まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

本年もありがとうございました

2015年12月31日 | ブログ
「まつなる的雑文」をご覧いただき、ありがとうございます。

今年も大晦日、いろいろあった一年も終わりです。

恒例の年越し旅に出てますが・・・、まさかの寝坊。別に急ぐものではないものの、年の最後にやらかした感いっぱいです。

その様子はまた書くとして・・・。

皆様にとって新年がよい年になりますように。
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ガラケーからスマホに乗り換え

2015年12月27日 | ブログ
いよいよ年末というところ、思い立ってガラケーからスマホへの乗り換えを行った。

え?今頃・・・というところだが、そう、今頃である。

以前の記事でも書いたが、やはりサービスそのものが携帯サイトからスマホのサイトへと移行した者が多く、これも時代の流れかなというところ。ちょうど年も明けることだし、心機一転かな。

ドコモショップに行ったところ、キャンペーンだとか何だとかいって、2台目としてタブレットもついてきた。家族割を適用するためのものだとかで、こちらも新たに使ってみるのも悪くないかと。どのくらい使いこなせるかはわからないが・・・・。

ただもう、何がどうなっているのやら。電話帳はショップで移行されたが、後のブックマークやら画像などをどうするか。まあ、ネットを見ればいろいろとやり方は載っているから、ぼちぼち楽しんでいくことにする・・・・。
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第5番「葛井寺」~西国三十三ヶ所巡り・40(満願&先達申請)

2015年12月25日 | 西国三十三所
西国三十三所、番外3所、それに善光寺と高野山を回り、朱印帳とともに、親から託された納経軸の欄が全て埋まった。

改めて、納経軸を広げてみる。そして壁にかけてみる。こうしてみると180cmはあるだろうか、結構長い。

報告ということで、実家の親にも納経軸を見せた。立派なものができたと喜んでいた。ただ思っていたより長かったようで、飾るなら部屋のレイアウトを変えなければとも。そのまま納経軸は実家に戻した。表装については、父親で心当たりがあり(納経軸ではないが、親戚や知人のために軸を誂えてもらったことがある)、費用は親子で折半ということになった。まだ出してはいないが、完成が楽しみである。

さて、軸はこれで良しとして、朱印帳である。華厳寺で満願となったが、その後の扱いについて少しモヤッとしていた。ネットでいろいろな巡礼記を見ると、それぞれの寺の名前が入った「満願の印」というのがちゃんとあるようだ。自分がはっきり言わなかったからスルーされたわけだが・・・。

ただ、ここで気持ちを新たにしてたどり着いたのは、「葛井寺で押してもらおう」というもの。元々、西国三十三所といいつつ、すぐ近所、歩いて行ける地元だからというので5番・葛井寺から始めたことである。ならば、一巡したお礼として行くのはごく自然ではないかと思った。わざわざ善光寺や高野山よりも、むしろ理にかなっているのではと、ストンと腑に落ちた。

ということで、23日の昼に葛井寺に向かう。巡礼中も厄除け祈祷やら、オリックス・バファローズの観戦前の勝利祈願やらも含めて日常的に来ているが、朱印帳を持って行くのは最初の時以来である。

一通りお勤めした後で朱印帳を差し出し、葛井寺のページに重ね印をいただく。その後で「実は先日満願となりまして・・・」と申し出ると、「そうですか満願してはったんですか、ご苦労様でした」と返される。

ならば最後の印を押しましょうと、最後の高野山奥の院の朱印の左のページに満願の印をいただいた。「満願しはったのは何日?」と訊かれ、20日と答えると「平成廿七年十二月廿日 満願也」と追記していただいた。これで一つ安堵感というか、達成感というのが湧いてきた。

だからというわけではないが、そのまま西国三十三所の先達申請も申し出た。先達については、当初は「そう何巡もするわけではないし」と、さほど意識していたわけではなかった。ただ実際に一巡してみると、一つの「履歴書に書いてもネタにしかならない資格」として申請するのもいいかなと思う(JR乗りつぶし達成者とか、時刻表検定2級などと同じように)。

別にもう回りたくないということではなく、実は来年は別の企画に挑もうかと考えているので、西国札所巡りは一旦完結ということで。

先達申請を申し出ると用紙を渡され、必要事項を記載して事務局に郵送するのと、申請料(1万円)を郵便振替で納めるのとで手続きが完了する。この用紙に「推薦札所」として、申し出を受けた寺の印が入る。ここに葛井寺の名前と印をいただく。後は時間のある時に手続きするだけだ。

満願申請する人が多いのはやはり最後の華厳寺か、逆に最初の那智山青岸渡寺、少し前なら事務局があった総持寺あたりだそうだ。葛井寺から申請する人なんて少ないと思うが、私の場合はこれで良かったのだと思う・・・・。
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第33番「華厳寺」~西国三十三ヶ所巡り・39(大垣町歩き)

2015年12月24日 | 西国三十三所
谷汲山華厳寺の参拝を終えてバスと養老鉄道を乗り継いで大垣に戻る。昨夜は列車の人身事故もあって到着が遅くなったため、駅のコンビニで夕食を買い求めてホテルに入っただけだったので、少しの時間だが久しぶりに散策する。

駅前の商店街を抜けてやってきたのは大垣城。江戸時代は戸田氏の居城であり、町造りとともに学問を興すことにも力を注いだ。今の天守閣は戦後に再建されたもので、公園には初代大垣藩主の戸田氏鉄の像がある。ちなみにこの戸田氏鉄、大垣の前は尼崎の城主を務めていた。

ただ、大垣城が歴史上表舞台に出て来るのは、関ヶ原の戦いである。天守閣内の展示は関ヶ原の戦いに関するものが多い。東から来る徳川軍を迎え撃つため石田三成が拠点としたのが大垣城。家康は大垣城を攻略するか、そのまま大坂へと素通りするかの選択で、まずは先鋒隊に大垣城を攻めさせた。ところが、石田三成の片腕と言える島左近らの逆襲でこれを破る(杭瀬川の戦い)。家康はこれを見て、「城攻めは犠牲が多く、時間がかかる。時が経つとまた西軍になびく者が出て、東軍の結束が弱まる」と判断し、大垣城を素通りして西軍をおびき出し、得意の野戦で一気に打ち破ることにした。これが成功し、事前の内応工作もあって、関ヶ原の戦いがわずか一日で決着がついたのは広く知られているところ。

家康と三成を対比させる形での紹介パネルがあるが、大垣城としては心情的に三成の肩を持ちたいような書き方である。ただ、憎たらしいけど家康が勝ったのはこういうところが優れていたからだと、きちんと評価している。

他には先の杭瀬川の戦いを合戦屏風から再現したジオラマや、関ヶ原の戦いをCGで再現した映像が楽しめる。

大垣城はこのように関ヶ原の戦いがメインで、戸田氏に関することは、大垣城の公園の横にある郷土館で紹介されている。

そして大垣で有名なのは、松尾芭蕉の「奥の細道」のむすびの地である。大垣城から10分ほど歩くと櫓があり、水路に舟が停まっている。芭蕉と、その弟子でスポンサーだった谷木因の像が出迎える。

ここに記念館がある。以前大垣に来た時もむすびの地を訪ね、記念館にも入ったのだが、古い感じの建物だったのが明らかに変わっている。

館内撮影禁止なので画像はないが、3Dシアターで芭蕉や「奥の細道」の世界に触れたり、「奥の細道」の原文を抜粋して解説がされていたりと、今の若い人たちにもわかりやすい展示である。3Dシアターでは特に東北から日本海にかけての風景が立体的に美しく表現されていた。俳句の世界というのは私にはわからない、難しいというものだが、「奥の細道」の旅の景色というのは好きである。久しく行っていないが、東北の風景というのをまた見たいものである。

記念館で折り返しとして、駅まで再び歩く。途中で大垣本陣跡や、由緒ある建物の菓子屋などを見る。また大垣は水の町でもあり、湧き水もある。こういうところは地元の人たちがポリボトルを持ち込んで水を汲む光景が広がる。

路地を一本入ると「ここだったのか」と思わず口にしたスポットに出る。「大衆酒場 盛升」。そう、今回の巡礼の記事の始めの方で、大垣でのお目当ての店としていたところである。吉田類が「酒場放浪記」で訪れただけでなく、他のブログやグルメサイトでも高く評価されている。昼飲み営業はないし、日曜だから閉まっているということで今回は外観のみとして、次に大垣に来る時の楽しみにしたい。

もう一回「ここだったのか」とつぶやいたのが、盛升の隣を見て。ここは「藤吉郎」という店だった。以前に大垣に泊まった時に訪れたのがここだった。当時は何の予備知識もない中、歩いていて入りやすそうだから入って、なかなか良かった印象だった。しかし「藤吉郎」は閉鎖した模様。今は痛々しく残る隣が名店であったとは・・・。

そろそろ駅に戻り、駅反対側のショッピングモールは別にいいかなと、米原行に乗車する。次の垂井に着くまでに、昨夜の事故現場はどこかなと外に目をやる。「おそらくここかな」という踏切は見つけたが、周りは案外住宅が建っている。事故当時に周りは真っ暗だったから、てっきり田んぼの真ん中の踏切かと思っていたのだが。改めて、亡くなった方の冥福を祈る。

この後は実際の関ヶ原を過ぎ、米原では機械的にホーム向かい側の新快速に乗る。これでそう遅くない時間で帰宅できる・・・。

・・・これにて、およそ一年半かけての西国三十三所めぐりは完結した。

ただ、この「続き」についてもう少し書くことがあるので、今しばらくのお付き合いを・・・・。
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第33番「華厳寺」~西国三十三ヶ所巡り・39(満願の後)

2015年12月23日 | 西国三十三所
華厳寺で満願の朱印をいただいた後、堂内にある戒壇めぐりを行う。階段を下りて本尊の下に行くのだが、普段の生活では感じることのない暗闇である。この暗闇のどこかに鍵があり、それに触れるとご利益があるとされるが・・・どこなのかわからない。それよりも暗闇で遭難しないように左手で壁を伝うのが精一杯。時間にして5分と経っていないがスリルあるものである。

本堂のちょうど裏にある苔の水地蔵。こちらは貼り仏ということで、紙の札を自分の体の治したい部分に貼る。あちこちに札が貼られているお地蔵さんを見ると、何だか罰ゲームを受けている感じだ。私も1枚札をお供えする。

その隣には、朱印で「未来」とされていた笈摺堂。交通機関もない昔の巡礼というのは、途中で命を落とすかもしれないという過酷なものであった。それを無事に乗り越えて満願を果たしたということで、御礼に身に着けていた笈摺を奉納したのがこの堂である。無数の笈摺が積み上げられている。そして堂の周りには千羽鶴も多く飾られている。何でかなと思うが、「おいずる」・・・「おりづる」・・・「折鶴」ね。特に団体さんだと、折鶴を持って賑やかに華厳寺にやって来るのかな。笈摺堂の周りには、西国札所の満願記念の写真や額も多く飾られている。

その奥に、朱印で「過去」とされていた満願堂がある。「満願」の石碑が並ぶ石段を上がったところにある。西国三十三所めぐりで来たならここまでは来る必要があるということか、先ほど本堂で見かけなかった銀箱の納札入れはここにあった。ということでもう一度勤行次第を取り出して般若心経を一通り唱える。これでようやく西国めぐりの「結願」ということになるのだろう。

それにしても満願堂の周りに狸が多いのはどういうことだろうか。狸の満腹姿が満願を連想させるということか。これ以外には「たぬき」・・・「他抜き」・・・「他を抜く」ということで縁起がいいからという説もあるそうだ。折鶴に狸・・・華厳寺も案外シャレ好きなところがある。

さらに40分ほど上る奥の院はパスして、再び本堂に戻る。最後に、柱に打ちつけられている「精進落としの鯉」に触れる。昔の巡礼は精進潔斎の中で行われていたわけで、この鯉に触れるのは巡礼を終えて普段の生活に戻る儀式である。なぜ鯉か。またシャレがあるのかと思うが・・・思いつかない。まあ、江戸時代は肉食は一般には行われなかったわけで、生臭ものといっても魚。また魚といっても海の魚は限られていただろうから、身近なものとして鯉ということなのだろう。

巡礼中精進生活を送っていたわけではないが、私もこれで精進落としとして、せっかくなので門前町で食事をしよう。ただその前に一風呂ということで、谷汲集落の交差点の南にある「満願の湯」に向かう。天然温泉で、露天風呂も結構広い。ここで疲れを癒す。

そして食事。再び参道に戻り、「松屋」という食堂に入る。古民家を改装したような造りで、座敷に中庭もある。これで満願後の打ち上げとする。アテは名古屋風の味噌おでん。豆腐とこんにゃくの盛り付けである。

谷汲はしいたけが名産ということで、食事にはしいたけ定食を選択。直径7~8cmはある焼きしいたけと天ぷらがメイン。これを生姜醤油味でいただく。結構歯ごたえがあっておいしい。またごはんを少し、先のおでんの味噌だれにまぶしていただく。これもまた良い。

・・・よく見れば、精進落としといいながらおかずはしいたけ、豆腐、こんにゃく。まあ、このほうが健康的でいいか・・・。

行きは樽見鉄道の谷汲口駅から来たが、帰りはルートを変えてみたい。かつての名鉄谷汲線がなくなった地元は、鉄道を残そうということで樽見鉄道と養老鉄道の幟を立ててPRしている。そういうこともあって、帰りは養老鉄道の揖斐駅に出る。ちょうどコミュニティバスの時間が近い。

やって来た揖斐駅行のバスは名阪近鉄バスの車両。経営は揖斐川町が行い、実運送は名阪近鉄バスが担っているというところ。田園風景を走り、揖斐川町役場など中心街を過ぎて30分弱で揖斐駅に到着する。

ここから養老鉄道の車両に乗る。養老鉄道は元の近鉄揖斐線で、2007年に近鉄の子会社として養老線と合わせて経営を引き継いだのだが、その養老鉄道も存続が揺れている。赤字部分を大垣市をはじめとした沿線自治体が補填しているのだが、近鉄が今年沿線自治体に申し入れた「公有民営方式」への対応について、自治体ごとの対応が割れているそうだ。他の沿線自治体が「公有民営方式」にやむなしとしているのに対し、両線の分岐駅のある大垣市が難色を示している。大垣市は沿線の中で最大の自治体ということを考えれば、これは結構ヤバい方向に向かっているのではと心配である。

その大垣に到着。2両編成とはいえ結構な数の乗客とともに下車する。時刻は13時前、帰阪するにはまだ早いということで、しばらく大垣の町歩きをすることに・・・。
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第33番「華厳寺」~西国三十三ヶ所巡り・39(ついに満願・・・だが)

2015年12月22日 | 西国三十三所
谷汲の集落の中心から華厳寺まではおよそ1キロ。桜が並んでおり、枝の保護を目的として一般のクルマやバスは入ることができない。

沿道には土産物店や飲食店、さらには巡礼用品を扱う店が並ぶ。中でも巡礼用品の店先は賑やかで、納経軸の表装の見本や、散華台紙、額縁がいろいろ並ぶ。私も親から託された納経軸を背負っているが、華厳寺の朱印をいただいた後はどこに出すか。有名なのは、西国の納経所の当て紙に広告として使われている四天王寺参道の表具店だが、ひょっとしたら父親ならどこか当てがあるかもしれない。

また散華の台紙はJRのキャンペーンの満願コースで応募すればもれなくもらえるが、どのくらいの期間で来るだろうか。

そんなうちに緩やかな坂となり、仁王門に到着する。江戸中期の再建とかで、古びてはいるが落ち着いた感じ。両側に巨大な草鞋がぶら下がるのを見て中に入る。入山料は無料。

両側に石灯籠が並び、緩やかな石段が続く。最後に手水を使って石段を上がると本堂である。「西国三十三番満願霊場」の石碑が堂々と見える。

巨大な提灯が下がる外陣。少し気を落ち着かせてから般若心経のお勤め。そして最後だからというので、初めて観音経偈にも挑戦。「念彼観音力」が何度も出てくるが、観音の功徳について様々な事例を出して説いているのが観音経。

別に私は葬式をする坊さんでもないし、その人と何ら知り合いというわけでもないが、ふと思い出したのは、昨夜私が乗り合わせていた列車に飛び込んで自殺した男性のニュース。この時は身元もわかっていないし(今はどうなんだろうか)、もちろん動機や背景もわからないのだが、自殺を思い止まらせる何かがなかったのかと思う。心の拠り所というのかな(いや、そういうことすら考える余裕もなかったのか、完全に折れてしまったか)。

私のこの文でも上手く伝えられないのだが、様々な札所を回る中で、観光として楽しんだり、長い歩行に挑戦したり、知らない町での一杯とか楽しんできた。一方で西国三十三所の歴史や、あるいは仏教に関する読み物に触れたりした(中でも瀬戸内寂聴の般若心経や観音経の解説はわかりやすかった)。これらを通して、自分の気持ちを落ち着かせるとか、心を研ぎ澄ませるということが少しでも身に付いたか。まだまだ至らないところは多いが、道中で自分について振り返ってみることも出てきたと思う。

西国三十三所を一巡した人なんて世間にはいくらでもいるから自慢にはならないが、一つの区切りとして、いろんなものに感謝の気持ちである。

・・・と手を合わせながら思った後で、内陣にある納経所に向かう。最後だからと用紙に書いてきた般若心経を内陣の本尊前にお供えする。華厳寺の朱印は3つで1セット。過去(満願堂)、現在(本堂)、未来(笈摺堂)の組み合わせで、朱印帳も最初からそのような造りになっている。西国巡礼の人にとって「なぜ?」と疑問符がたくさん付くところだ。まあ、これは満願だから最後のイベント的なものかなと理解できる。

朱印帳と納経軸を差し出すと、若い係の人が朱印帳3ヶ所と納経軸にそれぞれ押印する。それを後の机に回して、年輩の係の人が筆を入れる。それは鮮やかな流れ作業。筆さばきは野球選手が色紙にサインする感じかな。

若い係の人に訊いてみた。「これで全部回ったんですけど、この後何かあるんですかね?全部回った証明とか」

すると、「いや、別にそういうのはないですよ。朱印帳が全部埋まったのが証明ですよ」との答え。ただこれは、私の質問が漠然としていたのか華厳寺が鈍感なのか。

別に「お客さん満願ですね~、おめでとうございます!!バンザーイ\(-o-)/」という反応を求めているのではないが、満願なら先達申請を勧めるとか、そうでなくても何か一言くらいあってもと思う。それが、「だから何なんですか?」と取れなくもない反応である。

これも、華厳寺の評判があまり良くないとされる対応。とあるブログでは、「西国三十三所から華厳寺を外せ」とまで言われている。

何でかな。岐阜、美濃は所詮そんなもんかな。関西文化の西国三十三所に一つだけ入っている美濃の寺。それがいつしか満願の寺となってたくさんの客は来るが、どことなく違和感を覚える。門前町はそれで商売しているが、肝心の寺がそもそも乗り気でない・・・・。何だか華厳寺が素直になれない、ちょっといじけた年寄りに見える。

ただこれは、私の訊き方も悪かったかもしれない。「これで満願になり、先達申請するので証明を出してください」と言えば相手の対応も違ったかな。ただまあ、この場ではそうしたことも言わず、とりあえず朱印帳と納経軸を埋めたことについて頭を下げる。とにかく、三十三所を回ったことには変わりないのだから。

この後、朱印を押された「過去」と「未来」を観に行くことに・・・・。
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第33番「華厳寺」~西国三十三ヶ所巡り・39(谷汲山へ)

2015年12月20日 | 西国三十三所
明けて20日、いよいよ満願の寺となる谷汲山華厳寺に向かう。

前日は東海道線で私が乗っていた列車が人身事故(人との「触車」という言葉を聞くのは初めてだった)に遭い、垂井~大垣間の真っ暗なところで2時間以上足止めを食った。新聞記事になるかなと思ったが、ホテルの朝食会場で岐阜新聞をめくってみたら果たして社会面に載っていた。亡くなったのは男性ということだが、身元はわかっていないとのこと。警察では自殺と事故の両面で捜査とあったが、状況からしておそらく自殺だろう。こういうところの踏切から電車に飛び込むとは、地元の人だろうか。よほど悩むことがあったのかな・・・。

さて、華厳寺への公共交通機関のアクセスは2種類。一つは大垣から樽見鉄道で谷汲口まで行き、コミュニティバスに乗るもの。列車に接続しているが、始発は10時。もう一つは大垣から養老鉄道で揖斐まで行き、同じくコミュニティバスに乗るもの。バスは1日5本しかないが、揖斐駅8時54分の始発に乗れば30分ほどで到着する。

ただ、前日足止めの列車の中の時間つぶしで時刻表をあれこれ見る中で、谷汲口駅から華厳寺まではどのくらいの距離なのかが気になった。これがだいたい4キロとある。ならば・・・駅からの徒歩圏内か。1時間あれば十分とすれば、大垣7時13分発の樽見鉄道で7時59分に谷汲口着。ここから歩けば9時すぎには着くことができる。コミュニティバスの始発より早く着くということで、このルートで行く。どうも西国めぐりをするようになって、「駅から1時間」というのは徒歩圏内と捉えるようになった。

6時半からのホテルの朝食を済ませた後、大垣駅に着く。乗るのは樽見鉄道の気動車。朝の下り列車ということで乗客も数人しかいない。ボックス席に陣取って、朝日の中出発する。西側にそびえる伊吹山の頂上が白い。

樽見鉄道に乗るのは2007年以来。この時は、当時所属していた鉄道旅行サークルの集会が樽見鉄道で行われるというので、大垣前泊で参加した。終点の樽見からうすずみ温泉に向かい、帰りは織部駅で途中下車して隣接する道の駅に立ち寄ったことがある。時期は11月で、沿道に柿の実がたくさんなっていたのを憶えている。

区間運転のある本巣を過ぎ、ホーム1本だけの谷汲口に到着。バスに接続するわけでもなく、下車したのは私一人。ホームに降り立つと、風はないもののひんやりした感じだ。今は枯れた風景が広がるが、桜の時季は鮮やかだという。

駅前はバスが回転できるくらいのスペースがあり、小さな集落がある。そんな中で目についたのが旧型客車。旧国鉄から樽見鉄道に引き継がれ、かつては客車列車としても使用されていたが、引退後はここで保存されている。ただそれにしても劣化が激しい。

駅からの道はわかりやすい。突き当りの七社神社のT字路を左に曲がり、あとは県道沿いである。クルマは次々に飛ばして行くが、歩行者の姿はほとんど見ない。道路の気温表示は3度。これまで西国めぐりで訪れたところのことを思い出しながら歩を進める。

時刻は9時近く、そろそろ谷汲の集落にさしかかる。そこで見えたのは電車。華厳寺へのアクセスはバスしかなかったのでは?・・・というところだが、これは2001年まで走っていた名鉄谷汲線の谷汲駅跡である。名鉄というのもよく分からない鉄道で、岐阜から各方面に伸びていた路線、特に市街中心部を走っていた路線は次々に廃止になった。先ほどの県道も、途中からは旧谷汲線に沿っていたところで、その気になれば廃線跡を見つけることができたかもしれない。

駅構内には2両の電車が停まっている。今見れば味わいを感じる車両。2001年まで走っていたのなら、その気になれば乗りに来ることができたところである。ただ当時は広島在住、またJRの乗りつぶしに目が行っていて私鉄にそこまで興味がなかった。今にして思えば残念である。

旧谷汲駅の次の交差点が華厳寺への参道に続く。ここからおよそ10丁、1キロあまりの道である。満願に続く最後のストレートにさしかかる・・・・。
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第33番「華厳寺」~西国三十三ヶ所巡り・39(満願への最後の試練?・・・JR列車事故)

2015年12月19日 | 西国三十三所
昨年夏から、JRのキャンペーンに参加する形で始めた西国三十三所めぐり。その様子は拙ブログでいろいろ書いてきたが、32の札所(うち3つは二度訪問)、番外3所、お礼参りの善光寺と高野山も先に参り、ついに満願となる谷汲山華厳寺を残すのみとなった。

ここまで来たら年内での満願ということで、12月の19、20日を充てることにした。初めて泊まりがけにしたのは、前祝いもしくは打ち上げをやろうということで。当初は、華厳寺の門前にある旅館に泊まることにしていたが、19日にもさまざまな予定が入ることとなり、大阪を出るのが夕方ということになった。このため、旅館はキャンセルして、華厳寺へのアクセスとなる樽見鉄道、養老鉄道揖斐線の起点となる大垣駅前のホテルに切り替えた。奥の細道の終点である大垣で居酒屋でも見つけて前祝いとするか(ネットで検索すると、吉田類の酒場放浪記にも登場した大衆酒場もあるようだ)。切符は青春18を投入する。大阪から大垣の片道だけでも1日分の元は取れる。

本当は午後の早い時間に出たかったが、結局乗ったのは大阪発17時の新快速長浜行。これで米原まで行き、米原から18時46分発の特別快速豊橋行に乗り換えるというコース。大垣には19時22分到着予定だ。

米原に到着し、特別快速に乗り換える。東海道線の米原~大垣間は青春18の季節は混雑するのだが、時間帯のせいか、6両編成のためか、立ち客もなくゆったり行ける。

完全に夜の闇の中、垂井を出発。次は目的地の大垣だ。

出発して間もなく、「列車急停車します!」という車掌のアナウンスが入る。そして列車は停車。何かあったか。

しばらくすると、「この列車、走行中にいつもと違う音を感じたので運転手が確認します」とのアナウンスが入る。車両のトラブルか何かだろうか。まあ、すぐに発車するだろう。同じ内容のアナウンスが何回か入るが、そのうちに「車内にJR関係者いれば車掌室に来てください!」と入る。

その後のアナウンスでは、「この列車は、先ほど踏切内で人と触車しました。救助含めて、運転再開までは相当時間がかかります・・・」と。あらら、あと一駅というところで足止めとは。人身事故なら相当な時間がかかるだろう。車内もざわつきだした。到着が遅れることを電話する光景が見られる。車内にやって来た車掌に、列車の乗り継ぎについて質問する客もいる。青春18の客だろうか。車掌からは「臨時列車を要請する」との回答がある。時刻表を開けると、定刻だと乗り継いで行けば今日中に沼津までは行ける。ただ遅れの状況次第で実際はどこまで行けるか。私は次の大垣で降りるからまだ良いが(だからこそ余計もどかしいのだが)、先へ行く人は大変である。

停車して1時間経過しても動く様子がなく、イライラした様子の客からの質問に車掌からも「現場検証や車両の安全確認をしなければならないので、すぐには出せない」「夜なので、お客様に線路を歩いていただくわけにはいかない」と答えるのが精一杯。

ホテルに一報しておく。「チェックインは24時まで大丈夫ですから、お気をつけて」と言われる。さすがにそれまでには着けると思うが、こうなると居酒屋のほうはあきらめることにする。これも西国三十三所めぐりの最後に来ての試練?と思うことにする。ただ、腹がへった・・・・。

外には懐中電灯を持った岐阜県警やJR職員の姿も見える。人身事故なら明日の新聞に載るくらいの扱いだろうか。私も長いこと乗り鉄趣味をやっているが、自分の乗った列車が事故で現場で長時間立ち往生するのは初めてである。これも滅多にない経験と思う。

21時を回り、現場検証が終わって運転手が車両の安全確認を行っていることを車掌が車内を回って伝える。

21時20分頃に運転再開。現場に2時間あまり足止めとなったが、やれやれ。ただ動いたと思うとすぐにまた停車。踏切の安全確認である。2ヶ所で停止した後、ようやく通常走行。

・・・という以上のところまでを、停車中の車内で逐次メール投稿用にて下書きをしていた。

大垣に到着。大垣から先はほぼ通常運転のようで、大垣の駅が人であふれているわけではなかったが、豊橋行だったこの車両はここで打ち切りとなった。隣のホームに慌てて乗り換える人は結構いた。

時刻は21時半。今から駅前のホテルにチェックインすれば、どこかの店に行くことはできるだろうが、この時間からだと大衆酒場はもう看板の時間。今回はチェーン居酒屋でもないなと思い、駅ビルのコンビニで飲食物を買い求めてホテルで過ごす。

とまあ、こういうこともあったが、いよいよ明日は華厳時を目指す・・・・。
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安心してください、載ってますよ

2015年12月16日 | ブログ
・・・先の記事で書いたメール投稿、どうやらうまくいったようだ。

また投稿アドレスは直接投稿用と下書き用がある。使い分ければこれまでと同じように後の編集もできるようで、まずは一安心。

昨年、前のOCNブログ人のサービス廃止の救済策でgooに移転したばかり。また引っ越すのも面倒なので継続して使うが、サービスの「改悪」は避けてほしいところである・・・。
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やはりスマホに変えないといけないのかな・・・

2015年12月16日 | ブログ
「まつなるはいつブログ記事を書いているのか」ということだが、だいたいは自宅のパソコンからである。

ただ、どういう記事にしようかというのが頭にある段階で、ある程度のことを下書きすることがある。私が使っているブログサービスは「gooブログ」なのだが、携帯サイトからも投稿や記事の編集が可能である。この機能を使って帰りの電車、バスの中などで原稿の下書きをして、細部の修正や写真の貼付は自宅のパソコンで行うことも多い。また、画像のない記事だと携帯からそのままアップすることもある。

・・・という形で投稿していたのだが、昨日15日になって、携帯サイトにログインができなくなった。というより、ログイン機能そのものがなくなっていた。

おかしいなと思い帰宅後に調べてみると、gooブログからのお知らせとして、携帯サイトからの編集や投稿サービスは12月15日以降打ち切りとあった。ただこれ、11月中旬にgooのトップページにはお知らせとして告知されていたようだが、普段利用している身としても全然気づかなかった。そんな気配も感じなかった。今の世の中、知らない方に非があるとは言え・・・。

理由としては、スマホ利用者が増えていわゆるガラケー利用が減っているから、携帯サイト機能を廃止したというもの。うーん、何が何でもスマホでないとアカンと言わんばかりだ。gooに限らず、携帯サイトを廃止したサービスも増えているが、何も閉鎖することはないのではと思う。gooブログからのお知らせの記事には、サービス低下に不満の利用者からのコメントも掲載されていた。

私もいずれはスマホに変えることになるのだろうが、今の使いやすさからすればもう少しガラケーは継続したい。昨年あたりから「ガラホ」なるものも出ているから、そちらに切り替えるのもありとか、いろいろ考える。

・・・話をブログ投稿に戻すと、gooブログでは携帯サイトではなく、投稿用のメールアドレスへのメール送信で投稿ができるとある。投稿先のアドレスは、パソコン画面で自分の携帯メールアドレスと紐付け設定する。これにより、メールでの投稿が可能・・・(今回、ここで送信ボタンを押す。ちゃんと反映してるかな)。
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赤穂浪士の討ち入りは12月14日ではない?

2015年12月14日 | ブログ
12月14日といえば、忠臣蔵で知られる赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りした日とされる。今でもいろんな切り口で映画やドラマになっている。

先日聴いたアマチュア落語でこんなことを言っていた。「吉良上野介の血液型はA型、浅野内匠頭はAB型。で、大石内蔵助は・・・おのおの型(方)」。

また忠臣蔵の中で飲んべえキャラに赤垣源蔵というのがいるのだが、この名を取ったのが大阪市内にいくつかある居酒屋「赤垣屋」。12月14日は店としてもイベントをやっているところ(最近行ってないので今はどうか知らないが・・・)。

という忠臣蔵なのだが、あの元禄14年12月14日というのは、当時の日付なのであくまで旧暦という。今の西暦に当てはめると、1703年1月30日である。

そうすると、討ち入りのシーンが大雪というのはわかる。今の12月中旬、まして太平洋側なら雪など降らないが、1月末から2月にかけてなら理解できる。

・・・とすると、12月14日に忠臣蔵関係のイベントをするのは正確でないのかもしれない。とは言っても、「12月14日」というのは広く認知されているし、旧暦と新暦の差を気にしている人もそういるわけではないから、まあこれでいいのかな。「1703年12月14日」と言わなければ・・・。

その播州赤穂には赤穂城跡の他、大石神社や花岳寺、赤穂御崎温泉があり、この時期なら牡蠣が名物である。またいずれ訪ねてみたいところである・・・。
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摩耶駅足場落下と神戸ルミナリエ

2015年12月12日 | ブログ
昨日11日は所用のため姫路市へ。先日訪れた書写山圓教寺にはまた訪れてみたいなとか、駅の正面に姫路城の大天守がライトアップされているのが見えて感心したり。

夜になりJRに乗ろうとすると、改札前が騒がしい。三ノ宮、大阪方面の列車案内表示は「調整中」とある。

何でもこの日の昼に、現在新しく工事中の摩耶駅の現場で、強風で足場が線路内に落下したのだとか。復旧にかなりの時間がかかっており、姫路からだと西明石までしか行けないという。

となると、山陽電車である。ただこの山陽電車は直通特急でも6両しかないし、姫路駅の構内もさほど広くない。乗降客があふれて一時ロープで入場制限もされていた。しばらく駅前で時間をつぶした後に改めてホームに向かう。振替輸送の混雑で山陽電車、阪神にもダイヤの乱れが出ていた。通勤客に交じって、飾磨だの高砂だのという、普段なかなか通らないところを揺られるのも不思議な感覚だった。

帰宅後ニュースで事故の様子を見たが、足場が落ちたすぐ横の線路に列車が停まっていたのはゾッとした。列車がしょっちゅう行き交う区間であり、タイミングが悪ければ列車の上に落下してもっと大変なことになっていただろう。怪我人が出なかったのは本当に幸いだった。

11日は朝から変な天気だった。通勤時も、強風と豪雨が押し寄せるかと思うと、ピタリと止んで雲の隙間から青空が見えたり、生暖かい風が吹いたり。地域によっては夏日になったところもあった。

昼前に姫路に移動していたが、姫新線が大雨で徐行運転して遅れが出ているとあった。その後での事故で・・・何かとJR西日本は事故災害時の対応でやり玉にあげられるが、今回ばかりは仕方ないだろう。これだけの突風は予想できるものではない(あくまで、足場にも問題がなかったという前提だが)。

この強風でもう一つニュースにもなった事故。神戸ルミナリエの電飾が倒壊した。こちらも点灯前のことで怪我人はいなかったが、これもタイミングが悪ければ多くの見物客に被害が出るところだった。

もっともルミナリエの場合は、ネット記事によれば一部地元住民から「ルミナリエ廃止」の声が挙がっているとか。ルミナリエは多くの見物客が来るとはいえ、沿道の店舗にはカネが落ちないとか、元々阪神・淡路大震災の鎮魂の意味で始まったものが今や単なるイルミネーションのイベントでしかなくなったとか。もちろん、税金の無駄遣いという声もある。今回電飾が倒壊したのは「もう止めたほうがいいという警告」という捉え方もある。

私はルミナリエに行ったことがなく、昼間に骨組みを見ただけなので何とも言えないが、確かに鎮魂と言われともあまり結びつかない。この季節に全国あちこちで行われているイルミネーションの「走り」かなという印象である。電車のポスターでも、京都や大阪のイベントと並んでPRされているし。20年経過ということで、今の形でやるのも見直したほうがいいと思う。

その中で、今年の1月17日に神戸を訪ねたのを思い出す。「1.17」に見えるように並べられた竹の灯籠にろうそくの火を灯すのだが、その灯りのほうが鎮魂にはふさわしいと思った。震災と同じ日に神戸を訪ねたのが初めてだったが、いつもの神戸とは街の空気は違っていた。この追悼の日の運営も財政的には結構厳しいそうだが、ルミナリエは廃止しても、これこそ灯を絶やさず続けてほしいことである・・・。

(最初の書き出しから話がだいぶずれました)
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「日本シリーズで投げ合いたい」・・・私はそれを観てみたい

2015年12月10日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
このドラフトでオリックス・バファローズ2位指名のパナソニック・近藤大亮投手。即戦力として期待されるところである。本人は新人王を目標としているそうだ。


また、ネット記事によれば、このたび現役続行を決めたカープの黒田投手が憧れとか。中学の時に所属していたチームの監督が黒田投手のお父さんで、オフに練習に来た黒田投手と対面した。

その時交わした言葉は「左足を前に踏み出せ」という一言だけだったが、初めて見たプロ野球選手からのアドバイスに感動した。近藤投手はそのアドバイスをずっと守り、社会人の活躍、そしてプロ入りにつながった。

そして、黒田投手の現役続行を受けて出た言葉が「日本シリーズで投げ合いたい」というもの。

新人王はともかくとして、この目標はかなりハードルが高い。また黒田投手も現役続行したといえ、年齢的にそう何年もできるものではない。

でも、この日本シリーズといえばそう、私が長年心待ちにしているバファローズ対カープということになる。これはぜひとも実現してほしい夢である。私もその投げ合いを観てみたい。

まあ、その前哨戦として交流戦がある。このところの年中行事で大阪、神戸、広島で観戦していたが、今年は仕事の都合もあり行けなかった。来年は広島での対戦となるので、まずはこちらを楽しみにしたいものだ・・・・。

(追記)
昨年の大型補強の失敗に懲りたか、ドラフト以外の新戦力の話を聞かないバファローズだが、ここに来て外国人選手の獲得情報が出てきた。まずは頑張れというところだが、当たりかどうかの物差しはとりあえず、投手ならマエストリ、打者ならカラバイヨと比べてどうかということで良いのかな・・・?
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舞洲のファームなら行こうかな・・・

2015年12月08日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
2017年から、オリックス・バファローズが二軍の拠点を現在の北神戸から舞洲に移すことになったという。

舞洲と言えば高校野球の大会も行われる立派なスタジアムがあり、周辺も体育館や公園になっている。手ぶらで行けるバーベキュー場もある。ここにグラウンドや練習施設等を完備し、一軍の調整も可能にするとか。

これは大阪のファンとしては朗報。北神戸となるとクルマでないと行けないところだが、舞洲なら西九条から市バスで行ける。何なら、桜島駅から徒歩で行くことも可能だ(時間はかかるし、橋の上は結構怖いが←経験者)。

見方によっては神戸撤退ではある。私も、一軍と二軍が別の街にあってもいいとは思う。日本ハムの札幌と鎌ヶ谷は極端にしても、プロの球団の活動がさまざまな地域で行われるのは悪いことではない。神戸についても、ほっともっとフィールド神戸と合わせて、改良すれば十分活用できると思うし・・・。

まあこれが経営判断というものか。バファローズも二軍戦を高槻や豊中、東大阪、富田林、橿原で開催してみたり、いろいろな角度からリサーチした結果、大阪という方針になったのだろう。舞洲スタジアムの有効活用にもつながるし、大阪と神戸で行政の取り組みの差が出たのかもしれない。

実はオリックス・バファローズになってからファームの試合を観戦したことがないのだが、球団のほうで本腰を入れる、それも大阪でとなると、一度行ってみたいものである・・・。

・・・それにしてもオリックス、本町に立派なビルが建ち、厚生年金会館がオリックス劇場となり、大正ドームも名前は京セラだが所有権はオリックスグループである。さらに関西空港の運営権に「オリックス連合」として名乗りをあげ、ここで舞洲の開発権を得る・・・どんだけお金持っているのやら。
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大阪くらしの今昔館

2015年12月06日 | まち歩き
地下鉄の天神橋筋六丁目駅の真上にあるのが「大阪くらしの今昔館」である。「住まいのミュージアム」として、住宅の歴史や文化をテーマとした日本で初めてのミュージアムである。

以前にも行ったことがあるのだが、このミュージアムの面白さは江戸時代の大坂の町並みを室内に復元しているところ。店の中のこまごまとした商品も再現されている。

場内には着物姿の人が目立ち、店の前で記念撮影をする光景が見られる。ただその話している言葉を聞くと、日本語ではない。そう、中国語。

うーん、こういうところにも中国人観光客が押し寄せるようになったか。着物を着て町並みを歩くサービスがあるのだが、結構な時間待ちのようである。日本の古い文化を体験できるというのが人気なのだろうか。

下のフロアでは明治、大正、昭和の大阪の町並みを模型で紹介している。船場の賑わいや初代の通天閣もあれば、敗戦後のバス住宅というのもある。こういうのも見ていて飽きない。

さてこの日は、町家寄席というのが行われるというので再び上のフロアに行く。着物姿の中国人観光客で賑わう表通りから路地を入ったところ。こういうところで座布団に座って落語を聴くというのも風情がある。さすがに中国人観光客も、落語を聴いてもわからないからここまでは入って来ない。

出演は「らくてん会」というもの。上方落語協会のプロの落語家ではなく、落語好きのアマチュアたちの集まりである。町の公民館とか、こうした場所での落語会で落語を披露している。芸名も「五月家安庵」、「天満家哲ちり」(てっちりね)、「唐亭一寸風」(空手チョップ)、「柱祭蝶」(「桂」ではなく「柱」というのがアマチュアらしい面白さ)とか。いずれもプロ顔負けの年季の入った感じがする。中で面白かったのは最後に出てきた「柱祭蝶」。酒についてのくすぐりから「替り目」を演じたが、最後のサゲまでタップリと笑わせてくれた。

大阪にもまだまだいろいろな博物館、資料館スポットがある。また機会を見つけて出かけよう・・・・。
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