九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは大分県を抜け(もっとも、最後の札所である佐伯の大日寺の朱印をいただいていないのだが・・)、宮崎県に入る。これまでの九州北部とは異なり、県境付近は山深く、豊後と日向の国境を越えたなという印象である。
さてこれから延岡に向かうが、宮崎県に足を踏み入れたのはいつ以来だろうか、そしてこれまでに訪ねたスポットもごくわずかなものである。夜行列車で降り立ったことはあるが、県内に宿泊したのも、高千穂、都井岬といったところくらいで、その後は鹿児島や熊本方面に抜けている。
今回も大分南部まで来た勢いで宮崎県の札所も先行して2~3ヶ所回ろうというもの。宮崎といえば青い海のイメージで、天気が良ければ海岸沿いにのんびり走ろうかとも思ったが、あいにく降り続く雨。まあ、国道10号線を経由して宗太郎駅を見物できたのはよかったが、この駅もまだ大分県である。
延岡に行くにあたり、途中で立ち寄れそうなスポットを延岡市のホームページで見ていると、歴史スポットとして、手前の北川町に「西郷隆盛宿陣跡資料館」という文字が見えた。西南戦争に関連するところのようだ。西南戦争って、薩摩軍は熊本城や田原坂の戦いを経てそのまま鹿児島まで押し戻され、最後は西郷隆盛が桜島を望む城山で「もうここらでよか」と自刃して果てた・・というくらいの認識なのだが、同じ南九州でも反対側の延岡に陣を敷いたとは知らなかった。国道10号線からほど近いところなので、どのようなところか立ち寄ることにする。
大分市への近道である国道326号線と合流する。五ヶ瀬川に沿うが、依然として飴が強く、視界もよろしくない。それでも多少は景色が開けてきたようだ。
東九州道の北川インター、そして日豊線の日向長井駅に近い「道の駅北川はゆま」に着く。ここで日向長井駅の名を挙げたが、駅には行かなかったが時刻表は延岡方面が朝1本、佐伯方面が朝1本、夜1本だから、先ほど訪ねた宗太郎駅と同様である。もっともこれは日向長井だけではなく、延岡の一つ絵前の北延岡まで同じである。特急は2時間に1本(合計8往復)通過するが、普通列車は・・・。
一方で道の駅はインターに近いこともあり、雨の中でも駐車場は賑わっている。入口で出迎えるのは西郷隆盛をイメージしたキャラクター像である。道の駅ということで土産物も多く、宮崎に入ったことで地元北川産という地鶏焼きのパックや、肉巻きおにぎりなどを購入する。バッグの中が大分南部、日向北部のもので結構一杯になる。
クルマをもう少し走らせ、案内に従って日豊線の線路をくぐる。「西郷隆盛青空テーマ館」、「西郷隆盛 その魂に触れる場所」といった文字が見える。そして「西郷隆盛宿陣跡資料館」に着く。こちらは受付で住所、氏名を書いて無料で見学できる。
さて西南戦争だが、1877年2月に熊本で戦いの火ぶたが切られ、3月には有名な田原坂の戦いがあった。ここで敗れた薩摩軍は押し戻され、西郷隆盛も人吉に退却した。その後、宮崎方面から北上し、延岡に入った。そして8月15日、和田越での戦いで敗れた薩摩軍はこの北川に退却し、児玉熊四郎邸に陣を敷いた。その建物が現在の資料館である。
ここで西郷隆盛は幹部を集めて軍議を開き、薩摩軍を解散することを決めた。座敷ではその様子が人形で再現されている。結局ここで軍を解散することとし、多くの兵士は政府軍に降伏した。隆盛は重要書類や明治天皇から賜った陸軍大将の軍服を焼き、可愛岳を突破して鹿児島まで逃れた。そのため、事実上この時点で西南戦争は政府軍の勝利となったのである。
資料室では西南戦争の様子が紹介されている。数年前の大河ドラマ「西郷どん」の当時は出演者もここを訪ねたとある。
和田越で対峙した政府軍を率いていたのは山県有朋である。それにしても、西南戦争が宮崎県でも繰り広げられたとは初めて知ったし、その最前線で西郷隆盛自ら陣頭指揮を執っていたというのも意外だった。
さて、西郷隆盛宿陣跡資料館を地図で見つけたその近くに、「ニニギノミコト御陵墓参考地」という文字もあった。ニニギノミコト、高千穂に降臨した「天孫降臨」の伝説で知られる。来る前は、高千穂も含めた日向らしいスポットだなというくらいに思っていたのだが、いざこちらに来てみると、西郷隆盛とニニギノミコトがセットになっている。
和田越の戦いで敗れた隆盛がこの地に身を置いたのは、ここにニニギノミコト終焉の地の伝承があったことを知ってのことだったとされる。当時の明治天皇につながる祖先のニニギノミコトが葬られているとなれば、政府軍も攻撃することはないとのことからだという。はたして、政府軍がここで薩摩軍を攻撃することはなく、隆盛もしばしの安息を得ることができた。後に鹿児島まで帰ることができたのもニニギノミコトのおかげとして、地元では「時空を超えた出会い」「西郷隆盛を救ったパワースポット」として今に受け継がれている。
また、ここでしばしの安息、そして軍の解散をしたことで、薩摩軍に従軍し重傷を負った隆盛の長男・菊次郎を叔父の従道の元に投降させることができた。隆盛・菊次郎の永遠の別れの舞台となったわけだが、菊次郎は従道に引き取られたことで療養することができ、後に台湾政府の要職や京都市長も務め、隆盛の血筋は今に伝わっている。
延岡、西郷隆盛、ニニギノミコト・・・インパクトの強い歴史に一時触れることができたのも、ドライブ旅ならではの面白さといえる。日向について、一つ新たな知識を得た(画像に線路が写っているのは、日豊線の車窓からも望めるところという意味だが、ここを走る列車は1日あたり・・・)。
再び国道10号線に戻り、和田越はトンネルで抜ける。そして市街地が開け、延岡の中心部に入る。雨は依然として降り続ける・・・。