲食物も事前に駅高架下のイズミゆめタウンで購入しておいた。ふくさしの皿も同じように売られていたが、唐戸市場より少し値段が高かったような。

山陰線の沿線も結構住宅地が広がっている。途中の小串までは列車の本数もそこそこあるところで、最近になってできたらしい駅もある。ソファー型のシートは窓に面して並んでいるが、この状態で景色を見るのは結構疲れる。また反対側の景色は当然背中側になっているので、体をぐるりと回してやる必要がある。案外後ろ側(山側)のシートのほうが、普通のロングシートから外を見る感じで疲れないのかもしれない。

この列車は仙崎まで各駅に停車するが、それ以外に海の景色のよい3ヶ所のポイントでそれぞれ2分ほど停車する。まずは、瓦そばで知られる川棚温泉の次の小串~湯玉間。遠くに島が浮かぶのを見る。案内放送で厚島と紹介される。フランスのピアニスト・コルトーが来日して川棚温泉に滞在した際、響灘と厚島の景色を非常に気に入って「あの島を買い取りたい」と申し出たというエピソードがあったそうだ。確かに今はまだ昼間だが、夕日の時間帯にこの区間を走るとさぞかし美しい景色が広がることだろう。

さて大晦日の天気予報は下り坂である。朝は関門海峡の日の出を見るくらいの晴天だったのだが、この区間に入ると雲も広がってきた。次の停車スポットは宇賀本郷~長門二見間で、豊漁と安全を祈願した夫婦岩がポイントである。そこまで来ると外は寒々しい雨となった。雪こそないが、いかにも冬の日本海という感じのわびしさを感じる。海を見て心弾むという雰囲気ではなく、車内にも淡々とした空気が流れている。

再び山の中に入る。土日であればこのあたりで車端のスペースを利用した紙芝居のイベントがあるそうだが、上に書いたように「大晦日でも平日」という扱いで何もなし。

長門市の手前の黄波戸に着く。ここから3回目のスポット停車。対岸に青海島の姿が見えるが、雨粒も多い。また波風も強いようである。当初のプランでは仙崎に着いたら青海島めぐりの遊覧船に乗ろうと思っていたのだが、この天候ではどうだろうか。基本は1時間半で一周するコースだが、天候によってはコースを短縮して運航することがあるという。

長門市から仙崎支線に入る。ここから終点の仙崎まで5分ほどである。下車したのは2両合わせて15人くらい。金子みすゞの出身地として最近注目されるようになった仙崎である。青海島めぐりも含めて午後の時間をここで取っていたのだが・・・・。


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